私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム7ーテーマ主義の今日 針生一郎+山下菊二+丸木位里十土本典昭 対談 <1981年(昭56)>
 私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム7ーテーマ主義の今日 針生一郎+山下菊二+丸木位里十土本典昭 対談

北川 丸木御夫妻の絵は具体的なひとがたを描いています。これは現代美術といわれているものの中ではわりと少くなってきたものだと思います。もうひとつは丸木御夫妻が「原爆の図」を描かれてから、アウシュビッツ、南京とつづいて、「水俣の図」を描かれる。そういう題材をとって描かれるということはどういうことなのか、という問題もあるかと思います。そのへんをきょうは話していただきたいと思っています。

針生 これまでのこの会場での討論とつながるかどうかわかりませんけれども・・丸木御夫妻の「原爆の図」はかなり長い時期にわたって制作がつづけられました。それに私などが関わってきた経過から話したいと思います。一九五〇年代に「原爆の図」が発表された頃に、私たち戦後の美術批評家は、人間の主体を徹底的に客体化するというある論理において共通していたところがありまして、そういう立場からいうと、「原爆の図」はどうも、怨みつらみに似た情念を非常にナチュラルに発散していて、地獄極楽図絵のような悪しき伝統に少しのめり込みすぎているのじゃないかーそのような批判を私なども書いた記憶があります。ところが、「原爆の図」そのものも制作がずっとつづいていきまして、たとえばアメリカの捕虜が原爆の被災者の中にいたということをまた主題として描いていく。その前でしたかあとでしたか、アメリカでも発表されるというようなことで「原爆の図」そのものが展開していきます。そういう過程で自分自身の反省として振り返ってみると、丸木御夫妻のお仕事は非常に長期的なスパンで見るべきであって、その都度その都度の政治的社会的状況にあわせて明確な解答みたいなものをもとめると見当外れになってしまう。長い目で見ていると、やはり戦争体験と第二次大戦の中心の課題ーそれから戦後の主題に一番重要なところでさわってきている貴重な作家だという感じが、ほんとうに自分の胸に滲み通るようなかたちで理解されるまでに、十年くらいかかっているわけです。それで、この御夫妻の共同制作は非常に独特のものでありまして、つまり俊さんのデッサン、油絵と、水墨画を主体とした位里さんとの合作ですね。そこからくる独特なものがありますが、今度の「水俣の図・物語」の映画で制作過程を見せてもらって、そこのところが非常によくわかった。つまり怨念に塗りつぶされていると私などが舌たらずの批判をしたそのところも、たいへんよくわかったというところがあります。たとえば、人物を俊さんのデッサンで非常にリアルに描いていく、そうすると位里さんがいわば墨をぶちまけるようにしてその全体をつなぎ、いわばシチュエーションといいますか、雰囲気というか、その個人個人の存在というものを超えた全体の状況を墨によってつくり出していく。その手法の中に、地獄極楽的であるとか怨念の発散であるとか、私などがいったものが必然的に内在していると思うわけです。この御夫妻の結合と共同制作はほんとうに独特なもので、たとえば俊さんが朝日選書で書かれた『女絵かきの誕生』という文章の中にも、絵がリアルになりすぎて少し生臭いと位里さんが墨をぶつかけて塗りつぶす。そうすると俊さんがこれじゃ弱くなりすぎるといってまたデッサンを描くというような過程のことが出てまして、これを映画と照らし合わせると非常によくわかるわけですね。
 私はいつでしたかNHKのテレビで、この「原爆の図」をめぐって夫妻をインタビューする番組に出たことがあります。そのときに俊さんが、アメリカ人は原爆を落とした。その加害者として私たちは非常に怒りと憎しみを感じていたのだけれども、アメリカ人の中にも被災者がいたということで、それを主題とすることによって大きく視野が変わった、ということをいわれて、それは非常に感動的な話だった。ところで、そのついでにポロッというのですねー戦争中、私たちは藤田嗣治なんかを軍の御用を勤めて戦争画を描いて世にときめいていると思って憎んでいたけれども、考えてみれば藤田嗣治も被害者だったのかもしれませんね、と。番組が終ってから私は、丸木夫妻ともあろうものがあの藤田嗣治まで認めてはまったくぶちこわしじゃないか、困るね、なんてことをちょっといいましたら、俊さんはキョトンとしておられて、そして、ややしばらくしてから位里さんが、おい針生さんにいわせると君のあの発言はどうもいかんらしいよ、とぼそっというのです。そういう点では短い期間で見ますと、対応のまずさみたいなものが、この御夫妻にはいろいろユーモラスなかたちであらわれてきます。しかし、「アウシュビッツ」「南京大虐殺」それから「水俣の図」と展開していくその根底にあるものが、きょうの討論のテーマですから、私が解明するよりもみなさんと一緒にその問題にしぼっていけばおもしろいと思うんですけれども・・・・・。
 あの「原爆の図」から次の新しい主題に展開していく過程で一番大きい問題は、俊さんがまちがったというか、あんまりうまくない整理の仕方でそのテレビの中でもいわれた、加害者と被害者の関係ということじゃないでしょうか。加害者と被害者・・・つまり戦争というものは殺戮する者と殺戮される者とによって成り立つわけですけれども、しかし原爆という大きい災禍を被った日本人が被害者としての意識だけでとらえていては、戦争の全体像はとらえられない。加害者と被害者は、ときにはひとりの個人の中にも共存している、そのからみをとらえたいというのが、とくに「原爆の図」の後半からの御夫妻のモチーフじゃないだろうかという気がします。
 土本さんの映画に戻りますと、「水俣の図・物語」は、戦後の今日に残っている資本主義の、戦争に匹敵するような罪悪、原罪とでもいうような水俣のテーマを扱っているわけですが、映画をどなたがご覧になっても、非常なドキュメンタリーなタッチで描かれていながら、クライマックスは終りのほうに出てくる。俊さんが病院で患者をずっと写生している。その中で、しのぶちゃんと清子ちゃんというふたりの娘が、少しひきつれた顔を異常なほどこわばらせてそデルになっているんですが、そうすると年頃になって非常に美しい娘の姿が、それが美しかったらという仮定でなくて、俊さんの中に自然に浮かんできた。そしてそれを描いて渡すと、その日から、写生されるときは非常に緊張してモデルになっていた少女たちが、位里さんと俊さんにたいへんなついてくる。そして今度は風景をまた描いてくれというような注文をする。それから石牟礼道子さんを加えての三人の話ー水俣病の被災者の中にもやはり自然の季節の循環があり、そして青春という人生の季節の瞬間があり、原爆に匹敵するほどの災厄があっても自然や人間の生命というものは循環していく。それが、この世で苦しみを宿命的にといいますか、ずっと味わわざるをえない人びとなんですけれども、こういう苦しみをとおして人類が全体としてあるべき姿を思い描くことができれば、という。そこで私が非常に感動したのは、土本さんの映画のドキュメンタリーをとおしてですね、絵画というものの機能をあらためて考えさせられた。絵画はどんなにリアリズムであろうと、ドキュメンタリーであろうと、同時にまたフィクションであります。絵画は対象のコピーでなくて、やはり絵空事という側面があります。絵空事といってしまうと全然意味がなくなってしまうようですが、平面であるところの絵に描かれているものは、どんなに対象を忠実に写したとしても対象そのものではないのでありまして、そこにいわば理想化され、あるいは現実にはないものを探し求めるという、そういう意味での抽象化が当然働いてくるわけです。現代の美術は、そういう絵画の絵空事性を否定し、物質と同じ状態に、あるいは日常的な現実と同じ状態に絵画を還元しようということにずっと集中してきたのです。が、この映画を見ると、絵画はやはりその人に内在している、対象に内在している最も理想的な美しいものを探し出すことによって、対象にも勇気を与え、そして非常に根源的なコミュニケーションをつくりだすことができるという、ほとんど現代美術の忘れている機能を、俊さんが水俣病の少女たちを写生して、それによってあのふたりが非常に喜び、生き生きとし、そして蘇ってくるという過程をとおしてたいへん雄弁に語っている。そういう意味で絵画は、ドキュメンタリーとフィクションとの両面に関わっていて、そのフィクションは絵空事、イリュージョンであって、否定しなければならない、と二十世紀になって考えてきた。けれども、それはさまざまな苦難を背負いながら、それをとおしてあるべき人間の姿、社会のあり方を考えるという、きわめて積極的な機能をもちうるんだなあということを、あらためて映画によって教えられた気がします。ただ、映画をとおして見た「水俣の図」の感動に比べて、「水俣の図」が完成されて人人展に出たときには、期待が大きかったせいか、どうも映画のほうがおもしろかった。絵画のほうは水俣という非常に厖大なテーマをひとつに集約しすぎたせいか少しゴタゴタしまして、それほどの感動がなかったのが残念で、それはなぜかということも、またあとの討論で補いたいと思います。

