私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム4ー音楽と詩の生まれるとき 武満徹+石牟礼道子+土本典昭 対談 <1981年(昭56)>
 私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム4ー音楽と詩の生まれるとき 武満徹+石牟礼道子+土本典昭 対談

北川 きょうのテーマは「わが映画論」ということですが、この映画のもつ独特の構造ー水俣と水俣病にまつわる時間と空間がある、丸木夫妻の絵がある、土本さんがその絵を材料にして映画を撮る、武満さんと石牟礼さんがそれだけの情報から独自に音楽と詩を書かれ、それが映画に加わるーそういう構造についての話を聞かせていただけたらと思います。それでは、まず石牟礼さんに、映画を見おわったところでの気持をうかがっていくところからはじめたいと思います。

石牟礼 その・・・水俣を書いている・・・水俣やってなくても、やっていればなおさらですけれども、私は、生きているというのは見苦しいなあ、というふうにいつも思っていて、じゃあ見苦しくなく生きていければいいんですけれど、どうもそのように心がけても見苦しくしか生きていけない。そういう質の人間だものですから・・・。
 世間様は映画を作っている青林舎とお思いでしょうけど、世間に知られていないところで、水俣のことを世の中に出すについて、圧倒的に陰の力といいますか、お金を集めたり、ご自分たちの所帯もものすごくお苦しいのに、運動を支えるためのお金を一生懸命つくってくださったり、とくにこの土本さんなんか、運転手を引き受けて、患者さんをあっちに運んだりこっちに運んだり、それから不知火海の調査団を、ただ黙って天草とか不知火海周辺とかへ連れて回ってくださっている。陰の力に徹するということがもう長い間つづいてまして、その青林舎にたいへんな借金ができているものですから、それで今度の映画で借金を返したいと皆さん思っているらしいんですよね。ええ、(笑)・・・それで、返せるのかなあ(笑)。それでお役にたてばと思って、映画にも出ちゃって・・・。この企画、なんだか立派な方々がたくさんいらっしゃる。私のようにものをあんまりいえない人間が出てきて、それから水俣やってるっていうんで水俣の現地では過激派と思われていて、東京へくればどうなのかは知りませんけ、れど、こんなあんまりまともでないような人間が出できたら、お客さまを追っ払うんじゃないかと思ってまして・・・、それが今の本音というか、実感・・・。

北川 それはどうも(笑)。あとでいろいろうかがうことにしまして、武満さんから映画に関わることで、まずお話しいただけたらと思いますが。

武満 ぼくの場合は、単純な理由だったと思うんですけれども。それはこの映画の監督をなされた土本さんと昔から親しかったということです。ぼくが羽仁進の映画「不良少年」をやったときに、土本さんは助監督だったのです。そのときに非常にいい助監督さんで、ぼくは羽仁さんと大喧嘩をしてやめようと思ったときに、土本さんは人格円満な方で、引き止めてくださった。それで最後まで映画の音楽をやりとげることができて、それ以来土本さんの作られた映画を拝見していますけれども、映画作家としてもたいへん人間的にも尊敬している方であります。土本さんからぼくのところへ、今度こういう映画を撮るんだけれどもひとつ音楽をやってくださいという話を電話でいただいたときに、ぼくはちょっとびっくりしました。ぼくは社会的な運動とか政治的な行動とかをあまりやったことがなくて、もちろん水俣についてはひとりの人間として関心はあります。水俣に非常に端的にあらわれていると思うけれども、人間の思い上がりというものがだんだんひどい形でわれわれのまわりにでてきて、そういうときにひとりの音楽家として、ぼくなりにそれに対して、自分の音楽表現を通して抗議したいという気持が心底にあるわけです。土本さんからお話をいただいたときに最も共感したことは、(石牟礼さんが話されたことだそうですが)いままでは水俣のいろいろな悲惨な状況とかがいわれてきたけれども、人間もひとつの生態系の中の一生物としてあるにもかかわらず、人間が水俣の海、不知火の海を壊していってしまう。人間の思い上がりがそういうものを壊して、どうしようもないことになっているが、その大きな海、自然というものは、もしかしたらある蘇り、自然の力で蘇るかもしれない。人間は小さくても、生態系の中の一生物として人間が少しでも謙虚にその蘇りに力を貸すことができたならば、ぼくたちにとって非常に嬉しいことだし、それはどんなことをしてでもしなければいけないことだし、たぶん、時間はかかるでしょうけれど、・・・それで、明るい水俣を描きたい、と土本さんはいわれた。そのときぼくは音楽家としてたいへん嬉しかったわけです。というのは音楽というのは、これはぼく個人の考えで、ほかの音楽家の方がそう考えているかどうかはわかりませんが、ぼくはいろいろな社会的な事件とか人間が犯してしまった過ちがもたらしている、いろいろな悲惨な状況とかが、自分の内的なインパクトとして自分の音楽表現に向かわせる力になるということは確かにあるのですが、音楽の場合は、丸木さんが「原爆の図」や「南京大虐殺」やこの度の「水俣」を描いたようにはいかない。音楽というのは絵画表現とはかなり違うわけですね。つまり音というある抽象的な媒体をとおしてしか表現できないわけです。しかもぼくの場合は、ある自分の内的な力になるいろいろな事件、たとえば昔でいえば、朝鮮戦争が起こったとかベトナムの問題とかでも、それを一回自分の内部でひとつの音楽的なプランに置き換えてからでないと表現できないわけです。ただそのときに書かれたいろいろな詩とかいろいろな文学的な言葉による表現とかをテキストとして音楽を書くだけでは、ぼくにとってはその音楽表現というのは必ずしも十全ではないわけです。それをどういうぐあいに自分の中である力に置き換えていくかというと、軽々しくは用いたくない言葉ですけれども、それはある「希望」に置き換えないかぎりは、ぼくの場合は音楽表現はできない。ぼくはある特定の宗教をもっているわけではありませんが、音楽というのは祈りのかたちに集約できるものではないかとつねづね考えています。ぼくは、いつの日か水俣の海が蘇るということを、ぼくの中にある力として、希望としてもって音楽を書いたわけです。今度の映画をご覧になって、たくさんのアンケートを寄せられた方の中に音楽に対しての批判がかなりたくさんありました。音楽についてほめてくださっている方もありますけれども、反対の意見というのをぼくはかなり目にしました。石牟礼さんの詩の朗読についてはどなたもひとつも悪口を書いている人はいないわけで、ぼくの音楽は良くない、暗すぎるとか、ちょっと重すぎるとかいう意見がでてくる。ぼくはそうではなくて、ちょっと明るすぎたんじゃないかと思っているのですけれども。人によって感じかたが違う。そのへんに、ぼくは音楽から離れられない、音楽の魅力というものを感じているわけです。
 ともかくも、今度はきわめて特殊なかたちでした。いままでの映画音楽のつけ方、つまりぼくがやってきた音楽は主として劇映画の音楽で、ある物語がすでにあって、それをとおして演出家、映画監督が強調したいテーマをどれだけ効果的に強調するかという役割として、音楽をやってきたわけだけれども、今度の音楽の場合はちょっと違って、ぼく個人がひとりの音楽家として水俣に寄せたひとつの表現だったわけです。いままで一般的にいわれている映画音楽というものとは違うので、別にある種の効果をあげるために音楽があったのではないんです。

