ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話 第一章 パルチザン土本典昭前史 インタビュー
1 少年時代から敗戦まで
貧乏のどん底生活
ー土本さんは一九二八(昭和三)年の生まれですが、父上(善平氏)は内務省に勤めていらっしゃったのですね。
土本 父は岐阜県土岐市の下石というところの出身ですが、祖母(土本の祖母)が産婆を生業にして父を育てました。父は高等小学校しか出ていなくて、その高等小学校も土岐市が美濃焼の産地でしたから、そこの高等小学校と同じ程度の(土岐郡立)陶器工業学校(現・岐阜県立多治見工業高等学校)卒業でした。陶芸を教える学校です。
ーあのあたりは陶器の産地ですね。
土本 今もそうです。で、父親は大学に行きたかったんだけれども、結局母親が行かせてくれないので、やむなく地元・下石の役場に入ってね、そこから愛知県庁に移った。だけど県庁ももう大学卒が普通という時代だから、薄給で出世の道はほとんどない。そのうちに、ダム建設の時代になって、反対する川の漁民対策を担当させられるんですね。がんばり屋でしたから、やがて補償問題の専門家になっていったようです。それから内務省に移ったんだけど、内務省でも本当に下っ端の下っ端でね、貧乏はもう凄まじかったですよ(笑)。
というのは、下級サラリーマンでも最低生活はできたと思うけど、祖母が長いこと脊髄カリエスを患っていてね。今のような健康保険制度はないから、おまじないとかに、大変なお金がかかったとあとで聞きました。僕は姉と弟の三人兄弟だったんですけど、一度も本やおもちゃを買ってもらったことがない。それでも納得できたのは、この祖母の難病には大変なお金がかかるという話が耳に入っていたからです。小学校三年まで名古屋にいたけれど、隣近所の家の本棚で本を読み、友だちのおもちゃで遊びました。食事にしても、お話しするのが恥ずかしいほど限られた食事でした。この子どものときの体験が水俣で役立ったかなと思いますよ。ヤセ我慢で言えば(笑)。
ー一九三八(昭和十ニ)年、十歳のときに、父上の内務省への転勤で麹町(東京都千代田区)に移られたのですね。
土本 はい。でも、麹町はその当時もお金持ちの町だったんですよ。名古屋から東京の一等地の小学校に転校して、いま言う”格差”にビックリしましたね。剣道の全国一、二位という(麹町)小学校でしたから、剣道をやるときも、袴とかいろいろ要りますよね。ところがお揃いの袴を買う金がない。するとお袋(花子)がたまたまあった黒光りする絹の生地で袴を縫ってくれたんです。さて、クラス全員が道場で整列すると、僕だけ紺色じゃなくて黒いピカピカの袴をはいている(笑)。あとで当時の先生から「あの袴は目立っていたな」って言われました。よほど印象が強かったのでしょう。
あのへんの小学校は校長が地域の名家に寄付を頼みに行けば、やれ三井だ京極だっていう具合に大金持ちや財閥がごろごろでしたから、いつも集められたようです。だから子どもたちの負担は少なくてね。例えば夏休みの林間・臨海学校なんか、親の負担額の順に三カ所も選択肢がある。一等が上高地。二等が湘南海岸、三等が多摩川べりだったかな。みんなそのどこかには行くわけ。行かないのは僕一人(笑)。親が「勘弁してくれ」って言ってね。だから夏休み中一人で遊んでいました。しかし、祖母の治療のためだと分かっていたから納得できましたけどね。
他方、成績はよかったから周りは僕を馬鹿にできないわけ。東京に来ても副級長だったんです。いちおう官吏の倅だしね。そういうことで貧乏だったけど気持ちの釣り合いは取れてたんですね(笑)。だから貧富の差、階級格差の実感っていうのは、小さいときからイメージとしてはっきりありました。
麹町の一角に、市電の運転手とか、銀座の商店の番頭とか、ホテルの厨房の従業員とか、貧乏教師とか、そういう人たちが固まって住んでいる二十軒くらいのスラムがありましてね。僕らもそこで暮らしたんだけど、うちの裏から大富豪の屋敷が続くんです(笑)。大財閥、日本画の大家、有名な女優や声楽家、スイス公使館・・・。で、振り向くとスラム(笑)。だから、庶民性っていうのはその頃から身体に染みついてます。
ー麹町小学校は皇居に近かったと思いますが。
土本 ええ、隣みたいなもんでした(笑)。十歳を過ぎてからは、戦争に行って天皇のため、お国のために死ぬものと思っていました。だんだん特攻隊が模範というか「鑑」になっていくわけです。教育というのは恐ろしいですね・・・。小学校は軍国主義教育だったし、先生も天皇論者だった。しかも宮城のすぐ近くなので、皇室の行事とか、天皇を歓送迎するときは必ず呼び出される学校でした。日の丸の旗を振ってね。でも天皇が通るときには行き過ぎるまで最敬礼しているから、天皇の顔は見たことないんです(笑)。で、子ども心に、神様の天皇がどうして子どもつくるんだ?みたいな疑問とか(笑)、そんなことは思ったけど、それより前に、お国のために死なねばならぬという思いのほうが強くなっていましたね。
麻布中学と学徒動員
ー(旧制)中学は進学校として知られる今の麻布高校ですね。
土本 第一志望は”四中”、今の都立戸山高校を受けたんですけど、学校側の手違いで、”入学試験に合格”と番号が書かれていたのに墨で消されていたんです。親父がカンカンに怒っちゃってね。でも滑り止めの麻布中学には受かっていたんですよ。ところが私立だから月謝が高い。それでまた生活を切り詰めるというようなことで、本当にしんどかった。麻布は妙な学校で、先生が”内職”で家庭教師をやるのを許していたんです。古い学校なので、父子ともに麻布という家が多くて、戦争が終わったら必ず教育が大事になるってことを知っているインテリがいたもんだから、子どもに家庭教師をつけたんですね。親の多くが大正デモクラーシー的なリベラルな人たちだったような気がします。軍事教練に積極的な人はあまりいなくて、自由な雰囲気はありましたね。今もそうだけど、当時も進学校ですよ。私立では開成・麻布って言われるくらい、東大進学率も高いし、軍の学校への進学率も高い。そりゃそうですよ、学徒動員だけの時代に、”内職”の家庭教師がついて、英語でも数学でも学校が教えない分までどんどん教えたわけですから。だから、家庭教師のつかなかった僕なんかもう成績の順位が低くて情けなかったですね。