北川 それでは山下菊二さんにお話ししていただきたいと思います。山下さんは戦中から一貫して激しい問題意識で絵を描いてこられていて、戦後になっても、「あけぼの村物語」というすばらしい作品を描かれていて、それ以来ずっと問題性のある絵を描かれてます。ご自分の絵を描く根拠と、「水俣の図・物語」の図をからめてお話をしていただけたらと思います。山下映画を見て、針生さんもいわれていたように、私もしのぶちゃんと清子さんら水俣病の患者さんを、丸木さん夫妻が描いている情景、人間と人間ーひどい人災で深い痛手を背負っている人間に、絵で接触している人間ーその間を流れている強い人間愛によってときほぐされていく人間と人間の結びつきに私は打たれた。あのうしろ姿で歩いていくだけの画面・・・。絵に描かれた地獄のようなどろどろとした塊の上を歩いていく人間が、うねうねと、永く重い苦しみを背負っている、そのなんともいえない動きは、そのような姿にさせたものに対する強い怒りを私の中に叩きこんでくる。私も小さいときから地獄極楽の絵を見て、人間が悪いことをすると地獄にいって、赤い鬼や青い鬼にものすごい痛めつけをうけるんだということを大人たちから聞かされ、悪いことはできないんだなあと思い知らされていましたが、あのような報いをうけるなんらのいわれのない人間が、生きながらのまるで地獄の責め苦の淵におとされているというのは、あのような境遇にたたきこんだ元凶がいたからなのだ、あの何気なく歩いているうしろ姿の中におし殺された怒りを引きずりださずにはおかない、無心に告発する強い感動を、私は絵がもてないものか、ということも考えてみました。丸木さんたちがどちらかというと子どものときに見た地獄極楽図のような表現をする画家であるとするならば、そこに加わった石牟礼さんもまた、そのようなタイプだと思います。だから同じような者のつるみによってでてくるものは、もっとドロドロと、ゴテゴテとしていると思います。そういうものの上に水俣の患者さんの具体的な映像が出るという組み合わせは、非常に私にはショッキングでした。確かに、水俣だけを撮った映画を見たときよりもはるかにコントラストというのか、対決というのか、そういう強い衝撃を私はこの映画から受けたのです。針生さんが絵空事だといわれたように、丸木さんたちがあの患者さんを前にして描いている似顔絵や風景画をもらったときの、あの嬉しそうな姿・・・そういう喜びのようなものを、水俣の絵を見た場合に感じてくれるのかなあ、それは自分たちのために闘ってくれる大きな戦闘部隊だというふうに思ってくれるのかなあ、とも思ったりもしました。絵を描くということは、やはりなんらかの意味で、そういう気持を私は込めるものなのだと思います。なぜ水俣を描くのか・・・。ほんとうにきれいな花が咲いているときにその花をムシャムシヤと食うような虫がおれば、追っぱらうか、それをつまんで殺そうと私はするでしょう、かわいそうだけれども。ところがそうではなくて、人間をドンドコドンドコ殺す戦争のような、いまわしい花を食う虫がいてくれれば、それは非常に喜ばしいことなんですが、そういう強い虫が戦争といういまわしい黒い花に近づいていっても、それを見ることができないあき盲のような状態に、私たちは意識的にされているという面があるのです。この間、パウロ二世がきたときにも、私はたいへん不愉快だったんです。平和の使者であるかのように「平和のアピール」は大々的に報道されましたが、来日の大きな目的だった天皇との会話は、どうとも報道されませんでした。平和の使者は戦争の最高責任者だった天皇になんにもいわなかったのでしょうか?広島の原爆記念碑の中に閉じ込められている人びとはー、私は知りたい。そうやって知りたいことはわからない。必要でもないことはジャンジャンと三百六十五日私たちをうるさいほど囲んでいる。だから、自分のまわりに非常にたいへんなことが起こってもわからないようなあき盲にされている。それに対する人間としての闘いをする力がない人間に変貌させられていくという不安感・・・そういうものに対して、やはりなんらかのかたちで闘うということは、絵を描く場合でもあらゆるものすべてを賭けてやらなくてはならないんじゃないかと思う。私はいつだったか、丸木さんたちの「原爆の図」をかついで秋田のほうを回ったとき、たくさんの農民がきて、私の説明を聞いて涙を流して拝んでいる老婆を見たときに、ああ、こういう絵が描けたら絵かき冥利に尽きるんじゃないかなぁと思った。でもそれからあとでよく考えてみると、その老婆たちは、ある意味では仏壇に手を合わすように、かわいそうな人に簡単に手を合わすのと同じような状態で、絵に手を合わせているんだとすれば、描いた人との間にはまだまだ大きな距離があるんではないかと・・・。描かれているものへかわいそうだから手を合わすのではない、描かれたものの正体を見きわめるためにこそ絵があるんだということに、ならなくてはいけないのじゃないか・・・。丸木さんたちが「原爆の図」からいろいろ被害者と加害者の関係をどんどんと発展させてきた。私自身も戦争から帰ってきまして、実は、戦地では生身の加害者だったわけです、殺人をしたり・・・。ところが実は、そのようにさせられた被害者でもあるわけなのです。ふつうに考えたらできそうもないことが易々とやりとげられる人間につくられたーつくりあげる元凶がいたから私がそのようになったのだと私は思っている。だから、そのような元凶と、そのようなことに加担した私に対して、私にできることの一端にでもと思って絵を描いてきた。そういう意味で「原爆の図」などから今日の課題について、私はやはり私なりに、いろんな私の問題として考えてきたことがありました。