北川 この映画の特色として、いま武満さんが話されたように、音楽と詩の独特の関わり方があるわけですが、土本さんのほうからその経緯を含めて話してください。

土本 おふた方にしゃべってもらいたいんで、非常に端折って話させていただきます。結局何を映画で撮るかということを考えるときに、ぼくはいつも、ひとりの人をみつめればそのまわりの事件が全部わかるというふうに組み換えているところがあります。絵も音楽もほんとうにはよくわからない。石牟礼さんが良き読み手であるかどうかもよくわからないんですが、この人ならまちがいないというところで腹を決めていくやり方なのです。今度の絵を見ましたときに絵だけでひとつの映画になると思った。私は絵は黙って見ているより、描いた人からうんと聞いて、どういう意図でこうなっていくのかというのをうんと知りたいと思うのです。ぼくの見方がまちがっているのか、それならそれを正したいというようなことがありまして、描く過程も、描いている心の動きも、描いたあと思っていることも聞きたいーということが動機としてありました。
 もうひとつ、別の角度で私は水俣で撮りたいものが、まだ心の中で未成熟ながらあります。お手伝いと石牟礼さんはさかんにおっしゃってくださいますけれど、ぼくはぼくのプログラムにしたがって、自分自身が見たいという好奇心によって動いているんです。その点では私は自分の次の映画のための懐胎行動をしているというふうにしか思っていません。そういう中で関わっている水俣についてなぜかくも多くの表現者がーこの映画以前にもユージン・スミスさんがこの事件の中で頭を打撲したことが因で亡くなったし、そのほかに三人の写真家が非常に長い時間の創作活動をそれぞれなさっている。それから砂田明という演劇行動をやっておられる人は、十年間、ほんとうに百姓生活と支援をやりつづけて、いま劇「苦海浄土」をやっておられる。水俣病のミの字も知らない若い人たちに助けられて動いていると、そこでまた新しい表現がでている。そうすると表現がでるには、水俣病は二十五年ですけれど、二十五年ぐらいかかるのかなあという感じがあります。そしてまだ水俣病はちょっとも終っていませんけれども、いま仮に表現者たちの世界を通じて水俣というものを思い込んでみたらどうなるのだろうと考えたのです。これはやはり絶対に音楽をいただきたい。それは武満さんだと、もう決めているわけですね。それはさっきの「不良少年」の頃に、音楽は音楽で、映画は映画で独立して走ってみて、哲学や世界観が同じならどこかで会うだろう、その会い方は予定をしないだけに非常に複雑なぶつかり方をするのではないかと話したことが、ぼくの中に二十年間生きていまして、お願いしたわけです。それから石牟礼さんには、ぼくはおどおどしながらいるわけなんですが、われわれを水俣に招いてやまない存在だったということと同時に、党派もなくなんの組織もない中で、石牟礼さんが書きつづけてこられた本を読むと、ぼくは現身というか生身を非常に感じるのです。いつも水俣にいきますと、冗談に魂入れの儀式というんですけれど、石牟礼さんのところへいって水俣の近くで獲れた貝とか海草とか、あのへんの怪しげな毒をもっているかもしれない魚を山ほど食わせてもらって、白酒を飲むのです。そうすると水俣に一生つきあっていこうかという気持になるので、魂入れの儀式といっているのですが、やはりそれができる人は水俣では石牟礼さんしかいない。その人の顔を見たいだろうと思ったので、申し訳ないんですけれども出ていただいたのです。ぼくは、本を書いた人の思想を、その質感をとおして映画にだしたいという考えがあるのです。それから詩を読むのはその詩を書いた人が一番いいという思いがどこかにありまして、とにかく頼み込んでしまったのです。
 で、その私が非常に感動いたしましたのは、音楽が音楽としてできてきます。そのちょうど録音のときに石牟礼さんがおられたわけですが、石牟礼さんが深々とうなずきながら音楽を聴きとっていかれた。おそらく音楽が生まれる瞬間に立ち合うというのは、初めての体験だろうと思うのです。その音楽も映画とはまったく独自に作っていただきましたから、それは絵のディテールシーンにいれようと思っていました。合うのかなあという不安が内心ありましたが・・・。石牟礼さんに詩をお頼みしたときも、長さは六、七分が見当ですということを申し上げただけで、どの部分にいれるかは話ししていないのです。また、ナレーション代りの効果としてお願いしたわけではないのです。自分のイメージを言葉としてだしていただきたいとお願いした。
 録音する日に音楽と詩がそろって、絵とあわせてみました。ふつうですと演出家は、詩などはあらかじめ聞いていて編集したりするのですけれど、今回はそういうやり方ではない。うまくいかなければそれでしょうがない。でもうまくいくはずだ、絶対いくだろうという確信がありました。やっていきますと、不思議に三つの要素全部がよじれていくような気が私にはしたのです。ひとつのものごとに対する表現が違っていても、根底にあるものは、丸木御夫妻の絵、それを撮った瀬川順一さんのキヤメラ、それから言葉としての表現は石牟礼さん、音楽は武満さんー映画の中のこういった主要なフアクターが混然として、水俣へのひとつの思いをだせたのではないか、といまは思っているわけです。
 この中で、患者さんの娘さんを含めて、人間の行為の輝きとか美しさというものがもしフィルムにでたら、たいへんにありがたい、そういう気持でやりました。

