私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム5ー原点を書く 佐多稲子+石牟礼道子+土本典昭 対談
北川 佐多さんは作家活動のかたわら、いまも婦人民主クラブの代表をされるという一貫した姿勢でお仕事をされてきています。きょうは佐多さんと石牟礼さんのおふたりに、この映画をひとつの媒介にしながら、作家という立場で、自由にお話をしていただけたらと思っています。
佐多 水俣については、もちろん私なども心を寄せてきたのですけれども、石牟礼さんの作品で拝見するだけで、水俣の土地へいったこともございません。今度映画を見せていただいて、石牟礼さんのお書きになった文章で想像していた水俣の海も映画で見ることができたわけでございます。これは丸木位里さんと俊さんの水俣を描かれたその仕事をまた土本さんが追うという作品ですね。私はまずこれを見ましたときに、丸木さん夫妻が「原爆の図」を描かれて、引きつづきいくつかの原爆に関わっている絵があって、今度は水俣に取り組まれたー画家としての自分の仕事の対象をそういうところに選ばれているということに、丸木さん夫妻の精神というふうなものを非常に考えさせられて敬服しました。それを映画に撮られたということはまた、水俣に寄せられていた土本さんの気持の深さでもあったろうと思います。御夫妻のどちらかがおっしゃっていたんですが、丸木位里さんが広島出身であって、つまり原爆を負った広島出身でいらした。しかしその丸木位里さんは俊さんがいなかったならば原爆を描かなかったかもしれない。そしてまた俊さんは、北海道の出身だけれども、また位里さんに会わなければ、俊さんも「原爆の図」を描かなかったかもしれない、と。そういうことで原爆を描かれ、引きつづきそれからそれへと題材が、発展といえるかと思いますが、題材のもっている意味においては連続した仕事をしていらした。「アウシュビッツ」も描かれて、次には水俣を描かれた。そのことを思いますと、おふたりの人間性はたいへんなことだったなあと思うのです。おふたりにとってはどうしてもそうならざるをえなかった過程の苦しさみたいなものが伝わってくるような気がしました。丸木俊さんは、「うつくしいものが描きたいと思っている」と書かれている。そして今度の水俣についても、『苦海浄土』という石牟礼さんのうつくしい作品ーうつくしいという言葉はたいへん深刻な意味で私は申し上げているわけですけれどもー俊さんは「苦海浄土」の「浄土」も描きたかったのに「苦海」ばかりだったということもおっしゃっていた。そのことも思いますと、それに取り組まなければならないという作者の、丸木さんたちの場合は画家ですが、画家の苦しさというものが、創作というものに携わっている私なんかもいくらかわかるところがあると思うのです。
いま申し上げる「うつくしさ」ということは、石牟礼さんの『苦海浄土』がうつくしいということとはまた別の、簡単な言葉で、簡単な意味で申すわけですけれども、うつくしいものが書きたいという気持をもつことは、何かものを書いたり表現したりしていく人間の中には、単純にその気持があると思うのですね。私なんかの経験でたいへんお恥しいけれども、自分の作品を書くというときにも、うつくしい物語を書きたいと自分で思うわけですね。そのうつくしいというのはそれこそ単純な意味でのうつくしいことなんですけれども。しかし実際に書いていくと、それはいわゆる自分がはじめに思ったうつくしさとはまた別のものになってしまう、そんな思いをすることがありますので、俊さんが「うつくしいものを描きたい」といわれる気持が非常にわかるような気がします。しかしこの映画を拝見していて、俊さんの筆使いを見ていますと、たいへんそれはうつくしいですね。あの一本の筆でずっと描かれる線はたいへんうつくしい。しかし丸木さんとしては「苦海」をしか描けなかったといわれて、このお仕事は完成される。俊さんが「うつくしいものを描きたい」といったことは、最後にふたりの少女に赤ん坊を抱かせている絵をお描きになった。それを見たときに私は・・・たいへん・・・たいへん胸が詰まりました。これは丸木さんが人間のあるべきうつくしさを水俣の中に痛切に思ってあの絵にいきつかれたんだろうという気がいたしまして、たいへん打たれました。
単純に私がうつくしいといった場面も今度の映画の中にはたくさんあります。一番わかりやすいことでいえば、あの白い帆掛け舟がターッといくところなんかたいへんきれいですね。あのきれいな景色の中にあの水俣の現実があるということを私たちは感じとるわけですけれども・・・。このようにして丸木さんが水俣を描かれたということは、ものを描くことを自分の仕事にしている人間として、もっとも人間らしい精神で取り組まれたことなのだと思います。
