完成台本「水俣の図・物語」(採録責任・土本典昭) 上映時間01:51:00 35ミリ・カラ- 青林舎 発表1981-09-10
1ープロローグ・水俣湾にて
〇晩秋の午後、水俣湾の港ぞいの岸壁にたたずみ、写生の支度にとりかかる老人夫妻。
〇遠い汽笛、漁船のエンジンのひびき、そしてのったりと寄せる波の音がふたりを包んでいる。
ナレーション「ふたりの画家、丸木位里さんと丸木俊さん。位里さん七十九歳、俊さん六十八。結婚して四十年・・・ふたりは『原爆の図』を描きつづけたことで知られている」
〇すでに陽の傾きはじめた港の一隅。
ナレーション「ここは九州・水俣。水俣病をひきおこした有機水銀の最も多く堆積する水俣湾である」
〇岸壁にプラスチック工場がみえる。位里さん、西風に揉まれる和紙をもてあましている。俊さん、緋毛を画板に敷く。いかにも軽量な写生の道具が旅なれたふたりをうかがわせる。
ナレーション「画家としての晩年、ふたりの、なおしのこした仕事として『水俣の図』を描くことを決めたのは一九七九年の夏であった」
〇正面の小島は斜陽の中、すでにシルエットである。はるかに対岸の山なみ。
ナレーション「恋の路と書く恋路島。この島の背後にひろがる海は、不知火海。そのはるかむこうに天草の島々を望む」
〇刷毛でうすく水を引いた紙に、島の稜線を描く筆。その位里氏の横顔のアップ。
ナレーション「風景をその場で描くことを主義としてかたくなな位里さんである。それは大作の構想の緒口でもあるようだつた」
〇墨に濡れ、でこぼこに波うつうす紙に筆を重ねてゆく。むかい風を物ともせぬ奔放な墨絵の一端をうかがわせる。
〇墨の、しばし乾く問、携帯用の硯で墨すりの手伝いをする俊さん。
〇水俣湾はすべて逆光の中である。恋路島やもやう漁船の影が海面にきらめく。(音楽おきる)
〇位里氏、ときに立って絵を見、またうずくまる。
ナレーション「ここの海の落日は、水俣病事件の歴史とは無縁に、変りない景観をもって、風景画をこのむ位里さんのまえに輝いていた」
〇光る波を描く筆先。
〇(超ワイド・レンズで)逆光に映える水俣湾の全景。
ナレーション「現代の悲劇、水俣をいかに描くか。この映画はふたりの画業の一年の記録である」(音楽つづく)
〇絵筆をもって立つ位里氏のシルエット。
〇眼鏡のレンズ越しに光る海。風にもてあそばれる白髪。凝然と対象にむかう位里さんの横顔である。
字幕〈水俣の図・物語〉(音楽やむ)
2ー自宅・早朝(一九八〇年一月)
〇日の出より間もない頃、庭先のチャボの群が俊さんの呼び声で集まる。母屋の台所の前で餌をやる彼女。(トウトウトウとチャボたちをみやる)
〇位里氏、一足先に離れの画室にむかう。冬型高気圧のもと、澄んだ寒気の庭をよこぎっていく。
ナレーション「老人の朝は早い。夜あけとともに位里さんは画室に入る。一九八〇年一月、「水俣の図」の制作はなかばをむかえていた」
〇朝陽をうける茶室風の離れ、そのガラス戸に周辺の冬木立がうつる。
ナレーション「ふたりの共同制作の仕事場・流流庵」
〇窓外より室内のふたりを見る。ストーブの赤い火で暖をとりながら墨をとくふたり。
ナレーション「この画室のなかで、縦三米、横十五米の大障壁画が描かれようとしている。完成までにあとひと月を残すばかりであった」
3ー原爆の図を辿る
〇美術館の入口付近、屋上にある風力発電の風車の音。まだひと気のない朝である。
ナレーション「ここは埼玉県、東松山市、下唐子」
〇美術館の歩廊から、カメラゆっくり展示室にー。
ナレーション「財団法人、原爆の図・丸木美術館」
〇四面の壁いっぱいに『原爆の図』がある。右より、その第五部『少年少女』(一九五一年)、正面、第二部『火』(一九五〇年)、そして第一部『幽霊』(一九五〇年)。
ナレーション「・・・『原爆の図』のために設けられた美術館である。三十年間に十四部作まで描かれた『原爆の図」のライフワークがここにある」
〇第二部『火』の部分図、紅蓮の焔の中、救いの手をのベる男、その腕。熱風と火にやかれる群像のひとりひとりのディテール。
ナレーション「こんにち、『水俣の図』にいたるまでのあいだ、ふたりは原爆の画家として、国内はもとより、世界じゅうにこの絵を運んできた。・・・画家自身の手で、運び、展示し、みずから体験したヒロシマの原爆を訴えつづけた。・・・・この絵のまえに、数千万の人びとがたたずんだといわれる」
〇老婆の相貌より、カメラ、はだけた傷だらけの上半身から腰に。破れ焦げ、なお燃える絣の着物、その克明な柄と肌の描写のクローズ・アップ。
ナレーション「日本画の位里さん、洋画の俊さん。夫婦としてのふたりの共同制作とは、いかなるものであっただろうか」
〇焔のなかに身を伏している女性の大腿部。そのケロイドに寄るカメラ。技法の細部が拡大される。
ナレーション「初期の『原爆の図』の描線には、筆のあとはなく、洋画本来の木炭、コンテなどが用いられている。それに、位里さんの日本画、とくに墨絵の技法が構図を決定している」
〇第一部『幽霊』、その画幅の右手に描かれた、折り重なって倒れようとする幽霊たち。その左手、ぼろ布のように皮膚のたれた女性、その火ぶくれの顔のアップ。地に落ちた赤子。そのリアルな人物の質感を辿るカメラにつれてー。
ナレーション「その特異な共同制作について、位里さんは俊さんの著書(注・『女絵かきの誕生』)のあとがきにこう触れている。『私は根っからの水墨画で、俊は初めから油絵、それが共同制作をするのだから、うまくゆくはずがないのだが、考え方が同じであれば、水と油も一緒にならぬことはない。むしろ一緒になってゆくところに、はじき合って盛上ってゆくものがあるのではなかろうか・・・・・・。』」
〇第五部『少年少女』、その折り重なる死者群。息をひきとる幼い兄弟を凝視する少女。ナレーションつづく。
ナレーション「(位里さんの言葉として)「・・・私らは世間がいい、みなが思っているような夫婦ではないと思っている。絵かき同士で、仇同士と思っている』」
〇『少年少女』のうち、姉妹の抱擁図。コンテの描線と肉づけのあとを辿るカメラ。
ナレーション「これらの絵は、ふたつの才能の戦場でもあったのだろうか。その三十年はジグザグの道でもあったことを語りながら、俊さんは自伝(注・右上)のなかでこう記している。『位里は広島の生れ、私は北海道の生れです。・・・私は位里と結婚しなかったら、原爆の図は描かなかったでしょう。位里も私と結婚しなかったら、原爆の図は描かなかったでしょう。原爆の図とともに三十年、それはふたりの絵かきの三十年であり、男と女の三十年でもあったのです』」
〇カメラは第六部『原子野」(一九五二年)から第七部『竹やぶ』(一九五四年)の細部を辿っている。燐光を放つ人骨の山、瀕死の人の列。じっと眼をつぶらにひらき、その光景をみつめている幼い子(原子野)みどり児をおぶって竹やぶに難を避ける母親。
〇人膚のケロイドのような竹の焼けこげ、そのかげにうずくまる女・母たちの乱れ髪のアップー(竹やぶ)。
ナレーション「いま、初期の作品を辿っている。ーなぜ、暗く、つらく、痛ましい人間の記録を描きつづけなければならなくなったのか、はかり知ることは出来ない。ただ、この克明な描写ー髪一すじをもゆるがせにしないふたりの三十年間の、その日々の、筆と線の旅路のはるかさを読みとることが出来るだけだ」
〇母の黒髪のかげに眼を光らせている子どもの像。
ナレーション「当時、四十代と三十代の若さであった。ふたりのあいだに子どもはない。だが絵のなかには、かならず子どもが数知れず描かれていた」
4ー日常・山羊と俊さん
〇熊笹のあいだの小径を雌山羊”どんどこ”にひかれて歩く農婦すがたの俊さん。
〇その乳をいきおいよくしぼる彼女。
ナレーション「俊さんの午後の日課である。(間)山羊は俊さんの手でなければ乳をしぼらせない」
5ー画室のなか・位里氏画想をのベる
〇うずくまって、三本の筆を指にはさみ、それをもちかえては墨をいれる位里氏。白いひげと手製のベレーのよくにあう風貌。
ナレーション「丸木位里。墨だけで七つの色を出すといわれる水墨画の技法を修得し、大障壁画の作法を学んだ、数少い伝統的日本画家である」
〇のったりと描く姿勢をかえる位里氏。
ナレーション「すでに絵の構想は形をあらわしはじめたようだ」
〇夫婦それぞれに違う場所で筆を動かしている。俊さん、人物に点描風に陰翳をつけ、位里氏は干ダコのシルエットにたっぷりと墨をふくませている。その画面は水俣の海と浜辺のモチーフの部分である。(位里氏の語りが重なる)
位里「はじめは水俣のあの海です、湾ですわね。あすこを描いただけで出るんじゃないかと思うぐらいね、一応考えたんですよ。それで不知火の海を描いて水俣が出りや、これはこれでいいんじゃなかろうかと・・・。私ゃ、私は根っからの、だいたい風景画ですからね、私は風景ばっかり描いてきた人間だから、それで風景が非常に気に入って・・・。水俣を描くのに風景だけで出るのじゃなかろうかと、しばらく考えたんです。しばらく考えたんだが、まあ、とてもそれじゃあ・・・」
〇俊さんの描く重症の胎児性水俣病男子の絵のアップ。口から流涎しているさまのまま。
