私ではなく、不知火の海が<表現に力ありや>全展開 映画「水俣の図・物語」 シンポジウム9-不知火海”蘇り”の予感 佐藤忠男+色川大吉+土本典昭+高木隆太郎 対談
北川 きょうは、歴史家で、また不知火海総合学術調査団の第一期の団長をつとめられた色川大吉さんと、映画のみならず、大衆芸術、教育問題などで、誠実で幅広い評論活動をされている佐藤忠男さん、そしてこの映画の監督の土本さんと製作の高木隆太郎さんに出席していただきまして、作ることと見せることを中心に、この映画が、いま登場してきた意味、背景などについて語っていただこうと思っています。
佐藤 私は映画批評家ですから、この映画を美術映画として見てました。いままでも美術映画というのはずいぶんありまして、作品を見せる美術映画としては丸木さん夫妻の「原爆の図」が、もう三十年ぐらい前に映画になっていました。確か、監督は今井正さんでした。それは絵画を純粋に紹介する映画だったと思います。それから、アラン・レネが「ゲルニカ」とか「ヴァン・ゴッホ」という美術映画を作っています。「ゴッホ」は映画的テクニックとしてかなりおもしろい、つまりゴッホが狂っていく過程を作品のディテールのモンタージュで感じさせるというやり方で、かなりおもしろかった。日本のものではほかに、勅使河原宏さんが「北斎」というのを作っている。これは、北斎のデッサンをいくつもいくつも重ねると北斎の絵がアニメーションみたいに動きだすのが、おもしろかった。そういった作品はありましたけれども、だいたいできた作品の紹介、それに映画的な創意を加えるという作品がオーソドックスな形だったわけです。それから画家が絵を描く過程を描いた作品としては、ジヨルジュ・クルーゾーという恐怖映画を作った監督が、やはりもう二十年ぐらい前ですけれども、「ピカソ・天才の秘密」という映画を作っている。ピカソに絵を描かせて、それを撮っている長い作品です。これもピカソと監督とのやりとりがユーモラスで、ちょっと違ったスタイルの美術映画だった。美術映画も純粋に作品を紹介することから、少しずつ映画的にそれを処理する方向へ、さらに、ひとつの作品が作られていく過程の、画家のためらいとか、決断とかの瞬間をとらえようとするような方向に、徐々に進んできたと思うのです。この「水俣の図・物語」は、それをずっとおし進めている。画家が描いているところを見せているわけですけれども、やはり一番この作品で興味深いのは、作品が完成したあとで、さらにその作品では何ができなかったかということを問題にして、もう一度水俣にいって考えるというところが、これまでの美術映画では見たことがない場面だったと思います。これは美術映画という範囲で考えて非常にユニークな点ではないか。つまり、ある作品があって、その作品が非常に立派なものであるからそれを紹介するとか、あるいはある画家がいて、その画家はえらい人であるからその画家を紹介するということから、もう一歩前進しようとしている試みだということができると思います。その画家が何かを作ったけれども、作るということ自体、さらに遠くにある何かへのひとつのステップなのであって、それがなんであるかということが、繰り返し繰り返し問題としてでてくるような作品だったのではないか。そういう作品であるために、いままで例にあげた美術映画にはない一種の緊張感があって感動的であったと思います。つまり、画家のキャリアと映画作家のキャリアを比べると、画家のほうが大家だから、(土本さんが大家でないというわけではないけれども)画家が悠々と仕事をするのをただそばから拝見させてもらうという、実際にはそういうかたちだったのかもしれない。しかし、土本さんみたいな人にそばにつきっきりでいられると、画家としてもちょっと困るんじゃないかという気が、見ていてしました。その困り方というのが、ひとつの関心でありました。たとえば、私なんかも、土本さんから電話をもらって、きょうのこういう会に出てくれといわれると、かなり緊張するわけです。つまり、土本さんは非常に立派な、えらい人であって、その人から声をかけられると、私も不まじめなことはできないという緊張感があるわけです。丸木さん夫妻は土本さんにそばで見られたからといって、別に緊張することはないだろうと思うのですけれども、土本さんひとりではなくて、いろんな人にしげしげと見られながら仕事をするということはどうなんですかね、そのへんはお聞きしたいところなんです。さらに、あとでまた水俣にいったときにはそうとう精神的負担があったんだろうと思いますね。そして、さらに自分の作品が患者さんにどう見られるかということが、精神的に負担だったんだろうと思いますね。つまり、ものを作るということは、あるひとつの作品ができればいいというのではなくて、自分が誰かに負い目があって、その負い目を目の前にもってこられると困る、その困ったところで何をするかということが、常にあるのではないか。ことに、社会的な拡がりのあるテーマにぶつかっていこうとすれば、必ずそうなるのだろうと思う。そういうひとつのプロセスとして作品を作るという点が非常に興味深かった。単純にただ興味深いというようなものではなくて、ヘタをすると、落とし穴でもある。お互いに立派なことやっているどうし、お互いに正しい志をもっているどうしなんだからいいはずだ、というなれあいになる可能性もなくはないと思うんですね。つまり、この人は志の正しい人だからこの人の描く作品は立派な作品になるにちがいない。作品ができる前から、つまり、描きはじめたときでその作品が傑作になるかどうかわからないところから、ー傑作でなければ映画に紹介する価値がないということはないですけれども、非常に立派な人が、立派な人であるというだけで紹介する価値があると思いますけれども、しかし、できあがった作品が、非常につまらない作品になるという可能性は常にあるわけでーまだ未完成の作品を選ぶときの気持というのはどういうものなのか、そのへんは一度、機会があったらお聞きしたいなと思っていたところです。そのへんは非常にサスペンスがあるんじゃないかと思う。これは単純にひとりの観客として、観客というよりも私は批評家だから、多少意地悪く見たりする、そういう立場の観客としては、できあがった絵画がつまらない作品であった場合は、どうなるんだと思う、それでもやっぱり撮りはじめたら途中でやめるわけにはいかないだろうと思いますね。そうとうお金もかかることですし、そのあたりが見ていて、ハラハラします。この作品はサスペンスを乗り越えてうまくいったと思います。先ほど例にあげた映画は全部価値が定まっている作品をとりあげているわけです。定評のある傑作、あるいは、この人はえらい人という美術史上での定評のある画家をとりあげている。丸木さん夫妻が定評がないとはいえませんけれども、まだやはりさっきあげた巨匠たちと比べると、そこにサスペンスがあると思うんですね。そのへんのところに非常に関心をもって見て、そして、よかったと思いました。また、同時に、ご覧になる人は、あるいは、土本さんのこの作品一本しか見ないかもしれない。この作品一本が独立していなければいけない。士本さんには定評のあるすばらしい傑作が数本あるわけですね。