私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム1ー水俣が生みだす言葉 吉田喜重+原広司+土本典昭 対談
北川 この映画を最初ぼくは、ある試写室で見せていただきました。今までの水俣、あるいは水俣病という言葉からぼくたちが考えてきた問題、あるいはその後ずっと二十何年、水俣から発せられたメッセージの流れの中でぼくらは水俣を知ってたわけですが、この映画を見まして、もうひとつ表現という問題を考えるのに、絶好の映画だというふうにぼくは考えたわけです。いま、映画だけではなくて、音楽とか美術とか芝居とか、あらゆるジャンルが非常に分極化していて、それぞれがそれぞれの範囲の中で充足して、息をついてるのではないかと思うんです。それに対してこの映画はいろいろなジャンルから、あるいはいろいろな階層の人が何かをいえる切り口をもっているような感じがしたわけです。
問題としては「水俣」「不知火海」「水俣の図・物語」という流れの中での土本さんの映画自身の問題があり、そこに関わっている音楽、あるいは石牟礼さんの詩、そしてこの映画が写してきた丸木夫妻の美術というそれぞれの問題もここでは考えられるだろうし、あるいは、そういういろいろなジャンルの人が関わって作ったという共同の製作の仕方というのでも問題はたてられるだろう。また、青林舎と土本さんは水俣の映画をたくさん作られてきたわけですが、その製作の仕方、あるいは上映運動というふうなことについても考えることができる。あるいは水俣をひとつの空間ととらえた場合、それをどう記述するかという問題としてもとらえられるだろうし、いろいろな切り口があると思うんです。それをこのシリーズの中ではひとつひとつ検討していこうと考えているわけです。
文化的な表現のいろいろなレベルで、ぼくたちはいま、すごく排他的になっているということを感じているわけです。その排他的な状況の中で出したものを、ただ出しておくだけではなくて、やはり批判も含めて徹底的に明らかにしていくーそういう問題の出し方が必要なのではないか、ということを考えながらこの企画を進めていきたいと思います。
吉田 私は十日ほど前にこの作品を拝見しました。まだ一度拝見しただけで、まとまった私の意見を申し上げるのはなかなか難しい、というふうに率直に思っています。
といいますのは、この作品はいろいろな読み込みができ、映像として表現されている以外のことを、見る私たちに読み取ってほしい、と訴えているような映画だと思うんですね。そういう意味では、見る自分、そのときどきの、自分の状態を一種の鏡のように写し出してくるような作品といえる。時間をおいて何回か見てその都度、私自身をそれから読み取るとか、あるいは読み込んでいく、というふうなことをしてみたい作品ですね。
まず最初、この映画には大きな特徴があると思います。それは、土本さんはこれまで”三部作”として水俣をずっと撮ってこられた。これはただ映画を作るということだけではなく、ご存じのように「運動」として撮ってこられた。その三部作に対してこの映画は違った構図をもっているわけですね。私がいうまでもなく、丸木さんの絵というものを素材としてそれを撮るという形で、言葉をちょっと誤解されるかもしれませんが、三部作が直接水俣を撮ったのに対してむしろ距離をおいたといいますか、ある人間が水俣を表現していることを撮る、というふうなもうひとつの構造が仕掛けられてる。その辺りのことをのちほど、ぜひ、なぜそのような方法をとったのか、土本さんにお尋ねしたいと思うんです。これは私の見方であり、作られたご本人と意見が違うかもしれません。その辺りの土本さんの考え方を私なりにいろいろ想像してみたいと思うんですね。これは、同じ映画を作る人間として非常に興味があることでもある・・・・・・。
この映画について語るについては私はあらかじめ、みなさんと私とのあいだに共通の約束事をしておきたいと思うんです。というのは、現実を強く反映した記録映画といっても、あくまで作品として、それ自体、表現として自立していなければならない、というふうに考えられるわけですね。ところが、土本さんがやってこられたのは、表現が自立しないということを前提に作ってこられたはずなんです。表現というのは「運動」であり「運動」がまた表現をよぶというふうな、弁証法的な視点をずっともってこられた作家ですから。
ところが「水俣の図・物語」は、作品として自立してあるテーマがあり、それを見るみなさんにあるメッセージとして送り、それをみなさんは受けとめて帰る、という質の映画ではまったくない。私はそれをもっと拡大して考えれば、われわれの時代に表現が自立する、そういう自由さはないんだということもぜひつけ加えたいと思うんです。
確かにわれわれは教養として、芸術作品というのは自由に作られるべきである。そしてテーマがあり、それをすばらしい成熟度をもって受けとめる側に伝達するというのが理想ー確かに理想かもしれませんが、私はそんな状態で作品が作られたことは、これまで一度もなかっただろうと思いますね。これは映画に限らないでしょう。むしろそうではなくて、そういうことができない不自由さがあるからこそ、作品が作られるわけですから。長い間土本さんがやってこられた創造行為というのは、表現としての自立の埒外にあったといってもよいと思いますね。
これは土本さん自身が著作『わが映画発見の旅』の中で私がいま申し上げたことを裏づけるようなことを発言されていますね。運動者は表現と真正面から向き合うことはない、できない、ということを繰り返しいっておられたと思うんです。それでは表現者としての映画作家は何かといいますと、土本さんは非常に苦渋をもって表現されていると思いますが、記録映画作家はペテン師である、というような言葉で結論づけておられる。
それは映画のキャメラ、あるいはマイクを持って水俣の患者の方に近づく、接近していくという行為は、それはもはや日常の行為ではないということを、土本さんは何回も繰り返して表現されている。それはもう日常への乱入行為であって、そこにあるがままのものをすでに壊してしまうわけですね。キャメラがそこにあるということ自体が、それは壊してしまう。そういうふうな日常と非日常の間、見える世界と見えない世界と置き直してもいいだろうと思いますね。可視的な世界と不可視の世界といってもいいと思います。そういうことを前提にしながら、私はこの作品が語られるべきだろうと思います。
