私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム3ー表現者の運命 山田宗睦+丸木位里+丸木俊+土本典昭 対談
北川 この映画の中にもいままでの丸木御夫妻の生きてこられた道とその画業というのが少しずつはさまれていて、それがこの映画のひとつの底流になっていると思います。それと水俣がひとつのテコになっていると思うんですけれども、その丸木御夫妻が戦後、「原爆の図」を描かれてから現在の「水俣の図」を描かれるにいたったその歩みというのは戦後三十五年の精神というもののひとつのあり方を示していると思われるわけです。きょうゲストに哲学者の山田宗睦さんをお招きしたのは、山田さんは敗戦に原点を据えられ、戦後精神というところで非常にアンテナの鋭い発言をされてきておられる方なので、丸木御夫妻とともに、その点を照射していただければ、と思います。
山田 映画というのはご覧になった方々が、同じ見方をしないだろうと思うんですね。私の友人の鶴見俊輔は『誤解する権利』という本を出しています。つまり制作者がひとつのある意図をもって映画作品を作ったとしても、見ているもののほうは、必ずしも作者の意図どおりに映像を受けとっているとはかぎらないのであって、みんながそれぞれ自分の引きずっている人生とか自分の思いとか思想とか、そういうものでずいぶん違ったとりかたをするだろうと。またそれが当然なんだ。だから「誤解する権利」なんだというわけですね。私がきょうこの映画を拝見してどういうふうにそれを読みとったかというのは、つまりいってみれば、私自身がどういう人間でどういう生き方をしているのかということを全部話さないと、うまく伝わらないんではないかという気がするんですね。ですから、直接この映画についてどうこういうよりもこの映画を見ながら、これは土本さんそのほかによる独立した映画作品であると同時に、題材になっているのは丸木さん御夫妻の生き方、その画業、それからその作品というふうに、二重になっていますね。そういう意味で申しますと見ている者それぞれの中に、その両方ー土本さんたちの映画を作るというひとつの表現作用と、その題材になりつつ自分たちの絵を独自に、映画の表現とは別個に、独自に描いていっている丸木さんたちの表現行為の過程ーと見ているわれわれ自身の生き方というものが二重三重に重なってそうとう複雑にみなさんはそれぞれ眺めていたんだろうという気がいたします。これはテレビの、「水戸黄門」なんていうのを眺めているのと比べますと、そうとうしんどい思いをしながら見る。しかし、しんどいけれども見ているうちに勇気づけられるというか、こう自分たちも生きているなあとか、自分たちも、やっぱり考えてるなあというふうな手ごたえをもちながら、そのしんどい作業をしたんだろうという気がいたします。
戦後という時代の非常に悪いところは、なんでもはじめはそうではなかったと思う点なのですね。一九四五年の八月十五日に日本が負けて、負けたときに日本人がもっていたそれぞれの思いというのは、ずいぶんそれぞれ違っていたと思うんだけれども、三十五年たってみると、だんだん現在に近づいてくればくるほど、なんかみんなひと色になってくるというか、そこへこう押し込められるというか、そういう動きを戦後はしてきているような気が、私はするんです。それが非常に情けない感じがするんですね。もっと多様であっていいのではないか、もっとわれわれの時代というのはひと色でもなんでもなくて、極端にいえば一人ひとりで全部違うんだというふうに思ったほうがいい。そういう違ったものがあるところで、ある一点で思いをひとつにするというふうなことですね。ところがみんなをひと色にしといて同じところへいこうという動きがある。これは政府のほうの動きでもそうですし、それに反対している社会党だとか共産党だとかあるいは労働組合だとかでやっているのも、なにかみんなをひと色にして、戦争反対なら戦争反対というところへいこうとしていると思うんです。それは非常にまちがっているし、弱いだろうと。みんながそれぞれ違っているんだけれども、最近とみにキナ臭くなってきた中で、やっぱり平和を守ろうじゃないか、戦争に反対しようじゃないかと、みんな違うからその一点で力が合わせられるんだというふうなところへくれば、それがおそらく私は戦後という時代のもっていた本性なんだろうという気がいたします。この映画作品を眺めてて、繰り返すようですけれども、土本さんたちの表現行為、丸木さんたちの表現行為、そういうふうなものがそれぞれ違いながら、ひとつのところへずうっと統一されて、ないまぜになって表現されてきているというのが、この映画のもっているひとつの値打ちであり、あるいはこの映画そのものが主張していることなんだろうという気がいたします。