それでもなおかつ水俣の映画を作りつづけようとすると、どういうことになるのか。あれだけたくさん水俣についての傑作を記録映画で作ってしまったら、もう作る材料ないんじゃないか。材料がないということはないんでしょうけれど、同じことの繰り返しになるんじゃないか。しかし繰り返しになってもやるんだということは、もうはっきりしているんですね。下世話にいうと、手をかえ品をかえということになるんじゃないか。そして、この絵をとりあげるということは、水俣について、適切にとりあげる材料がしだいになくなってきているからなのか。なくならないとしても、つかまえにくくなっている。作家の資質の問題というよりも、客観情勢からいってつかまえにくくなる。そうすると、なんでもトピックスがあれば、ということになるんじゃないか。そして、この作品はもしかしたら、そういう落とし穴に落ちるんじゃないか、そういう不安を、実はもっていましたので見る前にかなり心配でした。土本さんという人は、この人を信頼すると決めたら、その信頼が実に的確にあたる人ー誰だって丸木さん夫妻なら信頼するでしょうけどーなんで、そのへんが運動というよりも、一種の行に近くなっているような感じがありました。そういう点でこれは、一作品というよりも全体の流れとして、感銘を受けたわけです。
北川 いま、佐藤さんからでた質問は、二点あったと思います。いままでの水俣というテーマの流れの中でのこの映画を撮ることの問題がひとつと、丸木さんの絵ができていない段階でそれに賭けていくことへの質問があったわけですが・・・。
高木 確かに土本の作家論、流れから見ていくと、水俣について品切れになったからと思われても、ごく自然だと思うのですけれども・・・。水俣の映画を撮りつづけてきた結果の縁というのが、もちろん、ベースにはあるわけです。しかしこの映画を作るきっかけは偶然で、もののはずみみたいに決まったのです。丸木さん夫妻が水俣の絵を描くために土本の映画を参考にしたいといわれ、お見せしたわけです。その帰り道に、丸木さんが「実はこういうふうに描いとるんじゃよ」といってお描きになっている途中の絵を見せてくださった。私は、職人さんたちの仕事場を見るのが好きで、靴屋さんなら靴を作っているところとか、ガラス屋さんならガラスを切っているところなどを見るのがすごく好きなものですから、「描いておられるところから映画にとらせてください」と思わずいっちゃったのです。画家の神聖なアトリエにキャメラがはいったり照明がはいったり、スタッフ何人かがはいるわけですから、たぶん、不可能だろうという気持もあったのです。しかし「いいよ、いいよ」。「いいよ」といわれたら、引っ込みがつかなくなって、さてどうしようかと、土本と鳩首相談をしたというようなわけで、いわばもののはずみから製作がはじまった。その点では、水俣をたくさん撮ってきたけれども、この次は何で作ろうかみたいな考えは、まったくこの映画にはなかった。気持としては、もののはずみではじまるのは非常にいい。前後の判断がないだけに、トントン、トントン、気持が先にいけるという感じがあったように思います。
土本 ユージン・スミスさんが水俣におられたり、石牟礼さんがおられたり、それから運動の若者がいたりして、ユージン・スミスさんは映画に撮りませんでしたが、若者たちを撮ったこともあるし、表現者も撮ったことがあるのです。だけど、編集時につないでいきますと、そういうものは全部おっこっちゃうんです。その人たちが頑張っている原点というのは、やっぱり患者さんの業苦をみつめたことからでてくることですからね。ここにおられる色川さんたちの、数回にわたる調査のときも、非常なドラマがあったのです。前の経験からいって、そういった表現者を仮に撮っても、水俣総体の中にちょっといれるというのでは難しくて、あるときから、いっさい目をつぶってしまったのです。水俣の”原記録”だけでいいと。
ところが、丸木さんたちが絵を描かれたとき、実は、びっくりしたんですよ、そのスケールを聞いて。あのご老体で精魂をかたむけてやるとしたら、ひょっとしたらこれが最後の、絵としての遺言ではないかというふうに考えた。丸木さんのこれまでの絵は巻き紙というか掛け軸というか携帯して持って歩けるものだった。美術館を作ったのが大きい内因だと思うのですが、近頃は障壁画を描かれるようになった。ひとつの建造物の一部みたいな大きなものになってしまった。そうすると、それを持って歩けませんしね。これはどうやって見せるかを考えたときに、映画という手もひとつあるなと思ったのです。はずみでいってしまって、返事がOKだったときから、実は悩みはじめた。ぼくは絵を見る美的な能力はあまりないと思っているので、とことんまで見てやろう、凝視しようということは考えたのです。ですけれど、”原記録”としての水俣でない水俣をどう表現するか。それは、水俣とどう関わるかということだと思ったんです。これまでは現実の水俣をぼくはこう見たというのを訴えてきたわけですけれども、一方では、いろんな人びとの水俣に対する思いがさまざまにあるわけですね。さまざまではあっても、ひとつには内的な必然で、どこかで切り結ぶだろうという感じがします。患者さんそのものをいっさい出さないとしても、水俣の本質が、むしろそれゆえによく出るような、そういったものの表現があるのではないかーそのことはひとつの「決め方」の問題だと思うのです。たとえば、石牟礼さんの文章を見ると、もう石牟礼さんが見てきたようなものは、ぼくが水俣にいった頃にはないわけです。なくなっているものもあるわけですね。たとえば、急性激症でもがいて死んでいくという場面は、石牟礼さん自身も目撃したわけではないとしても、生々しく文学的に表現されている。それをぼくらが、キャメラで追っかけて撮ろうとしても撮れないこともある。ですから、言葉の表現とか想像力の表現とかでやるしかないのです。
音楽で武満さんに好き勝手に作ってほしいということと、石牟礼さんにはいま一番いいたいことを詩にして読んでくれということを決めて、それで絵を追っかけていった。最初は、ぼくはあの絵が暗すぎて、はっきりいってこれを水俣に持っていったら、つらいだろう。そんな気持で映画を撮っていったわけです。
北川 いままで不知火海の調査団をなさってきた色川さんに、これまでのお仕事の流れから見たこの映画についての感想を話していただけたらと思うんですけれども。
