私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム6ー夫婦の共働・40年 澤地久枝十丸木俊+土本典昭 対談 <1981年(昭56)>
 私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム6ー夫婦の共働・40年澤地久枝十丸木俊+土本典昭 対談

北川 きょうは、歴史を軸に据えながら、人間をとおして社会をみつめておられる作家の澤地久枝さんと、この映画のモチーフになりました「水俣の図」を描かれた丸木俊さんをお招きして、監督の土本さんとお話ししていただこうと思ってます。

澤地 こんばんは、澤地です。私は試写室で、偶然、幸せなことに佐多稲子さんと隣り合わせの席で映画を見ました。そして冒頭のシーンできれいな海が見え、強い風が吹いているところで、御夫妻が紙を広げ、パタパタ紙があおられている。その風の中でデッサンをはじめられるところがありますね。あれを見ているときに、私はそんなに泣き虫でも感傷的でもなく、かなり意地っ張りで減多に泣かないんですけれど、あのときは、あの場面を見たとたん、涙が流れてきて止まらなくなったんです。それはなぜかといいますと、多くの女たちはこういうかたちで男の人と共同の仕事をしたいという夢を描いて生きてきただろう。けれど、まわりを見まわしてみると、これは私も含めていわなければならないのはとても残念ですけれど、いわば夢の屍が累々としてある。男と女が力を重ね合うことでほんとうにいい仕事をする可能性がいっぱいあり、それをやりたいと思っていた人間がたくさんあるにもかかわらず、すぐにサルトル、ボーヴォワールといわなければならないように、なかなかひとつの作業というふうには重ならなかった。そりゃ丸木さん御夫妻だって人間だから四十年のご結婚生活の中にはいろいろおありだったと思うけれども、しかし、この時点でもう年齢を召されたおふたりが、ひとつのテーマの中で仕事をしていらっしゃる、そう思ったら涙が止まらなくなっちゃったんですね。で、終りまで泣きっぱなしでした。試写が終って出てきてから佐多さんにそのことをいったんです。私がなぜ佐多さんにそのことをいったかというと、窪川鶴次郎さんという同じ左翼的な運動の中で愛し合って結ばれた夫がおありになった。しかし佐多さんが治安維持法違反の被告人になって公判廷に立たれるときに、窪川さんはほかの恋愛があって、その公判にはおいでにならなかったということを作品をとおして私は知っています。敵との闘いにおいてはどんなに強くもなれるけれども、一番ぬくもりを分かち合い、悲しみを分かち合い、勇気を分け合わなきゃならない、一番そばにいなければならない人がいない状態で、あの天皇制の法廷で被告人として立った佐多さんの心の中の孤独、荒れ果てた広野のような気持を思いました。たまたま佐多さんが左席にいらっしゃったもんですから、ひとしお、日本の女たちが歩いてきた無惨に破れた夢を思いながら見ました。そして、いろいろなことがおありになったとしても、ここで丸木位里さんと俊さんは海に向かって水俣の図を描いていらっしゃる。いいな、というのがまず素朴な感想です(笑)。

丸木 ありがとうございます。いまおっしゃっていただいて嬉しい。ほんとうにいろいろなことがありました。ですけども・・・。

澤地 いままでの原爆にしても、南京大虐殺にしてもアウシュビッツにしても、手法的にどういうことになっているのか、私は絵はまったく門外漢のせいもあってわからずにいましたら、今度の映画を見ると、思いつきり墨を流されますでしょう。描いた絵が消えちゃうんじゃないかっていうくらいね。でもあれは体力と気力のいる仕事ですね。芸術であるっていう以前にね。

丸木 そうです、そうです。

澤地 映画の中で俊さんが、やぎのお乳をしぼってらっしゃるところがあって、俊さんじゃなくちゃ、やぎがいうこと聞かないっていうところがありましたけれども。あの、お勝手向きの仕事もおやりになるんですか。

丸木 はい、そうです。全部が全部いまはしなくてもいいんです。それは、ヨリちゃんっていう子がきてくれて、台所一生懸命してくれて。ですけど、だいぶ前からその子とも議論するんだけどね。自分で手を汚さずにものを食うてはいかん、ということにだんだんなってくる。たとえば、牛を殺すのいやだから殺さない。だけどお金を出せばあるから買ってきて食べるというような食べ方は傲慢ではないか。牛を殺すことができないものは牛を食わないんだなあっていうことになって。菜っ葉を作れない人が、菜っ葉食っちゃいかんよって。絵描いているとどうしてもすわり込んでしまうでしょ。すると足が弱りますから、さ、草取りだ、さ、とり入れだなんていうとどうしても動きますからね、かえっていいんじゃないでしょうか。

澤地 東京よりはずっと空気はよさそうですね。

丸木 いいと思います。排気ガスが雲にのって固まって雨になって降ったりしますけどね。ですけど、まあいいんじゃないんでしょうか。農薬はうちのほうは多いですよ、やっぱり。

澤地 やはりまだ使っていますか。

丸木 はい、使っています。農薬は都会のほうに少いんじゃないかしら。

澤地 東京は問題になりそうなことはうるさいから目立たないように(笑)東京からは押し出してってことはありますもんね。

丸木 そうそう。原発東京につくったらいかがっていったら、通産省がたまげてたっていうから。やっぱり密集地帯には無理だよっていったっていうからね。だから危いってことは知ってるんだな。

澤地 (笑)そうですね。きのう、例のスペースシャトルなるものが地球に帰ってくる瞬間を、つい見てしまって寝不足になりましたけど、NHKの放送見てましたら、科学者なるものがね、ものがっていっちゃ悪いけど、人が、つまり確実に帰ってくるとは誰も思ってないんですね。つまり、降りてくる以外ないっていうんですね。よくそんなに不確かなことでふたり乗せてあれ出しましたね。

丸木 ねえ、なんのため。

澤地 私きのう見ててね、つまり原子力使って発電所つくるっていうとみんな反対する。だけど、科学者がこんなにいい加減で、確かに大丈夫というところまでいかないかぎりはやらないっていうんじゃなくて、まだ途中でも実験するみたいに、あれも飛ばしてみるというようなことで、発電所もつくるという姿勢ね、そういう不心得な科学者がいるんだったら、ああこれはやっぱり最初からいやですっていう以外にはないし、きのうの番組はなんだか宇宙の時代なんていってるけど、あれは軍事兵器にたぶんすぐに直結するんだろうと思って見ていましてね。たまたま出てた人は男ばっかりだったんです。

