私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム2ー記録表現の立場 最首悟+鎌田慧+土本典昭 対談
北川 最首さんは、不知火海の学術総合調査団の仕事をずっとされてきて、ことしから第二期の調査の仕事をはじめられています。鎌田さんは、労働の現場から問題をたてられて、鋭いルポをいろいろな形で発表されてきている。きのうのシンポジウムを最首さんは聞いていらしたので、まずきのうの問題をうけたところから話をはじめていただきたいと思います。
最首 今度の映画を見まして、・・・まあ泣けてくるんですね。いままで土本さんの映画は全部見ましたけれども、泣いたことはなかったので自分でもびっくりしたんです。どこで泣いたかというと、丸木さんが似顔絵を描いて森さんにお渡しする、それから清子ちゃんに、金子雄二君に、しのぶちゃんに渡すー、映画では全部撮れていたのは森さんだけでしたけれども、そのときの森さんの場合ですと、受けとってからほぐれていく時間というのがあって、それが単に脳卒中であるとかそういう身体的な障害のための時間の流れ方でなく、その場でほぐれていく、十年、二十年、それからもう少し想像をたくましくしていくともっとずっと前からの時間がそのほぐれていく中に同時に重なって見えてくる。そこで、そこの時間の流れ方のところで、なんか泣けてきてしまうんです。「水俣の図・物語」を応援する会をつくってやっていた関係でラッシュをずっと見たんですけども、清子ちゃんにしろ、しのぶちゃんにしろ同じように、受けとったときに流れる時間みたいのが、ものすごく泣けてきてしまうんです。いま時間ということを申しましたけれども、私が調査に加わったり、記録という立場に加わっていく・・・自分はまだ表現者とも記録者とも思つてなくて、いつもだいたい見るほうとか聞くほうとか、そういう受け身的な立場ー子どものときからぼくは喘息ですし、ずっとひとりで暮らしてきたことがありますし、そういう立場でずっといたんですけどもーからだんだん記録するという立場を考えていくときに、時間ということを感じました。それは、遡れば全共闘のとき、全共闘というのはどう語っていいかわかりませんけれども、少くとも私の全共闘という中で考えていたこと、そのあと、私の四番目の子にダウン症の女の子が生まれまして、そうとう重症で今度五歳になりますが、まだしゃべれません。いつしゃべるかが楽しみですけども、まだしゃべらない。そういうことでいえば重症なんです、この子とのつきあいの中で流れる時間というのが、全共闘以前、自分が考えていた時間の流れ方とはまったく違います。その全共闘から予感をしだしたそういう時間の流れ方、その屈折の仕方ー、時間の屈折というとおかしないい方ですが、ーそういうものに自分がどんどんひかれていき、そこの時間を共有したい、どうしてもそこに入っていきたいという自分の欲望がわきあがってくるわけですね。そのことが記録、とくに水俣ということの記録表現に関わってくる問題だと思うんです。
たとえば、ここに全障連の顧問の八木下さんがきておられますけれども、八木下さんは脳性マヒで、やっぱりしゃべるスピードは遅いわけなんです。少し聞いていればわかりますけども、やはり遅いし、口を動かす神経が不調なので遅くなりますけど、それは単に遅いというだけで、ぼくがいおうとしているのは、ちょっと違う時間なんですね。なぜそれにこだわるかというと、これは全共闘からの問題になりますけども、たとえば吉本隆明が天皇制の問題をとりあげたときに、われわれが有史以前というあたりから培ってきた土俗的なもの、そこに流れるぼくらがずっともってきた時間というのがあるんだ、という。それと背反してしまうというか、それと全然違う時間の中にぼくらが入って、生きる目的をさがしてみたり、怒ってみたりなんかする。そういう時間の中でやっていくと、たとえばぼくらが反発した権利要求型みたいな非常に矮小な運動しかできなくなってくる。これは鎌田さんに関係があるわけですけども、鎌田さんが労働組合運動がいかにだめになっているか、労働運動はいったいどこにあるんだといわれることとも関係するだろう。その根拠は、いったい何だろうかというのが、われわれが試みた運動でもあるし、引きつづいている運動でもあると思うのです。自分の子どもというのはなかなかわかりません。わからないけどもいなくては困るという立場なんですね。いなくなるとオレがいま生きている立場がなくなってしまうというような。そこで流れていく時間というのは、確かに違うんだ、と。これをなんとかぼくらがしっかり握らないことには、いま、非常に口はばったくいえば、世直しとか革命なんてのも問題にならんだろうというのがずっと引きつづいてある。そこの入口、開いてくる戸口みたいなところを、私は水俣に見ているわけで、当然この映画でもそこを見ているわけなんです。
そこから見ていくと、たとえば丸木さんの表現、記録というのも、少くともぼくは前と違って見ていると思うんです。「原爆の図」では、やっぱりこれは悲惨である、これは二度と起こしてはいけないのである、こういう人たちは浮かばれないのであるーという感じで見ていたんですけども、今度の「水俣の図」から入っていって見直してみると、どうもそういう感じではないんですね。