色川 この映画の製作を青林舎が決定する前の年の秋頃じゃなかったかと思うのですが、私が水俣に用があって何日間かいましたら、丸木さんの位里さん、俊さんがバスみたいな大きな車でやってきたんですね。あのとき、土本さんがほんとうは案内するはずだったのが、土本さんがこれなくて、電話でなんとか頼むよというんで、ぼくが待っていたら、夜おそくやってきて・・・。そのとき、ぼくは非常に驚いたんですけれども、丸木さん夫妻は水俣のことを右も左もまったく知らないという。びっくりしましたね。それで、とにかく石牟礼さんの家にいきたいんだという。その前に少し見たいというのであの湯堂とか茂道、いわゆる患者の非常に激発した地域を案内したんですね。それから、杉本さんという、すごく踊りの上手な元網元の患者さんの踊りなんかを見て、そのときは、水俣にはもうこんな踊りをするような女の人がいて、もう立派な再生ができている、だから明るい水俣を描きたいなんてことをおっしゃっていた。それはまだきっと混沌とした時代だったろうと思うのです。私が非常におもしろいと思ったのは、「どういうものをお描きになるのですか」といったら、とにかくばかでかいものを描くのだというー長さが十六メートルとか、高さが三メートルだか四メートルだか。そして、「それ、どうなさるんですか」と聞くと、位里さんがなにげなく「いや、三ヵ月ばかりで描いて、そして来年の三月に展覧会をやるから見にきてくれ」というんですね。で、耳を疑ったんですよ、来年の三月ー、二年後とか三年後とかの三月というのならわかるけれども、来年の三月といったら・・・もう暮れも近いころですから。そのときの石牟礼道子さんのはっとした顔、いまでもよく覚えています。ぼくもちょっとびっくりしたんですが・・・。ふつう作家がものを作るときには、ぼくらが論文や一冊の本をまとめるにしても、あるいは石牟礼さんのような小説でもですね、ちょうど妊娠した女が出産するまでぐらいの期間、十ヵ月は最低かかる。受胎してあたためて、だんだん大きくなってですね、で最後に産みの苦しみがあって、やっと産み出すーそのくらいの苦しみがあるのですが、右も左もわからないあのおふたりが、三ヵ月でできるのかな、ということもありました。それは、ぼくらが絵の世界というものを知らないこともありましたが、あとで石牟礼さんに「耳を疑ったね」といったら、「そうでしたね」といわれていたから、たぶん、同じような実感だったろうと思うのですね。で、それがどうなるのかと思っていたのですが事実その通り、三月に展覧会に出てきたんですね。で、私は率直にいって、位里さんと俊さんの絵というのはあんまり好きじゃないんです。ただ原爆の絵にふたりが投げこんだ執念といいますか、長年のあの質量には圧倒されていて、人間的にはたいへん敬意をもっています。しかし絵そのものは評価したことがない。ましてや、三ヵ月ぐらいでできる絵というのは、これはほとんど期待していなかったんです。それを映画にするということを聞いたときは、実はぼくもびっくりしたんです。また土本の旦那がへんなことをはじめたと思ったんです。ところが、映画製作の過程でいろいろな問題が次から次へと展開していったみたいで、音楽、文学それに絵画を映画の作品に収めるという。たとえば、映画よりも位里さんや俊さんの絵が一段上だったら、映画ではなくて絵画になっちゃいますよね。石牟礼さんの文学のほうが、土本さんや高木さんの映画より質が高かったとしたら、映画は破綻して、文学の印象が強烈になってしまう。それを映画の中に収めこんでいくというから、えらい仕事をやるもんだなあという感じを受けたのです。私は土本さんとのつきあいは六、七年で、三里塚の小川紳介さんとは十年以上のつきあいですが、このふたりの作家の作り方をいつも右の目と左の目にいっしょに収めて、あるときは皮肉に、あるときはまじめにからかったり、あるときは助っ人のようなことをしながら、ずっと見てきた。今度のようなテーマに取り組んだのは、土本さんのひとつの映画形成史というか、創作者としての精神史の新しい段階にはいったのだろうと感じているのです。あとでいろいろな議論がでてくると思うのですが、作家として作るという方法のうえで、思いきった飛躍をしないとああいう冒険はできないと思うんです。
できあがった作品が大傑作かどうかの評価は、これからされていくのでしょうが、私が懸念していたことは、みごとにすっとばしてくれて、ひとつの混然たる世界、ヒビ割れというか、亀裂を含んだひとつの混沌たる、しかも美しい世界が作りだされたと思うのです。その点ではやれやれと思っているんです。いろいろな違和感、異質さ、ヒビ割れがある映画を、瀬川さんのカメラが必死になっておおっていますけれども、映画の中に提起されているいろいろな問題は興味ある議論の素材になるのじゃないかと思います。
北川 色川さんがいまだされた問題は、この映画でこういうシンポジウムをやってみようと考えた問題でもあったわけです。この企画のきょうまでの流れを鳥瞰図的に見るならば、そういう問題はいろいろでてきていると思うのですが、いまの問題をふまえて、土本さんのほうから。
土本 ぼくはもうちょっとあとのほうがいいんじゃないかな。
北川 そうですか、はい。
土本 もっとあとのほうがいいというのは、ぼくの意見は映画で全面展開しているわけです。水俣を右も左もわからないところから、三月の人人展に合わせていったような経過は、いま聞いてみると、なるほどなと思うのです。ぼくはそのときは、ボケーッとしていてそういうスピードでできるものなのだろうぐらいにしか思わなかった。ほぼ終ったあとのインタビューで、描いたおふたりが、解放されてないという感じはしたんですね。映画の中でのインタビューに出ているーあれも描こう、これも描こうとして描けなかった、今回は徹頭徹尾暗くして、運動の片鱗もとどめないようになってしまった、苦海と浄土という両方の面があるのに苦海だけになってしまったーということを聞いたとき、これがスタートだなと思わざるをえなかった。この言葉を聞いた以上、(これが位置としては、映画の中ぐらいには位置するんだけれども)ここからがスタートだなと思ったわけなんです。そのあと位里さんが病気されたり、私が不知火海の小さな漁村で「海とお月さまたち」という小さな子ども向けのメルヘンみたいな映画を作っていたりして、四ヵ月くらいあの絵を撮ることを中断していました。おふたりがもういっぺん水俣にいくことからはじまるだろうというようなつもりでいたのですが、作る間に、ぼくはこの映画の命運についてかなり悩んだのです。その悩んだポイントというのは、さっき冒頭でいいましたように、表現者を撮っていくということは、神をも畏れぬ所業だと思うところです。表現者の表現したいものには、どんな有名な人でも好きだとか好みだとか、自分はわかるとかわからないとか、いろいろなものがある。それでは、ぼくがとりあげたら絶対わかるかというと、わからないところがいっぱいある。ただそれを、ひとりの作家のある種の旅の軌跡として因数分解してみると、追えるわけですね。だから、時間をかけようということと、絵を解説するのにあの人たちが描いたと同じくらいのスロースピードで絵を見てみたいと考えた。絵は非常に混沌としているわけです。とてもやさしい面があるかと思うと、非常にパターンと思われるような絵があったり、あるいはハプニングが成功しているところがあったり・・・。そう考えて、ぼくは旅を追うという感じでやったつもりなんですけれども。
色川 土本さんね、ちょっと話の途中ですが・・・。キヤメラが、カラカラカラカラまわるでしょう。位里さんが太い筆に墨や赤色をどっぷりつけてダカダカと消していきますね。そういうときに、位里さんに動揺が出てドンドコドンドコ、しまった、しまったと思いながら下絵を塗っちゃうんじゃないかと思うんだけど・・・。つまり映画作家と画家の間に、カメラのようなマシンがはいったことでおこる動揺を、製作のときどうお考えになったのか?