北川 いまの三人の方のお話で経緯はおわかりだと思います。武満さんは、いま雑誌「世界」に映画のことを毎月書いておられて、最近号で、死人が活動しているものとしての映画ということをいわれていると思いましたが・・。

武満 いや、それはぼくがいっているのではなくて、ジャン・コクトーの「映画というのは活動中の死を捉えることである」という有名な言葉があるのです。たまたまそれを引用しているにすぎないだけで、あれはまったくだめですよ(笑)。

北川 だめですか(笑)。

武満 あれは読まないでください、やめようかと思っているんですから(笑)。
 石牟礼さんは映画をまだ生涯に十本ぐらいしかご覧になってないといわれるので、そういう純粋な方と比べると、ぼくはだいたい年間平均三百本として、四十年ぐらいは見ていますから、一万二千本は見ている勘定です。一万二千本と十本・・・。やはりぼくはかなり汚れてるという感じが(笑)しなくもないし、それにぼくの映画に対しての意見はほとんど劇映画についてのことで、自分自身も映画の音楽を作ってきた。最近は自分が見たほうがおもしろいので、映画の音楽はやらないつもりで、なるたけお断りするようにしています。映画はほかの芸術とは違って、時代というのか、その瞬間、現在というものが比較的に正直にあらわれるものですね。音楽なんかだとちょっとわからないでしょう。ぼくの音楽はたまたまいま「水俣の図・物語」についているので、土本さんが監督された映画の音楽だという説明があれば、ああ、それは何年頃の音楽だということがわかるけれども・・・。映画はかなり古いものを原作、たとえばシェークスピアを原作にしたものでも、ポランスキーが撮ったり、オーソン・ウェルズが撮ったりすると、そのときの時代がかなり具体的にあらわれてくるというところがありますね。
 ぼくは小学校にあがる頃から映画を見ているから、そんな難しいことで見ていたわけではない。ぼくはどうも暗がりの中へ逃げ込んでいくことが好きで、他人の家へ預けられたりしていたもんだから、暇があると人のいないところにはいろうという性質があった。たまたま小学生のときの友だちに映画館を経営しているお父さんがいて、友だちの家へいくと、映画館の中にはいって映画を見て遊んでいた。そうやって暗がりの中にいついてくると、いろいろな作家の作品を知らない間に見てきていた。いまの映画評論家にはそういう人が多いでしょう。好きでしょうがなくて見ているうちに、ほかのことは何も能がないから専門家になって評論家になった、という人が多いわけですよ。それと、ちょっと記憶力がいいという程度で・・・。だから映画の評論というのを読んでると・・・こんなこと話したってしょうがないんじゃないの(笑)、こんな大事な場所で(笑)。