きのう、原さんが「去りゆく空間」というたいへん難しい、文化の香り高い言葉が出されて、それは死ということが非常に近い、日本に特有な空間なんだそうですが、そこで流れる時間とそこの空間というのは、どうもぼくの問題意識と合うような気がするんですね。同時に吉田さんのほうから、丸木さんたちは地獄絵作家である、しかしそれを描くときの楽しみというのがあるだろうということをいわれた。これは自分に引きつけて、非常によくわかってきたわけです。たとえば地獄絵を描く楽しみより、もう一歩進んで、水俣の胎児性の患者さんとかぼくのダウン症の子どもがこう・・・生きていて楽しいとか、いいとかいうときがあるのではないかと思う。これは、たとえば幸せというのは、もともと手かせ足かせの意味で、手かせ足かせをかけられて初めて自分が感じるいろいろな人間的感情とかが、自分が豊かになっていくことと関連しているだろう。これをいうのはたいへん難しいんだけども、そういう人たちを見るとぼくらはすぐに、かわいそうだとか、この人たちは何で生きる価値があるのだろうかというふうに見てしまう。いまの障害者運動に参加して支える人たち、とくに公害型運動も、大半はそういう感じなんです。自分たちの時間の流れ方の中で、かくも悲惨な原爆死や公害死は二度と起こってはいけないことなんだというのはもちろん正しいのですけども、それだけじゃない。それでいてはいけない、それでいてはみのらないものがあるという感じがするんです。これは、当り前のくだらないことをいっているのかもしれません。どんな人でも、それぞれ山があり谷があり、喜怒哀楽があって暮らしているのであって、一義的にこういう生き方をしている人なんていないんですから、非常に当り前のことかもしれないが、ぼくには特別に感じられてくる。つまり、私もダウン症の子どもをもって、最初はそれなりの準備態勢があったといえばたいへんおこがましいんですけども、絶望はしなかった。そういう中で、涙はこぼさないけれども涙の湖みたいなものがずうっと拡がってしまってですね、それを入口にして開けていく世界と、怒りに燃えて開いていく世界とは違うんだ、そこは時間の流れ方が違うんだ、と。で、どっちが本質的な時間かといえば、ぼくは涙をたたえているようなところでーときに流れてしまいますけれどもー見えてくる世界のほうが、本質的に長い歴史をもっているんだろう、と。少くともぼくはそれに合わせて生きよう、みたいなところがこの何年かの活動の元であって、水俣の学術調査はそれとしての興味はありませんで、むしろ根本は生き方みたいなところなんですね。
きのうの話では、記録表現の自立性というのが出てきましたけれども、その自立するかどうか自体は、ぼくは興味ないんですけれども、または力を記録がもつや否やという問いも、真正面から問うたってあまりおもしろくない。吉田喜重さんは表現の自由、表現の自立というようなことが論ぜられるような自由な世界にわれわれはいるのか、と昨日冒頭いわれて、原さんとちょっとやりとりがありましたけども、むしろ不自由である、そんな自立なんかできるかというところの思い、それが共通項となってはじめて、自立は可能かどうかをめぐる思考があるんで、それをとばして抽象的な表現の自立みたいなことは、あまり甲斐のない論議だと思うんです。これは自分が表現者じゃないから勝手なことをいうのかもしれませんが。そういう方向で、つまり、民衆とか大衆とか常民とかいうときに、私たちみんながそう名乗りませんけども、ーただぼく自身はインテリゲンチャだとかえって居直りますけどもーそのかかえている問題とは何かということと、それを記録していくことの一番の根っ子みたいなところを、きょうは鎌田さんや土本さんに聞いてみたいなと思って、最初の滑り出しをしました。
鎌田 最首さんのお話を受けて考えてみたいと思います。二、三日前、北九州にいる友だちから手紙がきまして、それは最近ぼくの本ができましたので送ってあげて、それでかなり長い手紙をくれたわけです。彼は日雇いの仕事をしていたんですが、仕事がなくなったので船員になったところ、ワイヤーが腕に当って骨折したとか、北九州全体の不況が長びいて筑豊化しているとか、そういう報告の手紙でした。その中でとても衝撃を受けたことが書かれていたんです。労働下宿という暴力飯場みたいなのが明治の時代からずっと北九州にあって、それが新日鉄を支えてきたんです。それについては以前、本に書いたことがあるんですが、そのときに知り合った日雇いの労働者のひとりが彼で、手紙にはさりげなく書かれていました。労働下宿に入るときには、(ぼくもいたことがあるんですが)名前を隠すんですね。ほとんどが偽名で入るんですけど、吉田茂でも岸信介でも何でもよくて、そこを逃げたあとはまた本名に戻るんです。ところが、ぼくが会った人は偽名で入って、本名に戻るきっかけを失ってしまったんです。病気になったので仲間が入院しろ入院しろっていうけど、断固として入院しない。結局病気が重くなってしまって、やっと入院したんです。どうして入院しなかったかというと、偽名がバレてしまうということなわけです。そんなのは仲間から見ればバカらしいことで、みんな偽名を使っているんで、笑いあってすむことなんですけど、本人はちょっとしたはずみで本名に戻れなくなってしまった。病室にはいままでと違う名前の札がブラ下がっていて、彼はその下でちいさくなっている。まあ格好悪いって感じで。
それから、作業中にスクラップが右目に当って失明して、それでも日雇いをつづつけている人が、たまたま仕事でトラックに乗って大分にいった。大分港に船積みにいったんですが、彼は大分出身だから、故郷の、昔、開墾なんかで働いたところを見たという話、それはつまらないほど短い話なんですが。そんなことをぼくは書いたのですが、手紙を寄越した友人が当然彼らに読ますわけですね。彼らは、ここまで書いてくれるんだったら本名で書いてくれたほうがよかったといっていると、彼が伝えてきたんで、すごくぼくも考えこまされたんです。だいたいぼくのルポは、実名入りをモットーにしているわけです。つまり企業の場合、学者なんかだとA社とかB社とやって、企業から資料をもらったという手前もあって実名にしない。読んでいる人間は新日鉄とかトヨタだとわかるけど。ぼくは全部実名で書く。労働者もほとんど実名にします。実名ということは、ぼくのほうでごまかしきれない。それを仮名にしてしまうと、こっちで嘘を書いても誰も怒らない、そういう領域に拡がってしまうから実名入りで書