土本 ぼくはやっぱりキャメラがなければおきなかったハプニングのように思いましたね。キャメラを気にしないでくれというけれども、ものすごい音がするキャメラで、写しているほうが飛びあがっちゃうような音がするんです。だいぶ慣れて、キャメラがあっても、適当にやってくれ、という雰囲気ができあがったあとなんですけども、なんていいますかね、やっぱり位里さんにはいい意味での芝居気はあると思うのです。それでいて一方では、理論はあるわけですね。自分は思いついたらギリギリのところまで墨でよごしてみる。それを計算していて、おびえていたらダメだということは、前からいっておられたのです。それでもああいうふうにキャメラがまわっている中で、自分にも意識できない動きがやっぱりでたんじゃないかということは感じましたね。
色川 キャメラのおかげでインスピレーションが触発されるということもありうるわけですな。
土本 もう、ボディーペインティングみたいなものだと思ったりしたんですけれども。
色川 はつはつはつ。
佐藤 積極的に介入する意志はあったのですか。
土本 介入というのは?
佐藤 つまりなんか挑発するとか、あるいは疑問を投げかけるとか・・。
土本 それはですね、ぼくはわかったつもりになることができないですから、なんでこういうふうに描くのかは、トコトン聞くわけです。聞いたテープというのは膨大にあるのですけれども、その中から使っているのは、最低これだけは聞いておいてもらいたいということです。わかっていても聞くこともあると思いますし、聞く角度がありますからね。そういう意味ではやはり干渉というんですか、そういうものがあるとは思いますね。
色川 あの絵を細かいカットで切る場合ーたとえば、俊さんの非常に繊細なデッサン、実際描かれたのは五センチ四方のデッサンが、スクリーンいっぱいに数百倍に拡がるわけですね。こうなってくると映像としては全然別のものですからね。だからあれが丸木位里、俊の作品というよりは、瀬川さんと土本さんが勝手に切りとった、勝手にというと悪いけれども、切りとった違う画面が出ている。それはおそらく絵の制作者の意図を超えたものがあるだろうと思うのです。位里さんの、あの大きな潮の流れでダァーとつぶしていくあの力、あれはおそらく大障壁画の生命だと思うのですよ。そういうものはほとんど、ほとんどといっては悪いですが、あまり重視されていなくて、むしろあの小さな画像の、苦悶している骸骨とか、女の悶えているところとか、胎児をかかえているところとかをアップで撮ってつないでいきますね。そういうときの、映画作家としての思想と、画家たちがあれにこめようとしていた思想との矛盾といいますか、不一致のところを、えいやっとばかり、こっちは映画なんだからということで押しきる。そのへんの葛藤はないんですか。心の葛藤はどんなものなんですか。ある意味では絵をズタズタにしているところがあるはずなんですよ。
土本 そうですね。ぼくは画集が好きで、中でもブリューゲルとかボッシュが好きで、その画集の思いもよらないトリミングとかディテールでそれを記憶しているわけですが、実際絵を見にいきますと、両眼の目で見える全姿のインパクトと、ディテールとの違いに驚いたんです。トリミング、クローズアップすることによって、作った人の意図が、こんなにも変わるもんかと・・・。ボッシュの画集は二種類見たのですが、一種類はかなり昔の因習のせいか、性的なものとか、エロティックな強い絵は抜かしてトリミングしているんですね。ところが、最近の画集になるとそういうところをむしろ出して、ボッシュを完全に自由なトリミングで見せてくれる。そういう作業を、数年前に見ていたものですから、この映画では私たちはこう見たというふうにやらしてもらおうという考えはありました。
色川 俊さん、位里さんは異議は申しませんでした?いやだというようなことは。
土本 いや、ラッシュをお見せしたら、わしやこれ描いたかのう、ああおもしろいのがあるね、みたいなことはずいぶんいわれました。さっきいいましたようにあの絵は非常にひらべったくて、両脇まではいる画面にすると帯状で、まるでわからないんですよ、あの規模がですね。それで、移動で見せるとかしないとわからないと思ったのです。だからディテールを追っていても、だいたい描いていかれた順を追っています。並べ方は多少違っていますけれども、描かれた順序を一応は追っていった。そういうことは意図して撮りました。
佐藤 描かれた順序というのは。
土本 この課題をつぶし、あの課題をつぶし、これをつぶし、あれをつぶしということ・・・・・。
佐藤 ああ、なるほどね。
色川 あの五センチ四方に描いたのが数百倍に拡大されても鑑賞にたえる俊さんのデッサン力にあらためて驚きましたね。見られないところもあったけれども、しかし概してすばらしいですね。そういうのは画家自身も驚くんじゃないですかね、映像にされて。
土本 別もんだといってました。
色川 別もんでしょうね。まるっきりね。光のあて方で違っちゃいますもんね。
土本 それから和紙の質感と、墨ー七色出すっていうんですね、同じ墨で。今度のは白を混ぜたというので、純粋の墨だけではない白黒のブルーがかった白をだしていますけれど、煮ると赤くなるのですよ。褐色系ができたり、荒くするともう立体化したりする。それから薄曇とかー。だから位里さんのあの大きい流れの作業が、最終的にはカッティングによってたどりにくくなったことは確かですね。
北川 先ほど色川さんがだされた問題ですけれども、佐藤さんはどうお考えですか。
佐藤 絵と詩と音楽の三つというのは、率直にいうと、少しへビーすぎて三つを同時に鑑賞することはできないというところがある。実際問題としては、絵と音楽というのはいつもくっついているからなんの抵抗もないはずなんだけれども・・・。
土本 武満さんに水俣にぜひきてくださいという話をし、こられることになっていたのですが、だめになったということがあったのです。もし水俣にこられていたら、この映画はまた違ったものになったと思うんです。というのは、あの人が音楽どうやって考えていくかを少しでも撮ったり、彼を追ったりして、その音楽をひとつの章として独立させたかもしれないですね。彼はぼくに対するいい方と、パブリックに対するいい方と二種類あってー根底は同じだと思うんですけれどもー用があってどうしてもいけない、いけないけれど、絶対投げない。やるけれどもいけない、というかたちで非常に重苦しいやりとりがあったのです。あとで新聞記者のインタビューには、ぼくがそばにいたときに答えたんですけれども、いったら書けただろうか、ということが正直いってあった、と話されている。自分がいま、日本でどうしてもいきたいところに二地点あって、それは広島と実は水俣である、だから、仕事ではなくて、ほんとうに自分に必要なものとして必要な時期に自由にいってみたい。ほかのことで差し迫って水俣にいくと決めた場合、むしろ自分が書けなくなるかもしれない、それで、今回は自分の創造力だけで、海の連作を十年ぐらいやっているので、その一環として書いてみた、ということだったのです。