私の本職が哲学という、戦後はやらなくなった学問なので恐縮なんですが、いろいろな哲学者がいます。それこそある哲学者の言葉ではないけれども、哲学者の数だけ哲学があるとさえいわれているほどずいぶんいろいろな哲学がありますが、いま私がいろいろな哲学の中で、自分の生き方に関連して非常にいいなぁと思っている哲学者がおります。その人はライプニツツで、十七世紀の終りから十八世紀の初めにかけて活躍したライプニッツの全集はいまだに完結していないのです。もうえんえんと出しつづけて三十何巻出てまだ完結しない。それほどの哲学者ですから簡単にいうことは難しいのですが、彼は二つの用語を使うわけです。ひとつはわれわれを含んでいる世界の全体を「コスモス」という言葉であらわしています。それからその世界を構成している一つひとつのもの、つまりわれわれ個人のことを「モナド」という言葉であらわしているんですね。で、ライプニツツによると、「コスモス」というのは自分自身で自分を表現することができないっていうんですよ。「コスモス」、「モナド」を比べますと、もちろん「コスモス」のほうがはるかに全体的で、無限で、はるかに真実なんだけれども、宇宙や世界は自分で自分を表現することができない。一方で「モナド」はたいへん力の弱い、有限で欠陥だらけだが、こういう個々の「モナド」をとおして世界が表現されてくるんだ、と考えたわけです。ですから彼の哲学のことをモナドロジー、単子論と訳しますが、私はもうはっきりと個人論でもかまわないと思っているんです。
この考え方は現代のわれわれにとっても学ぶにたる考えだろうと思います。それはつまり、私という「モナド」がある。私より秀れているという人はこの世の中に非常にたくさんおります。そういう秀れた人間の前にでると、私は自分自身がきわめて平凡でつまらん奴だという気がするんですけれども、しかしそのつまらぬ奴をとおして世界が姿をあらわしてきている。私というものがなくなると同時に、私を通じてしか姿をあらわせない、表現できない世界というものも同時に消えていくわけですね。どんなに秀れている人がいても、私の代りになってやろう、山田がここでおっ死んじまったから山田の代りに山田が表現しようとしたものを表現しようとしても、それはできない相談。そこに世界の重みと同時に、われわれの一人ひとりの個人というものが生きている確かさがあるわけです。みんなが、一人ひとりがそうなんです。みなさん一人ひとりがもしもいなくなるというと、同時にみなさんを通じて姿をあらわしていた世界が消えていってしまう。これはライプニツツ哲学の中ですごくいい面なんです。もうひとつ、ライプニツツがいっておりますのは、有名な言葉なんですけれども「モナドには窓がない」といっております。窓がないというのはつまり、閉鎖されてしまっている。外へむけて「モナド」どうしがつながりあうことができないんですね。窓を開けてあいさつをしたり、自分の感想を述べて、自分はきょう、この「水俣の図・物語」という映画を見てこういうふうに思ったけれども、みなさんはどうですかというふうに交流しあうということができない。で、「モナド」どうしの関係というのは、神さまがあらかじめ調和を保てるように決めていてくれたんだとライプニッツは考えた。この面はわれわれは受け継ぐわけにいかない。われわれはやっぱり「モナド」に表現者の運命は窓があるんだと、お互いに交流しあおうではないかということになるかと思うんです。
それでこの映画を見ていて、たぶん丸木さん御夫妻ほど激しくぶつかりあい、激しく触れあい、激しく交流しあった「モナド」というのはめずらしいだろうと思ったのです。それぞれが独立した「モナド」でしかも窓を開けて交流し、ときには喧嘩もしたかもしれません。そういう関係があったから、だから、「原爆の図」からはじまって、きょうわれわれが見た「水俣の図」にいたるまでの表現ができたんだろうという気がいたします。しかしそれはなにも丸木さん御夫妻、位里さん俊さんおふたりだけではなくて、われわれだって同じことだったんだと思うのです。先ほどいいましたように、われわれは非常に小たる存在、眇たる存在なんだけれども、われわれもやっぱり、自身をとおしてしかあらわしえない生き方をしている。そのわれわれの生き方をとおして世界が姿をあらわしている。それをどうやってあらわしていくのかですね。歴史というものを眺めますといつも、大きな人間の名前ばかりで歴史が語られます。ナポレオンがどうしたとか、毛沢東がどうしたとか、私はどうもそれが気にくわないんです。歴史というものが大きな名前で語られているときにはろくなことがない。ろくなことがありません。そうではなくて、大きな名前でもなんでもなくてごく平凡な小さな名前の生き方というものが、束ねられたのがほんとうの歴史なんだろうと思うのです。きょうの映画もそうでしたし、それから、丸木さんたちの画業もそういうほんとうに小さな名前、よく名もない民なんていいますが、名もない民のところに押し潰されているわけですね、われわれの「モナド」というものが。それをどうやって声をあげていったらいいのか、そういう映画だったし、そういう絵だったろうと私は見ておりました。これを単にわれわれ眺めて、受け身のかたちで保っているだけではいけないんじゃないでしょうか。やはりわれわれ自身も同じように声をあげる。同じようになんらかのかたちで表現をする。それは生きるっていうことと一緒でしょうね。そういうことをたいへん励ましてくれる絵だったし、映画だったというふうに思いました。
北川 それでは丸木さんのほうから、いまの山田さんのお話を受けて、共同で絵をやられてこられた葛藤などを含めてお話ししていただけたらいいのですが。