丸木 ああ、やっぱりね。

澤地 女もダメな女いるんだけれども(笑)。生命が大事だということをまず一番最初に置いてものを考える、そういう女の人がひとりはいってやったら、番組はグチャグチャになっただろう、そのほうがおもしろかったっていうか、大事だったなあって思いました。「原爆の図」からはじまって、この「水俣の図」をお描きになるところまで、私が考えた御夫妻のモチーフはやっぱり、かけがえのない生命を奪うもの、生命を蝕むものに対する憤りということでつながっているんじゃないかなと思いおもい拝見したんですね。核爆弾を使うということもたとえば二十六万人死んだとしたら、その二十六万人は一人ひとりがかけがえのない、たったひとつの人生を生きている二十六万人。だけど、目的のためには殺すことをなんとも思わなかった。それから、南京では、これは加害者は日本人ですけど、二十数万とも三十万ともいわれる南京の非戦闘員、女子どもを、これもまた無惨に・・・。どっちが残忍か、アウシュビッツとどっちが残忍かといわれたら、答えられませんけどね。アウシュビッツは毒ガス使って、非常に効率よく大勢殺したからより残忍で、日本はいわば手仕事のようにねーへんないい方で手仕事を汚すようないい方になるけれども一人ひとり首をはねるような殺し方するから、そうたくさんは殺せない。だから南京のほうがより残忍さが少いというようなことはいえない。同じように残忍ですよね、人間性の抹殺という意味でね。
 水俣というのは、どこにも戦争はない。弾丸一発撃たれないけれども、ひとつの企業が利益を追求するために、有機水銀という誰が考えてもたいへんに毒性があって、生命に対してとり返しのつかない損壊を与えるようなものを、あの美しい海に平気で捨てた。たれ流しという言葉は汚い言葉だけど、まさにそうしたのは、人の生命がどうなろうと平気。ましてや、海に自然に平和に暮らしていたタコだって貝だって魚だって、食べられるためだけにいるんじゃなくて、生き物たちにはそれぞれの生命があって生きていて、しかし、これはお互いの役割で仕方のないことで、人間は殺生をしてとって食べて生きているわけですね。だから人間にとってはとっても恩のある生き物たちに、まずその毒がいって、そして汚染は連鎖状に毒がだんだん濃くなっていくといいますけど、今度はその魚を食べたあの罪のない猫たちが狂い、そしてついに人をも侵す。これは生命に対して実に傲慢で畏れを知らないということでは、戦争のときの殺戮と同じですね。

丸木 そうそう、同じです。ボカンと原爆みたいに破裂しなかっただけでね、同じですね。

澤地 同じですね。そしてそれが平和憲法の下にある日本、そして経済大国で、いまや経済大国としてはまるでいい洋服を着るみたいに、軍事力をもっともたなければいけないというその国で、また別なかたちで繰り返される可能性がたくさんあるというところが、非常に恐ろしいし、腹のたつことだと思いおもいして、おふたりのお仕事ぶりを映画をとおしてつぶさに見せていただきました。で、きっとね、ここにいらっしゃる人たちは、映画をご覧になって感動なさったと同時にね、こういうおふたりが、つまり別々なところで十一年間の時間の差をもって生まれたひとりの男とひとりの女が、やっぱりどうやって歩いてきたか。表現というのは自己主張だと私は思うのね。表現するふたりの人間がひとりの人間になったようにひとつの仕事に打ち込めるーというふうになられる足どり、ある意味では生ぐさい男と女の物語もお聞きになりたいと思ってらっしゃると思うんです(笑)。『女絵かきの誕生』という俊さんのご本があって、その中にも少し触れられているけれども、私はまるで無神論者でして形のある神は信じないけれども、どこかで、なんていうのか人間を創ったような神さまがいてね、その神さまがこの男とこの女は結ばせなきゃならないと思ったみたいな出会い方をなさってますね。で、まず絵にほれ込んでおしまいになったでしょ、位里さんの絵をご覧になったときにね。

丸木 そうそう。

澤地 それからもうずいぶんのご年配だけど画面を見ていて、位里さんていうのはいい男じゃないですか?男の方が見てもそうですか。

土本 いやあ、もう。

澤地 いい男ですねえ。ねえ? どうなんですか、俊さんにうかがいたいですけど(笑)。

丸木 うん、そう・・・そうですね。

澤地 でも、なかなかたいへんな男の人みたいではあるけれども(笑)。

丸木 そう、たいへんなの。

澤地 いやっていったら絶対きかないでしょ。こわい人ですか?

丸木 こわ・・・こわい・・・っていうかな、なんていうかな。勝手放題の人です。

澤地 いやなことはしない?

丸木 そう。

澤地 それから、泉のようにいっぱいお湯の出るときもあるけど、何日も伺十日も全然一滴もお湯が出ないっていうふうにお仕事なさるんですって?

丸木 そう。なんにもしないときがある。ながーい間。

澤地 いちばん長かったのはどれくらい期間ありますか。

丸木 まあ半年くらいね。

澤地 そのとき何してらっしゃるんですか。

丸木 じいっと空を眺めてるときもあるし、それから、まあ庭仕事はしますね。あれ大好きなんですね。狭いところに住んでるときは、こっちの梅の木をこっちに植え変えるでしょ。植え変えたと思ってしばらく眺めていると、また植え変えるのね。それでまた植え変えるから、木の身にもなってやってくださいよって。枯れちゃいますよっていうのね。それでも自分の気がすむまで植え変えるの。

澤地 で、枯らしはしないの?

