私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム8ー表現にカありや 井上ひさし+石牟礼道子+土典典昭 対談 <1981年(昭56)>
 私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム8ー表現にカありや 井上ひさし+石牟礼道子+土典典昭 対談

北川 きょうは、井上ひさしさんと、石牟礼道子さん、土本典昭さんに出席していただいて、「表現に力ありや」という、この企画全体のテーマで話し合っていただこうと思います。言葉という問題に沿ったかたちで話が進んでいくと非常におもしろいんじゃないかとぼくは思っています。さっそく、井上さんに映画を見たところからの話をしていただきたいと思います。よろしく。

井上 こまかい感想はたくさんありますが、一番感動的だった箇所ー一番というとひとつしかありませんけれども、それが四つぐらいあるんで不思議なんですが、ー明水園の文化祭へ画伯御夫妻がいらっしゃって、カメラもそれについていく。そのときに最初に森道郎さんという患者さんをお描きなる。似ているっていえば似ていますけれども、ひょっとしたらこの・・・、これはあとで誤解とわかりますけれども、この画伯おふたりというのは、あんまり絵はうまくないんじゃないかというミス・リーディングといいますか、(あとで考えるとうまーくできているわけですけれども)「エエ?」という感じの場面・・・。それから加賀田清子さんという二十五歳の女性が写って、奥さまのほうがお描きになっていくと・・・そのへんになってきてぼくはもう、非常に、圧倒されたといいますか、理屈抜きに感動してきたのは、結局、あの絵は、目つきとかなんかは似ていますが、似ていないんですね。すごくきれいなんです、絵のほうが。映画の後半でそれがだんだんテーマになっていきますけど、結局このお嬢さんは、こういう病気にならなかったら、この絵のようにきれいで、きっと結婚してですね、新婚旅行・・・水俣の場合はどこへいくかわかりませんけれども、それで家庭をもって、夫婦喧嘩なんかしながら、別れるとかなんとかまあ、ありながらですね、だんだんと年齢をとっていって子どもにまた子どもが生まれて、やがて水俣の奥さんとして、あるいはほかへお嫁さんとして出たかもしれませんけれど、とにかくあの絵は、もしこの病気がなかったら、この人はこんなにきれいだったんだよというのが、直接的に伝わってくるんですね。それにたいへん感動しました。
 といいますのは、それは、手法的には次のしのぶさんのときも同じなんですが、この映画は結局、現代の悲劇をいかに描くかということをいかに描くかという、小説でいいますと小説の小説といいますか、描いている人をさらに描いているという、その構造が二重になっているわけです。たとえば絵かきさんのことを活字で書くという場合もありまして、画家を小説化することなんかもありますけれども。そうではなくて、水俣を描こうとしている画家がいて、いろいろその画家の苦心があるわけですけれども、それをさらに、映画はもうひとつ外の枠から、彼らが描こうとしているのは何かということをまた、描こうとしているわけですね。常に二重になっているわけですが、それが一番強く出てくるのは、それをあの画家の奥さまが、ー奥さまと、まあ非常に敬称をつけちゃって堅苦しいんで申し訳ないんですが、どうしてもいま奥さんとはいえないんで勘弁していただきますけれども、ーこのお嬢さんのきれいなところはこうだ、もし病気がなかったら、こんなにきれいだったに違いないというふうにお描きになる。それをまた映画がとらえて、そこに表現する人たちを、さらに表現する構造がそこに完全に出てくるわけですね。やっぱり、その構造の工夫というのは、随所に、とくに後半ですね、清子さん、しのぶさん、道郎さんとかのところで、ものすごい威力をもっていると思います。威力とかそういう言葉じゃ解決できませんけれども。最初のほうで「老人の朝は早い」なんて、なんだこのナレーションは(笑)、非常に紋切型のナレーションで、と思っていたんですけれども・・・。監督さんが考えたすえの、しかし無法の法といいますか、考えたすえ、法がなくなって、やっぱり自然のかたちで二重構造になっていったと思える。
 その構造が、あそこの最後の、清子さん、しのぶさんあたりでもう、完全に出てきましてね。それがまた非常にうまいっていいますか、それはもう必然的にといまやいってもいいんですけども、明るく描こうと画家おふたりの気持が流れていくわけですけれども、ぼくは絵を明るく描いてもだめだろうと思うんですね。暗く描いてもだめだろうと思う。やはり、おふたりの絵と水俣というのが、たえず並行していないと・・・。そういうならお前は、映画抜きにしてあの絵の前に立ったときにどうなんだという質問がありますが、それはそのときで、ぼくはまだ立ったことはないので、そのへんはわかりませんけども。ぼくは画家に対する尊敬も多少くずれたこともあるんですね、それは手法的に。絵の上に座ぶとん敷いたり、ほうきでこすったり・・・。ぼくはもっとていねいに描くのかと思いましたけれども(笑)、そうでないんで。そういう密教的な画家というイメージがくずれたほうがいいんで、四十何歳にしてそういう洗礼を受けているぼくというのは、遅まきというか、のろまなんですが・・・。ぼくがいいたいのはそうではなくて、絵そのものを見たらすごい感動があると思いますけれども(ぼくはまだ体験したことがないのでほかへ置きましてですね)絵と、しかもその絵が写そうとしているものと同時に写したときに、この映画は最大の迫り方をしてくると、無理に言葉にすれば、そう思いました。
 それからコマ落しですね。ぼくはいままで、人物のコマ落しは見ましたけど、風景のコマ落しというのは、星座がどう変わるかというようなのは見たことありますけれども、船のクレーンが忙しく上がり下がりして、だんだん暗くなってくるとデッカイ船が突然割り込んでくる。そういうコマ落しによってはっきり、ぼくらの目に見えてきたその海自体の動きで、結局、水俣の近海だけじゃなくて、チッソの社長さんが住んでいるかもしれない東京とか、どんなところへでも拡がっていくという、いってみればその思想といいますか、考えをあのコマ落しという、喜劇とかドタバタにしか使われない方法がみごとに効果をあげていることに、ぼくは初めてだったんですが、非常にショックを受けました。
 それから、当の石牟礼さんがいらっしゃるんで、あいさつでいっているんだろうと思われるとちょっと困るんですが、そうじゃなくて、詩の朗読の声のよさ、(というとそこらへんのアナウンサーはみんないいぞってまた返ってくるんですが、そうじゃなくて)声に出すことによって選ばれた言葉が非常にやさしくて、しかし鋭い・・・。詩というのは、ほんとうはぼくは、声にならないとだめだろうと思うのです。あまりいま、文字面の詩が多すぎるような気がします。詩はぼくは素人ですから、あまり乱暴なことはいいませんけれども、ほんとうに久しぶりに日本語の音としての鋭さとか明るさとか、それから寂しさとかをこの映画で体験できた。いろいろ拾えばすばらしいところがたくさんありますけれども、とりあえず、ぼくはただやたら打たれたというところをあげてみました。