いて、あとは工場の中で実際まずいとか、活字になってクビになるとか、差し障りがある場合は名前は全然入れない。あるいはそこから人物を特定できるような話は外してしまうんです。そういうように使い分けていますけど、だいたい実名入りにするわけです。
彼らの場合はどうして実名にしなかったかというと、そこが問題で、ひとつは長い間つきあっていなかったということがあるんですね。昔から知っている人ではあったけど、ちらつと書くということで、最首さんの言葉でいうと時間も空間も共有していなかった。もうひとつは、いかにも悲惨な話で、腎臓かなんか悪くして、もう働けなくなってしまったんですけど、それだけの病気になるまで入院しなかったのは、偽名がバレるということなんです。何だバカらしいってみなで笑うんですけど、やっぱり活字にするときには何となく気がねが生じて、つい仮名にしたんですね。片目を失明した人の話もやっぱり、悪いなということで仮名にしてしまった。ぼくは短い話でもいつも克明に書くようにしてますから、それを彼らは、そこまで詳しく書いてくれるんだったら本名で書いてくれたほうがよかったといっている、とその手紙に書かれていた。彼らは六十歳すぎでもう仕事もないし身体も弱いから、はっきりいってこれからそう長もちしないわけですね。そういう人のことは、ちゃんと実名入りで書いて記録したほうがいいんだということを彼がいってきた。それで、ぼくは、自分は甘いところがあるんだなと反省したんです。
この映画もやっぱり、そこのところだと思うんですね。絵を描いてあげるところがすごく感動的でした。描いてもらう人の喜びみたいなのが画面によくあらわれて感動しました。丸木位里さんや俊さんが有名であるかどうかは別の問題にしても、結局自分とちゃんと向かいあって、描いてくれる人がいるっていうことですね、それで自分の生きている証明がちゃんとできるということは、やっぱり人間にとって大きいことだし、労働者とか、彼らのことが活字になってあらわれることがいいかどうかは別にしても、それが記録として残され、伝えられていく、そういう一人ひとりの生活が歴史と深く関わっているし、そこから歴史が動いていく。公式的にいえばそういうことになるんですが、一人ひとりと結びつく関係、お互いの関係の中から生まれてくる美しさの発見、といったようなものがよくこの映画にあらわれていると思います。
北川 最首さんがいわれたことは、違う時間ーそれは物理的な時間ではないんでしょうけども、ーを生きている者が、他者の時間の中に入っていくすばらしさというか、つまり時間が違う者がひとつに収斂されて何かひとつの体系になっていくことではない、いままでの考え方はそうだつたけれども、そうではないところで問題を考えていくということを述べられていたと思うんです。鎌田さんがいわれたことのひとつは、対面して記録することから出てくる魅力のことをおっしゃったと思うんですが、そんなところで土本さんから少しお話しいただけたらと思います。
土本 最首さんと五年間、水俣をつきあってきまして、最首さんの喜びというのは、ある人物からほんとうのことが聞き出せたときなのです。そういう晩は、ふたりで大酒を呑むわけです。最首さんは大変な日記をつけているのをみつけた。ぼくはその日記を見たって解読がなかなか面倒ですけど、彼は非常にそうした遭遇に興奮していく人で、そういう人物にポカ、ポカと妙なところでめぐりあっていくことに情熱をかきたてられる。ひょっとしたらこの人、今後水俣に移住するんではないかと思われるふしもあるんです。水俣に住んでいる、または移住した表現者はいます。砂田明さんは芝居をやっておられる人ですが、十年間、水俣で無職で暮らした人なんですね。百性やりながらやっている。石牟礼さんはあそこで、小さいときからおきゃんな娘としてくらして育ったという人です。ぼくはどうかというと、十年ほど水俣に通ってはきましたが、いつも他所者だというふうに自分を規定して入っているんです。もうひとつは、運動は確かにします。けれども別にはっきり運動者がいるわけです。この人は、どれだけ尽くしても患者さんの運動自身、あるいは生活、あるいは勇気、そういうのを支えることによって完結していく行動をしているわけですね。映画というのはフィルムを撮らないと完結しない行動だから、その間にいくら親切にしても、あるいは愛嬌ふりまいても、フィルムという結果で出なければぼくの仕事でない、と自分を規定しています。そういう意味で逆算して、他所者であるということと、ぼくは映画を撮りにきた人間ですということだけは、水俣の人に頭から終始いいます。それはぼくの勝手です、ということで行動しているわけですが、結局それがどういうことになるかといいますと、水俣のような題材の場合、それから鎌田さんがやっておられるようなシリアスな問題でもそうだと思うんですが、前の蓄積が全然信用できないんです。前にあの人と仲良かったとか、ほんとうに話し合ったとか酒を呑めたということが基本的には信用できない。それは、その人が変わったとかいうんではなくて、時代が少しずつ変わります。そしてその微妙な変わり目のところに興味をもっていくわけですから、ただ単にあなたとぼくが仲良しだということでいくわけがない。病気はどんなに深まったかとか、裁判のあとさきでどんなふうに人生が変わったかとか、水俣病の娘さんでいえば、あなたは最近、恋ということをどう考えるかとか、結婚をどう考えるかといった、微妙な変わり方をみつけていくわけです。そのときにはもういっぺん、白紙に近い状態に自分をさらさなければいけない。狎れとかいったものをそぎ落として入らないといけない。それはフィルムがあるからです。フィルムがないとぼくは、そういうことはなしにいけると思うんですけど。そういう意味で逆にいうと、いつも惚れ方を自分で決めていくというか、毎回惚れ直さなければだめだということがあって、その厳しさは一作つくるごとに、むしろだんだん難しくなってきている。というのは、ぼくの撮りたい要求がもっとプライバシーを侵していくような方向に進んでいるからだろうと思うんです。