北川 山田宗睦さんとのお話のときに、きょうのテーマに関わることを丸木位里さんがお話しになっていたと思うのです。それは、最初、写真で広島を写したものがなかったからやりだしたんだ、ということだった。もうひとつ重要だと思うのは、いま山下菊二さんがお話しになられたように、それを担いで見せて回ったということです。そのあたりのことを丸木さんにお話しいただけたらと思うのですが・・・。

丸木 今度の「水俣の図」のことは、なにも映画にするために描いたのではないので。八分通り仕上がったところを、私たちはもうちょっといろんなことを知りたいもんだから、土本さんのこれまで写した水俣の闘争の映画やら、水俣だけというほど水俣に集中して仕事をされてきた作品をみんな持ってきて私の家で映してもらった。それがきっかけで土本さんや高木隆太郎さんたちが、映画に撮っておきたいと思ってはじめられたんではないかと思うんです。針生さんは最初、絵を見たらそれほどの感動はなかったといわれたがごもっともで、この映画を見てもらうときに、ついでにあの絵を持ってきてくれんかという。まあ、持っていかれんこともないが、たいへん重い大きなもんで・・・。これはまあ、俊もいつもいうんだが、あの映画見たらあの絵は見んほうがいいというほど映画というのはたいへん効果のあるもんで、小さいところを大きく写したり、ありとあらゆることをやってあるので、こっちもあんなところあんなこと描いたかしらんというほどのものが出てくるような、映画というのはやり方によっては不思議なもんだ。私たちはこれまで、まあいろいろ映画も見ましたし、ピカソの「ゲルニカ」の映画も見たし、いろいろ絵の映画も見ました。それが自分の身近なことにぶつかって、映画というものがたいへんな効果をもつものだということをつくづく感じたわけなんで、・・・一番肝腎なことがあるんだが、何をいおうと思ったか・ああ忘れた・・・・・・。

北川 まあ、あとで・・・。

丸木 (笑)あとで、どう、映画に感心したという話(会場・爆笑)・・・ええ、もうひとつありますがね・・・。

北川 「原爆の図」以降、アウシュビッツとか南京とか、三国同盟とか描いてこられた中で、方法やものに対していろいろ疑問をご自分でもったり、何かもっとほかのことでやってみたかったとか、そのへんの経緯で何かございますか。