北川 今回このテーマに井上さんに出ていただきたかったというこちら側の考え方は、井上さんの小説の方法というのが、ひとつの権威というか時間がつくりあげてきた権威に対して、ダジャレとか語呂合わせといったものを使いながら、言葉と、その言葉が指し示す実体というものが同じ重さをもつということをやってこられていて、いままでの権威づけられた言語体系と全然違うところで長い間くずそうとされてきている。それは、石牟礼さんがずっと書かれてきた小説のやり方と方向は違うみたいだけれども、ぼくにとっては、志といった部分が重なり合うという感じをもちます。それはぼくが思うには、おふたりともあるスローガンとかアジテーションということからまるで身を退いていながら、おふたりそれぞれの表現の中でできること、つまり既成のものを無化する地点からものを発表されてきているので、井上さんと石牟礼さんが同じ場面に出ていただけたらと思ったわけなんですね。

土本 いま北川さんがいわれたこととからむんですけど、ぼくは学生時代もっとも華やかな全学連のただ中に生まれ育った人間なもんですから、全国に号令ばかりかけてきた”前科”がありまして、二百人の集会はざっと五百人くらいにいうようなインチキな記録的なことばかりやって、最後は襟首をつまみあげられて学生運動から放逐された歴史をもっております。その反動といいますかショックでアジテーシヨンだけはすまいというふうに決めているところがありまして、いわなければいかんときにも、何かそういうことだと思ってしまうところがあるんですね。後遺症というか、これは進歩じゃなくて退歩だと思うんですけど。映画を作る場合に、やはりいろんな思いがありますけども、できるだけそいでみようというふうにはしてきたつもりなんです。それでも長い習性で、いつも正義の味方の孫悟空みたいなへんなものがウニヨウニヨしてしまうような体質なんです。
 そういう体質から、ほんとうの志をもちながらアジテーションをそいでそいでそぎまくったものを書いておられる人や、またものすごい斬れの剛カープでポツンと目的をえぐりあてられているようなお仕事を見ていくと、記録映画の方法というのはまだまだいろんな方法があるなと考えるもんですから、ぼく自身きょうは聞き手になるつもりでおりますので、どうかよろしく。

北川 映画に出ただけで、もうほんとうに恥じておられて、その上またこの壇上に並ばされることをほんとうに苦痛に思っておられる石牟礼さんなんですけれども、いま井上さんのほうから詩の朗読の話が出ましたので、少しお話ししていただけたら・・・。

石牟礼 あのう、尊敬申し上げている井上さんから(笑)、まったく思いもかけずほめていただいて、もう、ありがとうございました。非常にお忙しいのに躰をさいて出ていただいて・・。昨日からきょうにかけて、水俣のご出身でいらっしゃいます谷川健一さんが主唱されている地名を守る会のほうの日程をかいくぐって出ていただいて、どうも・・・。
 井上さんの本を読ませていただいて、私は目が悪くて、たくさんは読ませていただいてないんですけれども、井上さんの言葉を紡ぎ出されるその根拠ー、たとえば猿まわしの猿は人間をパロディにするというような、そういう視点の据え方が、浅草は演劇そのまま、浅草の大道芸というか、商売をする人たちなど、そこに通行人たちが木戸銭を払うように大道で物を売っている人たちの言葉にお金を払う、そういうふうに日本の演劇なりの言葉の表現というのがなればいいという件を読ませていただいてー私などは、たいへん考えが浅いもんですから、このお書きになるものの、作者がどういう心構えかはあまり考えないで、まずおなかがよじれないようにおさえておいてから(笑)読みはじめるというところがあって、そのおなかをおさえる楽しみというのがあるわけですね。『しみじみ日本・乃木将軍』を読ませていただきましても、あとから思うんですけども、一見非常にやさしそうでどこにでも入口があるみたいに、誰でもそこはいれるような間口というか入口が広げてあるようで、それでいて井上さんの一番奥のほうにたどりつこうと思えば、とっても難しいことというか、とっても高級なことが隠されているというのに思いあたるわけでして。私はどちらかというと置かれている場所が場所なものですから、まず最初に深刻そうに、難しそうに書こうと、考えようとする癖があって、はいってみると、なあんだこんなやさしいことをこんな深刻そうにいっているんだなと、逆に自己反省するんです。
 私なんかは、ときどきしか東京に出てきませんし、あらゆる意味の東京に出てこないわけです。ときどきしか出合わないわけです。それはものを書く人たちの世界とかを含めて。そこで流通している言葉が、たとえば新劇の悪口いうほど新劇のこと全然知らないのですが、翻訳調の、ああいう言葉では、いま生きている人たちの存在にたどりつかないのではないか、というふうに井上さんがおっしゃれば、ああそうだなと思いまして、私の身のまわりにまだいる、井戸端会議をやっていたおばあちゃんたちとか、ホラを吹くことだけが人生の楽しみみたいに思っている村の人たちとかを、井上さんの非常にパロディックな言葉の中から逆にたどっていくところがございまして・・・。たかだか、私たちは百年くらいしかこの近代というのに、触れてませんけれども、そこのはじまりのところにまだ起居をしてものをいっている人間たちがいるところへ届くには、井上さんの小説の中からはいっていくことができるんだという発見の喜びがあるわけでして、きょうはお目にかからせていただいて、たいへんありがとうございます(会場、笑)。