丸木俊 どういったらいいのかしら・・・。私は美術学校へいって洋画の勉強に入ったんです。ですから油絵が主なんです。位里のほうは日本画で、日本画の中でも黒と白の水墨画が好きで、それをずっとやってきた人です。私はですから、水と油だってよくいうんですよ。水と油だから一緒になりっこないってよくいい合いしていたんです。ただ、共通な点がちょっとあるのは、私は貧乏なときが長くて、いつも紙と鉛筆をもって絵を描いていたり、油絵具が買えないから紙とコンテで絵を描いていたりした時期が長かったもんですから、白と黒という点では共通点があったんです。
共同制作するようになりましてから、水と油、全然違う、融け合わない、はじきあうものがあった。私が水墨画の画家だったら、同じような世界に生きているから共同制作も楽なのかもしれないと思ったこともあります。ですけれど、その違いが大きければ大きいほど、それがもし一緒に融け合うことができたら、いままでになかったようなおもしろいものができるのかなぁと思ったりもしました。ですからそういうところはおもしろかったんですね。
丸木位里 さて何を・・・。そうですね、絵はこの人がいうように全然違うわけなんです。この人は美術学校にいった。私は美術学校にいかないで昔の日本画の先生について勉強して、それから次々といろんな人の影響を受けてきた。受けたといっても、友だちは院展などの美術展に出していたが、私はあまり好きでないので出さなかった。川端龍子の青龍社には出品したことがある。既成の団体というのはそれくらいのことで、グループにもはいらず無所属のようなもんです。無所属というても最近は人人展というのなんか、やっとるわけですが、これは私はなにもふたりで絵を描くということをしなくてもいいわけなんで、私だけで描いてもいいし、この人だけで描いてもいいわけなんだ。私だけが描く絵とこの人だけが描く絵は別々にあるわけなんです。
原爆・・・、私は三日後に広島にいってあの戦場の中をうろうろ歩いて、全部見た。私の家も広島市周辺にあったから、大変な被害を受けた。おやじもそのうちに亡くなり、伯父も二、三日後に死に、たくさんの友だちも死んだ。この人もすぐあとからきて、全部見た。それからなにもすぐ「原爆の図」を描こうとは考えたこともない。ところが四年たっても五年たっても原爆ということすら誰もいわないし、いってはいけなかったんです、その頃はね。そうして写真もなかった。いまとなればアメリカが写したのやら、一ヵ月後にいって写した日本人の写真も広島の資料館にも長崎にもあるし、ずいぶんたくさん出てきているが、当時は四年、五年たっても写真が全然出てこない。どこからも出てこなかった。写す人も少かったし写真機もなかったし、私たちも写真機なんか持つてはいなかった。写真機を持っている人は戦争中は報道関係の新聞記者ぐらいのもんで、フィルムもなかったでしょうし、食うものがないんだから写真機の段じゃなかった。原爆という言葉さえ誰もいわないし、いえば叱られるような気がして、どこからもいわん。戦争中は米英撃滅の戦争画をみんな描いたわけなんです。私たちはちつと変わっているから描かなかったが、戦争画を描けば材料の絵の具なんかくれたわけなんだが、戦争画を描かないものは材料も手に入らなかった。それでみんな戦争画を描いたわけなんで、その戦争画の中には藤田嗣治の傑作画もあろうし、宮本三郎の傑作もあるし、ずいぶん傑作があるわけです、戦争画としての傑作はね。だが戦争後になっていろんな問題が起こっているのに、戦争中には戦争画をみんな描いたのに、誰も原爆を描かない。広島出身の絵かきさんがたまたま兵隊で広島にいて少し描いたですね。この人はその日にいたんだからよく知っている。広島の焼け野原、瓦礫の山をたったひとりぐらいの人が歩いとるような絵なんだが、これでは原爆にはならない。原爆というのは建物やらなんかじゃないんだ。人間を描かなくちゃ原爆じゃないんだ。人間がどういう状態にあったかということを描かなくちゃ原爆にはならないんだ。写真もないし、私たちは絵かきだし、戦争中に戦争画を描かなかったんだから、戦後の敗戦の一番大きな問題をひとつ描かなきゃいけんのじゃないかというふうに思いだしたわけなんです。私が思いだしたのかこの人が思いだしたのか知らんが、思いだしたところが人間を描かなきゃいかんということだった。私は日本画で、風景画が主なんで、研究所へも学校へもいかんもんだから人体デッサンなんかろくにやってない。人間を描かなきゃ原爆にはならないのなら、なにも私ひとりで描く必要もないし、また描けもせんのだから、これと一緒に人間の勉強をはじめたんです。この人は鉛筆で朝から晩まで人間ばっかし描いとったような人なんで、人間を描くのならふたりで描いたほうがいい、俊に私のできんとこは受けもってもらう。それからなにもふたりで描くことはない。だれかうまい人がいれば、三人でも四人でも五人でもいいから、原爆を描き残しておかなければいけんのじゃないかと、描きはじめたわけなんです、落ちてから五年目に。描きはじめたら私たちのことだから、二、三ヵ月もすればひとつできるし、いま「幽霊」と名をつけているものなんだが、第一作の「幽霊」を描いてこれでおしまいだと思ったわけなんです。これでおしまいでなにも次を描くつもりはなかったんです。発表しようと思っていた上野美術館に持っていったところが、これは俊がいろんなものに書いておりますが、「原爆の図」という題をつけようと思ったら仲間の連中ーその頃私たちは日本共産党にいたもんだからそういう連中の団体ーが、この題はちょっと待ってくれというんだね。