やはり、絵の構成の中にいれた場合、武満さんの考えておられるどこかの根と、表現されたもののどこかの根のお互いの違和感のほうが多いだろうと思ったのですね。伴奏音楽ではありませんから・・・。伴奏音楽の場合は、絵の強さが、あるときは音を殺したりしますが、今回は主張するメッセージをたえずもっている音楽で、写している絵もたえずメッセージをもっていますから、そのぶつかり合いが、人によって受けとり方はさまざまだろうと思うのです。むしろ音楽は邪魔だとか、違うところに使うともっとよかったとかいろんな意見がある。ぼくも見るたびにどうだつたのかな、やっぱりダメだったのかなとか、いろいろ悩んでいるのだけれども、いまのところまだよくつかめていない。ただその方法の責任はすべて私にあります。
色川 ぼくは、その音楽がいちばん抵抗がありました。見ていて、すごい違和感でね。つまりひとつの作品として武満さんは作られている。また絵も独自のイメージをもっていますから、それぞれぶつかり合う、主張がぶつかるのは当然なんですが、一番大きいのは武満さんの音楽の質の問題だと思う。武満さんの音楽は、日本語の、美しくてやわらかい、わだつみとか海というようなイメージより、Toward the seaというイメージなんだな。そのToward the seaと、わざわざタイトルをつける武満さんの音楽の質が、水俣のような、それこそ近代とは別の世界での最底辺の民の非業と苦悩を書いた石牟礼さんの詩の朗読の質と、しばしば異質の競合を感じさせたんですよ。叙情的で伴奏音楽みたいなところではそう抵抗はないのですが、彼が強く自分を主張しているところの音楽の質と、まったく土俗の呟きみたいな石牟礼さんの声のメロディ、声からくる質とが、背中がゾヨゾヨっとするような違和感があった。これは武満さん自身に問題が投げ返されることでもあろうし、それから、映画作家に問題が投げ返されることでもあろうかなという感じを、見終ってもちました。そこにはやはり、土俗主義に首の根っこまでどっぷりとっかり、非近代の次元の中で死者と生者との魂が自由自在に出入りするような不知火の岸辺で生きてきた人たちの世界(それを石牟礼さんは感覚的に表現していましたが)、それから、自分は近代主義的なところに身をおいていて土俗にあこがれているというような発想の質のものと、それから土俗的なものから近代というものを下から、ちょうどあの夕焼けの逆光を眺めるようにふりあおいでいる人たちの、意識の感覚の質ーそういったものが、不気味にあのどすぐろい骸骨みたいな絵の中で、違和感と異常な不協和音を発している。たくまずしてえた混沌というすごさみたいなものはありましたが、ヘタをすればゴチャゴチャになるところではなかったかという気がする。それをカメラが実によくおさえているなと思ったんです。ぼくは思いきって津軽じょんがら節の三味線あたりを、じゃんじゃかじゃんじゃかいれたらどうかと思ったですね。それはひとつの比喩ですけれども・・・。だから単に、武満さんが自由に作ってそれをいれたからということだけではすまないような問題があると思いますね。
高木 そのへんはプロデューサーの気楽なところなのかもしれないのですが、たとえば、絵が傑作になるものならば絵の紹介だけで映画は成立するかもしれないけれど、非常にダメな絵になってしまった場合にも、途中でやめるわけにもいかないというような問題もあるわけですね。そういう点では、製作者という立場では、心配ないことはないのだけれども、はずみがついているときは絵もきっとそれなりにちゃんと映画を成立させる問題をもった絵になっていくだろうと、なんの根拠もなく信頼していることがある。それからもうひとつは、確かにいま色川さんのご指摘のようにわれわれも近代の側にいて土俗にあこがれているのでしょうけれども、武満さんの音楽のイメージ、作家の作品や才能に対するアプリオリな信頼があって、重ね合わせる冒険のほうに酔って、あまりあとのことを心配しないというようなところがプロデューサーにはある。結局、そういうことを引き受けるのが演出家、監督のつらさなんでしょうけれども、こんなことをいうと無責任だといわれるかもしれませんけれど、実は、音楽ができて、音楽を絵に重ねたときには、私は非常に合ったと思ったのです。感性の問題はあるかもしれませんけれど、ほんとうにうまくいったと喜んじゃった。そのへんを俎板の上にのせていただければ今後の勉強になるんじゃないかと思います。
北川 きょうが最後だからちょっといわせていただくと、色川さんがいわれたようなかたちで水俣の風景といったものがまず、ひとつの主人公になっている。そしてもうひとつ患者さんたちが出てきている。そしてさらに画家がいて、石牟礼さん、武満さんがいて、それからさらに作る側があるーそれぞれ時空間が違うものがよく集ったものだと思うのです。そして力技でやっている。その中にいま、ひとつの現実があるのだと思う。最初にまずストレートな質問でいきますと、丸木御夫妻の絵を選び、それでやっていこうと思ったときに、それまで丸木さんの絵が好きであったのかどうか。そしてそのときに、この人に映画が賭けてもいいとほんとうに思えたのかどうか。映画を作る場合にはたとえば数千万円のお金の問題がありますね。それをどう払っていくかが大きな問題になると思うのです。関わった人々が全力でほんとうに賭けてみるようになれるのかどうか。
土本 絵というものと映画というものは表現の方法というものが違います。発想から構図から価値感が違うわけです。あの人たちは「原爆の図」から描きつづけてきて、ある意味ではモチーフとしては一貫しておられる、その尊敬はぼくには非常にあります。それから人柄のあの大きさは好きです。そういった中で、水俣をあの年齢でやられるということの衝撃もあった。その前後に、ぼくはできるだけお手伝いしようと思ってましたが、ぼくは撮ることが手伝いだとは夢にも思わなかった。水俣については人ごとではなかった。この体力で、この時間で、ほんとうに水俣をお描きになれるんだろうか、何か手伝えることはないだろうかとは思いました。それから水俣を描かれるならば、ほんとうに立派なものを作ってほしいという思いもある。だからといってぼくがこんなふうに描いたらなんていうつもりはつゆほどもありませんでした。