丸木 いやあ、だいぶ枯らしましたよ。

澤地 (笑)腕のいい庭師でもないんですね。でもそうやって描きたいという思い、熱があふれでくるまで待ってらっしゃるんですね。

丸木 絵を描きたくなるのを待っているんじゃなくて、描きたくないから描かないだけで、描きたくなったら描くという・・・。

澤地 絵を見てほれ込まれて、位里さんという本物の絵の作者にお会いになってね、きっとしびれるみたいに何かお感じになったんだと思うんですね。北海道のお家にお帰りになるとき、リュックサックしよって上野の駅まで送りにいらして十和田に写生にいくとおっしゃって夜汽車か何かでいらっしゃる。これは映画でお撮りになったらいいと思うくらいロマンティックなんだけど、そのとき、若い俊さんが実にうまい聞き方をされる。省略されている言葉をおぎなえば、いまふたりがお互いに心を惹かれ合って結ばれようとしているけれども、しかしこのことで悲しむ人はいませんか。その悲しむ人はいませんかっていうところだけお聞きになったって文章では書いてらっしゃいますね。そうすると、「います」って。これも男の人としては正直ですね。で、その、しかしもう気持は離ればなれの夫婦になっている。
 もし身の上相談で私のところにそういう相談がきたら、およしなさいっていう。男の人は自分の願望として、そのとき半日とか一時間の真実として、あの妻とはもうほんとうにダメだから、別れてこの人と一緒になりたいと思うのでしょうが、現実はなかなかそうはならなくて、たいていうまくはいきませんね。

丸木 そうそう。

澤地 そうですね。だからあのときにね・・・。

丸木 うそ、それもうそじゃないかなあって思った。

澤地 うそ?ああ、そのときに。

丸木 ・・・思ったけどほんとうかなあって思って、ほんとうのほうがいいと思うでしょ。

澤地 そうそうそう。女はみなそう思うのね。

丸木 だから・・・・・。

澤地 それで信じるほうに賭けてごらんになった。

丸木 うん。

澤地 ただね、俊さんはよく見てらっしゃると思うのは、洗たくもゆき届いてね、きちっとした身なりをしている位里さん・・・なんですよね。そのときにね、たぶん四十歳に近いですね、位里さんのお年齢。数えでいったらね。

丸木 そうそう。

澤地 それでこれだけいい身だしなみのできる生活、つまり、明治の男の人、男手ひとつで洗たく、針仕事はできないから、誰かそばにいて心配りをする女の人、つまりは妻がいるであろうと俊さんが見てとるところは、女として俊さんがとても冷静でいらっしゃると思うのね。これだけ細やかな心づかいをしているその女の人は、自分がこのひとと結ばれたら嘆くだろうと思われて、その言葉を口にだされる。だけど結果的には十和田でおりられて、事実上はそのときにご結婚・・・形式は別として、そのとき男と女になられたわけですね。

丸木 そう。

澤地 結局、信じて、信じたことでうそかもしれなかったことがほんとうになったんですか。

丸木 そう。

澤地 そうなんですか?そうするとたまには信じたほうがいいこともあるんですか?

丸木 そう、信じるというよりだまされるというのかなあ、だまされちゃった。

澤地 えっ。

丸木 だまされたから、で、そのだまされたことがほんとうになっちゃったのかなあ。

澤地 どうなんでしょうねえ。ただ、あの、もしかして・・・男の人、土本さんに聞こうかな(笑)。北川さんに聞こうかな。男の人はこんな話はおいやですか(笑)。

北川 いやあ、おもしろいけど、しゃべりにくいですね(笑)。

澤地 俊さん見てると、火の玉みたいにパアツと一生懸命生きてるでしょ。よくお勉強もしてね。それから、ただ自分のために生きるんじゃなくて、世の中のためにも生きたいという気持がある。誰だって若い青春の歩き出しのときにはそう思わない人間はいないけど、どこかで汚れて消えちゃうのか捨てちゃうのかして、なくなるようなね、原点というか初志をもってる人、そういう人に信じ込まれた位里さんは運のつきだったんじゃないかな。それも両方でだから運命的みたいな気がするけど。

丸木 そう。だから私みたいな、信じ込んだらしゃにむに進んでいくような人に出会っちゃって、お気の毒だなあってことはときどき思いましたよ。

澤地 おふたりはほんとうになるべくしてこうなられて、だまされたから、ついに「水俣の図」をお描きになるところまでこられたと思うのは、ふつうは一組の男と女が信じ合おうとし、信じ合ったとしてももうひとり、第三者がいるわけですよね。その人は信じることの外側にいて、自分の全生活の否認がくるのだから、いやだといいますね。ところがその方は、私、彼の妻ですっていってあいさつに見えるでしょ。これもたいへんなことですね。

丸木 そしてそこで話し合った。それで、どうしましょうっていった。そしたらもう、位里はそういう人間だから私の手には負えない。私がまた火の玉みたいな人だから、あなたにもどうすることもできない。だから差し上げますっていったの。

澤地 あのねえ、その差し上げますですが。まず俊さんがわびられて、夫人であった方が差し上げますって・・・。いってみれば白刃でニコニコ渡り合っているようなときに、位里さんはどうしてらしたんですか。

丸木 位里のおらんとき。

澤地 やっぱり、そういうときに男の人は逃げるんですか。

丸木 位里のおらんときに話したの。

澤地 おらんときに女ふたりでお話しになった。はあ。

丸木 でも私そのときね、私いくら火の玉でも、奥さんがダメだって本気でそのときいってくれれば、私は引いたと思うの。

澤地 そうでしょうね。いくら位里さんが男の真実を賭けて迫られたとしてもね。ほんとうに泣かせなきゃいけない人がひとりできるとしたら、やっぱりそれは、お寺に育ったっていうこともあるのかもしれないし、ご気質かもしれないし、なんともそうだったろうなあというものがおありですねえ。

丸木 それでね、こういうかたちで結ばれたということは、並大抵のことではないわけ。だからこれは大事にしなければならないと思った。だから、一生懸命になって添い遂げてみせようということを覚悟した。で、そのことが別れてくれた前の奥さんの好意にこたえることになるのだと思った。

澤地 いや、そんなことはなくて・・・そうだろうと思います。でも妻であった人はそんなになかなかね。その人はやっぱり夫である丸木位里という人間をよく見ていたし、それからそこに登場してきた赤松俊という女の人をよく見ている、ほんとうに言葉そのものの聡明さをもっていた人だと思う。これはあんまりいないタイプの女の人ですね。このものわかりのよさねえ。

丸木 わかりすぎるよ。

澤地 うん。でも私その人、どっかで泣いたと思う、やっぱりね。そんなにきちっとわかったからって、気持の整理はつかないものね。

丸木 そうそう。

澤地 それから、どうぞ差し上げましょうという程度の、つまんないというか、はい、あげましょうってな男だったらたいしたことないしね。

丸木 そうそう。言葉はそういう言葉だけど、たいへんなことだと思うんですね。

澤地 ご存じない人でその人のその後の運命やいかにと思われるといけないと思うけど、ふたりでちゃんと高津正道さんの奥さまになられるようにいろいろとご配慮をなさって、その後幸せに結婚なさった。お子さまもおできになったというんで、ともかくまあよかったと思うんですけどね。犠牲という言葉はきついけども、いわばそういうことがありながら一緒になったおふたりだから、添い遂げなければすまなくなった。でも四十年夫婦としていらしたら、位里さんていう人は、絵の仕事でもときどき風のようにふっと遠くへいってしまわれたりするでしょ。だからいつもいつも、四十年通して愛し合っている夫婦じゃなくて、男としても風のようにどこかへいっちゃったんじゃないかなと思うんですけど、その点はどうでしょうか。