位里「(位里氏構想の推移を語りつづける)そのうちに、水俣病のみなさんにお会いしたりして。これは風景だけで水俣病が出るちゅう訳にはいかないんで・・・人間を描かなきゃいかんと思って。それから人間を描くなら、まあ、群像でなきゃね。ぽつんぽつんと人がいたんじゃ形にならないし、絵にならないし・・・。それから、みなさんに、ずいぶんみなさん、胎児性の若い人たちに沢山お会いできたし、まあそんな風にしているうちに、描けるんじゃかたちなかろうかと、群像を・・・みなさんのいろんな姿をあつめて描けば出るんじゃなかろうかと・・・・」
〇和紙いっぱいに老若男女の顔が百あまり、その受難者肖像に仕上げの筆を入れる俊さん。その手もとにカメラよる。位里氏構図の全枠組を語る。
位里「・・・という風に考えたんだが、しかし、これはこれで海のなか・・・全体がやっぱり海のようなつもりで。これはこれでその、大きくいえば不知火の海ですわ、これ全体がね。そのなかの出来事で・・・というのでまあ考え方が変ってきはじめたんです」
6ーインタビュー・1・なぜ水俣か
〇画室の午後、ふたり、画面のそとの質問者土本に答えるかたちでー。
問「いつごろから水俣のことを気になさっておられたんですか」
俊「大分前ですね、石牟礼さん(注・石牟礼道子・水俣在住作家、現地支援活動家の中心的存在)におあいしたのが、坐り込みに東京にいらしたころ・・・(注・一九七一年十二月、自主交渉派患者川本氏ら、直接交渉を求め、年末より本社前に坐り込みを開始、以後一年半に及ぶ)」
位里「(ひきとって)・・・そのとき、慰問にいったんです、この人は。私はいかなかったがねえ、(俊さんに)私はなしていかなかったねえ(俊「エエト」)まあ、その前からまあいろいろ・・・なんでしょ、報道されているし、私たち自身がもう、なんでしょ、私よりこの人がおもだが、公害の問題でもう前から何もかも気になっていた人だからね、一番よくピンとくるわけですわね。ほうこれは大変だというので、ずっと、まあ、いろんなことがおきるのを気にしながら見ていたんですよ、新聞だのテレビだのでね。それから坐り込みの問題が起ってくるー。まあ、そういうことでこの人は慰問に、応援にいったりしてから、石牟礼さんも家に来て泊ってもらったり・・・いうようなことが始まりですわね、ああ」
〇(画面一転)ー女ふたり背を並べて丸木美術館ぞいに語らいながら歩いている。俊さんと石牟礼道子さんである。再びインタビューにもどる。
インタビュー・2・水俣での第一体験
俊「最初に訪問したお家がね、いったら発作が起ってたの。私はスケッチブックやなんかを用意してたし・・・」
問「子どもがですか」
俊「うん、あの、あれはね、名前を忘れたなあ、あの子は・・・あ、孝子ちゃんだ(注・津奈木町赤崎、胎児性患者諌山孝子、一九六一年生れ)」
位里「死にそうなちっていいよっとったかねえ、あのときは。その晩大騒ぎだった、死ぬかも知れん、ちゅうことで」
俊「カメラを持って、石川君(注・美術館責任者・水俣の旅の同伴者)なんかカメラ持ってっていた。だけどもうカメラも出せないし、絵も描けないしね。ただみんなと一緒に見守っていた・・・。驚いたのはあの・・・膝のあいだにね、タオルを早く入れてやってくれというんです。それはもう、体はうしろへそるでしょう。それで肢は膝のところでこうぶつかるのね。(手まねで硬直した肢つきを示す)それでぎゅうっと・・・ねじれるんかな。早くタオルを入れてやらんと、血が出て、すれて、むけて、血が出るからというんでね。みなでもうタオルを押しこんでね。あれはもう・・・痛いのにねえ。痛くってもそうなっちゃうのね。だから大変な苦しみだろうと思いましたね。そういうのを知らんかった。だから本当に・・・・・・」
インタビュー・3・画についてのモチーフ
〇背景の都幾川あたり、タ色が流れている。俊さんつづける。
俊「これは、あの、原爆をずうっと描きましたわね。いろんな・・・そのなかで私たちの心の流れが変ったりして、あるわけですわね。それであれもその、なに?やられ、痛めつけられた人の姿ばっかりなんですよ。それで、その次にアメリカにいったときに南京のことをいわれて、そしてびっくりしてね、(問「南京大虐殺のことですか」)南京大虐殺のことをいわれて、そして、これは南京大虐殺を描かなきゃいけないと思って、そして描いたわけですね・・・・・・」
〇(挿入画面)『南京大虐殺』の水墨壁画(一九七五年)、中国人捕虜の首を刎ねる日本軍人を構図の中心にして銃剣をつきつける兵隊、裸のまましばられ犯された女たちの像。
俊「・・・そうしますと、ここでも、日本の軍隊にひどい目に遭わされた中国の人たちの、つらい姿ばっかり描かなきゃいけなかったですね。それから広島描いて、南京描いたんなら、アウシュビツツだっていわれて、それもそうだというんで、またアウシュビツツへ出かけました。こりゃまたひどいことでね・・・」
〇(挿入画面)『アウシュビッツの図』(一九七七年)のディテール。絞首台上の犠牲者たち。絵具で彩色された受難図である。
俊「・・・と、広島もひどいし、南京大虐殺もひどいし、アウシュビッツもひどいわけですね」
〇四囲暮色となる。
俊「そうするとね、水俣にいってみて、水俣はあの、ゆっくりゆっくりその、ひどいことが起ってくる。ヒロシマ、原爆なんですよ、あれ。かたちはボカンといわないけどね、”瞬間の出来事”ではない、長い間かかってヒロシマと同じ被害が、及んだと同じように、人民が、(言葉つまる)ほんとに何でしょう、なぶりものというかね。ああゆうところへ突き落してしまった。”性質は同じ”というか”ひとつ穴のむじな”とゆってんのよね、同じ穴なんです、同じ根、根っ子?・・・そこからこれが起っていると思うようになったんですね」
7ー画室・母子像の発想など
〇硯で墨がすられている。骨描き(注・線描)された絵の上にどうさがぬられ、すでに乾いている。位里氏は白い光に浮ぶ観音像のような女性患者像の、その首・肩にくまどりのように薄墨をほどこしている。流涎のまま笑む女性像。
ナレーション「俊さんの描いた人物に位里さんが墨を入れる。さらに俊さんが描きこむ。その繰り返しの日々だった」
〇”女性患者像”のアップに俊さんの声。その笑みについて。
俊「・・・今度、患者さんのとこ回ったりしてね、なるほどと思いました。あの人たちにあってじいっと見てたら、本当にあどけない人もいますけどね、私たちの見えないところで、あの人たち、どんなにものが見えているか。そして何と表現していいか分らないなかで、あの、深い愁いをもっているというのをまた思ったんですよね、そして笑った顔をしているけど本当は・・・ただ笑ったんじゃなくて、いろんなことを想ったその笑い顔だって思いましてね」
〇ぬれた質感のその女性像が外光の反射をうけてすき透るようだ。
○ま新しい全幅の麻紙のまんなかに立つ俊さんの俯瞰。筆に竹をつぎ足し、中腰で描ける長さにしてある手製のそれを手にして、いま筆をおろす。
○顔の輪廓、耳、目と描かれていく。
ナレーション「残されていた後半のスペースに俊さんは母子像を描く。母親と等身大に成長した胎児性水俣病の娘である」
○メモ大の紙に鉛筆で描かれたラフ・デッサンをかたわらにして、一筆描きで描いていく俊さん。緊迫したひと刻だ。その画面に、省みての俊さんの言葉が重なる。(原爆の図などの制作の例をひいて)
俊「・・・これがあの、ほかの方に・・・絵かきさんなんかにお話ししたら叱られるかも知れないけど、本当にぶっつけ・・・ぶっつけ本番みたいなんです。ひとりモデルさんで姿をこう描きますね。とその次どうするかというんで、その次のかたち、人間を描くわけですね。そうすると前のその人間のこまかいこまかい部分・・・というか・・・、あるわけでしょう、手とか足とかがね。そうすると、それに従って次のが出てくるわけです。・・・無謀というか冒険というか・・・ということになるですね。(間)やっぱりあの、だけど・・・そのかわりいろんなことを初めに沢山考えたり、いろんなことをいっぱい見たりね。そして、そういうものをずうっと沢山持っていないと、途中でそれが涸れるのね。そういう点ではやっぱり水俣にいったの、良かった。いかないと駄目ですね」
○母親の顔に移る。一筆で娘とちがった成人の女の面立ちが描かれる。体をのけぞるようにひきつらせた娘を抱く母を描く。その画面に俊さんの"母子”のモチーフについて語る声が重なる。広島体験から水俣体験までー。
俊「広島で、ここまで逃げてきて、赤ん坊に乳を呑ませようと思ったら、赤ん坊は死んでたって。で、お母さんも怪我してるのね。そういう人が知り合いに居るもんですからそいで描いていたのね。そうしたら、死んだ子を抱いている傷ついた母親だったわけですね。今まで母子像っていろいろ描かれてますけど、こんな母子像描いた絵かきさんいるんだろうかと思ったですよね・・・」
○俊さんは絵の母親の手にするタオルを描くにあたって、位里氏にそのタオルを持たせ写実的にそれのひだを描写していく。位里氏はじっとその間ポーズを崩さない。
俊「・・・(俊さんの原爆体験の述懐つづく)それで、妹がよくいうけど、もう本当に親は子を捨てるし、子は親を捨てて逃げてくるし、それでもお母さんが子どもをかばって、お母さんの腹のなか・・・あのう・・この、腋の下から這い出た子どもは生きていて、お母さんは死んでいたという、そういうこといっぱいあるんですね・・・・・・」
〇首をうしろにのけぞらせ必死に発作に耐えるかのような少女の顔。その黒髪のみだれを一本一本描く。絵はほぼ骨描きを終え、抱え立つ母と娘の全体像があらわれる。
俊「・・・と、水俣こんどいってみたら、やっぱりお母さんが発作起した子どもを抱いていますものね。ちょうど、そのかたちがね、傷ついて殺されたキリストを抱いているマリアさんの、あれを思い出したですね」