映画のことを離れますけれども、私は生まれたのが長崎市です。そして数え年十二歳まで長崎に育ちましたから、そんなに広くない町ですので、子どもの生活の中でも長崎はだいたい知っているような町ですけれども、そこに原爆が落ちまして・・・。私はそのことをたいへんつらく思っておりました。ひとつには、ものを書くという仕事を私がもっているものですから、長崎の原爆病院にいる人から、「作家ならなぜ長崎の原爆を書かないのか」という手紙などももらったりしまして、そういうことからも、自分の思いとともに責められる感じがしたわけです。しかし私ははじめのうち、原爆の悲惨というものを自分がそこにいなかったのに書くということは、なにかおこがましい、その過酷な現実そのものの深刻さに対して、それを書くということがたいへん僭越なような気がしておりまして、私はそれを書いてはいなかったわけです。
原爆のことでいいますと、大田洋子さんは原爆を実際に経験され、優れた作品を書かれました。またそのときに女学生だった林京子さんという作家も、ずっと原爆のことを書いていらっしゃる。それはもう、どうしてもそれを書かずにいられないから書かれてきたんだと思います。それだけ切実な関係がそこにあったと思うわけですね。それでも大田洋子さんは自分が「原爆作家」と呼ばれることにたいへん腹をたてておりまして、簡単に「原爆作家」などといわれることに腹をたてる大田さんの気持も私はよくわかりました。しかし林京子さんもどうしても書かずにいられないからそれを書いていらっしゃる。そういう関係で石牟礼さんは『苦海浄土』、水俣をお書きになっているのだと思いますけれども、一番はじめに申し上げたように丸木位里さんが広島出身であったということの関係などを考えますと、それはなんといったらいいでしょう。「運命」という言葉は私はあまり好きではありませんけれども、そういうものを感じないではいられません。しかしその運命をどう生かしたかということでいえば、丸木さんやまた太田洋子さんにしろ林京子さんにしろ、そしてまた石牟礼さんはご自分とその現実との運命的な結びつき、できるならそういうことに結びつけられたくなかった現実を、それをちゃんとご自分の生きていく道で、ほんとうに正しくあるような関係で表現をなさったということを感じます。丸木さん御夫妻は「水俣も描かにゃならんなあ」(そんな言葉だったと思いますが)というようなことで取り組まれた。その精神はもっとも人間的なことだと私には思われまして、その筆使い、あの俊さんのうつくしい線、そしてあの水俣の年寄りや子どもや少女や青年やが描かれておりますが、これがまた映画で多くの人にも見てもらえるということに、たいへんなお仕事だったなあと、そういう気持をもっております。
土本 実はおふたりが会われるのはこれがほんとうに最初なんです。佐多さんと石牟礼さんにぜひこの企画で話していただきたいと思った裏にはこういうことがあったのです。私が一昨年になりますか、中野重治さんのお葬式を記録しておこうということをしました。そのとき葬儀委員長として佐多さんがあの悲しみの中でいろいろと最後の締めくくりをされていたわけですが、そのフィルムを石牟礼さんにお見せしたんです。その中には中野さんの自分で作られた詩を朗読されるところがありまして、「わたしは嘆かずにはいられない」という詩なんですが、そういったシーンを含むひとつの映画を見終ったときに、石牟礼さんは「佐多さんに会えないだろうか」というのです。ぼくがいままで石牟礼さんにつきあって、あの人に会いたいという話を聞いたことはまずなかった。ところが、まるで少女ファンが誰かに憧れるみたいな面持で、「まず無理でしょうね」といわれたんです。そのときぼくはとても嬉しく思ったのです。お手紙もいただいたことがあるし、ご自身も本を送っておられると石牟礼さんがおっしゃるんで、すぐ手紙を書いたんですよ。そのときに感じたのは、石牟礼さんはおっかさんをみつけたなということです。いまの日本はやっぱり会うべき人が不思議に会っていくんだなという気もありました。ほんとうはこういう機会ではない会い方を、石牟礼さんも佐多さんも予想しておられたと思うんですが・・・。
石牟礼 きょうここへ、土本さんの娘さんに連れてきてもらったのですけれども、ついそのとき、佐多さんのご本を手提けの中にいれてまして、きょうは私はサインをしていただこうと思っているのよ、自分では読者の方にサインをしてくれといわれますと、もうとても恥かしくて、いつもすっとんで逃げたいと思っているのに、ものすごく現金に佐多先生にサインをしていただこうと思っているのよ、といいましたら、そのときの石牟礼さんの顔が見たいといわれてしまいましたけれども(笑)。