丸木 その通り。

澤地 やっぱり。

丸木 で、私は怒ってるでしょう。

澤地 ええ。でもそこのところはっきり書いていらっしゃらなかったですよ。

丸木 そうか。あんまり恥かしくて書かなかったんだ。

澤地 何に恥かしいんです?誰に恥かしいんです?やきもち焼いたこと

丸木 うん。

澤地 やっぱりやきもち焼いた?火の玉のように?前の奥さまのようにわかりよくない?(笑)

丸木 あんなにわかりよくない。逆。

澤地 がっちりつかんで揺さぶってっていう感じ?

丸木 それほどでもないけどね。うんと怒ってる。

澤地 でもそんなにさまよい歩いて風ばっかりでした?何回も風になったですか?

丸木 何回もやらかすね。

澤地 何回も。それどういうことなんでしょうね。

丸木 私が火の玉みたいだからかな。ちょっと逃れたいとか・・・。それもあると思いますね。

澤地 仕事のことがからんで?一緒にいることが息苦しくなって?

丸木 うん。そうかもしれませんね。

澤地 土本さん、そういうことお聞きになったことないですか、位里さんに。男どうしの話として。

土本 ないです。

澤地 どうしてお聞きにならないの。

土本 いえません。ハハハ、そんなこと聞いてないですよ。

澤地 あ、聞かないの。私なら聞くのになあ(笑)。そういうことおありだったんじゃないかなぁと思って。たいへん申し訳ないけど。

丸木 いえいえ。それはねえ、いうのが恥かしいみたいだけど。いうのが恥かしいというのもおかしいことだと思うけどね。だけど、そうすると私が夢中になって仕事するわけです。たとえばね、「原爆の図」なんか描くと、もうカンカンになって描いているわけ。そうするとね、原子爆弾にあたった人なんかつらくてつらくて、幽霊になったって。描きながら、私も幽霊になりたいぐらいでしょ。それで描いてると、原爆の怨念と女の怨念が重なっちゃうのよね。そうするとものすごくすさまじくなっちゃうのよね。自分でも最初に描いた原爆の幽霊の絵に、おなかが大きくなった女の人が被爆するでしょ。そうすると、妊娠したままふたりで死ななくちゃならないでしょ。自分で裸になって鏡見ながら描いたりしたんですよね。そうすると、二つの怨念が同じような意味で一緒になって幽霊の姿になってウワアツとでててね。ぶら下げてあったのね、はじめ紙だから。夜中にトイレいこうと思って起きたら、風でパーッと動いたの。自分でもこわくなっちゃってね、もうゾーッとしてね。ああ私もこんなかなって思ったりしてね。だけど、すごい原爆のことがでたなって思った。それで描き進んでいく勇気がまたでたの。そういうのそのときは恥かしくて口にもいえない。いまでも恥かしいけど、でももう数えの七十歳になったから、だからわりといえるようになるの。そうすると、そういう思いに自分がなっていたということは、作品のうえではで、そうだとするといいことだったのかなって思っちゃうね。プラスになってるのね。

澤地 ご本の中の夜中にギョッとなさったというところで、私のおなかの中には生まれてくる生命力があるんだと書いてらっしゃる。そのときに、自分は子どもを生んだことはないけれども、母となることがわかったって書いてらっしゃる。その箇所だけじゃなくて、俊さんは女が子どもを生むということに対してなみなみならずお気持が動かれるところがありますね。
 で、こういうことを申し上げるのは失礼かもしれないけれども、おたくにお子さんいらっしゃらないでしょ。だから生まれるべき子どもを生めなかったのか、生まなかったのか、あるいはおできにならなかったのか、それはわからないけれども、でも、そこのところで、生めなかった、子どもを生めなかった女としてのドロドロとした思いがあって、それが、身ごもったままで原爆のあのピカにやられておなかの子と一緒に焼かれて死んでいく人を描いているときに気持ものり移る。それから、たとえば、むごいと思うけれども、お母さんのおなかの中にいて、お母さんの胎盤をとおして有機水銀の毒をもらって、胎児性水俣病になった子どもたちがお母さんの手の中に抱かれて、ほんとうに、一日も立つことがない、口を聞くこともないままで人生を終っていく子どもが、そういう形のまま、女としての生理の日を迎えるというようなことね。あの映画の中にもそのことは語られているけれども、女の生命とか女が子どもをもつということに対して、俊さんはなみなみならぬ気持の動かし方がおありになる。これは、俊さんの女としての人生の中にある深いひだのようなものではないかと私は思ったんですけど。

丸木 なるほど。そうですか。

澤地 私が試写のあと、目をまっかにして最初に申し上げたようなこと話をしたら、佐多さんが、いやあ、いろいろなことがあのおふたりにだつであったのよっておっしゃったのね。

丸木 はいはい。

澤地 そうかもしれない、あって当り前だなって思ったのだけれども、そうすると、信じ合って一緒になられても、四十年の歳月、最近はまあたぶんそんなにないと思うけれども、何年か前ぐらいまでは、いろいろと女としての業火に焼かれるような思いを経験なさったのです。もし、ここに位里さんがいらしたら、私がそんなことギーギーいうとまた心臓が悪くなるからちょっとまずいんだけど(笑)、やっぱり、さまよっていく先がね、牛を描いたり山を描いたりしていればいいんだけど、やっぱり人肌のところへいかれるわけね。

丸木 そうそう。

澤地 ああやっぱりね。そうですか。みなさんご安心ください(笑)。でも、それでも離婚なんていうことお考えにならない。でも別居のようなことしかけて、おやめになったりしてますね。

丸木 あります。ちょっとそういうような言葉にもでたことあります。

澤地 別れ話がでたこともありますか。

丸木 あります。

澤地 どっちが先におっしゃったの?

丸木 位里のほうがいい出した。私は黙ってた。なんでいうかなあ、添い遂げようって覚悟したんだ。だからいわないの。じっと様子を見てる。

澤地 位里さんのほうは別な方と添い遂げようという気になっているんですか、そういうときは。

丸木 そうです。

澤地 ある意味で、正直といえば正直な方ですね。

丸木 そうです。

澤地 バレちゃうんでしょ、はじから。

丸木 バレちゃう。だいたいわかるんじゃないですか、どの夫婦でも。バレるというか、自分の愛してる男が、ほかに心がいってれば、わかっちゃうでしょ。ねえ?