さきほど実名ということをおっしゃったわけですが、たとえば石牟礼さんの文学を読んでいますと、九平君というのは何のたれベえだとわかりますし、杢太郎という子どもはどこの子だということはわかります。ところが水俣で読む人のことを考えて、彼女はそういうふうにペンネームを使うし、生まれ故郷を島ひとつこっちに変えるなどして、即同じにはしない。けれども、映画というのは全部撮るし、プライバシーに真正面からぶつかっていく問題です。ただ記録をしていますと、これは抑制ではないんですけども、逆に劇が、フィクションがなぜあるかということを考えさせられるんです。このレンズで丸ごと撮り、マイクで丸ごととるという方法では、これ以上はたち入れないのではないか、としょっちゅう考えるわけですね。記録映画だから全部とりまくればいいじゃないか、といわれかねないんですが、自分の納得できる表現として、しかしその人たちが逢着している矛盾とか、あるいはいまネガティブな面として受けとられるけれども、長い目でいえば水俣病の問題が流れていく上では、こんなふうにぜひ撮っておかなければいけないことだろうということを、たんねんに撮り集めていきたい。その点ではいまも、フィクションに跳ぼうとする誘惑よりは、記録をつづけていこうという気持の方が強いわけなんです。今回の映画の位置づけを申しますと、ぼくが初めて水俣病にとりかかったときは、水俣病が起きてちょうど十年目だったんです。全然知らなかった。昭和三十一年に起きていて、ぼくは四十年にいったわけですから、それだけでも遅れていると思っているわけです。こんど丸木さんたちが描かれたのは、ほぼ二十五年後ですね。そんなに遅れたことがどうなのかといいますと、ぼくは、どうも、ものごとの真実の見え方だとかあるいは表現するというときには、やはり闘いのピークに即撮れるといいうふうには思えないんです。それはぼく自身の経験でいっても、何かのピークには(辛うじて間に合った場合がありますけども)ぼく自身も一緒に闘ってしまってるんですね。カメラではなしに、一緒に厚生省に座り込んだりする。どうも撮るとか表現するとかは、いつも一拍も二拍も遅れていく。まして全局面やその人たちの今後の人生がどうなるかということを、絵という作品で生涯かけて描かれるという場合にも、当然考えるだろうと思うんです。この映画がいま生まれたということについて、ぼくは、水俣のこれからを撮りたいという大きい宿題をひとつもっているものですから、その前にそのことを自分で反芻したり、この映画でまたひとつの関係をつくっていくことや、水俣病に、ひとつの絵画として、音楽として、それを忘れられないために、水俣に対する表現者のいろいろな表現をまとめた映画を提出してみたかったということはあります。私がどこが撮りたいかというと、この映画の中で、石牟礼さんが蘇りということを表現したいという部分なのです。蘇れないかもしれないけれど、われわれにとって蘇りとは何であるかを表現したい。たとえば海やなんかには春の訪れがきて、死にきれないでたえず蘇っているのだと。それに焦点をあてた、水俣の総体図というふうに、彼女はいっていると思うんですね。それを私はどうしても撮りあげたいと思うわけです。それは、おそらくは海の調査とか、海の入れ替りとか生物の毒がどの程度まであっても生きられて子孫が繁殖していくかとかーそれは貝でも魚であってもですね。それから海のヘドロがあのままかさぶたになって、(いま政府なんかはほじくろうとしていますけれども、ほじくらないでかさぶたにしていったら)どういうふうに魚群が蘇るだろうか。いま皮肉なことに、いちばんヘドロが多いところに魚がいちばん群れているんですよ。大きくて、ぼくも食べたくなるようなのが。漁師はときどき持っていって食べていますけどね。事実、そんな不思議なことが起きるんですね。そういった長い時間で水俣をとりあげた場合の蘇りというものを考えたい。それから、補償金もらって生活が全部都市化して確実に壊れたけども、ほんとうに壊れきるのかと。水俣の場合はどうもそうではないんではないかということが、ほかの公害の地点より早く、ぼくは気づかれると思っているのです。というのは、あの海は手を加え養いつづけた海ではなくて、自然のままであることによって、鯛が産卵にこなければならないんですね。河豚が産卵にこなければならない場所なんです。そういう稀有な場所なんです。そういうところをテコにして、人と自然との関係はどうなっていくだろうかを、もうちょっと見てみたいというのが次のテーマなんです。その意味で記録がよじれて、なかなかやめられない。やめられなくても、現実にはあまりはやらないですから、ぼくの作る映画は。食うことやいろいろな障害でどうやっていくか、ということはあるわけですけど。そういった意味で、記録の原点に資料性というものをたえずおきますけども、最首さんみたいに全資料を十全にいれることは映画ではなかなかとり扱えない。時間芸術ですから一定の中にいれなきゃいけないわけですから。その点で非常に欲はかくけど、悩みつづけというのが現状です。