十日ほど前に拝見したとき、私にはここに写ってること以外のことがたくさん見えたんですね。たくさん見え過ぎた。ということは、映画として非常に成功しているということだと思うんです。映画がAはAであるというふうに円環で閉じてしまえば完成度は高いかもしれませんが、さっき申し上げた「運動」としての表現の拡がっていく力からいえばたいしたことはないと思うんです。私に写っていること以外の、さまざまなものがよく見えたというのは、やはり、水俣がある時期にきているということですね。もっといい言葉があればいいと思うんですが、確かにある時期にきている。
といいますのは、いま私たちが水俣をイメージにもつ場合、そういう時期というものを思い浮かべてしまう。一番最初は水俣のあの病気を発生させた犯罪者は誰か、ということを決めることだった。加害者は誰か、ということを決めるーそれが最初の時期、といいますか、時代だったと思うんです。これはチッソならチッソということがはっきり確定した。ところが、そういう汚染をさせたことは、もちろん私たちがいま生きているこの近代化と重なり合っているわけですね。ですから、近代化そのものを私たちが生活の中に組み込んでいる以上、加害者はチッソだけではなく、私たち自身でもあるということの時期が次にあったわけですね。そしてたぶん、土本さんの三部作はそこまでを描いてこられたわけで、いま、新しい時期にきている。
それがたぶんこの丸木さんの絵画作品をひとつの仕掛けといいますか、テコにしてとらえた理由だろうと想像したくなるんです。チッソを糾弾する私たち自身も犯罪者であるという視点、それが私たちの中にはっきり自覚されてくれば、残るのは患者さんの世界ということになる。汚染は私たちが防止すれば、これ以上は広がらないでしょうけれども、すでに被害を受けてしまった人は、もとの状態には戻らない。その人たちは私たちが水俣を克服、解決したという意識とは逆行して、もとの健康体には戻れないという事実だけを背負わされて生きていくことになる。そういう人たちに私たちの表現はどう対処すればいいのかという時期にきているんだと思います。二時間近く水俣の風景がずっと写りました。しかし私が見たのは現実の水俣でもなければ、公害糾弾の場としての水俣でもなく、不治の業を背負わされた患者さんたちがそこに息づき、住みつく水俣が、異様な様相で見えてくる。私たちには救いようがないと思う。その気持が、現実の水俣を急に遠いものと化し、私たちが入っていけない場として、同じ位相でありながら、厳然としてそこにある。この作品の二時間の中で私がもっとも感動したショットというのは、ふたりの若い娘さんの患者が海岸べりで、背を向けながら遠ざかっていくショットであったわけです。私たちにはわからない言葉、身振り、表情でふたりがコミュニケーションしているんですね。土本さんがそこに何もコメントを入れていないのは、私にはよくわかる。痛いほどよくわかる。それは撮っている私たち、あるいは水俣を見つめようとする私たちとはやはり断ち切られて、患者さんは患者さんで私たちにはわからない世界を自立させながら生きている、その事実の重みに圧倒されたのです。
原 ただいま吉田さんから総括的なお話があったわけですけれども、私は吉田さんと少し違った見解を述べさせてもらうことになると思います。数年前に土本さんの映画を見せていただきまして、そのときに映画というのがひとつにはリアリズムの問題というか、それに深く関わっていて、それはまさに水俣病、水俣の問題ということから自立して表現の問題を提起している、あるいは表現そのものとして語ることができる。やはりこれは、映画として語ることができるのではないか、あるいは空間として語ることができるのではないかというような考えをもったわけです。それを支えている機軸は何であったか、と。それは映画の作り方とかそういうこともあるかもしれませんけれども、いま吉田さんがお話しになったのとまったく同じように、患者さんたちの動きだったと思うんです。それがあるメッセージというか、意味を私たちに送ってくる。それがただならぬ動きというか、表情というか、ある記号性をもった動きだと思うんです。そういうわれわれがふつう日常見たことがない美しい動きをカメラはとらえていた。そこが土本さんの映画全体の表現の最大の基盤ではないか、そう思ったんです。
今度の映画についてはまだ整理がついていないのですけれども、水俣が非常に美しく映画の中では写されているんですけれども、丸木さんが最後に、具体的な問題提起をしているストーリーだったと思うんです。美しく描ける部分というか、描いていいのか描けるのか、たいへん難しいところだと思うんですけれども、そこで、土本さんがその問題に対してあらかじめ解答を出していたような気がするんです。
というのは、この前の映画でも今回の映画でも、水俣の海が、非常に美しく描かれる。で、それは何か病いを持った海とはとても信じられないような美しさをもってくるわけです。で、非常に難しいところだと思うのですけれど、吉田さんがたいへんずばり、きょうの映画のひとつのショットをすばらしいショットとしてあげられたのと合わせて、私もお話ししますと、まず印象に残ったショットは吉田さんと同じだったのですが、その次によかったと思うのは、公害のもとになる工場を写していて向こうに海があるーその風景がすごく美しく描けていたわけですね。
非常にマイナスのもの、人間がやったダメなこと、犯罪的なもの、いってしまえば悪ーそういうものを描いたとき、やはり何かわれわれの存在に対しては非常に美しく描くということがあり得る。それは、うまく説明できないですけれども、美しいということの自立性というか、そういうものはやっぱりあるんではないかと思われるわけです。
それはこういうことではないかと思うんです。ひとつ人間の中に上向的な志向というものがあって、たとえばすばらしい山を見たりすると、それはわれわれにとって何かもう共通の言葉というか、山の良き中心といったような概念がありまして、共通の言葉ができている。それに対してぼくはいつも谷という概念を出すわけです。谷というのは鬼が住んでいたり、幽谷であったりと、いろいろあるわけです。それはよくいわれるように中心とか周縁とかいう概念では全然なくて、マイナスの中心だとぼくは思っているわけです。で、その負の中心みたいなもの、まあいえば天国と地獄みたいなそういうものですけど、そういうマイナスの中心というものに対するわれわれの語りかけというか、共通の意味というものがまだ成立していない、まだうまく述べられていないのではないかと思うんです。それは、エジプトなんかにある「死者の谷」というイメージをみると、そういったマイナスのイメージの中に根源的なわれわれの起源を説明するような何かがあることがわかる。たとえば大江健三郎さんがいつも書く彼の「谷」の中にそういうものを見極める視点を感じるのです。丸木さん御夫妻のお仕事も何かその鍵というのをもう少し伝えるべきだったと思うのです。