まだ占領下だったんで、展覧会を潰すから「原爆の図」というのはやめてくれという。潰されても、責任を負えといわれれば負ったんだけれども、頼むいうから仕方なしに「八月六日」というへんな題でごまかして展覧会やったわけです。やったらまあ非常に反響があるんだね。原爆っていうものはこんなのかちゅう反響があった。それで描け描けちゅうもんだから、また描こうと思えばいくらでも描けるから、三部作まで描いたわけなんです。三部作でおしまいだと思ったら、一ヵ所でいつまでもやっとってもかなわんというので次々と描きはじめて、もう十四部まであるわけなんです。話をすればきりがないがもうひとつやると、「原爆の図」の四点か五点を持ってフランスへいったわけなんです。三里塚の管制塔をぶちこわした年でもあったわけで、展覧会をやって夜は座談会をやるわけなんです。展覧会より座談会のほうが派手なんですね。フランスといってもフランスの地方都市をずっと回ったんです。これは私たちが好きで回ったわけじゃない。受け入れ態勢があって、私たちはついて歩いた。私はもうフランス語もなんもわからんから通訳が全部話してくれたりした。ところが水俣という話がずいぶんでてくる。水俣がどうなっているのか、水俣を聞かせいちゅうんだ、あのフランスで。水俣は日本の水俣じゃないんだ。水俣はフランスにもあるんだという。さて水俣へ私たちはいったことがないんだね。いったことがないし、だいたい見当のつかんことはないんだが、こりゃ不勉強だった。こんな原爆を描いて持ってきて、それだけじゃどうにも申し訳がたたん。ほいで日本に帰って、その年の暮れに、土本さんにいろいろスケジュールを組んでもらって、それからたまたま石牟礼さんは知っていたりしたので、石牟礼さんなんかにたいへんお世話になって、水俣病の人たちにずいぶんお目にかかったりいろんなことを聞いたり見せられたりして、それで「水俣の図」を描いたわけなんです。「水俣の図」を描いているときに、土本さんたちの水俣のいろんなフィルムがたくさんあるのを知っていたし、どっかで見たこともあったが、もういっぺん見せてくださいといって私の家で見せてもらった。そのときには半分くらい描いとったんだが、それを見てまた次を描こうと思ったときに、土本さんたちがこれを写したらおもしろいんじゃなかろうかと思われたんじゃないかと思うんですがね。それから「水俣の図」のこの映画というのははじまったわけなんです。そういう映画であります。
北川 土本さんは、丸木さんのそれまでの描かれた絵のことはもちろんご存じだったと思うんですけれども、この「水俣の図」を映画にしようと思った動機を話してください。
土本 そうですね、いろんなファクターがありましてね。ひとことではいえないんですけれども、どうやって絵を描かれるんだろうということがまずありますよね。水墨というのは消しゴムで消せるものではないと思ったし、筆のものはものすごい決定性があったり突発性があったりするだろうということがありました。それからおふたりがどんなふうにイメージをぶつけてやるんだろうというファクターがあったし、それからとりもなおさず半分できているのを見ましたら、やっぱり水俣であの子だ、この子だというのがほとんどぼくにはわかる。石牟礼さんの顔も描いてある。もう知っている人がいっぱい描いてあるし、それがこれからできていくというのであれば、撮ってみたいと。できあがった絵を撮った美術映画は世の中にいろいろあるわけなんですが、絵を制作の途中から撮れる機会は、これはまれなわけですね。ですから私は申し訳ないと思ったんですけれども許可をいただいて、その条件、が得られてから撮りはじめたということなんです。何回となしに「原爆の図」の原画を見せていただいていると、印刷されていたものを見ていたんではわからないうねりがわかるんですね。印刷だとぼくは出来事を絵から読みとってしまうんです。”水”というテーマから、水をもとめて入ってそこで倒れていく人とか、「助けて」と救いをもとめる人を焼くものすごい火とかですね。ところがこの三十年間に描かれた「原爆の図」をずうっと見ていくと、ひとつとして似たディテールがないといっていい。同じ作家が描かれたんですから、大づかみには丸木位里さん、俊さんの世界ということになるのでしょうけど、一つひとつ前のとちがう描法でやっておられる。
もう一方では、丸木美術館にいってご覧になるとわかるんですが、もうやたらめったら絵があるんです。やたらめったらというとまずいんですが、かたわらに道具があって手捻りがあって、さらにお面があったりする。なにもかも自分で作って自分のまわりを楽しくしておられる。ぼくなんか俊さんの部屋にはいって気がつかないうちに二、三枚絵をかっぱらってこようかなと思うくらい無雑作に、人体のデッサンなんか置いてあるんです。そういうのがぼくはまた非常に好きなんで・・・。それとぼくが驚いたのは、風景画を描かれるシーンを撮影するのにどのくらいの量のフィルムを用意して撮ったらいいのか、つまりどのくらいの時間で描きますかと聞いたら「ま、五分だな」という。五分というと水の流れの速さと同じくらいのスピードで造形されていく。実際は五分というより乾くのを待ちながら十五分ぐらいかかったのですが、まったくものすごい造形力で描かれる。大きい作品と、日常毎日作り出している作品の両方が出せればぼくはもっと幸せだったんですけど。