井上 (笑)何かこう、再婚のお見合いという感じで(笑)、ぼくはこれを日頃の道化ぶりでこわさなきゃいけないんですけれども。エー、非常に深読みしていらっしゃいまして、なんの根拠もなく書いているわけでして。そういうとほんとうかといわれると、ちょっと嘘だというところもありますし。でもあの、ぼくは石牟礼さんの作品を楽しみにしていつも読ませていただいていますけれども、すごく言葉がきちっと選んでありましてですね、これはみだりに笑ってはいかんと、そうとう身を清めて読まないといけないと思うんですけども、ただ映画で出ていますようにヒヨツとこう、すごい変化ぶりを見せられることがあるんですね。それはどんな作品にも必ず一ヵ所ぐらいある。それが大きいか小さいかは作品によりますけど。たとえば映画の最後のほうで、昔このへんでススキが生えててですね、それから風が吹いてきて、その風の音でススキが動くんでなにか浜全体がこっちへ動いているような感じである、と。このへんからいつもの石牟礼さんの、ある仕掛けが出てくるわけですけども、そのススキの原を分けて漁師のおじさんが網をかついで獲物を下げてですね、ヒュッとあらわれる。それで、それをキツネが盗るというあたり・・・、そのへんになると、これは胡座をかいて読んでもいいんだというふうに思うわけです。その先へどんどんはいっていくという、いつもの、これはマンネリという意味ではなくて、これは作者といいますか、もの書きに本来備わった、個性というとカッコいいんですが、癖といいますか、そういうものがきょうもありましてですね、ぼくはあのへんも好きなんですけどね。水俣のキツネは知りませんけど・・・ぼくはいま『小説新潮スペシャル』にタヌキの話を書いてまして。山口百恵さんが引退する前に狸御殿ものをやらないとだめじゃないか、美空ひばりも江利チエミも、最近では森昌子さえもコマ劇場で狸御殿をやっているのにです。狸御殿をやらないうちは大スターではないという偏見がありましてですね。東宝の映画作者だったら、ま松竹でもどこでもいいんですが、青林舎でないことは確かですが、これを原作にもらおうかなっていうような狸御殿ものを書こうと思いまして書いているのです。タヌキを調べると結局キツネに突き当たるわけですね。キツネを調べるとタヌキに突き当たるし、で、コリャいかんわという、あの、いまのはダジャレですけども、エー、もうどっちを経てもどっちかへいく。タヌキを一生懸命調べますと、タヌキは四国と佐渡島が本場で、キツネはだいたい全般的にいます。しかし、海岸にいますか、キツネは?