丸木 ええ、まあ・・・。たいへんいいことをやったともなんとも実は思っていないんで。で。こりゃあなんですね、たいへんよくもののわかる人たちだし、専門家の方もおいでだから、率直に申し上げると、一面いきがかりで今日までずっとやってきたという点もあるんですよ。あるんだが、あるにしてはよくつづいたもんだということがいえるわけなんです。まあ、「原爆の図」からね。
 「原爆の図」というのは、これはこの間ちょっと話したように写真もないし・・・おやじは死ぬし、伯父もその二、三日目に死んだし、いろんな、まあたいへんなものを見たわけなんで。原爆という言葉さえもいわなかったですね、誰も。いっちゃいけないぐらいなんです、占領下でもあったし。それで、これは誰も原爆というものを知らずに過ごすんじゃなかろうかというような気がちょっと起こったんですね。実は私が先に描こうと思ったんです。描こうと思ったら、人体デッサンなんか全然やらずに絵かきになったような男で、描こうと思ってもどうも描けそうにないもんだから、で、俊にあんたひとつはじめてと・・・。俊というのは裸ばかり描いて自分でも自慢しているくらいなんだし、これなら格好つかんこともなかろうと思って、それではじめたんです。その頃ずいぶんわしも人体デッサンをやって、やってみりゃあできんこともないと思っているくらいで、それでも映画にもあるように俊がうまいから、骨描きは俊がほとんどやって、たまにわしがやったところもあるんですがね。
 はじめ第一作を描いて、その頃、山下さんとも一緒だったと思うが、日本美術会のアンデパンダンに第一作を出したところが、「原爆の図」という言葉をやめたほうがいいんじゃなかろうかというぐらい、原爆という言葉を使いたがらなかったということがあるんですよ。
 原爆だというので、私がびっくりしたのは、ずいぶんとり上げられもしたんですね。労働組合の機関紙やなんやらがとり上げたもんだから、アンデパンダンが最後の日に絵をしまいよるのに、入口のほうからだらだら客がはいってくる。もう終りなんだっていったら、あの原爆の絵があるそうだがいうて、ぞろぞろはいってくる。それでこりゃあずいぶん関心があるんだなあと思ったのがはじまりなんです。俊は誰かがちょっといってもすぐその気になるような人なもんだから(笑)、仕方なしにわしがついて歩くいうことにもなったりねえ・・・。で、三部作まで描けばいいと思って、三部作はできたんです。この年にね。これでまあすんだと思ったら、やるたんびにいろんな人がきて、いろんなこというもんだから、すぐ俊が乗り気になるもんだから(笑)。そういうんで「原爆の図」っていうのは十部まではやめられんようになった。次々にみんなにいわれるもんだから・・・。
 そうこうするうちに、例の第五福竜丸の久保山愛吉さんの問題か起こって、これも描かにゃならんと思いだしたんだね。たいへんなことだったね、久保山さんが死んだ問題はね。その頃私たちも日本共産党におったもんだから、まあそういうこともあったんだ、手伝うんだね。日本共産党も地下へ潜ったりあれこれして、平和運動がほかになんにもやることがない、やれなかったんですよ。それで「原爆の図」で平和の会とか平和運動とか持って歩けばいいというのもあったんだね。それで、その手伝いもあって、まあなんでもええわ、平和運動ならお手伝いなら仕方ないわというんで、ついて歩いたりしたわけなんですよ。そういうので次々とふえてきたんです。私たちはあまり好きじゃない絵なんだ、どう考えてもうまくいかんもんだから見てもらうの恥かしいような絵になってしまったんだ、久保山さんの絵というのは。久保山さんは描かなかったが。その次、これもまた共産党におったからそういうことになったんだね、あの平和署名。平和署名というのが何万とか何十万とか集まったという、そんなら平和署名の絵も描かにゃいかんかいうので、平和署名という絵を描いて、それが十部作なの。十部作までできた折に外国に持って出たわけなんですよ。中国へ持って出て、それから表装してもらってヨーロッパを持って回って、私たちは絵を置いて日本へ帰ったわけなんです。そうして、そこから今度はもうちょっと絵画らしい絵にしなきゃいかんいうので、なったかならんか知らんが、いろんな絵がまだあるわけなんで、十四部まで描いたんです。最後が「からす」の絵、この映画にも出してもらったが、そういうふつうの絵に近いような絵も「原爆の図」の中にあるわけなんです。
 それから、まあついでに話しますが、これは俊が始終いうたり書いたりしているのがそのままなんですが、アメリカへ持ってこいいうから持っていったところが、アメリカのなんとかいう大学の教授が一生懸命この「原爆の図」の展覧会やってくれて、ベトナム戦争の真最中なんですがね、それでその頃に例の米兵捕虜の図も描き、アメリカへは八部までしか持っていかなかった。それでそのときにその大学教授が、これはあんた方がアメリカ人のやった虐殺をアメリカへ持ってきているんだが、これは中国の絵かきが南京大虐殺という絵を描いて日本へ持ってきたのとおんなじなんだというから、私は南京大虐殺ということは聞かんことはなかったんだが、それでとくに俊がびっくり仰天して、日本へ帰ったら南京大虐殺を描かなきゃいかんというもんだから、そりゃよかろうというんで、「南京大虐殺」を・・・。南京大虐殺を描いたんなら、世界で三つの大きな虐殺があるのに、アウシュビッツを描かなきゃいかんというんで、それもそうかな思って、のこのこまたアウシュビッツまでいって(笑)。まあ絵がいいことになっているのか悪いことになっているのかわからないんで、絵がいいとも思わんのですがね・・・。そういうことで次々と恥かしいといえば恥かしい、純粋派の絵かきから見れば、まあなんていう奴らがと思うかもしれんようなことを次々と臆面もなく今日までやってきたわけなんです。
 そんでフランスへ絵を持ってこいいうから、「原爆の図」持ってフランスへいったらもう、水俣の話ばっかり。水俣はどうか水俣はどうか、わしに聞く。わしは水俣へいったことはなかった。それでこりゃあ日本へ帰ったら水俣いかなきゃどうにもならんと思って、水俣へいったわけなんです。いけば、まあひとつ描かなきゃならんと思うていったんだが、それで水俣の絵もできたわけなんだ。
 その水俣の絵ができる前にもうひとつ、三国同盟。これがまた天皇が出てきたりして、ヒットラーとムッソリーニが化物に乗って出てきて、これはあんまりと思っておかしいからわしは格子の中に閉じ込めてしまったんだが。これもまた見てくれた人があるかもしれない。人人展に出したんだが、この絵はわりあいできがよかったと思うんだが、今度の絵よりかはできがよかった。今度はまあ非常に急いで描いたもんだから(笑)。それでこれは、ブルガリアで反ファシズムの国際展が、三回目か五回目かは知らんが、三年にいっぺんあって、出してくれいうから、出すつもりはなかったんだが、ブルガリアの女の人で日本人と結婚したゾーヤさんという美術評論家で、これが絵にうるさい、絵のわかる人で、どうしてもブルガリアに送ってくれいうから、仕方なしにはがして送ったら、向こうでパネルを作って貼って展覧会へ・・・。私がちょいとばかり自慢というか自信のあるところを申し上げると、これはヨーロッパの資本主義国は全部参加しておるわけなんで、こっちの日本からも四、五人出しておったが・・・スペインもある、フランスもイタリーも英国も全部参加しておる。むろん油絵の展覧会なんです。日本画みたいなのはひとつもない。油絵の中へ日本画、しかも墨と朱、まあ朱はかなり使っとったが、それを並べてみて全然弱くなかった、たいへん強かったんですよ。空間がパリッとでてね。油絵より強いからこっちが感心したんです。あれは私はちょっと自信得たんだが・・・。それで誰もひとりも反対しないで、その年の大賞グランプリを、この「三国同盟から三里塚まで」の絵にくれたんです。それで私、こう見て非常に強いんだね、油絵より強いんですよ、ああいう絵というのは。向こうが感心したんだ。そういうので多少、意を強くしたわけなんで・・・。どうしてもこの絵はもらいたいんだとブルガリアがいう。買うっていう、あの頃の百万円だね、日本円にして。向こうの金にして百万円っていう金は労働者が二年飯を食えるだけの金なんだそうです。労働者が二年飯を食えるっていうから・・・。せめて一千万くらいいおうかと思ったんです、買う買ういうもんで。これは政府が買うんだからね。一千万いうたら二十年労働者が食える、びっくり仰天するだろうと思った。それでこれはもう銭のことはいわんほうがいいと、俊と相談してあげますっていうて、差し上げますって、百万や二百万じゃ売る気はないからね、つまらんからね、あげたほうがいいと、それであげますいうたら、なんとまあ社会主義国っていうのは率直なんで、喜び囃してね、ありとあらゆることを考えて待遇してくれたの。ブルガリアの美術家同盟の名誉会員にして、ソフィアの名誉市民にして・・・。それはまあ自慢話になるが、さっきいうたように油絵の中に日本画がはいって見劣りがしなかったいうことを、ちょっとお伝えしておこうと思って・・・。そういう話をするわけじゃなかったんですがね(会場・笑)。