北川 ええ、まあ・・・。

武満 映画の評論を見ていると、半分以上は監督の略歴とか筋書きとかが書いてあるだけで、あまりよくないと思うのですね。蓮実重彦さんはかなり独断的に自分の意見を書いていて、その好き嫌いはともかくとして、いま現在書いているという気がして、ぼくはとってもいいと思うのです。でも半分はわかりませんけれど・・・。それから淀川長治さんもいいと思うのですね。あの人は映画が好きで、自分がいいと思った映画をいいという。でもあとはだいたい、こんなこといったら撲られるのじゃないかと思うのだけれど(笑)、日本の映画の批評家や映画の関係者が好きなのは、政治と映画を一緒にする、あらゆる障害をとり払って政治と映画表現を結びつけたがるのね。ぼくのような純粋な映画ファンというのは、そういうのにとても耐えられないときがあるんですね。日活ロマンポルノを見ながら、映画監督は何かを感じているとしても、あの中にそれほど政治的な、社会的な意図というのがあるわけではないと思うのです。映画監督たちも資本家もみんな「映画は大衆のものだ」とすぐいうわけね。ぼくが音楽をあるメジャーの映画会社に頼まれてやろうとすると「武満君、キミ、大衆にもわかるようなもの書いてくれよね」と必ずいわれるわけですよね。そういわれるとぼくは、いつもちょっと不思議な気がするのね。映画を作る製作プロデューサーも映画監督も、大衆のために、大衆に向けて表現をしているのかどうか。ぼくはやはり音楽作曲家ですから、漠然とした大衆というか聴衆というのは考えられないんですよね。ぼくは音楽を作曲する、だがある意味では足萎えの身なのです。ぼくが若ければ矢野顕子のようにシンガーソング・ライターになったら一番いいわけだけれども、不幸にしてそれができなくて、いささか不遜なんだけれども音楽を書いて、それを人に演奏してもらって、人に聴いてもらうことをやっている。ぼくは、音楽はやっぱり何人かの人が演奏して、それで誰かが聴くーこの形式はシンセサイザーなんかがでてきても、そういう再現のかたちはそんなに簡単にはなくならないと思うんですね。シンセサイザーやコンピューターがいくら人間の言葉をしゃべるようになったとしても、人間が自分の肉体で表現したりしゃべったり考えたり、それから歌ったりすることは、なくならないだろうと思うのです。それはぼくが音楽をやっていくときにはたいへん大事なことで、音楽はある意味では、それほど高級なものではないけれども、そのときぼくにとっては演奏してくれる人というのは、まず最初の具体的な聴衆なわけですね。第一次聴衆というか。まず最初には表現者であるぼくが、第一次、最初の聴き手だ。自分は何かをあらわしてそれを聴いてもらうというだけじゃなくて、まず自分が最初の聴き手にならなければならないだろうと思う。そしてそれを誰かと分かち合う。自分が何かをあらわすということは、世の中、ある状況の中で自分という存在を確認することでもあるのだけれども、それと同時に日々起こってくるいろいろな出来事に対して自分はどう考えているだろうかということを、ぼくの場合は音楽的にあらわし、それをお互い確め合う人が欲しい。ぼくにとってそれはまず最初に演奏者たちだという具体的なことがある。それから、その音楽がいつどこで演奏されるか、どこの場所で、夜なのか朝なのかということが、ぼくにとっては表現をしていくうえでとても大事なわけです。いままでぼくたちが音楽をやってきてーぼくの場合はいわゆるクラシックという一番人気のない音楽なんだけれども、それでも一番のさばっている。ベートーヴェンなんかがやってきた西洋の近代音楽の延長上にぼくらの音楽はあるわけなんだけれども、作曲家は具体的な聴衆とか手ざわりのある聴衆とか、音楽が演奏される場所だとか日付とかを考えないで、ある抽象的なものとして音楽とか表現とかが可能であったときがあると思うんですね。たとえば交響曲第一番というのがある。それは書けば楽譜というきわめて便利な合理的な記号があって、オーケストラがあればそれでほぼ作曲家が望んだようなかたちで再現される。ところが、ぼくなどはそういう音楽ではちょっと困る、そうではなくてもっと具体的な・・・・さつきからいっている聴衆、演奏家たちと一緒に音楽を作り出していくということです。よくベートーヴェンの音楽は非常に偉大な建築である、といわれるが、ぼくはやはりそういう偉大な音楽的な建築物、構築物を作ることよりも、その中にどういう人が住むかとか、その中で一緒に何をやっていくか、どんなことを営んでいくかということのほうが大事で、そのほうをぼくは表現だと考えているわけです。ですからぼくはよく人から、あなたはクラシックの音楽を書き、現代音楽を作曲していて、それでこういう映画の音楽を書き、それからテレビのドラマの音楽もたまに書いたりしていて矛盾はありませんかといわれるけれど、ぼくの場合はそれはないわけですね。たとえば今度の場合でも、いままでの一般的な映画音楽のつけ方とはかなり違う作り方で、ぼくはある独立した音楽作品を作ったのだけれども、それを土本さんが撮った映画、それから丸木さんの絵にぶつけるという操作のときに、ぼくも立ち合っていて、自分の音楽が変わっていくことがおもしろかった。ふつうの劇映画につける音楽の場合でもそういうことはたまにありますが、ほとんどはあらかじめ予定されているところで、結果というのはおよそ予測がつくわけです。今度の場合のように音楽自体が絵にくっつくことでかなり変質してしまったということーそれがもしかしたら表現ということなのかもしれないと思うわけですね。ぼくが書いたのが表現ではなくて、誰かが演奏して、それを変えてしまうことが表現で、それはぼくにとっては不都合なことではなくてたいへんおもしろい。そうでなければ音楽なんてやっている意味がないんじゃないかとさえ思うのです。