石牟礼 いっぱい。

井上 あ、そうですか。それはぼくの研究不足でして。そうするとかついで・・・かついでっていうのは、ぼくにはあてはまるんですけど、石牟礼さんにはちょっと、そういうかついでとかたぶらかすとか、ふざけるというのは似合わないんで、言葉をさがすのに苦労しますけど・・・何かお姫さまに世上をご説明するような(笑)感じがあって困るんですが、ぼくらはいつもかつがれていると思っているんですね。そこがぼくは好きなんですが、いまの映画でもどうもあのへんはかつがれているかなって感じしてたんですが、それは誤解でした。すいませんでした。
 言葉の問題ですが、たとえば地名を守ることをとおして地方の時代をいかに築くかというシンポジウムが昨日ときょうあったんですが、そのとき考えていたことですが・・・。昔、平賀源内の芝居を書いたことがありまして、あまりまだ平賀源内がはやらなかった頃ですが、平賀源内はご存じのように、非常に不幸な江戸の人でですね、自分はものすごく進んでいるんですけども、世の中が進んでいることがわからないんですね。ですから平賀源内が何かいうと、(百年も経つとそれは真理なんですけども)そのときはホラ吹いているとか山師とかいわれて、結局、自誠して死んだ戯作者、科学者、発明家、それからなんでしょうね、企業家・・・何かわけのわからない人なんですが、その一代記を書きました。そのときに、小さいときから利発で、米のお蔵の番人の息子で非常に身分が低いんですけれども、当時はやりでしたから長崎へ勉強にやろうということになって、源内は藩のお金で船に乗って高松を出まして瀬戸内海を渡って九州の確か大分かに着いて、長崎に歩いていくわけです。源内が大分に着いて長崎にいくときにどうしても長崎にいきなりやれないんですね。歩かせたいわけです。要するに道行をやりたいんですね。芝居の手としては、お前長崎へいってこいつていわれて、パッと暗くなってハイ長崎に着きましたでかまわないんですけど、どうしてもその間道行をやらないとこの芝居はだめだっていう気になってくるわけですね。久留米をかすってー久留米絣にひっかけてやったんですがーなどという語呂合せでずっといろんなところを通って長崎に着きましたと、こうなるわけです。そうなると、本は読むにしても歌舞伎もあまり見ていないそういう人間が、どうして芝居を書いた場合に道行をやらないとこの芝居はだめだと思ったのか、それから、道行が自分で格好いいことになったのかというあたりからですね、自分の才能というのはたかがしれているんじゃないかと思ったんですね。要するに、日本の過去の自分が生きてきた時代までのいろんな表現とか言葉とか、その集積をいつも背負ってましてですね、そういう集積が本人にそうたいした自覚症状がないのに書かしてしまう。いろんないい方がありますけども、時代が書かせたとか、そういういい方がありますけれどもぼくは何か、日本人のいろんな大衆芸能の手が書かせてくれたと思うのです。それは浅草のフランス座で、みなさんもうご存じないでしょうけど、当時のストリップ・ショーは、今のヌード・ショーとかと違いましてですね、日劇ミュージック・ホールふうのもので、もっとコントの部分がたくさんありまして、そういうところで歌舞伎のもじりなんかをやるわけです。それでまあ自然に頭にはいったのかもしれませんけど、そのもじりをお客さんも見ているわけですから、お客さんもやっぱり同様の体験があって、要するに、ぼくというのは、自分に才能があるわけではなくて、いままで見聞きしたり興味をもったりしたものがどこかに残ってましてですね、そういうものが機に応じてでてくるのであると思ったのです。ただしそっくりでてくるとそれは盗作になりますので、そこはやっぱり必死で考えているうちに、自分流にねじ曲ってでてくる。調子のいいときは、ほんとにこれ、誰かが書かしてくれているという感じですね。調子悪いときはやっぱりオレが書いてるんだ(笑)、エー、いちがいにいえませんですね。ですからまあ、パロディなんていうのも、いまのパロディの悪口をいってもしょうがないんですが、交通標語とことわざぐらいしかパロディになっていないわけですね。そうではなくて、いままでの日本文学全体をパロディにする方法もあるわけですね。たとえばこの間、筒井康隆さんが「時代小説」というパロディを書きまして、四十枚ぐらいで時代小説のバカな点がいっぱいはいって、もう二度と誰も時代小説というパロディを書けないんですよね。そういうものを、日本文学大全集という、三十枚ぐらいの短篇を書いて、全部それにはいっているみたいなことをほんとうはぼくはやりたいわけですけど、力がなくてやれないんですけども、でもそれをやったらもう、もの書きとして終り、ぼくの場合はですね。たえず過去の作品に押されながら、別に盗む気は全然ないんです。で、盗んでもいないんです。それで、これはオレのオリジナルだっていうのも多少ありますから、そうじゃなくて、ある日、自分には才能がなくて、何か見えない手が書かせているって思うときはあります、躁病のときですね。欝病のときはだめだってなりますからね。これもまたあてにならない話なんですが。というとこで、何を話したらいいかーぼくはこの映画は・・・(会場・笑)ー小説の場合はですね、これは真実ですぞという小説は、もう今世紀は誰も読まないんですね。読んでいる人もいますし、ぼくもときどき読んで、うわあこわいとかなんとか(会場・笑)いったりしてますけども。小説の小説といいますか、小説についての小説というのが、今世紀の根本命題だろうと思うんですね。ささやかな時評家としての経験をいいますと、作家ー少しまじめに考えている作家、あるいは少しふざけて考えている作家ーはみんな、真ン中でオレは作家だっていっている人はなんにも疑問がなさそうですけども、ちょっと考えている作家はですね、必ず表現している自分をどこかで見ているんですね、頭の上とか、人によって肩とか、お尻という人はあまりいないんですけど、まあだいたい肩から上ぐらいにもうひとりの自分がいて、小説を書いている自分を、いろいろ批評したり冷やかしたり、ホラ見ろあと二行で止まっちゃうゾというとほんとに止まっちやったりなんかして。それからときどきおだてたりするのがですね、右肩のあたりにいたかと思うと左肩にいったりして、所在は不確かなんですけど確かにいるんですね。それを、たとえばアンドレ・ジイドなんていう人は悪魔がきたなんていろいろ格好のいいことをいうんですが、ぼくはまあ、たえず観察しているもうひとりの誰かがいて、小説そのもの、そして書いている作家を冷やかしたり励ましたりしているわけです。それが近代小説の基本だろうと思うんです。この映画はやっぱり、そういう小説とか文学がぶちあたっている問題を映画として受けとめているというふうに、ぼくは感じて、また最初にもどりますけども、対象、それを描いている人、さらにそれを写している人、そしてぼくらはそれを見ているという入子細工みたいなことが実にうまくいっていると思います。

石牟礼 井上さんは、道行とおっしゃいました。道行をどうしてもいれたい、と。私、まずやっぱり思いますのは、そういう道行をいれないと間がもたないのじゃないか、井上さんは、というように思いますです。
 私の身のまわりにいる南九州の端っこのほうで生きている人たちは、生きていることがお芝居なんだなと思いますのね。その人たちは役者さんになりたいわけで、そういう願望がテレビに出る人たちーのど自慢、私NHKののど自慢見るの大好きで、とても年齢をとったおばあちゃんたちが、アナウンサーを圧倒して、とても色気があって(笑)アナウンサーが非常にバカげて見える、軽薄な演技をしてて、八十歳以上のおばあちゃんが出てくると食ってしまうようなところがありましてーそういう人たちが日常使う言葉の中に、「ああ、きょうは泣いた泣いた」、世の中そういいことばっかりないわけで、極限になりますと、「きょうは泣いて狂うてやったばい」とか、きょうは舞うて、ー舞いという字を当てるんだと思いますけどもー、「舞うた舞うた」とか、「狂うた狂うた」とかいうときに、みえをきっている感じがございましてね。そういうみえをきる、一生に一度はみえをきりたいというのは、ふつうの人間の中にもあるんではないかと思います。土本さんの前の作品で「水俣」というのがありますけども、チッソの株主総会に巡礼姿でいって、患者さんたちに壇上に上がってもらったんですけれど、そこに、その一瞬に、ふだん別に水俣病がなくっても、庶民が一生に一度、はれの日に紅をさして舞うみたいな場面をみごとにカメラでとらえてくださっている箇所がありますけれども。平賀源内は、私は部分的にしか拝見しておりませんけど、どういう作品の中にも道行がたくさん出てくる。そういうのをつなげて、わたしの身のまわり、日常の中にいる人とつなげて考えますときに、井上さんがいまおっしゃいましたように、日本の文学そのものをパロディで書けばどうなるか、と。そこでは、一番先端的なお考え、いまの日本文学のいきつく一番最後のところから逆に振り返ってみる、そういう世界の存在としての小庶民の呼吸みたいなものと、お使いになる言葉が呼吸し合っているんだなというふうに思いますのね。