澤地 そうすると、どこまでも添い遂げようと思った俊さんが、もはやこれまでと思ったらこわれた二人ね。「原爆の図」をお描きになったあとでもそういう状況がおありになったんですか。

丸木 ええ、途中でね。

澤地 途中で。そうすると、仕事の目的があったから、一緒にいられるということだけではないですね、やっぱり。

丸木 そうです。ただその仕事がずいぶん、やらなきゃならんとか、つづけなけりゃならんとか、または、共同制作しているということがおもしろいとかね、そういう魅力がずいぶん仕事のうえでありましたから、もしかしたら、「原爆の図」のおかげで、「水俣の図」のおかげで、私たちが四十年間、つながってきていたのかもしれない、そう思います。

澤地 俊さんが、女として信じている者に裏切られて、ときにドロドロした怨念みたいなものを、殺されていく女の人の絵の中に託したように、位里さんは別な男の情念とか怨念みたいなものをお描きになった。まあ人物よりはそのほかのものを主としてお描きになっているにしても、あの墨を流す作業とか、そういうものの中に、その、言葉にはしない何かを託しておられるということがあるでしょうか、男として。

丸木 そう・・・そうですね、あると思います。
 それは、墨を流して歩くというもおしろさと、私がいかにもデンと構えていて仕事していて、エイ、こいつやっちゃろかというようなね。ササーと飛んでくるでしょう。そうすると私はやりやがったなと(笑)。それはおもしろいですね。シャクにもさわるし。それは両方にあるんじゃないでしょうか。で、そのおもしろさというのは、こっちで風のようにどこかいきたくなっても、そんなおもしろいことないでしょ。ほかのおもしろいことあってもね。だからまた戻ってくる。

澤地 いろいろなことがありながら、いまこうしてかけがえのないおふたりでいらっしゃれる。やっぱりそれは男と女のあり方にとっては、救いというか、啓示みたいなものがありますね。いばることじゃないけど私ひとりでいますから、うらやましいと思いますもの。私は信じられないからダメなんです。

丸木 どうも、どうもすみません。水俣にいかせてもらって、みなさんにお会いできて、それをまた映画にしていただいたりしてね、ありがとうございました。どうもありがとう。映画の中で、浄土・・・浄土を描けよ、浄土を描けよっていわれて、水俣は蘇りたいんですよっていってくださってね、何が浄土か、どれが浄土か、浄土つてなんだろうかなどと、ずいぶん勉強させてもらいました。
 で、みな水俣ヘボランティアでいくでしょ、いついちゃう。

澤地 塩田武史さん・・・でしたつけ?カメラの人も住んで、子どもふたりできて。

丸木 どうしてあんなにいつくんかなあって思ったら、やっぱり浄土なんだわね。それは、これはなんかテレビ見てたとき、田舎の芝居でね、ものすごくみんなが喜んでる芝居があるのね。それはもう、子どもの頃から売られたりして、とうとう遊廓へいかされたりして、目が見えなくなってしまって、男たちの斬り合いかなんかのそばづえで、自分も刀で傷受けてもう死にそうな、そのときに幼なじみに出会うんですよね。それで、抱かれて死ぬんだけど、そのときに、こんなつらい一生の中でこんな嬉しいことが私にもあったっていって死ぬんだねえ。そうすると、それは浄土だねえ。だから、あのつらいこと、たくさんつらかった人が一番嬉しい目にあうのね。それはほかの人にとっては、たいした嬉しいことではないかもしれない。同じようなことであってもその人は、一番それが嬉しいと感ずるわけよね。で、はあ、これは浄土だ。水俣の浄土とはそこかなあって思ったりしてね。だけど蘇るっていうことでは、しのぶちゃんや清子ちゃんに赤ちゃん抱いてもらった絵を描いたけど、健康な児が生まれたら水俣は蘇る。ここから蘇ると思った。ですけど、これは日本中、世界中の人間がほんとうに蘇ることができるんだろうかつて。もう水俣はここにもあるわけよね。そういう勉強をさせてもらいました。

澤地 石牟礼さんが、たぶん私は日本のもの書きの中で一番好きな人で、なつかしい人。いろいろな方が水俣のことを調べたり書いたりしてらしたけれども、私はとても何かできるとは思えなくて、沖縄の問題もそうでしたけど、ずいぶんいろいろな問題から私は逃げて逃げて。そのうちに逃げられなくなると取り組むというようなところがあるんですけれども、どうしてもやっぱり石牟礼さんに会いたいと思って水俣にいったんですね。それがちょうど、亡くなった智子ちゃんも、しのぶちゃんも成人式を迎えるところでしたから、いま二十四歳といえば四年前だったと思います。そこで石牟礼さんと会い、気持として私は水俣の患者さんたちの側にいるんだけれども、言葉が、どういう言葉を使えば傷つけなくてすむのかと、もう私の中でしどろもどろになっていたんです。
 で、智子ちゃんの家へいったら、お母さんがこんな小さなはたちの智子ちゃんを抱いて。智子ちゃんは外からきた人間がわかるから、言葉にならない声をあげて、目を動かして、何かものをいいたそうにしている。それが何をいおうとしているのかわからないんですね。
 そのときに、私は、会いたくてきた、ということをいいたかったのだけれど、やはり胸を衝かれたし、そのときにどういう言葉を使っていいのかわからず、ちょっとお顔を見せていただきにきましたっていったんです、いってしまったんですね。
 これは、ふつうの、たとえば病気をしている人にちょっとお顔を見に寄りましたよっていうことは絶対傷つけることにならないけれども、いろいろな人が見せ物のようにして見たかもしれない智子ちゃんのところでは、たぶん絶対にいってはならない言葉だろうと思うんですね。石牟礼さんが案内してくださっていたけれど、石牟礼さんはそのとき、ドキッとなさったと思うんです。私が不用意な言葉をいったのでね。その、顔を見にきたんじゃなくて、案じてきてくれたんだということを、あの水俣のやわらかい言葉でね、すぐにとりなしてくださったんで救われました。でもあの智子ちゃんが亡くなったというのは、私はとてもつらい話として聞きましたね。それっきり水俣へいっていませんけれど、石牟礼さんがああしてお目が悪かったり、決してご丈夫な方ではないのに、ひとつのことで頑張っていらっしゃるということはね、つまり私のように怠惰な人間も、精一杯やらなかったら、お前は許されないだろう、許されないぞって誰もとがめないとしても私自身が許さないという気持になって、仕事をして、暮らしているんですね。今回のここでの企画というのは「表現に力ありや」というけれども、そんなことを聞かれること自体、私は不本意でね。もしみんなが表現することに力がないと思われるのなら、もう一切、文章を書くことも絵を描くこともそれから言葉で何かいうことももうやめたほうがいいんでね。ただ、そうじゃなくて、やっぱり、思っていること、相手に伝えたいことをいいつづけるということが必ず力になると思う。それは理屈ではなくてみなが肌身にしみて、親代々の知恵みたいにして知っているから、丸木さんは絵を描く。私はへたな文章を書く。土本さんは映画をお撮りになる。それから会社で事務をとっている人も、お友だちとキチッと話をするということにも表現はあるんで、そうやって表現をすることで人間は人間でありつづけるんだろうと思っているんです。
 ご本に「原爆の図」の前で背中に赤ちゃんをおぶったおばさんが、さわっちゃいけませんと注意がでているのにさわっている姿を書いてらっしゃいますね。そして、ふつうならさわらないでくださいととがめなきゃならないけど、原爆で殺されていく人たちの絵をさわっては、背中の赤ちゃんに、この人たちはこうして死んだというと、背中の赤ちゃんが大阪の言葉で「かわいそうやな」というところがありましたね。おばさんと書いてありますからいくつか知りませんけども、その中年の人は、絵にさわって、そして背中にしよってる子に話をして聞かせて、ピカということがどんなにこわいことなのかということを表現しているわけです。そして、表現に力があると思うのは、それを見ていた丸木さんも位里さんも、自分がやっている仕事に勇気を与えられたと思うんですね。やっぱり、描いてよかったってお思いになったんじゃないですか。