俊 私は映画に驚いてしまいましてね。青林舎の映画というのはやっぱり手作りの映画だと思うんですよ。それはこんな夜遅くまでなにを撮影してられるのかなと思ってこっそりいくでしょ。そうすると美術館に「水俣の図」を立て、それを写していらしたんですよね。そしたら、へんなものができててね。なんかこう拡大するもの、なんだか水車小屋の米つきの杵みたいなもので、こっちに石を乗せるとギューと上っていくのね。漬けもの石みたいな石を乗せると上って、その先にカメラがついていてね。それで絵が写っていくらしいんですね。おもしろいものを発明しているんだな!と思ってね。「あら、ダ・ヴインチね」ていったら、「絵を描かないダ・ヴインチですよ」っていうの。それであとで聞いたらそんな機械なんか大きな会社だったらあるんだって。だからそれ借りにいくとひと晩何万円もかかるから、しょうがないからこんなのこしらえてやってるっていうんです。ですからそれがおもしろかったですね。それでごはんを炊く人はごはんを炊いてね。自炊しながらやってくださったんですけれども、それにすごく感動したですね。これ、いまのテーマと違うかな、そうでもないのかな。私たちが描く絵はおかしな描き方で、床に紙を広げて描いているわけですね。下ばっかり見て描いているとそこに水と墨がたまって水たまりができる。それを私たちは上から見ていただけなんですよね。ところが映画ができて少しずつ見せてくださったんですけれども、その水と墨の水たまりにね、空が映っているんですよ。それでほんとうなら白黒なのに青く見える。なんだろうと思ったら空が映ってて木が映っててそれがキラキラキラキラと影を映しているんですよね。あらおもしろいんだなあって気がついたわけです。そういう目がもうひとつあるというのがおもしろかったですね。はじめは私たちはカメラのジャーという音が気になってしょうがなかったけど、こんな音ぐらいにたまげてどうするもんかと思って、知らん顔して描いたんです。だけど丸木のほうはもう嬉しそうな格好してバアバアバアと画面の上を走り回るんですよね。少し調子にのってんじゃないかつて思うぐらいだったんです。そういうわけでこの映画も共同制作だなと思ったんです。
そのうちに「覚悟できていますからどうぞ撮ってください」といったら、撮るのをやめるんですよ。「どうしておやめになったんですか」と聞くと「ちょっと事情がありましてね」。ちょっと事情がというのはなんだろうかと二、三日思っていたの。少しして写しましょうっていう。だんだんわかったんですけどね、フィルムがなくなってたんです。フィルムを買うお金がなかったんで、それでどこかで工面してきてそれでまた撮りましょう、となったらしい。それにまた私が感心しましてね。これはステキだなと思ったの。ウソかな、私の誇張かな、いやほんとらしいですよ、それは。それで私はこうでなくてはダメだと思ったんです。
いままで私、絵を持っていろんな国へいきましたでしょ。インドへいくときれいなのね。アフリカにいくとまたきれーいなんですよ。貧しいところが一番美しいんですね。いったいこれはなんでいう感覚だろうと思ってね。人が貧しくて困っているのを見て美しいなんてね。インドの人が裸足で歩いているのを美しいなんて、私がどうかしているんじゃないかしらって。「原爆の図」をずっと描いてきてやられた人たちの焼けて、むけて、裸になって幽霊みたいになって歩いているのを描いているし、死んだ人を描いているでしょ。それから南京大虐殺を描かなきゃいけないって描き、一方で、アウシュビッツを描いたのね。いったいこういうふうに誰がしたんだ、どうしてこうなったんだということは描けてないわけですよね。だから被害者ばかり描いてきたけど、加害者を描かなければいけないっていうんで、写真集めたりしてヒットラー描こうと思ってね。あの目玉とはげた頭を見ていたらいやになってやめたんですよ。天皇とヒットラーとムッソリーニがひとつのへンな馬に乗っている絵を描いたの。日独伊が組んで三国防共協定をつくって、共産主義の国をやっつけろというのではじまった戦争が第二次世界大戦だったわけですね。で、アジアでは南京大虐殺というのを日本兵にやらせた。ヨーロッパではヒットラーがユダヤ人を狩り集めてきてアウシユビッツに閉じ込めて毒ガスで殺せ、でしょう。その原因は日独伊の権力を握った連中の結合体であったわけですね。ですからこれを描けば加害者が描けると思った。それでへンな馬に乗って人民の血をふんできたので血の足跡がついていく。またしても人民を犠牲にしたっていうのを描いたのよね。ようし描いた、描いてやったぞと思ったの。だけど見てるとイヤーになっちゃうのね。なんでいやになるんだろう、せっかく描いたのにどうしようかしらと、毎日眺めてたら、丸木がいいこと考えたぞっていうの。わしにやらせろっていって、その上にギーと格子を描いちゃつたの。「牢屋にいれたの」っていったらね、「いれたんかひとりではいったのかな」っていうの。それで少しホッとしたんです。それでも加害者を描くのはつらいなあイヤだなあと思うのね。スペインでゴヤの「虐殺」を見たの。