北川 今回の映画の演奏家の人たちがいますね、その人たちは武満さんの作曲されたものを見て、今度はどこに回路をとるのですかね。

武満 演奏家がある記号をもとにして何かを読み取って再現していくということは、別の問題ではないかと思うのだけれども・・・。作曲家の場合は内側から外側へ何かをあらわしていく。ただ再現芸術家、ぼくの楽譜を見てそれを演奏しなければならない立場の人は、逆に外から内へ向かっていかなければならないので、ある意味では違うことなんですね。

北川 演奏家は水俣の映画にこの音楽が演奏されることを意識するのか、それともほとんど関係ない、と思いますか。

武満 それはほとんど関係ないかもしれませんね。ぼくの中にはもちろん水俣がありました、楽譜に書きあらわしたときに。けれどもそれを演奏する人たちは、これは水俣の音楽だからこういうふうにやらなければならない、とはたぶん考えなかったと思います。ただ幸いなことに、これは別に自慢話でもなんでもないけれど、今回は、借金を抱えてたいへんなプロダクションの青林舎が、音楽のためにリハーサルまでとってくれた。リハーサルをやっている映画監督といったら、黒澤明と小津安二郎しかいなかったわけで、土本さんが三番目。黒澤さんとか小津さんはありあまるお金の中でやっているわけですから、今回とはだいぶ違いますよね。ところが非常に賛沢に、オーケストラを前の日にリハーサルしてくれた。青林舎も貧しいのですが、日本の音楽界もそれに輸をかけて貧しい。映画の音楽でリハーサルするというので、演奏家は、これはたいへんな映画らしいってことはわかったのね。そしてそれがまた「水俣の図・物語」という映画だというんで、演奏家たちは録音が終ってからいちようにやりがいがあった、という。ふだんはそんなことをいう人たちではなく、お金だけもらったら「さよなら」という人が多いのですけれども、そういうことなかったですね。
 ぼくは映画音楽を長いことやっていますが、自分の音楽の良い悪いということよりも、そういう現場をつくってくれた土本さんはなかなかたいしたもんだ、と思ったのです。土本さんが丸い顔してニコニコ笑うとなかなかいい感じなんだよね。だから演奏家も、なんだかすばらしい監督さんらしいですね、とかいってね・・・。

北川 石牟礼さんも今度の詩はまったくオリジナルですけれども・・・。

石牟礼 武満さんの音がナマで生まれるーそういう瞬間に私もいていいでしょうかと土本さんにお願いして、連れていってもらったのですけれども、そのとき、あらためて音楽というのは感覚ー自分の中にある深い、非常にナマな感覚、動物的というか植物的というか、お日さまが出てくるとばぁーと色を出す草とか花とか、闇の中になると身動きするものたちの気配とかーそういう一番極限的な意味での感覚の世界だというのが、武満さんの音楽の生まれる過程をまざまざと見ていて、逆に自分の中の感覚をたどり直すみたいな経験をしたんですね。で、初めてそういうところを見たのです。大きなヴァイオリン、なんていうのかなあんなの・・・。