丸木 そうそう。

澤地 そうですよね。だから表現なんていうととても立派な高尚なことに聞こえるけども、さわってはいけない絵にさわって、それで背中の子を撫でてやって、その子忘れないと思うんですね。それもやっぱりたいへんな表現だろうって私は思っているんですね。

丸木 私、はじめはあらっと思って、困ったなと思ったんですよ。そうしたらそういってるでしょ。ああ、さわってもらってボロボロになったら、絵かき冥利につきる。そう思わなきゃいけない、そうだそうだってね。

澤地 それから、さっきの描いた絵がね、風で動き出すんじゃないけども、つまり、絵の中には、原爆で殺された人たちの気持があると思うのね。その人たちは、やっぱりさわられて、赤ちゃんに伝えてもらいたかったでしょうね。

丸木 そう、そうね。

澤地 だって、死んでも死にきれない思いで死んだに違いないから。

丸木 そうね。

澤地 表現などというととても難しいことのような気がして関わりがないと思った方も多いかもしれないけれども、ごくごく日常的なことの中でやっぱり私たちは声にださなきゃならないことはいわなきゃならない。書かなきゃならないことは、書く人間ならばたとえ拙くとも書く。私は『女絵かきの誕生』ーサブタイトルに「愛の自叙伝」とあるのと、もう一冊はご自身がお描きになった女の人が動き出すというそのことを書かれた『幽霊』という二冊の本を読んで、感銘を受けました。ほんとうはこれを読んでいただければ私が申しあげることはないと思いもしました。でも、当事者は恥かしがってナマぐさいことはお書きにならないので、きょうは少しちょっかいをだしたんですけどね。

丸木 ええ、よかった。そうしないと、聞いてくださいって白状したわけで、白状しないで死んじやったらね、また幽霊になってでたくなるから、さっぱりしました。

澤地 もうおっしゃることはないですか。

丸木 いい残すことはほとんどないね。ただねえ、ただもう少し生きるかもしれないから、こうやって生きているのはね、実はこの前の戦争のときにこれはおかしな戦争なんじゃないか、ダメなんじゃないかつてちょっと思ってたのよ。自分だけどっか穴掘って隠れたり、ちょっとどっか疎開しようとかね。
 でもね、一回だけはーいったら悪いかなー丹羽文雄という小説家と一緒に軍艦に乗って、南方作戦に参加してくれっていわれたことある。そのときに、これは困ったなって思ってね。
 で、日本軍が勝った、勝ったって絵を描いて、丹羽文雄がなんかそんな文章書いてつけて日本に送って、新聞なんかに載るでしょ。あんなことになんかなったらたいへんだと思って、それで、実は肺病でございますとかなんとかニセの診断書を書いてもらって、それでいかないことにした。そしたら絵の具の配給もないし、もちろんお米の配給もないしね。ま、つらかったですよね。そういうことがあった。それくらいの抵抗、抵抗のうちにもはいらんぐらい。そんなことしてたから牢屋にもいかないし、原爆が落ちちゃってね。
 それで原爆の絵を描きはじめていまになってるでしょ。今度こそはね、この戦争は悪い戦争だとか、いまどんどん進んでいくこの社会の状態は、とてもたいへんなことだと思ってるわけでしょ。だから、そのことを全部いいきって死のうと思ってるわけです。だからいっぺんぐらい牢屋いかないと申し訳がないなぁと思ってるのね。
 だけど、もし捕って牢屋いって、叩かれたら痛いだろうなって思う。ひどい拷問ですってね。あんなのにあったら、ああごめんなさい、そんなこというのやめにしましたっていっちやったらたいへんだなって思ってね。どこまで頑張れるんだろうって思って。ああこれは座禅を組んで無言の行をしたら、黙秘権なんてできるかなあ、とかさ、そんなことを考えてね、最後まで貫けるかどうか。貫けなかったらそれこそ、裏切るわけでしょ。それから恥、・・・恥をかくっていう言葉、おかしいかな。

澤地 いいえ。

丸木 ね、そういうことになったらたいへんだからね。だからあんまり大きなこともいわないで、おとなしくしてりや恥もかかないんじゃないかつて思ったりね。そんなことでくじけてはならん、とかね。毎日そんなことを思ってるとこなんです。最後までやり抜けるか、ほんとうにやり抜けるかなって、それが心配なんです。