私の生まれたのは、熊本県の天草ですけれども、佐多さんがお生まれになってお育ちになったのは、天草から海をちょっと隔てた隣り、天草の海の向こうが長崎でして。私の生い育った頃の水俣の感じからいたしますと、長崎といいますのは、水俣には天草から渡ってきた人たちがとても多くて、その渡ってきたおばあちゃんたちがいろいろ身のまわりに持っているもの、お茶碗とか漆器類とかの話になると、「よか帯ば一本持っとるばってん、この帯は花の長崎から、花の長崎に親がいったときに土産に買うてきてくれた七珍の帯ばい」などいって、もう宝物。いつもはそれをしない、一生のうちになんべんも着けない「花の長崎」から土産にもらってきた七珍の帯。ですから長崎といいますときには「花」というのがつくのです。私は「花の長崎」というところにはまだそういういき方はしたことがなくて、原爆のルポルタージュを書きにいきましたときに長崎にはじめていきました。ですから逆にその原爆の落ちた長崎からさらにああここが「花の長崎」だったのかというふうに、三角につながなければならないのです。自分の対岸、親たちが往き来をしたところは、そういうふうに三角につながなければならない。そういうところにお育ちになった佐多さんが幼い頃のことをお書きになっているのを拝見しますと、ああやっぱり「花の長崎」だったんだなというふうに思います。私なんかよりずっと前にお生まれになったのに、とっても華やか、あそこは外国の窓口だったわけですから、なんかそんな感じの・・・。それでそういう「花」というのと、そこから出ていかれた佐多さんが、いまも和服でいらっしゃいますけれども、お作品の中に出てくる女たちというのはだいたい和服を着て出てまいりますよね。和服とか丸髭とか、髪の結い方から着物の模様とかでてくる。そういう和服を着た女たちが日本の近代の中を一人ひとり歩いていく。その前途にいろいろあるわけですけれども、物書き、作家は、先ほどからうつくしいものを書きたいと思うんだとおっしゃって・・・。
佐多さんの随筆の中に、「うつくしいという言葉はうつくしい」ということを書かれていらっしゃる。そういう言葉を紡ぎ出される佐多さんの生き方がなみなみならぬものであったわけで・・・。それはお作品をいつも拝見する度に、なんかこの女たちの生き方、いまのような現代の中を歩いていくそういう姿というか、気持の切実なつながりみたいなものを勝手に思って、それで佐多さんにお目にかかれたら元気がでるという感じがして、ひとりで勝手にそう思っておりました。きょうはお目にかからせていただいてありがとうございました。
佐多 どうも、そうおっしゃっていただくと申し訳ないみたいです。私は私よりも若くてあとからお仕事をなさった方にしましても、そのお作品に感動いたしますとそんなことはもうなくなりますのね。『苦海浄土』を拝見しまして、石牟礼さんという人がほんとうに詩人そのものでいらっしゃる。そしてその表現をちゃんとなさるということでは後も先もなく、むしろ敬服するんです。ですからいまみたいなことをおっしゃられると、たいへん困ってしまうみたいです。ほんと。
土本 ぼくの友達の詩人と話したときに、石牟礼さんという人は視覚型だろうか、フィーリング型だろうか、どのへんのチャンネルでやっておられるんだろうか、という話になりました。今度映画を撮っていると、その通りシナリオに起こしていますけど、カラスの羽を「はっぱ、はっぱ、はっぱ」っていうんですね。「はっぱ」と聞いてもあまりおかしい気がしなくて、で、訂正されると羽だとわかる。そういうような言葉が頭の中に舞いおりる順序みたいなのが非常におもしろくて、そこをみつけたぞという気持も多少あります。言葉とか文字とかそういうものをそれぞれどんなふうにおつかみになられたか、難しい話としてではなくてお聞きしたいなということを思っているんです。『驢馬』の前の頃のことなんかほんとうに伝説的にしか聞いておりませんので・・・。
佐多 そうですね。私はあらためてここでいうのもちょっと恥かしいけれども、小学校の五年生の中途かぎりで学校生活というものを全然していませんでしょ。その頃から自分で働く生活にはいったという育ち方をしたものですから、物を書くなどということが自分の希望というふうにはなりえなかったのです。私に表現ということを一番最初に教えてくれたのは小学校の先生だったんですね。小学四年か三年のときのお正月がすんで、みんなそれぞれ生徒たちがお正月にしたことを綴り方に書けということでね。私はその正月には父親に連れられて福岡へいきまして、福岡の公園で、大きな日蓮上人の銅像があるんですけれども、それを見たことを綴り方に書きました。そしたら私のそこのところを先生がとくにとり出してみんなの教材にしてくださったんです。私が書きましたのは「日蓮上人の頭の上にとまっている鳩がすずめのように小さく見えた」と書いたんですね。私は全然無計画に、ただそう見えたからそう書いただけだった。そしたら先生が「ものを書きあらわすということはこういうふうにすべきものだ。鳩がすずめのように小さく見えたということで銅像の大きさがそれでわかる」と。なるほどと思っていまでもずっと覚えているわけですから、やはりそれが少女の心にはいったんだと思います。そのときはじめて表現のひとつのテクニックというものを教えてもらったんだなあと思います。その後、私は物を書くなど考えもせず成長しました。それぞれ人には、文学が好きな人、絵が好きな人、歌うことが好きな人、などとありますね。