北川 いや、そういう話でいいんですね。

丸木 まあまあ(笑)・・・まあやってくださいよ、わしはへんなんだから(会場・笑)・・・。

北川 はい、じゃあ、それでは最初のテーマもからめて・・・。

土本 なるほどと思ったんですけれども、さきほど針生さんが時間のスパンを長く見るというお話があったんですけど、ぼくは水俣で初めてナマのものを見せていただく機会があって、三十年を撮ることになったわけなんですね。ただそのとき「原爆の図」以前はどうだったのだろうかと思ったんですよ。原爆以前にどういうものを描かれていたのか、それがどう原爆になっていったのかということ。そうひとつは、ああいうものを描いてるだけかしら、というのもありまして、そのふたつが遅れていって見た者の特権としてあった。そういう中で、原爆以前でもう画集でしか見られないものがあるんで、位里さんの「群牛」とか風景とか、俊さんの油絵とかですが、どうにも手に持ってくることができなくて、ぼくが一番欲しかったのは撮れなかったんです。
 それから、なんていいますか、「原爆の図」を描き終えられた頃に、ひとつの絵かきさんとしての解放の時期があったんじゃないかという気がするんです。原爆を全部描き終えて、おふたりのアウシュビッツのためのデッサンがのびのびと非常にたくさんあったですね、そのときのヨーロッパの風景画とかインドの風景画、インドの風景画のカジュラホの歓喜仏は、よく見ると歌麿的なものまで実に奔放にあって、埋蔵量というのか、いくつもあるチャンネルの中であまり出されていないもの、すごく伸びやかなチャンネルというのがあって、ほんとうはこっちが表で、実は「原爆の図」とか「水俣の図」のほうは陰ではないかと思ったことがあるんです。ぼくは「水俣の図」では、その立論はできませんので、ひとつの紹介をしたまでです。
 「原爆の図」を見ますと、背負って歩ける画法になっているわけですね。せいぜい扉風で非常に短くできるとか。で、みなさんが「原爆の図」の保存のために丸木美術館をつくってあるスペースができて、今度はスペースいっぱいの絵を描けるときがきてからのものが、南京大虐殺、アウシュビッツから水俣というふうになっていっていると思うのです。原爆から一貫しているのは、世の中にきちんと何か残していきたいという意味では生き方のモチーフというものがもう決定されたのではないか。つまりいろいろ画題としては変わっても、みごとな第二のヤマがもういっぺんつくられてきている。それでいてあらゆる面で、生活の隅々まで創造的な、あるいは喜び的なものが散りばめられている。そういったいまの流れの中に水俣をおいて、ほんとうは見たかったような気がしてます。

針生 いまの位里さんの話は、一見すると芒洋とした語り口なんですけれど、その中に非常に筋が通っているものがありますね。位里さんにいわせると、俊は人にいわれるとすぐその気になっちゃうと、それであとからついていくのがたいへんだということなんですが、ともかく追いかけていかれるわけなんですから、そのバックボーンというのはすごい。私の推測では、位里さんの場合にはプロレタリア美術の中の日本画のグループ「歴程」にいた、その時期に反権力であり民衆の立場に立つということがほぼ確立されていたという気がするわけですね。で、俊さんはまた、女子美に通いながら似顔を描き、女の似顔絵かきというので、ずいぶんいじめられながらも、たいへんすばやく特徴をとらえるということを訓練された。それから家庭教師みたいなかたちでソビエトに二回、結婚前にいかれているということも、社会主義というより労働者の立場みたいなものをイデオロギーではなくて体でつかんできたと思うんです。だからバックボーンは非常に明確なんでありますが、位里さんの表現を使えば、俊さんは人にいわれると、はいはいとはいわないけれども、すぐその気になっちゃうといわれたところ、それから、位里さんはあとからやっこらおっこらと追いかけていくといわれたところ、そのおふたりの結合は非常におもしろいんですが・・・。
 作品の中にも自然の循環みたいなひとつの波があってですね、さっき御夫妻としてはビキニの久保山さんの事件を扱った第五福竜丸の事件、それから平和署名の絵というようなあたりには、やや通俗的、図式的だったというふうに判断された。われわれは必ずしもそのように思わないところもあるんだけれども、おふたりのバックボーンと、シャープな、あるいは芒洋とした感性が、かなり鋭いテーマを扱う中で、噛み合うときと噛み合わないときとが、強いていえば、作品のシリーズの中にあるような気がするわけです。
 それともうひとつは、山下さんの発言でたいへん考えさせられたのですーこういう被害者がいたということでそれに同化して観衆が手を合わせて拝んでいるようではだめなんで、そういう状態に民衆というか私たちを追い込んだ元凶に目を向けさせるような絵でなければならない、その点なんですが・・・。つい二、三日前なんですが、オランダからきたひとりの絵かきが会いたいといってきて、一時間半ばかりしゃべったんです。日本の多くの絵を見て、観衆に伝達すべきメッセージがみごとにないーたとえば伝統的なモチーフを扱ったり現代的なモチーフを扱いながら、ときにはひとつの画面の中にそのようなものが共存していて、全体としてはメッセージがゼロになることを、日本の画家は、傾向はいろいろあるけれども、もとめているような気がする、われわれだったら、どういう人にどういうメッセージを伝えるかと、そのメッセージを中心にテクニックというのを考えるけれども、どうも日本の画家はそうじゃないみたいだ、という感想を彼はいってました。それは非常に正確だと、ぼくがふだん考えているのもその通りだということをいったのですが・・・。そういう状態の中で丸木御夫妻は、とにかく受け手というのを明確に設定している。受け手の大半が現代絵画を見失っているのですけれども、受け手を設定したうえでメッセージを伝えようとしている。それは原爆という問題が写真すらないという状態で報道されなかった、それを目撃したということから発しているかもしれませんけれども、それだけではない。日本が加害者として日本人が行なったような虐殺行為をもやはり人びとに見せたい、そしてそれは、ときに作品を担いで回ってでも受け手の傍に近寄って見せていく。そういうことで制作されてきたと思うのです。
 ただ強いていえば、原爆というのは一瞬で死んでしまった事件、アウシュビッツもいわば過去のこと、南京大虐殺もすでに終ったことだった。ところが水俣というのは、完成された作品の受け手という問題とは別に、現に水俣病を受けながら生きていて、これからも生きつづけなければならないモデルというか、受け手とは別のそういう生きた人間との関係が絵の中にはいり込んできたということが、私にはおもしろく思われました。そして、それらを含めて、山下さんがいわれるように、その元凶ー元凶というのはたぶん、現代社会においてはひとりの悪玉がいて、それが陰謀をこらして全部を支配しているというようなことではなく、悪玉が見えない、つまり機構全体であり、それを支えているのはわれわれ自身でもあるのですけれどーそういうことを含めた元凶というものに目を向けさせていかなければならないということが、生きているモデル、登場人物との関係、対話の中から絵がつくられていくという点では、丸木御夫妻の中でも新しい段階ではないのかというような感想をもちました。