ー学徒動員ではどんなことをされたのですか。
土本 主に旧国鉄の大井工機部(東京都品川区)というところで、鋳物で汽車のブレーキを作っていました。ナッパ服を着て家を出るという生活、ナッパ服を着てると私鉄でも何でも無料でしたね。毎日工場で働いてへトへトになって帰ってくる生活だから勉強はしない。特に英語は敵のコトパで将来使うこともないと思ったから(笑)、全然勉強してない。だから、ホントの学歴というか、勉強を教わったのは中二の二学期までです。で、成績はどんどん下がってね、二年ぐらいまではクラスの三分の一ぐらいのところにいたんだけど、卒業するときはもっと下じゃなかったですかね。
昭和二十(一九四五)年の敗戦の年だけ、四年で卒業(元々は五年制)という切り上げがあったんです。これは同窓の牟田悌三(俳優)とか、あの世代はみんな経験してますよ。その年に僕は学徒動員で、本土決戦用の水路の運航を円滑にするために、堀をさらう作業に利根川周辺の水郷地帯に行かされました。そこで空襲で東京が焼けている真っ赤な空を遠くに見たときには、もうホントに帰りたかったですね。
食事も麦飯に味噌汁。でも、堀割にはザリガニとかタニシがいっぱいいるんです。それをとってくると、農家の人が見るに見かねて塩をくれるんです。彼らはもっといいもの食ってますけどね(笑)。それを焼いて仲間に配った。あれはおいしかったって今でも感謝されます(笑)。
軍の仮宿舎が近くにあって、そこで軍人は毎日酒を飲んでいたし、将官は村の女を抱いているという噂もあった。僕らは青い竹をポーンと割った椀と、竹の箸を二本もらって、味噌汁と麦飯。僕らにはろくな漬物もないのに、彼らは普通の茶碗でいいもの食ってる。かなりいい生活で、脂ぎっていましたね。
東京の空が赤くなったとき、僕は何人かの友人と一緒に、「帰ります」って言って、脱けようとしたんです。そうしたら、軍曹ぐらいの、野蛮なタイプの下士官が僕らの前で抜刀して、「切るぞ」って言うんです。無論おどしですが、僕はついおしつこ漏らしちゃってね(笑)。それで東京に帰るのをやめました。そのときから、大人たちは一切信用しないっていう意地が芽生えました。
ー戦時中に警察に連行されたことがあったそうですが。
土本 戦争中、僕は警察に二回呼ばれているんです。一回は、みんなが行くんで僕も真似して陸軍士官学校に応募したんです。ところがよく考えてみたら、バカバカしくなってやめようと思い、入学試験をスツポかした(笑)。それを特高の憲兵が割り出して、家へ来て親父と僕を連れ出して、質問攻めです。親父も徹底的に調べられました。つまり、息子は反戦主義者か、せっかくお国のために応募したのになぜ受験に来なかったと。これは何かの意図があるのかと親父を叩くけれど、親父も応えようがない。親父が調べられているときは、僕は取り調べ室に一人だけ。心細かった。
それから、昭和十九(一九四四)年に、近所の青年が「本がどんどん少なくなるから、自由に回し読みできる会を作ろう」って言い出して、「それはいいことだ」ってんでね。その人は東宝の美術部かどこかにいた人で、達筆でね。「求む、読書会会員」と紙に書いて、その頃住んでいた世田谷の祖師谷の駅前の蕎麦屋にバーンと貼ったんです。そうしたら「読書会」というのは、東大の共産主義者の最初のサークルは「新人会」というんだけれど、その主な活動は”読書会”というイメージが強かったのに、こっちはそれを知らなかったー。だから、これはもう危険人物がやっているに違いないと思われたんでしょうね。ところが、やったのは三人ぐらいのガキ(笑)。それで、また特高が家に来ました。僕や親父の本をしらみつぶしに調べるんだけど、マルクス主義のマの宇もないんで、呆れ返って帰りました(笑)。仲間のところも調べられたけど、ただ本が好きで読書したいだけだから、何も出るはずがない。それでも二日間調べを受けました。こちらは共産主義はおろかマルクスも知らないのにどうかと思うけど。既存の”大人”を信じないということは、僕の十代の頃に、理屈じゃなくて体験として摩り込まれたような気がします。
ー戦争中は、将来何になりたいと考えていましたか。
土本 そりやもう、特攻隊になって死ぬということです。でも、いい加減なものですよ。陸軍士官学校に願書を出しながら、いやになって受験に行かなかったりするわけですからー。
立川基地で働く
ー敗戦は十六歳のときですね。
土本 戦争中にいっぱい大人を見てきたでしょ。それでいて、まったくの世間知らずでした。戦争が終わってみると、東宝撮影所が近くでしたから、その映画関係の人が多かったでしょ。そこでにわかに”自称”元プロキノとか、そういう人が周りにゴロゴロ現れるわけです。戦争中とはコロッと変わってね。中学校の先生もどんどん変わりました。それがあんまりきれいに変わっていくんで、何も信用できないと心底、思いました。で、僕は逆に「意地でも変わるまい」と決めたんです。「軍国少年を変えるまい」と(笑)。
戦争が終わり、うちが貧しいので自分で学費を稼がなければならなくなり、中学時代の英語の先生について行って、立川の米軍基地の通訳補佐になりました。ほとんど英語はできないけれど、「あれをやれ」とか「それはするな」くらいはできますから。祖師谷から立川に通いながら半年ぐらいアルバイトしたんです。そのときの職場が、当時の自分の軍国少年的な考え方を補強させる、実にひどい職場だったんです。というのは、僕も含めて日本人の基地労働者は全部「土人」扱いですよ。朝、大勢の日本人労働者が集合させられるでしよ。まだ労働組合なんてない時代です。みんなが点呼させられて部隊を組んで、土木建築の現場に行くんですが、まず何をするかというと、二、三人のアメリカ兵が、それぞれ竹の杖を持って、僕たちを並べておいて、次々にひっぱたいていくんです。それが終わると「働け!」つてなもんでね。僕は殴られる側でもあり、殴られながらもアメリカ兵の言うことを一同に伝達する側でもあった。東京の真ん中で見るアメリカ軍のイメージと、僕の経験した立川のアメリカ軍のイメージとはまったく違うんです。