北川 水俣に関わろうとする人にとにかくいろんなかたちで聞いていきたいということはわかるんですが、その場合に丸木御夫妻がいままでやられてきたことを現在の時点で全面的に肯定できるものがないと、賭けることはできないと思うのですけれども・・・。これは映画のラストシーンの問題とすごくからむんです。結局いろいろな人の意見を聞くと、丸木御夫妻の絵の問題ではなくて最後の患者さんとのやりとりが、この映画を救っているとかいわれる。その考え方はいろいろあると思いますけど、そうすると夫妻の「原爆の図」からいままでのことというのは、画家という点で考えた場合に、なんだったのか。
土本 映画を撮る以前は夫妻の絵にとくに関心があったとかいうことではなくて、人間的にはよく知ってましたけど、撮るとなってから、やはり追いたてられるように絵を万遍なしに見ました。ぼくは丸木美術館にいっているかぎりは、「原爆の図」とか撮らなくてもいい絵の前にずっといることにしました。つまりわかるようにね。そういうふうに親しむことはしました。しかしもともと丸木夫妻の作風が好きで、まったく疑問の余地なく撮ったのかといわれたら、まるっきりそれとは関係なく映画を撮ったのではない、といえますね、ぼくは。
色川 佐藤さん、ヨーロッパなんかの作品で、こんなことやった人いるんですか?いろんな異質な作家を集めてきて映画をひとつ作ってしまうというー。
佐藤 厳密にいえば映画というのは、すべてそういうものだといえると思います。つまり、有名な言葉ですけれども、アストリュックという監督がいっているのですが、要するに監督がいなくても映画はできるんだ、と。カメラマンはどう撮ればいいかわかっているし、役者はどう演じればいいかわかっているし、台本はあるんだし、監督は何をするんだろう、と・・・。だから逆にいえば監督が独裁者でない映画というのは、あるいは、あるべき映画なのかもしれないですね。だから、映画はチャップリンなんかは別として、あとはだいたいにおいて、そういうものだというふうにも考えられるわけですね。いまお聞きして思ったのは、それが、土本さんの場合にはかなり意識的な方法になっている。つまり本来、監督は独裁者であるべきなんだけれども、たまたま自分は作曲ができないから音楽家に頼むとか、たまたま演技ができないから俳優をつれてくるとかというのではなしに、どれだけ自分と心の響きあう人間と心を響きあわせることができるか、これが映画なんだーこれは土本さんが本に書いておられることだから、別にここであらためていうことはおかしいんだけれどもーそういうかたちで異質な人間を集めて、ぶつけ合わせることが映画なんだという考え方は、これまでも暗黙のうちにはあったと思いますね。土本さんの場合は、いまのお話をお聞きしてさらにはっきりしたのですけれども、かなり意図的であると思います。
色川 私なんかは、調査ということで、ある意味で対象から距離をおいて見ている人間なのですが、それでも、もう百何十日間、水俣でいろいろな人びと、延べ何百人の人たちとは話し合ったりしてきている。そして、水俣のいろいろな問題を考えてきた。まだ六年しかたってませんけれど、それでもかなりの密度でやったつもりの人間なんです。この頃パンフレットなんかに、「水俣は表現の時代に移った」というような雰囲気の言葉が出てくるのを見ますが、それは問題ではないかなと思いましたね。水俣は表現の時代に移ったどころではなくて、これは誰よりも土本さんがご存じのように、「不知火海水俣病元年」からまだ二年ぐらいしかたっていないのです。水俣市はだいぶコントロールされて整備されたかもしれないけれど、その対岸の何十万の人びとの世界には、まさに水俣病のひどい現実が進行しているわけです。だから表現の時代にはいったなんていい方は、東京の都会人の、表現者中心のいい気なものであって、患者さんの目から見たら、それじゃおれたちはどうなんだ、ということになりかねないようなところがあるのですよね。確かに、いままでのような激症型とか胎児性のものすごい患者さんというのは目にふれにくくなった。だが、それが潜在化しているから、もっとすごい、もっとこわい状態になっているのでしょう。そこに表現者が、別の次元での水俣というものを作りだして、それがある意味ではひとり歩きをはじめた。確かに、それは問題に近づいてもらうためのワンステップになっている、またワンステップの力をもちつつある、その意味で表現に力がある、力をもってきているということはいえると思うんですがね。砂田明さんのお芝居にしてもそうでしょうし、土本さんの一連の映画もそうだつたと思うのです。しかし、だからといって水俣は表現の時代になったわけでもなんでもないし、そのことは第一義的なことではないと思うのです。私は、「表現に力ありや」というメインテーマを掲げられた意図がどのへんにおありなのか、お聞きしたいくらいに思うのですけれどもね。
北川 この「表現に力ありや」というのは、いいなぁと思って、ぼくは賛成したわけです。この映画にいろいろな要素がはいっているということはぼくにはものすごくおもしろかった。この企画をつづけてみて、土本さんの人間の関わり、素朴な人間とのつきあいーたとえば武満さんとつながったり、石牟礼さんとつながったり、丸木御夫妻とつながったりしてできたーぼくは映画作家としてどうのこうのではなくて、そのつながりがまずあってできた映画だと思っています。そういう現実というのに、これはいい方向でも悪い方向でもないけれども、”いま”の感じというものを思ったのです。いまこういうふうな、ひとつの社会的な問題と関わっている映画に関しては、それはひとり歩きするんだけれども、常に多様な角度で問題を明らかにしていくことが必要だと思ったのです。つまり、この映画がいい、というためには、まず見てもらうのがいいと思うんです。いろんな人に見てもらう。そして映画のおかれている状況というものを、いまの色川さんのような指摘を含めて、だしていくということが重要なんではないか、そう思って、こういう企画をぜひやろうということになったわけなんです。
高木 「表現に力ありや」というタイトルの責任は、実は私にあるので、その背景をちょっとお話ししたいと思うのです。その前にちょっと、色川さん、「水俣が表現の時代に移った」というのは、どんなパンフレットにあったのですか?
色川 ぼくもちょっと確かめていないからわからない。そんな印象が残ったですね。
高木 私どもの映画に関わるパンフレットの中に?