〇裸体の娘。その平たい胸もと、透き出るあばら骨。一点女性と分る部分に、コンテで黙々と肉づけする俊さんのうしろ姿。長い時間をかけて凝然たる彼女。
ナレーション「母親に抱かれたまま初潮をむかえた胎児性患者の話に、俊さんは衝撃を受けた。この絵を描きながら、俊さんは、いちどだけ哭ないた」
〇画室の陽だまりに身をよせあって墨をとくふたり。俊さんの表情は切なく見える。
8ー画室・ふたりの共同制作の実際
〇前シーンの母子像はさらにコンテで肉づけされている。俊さんの時間かけての克明な作業のかたわらから、位里氏は待ちきれぬように墨を流す。次につながる全幅の麻紙に薄墨で流れを太々と描き終えた位里氏は、皿にといた墨と大刷毛を手に、俊さんの描いている母子像の周辺にも、その流れを伸ばし、その勢いにのって、彼女の描きかけの母子像の腹部を墨で切りさくように横断していく。
俊さんは呆気にとられたように、座布団を手にしりぞく。
ナレーション「絵をつなぐ流れをつくる。位里さんはあたかも汚し魔のように墨をのせていく」
位里氏の身体と足で一気に駆けるような”墨流し”に重なって、彼の声ー。
位里「・・・これはもう、私が墨を流す・・・水ひいて墨を流すのはこれはもう、計画・・・ある程度計画しとるが偶然が多い、偶然な、偶然に出てくる効果をねらうわけなんです。あの、自分の頭でこう描いたんじゃ、とても描けそうにもない効果がでてくるんですよ。それをどこまで勇敢にやるかやらんかで、もう・・・。なかなか勇敢にやれないんですよ、ええ。失敗・・・せっかく長いあいだ描いて失敗して、こう全然ペケにするようなことになるかと思って、まあ、恐ろしくてやれないんですね。大体そうはならないという見当が、つかなきゃいけないんですよ。つけばもう思い切ったことをどんどんどんどんやっつくる・・。かりにまあ、多少失敗・・ああ、これは行き過ぎたねえというようなこともたまにゃありますがね、そういうことがたまにあるぐらい・・・あるぐらい勇敢にやらないとものは出ませんわね、はあい・・・」
〇土俗の童人形のような男の子の像、そのチンボコが栗の実のように描かれる。
ナレーション「最後のスペース(注・絵は七枚に分けて描かれている)に描かれる母子像である」
俊さんは丸まるとした男の子のももを一気に描く。ついで坐って抱く母親の豊満な胸元、乳房、そして巨大なお尻の線と、ぐいぐい筆を走らせる。
ナレーション「最後のスペースに描かれる母子像である。(間)本来ならば、静かな漁村に、産まれ、はぐくまれるべき、あるがままのすこやかな母と子の像である」
〇その母子像のほぼ全体が見えてくる。
ナレーション「この水俣の図に、俊さんはこれまでに二百数十人の死者と病者の貌と体を描きつづけてきた。そのつらさの代償のように、筆はのびやかに動いた。(間)しかし、これも黒いヘドロに埋められるのであろうか」
〇俊さんの描き上げた漁婦と子どもの図に、位里氏はごく薄く墨をのせるだけだった。
9ー数日後の画室・墨と色(朱)の選択
〇原色の黄と朱とが別々に、しかし重ねぬりの手法で流されている。それは火柱のようである。風化しつつあるしゃれこうべの数々。そこから位里さんの刷毛で朱色が一気に天にむかつてぬられてゆく。その意味をのベる俊さんの声が俊さんの立ち姿に重なる。
俊「あの、ほら、赤ちゃんが水俣病で死んだのに、水俣病でなかったかも知れないというんで、そのまま葬って埋けた赤ちゃんがいたでしょう、子どもさんがね。それがあれは水俣病だったんだっていって認定されたときに、お父さんとお母さんが、死骸をもういちど掘り出して、それでそれを焼いたということが載っていましたね(注・ユージン・スミス、アイリーン・スミス共著、写真集『水俣』五八頁)。・・・聞いたので、それで焼いた炎・・・死骸を焼いているところなんです。それで、この画面のなかに一カ所あかい色が入ったわけですけど・・・」
〇黄に重ねるに、朱・紅と渾然たる色彩を呈する絵。八十歳近い老人と思えない位里氏のボディペインティング風の筆づかいを同感の情でうち眺めているかのような俊さん。水俣の図での色の問題についてー。
俊「でも、赤、あかは原爆は・・・赤をもうずいぶんね、あれは本当に火の地獄でしたから、沢山朱を入れたんですけど、水俣で朱は入れられるとこなかなかないんですよね。それで青いあの群青という絵具いっぱい買ってきたの。そいで青い・・・あの本当に浄土とみないってらっしゃるけれども、本当に浄土のようなところでしょう・・・で、あれあの海の色にしたらっていってたんですけどね。結局、墨だけにしてしまって、そしてあすこだけに朱をちょっと・・・ちょっとというか」(音楽おこる)
〇その数日後、原色だったまっ赤な炎の色も、墨がのせられ、いぶされ、黒ずんでいた。そのかたわらに波浪を描きこんでいる俊さん。
〇 一方位里さんはさらに太い刷毛で墨をいたるところに流している
ナレーション「俊さんのディテールまで描きこんだ絵に、仕上げの墨がくろぐろと流された。でこぼこの紙の上に、それは溜まり、そのまま乾かされるのだ」
〇俊さんも小さな筆で自ら描いた漁の図の上に墨を滴らせている。(音楽やむ)
俊さんの声「(感にたえたように)あの紙と墨の関係というのは、あれは不思議ですね。紙のなかに全部ずううっと入っていくんですね。ですから層になって入り込んでいるんですから、立体になっているんでしょうね。それをこうぐちゃぐちゃと平面においてしわだらけのときには見えないけど、貼るとそれがびいつとなって、何か下から光が出るんかなあ、みんな見えてきますね」(音楽おきて話をささえ、やむ)
〇墨の濃淡それぞれは水の形で紙の上にたまる。その不規則な形の水鏡に、ガラス戸越しの空の青が映っている。
〇病んだ猫の顔の上にヘドロのような墨が流れ、その眼元に迫る。太い筆で流れるその墨のうごきはあたかも猫を水銀で浸していくよう。
10ー完成間近い日の画室
〇夕陽が横這いに画室にさしこんでいる。位里氏は透明な仕上げのどうさを絵に塗っている。
ナレーション「描きはじめて三カ月、仕上げ」
〇どうさは紙を光らせ、生きもののように見せる。
ナレーション「みようばん水でにかわを溶いたどうさが繰り返し絵の上にぬられる。(間)紙は乾くたびになめし皮のような強さを帯びてくる」
〇水に濡れて白と黒をより鮮明にした図柄。男の患児、そして女性患者像などがひときわくっきりとする。
ナレーション「墨はふかく紙に定着する。ーこの東洋の水墨画は一千年の風雪に耐えるという。ー水俣の群像は紙の繊維にくいこんだ」
11ーインタビュー・なぜ苦海のみを描いたか
〇ほぼ完成した絵を前にして、こもごも語る夫妻。位里氏がまず口を開く。
位里「あの辺の九州の人たち、熊本の人たちもたいへん人もいいし、いい人ばっかりだし、いって会って・・・まあどこいつてもいいんだが、まあ、あそこらの人たちの人はとくにいいし、不知火の海ですか、こんなまあ・・・大変そのなんでしょ・・・」
〇位里氏描く水墨による不知火海のスケッチ。逆光に輝く海と島影と漁り舟の一幅。水墨画の醍醐味をみせる部分の大写し。
位里「・・・あのう風景は水銀に関係ないからね、まあ水銀は目に見えんもんだから、風景はいいし・・・」
〇語りつづける位里さん。
位里「で、こりやもう水俣は明るい水俣を描こうと一応考えたんです。考えて、さて明るい水俣をどういうふうに描けばいいかということになって、いくら考えてみても、明るくはないんですわね。(強く)明るいわけはないんだ、あすこはねえ。でやっぱり明るいということは水俣をあらわすのに明るいんじゃあ水俣にならんだろうちゅう・・・。まあ暗いならもう徹頭徹尾暗い絵にしようと・・・・・・」
〇深々と耳をかたむける面もちの俊さん。
〇画面一転して、墨を滴らす俊さんの手もと。その下の絵は判じ難いほどまつくろになっていく。
〇位里氏の感懐つづく。
位里「・・・で、水俣病の人たちを中心にね。それからまあ闘いの場面も、まあなかなか勇敢な闘いだし・・・。鈴ふって歩く・・・(俊さん「お遍路さん?」)(注・一九七〇年、チッソ株主総会に出席した巡礼衣裳の患者達のこと)。お遍路さんか。お遍路さんの闘いもなかなかいいあれだし。(俊さん「あれは立派でしたね」)これ、これは絵になるんです。(俊「入れようといってたの・・・」)これも絵になるからね・・・。これも絵になるから、まあこれを一枚描いたらね、こんどはこんな大きな絵じゃなしに、まあ『原爆』の大きさでねえ。『原爆』の、というのは横二間に縦一間(注・約四米×二米)ですからね、これなら楽だから・・・つづけて何点か描くつもりなんですよ。あのう、描こうと思った、なんべんも思ったのに、こういう結果になってこういう絵になった、今回の絵はねえ」
土本の声「(俊さんに)先生も大体そんなふうな・・・」
俊「うんそう、『苦海浄土』(注・石牟礼道子さんの著書名)って、ほんとに、ほんとうによくあらわした言葉なんだけど、”苦海“にばっかりなっちゃった。あの・・・ほんとう・・・補償金もらって、大変な闘いして勝利したということなんだと思うんだけど、だけど勝利が勝利かなって、また思うのね。そうするとね、どうなんだとまた思うわけ・・・・・・」
位里「勝利はないですよ、あすこはもう。金じゃおさまらんのだからね。金でいくら貰ってみてもねえ。まあみなさん言ってるし、書いてるし・・・」