それからまだ十六、七歳ですから、女性に対して非常に関心のある時期です。あるとき用を言いつけられて兵舎に行ったら、アメリカ兵が車座になって写真を見せあってげらげら笑っている。何気なく見たら、日本人の女の子が股を開いて、もう全部露出して、娼びて写真を撮らせてるのばっかりなんです。で、俺の女はああだこうだと笑い合っている。よく見ると、僕が立川駅から基地まで歩く間に出会った気もする娘さんも写っていたんです。ショックでした。
つまり、基地の中ではいわば奴隷状態の日本人というのを見たし、それから女の子が辱めを受けているのに、無理やり強姦されているわけじゃなく、自分から足を広げてケラケラ笑っているような写真。これはもう絶対に一生忘れないですね。
2 共産党入党と全学連
「戦後」の風景
ー十六歳で敗戦を迎えた土本さんにとって、まず思い出す「戦後」の風景とはどんなものでしょうか。
土本 ガラッと変わってしまった戦後の風景で思い出すのは、まずアメリカ人かな。アメリカ兵がのさばってるのがやたら悔しくてね。年齢的にも女性に対してストイックな理想主義的な考えを持っていましたから、立川で見た、日本人女性が喜々として股を聞いてる写真をアメリカ兵が持って笑っているというところから反米感情を持ったしね。だからあとになって、羽仁進さん(映画監督一九二八年~/『不良少年』『彼女と彼』など)と戦後のアメリカ人に対する考え方をそれぞれ話すと、天地ほど違うんです。というのは、羽仁さんの父上の羽仁五郎さん(歴史家一九〇一~八三年/主著「都市の論理」など)のところには、アメリカの大学教授とかGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の高官とか、カナダの首席代表で羽仁五郎さんの教え子のハーバード・ノーマンとかが入れ替わりやって来て、礼儀正しく歓談して帰るみたいなもんで、インテリ外国人との付き合いから戦後が始まっているんです。それに比べて、僕はもう、どうしょうもないところから始まってるからね(笑)。今では笑い話になるけど、のちに僕のお師匠さんになる羽仁進さんの戦後体験とは決定的に違います。だから、僕の学生運動のモチーフは反米。右翼と紙一重です(笑)。
ー一九四六(昭和二十二年に早稲田の専門部に入学されています。
土本 僕は中学時代の成績が悪かった。本を読むのは好きだったけれど、文章を書くのはそれほどでもなかった。僕における戦争被害つてのは、まったくもう、ろくに教育を受けられなかったことですね。で、戦後、早稲田の専門部の法科(三年制)に入ったんですよ。父親が”法学部信仰者”で、法科を出れば、サラリーマンは管理職になれるっていう考えが身に染みてあったから、「法科、法科」って言われて、僕もその気になって入ったんだが、これが笑っちゃうんです。入学が昭和二十一年でしょ。そうすると新しい憲法がまだない。それから刑法には至るところ墨塗りと同じで、使えない法文がいっぱいある。例えば「不敬罪」とか。そんなもの教える時代は終わってるわけで。民法も「男女同権」とか作成中だから、教科書がないんです。かろうじて教わったのは商法と、刑事訴訟法とかのいわゆる手続き法です。法律の教科書がない法学部(笑)。だから三年間で出席日数が二十数日だったかな(笑)。先生も先生で、与太話しかネタがないから、授業なんて漫談みたいなものでした。僕はいい先生には出会わなかったなあ。ある先生なんか、「お前たち、何読んでてもいいよ」って言うから、前の席で小説を読んでいたら、いきなり小突かれて、「いくらいいよったって、お前、一番前の席でやることないじゃないか」って(笑)。まあ、そりゃそうだ。だから僕はほんとに、大学で学問を身につけるということはなかったんです。マルクス主義も同様でしたね。ですから確信を持って、これはこうあるべきだと主張できない。逆に、いつでも人に尋ねる癖があるし、自分で考え込んでしまうというか、反省癖っていうか、そういうのは自分が劣等感を持っているだけに人一倍身についているようです。それは謙虚さでも何でもありませんが、そう受け取られることもあって得したのかも知れません(笑)。
夢が怖い人間
土本 ついでに、この際だから笑い話として聞いてほしいんだけど、僕は夢が怖い人間で、夢にとてもうなされるタチなんです。僕は小学校の高学年まで寝小便が直らなくてね。というのは、寝小便の前に必ず夢を見るんです。で、僕は夢の中の登場人物に確かめるんです。「ここでおしっこしていいか」って訊くとね、誰もが「ああ、いいよ」って許すんです。それで安心して放尿するんです。この寝小便の歴史が幼年時代からずっと続いてごらんなさい、どうなるかっていうと、夢を見るのが怖くなるんです。だから、夢を見始めたら目を覚ますという涙ぐましい訓練をして、小六のときまでにちょっとでも夢を見始めると、ああ、また来たな(笑)、って思ってね、目を覚ますようにしたんです。だから、連れ合い(基子夫人)は知っていますけーど、僕は今でも夢で苦しむんです。幸せな夢なんて一度も見たことがない。もっぱら仕事がうまくいかない夢。編集で困っている夢。どのカットを使おうか悩んでいる夢。もう朝起きるとクタクタになっているくらい、悪い夢を見るんです。だから、冗談で言うんだけど、俺が劇映画を作らないのは、夢が見られない業があるからだってね(笑)。
ー映画作りに関係した夢が多いですか。
土本 今なんかもそうです。編集がうまくいってない、何とかうまくいきたいっていう夢を見ます。で、そのときなりの解決は、夢の中でしています。だから昔から「俺は夢の中で編集するんだ」って言ったりするんだけど、悪夢の中でやってるだけの話です(笑)。
日本共産党へ
ー早稲田に入学したあとに日本共産党に入党されていますね。
土本 すぐではありません。少したってからです。お話ししたように、終戦直後は共産党の時流に反発しました。というのは、あまりにもインテリが共産党になびいたんです。うちが東宝の砧スタジオの近所で、東宝争議の兆しが出てきた頃、あの人この人、どんどん共産党員になっていった時代なんです。あとで親しくなった映画人に訊きますと、宮島義勇さん(撮影監督一九一〇~九八年/『人間の条件』など)は昭和二十年の十月には党員になっていますし、瀬川順一さん(撮影監督一九一四~九五年/『銀嶺の果て』など)も、昭和二十年か二十一年の初頭ーには入党している。地域でも東宝の党員芸術家を中心に活発な運動があったんですが、共産党の高揚期には入る気になれなかった。ダメでした。単なるひねくれものだったのかも知れませんがー。