井上 どうもありがとうございます。映画の中の詩についてはさっきもいいましたけれども、どうもその、活字となりますと、なんかこう、すましたりですね、そういう癖が日本の文学の中にありますね。とくにぼくは新劇の悪口はいえないんです。というのは自分も新劇の辺境でですけども書いていますのでー。新劇の人からは、アルバイトをやっていると見られているようですが・・・。十五年前の新劇というのは想像を絶していますね、いまと比べると。ほんとにまじめ、まじめ以外にとりえがなかった。六〇年代後半の小劇場運動というふうにいわれている唐十郎さんとか鈴木忠志さんとか、佐藤信さんなどの登場でだいぶ変わりましたけども、その前のいわゆる三大劇団時代です。これがいかに硬直した時代であったかというのは、芝居を見ていますとほんとに息が詰まりそうだつたですね。こちらはちょっとへんじゃないか、と誰もが思ったと思います、ぼくだけではなくて。日本語というのはそんなに堅苦しくてつまらないものなのかという感じがしましたね。一方、浅草へいきますと、石牟礼さんがおっしゃってくださいましたけど、大道のテキヤがいまして、どんどん通り過ぎていく人を、言葉でつかまえなければいけないんですね。ぼくもだいぶ引っかかりましたけど、たとえば簡単なことをいいますと、この靴三百円だっていうわけですね。安いわけです。市価の半分ぐらい。それでヒヨッと立ち止まると、いろんなこといって、気がつくとそれは片方で三百円で、両方あわせると六百円で市価とそう変わらない、とか。それでお客引っかかっちゃうわけですけど、決してお客も怒らないんですね。それは言葉のすばらしさに無意識のうちに感動していたからだと思うんです。お客が逃げそうになると、これから帰るヤツはみんなドロボーだなんていって脅かしたりですね、そのテクニックたるやたいへんなものだと思いますけども、そういうものに対する観覧料といいますか、感謝の気持といいますか・・・。一時間ぐらい楽しませてもらったお礼、それから自分もその中の登場人物になったわけですから、いろんなこと満足して帰っていくわけです。
 そういうのと同じ東京でですね、お客が五人なんて新劇をぼくは見たことありますし、ある作家が西武劇場で五人で頭にきてたら、紀伊国屋でそのライバルの作家が芝居書いて上演したのが三人で、五人対三人で五人のほうが喜んだとか(笑)、それは小説家が書いた芝居のことですけど。いずれもいま高名な小説家ですけども、その小説家の悪口いってもしょうがないんで、しかしその小説家たちは結局、勉強しますので新劇ふうに書いちゃうんですね。新劇の役者も例外はたくさんありますけども、例外のほうが多いんですけども、ーというと例外にならないですが、ーたまにへンな人がいまして、ぼくが浅草にいたときに、身を落としてコメディアンでアルバイトをしようというのできたんですね。それで徹夜で稽古してますと、通行人で出るわけです。通行人がばかにえばってまして、浅草の芝居はもう演出家もへッタクレもないですから、台本を書いた先生が女と肩組みながら、「適当に」なんてやってるわけです。そこへ新劇のまじめな人がきて、「いまの通行人ですけどあれは工員でしょうか」「お前工員の服着てんじゃないか」「しかし浅草に工員いるわけないでしょう」っていうわけです。で、演出家もちょっと考えて、「ン、朝帰りだ」なんて言うわけです。そうするとその役者さんはすごく納得して、「そんなら演技のしようがあります」。やってみると前とおんなじだったりなんかして、なんだかよくわかんないのがぼくらは新劇だと思っていたんです。
 やはり劇場に、日本語のほんとうに楽しい音をですね、どんなにつらいところに追い込まれても、つらいってことを言葉にだしたときに、そのつらさを対象化するわけですね。ものもいえないぐらい悲しいってよくいいますけど、でも、ものもいえないくらい悲しい、と自分の悲しみを名づけたときに、悲しみは多少は対象化して、その悲しみから一瞬フッと離れることができるわけです。それに身ぶりをともなって、さっき石牟礼さんがおっしゃったように、「きょうは狂ってやった」みたいなかたちで自分を客観化する。悲しみをクリスタル化するといいますかね、いまはやりでいいますと、ちょっと使い方が違うと思いますけど・・・。それも、言葉のすごい働きだと思うんですね。たとえば民謡なんかでも、ことし豊年になってくれ、豊年になったらお供え物をたくさんあげるとか、雨乞い歌なんかたくさんありますし、言葉で雨降らせようっていうんですから言葉も力をもつわけですね。浅草の大道の生き生きした言葉、お客さんを一瞬も逃がさないようにする言葉に学びたいと考えるわけですね。・・・まあ、根がせこいといいますか、根がいやしいといいますか、そんなとこなんじゃないでしょうか。きょうは石牟礼さんと並んだもんですから、自分をどんどん、こう、いやしめていかないとつり合いがとれないという・・・。なんか、ぼくだけしゃべっててもしょうがないんで、何か感想をお聞かせいただきたいと思います(笑)。

石牟礼 あの、つかぬことをうかがいますけれど、『いとしのブリジット・ボルドー』、実に楽しく拝読いたしましたんですけれど、あの中であの釜西東海新報、岩手から送ってくる新聞のことから書き出されて、それで、これは実は自分の母親のことだ、と書かれた。あの、非常に初歩的な質問でどうも恐縮ですけれど、あれは虚と実の間・・・フィクシヨンでございますか。