俊「そう。それでこんなになっちゃった。(間)だから・・・だけどそれまた口惜しいよね。やっぱり(注・患者の女たちは)踊っているし踊らなきゃなんないし。(間)そういう、そういうことが絵に描けるかなあ、どうあらわせるかなあって思っていますよ、わたしは」
〇描き終えての晴れやかさはみじんも窺えないふたりであった。
12-パネル貼りをするふたり・野木庵にて
〇横二米余と縦三米の寸法で七分割して描いた図を七枚の木製のパネルに貼る。離れの野木庵での作業である。声をかけあっての仕事だ。
〇のりをつけ、しわをのばし袋貼りの要領で入念にふちをとめる。若い人手を借りているが、勘どころはふたりで押える。
〇片すみに署名ー”一九八〇年二月 水俣 丸木位里・俊”とある。位里氏の声ー。
位里「これはもう、俊とわたしの絵なんだが、何でしょう、人物は俊の方が巧いからねえ、巧い人が巧いところを担当すればいいんですよ。何もやせ我慢はることはないんで、これは。片一方、自分よりこう巧いと思や、巧いところはやって貰わなきゃいけないんですよ。わたしもやってやれんことはないが、わたしよりか巧いと、わたしが思っているからね。人物の骨描きはほとんど俊がやったんです、これは。そうしてまあ、ここへはこういう形を描いたがよかろう、ああいうふうにやったらよかろうと、まあ、そういうことはもう俊も相談するし、わたしも言うし・・・。それからわたしが言うても、言うこと聞かずにやる場合があるし、まあ、お互いにある程度自信を持っとるからね、それから任せるからね、それでうまくいくんですよ。うん」
〇無雑作に箒で絵の表面の凸凹を叩く。パネルを起こして立てる。こうして縦にした図を見るのはふたりにとっても初めてである。手でのりづけの仕上げを確かめ、やがて後ずさりしながら、図を全体で把める位置にさがっていくふたり。(音楽はじまる)
〇朝、絵は暗い野木庵から陽のひかりのもとに運び出される。移動する『水俣の図』、その群像の部。産道をぬけて出生した嬰児のようである。
〇芽ぶいた樹々の梢をよけ、山門風の門をくぐり、美術館にむけて、パネルは運びだされる。
〇手伝いの人を指揮し、その先頭に立つ位里氏。
ナレーション「これから数日後、位里さんは心筋梗塞で倒れ、絶対安静の身となった」
13-上野・東京都美術館
〇早春の休日、樹々のもと、上野公園はかなりのひとでで賑わっている。
ナレーション「三月、上野」
〇展覧会場に入っていくカメラ。ゆとりのある大会場の壁画をいっぱいに占める『水俣の図』。その初公開の日である。
ナレーション「その東京都美術館。恒例の人人展で『水俣の図』は初めて人びとに公開された。位里さんは病床にいて作品のデビュウに立ち会えなかった」
〇会場の親子づれ、「大きい絵だなあ」と何度もつぶやく子どもの声。「猫だわ」と子を抱き上げて指さす若い母親。
〇会場中央に作むのは石牟礼さんである。カメラゆっくりとその背後より脇にまわりこむ。
ナレーション「水俣から来た石牟礼道子さんが、この絵と対面した。(間)この絵を描くための準備や現地への写生旅行など、彼女は手伝いを惜しまなかった」
〇絵に近づいて絵のなかみを手で探るような彼女。(子どもの声「気持悪い」など)
〇その表面を撫でる彼女の手のひら。(音楽)
ナレーション「描かれた人間、二百八十余人。そこには水俣の誰とわかる被害者群像が語りかけてやまないようだつた」
(注・これより次のシーンまで二十一分間、武満徹の作曲『海へ』が連続し、絵のディテール描写と並行する)
14ー絵のディテールを辿る・画と音楽と詩
〇自然、生類、ひと、あらゆる不知火海の風物と水俣病の事象が一見、混沌とからみあっている障壁画。その横十五米のそれを右から辿ってゆくカメラ。横倒しのもの、逆立ちのもの、正対のみを許さない変化をうながす。
〇カメラ、不知火海の海からシルエットの打瀬船、その帆を辿り、明るい空に吊るされた干だこの群に寄る。その不知火海の風景のまわりに、海に浮びただよう受難者・幼い少女がいる。背景に天草・離島のたたずまい。漁船と漁る人の点景をめぐって、体を海にただようにまかせ、病み、ねじれた肢手で虚空をつかむようにのベたまま、海底に沈降していく死者、瀕死者の人たち。不知火海をかこむようにとりまいている。飯盛の碗を前に、生きて石地蔵と化した赤ん坊、喪心のような表情のまま海底よりはい上ろうとする男の子。その誰の眼にも瞳は描かれていない。いわばつねにカメラ(観客)をしてその瞳を想像させるようだ。これらの絵が海と人の病む全体像を開示して序章部をつくっている。
〇百数十人の肖像の章、カメラ近づくと、人物が一斉にのしかかってくる。(超ワイドレンズによる前進移動)その中心に、死んだ嬰児を抱いた家長の像、そのわきに若き父親が強い視線を放っている。
水俣の誰だれとわかる写実力で描かれた実在人物たち。そこに患者とともに歩んだ市民、支援者の顔も埋っている。すべて、不知火海の潮のなかにある。潮の流れのような墨の流れにそって移動するカメラ。群から個人の肖像まで近づいて見る。水俣の顔、顔の黒々とした集団の塊り、その緊密な被害者の重なりに、ときに全くの空白が空とも海とも分たず残されている。それは黒と白の芸術であることを語っている。和紙はにかわ質の光沢をもち、黒はときに粉状、粒状になって立体的な感触のまま、こびりついている。墨の黒はときに茶褐色、ときにブルーを帯び、七つの色彩として定着している。
音楽は大洋の波のようにゆるやかで巨大なテンポをもってその波頭を示し、ときにしずまり沈黙の時をもつ。
〇生類の章にうつる。
ヘドロの海に、排水口から厖大な廃水が黒い滝のように落ちている。からすの群が飛ぶ力を失い、あるものは天を仰ぎ、あるものは海に首をうなだれている。逆倒して爪を空につき出して死んでいる鳥たち。その羽の上に、墨が粒状にこびりついたまま静止している。水銀ヘドロの沈澱物のようである。
石牟礼道子さんの詩『原初よりことば知らざりき』が、誦朗される。彼女自身の声である。不知火海をわが子とする、さらに大きい母なる海。その海底に聳えたつ青蛾山脈を海の母胎とみなして、小さな生類どもまでにも海なるものを告げるかのような、巨大で無辺な海の詩である。
朗誦をどこで始め、どこで終えてもなりたつこの独立の詩篇は、海に病む、カニ、ボラ、タコ、イワシ、海鳥や、猫のいまわの姿に重なって語りだされるー。
詩「岩の裂けめより したたり落ちる 水の雫が
両の掌に満ちてくる
水は光
ひかりの雫が
手の窪いっぱいに満ちてくる
神々に似た声が、その時云った
汝はいま 魚の胎にいて
水の中に這入った
汝ははじめて 世界の胎に入った
お前は 生まれる前の 生命である
水は引いて 去った
ここに残っている両のてのひらは
何の痕跡であろうか
てのひらは 渚
夕陽の引いてゆく渚
さざ波に記されてくる
海底からの 幾億光年
神に似た声がいうには
おまえのほとりの樹の中に来よ
ここから見よ わたしに来よ
おまえは 潮から来た者であるから
わたしの中に流れる音と ひとつになり
逆のぼれ 梢にむかつて
そこで天のしるしを 受けたら
根元の分かれるところへ ゆっくりと降りて
地の底の川へゆくように
海は その樹の洞の中にあるのだから
おまえはもう 舟に乗っているのと同じである
しかしながら、そこへゆく道のしるべは
おまえのいる渚から
不知火海の魚に たずねてみよ
汀の砂に交じる鳥たちの骨にたずねてみよ
炎の中を舞いつつうずくまる
生焼けの猫の耳に 聴いてみるがよい
聴きとらねばならない
まだ 息絶えぬ 仏たちが 墓の中で
泥の鈴を かき振るかすかな音を
いのちが 名残りに吹いている
きれぎれの 口笛の音を
鈴と笛は たとえば『冥途の桜 娘の道行』
という浄瑠璃を語っている」
長詩は、生類の図のディテールに重なって誦せられ、みひらいた猫の眼、その瞳いっぱいの空白のなかで一旦終る。
〇画面は病める人の姿態の痛ましい変化のさまに転ずる。病める人が、さらに激しく病む人を想い、手をさしのベ、抱きかかえる、苦悩のその連珠のような光景の章である。
曲った背骨、ねじくれた肢、硬直したくるぶし、何重苦にもたえる美しい娘の姿から、詩は、娘を回想する母親の語りになる。優美な天草ことばである。
詩「あの娘が死にましてから 迷うごとあって 桜の木は伐ってしまいました。 そらそら巨きな樹のありました この前庭のはしに。 あれが死ぬまでは 毎年 毎年 この前庭の地が いっちょも見えんごと 桜の散り敷いて 花むしろになりよりました。 道の方さねも 海の方さねも 枝の伸びて 下ば通る人たちは花見してから通りよらしたです。
あの娘がもう ものもいわん 食べもせんごとなってからも 桜の咲きよりましたですもん。 口でいうとはやさしかが やっぱりあれが 地獄でございますなあ。 躰のとうとう曲がりまして。 曲がるまでに どげん苦しみじゃったか・・・。
腰から下は あっちゃこっちゃ 紐で結んだごつ ねじれとりました。 骨ばっかりになっても ああた 娘の腰でございますばい。 人間じゃなかようなもんの姿になって 死んで・・・・・。 わたしゃ どれだけ拝みましたろか。 祈祷師さんまで養うて。 ただごつじゃなかと思うとりました。 うちのきよ子ばかりじゃなかったですもん。 病人の出た家三軒で 祈祷師ば養いましたです。 医者に見離された病気なら治してやるち いいなるもんですから。 そんときは一心でした。 後じゃ養いきらんごつなりました。 治りもせんし。 ああいう時は 狂いますとなあ親も。 腰が曲がらん前 桜の咲きました。