入党したのはまさに昭和二十二年に「二・一スト」が直前で中止されたあとです。最初の全国ゼネストが大失敗した。それはGHQ、マッカーサー(最高司令官)の指令ですけど、伊井弥四郎という労働組合のトップがラジオ放送で泣くんです。「悔しい、申し訳ない」って。全国的にゼネストをやろうとして、僕らまで心構えをしていたのに、直前で裏切られたという思いです。で、共産党に対する支持が急に冷えていく空気が、昭和二十二年ぐらいに来たんです。そのときに、僕はやはり天邪鬼ですね。じゃあ入ろうか、っていう感じでした(笑)。だから僕は本当のマルクス・レーニン主義の勉強をしていないんです。絶えず実践をすればいい、理論より実践家であればいいみたいな考えでした。
ー当時は日本共産党も、アメリカは解放軍であるという見解ですね。
土本 解放軍です。だからアメリカによる解放を受け入れて、それから平和憲法を作って、という占領政策はすべて共産党の望んでいるところ。農地改革もあのときの共産党の方針の一つだったし、労働組合を作れとか、言論の自由とか、男女同権とか、そういった政策は全部アメリカ軍の示唆でおこなわれていたわけです。共産党はそうした政策を最も歓迎する側にいた。それは僕のアメリカ軍の立川基地体験からすると、僕の見たものとは違うという感じで、共産党に対する違和感がありましたね。
ところが他方、僕の中で共産党というか、真の共産主義に対する憧れはとても強くなっていった。それはフランスのレジスタンス運動を知ってからなんです。レジスタンス文学が刊行され始め、帆足計(衆議院議員・文筆家 一九〇五~八九年/主著『中国ソ連紀行』など)などの紹介に魅せられました。そういうのを読んでいくと、運動を支えたコミュニストの存在は歴然としているわけです。その中で特に感銘したのは、レジスタンスの若者が、その組織から切り離される、自分で戦いを考えなければいけない、自分一人で相手をオルグ(説得)しなければいけない、自分で率先してレジスタンスの先頭に立たなければいけない、といったような話が少なからずあるんです。そこでは彼らの党は秘密で、名前も隠して行動する。そうすると、党というのは幻想の党、幻視の党といいますか、自分で党というものを考えて向き合わなければいけないわけです。ルイ・アラゴン(小説家・詩人 一八九七~一九八二年/ダダイズム文学、シュールレアリズム文学を開拓。のちに共産主義的文学に移る。主著『パリの農夫』など)か誰かの本だったと思いますが、自分の上に党があるのではなく、自分と大衆(あまり好きな言葉じゃないけれど)との間に党があると定義しているんです。自分と大衆、この間に党がある。「これだ!」って思ったんです。で、そういった党を作り上げていかなければ、いかなる闘いもできないし、われわれも解放されない。”党”を自分の中でどう作るかを、レジスタンス文学から学びました。というわけで、現実の日本共産党への批判と、幻想の党への憧れの両方を持ちながら、党活動を始めたわけです。さっき述べた”理論より実践・・・”というー志向に合っていたのでしょう。
全学連に参加
ー学生運動をしながら早稲田大学には七年間在籍されたのですか。
土本 入党してからは、天下りの命令に対して党規律を守って活動しましたが、戦争中の軍国主義教育に甘んじていた僕には、党生活なんてのは楽ちんなもんでね(笑)。そういった意味では非常にいい加減だったと思うんですけど、僕は早稲田に七年いたんです。全学連(全日本学生自治会総連合、一九四八年創立)の副委員長でしたから。本郷の東京大学にある全学連の本部に通って、その安い学生食堂でメシを食い、二年間ぐらい東大生みたいな顔をして生活していました。初代委員長の武井昭夫(評論家 一九二七年~/主著『層としての学生運動』など)とか、中央執行委員の安東仁兵衛(評論家 一九二七~九八年/主著『戦後日本共産党私記』など)とか、そういった理論家たちが同じグループでした。日本はアメリカによって解放されたんじゃない、占領されたんだ、隷属されたんだって、よく議論していました。それに酔って聞いていたようです。では何で僕が副委員長になったかといーうと、やっぱり大学間の格差があって、委員長が東大生。そうすると副委員長は必ず二人選ぶ。一人は京大生。これはよく分かりますね。もう一人が私大代表で早大生。だからポストがあるんです(笑)。で、僕は機関紙部長兼財政部長になったんです。両方とも名前を出す必要のある立場。いつパクられるか分からないから、みんな名前なんか出したくないんです。ところが、全学連は大衆団体です。機関紙の発行名義人とか財政部長つてのは、名前を出さなくちゃしょうがないポジションなんです。それで、僕だけ「はい、名前出してもいいよ」って言うもんだから副委員長になってしまった(笑)。副委員長なんていうと、オルグに来いとか言われるんだけど、何か上ずったこと言うだけで、ロクなことを喋った覚えがないけどね。ただ僕が多少なりとも誇りにしているのは、「全学連情報」という週刊の機関紙があって、そこに情勢の分析、あるいは朝鮮戦争とか世界の民主運動の動向とか、そういう記事を載せるんですけど、それを僕が全部新聞の切り抜きでやった。今でもこうやって切り抜きしている癖がついたのは、そのときからです。そういった雑報から世界の民主的な運動の情報まで並べていったことが大きいです。大新聞が大きく載せない小さい記事を並べていくと、結構面白いんです。だから学生新聞のメンバーとしてはよく働いたと思います。ただ、それを理論化するのは人様のやることで、僕はそういった基礎資料を集める役目。この癖は今でも続いてますね(笑)。
ーのちの『原発切抜帖』(82)の方法論の萌芽はそこまで遡るのですか。