そういうことで分けていえば、私は読むのが好きだったほうで、手当りしだい読んでおりました。友だちから借りた雑誌の詩などを読んでいまして、自分もなにかこういうことをしてみたいなーというのは自分のそのときの気持の中に鬱々と溜っているものがありまして、誰にも話をできないそういうものを吐き出す手段として自分も詩のようなものを書いてみたいと思うことがありまして、書いたことがあります。その雑誌に書いて出しますと活字になっておりましたけれども、それでも作家になるなどとは全然思っておりませんでした。作家になるなどということは、ちゃんとした教育を受けているのでなければ文章など書けないものだと思っておりましたから。で、私の場合にはいろんな出会いがありますけれども、『驢馬』という同人雑誌がありましてね、中野重治、堀辰雄、西沢隆二、窪川鶴次郎、宮木喜久雄といった人たちの同人雑誌で、室生犀星さんがあと押しをしてらして、そのまわりで芥川龍之介とか佐藤春夫とかそういう人たちが声援をしてくださっているたいへん立派な雑誌があったんですけれど、その人たちと私の出会いがたまたまありました。そしてその人たちと私が出会って一緒に暮らすようになっていく過程で中野重治がプロレタリア文学運動の活動にはいっていきまして、私が少女のときから働いたことがあるということを知っているから、『プロ芸』(『プロレタリア芸術』)という雑誌に私が働いていたときの随筆を書いてくれ、ということがまずきっかけだったのですね。それで私が臨筆を書きましたら、中野さんがこれは臨筆ではちょっと材料がもったいないから小説に書き直してくれといわれた。それで私はびっくりしてしまって、小説などというものがそうたやすく書けるものかとびっくりして尻込みしたんですけれど、それを周囲の窪川鶴次郎さんらが励ましてくれた。その励ます理由は、つまりいままでの文化というものが上層階級で形づくられてきたけれども、歴史が進んでいくにしたがってこれからは働く人間が歴史をつくっていく、そういう世の中の発展というものがある。そうすればいままで上層階級に受け継がれてきた文化は、今度は働く人間の考えまたは感覚で小説にしろ絵にしろ文化全体がつくられていかなければならないーというのが簡単にいえばプロレタリア芸術の理論ですね。それにたいへん力づけられて、それなら義務教育も受けなかった人間だけれども、私の経験したことにおいて、そこで見てきたものを私の感覚、私の見てきた感じで書こう、といって書いたのが『キャラメル工場から』という小説なんです。
石牟礼 いまお話をうかがっていて、先ほどちょっといいそこねたことがありまして・・・。なぜ和服のことを申し上げたかといいますと、お作品を読んでいますと「裾捌き」というのがございますね、女が歩いていくときの。和服で歩きますと裾を捌きながら歩いていかなければならない。しばしばお書きになりますけれども昭和初年代の運動の中で勤労婦人、そういう人たちがデモにもいくし、演説の壇上にも上る。佐多さんご自身もいろいろなさって、留置場に入れられたり、レポなどなさったり、そういうときに裾を捌いて歩いていく。そういう一歩前に踏み出さなければならないときに、和服の時代の感じとズボンになってからの女たちの感性がやや違うんではないかと思いましてね。そこらへんをとてもよくお書きになっていらっしゃる。ただいまのお話を承っていまして、小学校の先生から表現というのを教わったとおっしゃいますけれども、そこから出発されて生みのお母さんのことを思い出されると、少女の恋の結果佐多さんがお生まれになって、そのお母さんがたいへんいとしい、愛らしいとお書きになっている。なんか佐多さんの中にある感性の糸みたいなものの色が見えてくる感じがして・・・。それがいいたくて先ほど和服といったんです。いまその中身のことを語っていただいてたいへん興味深く聞かせていただきました。
佐多 石牟礼さんは私の和服のことで、石牟礼さんらしい感覚で感じとってお話しになったと思いました。そこから私の作品の感じみたいなものも、たいへん石牟礼さんらしい感覚で引き出してくださったんだと思いますけれども、私はもっとあけすけにこの和服のことについて申します。といいますのは、いまはもう私はこの年になりましたから誰もそんなこといいませんけれども、もう十年ぐらい前の時分には着物を着ておりますと、趣味で着物を着ておいでになるのですかというふうに聞かれることがありました。そのくらい洋服にみんななっておしまいになりましたけれども、そういわれたときに、いいえ、私は着物を着てなんでもしてまいりましたといって、どんな働きでも着物を着てしてきたわけですから、そう笑いながらいいましたけれども。私もね、ひと頃洋服になったこともあります。私は「プロレタリア文化」という立場で物を書きはじめてきましたものですから、働く娘さんたちに会わなければなりませんでしょ。その時分ね、バスの車掌さんだけが洋服でございました。あとはみんな着物でして、そしてことに工場に働くような女の人はみんな着物でしたから、その時分には洋服姿はモダンガールでしたの。モダンガールというのはね、働く人たちよりちょっと一段高い人たちなんです。そうすると働く人たちと一緒になるには着物でなければいけなかったのです。戦後は、みなさん洋服になってしまったから、いま私が着物を着ておりますと趣味で着てられるんですか、なんていわれるのですけれども。それでもこの年齢になりましても、夏になって汗かきますとアッパッパを着まして、表へいくにも洋服のアッパッパを着ます(笑)。石牟礼さんのたいへん詩的な和服論があったあとに、私は雑駁なお話をいたしますけれども、ただ昭和の初め頃の和服と洋服のことはちょっとおもしろいでしょ、働く人にとって洋服はちょっと違っていたんだということはね。