澤地 そういう話し合いを位里さんとなさいますか、いま。

丸木 それに近い話はしますね。それは位里が画集出すときにね、画集の題を、「臥龍」という題にしようってなったの。あれは、臥龍梅っていう梅が、塩釜かどっかいったときに、お寺の庭にモニヤモニヤツとね、格好がいいんですよ。それに臥龍梅って名がついてたの。それで臥龍ってしようっていって字引を見たらね、臥龍とは野にあって政権に媚びずって書いてあったの。これはいい。野にあって政権に媚びずってすてきだなあなんて思ってつけたわけだけど、ほんとうに野にあって政権に媚びずやってけるかつて、ときどき思うんだわね。そうすると、どんな誘惑がきても大丈夫かとか。お金をたくさんやるよとか、家を建ててやるよとかね。そしたらひょろひょろって傾くかなあって。そしたらたいへんだなあって。そうだとすると、そのときに拒否できるかどうかつて。たとえば絵かきだったら、芸術院会員、それから文化勲章、チラチラッときたら、フラフラッとなりやせんかつて。

澤地 向こうもくれないから大丈夫。

丸木 (笑)そうそうそう。

澤地 三十五年ぐらいの歴史をふり返って難しくなったなと思いますのはね、原子爆弾とか水素爆弾とか、あるいはそれ以上の大量殺毅兵器をつくって落とすその国の社会体制、政治の仕組みというのは、あるひとつの資本主義とか帝国主義というものだけがやるんだというふうにはもう割り切れない世の中になって、もうソ連ももった。中国もそういうものをもった。フランスももったというふうになってきましたね。広島があり長崎がありビキニがあったにもかかわらず、環太平洋地域で次々に大国が実験をするために、いまでも被爆者が次々にあのあたりからでているということがあります。これは有機水銀と同じことで、放射能にやられたら絶対にとり返しがつかないですよね。生き残った場合もね。
 そのことがすでに立証ずみであるにもかかわらず、社会主義の国も資本主義の国もついに核兵器をもって、いつまた核ボタンが押されて、気がついたらすっかり地球は汚染されていたというふうになるかしれない世の中になりましたね。
 それを悲観的に考えますとね、おふたりが描かれた「原爆の図」も、「南京大虐殺の図」も、「アウシュビッツの図」も、それからもしかしたら「水俣の図」もね、精魂傾けてお描きになり、そして俊さんはさらに絵を補う文章も書かれ、あるいは核兵器反対の署名運動をなさって捕りそうにもなられた。つまり絵かきであるだけでなく、あらゆる行動の可能性を通じて闘ってこられた。しかし、それにもかかわらず私たち押されに押されてね、うしろにいくらもないところまできちゃったという気もするんですけど。そのへんのことをどうお考えになりますか。

丸木 絶望・・・ときどき絶望したり、むなしくなったり、やっぱりしますね。どうなるんだろうって思うわけですね。とくに最近東京のどこかの産院だったかな、奇形の赤ちゃんがふえているそうで、その写真を十五枚いただいたんです。そうしましたら、頭の骨、頭蓋骨のない子どもが写っててね、もう脳が出てるの。それをお母さんが自分の子をみつけて、産院が見離しているので、自分の子どれだろうなんて思って、お医者さんの許しを得ないで見にいったの。そしたら、そんな頭蓋骨のない子だったの。お母さんびっくりして、その子を抱えて、この子にプラスチックのふたやってくれって頑張ったの。でももうその子にお医者さん栄養やってなかったの。で、死にましたってそういう話もあるわけ。それからサリドマイドのような子とかね。脊椎なんかも弱くなってね、筋肉弱くなって脊椎うしろから外へはみ出たりね。それからおなかの筋肉が弱くて腸が腹を破って出たりね、そういう写真も見せられてね、それ十五枚くださってね。そのほかに口蓋の切れてる子ね、ああいう子がものすごくふえてるんですって。手術の仕方が上手になったから、治すの上手になってる。だけど、数がものすごくふえてる。そして、今度は目に見えない内臓奇形の子がふえてるんですって。で、私、たいへんだたいへんだっていって、みんなにもっと知らせるっていったら、やめてくれ、やめてくれって。それが広がったらたいへんなことになるっていうのね。何がたいへんか知らんけど、こういう子がどんどんふえていくほうがたいへんでしょうがっていったら、プライバシーの問題とか、お医者さんが叱られる、そんな薬やるからだ、とかさ。製薬株式会社がやっつけられるとかさ、そういう騒ぎが大きくなる。それ見てたらね、だんだん弱くなってる、いまね。だから孫、曽孫の代にこのままつき進んでいったら、人類どうなる。人類ってちょっとオーバーですかな。人類がどうなるかつて思うのね。いまストップしなければね。石油だとか洗剤だとか放射能だとかね。ストップかけなければ、孫、曽孫の代っていったら、五十年、六十年、百年くらいかな。百年たらずの間に、どんなになるのかなって。それで、それが心配なんですよね。でも、いまストップかけることができれば蘇えられる。蘇ることができるのではないかと思うんですね。一生懸命いったり書いたりしてんですけど、写真見せるなっていうんですよね。見せるなとか本に載せないでくださいとかね。ああそれじゃ私がそれ見て絵に描いてね、写真のない絵だよ、だけどほんとうだよっていって見てもらえばいいかなといま思ってるところ。だけど、原爆も原発も・・・。

澤地 ・・・サリドマイドの薬もね。水俣もみんなひとつながりです。人類っておっしゃったけど、人間も含めて、鳥も、犬も猫も、魚や何かも含める。つまりこの地球の上で生命というものをもっているもの、草も木もみんなはいりますよね。そういうものに対して、実に神をも畏れぬなんていういい方はへんだけれども、ほんとうに何も恐ろしくないような人たちが大手をふってまかり通って、自分の子なり、孫なりの運命はほぼ予告されているのに、それにストップをかけられないこちら側というのは、残念というより、ダメですね。でもいまやらなければ、一日先になれば、それだけ悪くなりますね。

丸木 ひとつ穴のムジナどもがね。アウシュビッツの毒ガスが農薬になるのね。それから原子力発電所はね、この間、柏崎の人と話していたら、石油がなくなるから、ウラニウムで原発をっていっているけど、石油がなくなる頃にはウラニウムがなくなるんですってね。そうすると、なんでそんなものを、なくなる時間が同じなのに開発するんだろうか。ああ、わかったわかった、エネルギーじゃなくて、プルトニウムをためているのね。原爆をつくろうとしているのね。日本は強大な原爆保有国に変わろうとしている。日本があんまり強大な保有国に変わったらたいへんだからアメリカがにらんでいる。それは本音だなっていよいよわかったわけですよね。