土本 そうですね。また、全学連の財政は大変でね。今だから言えますが、書記局員のだれかが、親父のポケットから金を盗んできて、機関紙の用紙代に充てたりしました。活動費のうちで一番大きいのは紙代です。実家が紙問屋の男にトラックで盗んできてもらったり、もう何でもやりましたよ(笑)。だから財政部長としては一応、収支トントンです。地方の大学にも自治会費を集金に行きました。京都大学の自治会には大島渚(映画監督一九三二年~/『日本の夜と露』など)がいたようです。
全学連では僕の、劣等生の意識と、たまたまそこに置かれた副委員長という名称とのギャップに悩みました。英語ができるわけじゃないし、勉強ができるわけでもない。早稲田でも専門部の法科なんていう、一番ー入りやすいところに入って、昭和二十四年に新制大学ができて第一文学部(史学科西洋史学専修)に再入学したんですけど、受験勉強も英語の勉強もしたことがない。もっぱら、耳学問の世界でね。副委員長って肩書きだけ聞けば、いろんなことを期待されるけど、マルクス・レーニン主義なんて本格的に勉強したわけじゃない。僕の原点はロマン・ロラン(作家 一八六六~一九四四年/主著『ジヤン・クリストフ』など)とドストエフスキー(作家ー八二一~八一年/主著『罪と罰』など)とレジスタンス文学ぐらいしかないわけだ。自分で情勢分析することも理論化することもできないし、特に経済なんてまるっきり分からないから、肩書きと実態の、キャップに悩みました。
早大除籍と勘当
ー一九五〇(昭和二十五)年に日本共産党に対するコミンフォルム批判が起こり、日共は徳田球一・野坂参三らの主流派(所感派)と、志賀義雄・宮本顕治らの反主流派(国際派)に分裂します。土本さんは国際派に所属されていたそうですが、全学連の総意として国際派ということだったのですか。
土本 そうです。全学連のメンバーの多数は国際派でしたが、都学連というのがあって、そこにはいわゆる所感派がいました。母校の早稲田は四分五裂でしたが、早稲田細胞五百人のうちの三百人ぐらいは国際派だったと聞きました。朝鮮戦争勃発の頃は、学費値上げ反対闘争をしたり、進歩的な教官へのレッドパージ(公職追放)反対闘争を徹底的にやって完全勝利しました。大学の先生に関しては、共産党員だからという理由でパージ(追放)をさせなかった。労働組合はもちろんですが、新聞・ラジオなど言論・報道機関などでレッドーパージを免れたところはありません。これだけは、できる限りのことをしたという誇りがあります。
ーしかし度重なる不法集会の責任を関われる形で一九五ニ(昭和二十七)年に大学を除籍させられるのですね。
土本 文学部の四年までは一応在学したことになっていて、専門部時代から含めて七年いたんですけど、除籍されたときに父親は僕を勘当しました。というのは、自分が高等小学校しか出ていないために、どれだけ能力があっても日本社会ではダメだってことを知っていますから。僕の学歴は父親にとっても夢だったんです。いよいよ僕が除籍ということになって、母親と一緒に当時の文学部長の谷崎精二先生(英文学者)のところに行ったんです。その谷崎先生が「土本君は違う場所でも何か大きなことをやる人ですから、お母さん、大丈夫です」って言うと、お袋はそれを聞いてとても喜んじゃってね(笑)。他方、父親は即刻、僕を勘当です。もう死んだ者として、僕の戒名を白木の位牌に書いてね。自分で作った卵酒の二本のうちの一本を僕に持たせて、「出て行け!」と言いました。それを持って友人の家に向かいながら、親父が大学を出ていないためになめた辛酸を思うと泣けました。その親不孝したと思う気持ちと、でもやっぱり親も含めて大人を信用しないぞっていう思いの間で、ものすごい葛藤がありました。今も心の傷です。
ー父上とはその後どういう関係だったんですか。
土本 親父はもう、息子の記事が新聞に出りゃいいんですよ(笑)。たまに新聞に出るもんだから、最後は満足して死にました。親父は東北電力の東京支社長で定年を迎えたんですが、その後も子会社へ行ったりしていました。僕はたまたま『海盗りー下北半島・浜関根ー』(84)で東北電力の原発プロジェクトを追及したもんだから、会社の人を通じて親父に「息子を黙らせろ」っていうサインが来た。でも、親父は「やることは長年やってきました。もうできません」って言って断ったそうです(笑)。
3 山村工作隊と牢獄
身近に見た東宝争議
ー土本さんは一九四六~五〇(昭和二十一~二十五)年の東宝争議を間近で体験していますか。
土本 もちろんです。東宝の砧撮影所の近くに住んでいたので、一住民としても様々な局面を目撃しました。例えば一九四八年の第三次東宝争議の、それこそ「来なかったのは軍艦だけ」っていうときはさすがに殺気立ちましたけど、そこに至るまでは結構芝居がかっている感じもありました。人気スターたちは大河内傳次郎(俳優)と一緒に東宝をすでに離れていましたが、戦後になって入ってきたニューフェイスの若い役者たちと、現場のキャメラマン、照明、美術、それからもちろん監督、こういった人々が中心になっていました。この「芸術家グループ」の団結が強かったですね。
撮影所なんてめったに入れないところでしょ。だから、「近所だから来い」なんて言われればホイホイ行くわけ。そうすると、さすがにみなさん役者でね。照明さんが広場にスポットライトを当てて、肌も露わな日劇ダンシングチームが踊ったり歌ったり。それから、何よりも岸旗江とか久我美子とか、当時の人気女優がまったく平然と僕ら一般人と肩を組むわけ。だから毎日なんか盛り上がって楽しくてね(笑)。そういう演出がうまかったですね。古き良き東宝の名残がありながらストをしている時期は、妙な解放感がありました。
ー近所には多くの映画関係者が住んでいたのですか。
土本 ええ。うちの隣が、因縁浅からぬ岩波映画製作所の吉野馨治さん(プロデューサー 一九〇六~七二年/『雪の結晶』など)。垣根の向こうは女優さん、向かいは美術さん、裏に山田典吾(映画監督一九一六~九八年/『はだしのゲン』など)、突き当たりが横山運平(俳優)。で、ちょっと行くと藤田進(俳優)、山形雄策(脚本家)、信欣三(俳優)と赤木蘭子(俳優)。それから「寅さん」の”おいちゃん”役の下條正巳(俳優)。だから、いま役者になっている息子(下條アトム)さんの赤ん坊のころを知ってますよ。そういう映画・演劇人が地域にたくさんいて、こっちが「演劇とはどういうものですか」なんて訊くと、少しも嫌な顔をせずに話してくれたっていう時代でした。