水俣という運動自体にもまったく傍観者でぼくはいたんだけれども、決してそれは遠いところにあるということではなしに、中心からいろいろメッセージを受けている感じがするわけです。それはやはり、何かあのマイナスの中心というか谷というか、そういう感じの出来事だとぼくは思うわけです。
映画はいろいろ問題提起していると思うんです。空間的にも、たとえば私たちの建築の話に相関させていただきますと、何か洋画と日本画の関係が出てくる問題とか、かなり今日的な問題となっている部分もありますし、それぞれ空間的に解釈されるような問題というのはかなりたくさんあるような気がするんですけれども、それらについてまたのちほど発言させていただきたいと思います。
土本 この映画は、いままで作ってきました水俣の映画と明らかに違うわけです。ぼくは絵の制作過程というのは本来、撮れないものだと思っていた。こんなじやまなことはありませんから。ぼくはたぶん撮影を断わられると思ったんですが、承知された。「水俣の図」というのが大きくて全国に持って歩くのは大変だということもひとつありましたけども。また、いまの時期にまた水俣というものが描かれるということは、ある意味では非常によくわかったことだし、それからあの作家たちの画業というのがぼくたちがあとを追っかけていっても追っかけきれないぐらいの大変なことをやっておられる。ぼくはその一番大変なところのポイントは「原爆の図」を描いてしまったということだと思うんです。「原爆の図」を描いてですね、どうして絵かきとして、食っていけるか、売り絵ではないわけですね。「原爆の図」は巻き物ですからまわして歩く。巡回して歩く。その展示してあるところに丸木さんは立っているわけです。立っていていろいろな人の反応をチクチク、あるいは感動もそのままストレートに受けるという・・・。しかもそれを見せること自身、世の中がちっとも喜ばない。ある意味では占領軍が原爆のものを大目に見ようとする時期の前ですから、大変な弾圧にもあった。だから絵を描きながら歩いてしまった。かついで歩いた。自分の芸術を行商し宣教し露出してきたという意味で、やはり誰にも真似のできなかった人生を選んでおられる。そういう点でまず最初に敬服があったんです。
しかし、映画として、まず第一に美術映画を撮るタイプじゃない、とぼくは自分を規定しているようなところがあります。ぼくの絵の受けとり方はたぶんにトンチンカンだろうというふうに思いましたし、はたしていま、水俣の問題かいろいろあるのに、はっきりいってこういう種類の映画を撮っていていいのか、という気持ちもありました。
私は前々から構想をたててやっていくことが非常に苦手で、アイテムをたてるのもヘタで、ぶっつけ本番になってくるんです。映画というのは時間をかけられるものですから、ーまあ私がかけてしまってるんですけれどもーその間に具体的にいろいろなことが頭の中に増殖してくる。最初に思ったのは、現実の水俣を、なまじ描いてクロスさせることはやめよう。やはり表現というものに応じた水俣像を掘っていってみよう、ということをわりと早く決めたんです。ぼくは石牟礼道子さんの文学を映画化しようと思ったことは一度もないんです。つまりもう不可能だと思ってるんですね、ジャンルからいって。ただし、それによって教わったり触発されることは非常にあるわけです。
たとえばこういう文句があるわけです。ーある娘が身体がねじくれていた。すると身体じゅうから一種のリンパ液みたいのが、やせた骨と骨との窪みにたまって、それが青かったと。「娘だからとてもうつくしか汁の溜っとりました」とお母さんがいう。で、どうしてこんなふうにきれいなのか、たぶんあのこは娘だからだ、というような記述が、『苦海浄土第二部』の「葦舟の章」というのにあるわけです。その娘はそれで死んでいくわけですが、そういうのを映画に撮れるかなあって思うわけですね、やっぱり。そういう最後の地獄というものは、記録だからといって映画に撮れるかどうか。撮るならば、資料としてでしかない。つまり医者なら撮れるだろう。医者はそういうもの撮ってきてますし。ぼくは、なまじ映画でそういうものが撮れるのかなあというのがありました。
そういう意味で石牟礼さんのいろいろな表現のいろいろな領域があるわけですけれども、どのひとつをとらえてもぼくは、どうも映画では撮れないだろうというふうに思っている。それはあくまで文学として読んだらいいのだ。それでは、映画で詩を読んでもらいたい。その詩で思いつきりいま撮っているこの時間空間よりも、彼女もあそこ生まれであそこ育ちですから、そういう体験も全部圧縮したところの文字を、やはり彼女の音声で語ってもらったら、いろいろな受け取り方ができるのではないかと考えたわけです。
それから、武満徹さんの音楽ですが、武満さんは前から映画の伴奏音楽ではなくて、自分の考えで作った音楽と、別の人の考えで作った映画とが、基本的に同じモチーフであるならば(異和感のほうがきっと多いだろうけれども)必ず数カ所はひびき合うだろうというふうにいっておられたのを思い出して、今回それを試みてみようということでした。たまたま武満さんは十年来「水」というテーマで書いておられた。「前は、水や海は、万物の母というポジティブなものをうたってたけども、どうも書いてから以後水というものを人間が侵している。で、やっぱり海というものを畏れなきゃいかんというテーマを書こうと思ってたところだから、そういう観点で書いてみる」ということだったわけです。
そういういきさつだったんですが、あとではたと考えてみますと、絵は実在するわけですね。映画に撮らなくても見にいけば自由に見られる。音楽はそれがいずれまた作曲されれば、映画と無関係にLPなり、コンサートで聴ける。文学は文学で好き勝手に自由に読める。それを撮るということはどういうことなのかということになってくると、やはり映画はひとつの独自の表現をもたねばならぬ。いま現代の表現者にとっての水俣とは何か。水俣についての見方、考え方、感じ方を映画の表現としてまとめなければならないだろうと。そういう意味では映画自身も映画的でなければいけない。つまり、水俣というタテマエがあって、それにかさ上げされて見にくるという時期ではないだろう。それならばやはり徹底的に、映画として見てもらえるものにしたいということで、そういう中身から映画の撮り方が変わったものになってきた。