最首 もう一回言葉を違えていいますと、また、これは非常に問題発言ですけども、たとえば原発反対ということがある。これは大変な問題です。または公害ー有機水銀のような神経細胞を侵すというーを絶対に繰り返すなということが、いったい何に依拠しているのか。つまり、ある立場からいうと、原発に反対してどうするの、という感じがある。諦めとか、ある抑圧体系の下で自分がそう追い込まれてきて原発に反対したってどうしょうもない、公害反対してもどうしょうもない、という。たとえば障害者運動でも、自然科学関係、とくに生物科学関係では、障害者運動というと、この世から障害者をなくすことだと思っている。これはほとんど、固定的に一律的な考えです。まずこの世にいまいる人たちには、差別がないようにいろんな措置を講ずる。あくまでもこの世の中の基準に合わせて、少し障害者が便利なように措置は考えていく、という。ただし、生まれてくるのを、今度は抑えようというんですね。人間の腹から出てくる子どもは、健全であるようにするのが障害者運動だ、と。それでは、なぜ健全でなくてはいけないんだとなると、その根拠というのを、ぼくらはほんとうにいいきれるのか、という問題なんですね。そこのところが解決しないとーとくにぼくが考えているのは、身体的な障害でなく、知恵遅れの人たちですがーどのようにしても知恵遅れの人たちとあるまっとうなつきあい、きれいごとではないつきあいというのは、ぼくらはできないと思うんです。知能とかなんとかいうレベルでの問題でなく、ぼくらの時間・空間的な生のもっと深層に、全然そうではない時空間をぼくら自身ももっている。あまりにもそれを押し潰してしまっているけども、やっぱりみんなもっている。そこを掘り出していかないと、原発反対といっても、結局は根なし草、原発反対というのは結局、奇形児が生まれるのが嫌だみたいなことになってしまうんですね。その運動が進めば進むほど、障害児はどこかへやられていく。羊水検査や何やかやが発達して、体内でみんな殺されていく。障害者運動の中でも、いわば公害反対型運動と障害者型運動というのは、なかなか合わない。というのは、公害反対運動の大半は、運動をほんとうに良心的にやっていられる方でも、要するに先天的な奇形児の問題、発ガンの問題をとらえて、これをなくしましょうと、または公害の害にあった方はもともと健全だったんだと。それが、かくも理不尽にこういうふうにされてしまったではないですかと。そこなんですね。その運動が進んでいけば進んでいくだけ、実はもう公害の被害を受けてしまった本人とか、まだ解決がつかない、解決がつかなくしていく原因で生まれてくるいろいろな障害をもった人たちは、どんどん住む場所を奪われていくわけなんです。そのことに否応なしにそれに直面させられてきたというのがぼくらの状況であり、また運動や記録に関わる者はみんなそこに収斂していくだろうと、ぼくは考える。とくに今度の映画では、石牟礼さん自身がぼくらが生きている時空間と違うところ、文句なくそっちのほうに、ご自身としての生き方としていかれているし、おそらく武満徹さんもある部分ではそういうところがあるんだろうと思うんです。やっぱりこの映画で土本さんは、ひとつ違ったんだなというのは、一見するとすぐわかる。運動か芸術かなんでいって、これは芸術の香り高い映画であるみたいな評価が罷り通りそうだけども、実はそうではなくて、ぼくらがほんとうに向かって突いていかなければ、または自分を突き刺さなければいけないところに、やっぱりカメラが向いたという感じなんですね。鎌田さんの本でいえば、群像、結局人を書いていると思うんですけども、ものすごくアップ・トゥ・デイトな、航空、原発、コンピューター、自動車のへんのところで呻吟する労働者の、しかもほとんど臨時工の世界を、えんえんと書かれている。そこにだんだん浮かんできているのは、ぼくらが生きている時空間と違う流れで生きている生があるということです。そこを見ないことには、鎌田さんの本には何も希望がないんですね。鎌田さん自身が考えているかどうかは別としても、結局そこが見えてきていると思うわけです。たとえば出稼ぎ労働者にしたって、マスコミに出てくるのはみんな悲惨な姿で、そして悲惨なりにその生涯を閉じていく。そしてあるとき美談としてパーッと出てくる。ところが、そう簡単に悲惨だけで塗りたくられる人間なんていないわけでして、これは悲惨であると思うのはこっちの時空間から見た立場なのです。そういう見方を引っ込めざるを得なくなってくる。たとえば植物人間などという言葉が、もう存在できないように、ぼくらが、つまりつくり出した側が引っ込めざるを得ないようなふうに、いま記録とか運動とかは進んでいるのではないだろうか。またはぼくの願望かもしれないんですが、どうもぼくはそこのところを見る感じなんですね。
鎌田さんにおうかがいしたいのは、そこらへんのところなんですがね。
鎌田 こういう集会などで話しますと、お前はあまりパッとしない労働者ばっかり書いていて、結局どうするんだ、というようなことをよく聞かれますね。それから、そんな記録なんか書いたって日本の変革にたいした意味がないとか、そういうふうに一蹴するような意見が、まず出てくる。ぼくはそういうことについて、はじめの頃はよく考えこんだりしたけど、最近はあまり動じなくなっています。「運動」といってしまうと、話は簡単になるんですけど、ちゃんと運動に関わっている人たちはそういういい方はしない。自分なりに運動をやっている人は、いろいろな人がいろいろな表現をしていくことが運動につながっていく、ということが根っ子のところにある。むしろ、なにもしていない人たちから、そんな記録とかルポルタージュとか、たとえば土本さんのこの映画にもあるかもしれませんけど、そういう批判がよく出されてくるんですね。最首さんの話にずっと流れていたと思うんですけど、いままでのタテマエや格好いい言葉から新たな人間関係とか、新たなものが生まれてこなかったというのがあって、そこが気づかれてきたんじゃないかと思うんですね。ただ、運動が衰弱してくると、そんな発言がまた出てくるという、これは両方あるんですね。だから一概にいえないけど、ただいままでのようにつつ張ってばかりいて、つまらないのを切り捨てていくというのは、むしろ運動の衰弱を招いていたと思うんです。