小河内山村工作隊ヘ
ーさて一九五ニ(昭和二十七)年に早大を除籍になった直後、日本共産党の小河内山村工作隊に加わった経緯を教えてください。
土本 僕は日本共産党の非主流派・分派である「国際派」に属していました。一九五一(昭和二十六)年以降に主流派の「所感派」が実権を握り、同年十月の「五全協」で中国共産党から直輸入された、いわゆる武力闘争路線が採択された。僕は翌年早大を除籍になり、主流派のほうに戻る過程で、国際派であったことを自己批判したけれど、「自己批判の仕方が非常に浅い。山村工作隊で鍛えて来い」と言われて、五二年六月末に東京の果ての、小河内村(現・東京都奥多摩町)の根拠地に入りました。
ーその経緯を土本さんご自身の文章から拾ってみましょう。
「当時小河内では、三多摩の軍事基地へ水と電力を補給する多目的ダムの建設がおこなわれており、”村長木村源兵衛は、都下屈指の山村地主、製材業者で、安井都政への資金提供者として、村を支配している。この根を断ち切ること、彼を打倒すること、山村を解放し、ダム建設を阻止することこそ、自民党売国内閣を打倒し、アメリカ帝国主義の占領に反対することだ”という論理が語られていた。/ダム建設を請負った西松組には、すでに同志が潜入しており、内部から破壊工作をする、「軍事」は別に山に入りこみ、拠点設定をしている、と教えられた。」(土本典昭「「小河内山村工作隊」の記」、『映画は生きものの仕事である』、未来社、一九七四年、一〇〇~一〇一頁)
土本 今ではダムの下に沈んでしまいましたが、岩の下の隙聞が八畳あるという大きな岩があり、八畳岩と言われていました。その岩場に藁を持ってきて、十五人で雑魚寝しました。せせらぎにしゃがんでウンコして、同じ流れの水で飯を炊いて(笑)。飯といっても麦八対米二の薄いお粥です。
そのときの仲間に面白い人たちがいました。勅使河原宏(映画監督・華道家 一九二七~二〇〇一年/「砂の女」など)と山下菊二(画家 一九一九~八六年/「あけぼの村物語」など)、僕と同じ年頃の桂川寛(画家 一九二四年~/安部公房の小説の挿絵で知られる)です。彼らの役割は、ガリ版の機関紙「週刊小河内」に版画を刷り入れることでした。彼らも「革命的な芸術家になるためには山村工作隊を経験すべきだ」という一種野蛮な教育主義のもとで派遣されてきたのですが、それを一身に引き受けていましたから、お互いに愚痴を言ったことはなかったですね。
その後、勅使河原の僕に対する友情は厚かったですよ。ホントに金に困っていたときに助けてくれたし・・・。後年、アメリカの女性作家が勅使河原についての本を書くんで、取材すべき人を教えてくれと勅使河原に訊いたら、「まず土本に僕のことを訊いてごらん」と言ったそうです。で、その人が「勅使河原さんとはどういうご関係ですか?」っていうから、一緒に共産党の山村工作隊をやりました」って言ったら、びっくりしていたけど、勅使河原としては、そういうことを話してくれる僕の存在が好都合なのか、やはりうれしいのかね。共通の原点としては山村工作隊。その後、国際的な監督になり、蒼風氏亡きあと草月流の家元を継いだ彼と僕に、他に何の接点もない。お花も映画も。あるのは山村工作隊だけ(笑)。
彼と付き合ってると、僕なんか面喰らってばかりでしたよ。例えば彼が家元として盛大なレセプションとかやるでしょ。そんな場にも招待してくれるわけ。ずっと格の高い小林正樹(映画監督一九一六~九六年/『東京裁判』など)と並んでテーブルにつかされるー。もう迷惑至極ですよ。まったくの別世界。ずーっと別世界(笑)。だけど、山村工作隊の青春を送ったことをないがしろにしてない感じがして、彼は好きでした。
ー山下菊ニ画伯の方は、後に野田真吉(映画監督一九一六~九三年/「忘れられた土地」などのドキュメンタリー映画『くずれる沼ー画家 山下菊ニ』(76)に登場していますね。
土本 ええ。山下さんは不思議な人でね。PR映画の世界で美術を担当して、セットのホリゾント(背景)を描いていた人です。だから、時どき東宝にいくとセットの現場で会いました。僕が羽仁進監督の『彼女と彼』(63)に編集で加わったとき、羽仁さんと清水邦夫さん(演出家・劇作家一九三六年~/『タンゴ・冬の終わりに』など)のシナリオに、突拍子もない人物が書き込まれてあったわけ。犬を連れてバタ屋をやってる、楽天的で不思議な男の役なんだけど、俳優ではぴったりの人が見つからなくて、それで僕は「彼しかいない」と思って山下さんのところへ行って、「三カ月で三十万円ギャラ払うから、出てくれ」って口説いたら、喜んで出てくれました。芝居っ気はまったくないようでその役にまじめに成り切って、実に味のある人物を演じてくれ、ベルリン国際映画祭で主演男優賞の有力候補になったそうです。羽仁さんの話ですが・・・。
野田さんは野田さんで付き合いがあったから、彼の映画『くずれる沼ー画家 山下菊二』をお撮りになったんでしょうけど、僕は彼を撮ることは思いつかなかったですね。多分親しすぎてでしょう。
ーご自身の文章で、小河内の農民にはじきとばされたと書いておられます。
「小河内村民は、半年以上の工作にもかかわらず、胸を開こうとはしなかった。闘争は自慰的に空転していた。(中略)私はどこにいっても、農民からはじきとばされた。はじけさせたのはおたがいの皮膚感覚であった。それでも村民向けのガリを切り、版画グループが中国ふうの版画をそれに刷り入れ、配布する。それを日課として十日近くたった。」(前掲書、一〇一頁)
土本 まったく相手にされないですよ(笑)。岩場で寝起きして、トカゲやヘビを血眼で追いかけて焼いて食っているような連中が、まともなものを食っている農民をオルグしに行くわけだから、これは相手にされないよね。逆に僕らの食いものがひどいってことを農民は知っていますから、時にはうどんをご馳走になりました。八王子警察に捕まって、漬け物と魚のはらわたの煮物が入った弁当を食えたときは正直、うれしかったです(笑)。そんなもの、ひと月かふた月、口にしてないんだから、うまくってねえ。
獄中の記