井上 ええ、書いたときはフィクションなんですけども、あの、バカなおふくろがいましてですね(笑)、書かれた以上はこれにそわなきゃという・・・(会場・笑)。ぼくは、この頃、老人問題と重ね合わせておふくろで苦労してるんですけども。まあ、若いときは非常に愛すべきところがありましたですね。不幸つづきでしたですけど、いまいいましたようにその、不幸を言葉で、たとえば子どもに語るとか、ふざけてみせるとか、そういう客観化するという知恵ーだいたい女性というのは男性よりあるかもしれませんけども。ただ女の道化てのはいないんで、そのへんが非常に深い問題ですがーそのおふくろのおもしろさというのをちょっとオーバーに書いたわけです。そしたらその小説が田舎町に当然流れていきまして、おふくろは、二、三ほんとうらしいことがありますけども、ほとんど嘘なのに、あの小説を今度台本にしましてですね、店を改造するやら(会場・笑)、お客さんも黙っていないわけなんですね。ずいぶん小説家てのは嘘つくなってんで、母親としての子を思う気持といえばいいんでしょうか、かなり自己顕示欲の多い人ですから、あの通りそろえていくわけですね。ただ過去のことはそろえられないんで、あまり過去のこといわなくなりましたけれど、現在時点でお店の造りとかどういうカクテルがあるかというのは、みごとにフィクションをまねていくわけです。それでぼくはものを書くのはおそろしいと思いました。とくに近親者にとってですね。ぼくはこの頃いっさい、家のことを書いてないのは、書くと家が地獄になっちゃうわけですね、必ずそれはよくないことにつながるわけですから。あんなこと書かれちゃ怒るのは当り前よ、とか、すべてのぼくの正当な理由は消えて、ただ書かれたくやしさみたいなことで、家族中、近所中がせめてきます、いまに日本中(笑)がせめてくるんじゃないかとさえ思うんです。というのは、日本のある人たちの悪口をいうもんですから、ぼくが。そういう意味でぼくは、あんまり自分のことは書かないようにしているんです。それは、大衆小説家といいますか滑稽小説家の得なところです。文学と心中したいとは思いますけど、文学のほうが許してくれないと思いますので、わりと気らくに趣味でつきあってるせいか、もう、自分のことは書かないというふうに決めました。

石牟礼 でも、まあ、わりと本音と読者に思われることをお書きになりますね。

井上 ええ、まあ・・・。きょうは映画の話をしなければいけないと思いますが(会場・笑)・・・あの、突然ですけれども、土本さん、あれですか(会場・笑)、率直な感想で、丸木御夫妻の絵というのは、実物ご覧になってどうですか。

土本 丸木俊さんは非常に写生を大事にする人なんですよ。ヒナ型とか、写生とかスケッチとか。でも最初にいかれたときは大ショックを受けてスケッチがないんですね。ですから、ュージン・スミスなどの写真を見て描きましたから、ぼくには人物の名前が全部いえるんですよ、この子、この子って。だから、ちょっと違っていてもぼくには感想が浮かびます。よだれがでている子の形が、ときにはタバコをくわえているみたいに見えたりするものですからー。ただ絵というのはおそろしいもので、描いたら固定されますからね。
 それで、ぼくは何かひとつ翻訳がいるという気がしたんですよ。はじめて完成半ばの絵を見たとき、この絵を水俣に持っていったらつらい人もいるだろうなという思いがあった。それで石牟礼さんには、電話でチラッといったことがあるんです。ふたりぐらいの水俣の人が東京にきた折にお見せしたんですが、「ホー、大きいなあ」っていうんですね、見ていってもやっぱりもうひとつつかめないようなんですね。最初に受けた体験のキツさのせいか、非常に暗くなっている。映画でディテールを見ていくと、長いことかかって描くから旅がわかるんですね、あの人たちの旅が。その絵をまたせつなくよごしていくとか、よごしすぎたんでまた描いていくとか、そういう旅がわかるので、そういったことにも主眼をおいて撮っていったのです。
 この音楽は、ふつう聴くと映画音楽としてはメチャクチャにキツイと思うんです。これはぼくの偏見かもしれませんけれど、劇映画には音楽を、記録映画には現実音をというのが基本にあると思います。音楽がいるとしたらその場のラジオから流れてくる音楽とか、街頭放送から流れてくる音とか、ものの音とかを使うほうが雄弁だという考えがぼくにはありまして、あまり音楽というのを使ったことはないんですね。ところが今度の作品には、いろんな人に作品でもって参加してほしいということを考えた。武満徹さんとはぼくが以前羽仁進さんの「不良少年」という映画の助監督やってたときに知りあったんですが、そのときに一緒に、酒飲みながら話したことがあるのです。映画音楽はどうして映画の決められた感性の中で作曲しろといわれるのか。伴奏はもういやだ、オレのほうがもっとイメージが大きいのに決められてしまう、と武満さんはいわれていた。音楽家がひとつの課題で音楽を書いてみる、作家も同じ課題で映像を作ってみる。それを合わせたら、たいていは合わないだろうが、どこかで合ったら大きく合うだろうという話があったのです。両方とも時間芸術で一分一秒も伸び縮みがないわけです。ですからお互いに固定されてしまうわけですが、独自の音楽を作曲してもらおうということで、こんな映画だとタッチは見せましたけれども、完成品は全然見せていないわけです。時間もフリーでやってもらったので、音楽の方が四、五分たりなかった。それでもういっぺんレピー卜して作り直してもらってはいます。それから、ぼくがどうして詩がほしいと考えましたかといいますと、ぼくはこれまで詩の理解が少かったんですが、詩を読むということでは、二回経験があるんです。ひとつは砂田明さんが自分の生まれ故郷の言葉で、「起ちなはれ」という詩をーそれは水俣のことをうたった詩なんですけれどもー、水俣の言葉でなくて、若狭の言葉でしゃべっているんです。その詩を聞いたときに、たいへんなショックを受けたんですね。関西弁と若狭言葉のミックスなんですけども。また、中野重治さんが亡くなったときにぼくは葬式だけの映画を記念に撮ったのですが、たまたまNHKに死の予定稿として生前の声がとってあるんです、ラジオ用にですね。それを聞いたら、NHKですから、すごいハイファイで誇張なく自分の詩を吐き出している。確か戦前の一九二九年ぐらいの作で、天皇制に抗議して闘っている自分を何遍も反芻した「私は嘆かずにいられない」という詩なんです。やっぱり天皇のことはあからさまにいえないですからくぐもった表現をしてますけどね、あきらかに詩人本人がいうとはっきりわかるものがあるのです。それが二回目にびっくりしたことなのです。それを一緒に聞いたんですよ、石牟礼さんと。ぼくとしては多少の下心もあったんですけども、石牟礼さんには詩で語ってほしいと。石牟礼さんが文章にされたうえで、しかも詩として読むということがどうしてもほしかったので、それでやってもらったのです。どこで録音しようかと迷いました。非常に日常的なところでないと石牟礼さんは気が動転されるんじゃないかと思ったのですが、案の定あるスタジオの門をくぐったときにもう、動転しちゃっているのですね。ところがその後どこへつれていこうとも、その動転はもう終っちゃっているのですね(笑)。それで第一回、ちょっと声をだしてもらっただけでもうOKにしたわけなんです。彼女は何遍も練習してからと思っていたようで、終ったと聞いてからもけげんな顔をしているのです。往々にして二回三回とやっているうちにうまくなって、へンなふうに汚してしまうことがあるんで、処女性をいただくということで・・・あまりいい言葉でないんですが(笑)。
 ただ、これだけはいいたいわけです。私は水俣で一番何かをしているとすれば、水俣の若い活動家だと思っているのです。そういう人は、自分が患者さんの何かの支えになることによって自分の表現が終るわけですね。たとえば、ぼくが患者さんの写真を撮るときには自分がパーッと外側に出ていって、患者さんだけをフレームの中に残すようにするわけですね。そうしているうちに、ぼくは表現者という自分に自己嫌悪してきたのです。ぼくは記録映画を撮る自分はペテン師だと思っているのですが、そのペテン師がつい関係者になっちゃうようなことがあるのです。キャメラを持ってますからその場でしなければいけないことがあるわけですが、癖としてシャイになっちゃうところがあるんです。石牟礼さんと表現とはなんだろうとしゃべったときに、「表現をほんとうに研ぎすましたら、それは力じゃないかしら」と、ほんとにつぶやくようにいわれたんで、まあ、それを励みにしてやろうとしているわけなんです。今度のような映画を水俣に持っていった場合、後半のスケッチに描かれた人たちが一番喜ぶと思うんです。いままでぼくが持っていった水俣の映画は、どうだつたかな、と思うことがあります。やっぱりつらいこともあったろうし、これを大阪の親戚が見たらとか、いろんなことがあったと思いますけれども・・・。