今後また、どうしても知らせたいという情報があった場合は、水俣の現実に重点を置いた作品をぼくはやはり前の方法をさらに進めた形で撮っていくだろうと思います。今度の場合、どちらかといえば緊急性のない、”パンか芸術か”じゃないけれど、”運動”の足しにもほとんどならないだろう、というふうに決めてーいま、水俣が忘却されていく中で、忘れることのできない人たちが、なぜ忘れることができないのか、その理由だけはわかってほしいーそんなつもりで作りました。
吉田 いま、土本さんから、言葉と映像の関係、そのかかわり合いが問題にされましたが、私も非常に身につまされて、よくわかりますね。水俣について書き、いや、語りつづけてこられた石牟礼道子さんの作品中の言葉に注目してみたいと思います。映像ではどうしてもそれを置き換えることが不可能な言葉というものが、そこにはある。私が記憶しているのでは、「苦海浄土」の中で書かれた九平少年のエピソードの部分ですが、胎児性水俣病にかかっている子どもたちが家庭で親たちが漁にいくとか仕事に出るので、誰も面倒見きれずに、子どもたちを柱にくくりつけていく。そういう描写をしながら、石牟礼さんはさりげなく、それは「本意ないことであった」と表現されている。本意ないことであった。この「本意」という言葉は、私たちも日常使うことができる。それは自分の本意でない、というふうに使える。本意という言葉の意味を素直に考えれば、自分の本意は誰でも自分でわかっている。それでは他人の本意がわかるかというと、そう簡単にはわからない。想像する、あるいは類推することはできるでしょう。きっと彼はこういう本意でいったんだろうというふうに表現することはできる。しかしこういう本意でいったんだというふうに他人の心の中を断定できない。きっと彼はこういうふうなつもりでいったんだよ、という程度でしかその本意という言葉を私たちは使わないと思うんですね。ところがこの石牟礼さんの場合は、「子どもたちは本意ないことであった」と書く。要するに柱にしばられていることは、彼たちの本意ではないんだ、というふうに断定されている。ということは、私たちが日常もっている、私が無意識に使っている本意という言葉のカテゴリーを超えてしまっているわけです。本意というもの、他人の心を断定できるということーこれは石牟礼さんが、水俣問題を通過されることによって言葉が本来もっていた、いわば意味作用が変質し、異化されたといってもよいのでしょう。
もうひとつ、やはり私が同じようなレベルでショックを受けたのは、その九平少年だったと思いますが、いつもリハビリテーションの病院へいくように、市役所の職員の方が少年を迎えにくる。ところが少年はいきたくないものだからテレビにかじりつき、相撲が終るまで、いや野球のゲームが終るまでといって待たせて最後はとうとういかない。市職員があきらめて帰ったあと、その少年が必ずつぶやく言葉がある。それは、「殺さるるもね」というんですね。私は水俣の方言はよくわかりませんが「殺される」という言葉の受け身になっている。殺されるかもね、というふうに。殺されるんだ、というふうに少年はつぶやく。これは私がいうまでもなく、言語の世界というのは、言語というのは人間だけがこういうふうに自由自在にあやつり、他の動物にはできないというのはデカルト以来の常識といってもよいでしょう。私たちは無意識のうちにいろいろな言葉を組み合わせて、たとえば親がちゃんと文法で教えなくても人間は言葉のいろいろな組み変えをして会話をする。自分の気持ちを伝えることができる。よくいわれるように、ふつう、人を愛する、愛されるという正常な表現と受け身の表現とを文法上教わらなくてもいつの間にか覚えてしまう。子どものときに身につけてしまう。英語を習い、外国語をやるときに初めて「受け身」という文法があることを知るのであって、ふつうは受け身の状態と正常なそれとを、無意識のうちに使い分けている。ところが、水俣のこの少年について書かれている石牟礼さんの「受け身」というのは、私には非常にショックを与えるわけです。それではその少年は、「殺す」という言葉の使い方を知っているのかということですね。はじめから受け身の言葉を身につけてしまっている。あるいは無意識に受け身の言葉でしか表現しえない自分しか知らないということだろうと思います。このように水俣という問題は言葉の世界にもすさまじい意味作用の異化をもたらし、日常的にやりすごしてきた言葉の語法に対し、私たちに新たな確認というか、態度決定をせまるものがあるわけです。
こういう言葉の世界を映像に置きかえて表現することは、あまりに言葉に固有のことであり、まったく不可能だろうと思います。ただ映像の世界には、それ固有の表現もある。最前申し上げたように、二時間この映画の映像を追いながら、映しだされた可視のものより、不可視の映像を見る。映像に見えていることが異化作用を呼び、見えない映像をあらわにするといってもよいのかもしれません。その意味では先ほど原さんが非常にいいアイディアを出されました。山と谷、というふうな表現をされた。私も土本さんの映画の中でそれに見あうような場面をいま思い出しました。映画の中で、石牟礼さん自身が語り部のような調子で話されている。それは、私たちが水俣の加害者を追及する時期であれば、反対の声を上げればよかったのでしょうが、いまはその関係は通りすぎさって、不治の患者さんだけが取り残されている世界を、まのあたりに突きつけられれば、それは石牟礼さんのように語り部的に語るしか方法はない。石牟礼さんの水俣に対する表現は、ちょっと極端な比喩かもしれませんが、あの世とこの世のあわいといいますか、宗教的な意味にとられたくはありませんが、あの世からの眼差しによって語られているように、私には思えるのです。映画の中で、昔このあたりには漁師が歩くとキツネがよく出ると話されていましたね。私も子どもの頃、地方に育っているんですが、そういう話はよくあったわけです。ただそれは現実にキツネが出るという意味で理解されてはならない。石牟礼さんがいわれているレベルで私が感じたのは、さきほど原さんが語られた谷の感じなんですね。谷の空間、要するに不吉な空間なんです。だからよく子どもが自分の町におばけ屋敷とか幽霊屋敷というのをつくるのだと思うんですね。皆さんも経験がおありでしょう。誰も住んでいない家は幽霊屋敷ということにしてしまう。子どもの世界でも日常的な空間と不吉な非日常的な空間との対立をやっぱりつくるんですね。それでバランスをとりながら人間の生活ができている。全部が明るい合理的な日常の空間だったら、ものを想像するとか子どものエモーシヨナルな生活というのはない。子どもというのは不吉なもの、あるいは見えているところでも見えないところに変身させてしまう、というふうなことを無意識にやってるんだと思いますね。そういう見えない谷のことを石牟礼さんが話されてる。ここにキツネが昔は出た、と語ることによって、私たちの近代化、それはチッソの工場そのものといってもよいのでしょうが、あきらかに私たちに見えている空間に対し、見えない、不可視の空間を、あのキツネの話によって思い起こされるわけです。