北川 山下さんのほうで補足することございますか・・・。

山下 私は、絵を描く前に丸木さんたちが話し合うことの中に、実は熾烈な闘いがあるはずだと思うのです。それは映画の中にもちょっとでてましたが、私は絵の中にほんとうは、闘いという言葉でいわれているけれども、妥協の面がその絵の中にかなり濃厚に出てきているんではないかと・・・。丸木さんが、赤松さん(丸木俊の旧姓)がどんどん人にいわれてやるのに追いかけているといわれ、そうとう強力に引っぱろうとしているものがあるけれども、それが噛み合わないんじゃないか、喧嘩が中途半端に終って、描くほうに追われちゃうんじゃないか、それが私とすれば、少し歯痒い展開の足かせになっているんじゃないか、と思う。その点はどうなんですか。絵かきっていうのは、私が知ってるかぎりでも絵かきの夫婦というのは、ものすごい喧嘩をやるもんですが、それはただ単なる暴力的な事件というんじゃなくて、絵を描くうえでかなりはげしい対決がなくっちゃいけないんじゃないか、共同制作というのは。

丸木 ええこれはなんですね、共同制作っていうのは、わしはちょいちょいいうんだが、この場合はわしと俊とが描いたんだが、また誰かが一緒に描いてもいいし、少し責任が軽いんじゃないんですか、共同制作っていうのは。私なら私だけじゃないと思って、少々どうもなにかへんな・・・。

山下 分担意識っていうんですか、互いに相手の長所を認め合って分担し合うということと、実は分担以前に分担をできないものがきっとあるんじゃないかと・・・。

丸木 ・・・これはね、私はこの共同制作については私自身はたいへん嫌いなんです。嫌いで絵がいいとは全然思わないんです。それで私は何かに書いたが、もし私が先に、俊より歳が多いから死ぬかもしれんが、わしが先に死にやどうにもならんが、俊が死んだらね、共同制作は全部河原へ持っていって焼いてしまおうと、これはほんとうですよ。俊が先に死んでくれりゃあいいと思う。焼いてしまおうと思う。しかし私が先に死ぬでしょう、十歳ほど多いからね。私が死ねば俊は焼かないでしょう。私はそう思っているくらい好きでないんです、実は。共同制作のあの絵は。

山下 だから私には、共同制作以外に、テーマについてふたりが別々のものを描かれるんじゃないか、という考えがあったんですね、前から。この絵にくるまでに。それがないというのは、分担し合うことによっていいものになっている面と、分担がもたらす悪い作用の面があり、逆にそれを開くためには別々に描くことが起こるのが当り前ではないか、というようなことを思っていたわけです。で、いま聞くと、好きじゃないっていわれてるので、そのことは、なんらかのかたちで、あんなでっかいものひとりで描くのはたいへんですけれども、違うかたちで出しあう中で、むしろそれによって互いにスパークし合って次のものにいけるんじゃないか、と私は想像するのですが・・・。そんなことしたらぶちこわしになるかもしれないんですけれども・・・。

丸木 あの、それはひとりで描くよりふたりで描いたらよくならなきゃいけないんですよ。それでますます自分で惚れ込むような、満足できるような仕事にならなきゃいけんと思うんですよね。思うんだが、なかなかなるもんじゃないですよ。自分のできんところを片一方がやるんだから・・・。まあ、自分でやった以外のことがよいとは、なかなか思えんのですよね。こりゃなかなか難しいものですね。難しいものだが、まあ何かのお役にたっているだろうと思うし、何かの役にたっていれば結構だ、というぐらいの気ですよ、私は。私のいまの共同制作のあの作品は、お役にたっているような気もするからね・・・・・・。

山下 いや、そういう意味で私は・・・。

丸木 自分の役にはたたんかもしれんが、平和運動の役には少しはたっているかもしれないと、そりゃあそれでもいいんじゃないか、そういうぐあいに思っているんですよ。

山下 私はそれを否定しているわけじゃないんですが、それがもっと前進するためには共同制作がふたりじゃなくて、三人でもいいといわれているように広がるとか、もっと対象に向かって違うものを、丸木さん自身が芒洋と受け入れる抱擁力があるから、ふたりだけのチームワークでないものになっても違うことにあくまで・・・、それがひとつの共同制作のあり方というのか、もう一面ではないのかと思うんです。

丸木 それはそうですよ。それがなかなかできんから、これからやりましょう(笑)。ええ、これからねえ。

針生 ちょっとね、丸木さん、いまのは非常におもしろい問題ですが、今度は共同制作じゃなくてですね、私はあの映画に出ているような、色紙に相手の肖像を描いたり風景を描いたりしてそれを贈る、そういうことの中に非常に具体的なコミュニケーションがあって、それはもしかしたら展覧会に大作を並べるということよりもより具体的なコミュニケーションじゃないかという気がするんです。だからモニュメンタルな、つまり戦後や戦争を特徴づけているような大きな主題の大作を描くということよりもですね、そういう絵を描いて手渡すということのほうに、まず徹底する、そして何年に一回か大作を共同制作でもつづけるというふうになりませんかね。