澤地 お描きになったものの中でとても印象的だったのは、「原爆の図」を美術館に見にくる人たちが大人も子どもも含めてね、びっくりはするけど、自分が体験しなかったからようわからなかったとか、知らなかったとかいう。俊さんは最初のうちはそうだろうねっていってるけど、だんだん腹がたつてきて、人間には想像力、イマジネーションというものがあるじゃないか。そしたら、体験しなくちやわからない、じゃなくて、これを見てなんだろうと思えば体験したのと同じようにものが見えてくる、と怒るところがあるでしょう。私はほんとうに表現というのはそういうものでね、表現をする人たちが一生懸命描いたり語ったり書き記したりしても、受けとった側がああそうかといって、まるでろ過装置を通すみたいに、ああそうなのですか、まあかわいそうにっていうだけで、すっと流してしまうだけだったら、表現に力はないですよね。だけど、やっぱり、私たちがきょう、きのう以前に、どんな歴史の時間を生きてきたのか、そこでどんなに無惨な、ー日本でもひとにぎりの人間以外、いい日なんて一日もなかったと思うんですよね。だから、どんなに酷薄、人命軽視の時間が流れていったのかということを、ほんとうに自分のこととして追体験しようとしないかぎり、どんなに天才的な表現者がいても、私は表現は力をもたなくて、むざむざと塵芥のようになると思う。これは受け手に責任がありますね。おふたりが絵を描かれる。石牟礼さんがご自分の詩を書かれて、それを読まれる。音楽が加わる。土本さんが撮る。そのほかのスタッフが加わるーひとつのことを表現するために、いろいろな人たちがそれぞれの特技で分業していく。力を合わせて積み重ねをしていくことで表現が力をもつということはありますね。ひとりのピカソがいたってダメなんですよね。そのピカソがいて、ピカソの絵がすばらしいことがみんながわかるようにきちっと言葉でいう、ほんとうの意味での評論家がいて、重層的な営みの中で、人間がもっている表現という手段は力をもつと思うのね。
 だけど、お互いが送り手になったり受け手になったりするんだけど、そのときに想像力という、人間だけがもっている力を駆使して、より自分の体験に取り入れるという努力をお互いにしなかったらダメだなあと思います。

丸木 そうですね。私は人の苦しみを絵に描いて見せ物にしているって叱られたことがときどきある、そうすると、それはとてもつらいことですよね。だけどほんとうに原爆をくい止めることができなかったら、結果として、人の苦しみを絵に描いて見せ物にしたということで終るのではないかつて。

澤地 もう三十年前になるでしょうか、「原爆の図」の第一部ができたときに私は初めて見たんですね。広島と長崎に原爆が落ちたということは知っていたけれども、あの頃はそんなことをいうと占領軍にひっぱられるといわれて、それがどんなにすさまじいものであるかということは、実はイメージとしては私の頭の中にはなかったんですね。でも、私の戦後の原点になったひとつには、たぶんお描きになった「原爆の図」は生きているだろうというふうに思います。
 それでね、私はたまたま鍼の治療にいっているんですが、そこの女の人が、その人は疎開児童の体験があるんですけど、小学生の頃に原爆よりもっとこわい水爆というものができて、それで人は殺し合いをするようになるかもしれないという話を教師に聞かされて、教室中が泣いたというの。なぜ人は命を粗末にして殺し合いをするのかという作文を書いて新聞に載ったことがあると、鍼を打ちながら私にいったんです。三十年前といったので、もしかして先生は「原爆の図」を見ませんでしたかっていったんです。そしたら見たっていうんですねえ。私の戦後はそこからはじまったってその人はいいましたよ。でね、魂をひきずり込まれるような感じがしたって。で、生命とはなんだろうか、生きるとか死ぬということはなんだろうかと私は考えながらきょうまで生きてきた、とその人はいいました。だからお描きになった作品は受けとめるべき人々のところではしっかり受けとめられて力になっているし、それから力にしなければならない受け手である私たちの責任があると思うので、俊さんさつきから何回もありがとうとおっしゃったけど、私のほうこそ、私たちのほうこそ、いままでほんとうに政治の波の中でもまれていやな思いもたくさんなさり、貧乏もなさり、いろいろなご苦労をなさりながら、これからもなお生命を破壊するものに対して立ち向かっていこうというたいへんな意気込みというか勇気をもっていらっしゃる俊さんと、それから位里さんに、心からお礼を申し上げたいと思います。ほんとうにありがとうございました。お大事になさっていつまでも長生きなさってください。

丸木 はいはい。ありがとうございます。みなさん、ありがとうございました。ちょっとね、いわせてください。私なんか貧乏育ちでしたけど、あんまりうまいものも食べてないけど、いま考えると本物を食べてたんだわ。毒のはいってない米を食べてたんだわね。だから、わりあいと頑張る。腰痛いなんてたまにいうけど、頑張れるんじゃないかと思いますよ。ほんとうの食べ物と本物を食うような生活をどうやったら自分たちができるかっていうことをまず本気で考えてください。そうすると身体にムクムクと元気がでてきますから。日本の政府、いまの政府なんか、私たち国民の健康とか人民の幸福なんか、これっぽっちも考えていないんだということを覚悟しなきゃ。そしたら自分たち自身で自分を守らなきゃならないわけですね。誰も助けにこないんだよ。男見たらみな兵隊にしようと思っているし、平和になったら安くうまいことこき使ってやろうと思ってるんだしね。その連中がお金をかけて、そのお金で平気で毒のはいったものくれるでしょ、それから脱出することを考えて、まず健康になることが大事と思います。そこからはじめてください。そうしたら元気でてくるからね。そうしたら私もまだ負けないでやれるな。やりましょう!ありがとうございました。

 後記ー土本典昭

 私と澤地さんは早稲田大学時代のほぼ同期生であった。彼女を私は共産党早大細胞の同志の”リーベ” として知っているのみで、すでに中央公論社に入っていると聞いていたぐらいだ。
 そのHという同志とは一九五二年、山村工作隊の同じ隊員として、部下小河内ダム水漬地点の村に入った。同じ隊に勅使河原宏、桂川寛、山下菊二氏ら美術グループが参加、木版画つきの「しんぶん」を出す活動にしたがっていた。同年七月、”軍事方針”のもと、ダム建設現場に闘争をいどむことになったが、その軍事方針にさいごまで強硬に反対したのは澤地さんの夫となったHと私であった。