今度の土本さんの映画に関していうと、ぼくは前に、スライドを持って天草を回って水俣病を発掘して歩いていたんですが、そのときスライドを映しながら土本監督が一生懸命しゃべっている。そのしゃべり方にぼくはかなわないと思いました。スライドを映しながら一生懸命、熱弁というか、情熱を傾けてしゃべっている。ぼくはいままでの「作品」をつくろうというのとは少し違った土本監督があらわれ、そこを通過して、こんどの映画にきたのではないかなという気がするんですね。そこで、記録の問題を考えてみて、さっき名前の問題にちょっとこだわったんですけど、偽名でもどうでも、AさんでもBさんでもどうでもいいというような存在の仕方を押しつけられているわけですね、労働者は、一般的にいうと。しかし、労働者は名前や特性を奪われているにしても、やはり実名でなくてはしょうがないし、実名をもって登場していくということと、そのことを記録とか運動とかが関係しているんじゃないかなと考えているわけです。
たとえば、この間もトヨタに取材にいってきていろいろな労働者に会ってきたんですけど、万引やったという人がいて、それは万引やった人をさがして会いにいったんではなくて、職業病患者と会っていて、たまたまそんな話になったんですけど。職業病になってあっちこっちタライ回しにされて収入が減ってしまう。自動車工場というのは、昼勤と夜勤を交互にやるので夜勤手当が多いし、交代制勤務というんで、交代手当も払うんですが、それが十万円くらいあるんですね。それが全部なくなってしまっては、とてもじゃないが食えないという状態になっていて、子どもを連れて歩いていたらつい、花火を持ってきてしまって、あっさりそこで捕まるわけです。そこはトヨタ系の会社だから、警察につき出すと新聞なんかに「トヨタ自工社員が万引」というのでは格好悪いから握り潰してしまったんですけど、そういうことを彼のほうからいい出してくるんですね。それは、名前入りで書くかどうかは別の判断が作用するんですが、とにかく、職業病になっても、腰痛とかはみんな我慢してしまう。何かいっても、職制のほうから、それは家で重いもの持ったんだろうとか、寝違えたんだろうとかと潰してしまう。そういうなかで、職業病は職業病だとつき出す存在がやっぱりあらわれてくる。万引やって捕まったということなんか恥かしくていえないはずだけど、生活を語るためにはそれをいってくれたほうがわかりやすい。ついふらふらと花火なんか持ってきてしまった、残業もなくなってしまって、ついやってしまったんだと、そんなに悪びれもしないでいう。会社のほうも全部知っていて、人事部のコンピューターなんかにデータとして入ってますから、名前を書いてもいいんだけど、やっぱりなんとなく仮名にしてしまう。そういうふうに、いろいろな人たちが自分のことをきちんといいはじめると、いままでの硬直した言語を弄したり、未分化であったりしたところを全部落としてしまったような運動とは違うものができるのではないかなという気がします。
もうひとつ、記録の問題ですけど、労働者は日記を書いたり、賃金明細書を記録したり、その日の水揚げ量を克明に記録したりする人はいるんですね。具体的なものにこだわるんです。けれどもそれが消えてしまっているというのは、発表の場がないとか、発掘する人がいないとかの理由があると思うんですが、記録の埋蔵量はものすごく多いと思うんですね。それと全然関係なく、いままでの記録とか文化とか表現とかがあったのではないかという気がしています。
最首 少しずつ重なっていると思いますが、もちろん前提として企業から行政から国家から市民から労働組合からの重包囲のもとで、運動に立ちあがった人たち、その超人的な勇気、当然そこを入口としてぼくらは入っていくわけですけども、そのすばらしさをぼくらは、どのように取り込めるかという、その大きさ自体を取り込める器量をぼくらがどうもつかという問題から入っていく。しかしどうしてもいま、解かなければいけないのは、鎌田さんなんかの記録作業でも直面していると思うのは、そのように、かく悲惨な理不尽な被害でも、それを無化してしまう力、水俣病を無にしてしまう力というのがやはりあるということです。それは現象的にはすぐに生活のための水俣病かくしとか、寄ってたかつて申請させないとか、そういう形である部分は語られるけども、もっと違った形で、被害が自分の肉体に直接およんできて、生活から共同体まで破壊されながらしかし、それはなかったかのように進んでいく。原爆が落ちようと何しようと、それも無化してしまって生きていくような生というのがある。それとうまくきちんと向かい合って、それを取り込んでみないと、ぼくらがふつうに、これは理不尽だとか、これは反対だとかいって、いちいち反応していること自体は、何か意味がないみたいに思うんですね。鎌田さんの本を読んでいてほんとうにそれを思うわけです。何でこんなに耐えていくのか。その耐えていくところを、ぼくらは弱さだとか、これは組織、集団にならなきゃいけないとか反応してしまいますけども、全然そうではない力があって、そういう生から見ると、ぼくらが大問題だと思っているようなことは実は何でもない、一陣の風みたいに消えていく。だからこそ、蘇りというようなことが生きてくる。原爆が何発か落ちてそれが連鎖反応してたちまち死んでしまうかもしれない。しかし、それさえも別になんでもないというような、それが結局ぼくら自身を深層部で支えていっているものではないんだろうか。そこまでいかないと、というかいかざるを得ないような、表現や記録でないと、ぼくら何やっているかわからないのではないだろうかという気がする。