丸木 これはね、大作の問題は、こりゃ私はつまらんことをやったんでね。美術館だなんだへんなものを建てるもんだから(笑)。壁画が大きいのがあるからね、ここをつぶさにゃいけんわいと思う。そういうこともあるんですよ。それで絵もできたということもあるが(笑)、おかしな話なんですよ。美術館やなんややるもんだから・・・。これはどうせ人が入場料を払ってきてくれるんだから、みんなにも喜んでもらわなきゃ立ちゆかんだろうと思うから、みんなに喜んでもらうようなつもりで大きな絵を描くでしょう。それもあるんだね、純粋じゃなくなったんだね、多少(笑)。

北川 うかがいたいと思っていたことは、絵の大きさなんですけれども、丸木さんが筆で絵を描かれるときに、「水俣の図」などの絵の画面の大きさというのはどんな感じなんですか、手頃であるとか、やりいいとか・・

丸木 そうですね、まあ、やっぱり大きいほうが見ごたえはしますわね。小さいのやったんじゃなかなかどうも、細かく上手に描いてたいへんな傑作もあるが、まあ、他人が描いたにしても大きいほうに見ごたえがある。アッピールするのは、ピカソがちょいちょい描いとる。フランスの南のほうにピカソの美術館があるが、このずっと向こう、なんとかいうところに教会がありますわね、小さい教会があって、ここに「戦争と平和」という絵を小さい教会いっぱいにピカソが描いた。これをよく見るとね、日本でいうとベニヤですわね、ベニヤのようなものに絵の具は絵の具だが、その荒っぽいの荒っぽくないの・・・ベニヤの板壁の見えるようなところもあったりしてね、平気の平左で描いとる。おかしいといえばおかしいし、鮮やかな、色の塗り分けっていうのは鮮やかなもんでね・・・。それでずっと向こうのところに鳩が一匹おるが、私、写真を写してきて家へ帰って見て、びっくりしたんだよ。向こうじゃいいと思わなかった。写真見てね、やっ、たいしたもんだと思ったですね。それで大作っていうのは、大作もやらにゃいかんと思いますね。ああいうのを見ると、大作っていうのは荒くたっていいんじゃないかとも思ったですね。荒いばかりじゃ困るんだが、どこかピシっとものが出ていて引き締まっとりや、そうとう荒くったっていい。あの「ゲルニカ」なんかでも、荒いっていやあ荒い絵ですわね。まあ、ピカソのこったからなかなかいいっていやあいいが、のんきな絵っていえばのんきな絵ですね、あれも。ピカソの絵だから、ピカソじゃなきゃ描けん絵だから、たいしたもんだといやあたいしたもんだが・・・。
 こりゃあなんですね、私たちが妥協したといえば妥協したんで、妥協するくらいのカしかもってないから妥協したし、妥協したような絵を描いたわけなんだが、「原爆の図」から今日まで、あの共同制作の場合、なんでしょうね。最初の出発っていうのは、前にもいったように、原爆ってもんを誰も知らんから、じいちゃんばあちゃん、言葉悪いがミーちゃんハーちゃんにいたるまで、誰が見てもわかるように描こうじゃないかいうのがはじまりだったんです。それでああいうふうになったんですよ、出発がね。
 針生さんからいってもらったが、「歴程」というのは抽象の団体みたいなもんですからね。そういう団体におり、それからシュールレアリズムの団体にもおり、そういうときには多少そういう絵も描いたりしてきたんだが、ころっと、この「原爆の図」の場合にや、はじめっからそういう発想でいったもんだから、誰にでもわかるように描こうじゃないか、描いたほうがいいっていうので出発したもんだから・・・。それから美術館をやってみると、みんなが非常にわかりよくって、子どもがきてもお百姓さんがきても、誰がきてもわかってくれるわけなんです。それで「水俣の図」にしても「南京大虐殺」にしても「アウシュビッツ」にしても、わかってくれるような絵を描こうと思って描いたから、さっき話したように、自分じゃ好きじゃないんですね。わかるように描いて好きな絵ができなきゃいけないんだろうがね。

針生 でも「原爆の図」の最初の頃は、おふたりともやっぱり手探りでやったんじゃないかと思うんだけれど、山下さんがいわれたように分業みたいになってきているでしょう。それがもう少し交錯していたんじゃないですか、はじめの頃は。たとえば位里さんも人物などを多少描いたり、というようなことはなかったんですか。

丸木 ええ、描きましたよ。いろんな方がおいでとるからみなさんにもひとつ何か、まあ、あんまり長く時間ないでしょうから、何かきいてみてもらってください。もう非常にのんきに、いいたいことを全部いいましたから(笑)。