原 石牟礼さんに初めてお会いした時はぼくはたいへん驚きました。たいへん不思議な方で、たいへん美しい方で、こう何かほんとうに女優として成立するというか、そんな印象を受けたですね。それで、私が熊本にいきました時に、キツネの話を彼女はしてくれまして、最近はキツネが出てきたとかいうような話で、ますますお会いすると煙に巻かれたようなことになると思うんですね。大体、そういう話ーキツネの話だとか首をつった話だとかーが実際はどうだつたというのがかなりフィジカルにわかりますのは、われわれが調査を都市計画的な観点でやってみますとわかるわけです。大体そういう話は、不吉な忌み嫌う場所に出てきているんです。それが実は日本の環境といいますか、自然環境が保全して残されているところというのは何かそういう話があったところなんですね。一番端的にいいますと潜在自然植生というのが植生の中で一番大事なものなんですけれども、それが残っているのは関東あたりですと三つの類型に分かれまして、ひとつは神社仏閣みたいなもの、もうひとつは似ていますけれども、墓場とか祠とか、たいした建造物がなくても話によって支えられている。第三に農家の裏山なんですね。そこでそういう話、つまりそれは非常に知恵といいますか、そういうものが人間の中にあって実際に環境保全というものを物理的につくりあげてきたんではないかと思います。そこでひとつ、表現の問題として関わってきますと、物理的なことや、効用とかとは離れるんですけれども、そういうもののもっている言葉ということかもしれませんし、物語ということかもしれないし、あるいは、映像、建築というところまで敷行してもいいのかとも思うんです。つまりそこでつくっている話、フィクションー現実をとらえるときにあるフィクションでとらえていって、それでそのフィクションのほうを現実に転化させていってしまう。そういう感覚というか、そういうことが歴史的にはいまのキツネなんかの話のように、やはり、われわれのつくる表現するものにはあるんだと思うんです。で、非常に厳しいことをいわせていただければ、土本さんが映画をお作りになって関係している方もいっぱいいらっしゃっても、それはもう絶対に水俣というものによって補強される何物もないとぼくは思うんですね。それは、映画として、表現としてそれをもって、いろいろな形でできている多くの映画というものに対しているのだと思うんです。ぼくらは、なぜこんなことをいうかといいますと、たとえば建築にしたら片方に超高層というものがありますし、いろいろな万博とか大銀行とかあります。仮にぼくがそれができないとして、小さな家しかできないとする。だけどもこれはもう勝負は絶対同じ土俵だと思うんですね。超高層に対してぼくは住宅で対さなくてはいけない。それで負ければ負けなんだと思います。やっぱり勝たなくてはいけない。そのためにはみんなが使っている想像力の、ぼくは十倍で対抗する。それができなかったらやっぱり表現者としては敗れていく。それでもいいと思いますね。だけども、それがやっぱり現実を変革する力だし、フィクションというもの、虚構性というものの量とか条件とかにいっさい関係しない勝負どころではないか、そんなような感じがしてるんです。ぼくはそれに対して解答を出せば、やはりこの前の映画もきょうの映画もおもしろかった。ただちょっと疑問点があるのは、丸木さんの絵を部分で写していくところがつづくんですけれども、これはリアリズムというか、あるものを描写する、そういう問題に関わっているんで非常に難しいと思うんですが、やはりひとつ、重要な問題だと思うんですね。空間的な問題が提起されている。ーこれは昔から映画の本質的な問題かどうかわかりませんけどー絵を部分的にとらえていきますよね。部分の集合が絵の全体的なイメージになっている。絵っていうのはそういうふうに描かれると思うんですね。しかしもうひとつに配列とかいろいろな問題があって、何かあの絵を撮るというその撮り方はああいうふうなのかなって、ちょっと・・・。ぼくはすごくいい映画だということはわかっているんですけれども。あるものを描写する、あのときも丸木さんの絵もやっぱり被写体なんですよね。非常にクールにいえばそうだと思う。その被写体の全体像を撮るとき、水俣の風景が出てきたり、患者さんが出てくるより、何かおずおずと撮られたと、ぼくはそんな気がしました。
土本 難しいですね、絵を撮るというのは。丸木さんが映画の中でいっているように、大障壁画を描く場合にこれを描いてそれにからんでくるものを次に描きはじめて、それをブロックとして積んで次へいくみたいなね。墨の色の技法や流れも衝動的みたいでね・・・煮えつまっての上でしょうけど。そういう過程を見ていくと、説明的に撮れる絵ではないわけですね。ですから墨絵の質とそれにこめた時間というか情念というか、そういったものをこちらで勝手に解釈して撮っていくしかないんですね。ですから、たとえば映画によっては劇画調にパッパとモンタージュして、映画的リズムをつけてやっていく手法も成立すると思うんです。だがぼくの場合は、アップの方が長く見たいということがありました。ある人体の、わりとカメラをひいた絵だと、これはどういうふうなことを描いた絵だということまでわかりますね。ところがアップに寄っていくともっと墨とか筆の跡とか、こういう時に、これを入れようとしたのか入れまいとしたのか結果として描いたみたいなものがいろいろと訴えかけてくるもんですから、ふつうはアップはもうちょっと短くていいんでしょうけど、ぼくはどうも長く見てしまう。結局のところ絵を、私の考えだけで撮ったところがあった。そのへん吉田さんはどんなふうにお考えになりますか。