石牟礼 あの、エネルギーのようなのを申し上げたかったんですね、女が歩くときのエネルギーを・・・。
佐多 はあ。あ、裾捌きで、はい。
石牟礼 ええ、裾捌きで。ただ平凡に生きられれば私もそうしたい。なみの人生を送りたいのですけれども、そうもいかなくて、佐多さんもそうだと思いますけれども。それから佐多さんの作品の中に、一種憧憬をこめて「勤労婦人」と、ご自分もそういう体験がおありなのにご自分と働いている人たちを、差別じゃなくて区別され、あるべき未来を託して「勤労婦人」とおっしゃっていられる、そういうことを考えてものを書かれる。そういう生きる姿勢の中でのエネルギーとしての「裾捌き」のことを申し上げたかったんですけども・・・。いまそういうことを申し上げますのは、感覚というのは断絶いたしますから、これはどうしょうもなく断絶いたしますよね、感受性というのは。ですからそういうのはどこかでつなぎたいというのがどうしてもございましてね。
佐多 つまり時代が変わっていくことで着物からスラックスになっていって、そこで違ってくる感覚ね。
石牟礼 大地の踏みしめ方の違いがどうしてもでてくるんじゃないか、と思うのです。お作品を拝見していますと、階段をどどどどっと駆け上がるときの、それはたいへん深刻な場面なんかででできますけども、そういうのを計算して書かれるのかどうかわかりませんけども、すごくよく伝わってきまして・・・。
佐多 そうですね、感覚はずいぶん変わっているんだろうと思いますね。だから自分の作品なんかのことは非常に否定的にならざるをえないときもありますけれども。それでもその感覚の違いというものに私、あんまり悲観しませんの。人間の思いというものは感覚の違いを伴ないながらでもやはり同じなんではなかろうかと、そこに頼りたいような考えをもっているんですけども、どうですかしら。だってね、それはあなたがお書きになったお作品ですから、あなたの感覚でお書きになっていると思いますけれども、たとえば『西南役伝説』、あれを拝見しておりまして、そこにはいろいろな、逞しく、またたいへんな生活をしてきた女の人たちが、おばあさんになっているわけですけれども、あの中に「男はんのおんなはらんばつまらん」というふうなことをいうおばあさんがいますでしょ。ああいうことはねえ、ずっと同じなのじゃないでしょうか。
石牟礼 そうですねえ、はい。
佐多 あのおばあさんのその人生に対する考え方というか、対し方、感じ方、そういうものにとても打たれるわけですけれども、打たれるというのは、そこの中での実際の生活の重みがいろいろとあるからまた感じ深くなるんですけれども。だからいまの人たちがスラックスへさっさといったにしても・・・、どうなのかなあ、私は頼りたい気がするけれど、そこのところ、わからないなあ。
石牟礼 婦人民主クラブですが、非常に重要に関わってくださってらして、私の中では連続してつながるんですけれども、「悲しいことは死んでいった人たちが持っていったんだ」というのを繰り返しお書きになっている。そういうお言葉などはとてもピタッと、私などもほんとうに、悲しいことというのはその中にうつくしい世界というのもたぶんはいっていると思うのですけれども、「悲しいことは死んでいった人たちが全部持っていったんだ」と、とり残されたように書いていらっしゃる。そのようにお言葉がでてくるときに私は、何かそれをつなぐやわらかい「輪」みたいなのができる、骨と骨をつなぐ「輪」ができるといいますか。
佐多 そうね、そりゃまあこの頃の若い人のお書きになる作品というものが私たちにどれほどわかるかしらということなどは、感覚の相違という問題に関わってくるのかもしれないけれども。どうなんでしょうね、どうなんだろう。風俗も違うし、それこそ生活感覚もずいぶん違っているのだろうけれども、どうなんだろう。よっぽど違っていますか。