それはナポレオンの軍隊が攻め込んできてスペイン人を虐殺している絵です。兵隊が鉄砲を構えているんですね。発射されるとやられる側は手をあげたり倒れたりしているんです。やられるのが靴屋のおやじさんだったり位の低い坊さんだったりするのよね。そのときの殺される瞬間の「ああ」っていう顔を見ていると、その靴屋が赤ん坊のときから、だんだん大きくなって靴屋になって、そしていまナポレオンの軍隊に殺されるーその一生涯がパァーってそこに出てくるわけね。その顔の美しいことね。そうして鉄砲撃ってるほうは顔がないの。全部うしろ姿なの。やっぱりゴヤも加害者は描けないのかなあと思った。朝鮮戦争のときのピカソもえらいのね。朝鮮戦争が起きてすぐ「朝鮮の虐殺」という絵を描いた。それは朝鮮の女の人がチマチョゴリを着て、赤ちゃん抱いておびえている。でも撃つほうはやっぱり顔がないんです。機関銃から足と手がはえてるの。やっぱりピカソも加害者の顔は描けなかったんかなぁと思うんですね。私たちも加害者がイヤでイヤでね。加害者なんてイヤね。それで描けないんかなあって思うの。どうしてだろうって友だちに聞いたら、「そんなものサマにならねえんだよ」、それでハハーわかったと思ったんですね。あれ、何を話そうとしていたのかしら・・・。
位里 話せるだけ話しちゃいなよ。
山田 いまの俊さんの話はたいへん含蓄の深い話だったと思うんですね。加害者の顔が描けない、そしてやっぱり貧しい人、虐げられている人がなぜ美しく見えるのか、ということ・・・。
全然違う話なんですけれども、大和の宮大工に西岡常一さんという方がおられます。つい先日薬師寺の三重の塔を再建した方で、位里さんと同じ八十歳で、日本最後の宮大工ではないかといわれている人なんです。あれはむろん檜で再建する。その檜が日本になくなってきているわけですよ。木曽で農林水産省、がつくっている檜林があって、そこから手にいれる以外に、ああいう大きな建物を建てる檜というのは手にはいらないんですね。それで西岡さんたちは台湾までいって檜を見て回って、選んで輸出してもらうことにしたのです。檜にかぎらず木というのはみんなそうなんですけれども、斜面に生えてくるわけですね。斜面から芽が生えてきたときは当然地面に対して直角に出てくるわけですから、斜めにはじめは出るわけです。木というのは、その後太陽のあるほうに向かってまっすぐに伸びますから、はじめ斜めだったのが垂直に成長していく。斜面に生えている木は櫟だろうが檜だろうが全部根もとのところで曲がっているわけです。西岡さんの話をうかがったときに、そのことがでまして、千年たった檜というのはふた抱えほどもあるもんですから、曲がっている部分もけつこう長い材木なんです。それも持って帰りたいと思ったというんです。だけどこの部分は持って帰っても使えないんだそうですね。つまり乾いてくると木材というのはヒビ割れしてくるんですけれども、まっすぐな部分はヒビ割れるときにも一列にスーとヒビがはいるのだそうですが、この曲がった部分は乾燥してはじけだすと、全部が全部てんでんばらばらに裂けるらしいのです。それで建築に絶対使ってはいけない。そういう部分なんだそうです。大工さんたちはその曲がっている部分を、「あて」と呼ぶんですね。西岡さんがいうには「あてになる人あてにならない人というあては、私はこの『あて』じゃないかと思う」っていうんです。ほんとうはちょっと違うと思うんですけれども、西岡さんがいわんとしていることは非常によくわかるんですね。この曲がりくねった、ヤクザでどうしょうもない、乾いたらあっちこっちヒビ割れて使いようもないこの「あて」の部分があるから、千年の槍が支えられるわけですね。西岡さんの話だと、千年たった檜というのはきり倒してから処置さえ正しければ千年もつっていうんですよ。さらに千年のいのちが伸びるという。それを支えているのがこのあてです。つまり世の中を眺めるときに、どこからどう見るかということがあると思うんですね。すくすくと伸びたまっすぐの部分は、法隆寺なんかに使われている。まっすぐなこの部分で世界を見るか、それともひん曲がっているけれどもこのあてのほう、一番最底辺のところでその檜を支えているところから世界を見るかということですね。私はどちらで見るかでずいぶん違ってくると思うんですよ。私はてっぺんのほうにいるというのをあんまりいいことだと思わないんです。この頃の日本は進歩の最先端にいないと世界が眺められないのではないかと思うのです。これはわれわれが近代の中で植えつけられたひとつの迷信だと思うんですけれども・・・。コンピューター装置を使ってアメリカの軍隊がベトナムへはいりこむ。ベトナム人は裸足で歩いている。そういう遅れているベトナムの人間の目になって世界を底のほうから見たときにいったいどうなるか。こっちのほうがはるかに世界というものはよく見えたと思うんです。だから、アメリカとベトナムの戦争は、先端にいて盲目な目と、遅れているけれども底辺から世界の重みを一身に支えている、そこから眺める目と、そういう目と目との闘いだったろうという気がするんです。加害者は描けないということを逆にいえば、画家というのはやはり目で見て描いているわけですから、画家がいったいどこに目をおいて考えるか、ということだと思うのです。