もうものも言いきらんようになっとりましたけれども こうやって・・・ 庭にすべり出て ありゃあなんのつもりじゃったいろ 散り敷いとる花の上に坐って 桜の花びらば いちまい いちまい 拾いよりましたがなあ。 片つぽの手の窪に。 手のふるえて かなわんもんですけん ようと拾えませんです。 拾いこぼし 拾いこ.ほし・・・ ひろうつもりが 地面ににじりつけて・・・ 花もあなた 可哀いそうに。 そのようにしていつまででも 片つぽの手の窪に 溜めるつもりでしょうが 溜まらんとですよ 手のふるえますけん。
やせこけて わが頭もかかえきらんごたる頸しとって。 病気になる前 嫁御に欲しかちゅう人からの 相談の出来とりましたが病気になって。 死んでゆくおなごば要る男はおりませんもんなあ。 親孝行するばかりの娘じゃったが・・・ わが身に 花は咲かずに。」
〇語りは、障壁画の中心、生きつづける幼な児、若い重症患者たち、胎児性水俣病患者たちの章の上につづけられた。
観音像のような若い女性患者。笑みをたやさず、手をつねに弄ぶように動かしている美しい娘である。その装うきもののディテールが徽密この上ない。
その”観音像”をめぐり、立てず、物言えず、白い飯を前にみずから箸をとることのかなわぬ胎児性患者たちが身をお互いによせている。空漠たる表情の子。強い意志を示す子、さまざまな現存の苦難を語っている。
〇巨大な巻紙の絵の半ばまで手で繰り展げるように辿ったカメラは、障壁画のクライマックスである病める母子像にいたる。
女なるもの、母なるもの、娘なるものの章である。墨でぬりつぶされたかのようにその制作過程には思われたこの部分は、完成してはじめて、その黒の底からの白の輝きをあらわした。
痙攣する娘は白い肌をかくすことなく絵の中にさらしている。そしてその無垢のひとみは一切の悲しみをたたえながら純白に澄みきっている。
〇カメラは全幅の絵をあらためて見るため、ふたたび左端、その序章部より、右端の終章部までゆっくりと移動する。その一望の移動のなかで、絵のなかに水俣の出来事の森羅万象の秘められていることを告げるかのようである。
〇音楽の終りない大旋律のなかから、詩篇のエピローグが読誦される。
「わたしの洞に沈む 海の光凪
魚に似て 蝶の影が いま渡ってゆく
生類たちの魂の
次なる道しるべ
緑亜紀
標底 九三六四米
渦巻く マリン・スノーの彼方
目ざす故郷は
青蛾山脈」
〇カメラ、ふたたびディテールを辿る。
音楽は図とときに相克し、ときに引きあい、ときに共鳴しながら進展してゆく。
〇画面の絵は、終りに近く、現世の水俣の章である。
死者をやく炎。風化にたえるどくろたち。ネガ画のような漁りの風景のその天地を占めるほど大きな"漁民の母子像”。
黒いヘドロの中でうたかたのように踊りをおどる女性患者の舞。
それらすべてをつつんで、近景をとりまく黒い海、毒の浜のかなたに、天草の山々が遠くにみえる。昔の殉教のしるしである十字架の林が、現代の水俣と接して描かれている。
絵のディテールを音楽と詩とともに辿ったカメラは、大障壁画のなか、その終章、署名に近く描かれた婦人と少女の像で終る。ありふれた漁村風景のひとつ、それぞれ魚を手に家路にかえる人びとである。(音楽やむ)
15ーふたりの画家の歴史・過去のデッサン等。
都幾川より台地に建つ丸木美術館と住居、画室の一望。
ナレーション「位里さんの入院は一カ月半つづいた」
〇和風の俊さんの画室、足のふみ場もないほどのおびただしいスケッチや画が積まれている。その中に男の像が描かれた古キャンパスが二枚ある。その大写し。(一九四五年作)
ナレーション「俊さんの仕事部屋に、結婚後間もない頃に彼女の描いた若き日の位里さんの肖像がある」
〇位里氏作『牡牛』(一九六七年作、百五十センチ×二百七十センチ)。その精悍な牛の表情に寄る。
ナレーション「原爆の図以前に、すでに骨太の日本画家となっていた位里さんが、その頃、好んで描いた牛。当時の位里さんの作品を俊さんは欲情が滲み出ていると評した」
〇油絵に描かれた女の坐像、どこか青春のゆれうごきを見せている。女の像のまわりは黒ずんでさだかではない。(『首吊りの男のいる自画像』一九四五年春)
ナレーション「これは俊さんの自画像である。かたわらに首吊りの男が黒く描かれている」
〇厳しい表情の『餓えている自画像』。(注・一九四五年春、前作とともに敗戦前夜の作品である)
ナレーション「これは餓えの時代を、自分のなかにみつめた自画像。洋画の完成をめざしていた時代だったと彼女は言う」
『原爆の図』のためのふたりのデッサン、数点。
〇俊さんのコンテ・鉛筆・木炭による男、女の裸像など。(一九四七年より四八年の作)
ナレーション「原爆の図のために描いた彪大な量のデッサンがある・・・・。俊さんは洋画の正統にこだわっていた」
〇豊満な女の立像など。
ナレーション「みずからをモデルにした裸婦たち」
〇大地に坐してうつむいている男の裸像。
ナレーション「夫の位里さんもモデルになった」
〇位里氏の筆による日本画のデッサン。水墨の濃淡の手法が鮮かである。(時期同右)
ナレーション「位里さんのデッサンは水墨。ーふたりのスタートは技法においてはまさに”水と油”であった」
『アウシュビッツの図』のためのデッサン、数点。
〇位里氏描く裸婦像。その筆致はシンプルにして雄揮である。そして水墨に淡い彩色をほどこしてある。(海のテーマの音楽おこる)
ナレーション「一九七六年、位里さんのデッサン。当時、パリにいてアウシュビッツを描くためのデッサンをつみかさねていた」
〇俊さんのデッサン。人物、表情、フォルムが一本の墨の線で決定されている。和紙のにじみが生かされた作品など。
ナレーション「俊さんの筆によるデッサン。・・・もはやふたりのどちらのデッサンか見分けがたいほどに近づいている。ーこれが男と女の三十年ということなのだろうか」
16-後期の原爆の図
〇原爆の図のうち「米兵捕虜の死」。(一九七一年作)
手錠のまま受難にたえる男と女の米兵たち。憎悪あらわに眼をつり上げている日本人の表情。やわらかな鳥の子紙に、一気にかたちどられた描線とにじみ、墨流しと刷毛によるその造型は、全体に新たな日本画として統一されている。涙線のようなにじみを描き出している女子米兵の顔の大写し。
ナレーション「原爆の図、第十三部。原爆で死んだ米兵捕虜二十三人の鎮魂の絵である。これは水墨で描かれていて、初期の原爆の図とは大きく表現が変っている」
原爆の図『からす』。(一九七二年作)
〇丸木美術館の中、石牟礼さんを案内している俊さん。『からす』の絵を前にして語りあうふたり。
ナレーション「第十四部・在日朝鮮人被爆者を描いた『からす』。これを描くきっかけは石牟礼道子さんの文章だった」
(注・「朝日ジャーナル」一九六八年八月十一日号所載『菊とナガサキ』、のち『流民の都』大和書房版に収録)
石牟礼「(からすの)はっぱ、はっぱ。はっぱじゃない、はっぱじゃない、羽。はねねえ、締麗ですもんねえ」
〇無数のからすが群をなして屍の山に爪をむき、飛びかかろうとしている。あるものは人間の眼寓をむさぼるごとくである。その屍とからすの上に、純白のチマチョゴリが浮き出ている。(音楽消える)
ナレーション「それは、死んだのちまで差別され、放置され、その屍はからすのついばむにまかされていた朝鮮人の話である」
(注・この絵のヒントを文章で示した石牟礼さんが、この『からす』とはじめて対面したのは制作後八年たった一九八〇年三月であった)
〇ふたりの語りはつづく。どう描いたかについてである。
俊「・・・チマチヨゴリをもってきてもらって・・・」
石牟礼「描きにくかっただろうと思います。そのね、つつついてるところなんか、ちょっと描けないでしょう、現実には。チマチョゴリというのは、だからね、ああよかったなあと思って。はい。ああなるほどと思って。文章の表現とね、ちがいますからねえ。ああよかったなあと思って。何かそれでちょっと救われたような感じ」
〇画面にシンボリックに描かれたチマチョゴリを前にし、それを指でなぞりながら、
俊「締麗なきものですもんねえ。エジプトがアジアで、あの朝鮮でとまったみたいな着物」
石牟礼「ああ、ほんとだ、肩があの・・・」
俊「それでひだがふわあとあってね。女の人がいちばん締麗に見える着物」
石牟礼「そうですねえ」
女の会話そのものである。
〇むしばまれる朝鮮人の子ども。死者の着物をくちばしでつまみとろうとするからす。死んだ男、からすに襲われているさなかの人間像たち。
石牟礼さんの回想風の語りで「(深い溜息)・・・・異国の人でもね、やっぱりお寺さんに(注・骨を)あずかつてほしいというのがあって、で、お寺さんに申しわけないという気持がね、・・・日本人でもないのに、日本のお寺にあずけているのを、たいへん恐縮してるわけね・・・朝鮮の人たち。だから、そういうことね・・・誰もお詣りする人もいないような遺骨がね、御堂の下の、何というのかなあ、ちゃんとつまり納骨堂じゃないところに、こんな土間みたいなところにね、暗いところにね、こう累々と。それで、もうねえ、朝鮮の人に、そのあずけている人に案内されて。ちょっと、もう、本当に申しわけないですよねえ。知らなかった。知らなかったです、そんなこと」
〇白いチマチヨゴリが純白の鳥の子紙の上に描かれている。その胸元のにじんだ淡墨のあとの大写し。