土本 ぼくもよくわからないんですけれど、石牟礼さんがいろいろなところで水俣病のことに折に触れて、自然とか春とか水俣の海とかいろいろ書いてこられたのですけれども、『椿の海の記』という本を例にしますと、もうほんとうに自分の少女世界を濃密に書かれますね。そうすると逆に水俣病がわかってくるみたいなところがあります。文字では、この原っぱにはチッソが水銀を流したんだ、という一行しか書いていない本なんですね。石牟礼さんが一番書かれたかったことは、ぼくはうかつにも、石牟礼さんの昔の水俣の世界化というふうな読み取りをしていたのです。ところが、渡辺京二というぼくのたいへん好きな熊本の評論家が、「あれは石牟礼道子さんとおばあさんとの魂の世界だ」というふうにもいわれている。ぼくがいいたかったことは、あれだけ細かく自然を書かれたときに、不知火海調査団のある人が、科学的にも民俗学的にも、この先、ぼくらは何をやるのかしらみたいなことをいわれたんです。それだけ表現として、かなり科学的にも、自然の移り変わりも全体像としてわかっていくように書き込まれている。それは個的になっていけばなっていくほどみんなに伝わりやすくなっているという意味で、年代とか世代を超えて、石牟礼さんの例でいいましたけれども、私は訴えてくるんじゃないかというふうに固く信じております。
佐多 そうですね。その感覚の違いということになると、自分の主観だけをいうことになってしまいますね。
石牟礼 私などはたいへん没入してしまうんですね、お書きになった世界へ。没入といいますか、一種の合体作用みたいなのが起きてたいへんせつないんですけれども。なぜ書くのだろうと思いますと、これは最終的には自分のために書くんだな、と私は思ってしまうんです。ただそこで、ああ佐多さんはこんなふうに思われているなと思いますところで、私も似ているようなところがあります。といいますのは、私の氏育ちをたどれば零細な百姓で、父親は石工でございました。石工の仕事がなくなりましてから百姓になるんですけれども、自分の田んぼももちませんでした。私はこれでも肥桶を担って段々畑を上り下りしたり、水桶を天秤棒で担いで、まえうしろ石油缶一斗くらいの重量だったものを担っていた。そういう少女期からお嫁にいって水俣病を書きはじめている最中でも、あのへんの女たちのやるふつうの労働を体験してきているわけです。けれどもいま、それやらなくなっていまして物書きになっちゃいまして。物書きになろうと思ったわけではないんですけれども、それこそ物書いて、原稿料で書くための生活、そんなになるなんてつゆ思っていなかった。だけどたとえば水俣の患者さんたちの運動みたいなものをどうしても形にしなければならない事情がありまして。そのはじめの頃はお薬缶を持って回って、お茶くみ専門で、会議のときになりますと会議の専門家もけつこうおりまして、私はお茶をくんだりごはんを炊いたりしてみなさんを賄うのが当り前と思ってやっていて、いまもいたしますけれども、なんかまわりの者に、物を書いているのが知れちゃっていて・・・。そうしますとまわりに反応が起きましてね、いままでお茶くんでいた間は、「姐さん、ちょっとちょっとお茶、お茶!」といわれると「ハイ、ハイ」といって持っていってたんですね。それが本を出したりしてバレちゃって、そうすると、患者さんたちがたいへん戸惑って、姐さんといっちゃいかんのじゃなかろうかと思ってしまいまして。あのへんには物書きなんていませんので、へんな存在でして。で、なんといったらいいのかわからないのです、みなさんは。若い人は「姐さん」とか「道子さん」といってくれるんですけど、年代的におじいちゃん、おばあちゃんになりかけている人たちがどういえばいいのか。「作家」と呼べば呼び捨てにしているんじゃないかと思うらしくて「作家さん!」とかいわれて、もうほんとうに両方困る、向こうも私も困ってしまって(笑)。そういうとき、やっぱり私はへんな妙なものになっちゃったなあと思うんですね。そう思うのと、佐多さんが「自分はプチブル的だ」となぜかお書きになっていて、どうもそのへんとなんか似ているのかなあと思いましてね。「勤労婦人」というのにご自分とは別の人間、上の人間と思われる。そこらあたりで、自分の感覚をどうもうまく処理できないというのがずっとありまして。そこで表現者というのは妙なもんだなと思うんですね。
佐多 感覚は、時代の影響もずいぶん受けるんだろうけれども、性格もありますし、生活的なものもずいぶん影響しますでしょうね。私ははじめに詩を書いていたんですけれども、プロレタリア文学で『キャラメル工場から』を書いて小説を書かなければならないということになっていましたときに、私は詩を書くことをやめたのです。それは、私は子どものときから働いてきているけれども、いわゆる小市民であって労働者ではないと思うわけですね。その時分、子どものときからの労働者または農民、そういう人たちの感覚というものがたいへん大事だというふうに思うものですから、そうすると私は労働者出身ではなくてプチブルだといったの。その感覚だとほんとうのプロレタリア詩は書けないだろうと思ったんですね。散文ならば、プチブルであってもプロレタリア文学を書けないこともなかろう。しかし詩は、もっと直接的なものだから、その感覚というものが非常に大事になる。私の場合は、いわゆるプロレタリアの感覚を私がもっているとは自分で思えないから、それでプロレタリア文学にはいりましてからは詩は書かないということで、そういう詩がひとつかふたつあるぐらいで詩を書くのはやめてしまったんです。だからそれくらいに感覚というものもたいへん大事に思います。いまになりますと、自分にいい聞かせる場合に、感覚が柔軟でありたい、枯れないでありたいと、そういうふうに自分の感覚に対してはもとめているわけですが、そういう意味で若い人の感覚も知りたいなとは考えているんですけれども。しかし感覚が違うことによって人間の中心、根本でもっている人間的なもの、それのひとつの感動、そういうものがなくなってしまうというふうには、私は考えられないのです。