色川 ええ。
高木 ああそうですか。
色川 高木さんが書いた文章なのかもしれませんが・・・。
高木 文字通りに水俣は表現の時代に移ったというような意識もなければ認識も私にはないんです。一番最初の「水俣ー患者さんとその世界」という映画を、作るきっかけから、それができあがるまですべてにわたってほとんど患者さんたちの運動とシンクロしていて、それは実際に患者さんたちの運動に役にたったと喜ばれてきたことがありました。映画としても、そのように役にたったということで、非常によかったと思うんです。けれどもそれから十何年の時間がたつて、映画が手ごたえが充分にあるように役にたつことが比較的少なくなり、またいろいろな条件があって作れなくなってくる。そういう状況の中では、ときにはクソの役にもたたない映画というものも一方にあった。患者さんが一番大事な政治的な課題を前面にだして闘っておられるときに、それにもろに役にたつことができない、ということもある。いま映画を作ることを仕事に選んでやっているのに、映画にはそういう状況になんらかのかたちで関わる力があるんだろうか、という自らに対する疑問が一つある。それからもう一つは、いつどこで、こういう映画などというものに踏み込んだのかと自らをふり返ってさかのぼっていってみると、どうも少年のときに「ペンは剣より強い」という、ロマンテイックな言葉を読んで天真欄漫なままにきてしまって、その延長上で現在にいたっているという経過があるように思います。そうすると、自分の作る映画だけではなくて、いまの状況の中で、表現、いわば文化というようなものが、いまの状況の中ではたしてどれくらい力をもちうるかというような疑問が、個人的にあった。その自信のなさというようなものは、自分だけではないかもしれない、あるいは逆に確信をもっておられる方もいるかもしれないーそういうものを確かめ合いたい、あるいは話し合って励みをえたい、そういうことでこの企画をたてたのが本音であろうと思います。
それから、表現が何に対する力かというようなことを針生一郎さんからたずねられたことがあって、何に対する力だろうかと考えてみたのです。おしなべていえるかどうかわかりませんけれども、私たち全体が、政治権力の側にいない、権力自身を握っていない日常の生活の中でもっている文化力(そういうものがあるかどうかわかりませんが)そういう思想の流れみたいなものと思考の厚みみたいなものをわれわれが全体として厚くもっているときには、しかもそれがかなりダイナミックなときには、政治権力もうかつなことはできないだろう。だが、それがありきたりになって活力をもたなくなってきているときには、なめられてかなりのことをやられてしまうようなことがありはしないかーそういうわれわれの思考の厚みとか思想の流れとかに活力を与えたりするような力に、表現というものは現在の状況の中でなりえているんだろうか、というような意味をこのタイトルに託したつもりなのです。
色川さん、ちょっと重ねて申しますけれど、「水俣が表現の時代に移った」というような言葉は、いっぺん点検しなおしてみますけれども、それは私たち自身の認識の中にはないと思います。そういうゆるみがあって、そう見える言葉が使われているとしたらきびしく自己チェックしなければいけないと思います。
色川 その点よくわかりました。ぼくもよく調べてみないと・・・。漠然とした勘でいいましたので・・・。
土本 その点ひとこと。妙なものでしてね、色川さん、やっぱりぼくは本を書かなかったほうがよかったと、いま思っているのです。『不知火海水俣病元年の記録』ですね。というのは、その後またあそこを歩いて、「不知火海水俣病元年の記録・第二部」という形でまとめているのですが、なかなか難しいですね。いま、対岸の不知火海に水俣病があって、何百何十人という患者がそこにいるというところまではさわってきたわけです。それで今度巡海映画を対岸から離島をまわそうと思うのですけど、そのとき写せないんですよね。キャメラをまわすほうにはいけないわけです。上映する側にまわってきた。だけれど、そのことで見えてくるものをスライドとか、いろいろなもので撮ってきて訴える。それを文章にすると、それそのものをもう映画化できないのですね。状況がぼくの中でも変わってきていますから、また新しいものを調べて、次なる不知火海水俣病のわかってもらいたいところを、ぼくは映画にしたい。これからの難問は、どうやって不知火海の映画を作るかということで、本を作ることには、興味ないわけです。書いたことだけをたどる映画になってしまったら、つまりそれが記録映画のシナリオになってしまったら、つまらないと思うのですが、すでに書いてしまったことで、シナリオを書いたようになって、自分で自分の足をしばってしまっている気がするんです。とにかく書いたものは書いたもので仕方ないから一応おいて、もういっぺん体験のし直しをしていくしかない。そしてそれをそのときから映画に撮らないと、ぼくはどうもダメなような気がします。こういったシンポジウムという文化的な仕事を今回しますと、心はしきりに不知火に飛んで、もうどうしようもない感じがあるんです。
二ヵ月前、ダビングが終った直後に石牟礼さんに手紙を書いたのですが、そのとき思ったのですけれども、いまはこの映画が成功しないと次のお金が出ないものですから、この映画の上映に全力を出すわけですが、そして見ていただいて水俣のことを忘れないでいただく、というとタテマエ的ですけれども・・・。本を書いたので、ワンステップぼくはもたもたしてしまったようです。そこのところは映画作家としてわかっていたつもりだったー不知火海の映画が撮れないとしたら、さしあたって書いておかなければいけないと思った、ですけれど、書くということはやっぱり映画を撮ることと似た成就がある、そして今度それを絵解きするというのはつまらなくなってしまう・・・。やはり発見の糸口、切り口をもちたい。水俣を水俣から見るのではなくて、その周辺の島や対岸から見て、水俣というものをもういっぺん問い直すー。まだ水俣病のことを何も知らないで生きている人たちの視点から漁業と水俣病をもういっぺん映画で見てみたい、というのがぼくの願いなのです。が、ちょっとどうも、自己ジレンマに陥っていて・・・。
色川 そうですね。
土本 ・・・そういう感じがあります。
色川 そういいながらも連載をやっているでしょ、「暗河」に。いまでもまだ、第二部を。
土本 いやもう終りました。
色川 そうですか。もう早くやめるんですね。