吉田 映画の部分と全体の関係というのは、土本さんの言葉を使えばペテン師の最たるもの、どんなにまやかしても、映画のディテールと主題、全体はやっぱり断絶していると思います。
人間の表情をアップで撮るのとロングで表現するのとは、やっぱり別な行為であり、アップでその顔の実在感が強調されれば、それ自体が自立してしまい、全体に対して収斂していく回路は断たれてしまう。丸木さんの絵をアップ、ロングで適当にモンタージュすることは、表現の水増しにしかならないでしょうね。ただ、原さんがいわれた、山あるいは谷、陽のあたる日常の空間と、汚れたおぞましい場所という視点に立てば、丸木さんの絵はやっぱり地獄絵なんだと思う。私が子どもの頃、縁日で地獄絵を見せるスペクタクルがあったんですが、原さんの指摘で、なるほどそういうものとして、とらえなおす必要があると思うわけです。丸木さんの作家としての立場は、言葉でいえばテーマ主義の画家ということでしょう。原爆反対というテーマは、言葉でもじゅうぶんいい切れることを描いておられるわけですから。ところが画家というのは、丸木さん自身はそうではないと思うんです。原爆反対というテーマを主題に決めておられたにしても、描くときは墨をひっくり返す。映画にも写ってましたけど、それはそれで非常に楽しい。表現者としての丸木さんは、それを楽しい行為としてやっておられる。それが絵かきなんだと思います。
表現する行為と表現されたものはどうしても違う次元のものである。そうしないと自由な創作は成り立たない。たとえばひとつのキャメラを手にして、みなさんでもそういうご経験あると思うんですが、美しいと思ってシャッターを切る。それがどういう効果をもって一枚の写真になるかというのとは、瞬間的に切り離されて、どこか本能的なところでシャッターを押しているのと同じだと思う。原爆反対という非常に重いテーマをみずからに課していながら、それを描かれる丸木さん夫妻は画家として味わう創作の楽しさ、表現の楽しさをやはり享受しておられる。それは不謹慎じゃないかと思われるかもしれませんが、私は、地獄絵作家としては当然そうだろうと思います。どんな時代でもそういう地獄絵作家というものは存在するのではないでしょうか。たまたま丸木さんと私たちの生きた同時代の地獄とは、広島であり、長崎であり、水俣であった。こういうものと出会わなければ、丸木さんはやっぱり別なところに地獄を探しあてていた。いよいよ地獄が現実に見あたらなければ、空想でも描いたんじゃないでしょうか。ボッシュやブリューゲルがその時代の地獄の幻想画家であったように。
原 つづきになると思いますが、丸木さんの絵は非常にディテールがしっかりしているので、あるひとつの部分というかそういうものを撮るとき、それからひとつのアクション、描く動作が非常にしっかりしていると思うんですね。ひとつ問いがあるとすると、ひとつの絵のいろいろな部分が出てきたときの全体的な配列、構図の問題ですね。どうもあまり構図がないんではないかという気がするんです。構図がないと勝手に描いていいかというとそうでもない。で何か完成的な、非常に正確なー丸木さんの絵は非常に正確でいいと思うんですけどもー完成的な正確さっていうか、そういうものがあって、ある意味では負けない布陣をとってると思うんですね。芸術、表現活動の中でかなり負けない布陣をとっている。しかし、映画の両大家がそうおっしゃるとぼくはあまり話す元気もなくなるんですが、本当は配列というのがかなりあるんではないかと思うんですね、厳密な。かつての地獄絵と今日のいま問題になっている時代、時代というか状況におけるその地獄絵というのは、やはりテーマが違うのではなくて、表現が違うんだとぼくは思うんです。そのときにやはり、構図というのが非常に大事な気がします。それを避けて通るのはできないんではないかという気がしますね。というのは、キュービストたちゃシュールレアリストたちがいろいろな部分の集合によって成立し得る芸術というか、そういうものの所在を示してきて、コラージュとかいうものにも展開してきてるわけですね。それでわれわれはそういうものと向かい合っているし、それがいろいろな、例えば地獄の暗いものの中に明るいものを同時に盛り込むとか、これをはやりの言葉でいえば両義性・アンビバレンツということになるかもしれない。もっと多局的なものを同時にとらえていくというか、いってみれば混成状態のものをどうとらえていくかが問題なのだと思う。ひとつの枠の中に適当に慣性的に配列すればいいんじゃないかというところくらいまでが今日きたところなのではないか。やっぱりそう恣意的なものではないと思うんですね。かなり経験則とかがあって配列に対する何かがあって、映画の中でいうと、土本さんも時間的に撮っていてもその中にかなり混成状態が入ってきますよね。で、パッと局面が丸木さんの絵から風景に移っていく。そこの混成的な状態が魅力だと思うんですけど、そういうときにかなり正確な計算をなさって時間的順序の配列が決まってるんじゃないかと思うんですね。そのあたりをやはり丸木さんもおやりになっているんじゃないか。そうするとそれはいったい何だろうかとなるとぼくも見ていてわかりませんけれども、きっと言葉がないと思うんです。それをぼくらが見て、うまく表現する。たとえば、朝の場面、あれは多少求心的なものですけど、求心的ではないとか、否定的な表現でしかいえない何かで、これをなになにであると定義できない。それを定義していくというのはひとつ文化の問題ではないかと思うし、映像と言葉の問題だろうし、建築と言葉の問題ではないかと思うんですけどね。何かうまくいいたいなという気分のあるところなんですね。