石牟礼「(くぐもった声で遠慮がちに)朝鮮のかたは、見に、見にいらっしゃいました・・・ですか」
〇息絶えるばかりの喪心状態の朝鮮人女性の顔。その眼だけ正視のまま凍りついている。カメラ、そのひとみにゆっくり寄る。
俊「あのね、あの『からす』描いたというのが朝鮮の新聞に載ってね、朝鮮の女の人から手紙がきてね。『からす』の絵が出来ておめでとうございますって。それで、日本人がね、本当に心から謝って下さったのは初めてでしたって。それで、だけど、二十七年とは永うございましたって」
17ー八月六日忌・丸木美術館の庭にて
〇猫を抱いた少女たちが、四角のボンボリに即興画を描く俊さんを囲んでにぎわっている。猫がねずみとりの毒だんごをたべようとしている絵。カメラは紙のうらから筆の動きをとる。”毒ガスが農薬に化けた”などの文字が入れられている。
俊之「(猫に)死ぬなよ、農薬たべたらだめよ」
ナレーション「一九八〇年、夏、八月六日。ヒロシマの原爆の日を記念する丸木美術館の恒例のまつり。子どもたちはこの日の灯ろう流しをたのしみにしている」
〇浴衣姿の位里氏が、病み上りの風采のまま、太い絵筆でボンボリに鳩の絵を流し描きしている。
ナレーション「周囲をはらはらさせておきながら、位里さんはのんびりと画室に復帰した。しかし位里さんだけは、この日も酒はのめなかった」
〇参会者をまえに、ひとこと挨拶をのベる。
位里「私は来年八十歳になります。これは、絵かきは八十歳ぐらいにならなきゃ、ほんとうの絵は描けないんで。これはまあいくらでも例はありますが、いちばんいい例が鉄斎です。鉄斎は、あの人は八十何歳という・・・描いた年の年号、自分の歳を書いていますが、八十何歳からまあ九十歳ぢかくまで生きた人なんですが、その十年間に、鉄斎は鉄斎らしき絵を描いたわけなんです・・・」
〇声はそのままつづく。画は夕暮の都幾川べり、灯ろう流しの人びとを眺める位里氏。
位里「・・・私がこれまで描いた絵はまだほんものじゃありませんので・・・来年になったら”八十歳位里”という号を書くつもりでおります。来年もまた会いましょう」
〇灯ろうを流す位里氏と俊さん。その川の気流を吸いこんで生色のよみがえったような夫婦のふたりであった。
18ー水俣再訪・明水園にて(八〇年十一月)
〇すき通った秋空の下、スモッグの傘におおわれた水俣工場全景、そしてかなたに街の遠景。
〇碧い海をのぞむ水俣病患者のための明水園の俯瞰。
ナレーション「ふたたび水俣。一年まえ、ふたりがここを訪れたのも晩秋であった」
〇明水園の病棟の廊下を看護の女性に案内されていくふたり。
ナレーション「ここは明水園。こんどの水俣旅行では、直接、患者を写生することがふたりの希望であった。前回の訪問のときは、衝撃の大きさから写生の筆が握れなかったという」
〇廊下のつきあたりの作業室、近づいた”明水園まつり”の準備に、軽症者がそれぞれ出品のための細工物の仕上げに余念がない。俊さん、胎児性患者に近づいて挨拶し声をかける。再訪だけに親しみがもたれている。
〇患者のスケッチにかかる俊さんを、わきから不自由な手で写真に撮ろうとカメラをむける胎児性患者(半永一光君)。絵筆は車椅子の老人の肖像のディテールに及んでいる。
〇写生をおもんばかつてじっと表情を固定している老人(森道郎氏・七十二歳)、絵は写実に徹し、その人格の表現に迫っている。
ナレーション「この森さんは有機水銀が引き金となって脳卒中で倒れた。倒れる寸前までチッソの社長と堂々とわたりあっていた人であった」
〇まわりの雰囲気はなごんでいる。
ナレーション「俊さんは肖像を描いて患者にプレゼントすることにしていた」
〇完成した絵に”水俣病闘争の指導者、森道郎氏の像”と献辞を書く。
ナレーション「・・・一方で、その像を記憶に灼きつける。このような画家の特技によって、ともすれば隔てられがちの患者さんに近づくことができたのだ」
〇受けとる森さん。しばしみつめてから声にならない声をしぼり出して歓喜の情をあらわす。俊「まだお若いですよ」
介添の声「まだ若いって。まだ若いから・・・」
〇笑い声が森さんから噴きでる。視線が題字”水俣病闘争の指導者”と書かれた部分にとまる。首をふり、感謝にたえぬ気持にかわる。その一瞬をみて、俊さんは、はじめて合格をかち得たように徴笑する。
〇俊さん、別の胎児性患者、金子雄二君をスケッチする。椅子の上の彼の上半身がともすればゆれる。位里氏が彼のポーズを直したり、俊さんに助言したりしている。絵はその特異にねじくれた指を描写している。
ナレーション「金子雄二君、ー胎児性水俣病の特徴は全身にでている。それを俊さんは半身像に描いた」
〇美しい横顔の女性の胎児性患者がたえず小刻みに首を動かしながらも、モデルに耐えている。
ナレーション「加賀田清子さん、二十五歳」
〇無地の色紙にまず眼元が描きはじめられる。この女性をどのように描くか、カメラはひとみをこらすように見つめつづける。その眸が入れられ、鼻梁の線がまっすぐにひかれる。だが清子さんはたえずうつむいて、前髪が顔を半ばかくすようになってしまう。
ナレーション「映画のカメラのため、緊張して表情はかたくとざされていた。俊さんはその奥にある本来の美しさを捉えようとしていた」
俊さんの声「・・・もうあれよ、ゆっくりしていていいのよ、色だけですからね」
〇筆の線で描かれた肖像にほほベにのような膚色がぬられる。絵の中の女性像は意志的でしかも美しく描かれた。
俊さんのひとりごと「頭、わりと濃く黒で描いた方がいい。もうこうなったらいっそ濃くしよう」
〇漆黒の髪にぬられる。そして彼女の姓名が書きこまれ、俊と署名される。(音楽おきる)
〇絵が清子さんにさし出される。だが彼女の上膊はすぐに対応できない。(注・企図震戦という水俣病の症状のひとつであろうか)ねじれた指で色紙をつかみ、やっと喜色を浮かべる彼女。
19ー大廻りの塘を案内する石牟礼さん
(注・大廻りの塘とは水俣川より丸島につらなる海岸と塩分の多い湿地帯・旧塩田跡とのあいだのゆるやかに土手をめぐらしたすすきの原一帯のこと。彼女はその著『椿の海の記』(朝日新聞社刊)のなかに一章をさいている)
〇大俯瞰、チッソ水俣工場の煙突から白煙がのぼり、霞のようにたなびく。金属的な工場音が強く鈍い。それらにおおわれて家々があり、埋立地に接するところまでつづいている。
ナレーション「いちにち、石牟礼道子さんは、かつておさなかったころのあそび場にふたりを案内した」。
小川のほとりを大廻りの塘にむかつて、そぞろ歩きでゆく丸木夫妻と石牟礼さん。回想をまじえながらゆかりの地を説明する彼女。
〇小川をのぞきこみながら、
石牟礼「ビナなんかいるんじゃないかしら、今でも。(位里「いますよ」)いますよね。ハゼ・・・」
俊「ハゼが、ハゼが上ってきているかな、歩いていると、ピエツピエッと飛ぶからあれがハゼの小ちゃいのかもしれない」
石牟礼「ううん、もっと違うのがね。あまり魚のうちに入れられないような魚なんです」
〇濁り水にすけてみえる陶器のかけら、そのあたりにボラ仔が泳いでいる。
石牟礼「あら、きたなああい。これはもう食べられないなあ。こんな。たぶん」
〇水鏡のように岸辺と水門小屋をうつす川面。そのはたの土手を歩きながら、ー幼児期の幻想的記憶を語るー。
石牟礼「・・・何かこう違う世界に入った・・・違う世界の入口に立ったような気がする、あそこあたりから。人間の居るところと、あの空と海と・・・・・何かその境い目にきたような感じが・・・・・」。
水面に映る民家が波にゆらゆらとゆれている。
石牟礼「・・・ここから、町のほうにむかつて、何かさようならという感じでね、この、何かこの世の外へ出てくるような感じでここに来ていました。ここはとてもいい世界でした」
〇コンクリートの提防ぞいの一本の道。片側は荒寥たる廃水プール。その工場廃楽物で埋立てられた平場に新日本化学のコンクリートプラント(注・チッソの関連子会社〉が建てられている。片側、町につらなる湿地帯にすすきが群生し、塩分の多い遊水池となっている。それらを指さしながら、
石牟礼「昔、ここらへんを通りますとね、もうここへんから磯の匂いがぶううんとしてて、あのほら、磯に生える・・・春さきになりますとね、もう今ごろから準備を何かこうするんですね、海やら川やらが何か準備する。そういう匂いがここへんまできますとこうばあっとこう・・・いい匂い、何かこう春を準備するような匂いがしよりました・・・・・」
〇カメラ、街を望遠する湿地帯から、工場の廃水プール(埋立地)のすすきの粗生に視線をうつす。土手で遊ぶ子どもの声のみ。
石牟礼「・・・ここがなぎきでしたから。ここ、あのなぎさにちょこんちょこんと突き出ていて。で、子どもたちがはだし、もうはだしでこのへん走りまわってて」
20ー回想の大廻りの塘
〇遠い工場音が響く。沈黙している俊さんに語りかける石牟礼さん。思いを一言ひとこと言葉にしながら。