北川 チェロとかコントラバスとか・・・。

石牟礼 ああ、そうですか、そんな名前(笑)。あの、ものすごく田舎にいるもんですから、ナマのオーケストラを演奏する人なんか全然見れない。映画も生まれてからいままで、ほんと十本の指で数えられるくらいしか見られない。そういう辺ぴなところから出てきて、ギーコギーコ最初やっているのが音になっていく演奏の過程を見ていて、感覚の生理、体の仕組みの、見えない奥にある意味の感覚の生理というか、生命のもってるエロスの根源が発揚されてくる、形を成してくる、そういうのをまざまざと見る感じがいたしました。録音するとき、ガラスをおいて向こう側とこちら側ー指揮をする人がガラスの向こう側で、武満さんはガラスのこちら側で、私たちはそのまたうしろ側で、ガラスでそこが隔っているのですが、にもかかわらず演奏する人と作曲なさった方が、なんていいますかね、生命的なエロスの世界が生まれて結実して花が咲いていく。花というか、非常に生理的な充実のようなのを感じましてね。これをもっとギューと凝縮すれば、自分が書くときというのはこうなんだなあと思つたんですね。
 映画を一番最初に見たとき、いまもそういう感じがあるんですけれども、スクリ-ンがあって映りますでしょう、そうしますと子どもがよくスクリーンに触りにいくでしょう、それがまだ私にありまして・・・。スクリーンに映っている物とか人とかのほうから、見ている自分とがどうしてもぴったりになりたいってのがあります。どういったらいいのかしら、向こう側の自分が、スクリーンに自分の気持を通して映像を間にして、こちら側の自分と一体化したいというのが非常に強くありまして、それが一体化できないというか、そういうもだえのような気持があって・・・。なぜものを書くかといえば、ことに水俣を書くようになりましてから、そこにいるだけでその存在が即ち表現だというのが大前提にあるのです。にもかかわらず、なぜ表現しなければならないのかということを、映画や音楽にたまたま身近に触れる機会がありましてあらためて考えますと、どうも存在というのがすべて表現であるというのは、生と死が私の中では完結してしまっているのではないか、と・・・。生からも死からも完結した世界からもとり残されている、それでいくところがないという感じがずっと小さいときからしていて、そこで何を書く、あらためて表現するのかといえば、すべて世界はそのままあるのだから、その中に自分がとり残されていて表現するんであれば、ずうっとずうっと自分を削ぎ落としていく、自分がそこにいては自分が非常に目ざわりだから、ずうっと自分を消していけば闇というのになるわけで、ほんとうに見えなくなって、ほんとうに闇の中に溶けてしまうことができればいいんですけれど、それは自覚して自分が力をふりしぼってそうしなければ自分そのものが闇そのものになることはできないので、そういう闇と等しいものになるために、何かうんと力が要るという感じがして、そこで闇と同じようになっている自分に蓄電するには、闇の中からエネルギーをもってきて自分の中に蓄電しなければならない。そんなふうにできたときに、身体が一筋になって、闇の中で線が一本見えたら、それは表現者としての表現となることができるかなぁと・・・。たぶんそんなふうな気持で文字を書くというか、声をだすというか・・・。
 音楽をなさる方と知り合いになったのは武満さんが初めてで、それで最初の音が出てくる・・・それは始源的なエロスというか、花がぱーっと、野っ原で花がぱーっと、最初の野っ原の花が蕾が、ちっちゃな花が、太古に最初の花が、一番最初の花が生まれるときの音、そんな音みたいのを感じ・・・。それと演奏する人や指揮をする人の背中がとてもおもしろかったというか、その人の背中というのは人間的というより生命的という感じがして、で、映画の中にあの音楽がでてくるとまたそんな感じがして・・・。
 土本さんが『映画は生きものの仕事である』という本をお書きになりましたけれど、初発の意味での存在、存在していることは表現だということと、現代ではそのままある表現をもうひとつの表現にして見せてくれというような人間の欲求があって、そういう人間の欲求というのはなんだろう・・・。その欲求に応えて作るわけではないのですけれども、ひとりの人間の欲求として私も書こう、何か書きたい、いつも書こうとしてるのと、そういう表現をもとめている人間の社会ーことに近代というのはなんであったのかと意識しはじめている現代というのはなんだろうと思ってます。

北川 どうも・・・。武満さんはそのへんで何か。

武満 やっぱり作家の想像力というのかイマジネーションというのはすばらしいと思ってうかがってました。きょう全体のテーマとして、「表現に力ありや」となっている。その表現という言葉が、その正体がなかなかわからないのだけれど、表現というのは、ぼくたちがいうときには暗黙のうちに近代的な自己表現ということをいっているのだろうと思うのです。つまり人間の歴史の趨勢として、全体から個が離脱してきて、いまや世界、人類はいろいろな政治の形態や国家というものを考えてみると、全体とか共同体とかいうものから、だんだん個が離脱して、その個が全体に対してどういうふうにアイデンティファイしていくかということが、たぶんいろいろな表現なのだろう。つまり、いままでの芸術表現がこれほどに細分化されてきて、音楽の場合だけを例に考えれば、わずか数百年前、ルネサンス以前には作曲家と演奏家はほとんど分離していなくて、ひとりの人がやっていた。そういう未分化な総体としての音楽表現がされていたわけです。それから踊りなども別ではなかった。そうすると、祭祀というかお祭りとか宗教というものに非常に密接に表現というものが関わっていて、しかもそれは個別の表現というよりも全体的な表現というものだった。映画は全体から離脱していった非常に近代的なかたちのものであったのだけれども、またある種の別の全体、不思議な全体、われわれが考えている全体ではない全体というものになっている。そういう性質が水俣とか、いろいろな公害問題とかと密接に関わっていくのだろうと思うのだけれども、その中で主体的な個というものをどういうふうにとり戻すかが問題になってくる。ATG(アート・シアター・ギルド)が、お金をかけないで作ることがすばらしい芸術的表現であるというような、きわめて古い儒教的、精神主義的な錯覚というものまでも生んでしまっている。角川書店なんかが作っている映画だと、ものすごいお金のかけ方をして、宣伝費に製作費の三倍かけたとかいっていばっているようなことがある全体の中に、作家や表現者が組み込まれていて、どういうふうにして主体的に自分というものをとり戻すかが、やはり一番大事な問題ではないか・・・。これはぼくは何も解答なんかだせない、いや解答なんかだせっこないんで・・・。ぼくの音楽会では、たとえば日比谷公会堂でぼくの音楽がやられても、どんなに満員でも二千人の人しか聴くことができないわけですけれど、映画の場合だと、あまり当たらなかった映画でも何万人という人が見るし、ぼくの音楽会よりははるかに多くの人が聴いてくれる。また先入観なしに非常に無垢な状態でぼくの音楽を聴いてくれ、ぼくの音楽と純粋に結びついてくれる。そういう楽天主義というか、人の好さでやってきたわけだけれども、どうもいまになってみると、ぼくは嫌いな言葉なんだけれど、今度の映画なんかある意味では手作りの映画で、何人もの個人が出会って、自分たちで思っていることをここでぶつけてみて、それで土本さんもいったけれど、だめだったらだめでいいという仕事のあり方が、ぼくにはたいへんおもしろかったし、これからもこういう仕事は自分でも非常に大事にしていきたいなと思っています。