井上 清子さんとしのぶさんが、ずうっと向こうへ歩いていくうしろ姿ふたつ、山の湯で、石牟礼さんと画家御夫妻とがお話しになっている。ときどきふたりの娘さんの映像がスーッとはいってくる場面があります。美しいですね。美しいという言葉ではそれこそ表現に力がないですが・・・。自分も娘がいますから、このお嬢さんは本来ならこんなにきれいなのに、かわいそうだ、と、まずそこからはじまるわけですね。そういうレベルでの感動がまず胸にわくわけですね。それがだんだん、なんていうんでしょうね、どす黒い怒りってよく大衆小説に出てきますけれどもー怒りというとだいたいどす黒いと形容しますが、そうでもないだろうとぼくは思うんですけどもーきょうのは透明な怒りという感じなのです。やっぱり表現が力をもつというのは、森さん、清子さん、しのぶさんという実際の患者さんと、それを表現した一枚の絵、それをまた映画が表現しているという、そのていねいな積みあげの中での先ほどのシーンで、オレもなんかこのお嬢さんにやってあげなきゃと、非常にその、何かこう、怒ったですね。隣りに人がいなかったんでよかったんですけど、隣りの人をなぐっちやったりなんか(笑)しそうなぐらい、グーッと怒りがでできましたね。あのへんはすばらしいと思いました。

土本 あのシーンは前からも撮りましたが、人間は妙なもので前から見ると顔を見ていくんですね。顔はどうなっているかとか、こっちにくるのか見るわけなんですけども、パンとうしろにしてみますとね、なんでいうか、全部が語っているわけですね、手から足から肩から。うしろにしてみたときの驚きというのは、井上さんとぼくと同じだと思います。妙なものですね、映画というのは。

井上 社長がいたらブンなぐってやりたいって感じですね。ちょっと、「強いですか」なんて聞くかもしれませんけど(笑)。ま、アジテーシヨンはいやだっておっしゃってましたけど、ほんとにいいアジテーションといいますか、表現には力があるんだなと思いましたね。あれは何冊の水俣関係の本を読んでいる人にも、まったく読まない人にも、かわいそうだとかなんだとか、そういうレベルの感情ではなくて、こんな不公平な世の中あるかという正義をもとめる心といいますか、正義というとまた何か最近はいやらしくなりますが、正しさをもとめたいという素朴な感情と、それを力にして立ちあがらせる迫力がありましたね。ぼくは、ほんとうにあそこは感動しました。

土本 まあ、記録映画というのはいつも人を傷つけかねない因果な商売ですけども、そこでは、キヤメラなしでのつきあいの何倍かエネルギーを使いますよね。そのことで見えてくることの希望にすがってやっているようなものですけども。ただ水俣でもそのほかの映画でも、ぼくは記録映画の一番の魅力は、ディテールと過程なんですね。ディテールをじっと見ていくと、ディテールで接している中に、ドラマがあったり、またそのすき間を見ていくこともある。厳格なときに失禁したりするおかしなところがやっぱりあるんで、そういうところを撮ろうとするんですが・・・。映画というのもある種の快楽がないとね、なんらかのメッセージがはいらないですよね。脅してたんじゃ絶対はいらないということは、これは昔からの自分の映画でよくわかるものですから、なんとか勉強したいわけですけれどもね。