組織だとか権力だとかのてっぺんにいる加害者の目で見るということはできないわけです。俊さんの話を聞いて、たいへんおもしろいと思ったのです。
ところで、絵を描いていくうえで喧嘩なさったことがありますか。
位里 そうですね、描き方が違いますからね。できた絵をぐあいが悪いと思ったこともずいぶんあるんですよ。あるんだが、さて私がやったらどうなるんかなと思うから、このくらいでいいかなとも思う。絵の目はもってますからね。わかることはわかるんですよ。ここのところは困るんだがと思うことはありますわね、絵のうえで。それで喧嘩といえばそういう絵のうえでの喧嘩なんだが。私は勝手気儘な男だから、この人も勝手気儘にやっていけばいいと思うが、この人はガッチリ屋で、そう勝手なことはできん人なんで、私が勝手なことをするからなかなかうまくいかないんです。それはもうどこにもある話なんで、喧嘩というのはそういうことがあるだけで、どこにもあるような喧嘩ですわね(笑)。
俊 でもね、それで私が怒るでしょ。怒ってるけど、口で怒ってもしょうがないから、怒っているのを絵のうえに描いているわけ。かたちになってはでてこないですよ。だから叩いてるの、画面をクチックチッチ、チッチッて。ほんとに朝から晩まで叩いていることもあるのね。
北川 よっぽど悪いことしたんでしょ。
俊 悪いことというか、勝手なことしているから悪いのよね。
位里 してるわけじゃないけど・・・。
俊 ハハハ。そうするとね、なんかでてくるの、そこから、フワーと目に見えないなんかがフワーと。でそれは、なんというか、「原爆の図」の幽霊なんか描くときにね、私がほんとうに幽霊と一緒みたいになって重なってでてくるの。怨念ですよね。原爆を落としたのに怒っているのと一緒になっちゃって、すごい怒りででてくるんですよね。それで私はよかったなあと思うの。そういうふうに私が腹をたてたということがね。私に腹をたてさせたことも、そうするといいことかもしれない。もうおばあさんになったり、おじいさんになってきたからね。そういうようなちょっと客観性もでてきているわけ。
土本 ぼくの同窓生に絵かきがいましてね、おふたりを撮っている間に、いろいろと手紙で自分の説を書いてくるんですよ。もう終った人じゃないかとか、政治的テーマで有名になったというだけじゃないかとかね。ひどく失礼なことを書いてくるんです。ぼくはまた喧嘩して返事を送り返すわけですが、ぼくは原爆というものを描いて勇敢に自分の絵を持って歩かれる。かついで見せて闘ってという非常にユニークな一生の軌跡をたどってこられたということですね。さっき天皇の絵を描かれたとおっしゃいましたけど、丸木美術館にはいろいろな婦人会の人がきたり、学校の先生が子どもに見せにきたりするんですね。天皇のその姿の絵が、もし飾ってあったらこなくなるだろうということまで覚悟されて、しかしこれは描きたかったから描く。そういった軌跡というのを見てもういっぺんあらためて口からお聞きしたい感じがしますけれども。
位里 はじめからいろんなことをいわれているし、私は気にしていないんですよ。政治的で、テーマばっかりを追っているというふうにいわれてきたが、しかしそういうことを気にしていては仕事はできないです。今回そういうことを気にして絵を描いているようじゃあ絵が描けないと、こう思っているんです。それでいていってくれたほうがいいわけなんです。絵かきは怒ることによって、いろんなことを考える。そのことでいろいろな仕事ができてくる、というふうに考えとるんです。ほめるばっかりじゃーほめられるほどのこともしていないがーものは進んでこない。文句をいわれて自分たちもまたそれには耳を傾けてまた仕事を進めていけばいいと思っとるんです。
私は今度、中国の美術協会がきてくれというので一ヵ月いってくるわけです。これがおもしろい。中国美術協会といえば政府のひとつの機関だが、そいうところから、私たちが何を持ってくるかと非常に心配しとるわけなんです。心配する中で「南京大虐殺」だけは持ってきてくれるなという手紙がきた。持っていくつもりもなにもないわけだが「南京大虐殺」を持ってきちゃ困るという。おもしろいでしょ、ハハハ。それで、なんにも持っていきませんからご心配なく、とこちらは手紙を書いた。
山田 きょうの映画を見ていて、丸木さんたちが水俣へいかれて、清子さんとしのぶさんのふたりの娘さんに会った。それを色紙に描かれた。これはずうっと写ってるわけですね。さっき「あて」の部分の目ということを申し上げたんだが、丸木さんたちのお考えでいうと、いつも殺されるもの、いつも押し潰されるものの生身の人としておふたりの娘さんたちがでてこられた。見ていると、色紙に描いたなと思っている間に、水俣の今度の絵が、石牟礼さんの表題でいえば「苦海」だけになっちゃった。苦海の中にはりついて、水俣病でこう少し指が曲がったり顔がゆがんだりしているんだが、そこをとおして俊さんなら俊さんが眺めてたら非常に美しい顔がでてきた。つまり「苦海」ともうひとつ「浄土」のほうがあるのではないかというふうなことを考えさせられる。この映画がわれわれに訴えてきたひとつの要素としていえば、画家の制作過程、表現者の制作過程というものだけを描いたのではなくて、画家のそういう表現行為をもつき動かしていくような、そういう存在があるということを考えさせられる。