土本 先ほど冒頭に佐多さんが、単純な意味じゃなくてうつくしいものを書きたいと、作家というのはそういうものだとおっしゃったのですが、今度撮影中にそれを非常に感じたですね。位里さんが「絵はねえ、なんといってもうつくしくなくちゃいかんのじゃ」とおっしゃる。やはり水俣をずっと描いてこられ、それからまあ「南京大虐殺」も「アウシュビッツ」もありますね。するとやっぱり出来事が出来事ですから、首を斬っている日本兵とか、すさまじい造形を描かざるをえない。丸木美術館では、たまたまその下に「万人坑」のナマの写真が展示してある。それで上下で見ていくと、まだ絵のほうが抑制があって、中国の女性の哀切なうつくしさみたいなものが残っているのですが、やはり絵としてはたいへん暗い感じの絵になっている。これを俊さんが描かれたんだろうかと思うような絵がありますね。「水俣の図」を描かれながらも実際にはもっとひどいということがちゃんとわかっておられて表現されるとき、ぼくは俊先生はものすごく写実を大事にされる方だと思うんですね。写実でなければ描けないというのではもちろんありませんが、写実を非常に大事にされる。たとえばあの少女たちを描く前にぼくにポロッとおっしゃったんですけど、「うちへ泊ってもらってお風目へはいって裸が見たい、そしたらもっときれいに描けるかもしれない」というふうなことをいわれるんですね。そういうところから見ていくと、選ばれた題材を絵に固定していくときに、やはり「浄土」ということに含まれる、ある何かというものに必死になっておられるというふうに思いました。だからあの人たちの連作体質からいいますと、水俣をご覧になってまだ探っていかれるんじゃないかと、これはえらいことだなと思いましたが・・・。描かれてきた「原爆」などのテーマと、絵かき自身が欲している何かうつくしい、祈るようなものの前で、あんなに引き裂かれた人はいなかったんじゃないかという気がしました。
佐多 ほんとうにそうですね。だからたいへんなつらいことだったろうと思う。ほんとうに運命を、運命的に感じてつらく思われただろうというふうに、私察しますわ。それはまあきっと石牟礼さんも同じではないかと思う。石牟礼さんは作家になろうなどと思わずにお書きになったとおっしゃる。だけども書かざるをえないということでお書きになったと思う。それはたいへんつらいお仕事だったと思うんですけどもね。それはいつか石牟礼さんが何かの賞をお断わりになったことがございますよね。私はそのときにああなるほどと思ったのですけども。作家になろうとなど思わないから、そういう賞をもらうことはできないとお思いになったんだろうと思いますね。さっき話した林京子さんは長崎の女学生のときに受けた原爆のことばかり書いている人ですけども、あの人も文部大臣新人奨励賞だったか、おもらいにならなかった。やはりその自分の作品ではそういうものをもらう気にならないんですね。ほかの賞ならばまた考えようもありますけど、文部大臣賞なんて政府の賞はもらえない、もらいたくないという気なんだろうと思うと、作家と題材との関係での自らの生き方みたいなものがそこにある。石牟礼さんと林さんにそのことを感じたことがあるんですけども。
私は、さっき長崎を書かなかったといいましたけども、その後長崎へいっている間に、ひとつのテーマが、テーマといいますか、書かなければというものが自分の中のものになって、私にそういう作品がひとつあるのです。それは原爆を負った人々のその後の生活を書いたものなんです。石牟礼さんは、作家になんかなっちゃったとおっしゃったけれど、もうほんとうに私のようにこういう仕事をしておりますと、故郷へ帰りますのにもね、いわゆる「作家故郷に帰る」というのがうたい文句で、そしてそういうときもとめられるものは、たいてい、長崎の表面的にうつくしいものでまとめたいという企画が多ございますでしょ、そういうときはたいへん私はジレンマでつらかったんですけどね。どこへ落ちたらいいということでは絶対ないわけなのですけれども、なぜ自分の生まれた町に原爆が落ちたのかと、私、ほんとうにそう思いましたからね、つらくって。だから石牟礼さんとしては、ほんとうに水俣とご自分の関係は、実に切実に緊密なものなんだと思いますね。そして丸木さんたちのお仕事があって、土本さんのお仕事があって、ほんとうにいいお仕事をしてくださいました。