井上 すいません、ちょっと、お姫さまを敬遠しまして家老と(笑)話してたという感じで、・・・(笑、会場・笑)。

北川 井上さんが、たとえば水俣を井上さんの手法で書かれるとすると、何かなさりたいと思ったりすることや、もっと違う手があるんじゃないかと思ったこととかありますか。

井上 いえ、冗談でいえというんならいいますけれども、そう簡単にはちょっとその・・・ね。石牟礼さんという一番いい作家を得ているわけですから、活字の面では。でもぼくは、あのキツネをやりますね。キツネがあそこの工場をめちゃくちゃにしてね(笑)、ジワジワ追い込んでいくというふうな話はやれると思いますけれど、それでしかし、伝わるかどうかですね。むしろ妙にカタルシスをつくったらいけないんじゃないかと思いますね。小説読んでおもしろかったというふうにしちゃうと、あの場合ちょっといけないと思います。ですから、ぼくみたいなものはやはり、手を出すべきではないと思いますね。もっと架空のことで、水俣から離れて、もっとふざけたりなんかどんどんできるようなところをつくって、そこで水俣らしいものをやると思いますね。キツネが女に化けて社長をだますとかですね・・・。水俣ではちょっとできないと思います。

北川 この映画と井上さんの小説はジャンルが違うわけですけれども、だれでも井上さんの小説も読めるし、この映画を見ることもできますが、そこでの方法とかテーマは全部違うわけですね。ところがある人が見た場合に、そこに感覚の共有性を感じることがある。どうしてこういうこというかといいますと、いま政治的なアジテーシヨンなどの言葉のつくり方を見たときに、みんな同じになってしまっているところがあるわけですね。そうではないものの中に感覚の広い意味の党派性というか傾向性といったものがあるのではないか、と考えるわけです。井上さんの小説を読む人と、ほかの何かを見たり読んだりする人との中で、ほんとうはつながるものが何かあるのだと思ったりするのですが・・・。

井上 最終的には、最初の読者と最後の読者は自分自身ですからね。これはものを書いていらっしゃる方はみなそうだと思うんですが、最初に読んでいるのは当然自分なわけですね、のってるときは、もっと見せろとどんどん書けたり、つまんねえっていうとさっきのようになりますけど。みんなが見捨てた自分の作品をやがて養老院かどこかで読むのもおそらくぼくで、昔はこうよ、なんて(笑)いう感じでやっているかもしれませんけど。大事なことは、簡単にいうと、それぞれの表現者が自分をどう磨いていくかというか、自分の可能性をどう自分で引き伸ばしていくかと、たえずそれぞれの表現者が自分の仕事の中で、少しずつ質をあげていくということだと思うのです。その質をあげるという作業の中には映画を見るということもありますしね、作品を読むこともありますし、人の考えをよく聞くとか、自分の考えを練りあげるとか・。そういうことが書く作業のほとんどを占めますから、書いているというのは答を書いているようなところがあります。そういう、自分の質をあげていくということを、みんなやってる。たとえばきょうの映画を見た場合に、キツネのお話なんかはどこかに残ると思うんですね。それから、映画の映画といいますか、そういうといいすぎかもしれませんが、表現の表現といいますかね、そういう表現スタイルが残ると思うんですね。そういうような連帯しかないと思うんですね、おそらく。自分の気にいった表現をみつけて、それを自分のジャンルの表現へどうもち込むとか、お互いにいい部分を、ジャンルが違うとそう簡単にいきませんけども、しぼりにしぼった一滴の清水みたいな感じで、お互いのいい表現をとりつこするといいますかね。それをお客さまが表現者と同じように、ジリジリ質をあげていくことがほんとうの共同作業じゃないかと思うんですね。やたら仲良くなったり、酒に酔っぱらって「今度やろう」なんてことは、ぼくは若いときさんざんやってきて不毛だというのに気がつきましたんでね(笑)、結局みんな孤独な仕事でどうつながっていくかというところでその作品があるわけですから。作品でつながるというほかないんじゃないでしょうかね。

石牟礼 あの、土本さんはどうかわかりませんけれど、書いているときに、キツネとつながっているというか、どこかキツネを何匹も飼っているような気持がありましてね、そのバカすこと・・・。井上さんはたいへん、バカす、あの、たぶらかすというかな(笑)、それをやってらっしゃる。私なんか非常にたぶらかされて、酩酊していく快感がありますのね。それで、そのような意図をもっている作品で自分がたぶらかされるのは快感なわけですね。それは、たいそう意識していらっしゃいますか。私なども、書いていきますときにね、キツネがきて、乗り移られる感じで書くときありますのね。

井上 それは、病的にありますですね(笑)。まず自分をですね、だます手を考えるわけです。で、自分が考えてるわけですから、そんなにびっくりしたりなんかしませんけれども(会場・笑)。形としては、ウンこの手だっていう感じしかないわけですけれども。こうきて、そこでこのままいったんじゃつまんない、このままでいってはお金をいただけないっていうのはありますね。そこでいままで出てきたのを全部伏線にしたうえで、自分もびっくりし、読者、お客さんもびっくりしてもらおうと考えるので、たえず原稿が遅くなる、といいますと言い訳になりますけれども。でも悲しいかな、新しい手を思いついたと思うと、前になんかでやってたりなんかしてまして、ま、物忘れがよくないとこういう大衆小説家というのはつとまらないみたいな感じがありまして(笑)、やっぱり、だましたい、というと語弊がありますけれども、読者にびっくりしてもらいたいというのはもう、ほんとうにあります。それがぼくの場合は一番大きな、書いているときの楽しみじゃないでしょうかね。

石牟礼 ああ、それうかがって、たいへんうれしゅうございます。

井上 ああ、そうですか(笑)。

 後記一石牟礼道子

 かの夜、一生に一度でよいから、井上さんが夜な夜な丑三つ刻になると、クスクスクスとしのび笑いをされる、奥さまがこわがりなさる、そういう喜劇を書きたいものである。と一大発奮をいたしましたものの、どのように書けば、笑って頂けますものやら、決心したとたんに心細くなって、決心と心細さが波の満ち干きのようにゆき来しておりました。

 追伸
 
 生身しらふでいることの恥かしさや、年古りすぎて酒も呑めねば化けなとしようとおもえども、化生の闇かの時ひらかず、不覚にもくちおしきことかな。この文、狐の書体にてしたためたく侯えども、さんぬる日、里人たちの煙いぶしに遭い、口先やけどしたりければ、筆持てず、尻尾にてすごすご塗たくりたる文、ご判じ下されたく あらあらかしこ
 わたしの薄月の狐申す