北川 いままでのお話を聞いてきて、この映画を見たときのおもしろさの理由、触発された理由がわかってきました。たとえば武満さんの音楽と丸木御夫妻の絵と石牟礼さんの詩は同じようにいえない。詩に関していうと、ぼくの感想では、字で書いたものを見たかった。石牟礼さんの姿が見えてきてホッとするところはあるんですけれども、ただ、表現者石牟礼道子としては不本意ではなかったのか。非常に硬いところがあったし、詩は読んでもらわなくてもよかった、ぐらいに思ったりしたのです。吉田さんがいわれたように、丸木さんがああいう絵を描かれているということから、水俣の映画を撮らざるを得ない状況があって、土本さんがやられたのではないかという理由というのはわかるような気がする。が、丸木さんが描かれた絵は、違うレベルにあるのではないか。ぼくらが水俣について考えると、この間川本さんの裁判があったり、不知火海の総合調査がことしから第二期がはじまるとか、患者さんたちの世界があるとか、告発する会が頑張ってやっているとかということのレベル、そういういろいろな相の中で見たとき、レベルの違う絵だという感じがするわけです。それと音楽はもっと違って、とくに絵と音楽が一緒になってくるあたりというのはぼく自身は全然違うことを考えていて、興奮はしているんだけど、何か違うなあって思ったんですね。映画の魅力は水俣のいまの状況が全部あって、音楽の違う相があって、美術もまた違っている。そしてさらに石牟礼さんの詩があってという形で、まったく違うレベルのものがよく集まっている。水俣がいまの世の中で撮られるという現実をよく映画でまとめたという驚きがまずあったんですね。さっき谷という話がありましたけど、そこをひとつの軸にして、たとえばしゃべり方とか伝え方とか、全部変わっていく。表現が違うところから生まれてくる可能性があると思うんです。しかし、音楽とか美術というのはこの映画の場合、そういう形ではないと思っているんです。その中に入りながら自分自身も変えていく。寄り添っていこうとしていて、ぼくはおもしろかった。そういう断層というか、違いというのを感じましたね。かなり複雑なものを表わせるのが映画だなあという気がしたんです。いろいろなことを考えられる映画だなあと思った部分はあるんです。そのへんをみなさんにうかがいたいという気がしたんです。
土本 最初、描きかけの絵を見せていただいたとき、(描きかけですから全体はまだつかめないわけですけど)非常に実在している人物に近い顔が描かれているんですよ。ぼくだったら名前いえます。誰だ、誰だって。その子がこの絵見たらどう思うだろうなっていうのが一番最初思ったことなんですよ。たとえば水俣病を描くとき、身体的にも非常に歪んでいるし、顔もよだれをたらしているということがあるしね。そういう事実、ぼくが知ってるあの子がこうなっちゃってるって・・・。つまり、そういうふうに描かれていると。だから絵の全体としてはどういうふうに物語るのだろうかということは非常に考えました。そうした相互の違いはある。いろいろお話聞いて画面のインタビューにも出したけど、水俣でどういうふうに出合うかっていうのはそうとう問題なんですね。私が最初出合ったときは、それこそ石もて追われて、もう二度と水俣に手を出すまいというぐらい大懲りした時期がありました。それから五年後、闘争が起きていったときにはむしろ、映画で私たち患者の声を届けてくれ、という形でいった。それでやっと、この十年やってこれたと思うんです。御夫妻がいったときに、いろいろ楽しいものも見たけれど、一番最初に何を見たかというと子どもの大痙攣を見たんですね。それこそ死ぬかもしれないというほどのもので、その痙攣は水俣に長くいてもあまり見た人がいないんですよ、死ぬほどの痙攣というのは。それでもう薬はないし、助からないし、絶息するかもしれない。訪ねていって三十分間、さようならともいえないし、ただじっと見ていた。私は御夫妻の最初の水俣訪問を知らないんですけれども、水俣の人としては漁も見せたし、伸びやかな自然も見せたし、いろいろなことをお見せしたと思うんですね。ところが、どうしても、あの受けた体験に戻っていって描かれたという気が強くしました。地獄絵っていうことがあったんですけど、最後のコメントをあのアウシュビッツといったああいう一番むごたらしいものを一番凛冽と描けるはずだ、美しく描けるはずだといわれるまでにぼくは、一年かかったわけです。あの言葉がああいうふうに出てくるのに一年かかりました。
ところで話はかわりますが、丸木さんの家にいってみると、興味のあるものは全部自分で作ってしまうんですね。木があれば笛を作り、土があればこねて土器を作る。本を買えばすぐその場でサイン絵を描く、というふうに全部形象化してくる。片方では非常に優しいロマンティックなあるいは少女みたいな絵をたくさん描かれたり、位里さんはもう何ていうか、あれだけ風景というものをあんなスピードで描けるのかと思うぐらいでちょっとした大きさの絵,だったら十五分くらいで描いちゃうんです。ものすごいスピードで形象化していくというところを見ていると、あの人たち、本来は何を描きたくて生き続けてきたかということと、何を描いたがゆえに次に何を描くことを背負わされてきたのかということと、本心ではもっとそういうことについてつき抜けたい、何かやっぱり別な表現をたどりたいけれども、それがまだ、自分たちのあと残された余生の中でみつかるかなという、ぼくはそういう大きい時期だと思いました。で、原爆の図も十四部までありますけど、一作として描法の同じのがないんですね。全部細かいところで変えておられます。最後にはこれが同一人物かとまちがえるぐらいの変わり方までしている。吉田さんのいい方を借りれば根源的には、楽しむ絵として格闘している。それが結果として、地獄絵的になるかもしれないけど、いわば地獄絵というものがあの人たちの中でどういうふうに位置づけられているかということも、やはりまだ流動的な時期だと思っているわけです。ひとこといわせていただくと映画を、これでぼくは英語版は数にいれないとして、水俣に関して十四、五本作ってるわけですね。色川大吉さんが水俣のいろいろなディテールに至るまで、百年後にもういっぺん洗われるようなことが必ずくる、足尾の鉱毒事件がそうであるように、といわれましたけれども、私は、映画で水俣に関わる以上、いっぱい撮って残しておかなければいかんというか、資料として残すという配慮が非常に強かったんですね。今度だけですよ、”資料”は別途にそれぞれ作品としてあるんですから、私は創造として、やはり映画として見せたい、資料だから見てくださいというのでなく映画として見せたい。だけど、その見せたい中に資料として残るものは絶対に捨てたくないといったジレンマが、水俣にからまっている私のいまのところです。だから今回はそういう意味で、まあこういう映画になったわけです。