土本 武満さんが雑誌『世界』に書かれた最初の頃の論文を見ていて、いつもそれに触発されていろいろなことを考えてきたのです。映画監督というのはとてもすごい人という感じが予想外にあると思うのですが、ぼくの場合は撮影所で一度も映画を作ったことがなくて、いつも学生くずれみたいな者と腐れキャメラとテープを持って動いているうちにこうなってきたものですから・・・。
 社会的には劇映画だけが本流で、記録映画というともう二流なんですね。それでなんとなしに金も二流、人物も二流、フィルムも二流という感じがあるような気がするんです。逆に、そういうことをぶつこわしてくれたすばらしい作家たちも、もちろんいるわけですけれど・・・。ぼくの場合だと、まだ不知火海に未練がありますが、石牟礼さんの書いたものを原作に劇映画を撮るなんてことは、逆立ちしてもできないんで・・石牟礼さんはよくイメージ的なことをぼくに吹っかけてくるんですけれど、科学映画にして撮ったほうがいいのかなあなどとは思っても、劇映画という発想には近づいていかないんです。もう一生、ぼくは石牟礼さん原作の映画なんて撮らないことはお約束しておきますけれども、不知火海には関わるだろう。そういうことが許されるとありがたいなと思うんですけれども、なにせお金がね、やはり・・・。ぼくは作っていて喜びはある。仲間にももちろんあると思いますけれど、作るタイミングとか、全体の心のうねりというものがないと、ひとつの映画というものはできない。そういったひとつのうねりというものは、それは資本のうねりではなくて、人間のある種のうねりだと思うのです。

北川 私ごとになるんですけれど、石牟礼さんの『苦海浄土』を最初に読んだときの印象と、昔、武満さんの『吃音宣言』の文章を読んだときの感じがぼくの中では常にだぶっているのです。口ごもり、もだえるー「発語」とか「発生期の酸素」という言葉をぼくはよく使うのですけれども、それは石牟礼さんがいわれる闇を組織するというような感じなのかもしれない。そういった発語の瞬間をすごく大切にするということと、武満さんが映画の本でも書いている感じとが非常に似ていると思っているのです。武満さんは実際に『骨月』という小説も書いてられますよね。『骨月』はボーン、ボーンという言葉で最後終るのですが、ぼくはその小説をすごく好きだったんですけれども、石牟礼さんの『苦海浄土』を読んで、ご自分の作曲と関わるあたりのことを話していただけると・・・。

武満 ちょっと難しい質問で・・・。ぼくは石牟礼さんのお書きになったものを読んで、それがすぐぼくの音楽にどうのこうのっていうことはほとんどないのです。非常に深い感銘をもったということは確かだけれども、それがすぐ音楽につながるということは何もないです。
 実際に『苦海浄土』とか『椿の海の記』とかの作品を読んでいて、どんな人がこられるのかなあというのが一番興味があった。仕事のあとでお話ししてみて、やはり石牟礼さんという方は作家で、立派な運動をなさっている方ではあるけれども、やっぱりぼくは作家で詩人だっていう印象を受けた。それと、ときどきひょっといわれることがきわめてナマめいている、といってはへんなんだけれど、たいへんエロティックなところがあったりする。そういうことのほうがぼくが音楽を作るうえでは、すぐ音楽になっていきそうな気がしますね。だから先ほど石牟礼さんが人間というのはその存在だけで表現だといわれたけれど、確かにぼくもそうだと思うんですね。
 ほんとうは、みんな表現しなければならないということは不幸なことなんだよね。バナナなんかがいっぱいなっていて、自然もすごくよくて、食べるのに困らなくて、気候がよくて、それでときどきちょっとした労働でもすればみんなが生きていかれたら、もしかしたら別にあんな現代音楽なんてものはいらないもんね。といって、ぼくは表現に力がないということをいっているんじゃないんですよ。そんなに簡単にはいえないんだね。でもこういうふうないい方って、ぼくはあまり好きじゃないんだよね。もっと、ほんとうは正確にいえなくてはならない。ぼくも五十歳になって、ある程度の人はぼくの音楽を聴いたり、レコードをもとめてお金を出して聴いてくれる人がいるわけだから、ぼくはやっぱりこういうところに出てきたら、自分の表現については正確にいえなければいけないんだろうと思うけれど、残念ながら、正確にはいえないんですね。でも、必ずしも不正確なことを話しているという気もしないんだな、ぐあいが悪いことに。ぼくの音楽だけを聴いてるほうがもっといいに違いないんだから。それはぼくも自信もっていえるんだよね。そうすると、表現というものもまんざらではないかもしれないし、捨てたもんじゃないかもしれない。でも、いまの表現のありようというのは、神経質になっているし、ちょっとギスギスしていて官能的じゃないんだよね。石牟礼さんもおっしゃっていたように、始源的な、花がパッと咲くような表現というのが一番いいはずなんですけどもね、人間には。けれども苦しくて、ジャコメッティみたいにだんだん削って細くなっていって、針金一本みたいなことになりかねないのよね。それはエロティックじゃないんですよね。ぼくはやっぱり、どういう音楽を書きたいですかと聞かれれば、とてもセクシーな音楽を書きたいといつも思ってますけれどね。エロティックな音楽。音楽は何かにマニフェス卜したりすることは、ほとんどできないんですよね。きわめて暖味なところにいるのだけれども、それだけにすばらしい音楽に触れたときは、もしかしたらある日、その音楽に触れた人の人生なり生き方なりを根底から変えてしまうくらいの力をもつかもしれないんだよね。不幸なことに、音楽は若いときに何も知らない中からたくまざる即興のように、心のいろいろな経過がそのまま動いて全体になっていくというようなものがいいんだけれど、それはやはり十八歳とか二十歳とかでね、五十歳ぐらいになってくるとそういうことはほとんど望み薄なんだよね。だけれども音楽の官能性とかそういうことについては、きっと二十歳の奴よりはわかっているかもしれないもんね。そこらへんがまた問題なんですよね。まあ、やめましょう、そういう話は(笑)。