石牟礼「今はこんな音しか聞こえないけど、昔はね、その・・・すすきをね。土手がこう動く感じで、この、風が来る。その風の音だけがね、ここを。それから、海から・・・すぐここはもう海で、この海で・・・・。(手で丸みのある形を示しながら)とても優しい土手が、今はこんな土手(注・コンクリート)。だけどその頃は、何かこう、丸い、優しい感じの土手がね、石垣がね。それで、ヒタヒタヒタヒ夕、波の音とすすきを伝わってくる、そういう音しか聞えなくて。(笑みながら)それで狐の鳴く音、鳴く声が聞えたりして。そんなところでした。だから・・・・ほんとにここに立つと何か変ですよ、気持が。とっても。(間)で、ここで遊んでいると、すすきを掻きわけて、ひょいと海の方から漁師さんが、この、網をこのね。(手まねして)こんなこの、網の中に魚をこう入れてこうやって(担ぐ恰好で)漁師さんがすすきをわけてあがつてきたり、この道へ。それで子供心にその、漁師さんがね、狐に魚を盗られないように、(笑いに身をよじる)よく盗られる、ここで。魚を盗られるの。だから、あの魚、狐に盗られないかなあって思って・・・」
〇遊水池に密生するすすきの根元と水面の境い目をカメラ辿る。小魚や水面の虫が小さな波紋を絶やさないでいる。石牟礼さんの話がそれに重なって。
石牟礼「その狐たちやらもういっぱいそういう、何というか、そういう者たちが、魑魅魍魎みたいなものから狐や山の神さま、もうもう化け物とか、いっぱいいっぱいここに棲んでて賑わっていたの。あのその賑わっているひとたちがね、ここにいっぱいいるから、うっかりそのひとたちがね、昼寝してるのが人間の目に見えないでしょ。で、おしつこなんかしたりするとね、漁師さんがね、この土手で迷うんですって」
〇すすきの穂からレンズの焦点、ゆっくり遠ざかると、工場の煙突につきあたる。声つづく。
石牟礼「・・・(この土手で)迷うんですって、住ったり来たりして。(俊「知らないでおしっこして?」)そう、知らないでおしっこしたりしたら(笑)。だからこのへんを通るときはね、何かこう黙って通らないでね、漁師さんたちは何か言いながら通らなければいけない。そのひとたちがこの、お昼寝しているから」
(音楽おこる)
〇すすきの原に赤さびの鉄条網、そしてその杭が十文字に立つ。そのバックに変性加里工場がその巨体を見せている。
石牟礼さんの声「海のなかも・・・陸のうえも何だか衰弱してきて・・衰弱している。こんなにも変形するんですね、風景も。ふううん」
〇大口径鉄管から吐潟された工場廃水がプールに流れ海の方向にむけて黒い模様をつくっている。そのコンクリートの仕切りのむこうは紺碧の海。三、四隻の打瀬船の白帆が見える。その打瀬船が満帆に風をはらんで網をひいている。有毒物をふくんだ残渣の沈澱池と現役の海が仕切りひとつで隣接している。(音楽、次のシーンになだれこむ)
21ーうごく海・うごく潮のデフォルメ
〇特殊撮影でとった海の動態。(注・微速度カメラで、一時間を十五秒間ないし三十秒間に圧縮し、潮の干満、潮流を非肉眼的に強調して見せる)
〇百間港の午後。満潮から干潮に転ずるにつれて、かくされていた黒いヘドロが地膚をあらわす。
ナレーション「水俣の湾は汚染している。・・・有機水銀は今もそのまま残されている」
〇水俣のひき潮が汐目模様を描いて不知火海に拡がっていく。
〇瀬戸(注・不知火海と東シナ海とをむすぶ瀬戸のひとつ、黒の瀬戸)。引き潮が瀬戸を急流をなしてくだり、大渓谷のように見せる。その潮にのる船の船足は飛ぶよう、それに逆って遡る漁船はジグザグと岸よりを蛇行している。
ナレーション「不知火海は一日二回、川のように流れる」
〇満ち潮。外洋(注・東シナ海)から奔流のように、潮がかさだかに流れこみ、周辺に無数の渦潮をつくりながら不知火海になだれこむ。
ナレーション「その潮の満ち引きは、毒を運ぶとともに、新しい海のいのちをひきいれている」
〇満ち潮は水俣湾のヘドロを隠しつつ満ちる。その海面に夕暮の雲の影がうつり過ぎる。
〇同じ夕暮の百間港、排水溝附近。刻一刻、ヘドロが海に化していく。夕映えの雲が流れ、夜のとばりにつつまれる。足もとまで潮が寄せ、溶暗する。
22-湯堂でふたりの胎児性女性患者にあう
〇快晴の午後、袋湾を目の下にのぞむ。小さな船だまりと漁家の屋並みの集まるところー
ナレーション「ここは水俣市湯堂、水俣病の最汚染部落である」
〇船着き場のほとりで坂本しのぶさんを描く俊さん。離れて、位里氏は港全景の写生をしている。船底にあたる水の音と小鳥の声のみ。
ナレーション「ふたりは自宅にいる若い胎児性患者を訪ねた」
〇坂本しのぶさん、神妙に椅子にすわり、ポーズをくずすまいと努めている。
ナレーション「坂本しのぶさん、二十四歳」
〇小学生のように小さな足、その運動靴からひざに組まれたよじれた指、腕、そして上半身へとカメラ。
ナレーション「彼女は自分より重い水俣病患者の世話をしたいとのぞんできた。しかし、その途はひらかれていない」
〇色紙にすでにしのぶさんの像はくっきりと描かれている。肉づきのいい両頬、丸みのある肩、胸がセーターの線によって女らしく描写されている。その絵の進みぐあいをみつめるカメラ。そのカメラのなかの彼女、そして、色紙のなかの彼女ー、ふたりの"しのぶさん“はそっくりでいて、かつ雰囲気を異にしている。絵のなかの彼女は俊さんの筆によって独自の表現となっている。
ナレーション「坂本しのぶさんは、女らしい気のつかい方とやさしさ、そして、チッソとの闘いのもっとも豊かな経験者として若い仲間たちの信望をあつめている」
〇しのぶさんの頬にうっすらと紅がぬられる。柔和な眼差を注ぎながら、制作の手をやすめない俊さん。ときに視線がであって微笑む。風にゆれる白髪の俊さんの瞳が生き生きと冴え、美しい。
〇位里氏の写生のかたわらに、明水園ですでに肖像を描いてもらった清子さんがいる。彼女は、ときに真剣に、ときに感に耐えないように、その筆づかいを眺めている。(音楽おこる)
ナレーション「たまたま日曜日、加賀田清子さんは明水園から帰っていた。しのぶさんと清子さんは日頃からの仲良しだった・・・。清子さんは位里さんに、湯堂の海を描いてくれるようにたのんだ」
〇色紙には袋湾と茂道の鼻を背景に、岸にもやう漁船が描かれている。それに色彩がほどこされる。
位里「あんたの名は何、なんたっけ」
清子「キヨコです」
位里「キヨコはどのキヨか」
清子「ええと、さんずいの・・・」
位里「さんずいの清子か」
清子「さんずいの清子」
位里「さんずいのこれか」
〇話しかけあうふたり。ほぼ触れあうばかりに言葉をかわす。清子さんは、あたかも祖父に対するようにうちとけている。明るく笑んだその顔はかつてと別人のように見える。
ナレーション「明水園のときとうってかわってのびやかな彼女だった。そのことがまた位里さんを大きくくつろがせた」
〇ふたりのスケッチの風姿と娘たちをつつみこんだ湯堂の海ののどかなひとときである。近所の子がやってきてカメラにむかつて、ポーズをとる。
23-夜の宿・ふたりと石牟礼道子さんの語らい
〇夜の渓流、そこに宿の灯が落ちている。
ナレーション「山の温泉・湯の鶴の宿」
〇その一室、こたつを囲んで、ふたりと石牟礼さん。彼女に手で想いをたぐるように語りかける俊さんの話。
俊「・・・土本さんがね、あのお、『清子ちゃんはきれいなんだよ』というのよね、『とってもきれいな娘になってる』っていう、おっしゃるのよね。ううん、そりゃそうだけどと思いながらね、こう見てたの。そうしたらぱあっときれいに見えてきたのねえ。それで、ああこのことだと思って描いたの。そしたらね、ほんとうに惚れぼれするほどきれいな、若い女の子に描けたのよ」
石牟礼「私もはやく見せていただきたい」
俊「そしてね、それでひゅうと淋しいところが出てね・・・」(挿入画面)完成した清子肖像画。
俊「・・・昨日はあの子・・・しのぶちゃんを描かなきゃいけない・・・描くわけね。と、しのぶちゃんのは色はくろいのよね。色くろいからね・・・だけど、きのう清子ちゃんあんなにきれいに描けちゃってねえ。今日、あの・・・(かたわらで俊さんをじっとみつめる位里さん)仲良しでしょう、ふたりが。こんなに差ができたらかわいそうだなあっと思ってね。そいで、またじいっと見てたらね、去年、この前会ったときより、ほんの一年でしょ、それなのにすっかり娘になってるんだわ、むすめむすめしてきてるの。(石牟礼「はいはい」)そいで肩の線や胸の線やなんかがね、ほわあっとしてきでるのよ。(石牟礼「ふうん、そうでしょう」)だから、あらあ、これを描けばいいんだと思って」
〇 (挿入画面)その言葉どおりのしのぶさんの肖像画。
〇位里氏の色紙の大写し、その湯堂の海を描く手もと。喜びの色おもてをこぼさんばかりに面にうかべる清子さんの画面に重なって位里氏の声。くり返しくり返しといった口調で。
位里「・・・しかし、ここへ来て子どもに(しばらく絶句して)・・・会ったらすぐわかるね。子どもに会って・・・会ったら”水俣”ということが。あの・・・胎児性の子どもというか、きのうの、うん清子ちゃん。あの清子さんが私に話してくれたり、話をしたり、それから、海が欲しい、ちゅうんだね。海を描いてくれ、ちゆって・・・」
〇生き生きとした表情で手をまじえての位里氏の話がつづく。それは清子さんと交した会話の復元である。
位里「それからよくわかりだしたね。それからあの娘がかわゆくなりだしたね。(石牟礼さんにむかい)どういうもんだろうね。そういうふうに水俣が・・・二度きて、あの娘に・・・(俊さんにたしかめる)あの娘に初めて会ったんだね、初めて会って・・・二へん会って。そいから海を描いてくれちゅうから、海を描いたげて。海を描いて・・・ほれから二枚描いたんだね。二枚描いて・・・、どっちがええかねえ、と一言うたら、もうはっきりしとるんだね。こっちがいい、ちって」
石牟礼「湯堂の海?」