土本 水俣病の歴史の中では、資料が残っていないということは事実がなくなったということと同じなんです。資料があると事実があったとなる。だから、原資料があそこほど残っているのはないように見えて、毛髪水銀の調査が長いこと伏せられたりというようなこともある。それから、記録の場合ですね、映像はいろいろなふうに読み取っていただけて、ぼくが全然意識しないバックや、遠景の木や船を見て何かを観客は感じたりする。ぼくは映画という方法がないときに、資料としては第一級には文字であったし、いろいろな残され方があったと思うけど、どうも今世紀ぼくは、映画とか写真というものが表現としてあって、(それが興行資本とか劇映画とかそういう映画もたしかに斜陽ですが、)映画は生まれたときからあるがまま動くものが写るという能力をもっているわけですから、そういった表現が文章表現とかいろいろな表現と並存してあって、立体的にあとの人に伝わっていく・・・。それに感覚的、感性的な利点が生きていくという座を、映像はそろそろもっていいのではないか。そういうことを考える映画の方法論の組み立てをしていっていいのではないかと考えるんです。映像が氾濫しすぎているときにこのことを考えると、たとえばテレビがいっぱい水俣病のことを取り扱ったといわれるけれども、それでは、どういうふうに残されようとしているのかという意味では、全然つながりがない。氾濫する情報の中で、もうひとつの氾濫をただ足しているだけではどうしょうもないので、もっと意識的、自覚的な映像の記録なり表現なり、見られる何かを作らなければいけないと、いま思っているわけです。
北川 いままでのお話の中で通奏低音みたいなことで流れているものがあると思います。記録というものは私たちにとって重要なものであったり、自分自身の存在を脅したり、何か訴えかけているものを記述していくということだと思うわけですが、そういう自分たちが知りたいと思うものの対象が、何かいままでと違ってきているものにいっているのではないかと。記録という問題から離れるんですけども、人類の、類として存在する基底というものが、いままでいわれてきた記録の対象にない。ないといえないまでも変わってきて、そこに目が向いてきているのではないかということがあって、それは昨日の話の中でも少し出たわけなんですね。いままでは、ひとつありうべきものとして考えられた世界に、何か問題を組み立てていって、そこに整理していく闘いが多かった。そうではなくて、ありうべきだと想定して進んでいくものではないものがもうすでにある。それはもう、厳然として、どんな時間の中でもあるんであって、それがものごとを相対化していく。それは良し悪しではなくて絶対的な真実と記録表現の立場してあるんだということを記述していくとか、あることを感じていくとかいう方向が出てきていると思うんですね。で、そういうことをうけて、会場の方から何かありましたら・・・・・。
質問A 鎌田さんからは、対象になる社会的な事実としての有名性と無名性の問題がひとつ出されたと思うんです。また、最首さんからは、われわれが現在の生活の中で失っているかもしれない、まったくわれわれがはかりしれないであろう時間と空間の問題、これは、水俣病の問題でいえば、水俣病の無名性の部分のことではないか。たとえば、公認された水俣病と公認されざる水俣病と分けてみると、世の中の人たちが知っていると思っている水俣病と、われわれがいま知ってもらいたいと思っている水俣病がまったく違う。それは無名性の水俣病のところをいちばん問題にしてほしいということではないかと思うんです。それはさっき、涙の湖を入口にして入っていくといわれた最首さんの、いまからわれわれが知りたいと思っていることと重なってくると思うんですが、無名性という部分でわれわれの記録表現というのがどうなのか、というふうに、もう少しお聞きしたいんですが。
鎌田 ぼくは、いままであるものと違ったものを書きたいという気持が強いんです。マスコミで報道されていることとは違うものが残されているのではないかという意識がいつもあるし、それを掘りおこして書くことを自分の仕事としてやってきているつもりなんです。有名性、無名性というより、自分は誰に依拠して何をするかでしか書く対象は決まらない。ぼくの場合無名だから書く、有名だから書かない、ということでもないのです。きょうの映画で、描いた絵にどんどん墨をぬっていく。ぼくらの常識だと墨をぬるとほとんど真黒になってしまうんですけど、それが定着すると、光ってくるとかまたあらわれてくるというのがありました。それでより鮮明に見えてくる。つまりむき出しに、”これだ”と敵の大将の首をしるしとして槍の上にあげるような感じではなくて、もっと迂回しながらでも、より鮮明に見えてくる方法があるのではないか、そういうことをやってみたい、と漠然と考えているんです。