私どもの調査団はいろんな多彩な連中が集ってまる五年間やってきた。そしていま、どんな気持になっているか申し上げてみますとーたとえば経済的調査、社会構造的調査あるいは行政と住民、市民と市民の分裂、そういったものの調査をいろいろやってきて、いったい水俣あるいは不知火沿岸のあの被害民の再生のきざしがどこにあるのか考えた。再生の可能性というのはいったいあるのかないのか、あるとしたらいったいどういうところにあるのか、そういうことが当初からのテーマだったんです。二、三年の間は、可能性なし、もうこれは滅びの記録を書くしかない、と思っていた。経済構造、再生産構造がメチャメチャに壊されていますから、いろいろ新しい農業なんかをはじめましたけれども、とてもじゃないが、いまの国際的な食糧事情の流通過程の中で、ひとあらしくればみんな根こそぎつぶれてしまって、また元の木阿弥で泣かされるだろう。水俣経済はまったく自律性を失っていますし、チッソはあんな状態でもう崩壊寸前ですから、再生の希望なし、ただ、患者さんは年金と国家の補償で食いのびるだけで、若い者はみんな大阪や東京に出るしかあるまい。そういう経済の法則性、いまの日本経済と水俣の関係を考えていけばそう考えざるをえない、という気持をみんながある程度、暗黙でもっていたわけです。政治的にも、あれだけ川本輝夫さんのようなすぐれたリーダーが果敢に闘っても、市議会の議席ひとつとれないわけです、水俣では。アンチ川本と申しますか、水俣病運動をやってきた人たちに対する反対勢力が圧倒的に政治風土の上では君臨している状態である。こういうような状態になっていては、ここにはもう希望なし、再生の希望なし。患者さんの体にしても、五年間行っている間にちょこちょこ歩いていた同じ患者さんがしだいに歩けなくなり、壁にすがって動くようになる。次は車椅子になり、そして寝たきりになっていくというふうに、わずか五年の聞に急速に悪くなるわけですね。それを見ていると、最後の日を待っているしかないのではないかという、非常にデスペレイトな(これはものに書いたり発表したり、人の前でいったことはなかったと思うのですけれども)気持が暗黙のうちにあったのです。それが四年目、五年目ぐらいになって、水俣病が確認されてからの二十五年間のあの人たちの苦労はいったい何になったんだと考えてみたのです。そうしたとき、宗教社会学を専攻している宗像巌さんのところから突破口が開けてきたのですー二十五年の苦悩を経てきた中にほんとうにすばらしいものがある、それこそが再生の原動力になるものだ。それはなんだろうと思ったら、なんのことはない、人間そのものなんです。つまりぼくらがあまりなれ親しんでしまったために見えなかったのですが、水俣の被害民の中から、なんと表現をしたらよいのか、黒光りのするようなそういう人間が、すぐわれわれのまわりにいたのだ。生まれてきていたのだ。それはなにも川本輝夫さんのような戦闘的な指導者だけのことをいっているのではないのです。ボラかごを作っているなんでもない漁民の人とか、難しいことを全然しゃべらないようなふつうの被害民の人、おかみさん、それからこの映画にでてきたしのぶちゃんや清子ちゃんみたいな方、ああいうような人たちのまわりに、またそういう人たちの中に、水俣でなければあらわれえないような人間像がでてきている。
その人びとの出現こそが再生のまさに原点で、その人びとは苦悩を背負ってますけれど、苦悩と死ぬベき運命との背中あわせの中で、そういう人たちの中にきらめきだしたものすごい光とそのすごい力、その人たちが閉鎖的な世界を突破した開いた考え方、そういったもののつながりの中から、私は水俣は確実に再生する、と思ったのです。それを原点として、行政がそれに再生のベースを置き直したら、水俣の地域社会は必ず回復する。経済も、そういうところから必ず回復するだろう。それは次の世代、その次の次の世代に受け継がれていかなければならない課題だという心証を、最後の一年くらいになって調査団のメンバーが気持でつかみはじめた。それをたよりに第一次の報告論文が書けそうだと、それぞれのジャンルが考えだすようになった。ずいぶん長いことかかって、ようやくそんな単純な、当り前のことにたどりついたわけです。ところが、当の水俣では、そうはわかつてないのですよ。ご本人たちも認識していませんし、行政も患者を厄介者視するばかりで認識していない。行政の作った不知火海地区の再生計画、経済復興計画などを見ますと、やっぱり道路をひっぱって観光地を助成してとか、工場を誘致してとかという復興計画しかない。水俣の復興計画は全然別の原点に立ってやり直さなければダメだ、やり直せば必ず回復できるというようなことは認識としては成立していないのです、まだ。ところが、この映画を見ると、さすがだと思うんですが、あれだけの短いつきあいなのに、俊さん、位里さんの中に水俣の再生の原点が何であるかということを、認識としてではないようですが、つかんでますね、直感でね。それはぼくはたいしたもんだと思うのですよ。ただそれは、丸木さんたちの好みにあった清子ちゃん、しのぶちゃんというものを媒体としてつかんでいるようですが、実はそれは象徴的なことなのであって、その背景に無慮数百人の再生のほんとうの力を秘めたー経済的条件だとか物とか、風土とか、汚染された海とかきれいな川とかの単なる再生とかではなくてー人間が生まれている。ぼくはこの映画を見ながら、そのことを思い浮かべ人ごとでない感銘をもったのです。それをよう口ではしゃべっておりませんが、作品そのものの最後の展開のところで、印象としてでていますね。
北川 先ほど佐藤さんがこれは美術映画として見たといわれ、あとで感動されたともいわれた。もう少しそのへんをうかがいたいと思うのです。つまりどのへんで感動されたのか、ですね。
佐藤 率直にいえば、作品そのものではないーひとつの作品を描いたけれどもそこで描けなかったものはなんだろうという展開になっていて、その先にあるものは、実は画家も考えているけれども、ほかの人たちも考えていて、そういう先にあるものを考えるところで気持が一致した人が作品に集っているのだということが、鮮明に最後に浮かびあがってくる。及ばずながらこちらもその先を見たいという気になるようなそういう映画だと思いましたね。私は率直にいって、あの御夫妻の絵のタッチをあまり好きではないのです、昔から。どうも好きになれないんです。好きになれないというのは作品としてすぐれていないということではなくて、やはりまだ作品の中にはいっていけないのです。非常に浅薄ないい方をすれば、昔の地獄極楽の絵のバリエーションとどう違うんだろうか、という気が常にあるのです。しかし、その枠の中にとどまっているのではなくて、地獄極楽の地獄の意味を、この水俣や原爆にかぎらず、もっと人間の運命の原点として考え直す必要があると思っているのです。地獄の絵というのは、そのさらに向こうにあるものを、見る人すべてに考えさせる力があると思うのです。どんなヘタな地獄の絵でも、その方向が非常にくっきりとわかる。わかるというのは自分もその先を見たくなるということです。だから土本さんが異質な芸術家たちを統合されたのに、私は結果的には肯定的な気持になるわけです。つまり、結論を知っているという人が結論を描いたのではなくて、誰もまだ結論を知らない、そしていま自分が表現したところではまだダメなんだということだけは知っている、そういうことがとてもよくわかってくるのです。そのためには時間が必要で、だから土本さんの映画は長くないといけない。三十分ぐらいではダメで、やっぱり三時間ぐらいないと、まだ自分には表現できていないのだということがでてこない。土本さんのどの作品でも長い作品は、最後にそういうことがくっきりと浮かんでくるけれど、この作品はとくに非常に鮮明に浮かんで感銘を受けたわけです。一つひとつのシヨットということではないですね。
北川 どうも。時間がなくなってしまいました。この問題はみなさんも今後いろいろ考えていただけるといいと思います。長時間どうもありがとうございました。