ー一九五二(昭和二十七)年七月に小河内事件に連座して逮捕されたのですね。
土本 僕は、『朝日ジャーナル』(一九七〇年三月六日号/前掲書引用論文の初出誌)にも書きましたが、山村工作隊の方針には徹頭徹尾反対だったんです。小河内ダム建設の飯場を襲撃して火を放つという方針でね。僕は「火を放つというけど、どうやって放つんだ」と言ったら、パイプ印のマッチ箱を一人一箱ずつ渡されて、「これでやれ」って。「火は点くかもしれないが、こんな闘争にどうして小河内村民や飯場の労働者がわれわれに対して支援するんだ。支援するはずがないだろう!」と反論すると、「しかし京浜労働者三千がすでに多摩川を渡った」って言うんです。まっ赤な嘘です。また、こうも言うんです。「軍事専門の部隊はすでに崖の上で待機していて、警官隊が立川・八王子方面から来たら、岩を落として彼らの前進を止める。そしていよいよ放火でダム建設が阻止される」って。みんな僕らの決起を助けるように動いているって。そんなの全部嘘なんだけど、そう言うわけです。結局、僕は多数決に従わされる形で反対意見のまま闘争に参加し、おまわりを殴って逮捕第一号となりました(笑)。
ー獄中ではどのような生活だったのですか。
土本 五カ月間、八王子少年医療刑務所に入ったんです。三度三度飯を食えて幸せでした(笑)。裁判自体は妙な裁判で、山村工作隊で僕は微罪なんです。おまわりを殴っただけの公務執行妨害だから。そんなものは名前さえ明かせばすぐ出られるんですけど、完全黙秘の原則で住所も名前も一言も言わなかったために、検察当局も僕を出したくても出せないんです。お袋が学友と一緒に面会に来るでしょ。ところが「息子」と呼べないんです。息子って言えば、お袋さん経由で僕の正体が分かつちゃう。だから部屋の番号で「十番さん」ってお袋は僕のことを呼ぶ。僕もおかあさんとは呼べない(笑)。だから刑務所の看守たちも呆れ返っていたね。
牢屋に入りながら、どう考えてみても、自分の工作隊に対する疑問は正しかったし、党の方針は明らかに間違っていると考えたので、獄中では悶々と悩む、実に惨憺たる生活だったわけです。それでも完全黙秘は当然すべきだと思っていたから、下手すりゃいつ世の中に出られるのか分からない、自分は職業革命家としてどう生きていったらいいのか、そんなことを考えました。当時はたいへんな就職難で、大学を出てもろくすっぽ仕事がないときに、僕は札つきの共産党員で、全学連の前副委員長。仲間の中には党員でありながらそれを隠すこともできる人もいたのですが、どうしても名前を出さなければならない表舞台の人間は、本人の了承の上で名前を出すという党の方針があった。僕は全部表舞台に名前を出して活動した人間なんです。ーそうすると、それは公安やGHQにとっては徹底的に叩いていい対象であることを意味します。だから就職口なんてありっこない。だからといって小説家になる才能はないし、何の芸もないから、ただひたすら職業革命家になるための修行みたいなものを獄中でしました。
ー猛烈に読書をしたそうですね。
土本 それしかやることがないからね(笑)。その頃にやっと毛沢東(政治家・思想家 一八九三~一九七六年/中国共産党の創立メンバー。主著『矛盾論』など)、レーニン(政治家・思想家 一八七〇~一九二四年/ソ連の建国者。主著『国家と革命』など)、それからトルストイ(作家 一八二八~一九一〇年/主著『戦争と平和』など)とかドストエフスキーを乱読する機会がありました。毛沢東の『矛盾論』は全編からだに浸透したけど、マルクス(哲学者・革命家 一八一八~八三年/主著『資本論』など)は共産党宣言』を読んだくらいです。『資本論』は経済学の数式が出てくるともうダメでした(笑)。(びっしりと文字の書かれたノートを見ながら)みんなの差し入れてくれた金で大学ノートを買って、カレンダーがないから自分でカレンダーを作って、一日終わるごとに日付を消していったんです。ノートには「マッチ箱を渡されて放火しろと言われたことに反対したのに、決まったあとは率先猛進して最初に捕まったんだけど、その脈絡がつながらなくて口惜しい」とか、そんなことばかり書いてあります。僕の考えた暗号文ですから官憲には読めない。それから、恋人がいたんだけど、本名を隠してるから手紙を出せないんです。だから一人でノートに恋文のようなことを書いている。だけど、裟婆に出たら、彼女はもう他の男のところに行ってしまっていた。どうしようもないね(笑)。あとは読書の記録や、以前に観た映画を思い出して記録をつけています。正味五カ月でノート三~四冊、びっしり書きつぶしました。
それから記憶にあるのは、獄中にいる間に出た『アサヒグラフ』(一九五二年八月六日号)に初めて原爆の被害の写真が載ったんです。それを差し入れてもらって、またまた反米に凝り固まった(笑)。
出所後の裁判と「六全協」
ーどのような経緯で出所されることになったのですか。
土本 そのうち外から秘密めいた文書が獄中に届いて、僕の名前を変名にしろって言うんですよ。それで自分で考えて「矢島近江」っていう名前を作りました。「矢島」は親友の苗字を拝借し、「近江」のほうは好きな作家の小牧近江(作家・翻訳家・社会運動家 一八九四~一九七四年/革命歌「インターナショナル」訳詞者、雑誌「種蒔く人」創刊者)から頂戴してくっつけました。そうしたら、もう官憲は全部知っているわけです、土本典昭という本名を。だけど、まあしょうがないっていうんで、見て見ぬふりをしたんでしょうね。僕の裁判では「被告矢島」、判決も「矢島」なんです。だから土本典昭という男は何ら汚れていない(笑)。一九五五(昭和三十)年に「矢島近江、懲役二年、執行猶予四年」という判決が下りました。これは新聞にも載っています。
ーー九五二(昭和二十七)年十二月に出所し、その後も数年間、裁判が続いたのですね。
土本 政治は冷酷でね。時間の移り変わりとともに、共産党の方針が手の平を返すように変わることを、イヤというほど経験しました。軍事方針下の山村工作隊のときには僕らはヒーローです。だから裁判の最初の頃は傍聴席が満員御礼。ワーッと拍手が起きて、「頑張れ!」なんて声がかかった。ところが公判闘争の途中、一九五五年に「六全協」があって、党が自己批判したんです。「これまでの武装闘争は間違いだった」と。それに伴って裁判支援もストンと落ちて、いっぺんに傍聴者がゼロになりました。一人も来なくなった。で、ある日、一人だけ傍聴していたから、「党員の方ですか?」って訊いたら、「とんでもない!」って言うんです。「中央大学の学生です。法律を勉強しているので、今日は見学に来ました」って(笑)。