最首 鎌田さんの本『逃げる民』に出てくる出稼ぎの話と、水俣の補償金をもらった人たちの話にダブるところがありました。それは、出稼ぎで働いている人も家に帰ると一国一城の主で、応接間があって応接セットがあって、シャンデリアがあって、サイドボードには舶来のウイスキーが納まっていて、ときにはホームバーもある。これは水俣でもそうとう多く見られる現象です。それは同時に、得た金はすぐ出てしまうということです。四百何十億円も落ちて、ほとんどはまた出ていった。それに対して、ぼくらがなんてアホなことをと思うのが通念であって、その見方から、たとえばまた指導とか介入があって、それはプールしましょうとかいらざるチヨッカイを出す。その通念部分にあたるのが、先ほどいわれた有名なるものであって、その通念ではない、オリジナルなほうを何というかというと、鎌田さんの言葉を借りれば、原寸大だと思うんですね。そこにこっちの価値観をあまり入れ込まない、入れ込んだ上で通念と化した水俣病をつくりあげて、また何々の現象をつくりあげて、それで打ちかかるというようなことはやめようと。原寸大で記録してみるとか、何かの運動の根拠になることも原寸大でいつも見る努力をしようというときに見えてくるものーその原寸大というところがものすごく難しくて、何が原寸大かということがもう一回問題になってくるわけですけどー初めてそこに、流れていく違うもの、とにかくわれわれが寄ってたかつてつくり出そうとしているのとは違う、ある人間の運命というのを予感としてつかんでいけるのだと思うのです。通念を、どこで、自分で否定するかというのは、たいへん難しいですし、逆に原寸大といっても何も意味しないときがあるかもしれないけれど、その区別をひとつ軸にたててやらなければいけない。映画の中で丸木位里さんが、人民はいつも殺されるということを、いままでの例だけではなくて、ある未来形をもっていったですね。それだけではというんで、通念っぽいことを位里さんはつけ加えていくけども、そのとき、闘いという言葉を使った。たぶん位里さんの使っている言葉というのはふつうの意味とはちょっと違っているんだと思うんです。殺されるというのはある普遍命題として位里さんにずっとあって、そのもとでああいう障壁画ができている。それは何もあきらめとか傍観者とか、それから人民の力の弱さとか権力の絶大さとか、そんなことを意味してるんじゃない。やっぱり死ということをめぐって、受動的な死か能動的な死か知らないけど、結局、死というものに収斂していくような生のあり方をいっているのだと思うんです。きのうも語られた死という問の題について、または苦痛ということについて、死と苦痛というのを全部、除けていく人類の未来というのは、もはやあるたわごとというか、非常に未熟な思想の生んだ人間像であろうという気がしているわけです。そういうところでこんどの映画もそうだし、みんなあるベクトルが向いてきたなという感じが、正直しているわけです。
質問B 表現の方法として、いわゆる部落等の問題を扱うときに差別用語という問題がありますね。それを撤廃していくべきであるというのが部落解放同盟あたりからよく主張されているんですが、ぼくは記録というのは、そういうふうに置かれている人たちには苦しいことかもしれませんけれども、置かれている状況というものをダイレクトに訴えるものが記録ではないかと思うわけです。たとえば「めくら」という場合に、それはひとつの事実であるから、その事実からはじまって、そこで彼らがどのように苦悩して生きていくか、そこから見ていかなければいけないと思う。ぼくがお聞きしたいのは、記録していく中で、そういう用語の使用法というんですか、差別用語について、どのようなお考えでいらっしゃるのかを聞きたいと思うのですが。
土本 そういうふうにあまり考えないんですね、ぼくは。結局、鎌田さんもいろいろな言葉を使い、いろいろなきわきわのことも全部実名として書き込んでいる裏には、その人に本を届ける、読んでもらって問われていくという、それは常道というものがあると思うんですよ。これは、ものごとを書くときに、いきなり盗んできて書くわけではない。やはりそこにコミュニケーションがあるし、そうしたつながりが明快にあると思うんですね。ぼくは映画をつづけてきた中で、関係をいつもゼロにするというけど、それはやはりありますよ。ですから、見てきたことの表現として、あなたが使いたい言葉があったら使ったらいいと思うんですよ。そういう関係がちゃんとあるなら、いいかげんに使うことはできないんだと思います。石牟礼さんは書きたいという文章を、だいたい、ぼくに話してくれることがあるんです。それはいろいろなところであらかじめ話していると思うんです。自分の娘時代のこと、代用教員時代のこと。それがある日、練られ練られて賛肉や、属性を落として結晶になってくるという過程をとっていると思うんです。そういうシリアスな問題のところでも、やはり盗んでくるわけではない。そこで語っていくということの中から選ばれる言葉だったら、それはその人がそのことに一生責任もってくださいということです。
北川 問題点が絞られて出てきたと思います。最首さんが最後にいわれた言葉の原寸大ということに引きつけていうと、それは記録といわれてもいいし、芸術表現といわれてもいいし、どういうことでもいいんですけども、あるメッセージが、専門分野以外のところで、だれでもがさまざまな角度からそれについて語ることができる、そういう内容というかものをもっているものだと思うんです。それがやたらに大がかりだったり、大げさだったり、専門家でなければ語れないような構造をもっているものとか、もちろんそういう部分を内容にはもっているかもしれないけども、どんな人でもそれについて語れる。その重層性がもしあるとすれば、それが文化じゃないかと思っているんですね。ぼくがこの映画でこういう企画をつづけていけたらいいと思ったのは、この映画には原寸大というか、等身大というか、そういう製作の過程があり、内容があって、それがいまの時代にできてきているということを感じたからなんです。