北川 はい。石牟礼さん、最後に、プレーヤーの話などをちょっとうかがいたいんですが。武満さんのレコードを聴かれたときのことなどを最後にうかがえたらと思いますが・・・。

武満 もしかしたらまだ聴いていらっしゃらないかもしれないじゃない(笑)。

石牟礼 いえ、いや、もう・・・(笑)。あの井上光晴さんが雑誌『辺境』を出していらした頃、『苦海浄土』の第二部を連載させていただいたんですけれども、飯時にきてくださいっておっしゃるもんで、それでうかがいました。そうしましたら、なんかとてもいいレコードをかける機械を買い込んだんだっておっしゃって、どこの部分はアメリカので、どこの部分はフランスので、どこの部分は・・・ともかくつぎはぎの上等みたいので組み立てた(笑)、それをいつも聴かせてくださって、その中になんかこう、とても、とてもいい音楽があって、これはいいなぁと思って、これいいですねって・・・私レコードも持たないし、こんな機械も持たないんですよっていったら、原稿をうんと書けば原稿料払ってあげるから原稿をうんと書きなさいよ(笑)、自分の雑誌に。そしたらプレーヤー買えますよっておっしゃって・・・。百枚書いたらそれが買えますよっておっしゃったけれど、なかなか百枚書けなかった(笑)。そして帰りましたら、その原稿の催促の意味もあったんだと思いますけれど、送ってくださったんです。そのときの音楽が武満さんのだったのですね、それで武満さんのレコードを送ってくださった。で、三年くらい前にかけるのを買ったんですよね。ええと八万円、七万円だったか、なんか安売りがあって買ったんですよ。それで持ってきてくれて、その機械。なにか試しにかけてくれるというのですが、そのレコードしか家になかったもので、そのとき初めて、わが家で武満さんのを聴きました。どうもその持ってきてくれた人にはあまりおもしろくなかったらしい(笑)。なにか持ってきますよっておっしゃるので、私の母が浪花節が好きですといったら、その人が持ってきてくださったのが、「岸壁の母」でした。それからあとずうっとレコード買えなくて、いまわが家にはその武満さんの「月蝕」というとても深みのあるー琵琶と尺八がこんな音をだすのかと思うような、かねて思っていた琵琶の音と尺八の音とはとても違って、違うというより非常に深まった音なんですけどーそれと二枚ありまして・・・。それで武満さんとお仕事をご一緒にすることになって、それで身近な人たちに家には「岸壁の母」と武満さんのレコードがありますよっていいますと、みなさんなぜか笑われるんですね(会場・笑)。尺八と琵琶の世界が今度は水俣の音楽で、あの系統の音がどのようになっているかなぁと思って、それで土本さんに音楽が生まれる瞬間にいさせてくださいって頼んだのですけれども・・・。
 あの、目が悪いものですから、かけ方をイチ、ニ、サン、シ、ゴと妹の婿さんに大きく書いてもらいまして、それをプレーヤーのところに貼りつけてときどきかけてます。
北川 とても気持のよい話をありがとうございます。きょうはもう時間がありません。もっとおふたりにお話がうかがえたらと思いますが、これで終りにいたしましょう。

 後記ー石牟礼道子
 
 思っていることと言葉との関係はどういう法則になっているのでしょうか。
 変てこな距離のところに、まるで異る事象に声を出しているような様子の言葉が生まれるとは。嘆きのあまりに思われます。
 測定不可能な距離に出現した、様子のおかしな言葉群こそ、万有の闇へ通じるしるしである。つまりわたしは、満ちているものでなく、欠けているものである。
 あらゆる物象や事象が、対話の相手が(人間に限らない)わたしの様子のおかしさや、欠けているという形を証明している。逆にいえばそれこそが、わたしとこの世との均衡のありようではあるまいか。かくして世界と個の多彩さがここよりはじまるというものだ。
 じつは嘆いてなんかいやしない。うたうのが、ちょっと羞かしいだけ。狂うとか、依りつくというのが。言葉の形代があれば、何でもよい、それに依りつく。武満さんはわたしが依りつきたい無形の韻を持っていらっしゃる。それは自由というものに似てもいる。つまりわたしはそんなぐあいで、あの時うつむきながら遊ばせてもらっていました。
 表現、ああそこは面白い饗の河原です。音楽が似合うところで。