位里「うん・・・それで喜んでねえ、喜んで。わしの描いた海だから、あの、何が、何とかいうは・・・色紙がね、色紙がどうさがしてないもんだから、写実風に描けないんですよ、あれは。ぼやぼやぼやとするんだね。ほいで、これじゃ気に入らんかなあ思うたんだが・・・そのぼやぼやしたなりに絵の雰囲気は案外いいんですよ、あの方がね。あの今日のあの海を描いたような色紙だからね。ほいで、はっきりしとらんから嫌いかと思ったが、非常に好きなんだなこれが。好きだという・・・」
〇位里さんはにかむように笑む。気がのって話しすすむ。
位里「・・・ほれから裏へね、裏じゃない。あんたなんちゅうんかねえ、てゅうたら清子、ちゅう・・・。『清子ちゃんかね』・・・・表へ清子ちゃんへゅうて書こうと思ったら、表へ書くな、裏へ書けちゅうんだなあ。ほほう、面白いなあって・・・(笑)」
石牟礼「あのこはそんな娘で・・・」
位里「そんでね、今日、描いた日にちを何でしょ、書こうと思った。描いた日にちとその、清子ちゃんにあげましょう、というのを書こうとうえ(表)、うえへ書こうと思うたら、うえに書くな、ちゅうんだね。ほう、ほらあなかなかはっきりしとるねえ、こりゃ面白い。裏へ書けって。自分で裏へこうやって。で、ほれから裏へ書いて。ほいでわたしが・・・そうしたらね、わしの名は、わたしのサインは表へせえとゅうんだね。アハハハ、はっきりしとるんだね。そして嬉しそうにしているしね。こうゆうところからね・・・やはり、この味わい、いや味わいじゃない、こういう感じはね、今回きて初めて感じた。ほんと、子どもとの非常に、あのう、つながりをね。あの子だけじゃなしに、ずうっとあるに違いないが、特にあの娘に感じたね」
〇(挿入画面)湯堂の波止場を語らいながらゆくふたりの娘のうしろ姿。腕でバランスをとり、足もとふたしかながら、よりそってたのしげな清子さんとしのぶさん。
位里氏の声「・・・ほいで、みなまたの、みなまたの・・・うううん」(言葉を探すが言葉にならない)
24ー晩秋の不知火海
〇沈黙の海。画面いっぱいに群青色の海原がこまかな波模様をみせている。その海面をすべるようなカメラ、やがて、海に群れる一本釣の漁場にいたる。そこは対岸天草の御所浦島のほとりである。その近く、不知火海の王者のように、帆をゆったりとひろげている打瀬船が三隻。(音楽しずかにおこる)
〇走る打瀬船の上、一心にスケッチする丸木位里氏、丸木俊さん、つきそう石牟礼道子さんの三人。
〇打瀬船の流し網の群のただなか。柔い風を満帆に受けて、船はしずかに海底の網をひいている。舷をたたく小さな波の音だけの世界である。
〇位里氏、舟板の上で水墨画を描く。
船と船は近づく。あたかも打瀬鉛は翼をひろげて抱くように見える。言葉もなく、その船々をうち眺めている俊さん。その背後を、大きな白帆がゆっくりよぎっていく。(音楽やむ)
25ー真冬の画室にて、ふたたび制作にむかう
〇樹々に弱い陽ざしが当っている。ふたたびふたりの家。画室には、手つけずの麻紙が室いっぱいにひろげられている。
ナレーション「一九八一年一月、ふたりは、ふたたび流流庵にこもった」
〇位里氏、水俣病様の硬直した手のひらのモデルを俊さんに自分の手つきでつくって見せている。紙の上には描かれはじめたばかりの女人像の骨描きがなかばである。
位里「(手のひらをつきだし)こうなるかね」
俊「うん、なる。なるけど・・・」
位里「(手をかえる)これでいいかな」
俊「やってみます。それでいいと思う」
〇位里氏の手のひらを写し、俊さんは女人のそれに描く。
位里「手のひらのしわはこう・・・」
俊さんは手のひらの生命線まで模している。
〇絵・薄ものの衣装をまとい、のびやかなもろ手で童子をさしだす母の像になる。
〇それにならぶ位置にもうひとりの女人の顔の輪郭を描く俊さん。位里氏はもすそに薄墨をのせている。
ナレーション「新しい大障壁画の中心に、ふたりの女人の像が描かれた。それは、あの湯堂の部落で出会った、ふたりの娘であった」
〇俊さんの骨描きはみるみるうちにすすんでいく。その後を追って、太い刷毛でふたりのもすそに墨をおく位里氏。声、問いかける。
土本の声「位里先生、お手を休めずで結構ですけど、これは題すればどういうふうになりますか。(位里「ええ?」)・・・これは題をつければどういうふうになりますか」
〇位里さん、背を向け、もっぱら手をうごかしながら。
位里「さて・・・。題はまだわからん・・・題は考えてないんですよ、まだ。希望のもてる絵にはするつもりなんですよ。希望のもてる絵にはするが、ううん、闘いの絵になるわけです。ええ。・・・まあ、最初の話は”人民はいつも殺される”という題にしようかと言ったんだが、・・・どうも、それじゃ強すぎるからねえ。本当は人民はいつも殺されるんですよ。あらゆる・・・ところでねえ、あらゆる場面で、人間は殺されているわけだが、・・・いつも殺されるが。そういう・・・。死んじゃいけないからね。で、闘いー闘わなきゃいけない。殺されても殺されても闘わなきゃいけないから、その闘いを・・・、闘いで、いくらでも生きて、生きて、生き残って闘っていくという・・・」
〇柱によりながら、さらに画想のいとぐちを探す位里氏。かたわらで俊さんのする墨の音。
位里「・・・あんまり複雑にはしないで・・・何でしょうね。女の人を多くして、女ばっかり・・・(かたわらの俊さんに)女ばっかりになるかのう?(俊「どうかなあ」)女と子どもばかりにしたほうが強いかなあ」
〇俊さん、ううんとひくくつぶやいたまま、宙の一点をみつめている。
26-女人像・その新たな母子像について
〇俊さんの前に、目鼻のない白いままの顔がある。手にした老眼鏡が、動かずにいる。やがて筆をとるや、手はすばやく描くべき位置にとまり、描きはじめられる。(音楽おこる)
左眼、そして右の眼。それぞれの瞳が斜視のまま入れられる。鼻梁と唇がひとふでごとに丸みをもってくる。頬の線ひとすじで、ふくよかな娘の貌となる。坂本しのぶさんの、母としての像である。
俊さんのモノローグのような言葉「・・・もう、おそろしくて、すごくて、凄惨でね、醜いという・・・もっともそういうおそろしいもののなかに、いちばん、美しいものが描けるだろうかつてーいま思ってるわけですよね。(突然どもりながら)と、描ける、描ける、描か・・・描かなきゃなんない、描けるはずだって思いはじめたわけ。そうするとね(落ちつきをとりかえしながら)原爆・・原爆の広島もそうだし、長崎もそうだし、アウシュビッツもそうだし、水俣もそうだしね・・・。もっとも悲しくつらいことが、もっとも美しく描く・・・描くことができれば、わたしは本望なのではないか、と思いだしたわけです」
〇凛然とした風貌の俊さん。次に加賀田清子の貌かたちを描く。この人も、童子を抱いた母子像として描かれている。
俊「・・・(明るい声になって)そしてこの間、しのぶちゃんや清子ちゃんに会って・・・。そうすると、赤ん坊を生んだらどうなるんだろうなあっと思ったんです。そんなとき。生めるんだろうかと思ったのね。・・・生めるんじゃないかしらって。そうしたら、もう、ものすごく健康ないい赤ちゃんが生れるんじゃないかつて・・・。と、そうすると、そのしのぶちゃんや清子ちゃんに、赤ちゃんを、抱かせたかったわけですね」(音楽おこる)
〇別の日、俊さん、コンテで清子像の胸のふくらみをつけている。その豊満な丸い乳房一。後をかえりみながら、わが子を誇らしげに人に見せているような、同時に恥らいをふくんでいるようなプロポーション。病んだかたちの手のひらに抱かれた赤ん坊の像。それは幻想的な童子像ではある。
27ーエピローグ・朱でいろどる
〇絵の具皿の大写し。そこに紅と朱がそれぞれふたつの皿にとかれている。息のあったふたりの手もとである。
〇位里氏、水をぬった絵の上。ふたりの女人像の背光部に、朱と紅を流す。たっぷりと、紙の上に溜るほどのせられる。
ナレーション「ふたりの女人像のあと、この画がどのように展開してゆくか、いまはわからない。だが、ふたりの構想が大障壁画として完成する日まで、ふたたび、はげしく、きびしい内面の旅がつづくことは確かだ」
〇位里氏、女人像の白いからだにどうさをぬる。その女らしい肢体が光る。
〇ふたりは障壁画の最初の部分を描きおえ、じっとみつめて立ちつくしている。
それにつづくスペースは、白紙のままである。
〇鮮明な女人像ふたり。ともに双眸をみひらいている。その頭上あたり、背光のように、朱と紅と紫、そしてうす墨のそれぞれが、水の流れのようにかたちどられて静止している。〈字幕〉エンド・マークにかえて『水俣の図・物語』ローリングにつれて、映画にでてきた表現者、映画製作スタッフ、協力者タイトルー。
図/丸木位里 丸木俊 音楽/武満徹 詩/石牟礼道子 製作/高木隆太郎 若月治 監督/土本典昭 撮影/瀬川順一 一之瀬正史 録音/久保田幸雄 照明/外山透 編曲/毛利蔵人 ナレーター/伊藤惣一 ネガ編集/加納宗子 助監督/西山正啓 撮影助手/柳田義和 応援/清水良雄 内藤雅行 高橋達美 小池征人 今野正典 岡沢一賀 製作デスク/米田正篤 佐々木正明 江田民雄 岡本紀世子 現像/東洋現像所 録音スタジオ/東京テレビセンター 協力/原爆の図丸木美術館 映画「水俣の図」を応援する会 瀬川浩 宗国喜久松 高岩仁 倉岡明子 羽賀しげ子 坂口頭 東京コンサーツ 不二技術研究所 東京シネアート クリエーション5 青映社 幻燈社 水俣市立明水園 埼玉県東松山市教育委員会 熊本県芦北漁業協同組合 水俣病センター相思社