石牟礼 いや、あの、心苦しいわけです、そのようにおっしゃっていただくと。まあテーマ主義みたいなのがいわれていますけれども、たまたま、それこそ運命的に書いているわけで・・・。それはもうちょっと置いておきまして。佐多さんのお仕事をずっと拝見しますと、中野重治さんがお書きになっている「くれない」の解説の言葉の中に、一九三六年頃の戦線の総撤退のしんがりを、佐多さんがご自分の生活を肉体化して書いておられると、そのおつらさみたいなことを、解説もたいへん苦し気に書いていらっしゃいます。あれを読みますといまの状況と重ね合わせて、やはりかたちは違いますけど、物を書くにしろ書かないにしろ、現在の、そちらのほうの言葉でいえば戦線の壊滅状態というか、一種のかたちにできない時代にいまはいっておりまして、そこから佐多さんの作品を通じて生身のほうをより強く感じてしまうというふうに読ませていただくのですね。それを思いますときに、ご自分の生身を素材にして書くというのはどんなにたいへんかと思いますのね。そういう意味では水俣に材を取ろうと、広島に材を取ろうと、人間のことであるかぎり全然変わらないといいますか、むしろひとりの生身を通じてしか歴史というのは見れないんだというふうにも思うのです。ことにお作品ではそれをほんとうに痛切に、ことに女という立場から痛切に思いました。そのなんというのか、原点でいらっしゃると思います。
佐多 中野さんが『くれない』という私の作品の文庫のあとがきを書いてくれたのですけれども、階級闘争のしんがりのしんがりを私が務めたみたいなところを書いてあった。それを読んだときに私は、自分のことを書いてもらっているのに、そこで声をあげて泣いてしまったんですね。それだけわかっててもらえれば満足だと思って。満足だというよりも、そういうことはなかなかないことであって、それだけわかっていてくれる人がいたなあという感激でね。あのあとがきには私が声をあげて泣いたんです。それも書いていますのでみんなに知れわたっていて、「佐多稲子を泣かせた中野重治のあとがき」ということになっておりますけれども。それはほんとうになにも作品だけではなく、自分の歩いてきた道を汲み取ってくれる人を友だちにもつということは、あることでもあるし、ないことでもありますでしょ、だからたまたまそういうことがありえたということはたいへん幸せなことですねえ。みなさんにもいいお友だちがいらっしゃるように。
土本 記録映画というといつも現在を撮っているように思われるかもしれませんけれども、一番事態の煮えくり返っているときはぼくはあんがいキャメラというのは持っていないんですね。その波が過ぎたあとで撮っていくということばかりやってきたんですけども、これからも、ぼくもいろいろ頭を冷やしながら次をやっていきたいと思います。表現者というふうに自分を思ってはいませんけども、あとがきじゃありませんけども、こういうかたちで励まされているので、そういった励ましの質を抱えてやっていこうと思います。きょうはほんとうにどうもありがとうございました。
北川 きょうははじめから司会のほうでもしゃべる気はなくて、ずっと最後までおふたりの話をうかがっていく中で、ぼくたちがこの企画をたてた思いの、すごくいいところで話していただけたという感じを受けました。たとえば石牟礼さんをとおして考える文学とか水俣とか、そこから石牟礼さんにつながる時空間を共通にもてるわけです。で、ぼくたちの親たちがーぼくは実際にそうだつたわけですけどー佐多さんの仕事の中から受けてきた時空間というものがあって、世代や生きる場が違っていてもそういったことがつながっていく機会が、一見断層をもっているいまの世の中に、あればいいと思っているわけです。そういう気持でこの企画をたててみたわけですが、きょうの話をうかがえたのは非常に嬉しかったです。
後記一石牟礼道子
裾捌きにこだわっておりました。
木綿や絹にまといつかれている女の素足が、大地を踏みしめる、前に進む、という画一的なことでなく、足は一人だったり二人だったり、道連れはいとしい者たちだけでなくあらぬ人であったり、朝の陽がさしていたり、まといつく下着の色は何色で、必ずしもなまめかしいだけでなく、あしのうらに石を踏む女たちにとっては、感触を伴っていたであろう歴史の曲り角や深淵。
佐多さんの御文章から、わたしはそのような靴をはいていない素足の激情やあわれや、凛冽な知性を感じ、おえつしたくなることしばしばです。
今日の女たちのエネルギーの芯に、やはり蹴出しを伴った素足が見え隠れする、それがなんともいえず美しくて、時代がひらけてくるとは、そのような足許の景色からはじまり、女たちの感受性の年表として、しるしておきたくて言葉に出たように思います。『くれない』など読んでおりまして切ないあまり、著者を顕彰したい気持が激情的に襲っておりました。
着物を趣味といえない女たちがまだ生きていて、過去にも未来にも異和を感じている、その英和の質をも考えてみたいからでした。