これはほんとうにいつも被害を負わされ、いつも殺される存在があるということだったろうと思うのです。いってみれば水俣というのは一種異常な現象、そんなに普遍的ではなくて、水俣というところで特殊に起こった現象で、そういう娘さんふたりとあるいはもっとたくさん患者の方たちがおられるわけですけれども、そういう人たちは異常なところにいる。われわれは別の正常なところというか日常的のところにいる。両方の間に切れ目があるというふうに見るとまちがうと思うんですよ。同じだと思うんです。たまたま向こうは顕在化してしまったし、われわれのほうはまだ潜んでいるだけの違いであって、異常と正常というふうなものの間に切れ目をつけて考えるようになると、われわれは生き方をどこかでまちがうだろうという気がするんです。原爆の被害とか、それから南京での三光作戦の被害とか、アウシュビッツの被害とか、そういう異常なことばかり描いていく、それは政治的なテーマで異常なことであり、絵という表現行為はもっと別の、ちゃんとしたジャンルがあるはずだ、という見方は、同じように切れ目をいれて考える考え方なんだろうと思うんですよ。それは政治的なテーマの拒否であると同時に、異常は異常としてどこかに閉じこめておけ、われわれの正常な世界はそういうものから切り離された別のものだーこれは体制側の思想です。そこへ切れ目をいれないでものごとを見たり考えたり表現したりするということは、生き方そのものですから、そういう生き方をわれわれとしてはしたいなあという気がします。
またカントという哲学者の話をだしてどうもペダンティックで恐縮なんですけども、カントも非常にいいことをいってましてね。人間つてのは曲がった木でできてる。曲がった木で、まっすぐではないのですね。私なんかはかなり自分はひねくれた人間だと思ってます。先ほどからおふたりの話を聞いて、はやく曲がってないのになりたいなっていう気さえもったんです。曲がりくねった木でできているとカントがいっているからいうのではないんですけれども、もともと正常じゃないですね。曲がった木でできているというのはまっすぐじゃない、正常じゃないということですから、正常と異常というふうな中に切れ目をいれるような生き方はやっばりしたくない。学生に「時間」について書かせると、みんな過去から現在へきて現在から未来へと流れると考えているんですよ。そうなんでしょうかね。過去にこういう失敗をしたから二度とまちがいを犯してはいかんぞという、権力者がよくわれわれに押しつけてくる道徳的、イデオロギー的教訓というものはみんなそうなっていると思うんです。過去にこういうまちがいがあった。そのまちがいを犯すなという。丸木さんたちが水俣へでかけて清子ちゃんに会った、しのぶちゃんに会った。これはやっぱり未来のほうから時間が飛びこんできたわけでしょう。人間の出会いはみんなそうなのではないでしょうか。過去に何か因縁があるー仏教的にはそうなのかもしらんけれども、時間というのはやはり未来のほうから飛びこんでくる。うかうかしているとアッという間にそいつは過去の中に消えていってしまう。そういう時間でもあるわけですね。だから修身的、道徳的、あるいはイデオロギー的に過去からずっと未来へいくんだなどというふうなことを、あまり信用しないほうが私は健全だと思う。未来から飛びこんできた時間をわれわれが受けとめて過去へ消失するのを防いで、この現在へどうやってあらわしたらいいんだろうかということですわね。きょう私は丸木さんたちにも、土本さんにも、北川さんにも初めて会ったのですけれども、人間というのは大半はそうじゃないでしょうか。未来から飛びこんでくるというのはやはり異常なんですよ。異常なものが飛びこんでくる。過去からいわく因縁があってくるヤツは、正常にホワホワ説明がつく。かくかくの理由できたんだと。だけどそうではなくて、未来から飛びこんでくるのは全部異常なものなんですよ。その異常なものとの出合いを、てっぺんから見るんではなくて一番の根元のほうから眺めていく。そういう生き方のほうがほんとうなのではないかという気がするんです。だからそういう意味で丸木さんたちの生き方に、非常に学ぶにたるものがある。それを映画化なさったというのは非常に意味のあったことだと思いますね。
北川 どうも。会場の方で何か質問したいという方がいたらどうぞ。
質問 映画では次の絵を描きはじめるんですが、あの絵は完成なさっているわけですか。
土本 丸木美術館にあります。
質問 そうですか。で、結局どういう題になったんですか。
俊 ほんとうは、水俣の苦海ばかりでなくて浄土を描こうと思っていたの。でもしのぶちゃん清子ちゃん、赤ちゃん抱いて浄土になるかなあって思ったわけですね。それは石牟礼さん、土本さんが「水俣は蘇りたいんです」とか、「水俣は蘇ろうとしているんです」ってよくおっしゃるのね。蘇ろうとすることが浄土だって。水俣がほんとうに蘇えるかな、浄土がくるんかなというようなことを考える中で原発とか三里塚がでてきたもんで、それで原発を描いちゃつたの。煙突の大きいの描いてね。それで煙突の煙の中に広島の幽霊がボワーとでてきたの。それから三里塚の仲良しだった戸村一作さんがでてきたりね。それから東山薫さんの位牌がずうっとでたりしてね。みんな同じだと思うわけね。それで「水俣・原発・三里塚」という絵になっちゃったの。