北川 ええ、そうですね、ご質問とかご意見・・・。

針生 「原爆の図」を持って歩いて地方を回っていたヨシダ・ヨシエさんがここにおられましたが・・・・・・。

丸木 ああ、ヨシダさんがおるで、さっきちらつと見えたが・・・あんた、何か話してくださいよ。

ヨシダ・ヨシエ 位里さんとはずいぶん長い間、もう三十年ものおつきあいで、一時は一緒に日常生活もしていたものですから、位里さんの語り口の移り変わりも記憶してますし、きょうの話も前に聞いたような話が多かったと思ったんですが、たいへんびっくりしたのは最後にうかがった、もし俊のほうが先に逝くようなことがあったら自分があの絵を河原に出して燃しちゃう、これは冗談ではないと、いわれたときに、初めて聞いたのでたいへんびっくりしました。
 その共同制作のことはいろんな見方があると思うんですが、ぼくの見た体験からいいますと、「原爆の図」の最初のときというのは、むしろ共同制作というよりも、ご自身で覚えていらっしゃるように、むしろ極端な分業というか、一つひとつが入り混らなかったと思うんですね。たとえば「幽霊」の絵とか、とくに「少年少女」はほとんど俊さんおひとりのような強いイメージがありますし、コンテ画で描かれています。「火」になりますと位里さんの面目躍如というところがありますし、そういったものが入り混りながらある種の破綻が見えたのが「水」であるし、またそこでは距離とか、絵物語風の横の時間の連続性とか、そういった面では新しい視点があったと同時に、画面としてのおもしろさと破綻と両方をしょい込んでしまったという面があって、五部くらいまでは針生さんがさつきご指摘になったように、非常に手探りの状態だったと思います。ただし手探りの中でもうひとつ重なってきたのは、それがたくさんの観衆にさらされて起こるという出来事で、これがまた画面の中に当然重なってくるということが二重にあったと思います。
 まあ、ぼくらは力がなかったんですが、もうひとりの画家と一緒に一番最初のときから「原爆の図」を持って回る役になりまして、ぼくの場合には確か、全国を二年ちょっとで百数十ヵ所ぐらい回った記憶がありますが、そういった中で毎日毎日、何百人、何千人の人の前で絵を見ていく、そうするとさまざまな体験があって、毎日絵を見てますから、作者よりも数多く絵を見ているわけで、この間も冗談をいったのですが、万一「原爆の図」のにせものが出たらぼくが作者よりわかるんじゃないか、というくらい隅々の傷から小さな動きまで叩き込んでしまったわけなんです。と同時に、現実にいろいろな被災地へ出ていくー広島へも持っていったし長崎にも持っていったーその中で変質していく原爆の状態、被害者の問題があり、それを取り巻く状況もある、政治の状況も含めてですが。まあ、そういったものの中で絵が、ぼくの前で、現実に輝いている絵と同時に、変貌したり、距離をもってしまって、遠くへいってしまったり近くへきてしまったりということで、非常に苦しんだ経験があります。
 で、その後、ぼくはしばらく離れていて丸木さんにもたいへんご迷惑をかけましたが、何年もたつてからこういうふうにまた丸木さんのお仕事を拝見していると、いまわかることは、その当時の手探りの状態ではなくて、今度の映画にも指摘されていたように、ほんとうの意味で、初めておふたりの意図とイメージと手法とが、これは妥協といえば妥協かもしれませんが、うまく出合ってひとつの画面を構成するようになってきた、これが「水俣の図」の一番強い特徴じゃないかと思われます。その前の「三国同盟から三里塚」の中ではまだ生々しい時間が大ですし、それからテーマがシンボリックです。水俣、三里塚、三国同盟、天皇といったもののコングロマリットが横に並ぶわけですから。それだけに迫力はあったけれども、同時に画面としてのある種の問題がある。ところが、大作ですから、歩いていくと一つひとつの部分とかマツスに出合いますから、そこでもって納得する。遠のいたり近づいたりという非常にややこしい関係ですけれども・・・。水俣はなんか海の中に浸ってしまったようなタイプの絵で、非常にぼくはめずらしい・・・いい悪いはこれから評価の対象としてあるかもしれませんけれども、位里さんと俊さんとの間で最も融合した不思議な空間だというふうにぼくは感じました。

北川 どうも。ほかの方でお話をいただけたらいいのですが・・・谷川晃一さんご意見ございませんか。

谷川晃一 そこにいらっしゃる山下さん、丸木さんおふたりの方は、私がたいへん尊敬している絵かきさんなんですけれども、実はそのおふたりの絵というのは、ぼくは正直なことをいってふだん見たくないという気分があるんです。で、それがどういうことかといいますと、四、五年前にサミュエル・バックというイスラエルの、あまり日本では知られていない画家なんですけれども、小さなパンフレットを見たときにガックリきたことがあるんです。どういうかたちでガックリきたかというと、それはユダヤ人の傷病兵が鉄の翼を背負って立っている、松葉杖をついて立っている絵だったのですけれども、これはもうたいへんな時代の証言、歴史画だと思って、こういう絵こそ美術館に飾る絵であり、時代に残る作品だと思ったわけです。そういう絵を自分ではとても描けないなと思ったし、そういう絵を描く資格もない、しかも資格も欲しくないと思ったわけです。なぜならば、不幸な人生を否応なく歩んでしまう、そういう人間ではなかった自分というのはよかったなと思ったわけなんです。そのバックという絵かきはユダヤ人で、ゲットーで殺されかかって、死体の中に潜り込んでようやくアウシュビッツかどこかから脱出した経験をもった作家なんですね。で、その手の歴史画といいますか、証言の作家というのは絵かきとしては、つまり表現者としては強くて立派な作家かもしれないけれど、人間としてたいへん不幸を背負ってらっしゃる、何かたいへんなものをしょわなきゃできないんじゃないか、そういうことを思ったわけです。
 絵かきにはだいたい四種類の傾向があるー受け継がれた美術、いわゆる伝統的な日本画とか工芸をやっている人たち、それから、考えられた美術というか、いまの現代美術、いわゆるコンセプショナル・アートとかミニマル・アートとかで、要するに、絵画とは何か美術とは何かといったことを考えている、美術の構造について云々しているような、そういう考えられた美術、それから、生きられた美術、これはぼくなんか自分ではそっちのほうをやっているつもりなんですけれど、自分のために絵を描いている、自分の生きていく中で充実するために絵を描いているという美術、それ以外にもうひとつ、山下さんや丸木さんのようないわゆる歴史画、歴史の証言、時代の証言みたいなのを描いてらっしゃる方がいらっしゃる。大きな意味で最終的に一種類の絵かきしか残っちゃいけないというような状況がある、神なら神がいったとすれば、当然ほかの三種類の絵かきはやめるべきであって、丸木さんとか山下さんのような作家が絵かきとして残るべきだと、そういうふうに思ってますけれども・・・。あの、まとまらないままなんですけれども、そういう感想です。

質問 「水俣の図」まで描いてらっしゃったときの生活というのは、どんなふうにして支えられていたんでしょうか。

丸木 生活っていうのは飯を食うことですか?

質問 そうです。

丸木 これはなんですね、・・・この間の何かどこかのテレビに土本さんと出て、そんな話を司会者がいうから、わしはよういえんからなんとかかんとかいうとった。まあ俊が、俊の童画のさし絵いうのがだいぶ飯を食わせてくれましたよ。

質問 ああ、そうですか。

丸木 (笑)あの人はなんでも、あの人は童画がうまいんです。子どもの童画がね、それはうまいですよ。それは、わしはとても描けるもんじゃないが・・・ありや童画家じゃないですかね(会場・笑)。童画で飯が食えるんですよ、あの人は。それで食っていたんでしょうね。わしの絵もたまにや売れるんだが、まあろくに売れないほうですわね。まあなんとか食っておりましたよ(笑)。

質問 どうも、ありがとうございました。