吉田 先ほど原さんがエジプトの「死者の谷」の話にふれられましたね。不吉という意味、忌み嫌うという意味を現代からとらえなおしてみるのも、たしかに重要だと思います。私自身「死者の谷」を撮影した経験があるのですが、ご存じのようにナイル川の西側、リビア砂漠側に王家の谷、王妃の谷、貴族の谷、あるいはそういう王侯貴族の墓をつくった職人たちの谷が墓場として点在している。古代のエジプトですから、死後の墓場にも厳格な階級制があるわけです。日常の都市生活はナイル川の東側、ルクソールという町で営まれ、死ぬと死体はミイラにされて、ナイルを渡り、日本風にいえば、三途の川を越えて、西の冥府へといく。砂漠の地底に築かれたネクロポリス、死者の都に降りて撮影をしていたのですが、ある日、私たちは歴史を錯覚していたのではないかと思った。私たちが文化として継承しているものは、生活空間に関わるものは、ほんとうにすくない。生活空間はその上につぎつぎと新たな生活を重ねることによって、古いものは否定され、消されてしまう。ところが人びとが忌み嫌う死者の世界、墓場は残ってしまう。だから私たちが形あるものとして受けとめている私たちの文化、歴史というものは、いわば反世界なんですね。要するにかつては死者の世界の文化であったものを継承している。いうなれば、あり得なかった世界史を私たちは見せられている。私たちの歴史というのは反歴史をずっと見てきた悪夢かもしれない。それは古代文化についてだけいえるのではなくて、最前申し上げた水俣における近代化についても問われるのではないか。たとえば近代化といえば、私たちはまず明治維新を思い浮かべる。明治維新のときにいろいろな宗教が近代化という名前で追われたことはみなさんご存じだと思います。とくに仏教系統のものがずいぶん破壊された。近代以前ということで、仏教と神社の土着的な習合が否定された。宗教そのものを制度化するほどの、近代化を私たちは押しすすめたわけです。古代のエジプト人たちが、自分たちが生きてる町のちょうどまったく裏側の世界、自分たちが死後にいく世界として創造したあの世というもの、もちろんそれはフアラオという絶対専制王ですから奴隷を使ってつくったにしても、その時代の表現として死の世界にあれだけのイマジネーションを集中させた。私たちは近代化の名によって、そういうふうな反世界、死の世界をあまりに制度化し、切り捨ててきたのではなかったか。それを宗教という必要はない。想像力の喚起といっていいと思うんですね。水俣ー土本さんの描く水俣の中に、私にはまさに写っている反水俣が見えてくるというふうに申し上げたいんですね。それは私たちが近代化の中で喪失してきた死の世界、想像力の根源といってもよいのでしょう。あるいはあの海辺を遠ざかるふたりの患者、娘さんたちだけが知っている眼差しの語りあい、手振り、身振り、そういう記号でふたりの娘さんだけが理解しあっている、あの世があるように思えてならない。その意味では、この映画は私たちの想像力すら犯してきた、私たちの近代化とは何かと、改めて問いただしているともいえるわけです。
原 いろいろ問題があったと思うんですけれども、やはり、吉田さんがお話しくださいました最初のマイナスの中心というような話で、ひとこと、触れておきたいと思うんですけれども・・・。マイナスの中心は、何か非常になつかしい部分であるし、非常に起源的な部分でもある。それで、ある空間的にいうと、空間の原形みたいなものとしてもっている「待っている空間」と「去りゆく空間」というのがぼくはあると思うんですね。前置きなしにいうのは非常に危険だと思うんですけど、いってみればぼくらは常に「待つ空間」をつくっている。何か場面が出現するであろう、こういう場面が出現されるだろうという。そういう空間をつくってきて、ずっとそれが合わないとか、ある時は同調していくとか、つまり非常に惰性的な生活の日常的な部分に関しては、ひとつの建築の中でも、そういう部分で必ず周期的に出来事が起こって、場面は必ずリプライズされる。リプライゼイションをもつということがあるわけです。時間に対してある考え方をして、場面がはっきりしないと、待ち方、時間に対する考え方みたいなものをそこで表出する。時間に対して、そういうようにある期待のもとに空間をつくっていくわけです。それに対して「去りゆく空間」というのは、そういうものからぬけて、一切関係がないような、超越したような、あるいは時間とは何かというようなことに対して、その問題に対する解答が無限にあり得るような無限性を表示することで待つというか、去りゆくというか。それは、何か非常に死に近いというか、そういうような空間で、その空間は日本にだけしかぼくは見出さないんです。人間というのは、常に向かい合って生きているわけですから、世界のあらゆるところでそういう空間に出合ってしかるべきである。たとえばハギヤ・ソフィアの内部に立ったとき、われわれはまさに去りゆく空間を感じなくてはいけないはずである。ゴシックの空間にいったらやはりそうであるはずだ、と。ところがぼくはあまり感じないんですね。感じるのはどこかというと里の風景であったり谷の風景であったり、日本の建築の状態だとか、民家だとか、そういうところにホワッと感じるんですね。で、それは、やはりそれが何か場所の力じゃないかとぼくは思うわけです。ぼくが生まれてそれで死んでいくーそういう何か文化の固有性というか、そういうようなものとして場所というのがあらわれてくる。で、ぼくらはいまや場所というものをだんだん失っていって、結局、均質な世界になっていって、だんだん次第に去りゆく空間を見ないで過ごしているという状態になっていると思います。ところで、その場所という問題に関していえば、おそらく今世紀になっていくつかの日本の場所があったと思うんですね。かなり意味をもった場所として、強力な場所として水俣がこの二十年の間に出てきた。その場所というのが、やはり、非常に多くの意味を生むような、うまくすると「去りゆく空間」みたいなものが出現するような場所である。去りゆくっていうのは何か哀しいとかいうのではなく、ものすごく晴れやかな部分もあるし、感情移入をスーッと誘ってくれるようなところがある。そういう空間ではないか。
われわれが見失ってゆく、近代の空間の中で失っていくところを見出していて、それをやはり丸木さんがずっと描いておられたし、土本さんやそのほかのみなさんが正確にとらえてぼくらに教えてくれたんだろうと思うんです。やはり文化というのはどうしても、死ぬということと直面して考えないと、力がないわけで、そういう意味で近代というのは、ある日突然死がやってくるという形でしか考えてこなかった。やはりそれをじっとみつめることによって、そこでさまざまな問題というのに対処して、やっぱりいつもぼくらが自分の生きていく全体、パースペクティプをとれるとしたら、死ぬ時点を仮想して、そこから逆に振り返ってみるということでしか絶対、自己の全体性はとらえられないと思いますね。ぼくはそういうような意味でいろいろ映画を通じて教えられたようなことを、なんとか自分の空間に乗せていってみたいと思っています。