僕は「矢島近江」で刑を受けましたが、GHQは土本典昭の名前を記録していたので、映画の世界に入ってからも一九七〇年代の半ばまでは、アメリカと沖縄・韓国などには行くことができませんでした。一つの正義、一つの正しさが瞬時に反転するということを、敗戦のときにも知りましたし、この裁判でも実感しました。バカバカしくて怒る気にならなかったです。むしろみんなで笑いました。「ハハハッ、なんちゅう世の中じゃ」つてなもんでね。党の方針転換はよく分かるわけです、あんな闘争が正しかったはずないからね。でも、党が自己批判するなら、僕らに対してもひと言あって然るべきだけど、当然そんなことは何もなし。「勝手にしろ」というわけ。そして僕たちは誰一人控訴しなかった。控訴なしの裁判闘争なんて、戦後の左翼の運動で見たことないね。でも全員でそれを選びました。貴重な数年を裁判に費やして終わりです。僕は政治は大切なことだと思いますが、カツコ付きの「政治」、つまり政党の方針とか決定にはいつも裏切られてきました。
日中友好協会で働く
ー出所後に日中友好協会(一九五〇年創立)で働くことになった経緯を教えてください。
土本 刑務所から出てきたとき、友人らに出迎えられながら強く思ったのは、今後の人生を職業革命家として生きたいということ。今から考えると硬直した考え方ですが、仕事はないしね、唯一あったのは日中友好協会の臨時の広告係だったんです。固定給じゃなくて、広告を取ってくればそこから歩合が入るという形。裁判がひと月に数回あるでしょ。牛乳配達をやったとしても、その日は配れないわけ。普通は裁判に合わせた働き方なんでできないですよ。「今日は裁判だから休みます」なんて無理。そういう事情を正直に言っても断られないところといったら、要するに共産党関連の団体しかない。で、日中友好協会に入ったということです。新中国を知りたかったしね。月給は三年たっても三千円のままでしたけどね、遅配はあってもそれに不足はありませんでした。
広告取りのほかに、中国映画の上映会の仕事もしました。一九四九(昭和二十四)年に中華人民共和国が成立しましたが、日本とは国交がないなかで、中国から送られてくる映画を日中友好協会が上映していたわけ。有名な『白毛女』(50)とか、『鋼鉄戦土』(50)とか、新中国初の長篇ドキュメンタリー『准河建設』(50)とか、五、六本しかなかったですけど、字幕を作る余裕はないから、演劇志望の女の子を集めて解説者集団を組織して、台本を渡して解説付きで上映するみたいな仕事をやりました。のちに結婚した山崎悠子は芝居志望の劇団研究生でしたが、ここで働いていました。
ーそこでは刑務所帰りということはあまりネックにならなかったのですね。
土本 むしろ大歓迎ですよ(笑)。実は日中友好協会へ行く前に、牢屋で一緒だった島田君という同志のお父さんの紹介で、大崎にあった品川煉炭の子会社に入ったことがありました。鳥打帽子を被って、ほんとに職工の格好して、こりやもううれしくてね。ところが二、三日通ったら、刑事が社長の部屋に入って耳打ちしてるんです。僕のことを話してるのが歴然と分かるわけ。そのうちに「土本君」って呼ばれて、「君はこの会社を潰しに来たのですか」って訊くんだよ。「とんでもない、僕は労働者になるために来ました」って答えたんだけど、迷惑だって。で、辞めちゃったんだけどね。もうマンガでしたね(笑)。
だから、山村工作隊やって、農民から「帰れ」と言われ、党からも方針転換で捨てられ、労働者になろうと思ってもダメ。それであらゆるアルバイトをやって、日中友好協会に拾われて広告取りをやった。そのうち裁判も終わって、岩波映画の重役の吉野馨治さんから「岩波に来てみるか」っていうお誘いを受けてね。それで臨時雇員として入ったわけです。PR映画の時代になって、岩波映画が相当な人手不足になったので、札ツキでも製作部の仕事に紛れ込めたのです。その意味では、まったく資本主義の子ですよ、僕は(笑)。
4 岩波映画への道
羽仁進『教室の子供たち』にショック
ーお隣に住んでいた吉野馨治プロデューサーとのお付き合いから岩波映画製作所に入ることになったそうですが、その経緯をもっと詳しく教えてください。
土本 吉野さんとの付き合いのはじめは戦争中からです。戦争も終盤になると、周りから男手がどんどんいなくなり、僕のような少年と、吉野さんみたいにトウが立った中高年しか近在に残つてないわけ。だから二人で路地の夜回り、夜警を寝ずの番でやることが多かったんです。「今夜、警戒警報が出そうだ」なんていうときとか。何かあったら隣近所の戸を叩いて起こして回る役目。そうすると、普段は口数の少ない吉野さんが、僕には夢見るように映画の話をするんです。今でも憶えているのは、『法隆寺』(43/監督:下村健二、撮影:吉野馨治)という白黒映画の名作があるんですが、それを撮ったときの話で、塔の上に輝く五輪について、「五輪は下から眺めるしかないけれど、当時の職人は横から眺めたんだ」ってね。それで自分たちは「イントレ」っていう台座を組み上げて、五輪に手が届くところまで登って撮影をした、とかね。そういう撮影現場の話を拝聴する関係だったわけ。
終戦後、僕は映画関係に進む気はなくて、もっぱら学生運動をやっていたわけですが、地域では牛乳配達のアルバイトをやったりした。そうすると吉野さんちの牛乳箱の横に(僕のために)飴玉が置いてあるとか、そういう”隣のおじさん”という関係だった。それが変化したのは、僕が日中友好協会に入った頃。空前のPR映画時代が到来、その現場も入手不足になってきた頃に、吉野さんが「きみはすぐには岩波映画に入れられないけれど、きみの信頼する友人を岩披映画に入れるから推薦してくれないか」って言うんです。僕はまだ裁判中であることを吉野さんは知っていましたから。それで、小熊均という早稲田時代からの親友を推薦しました。彼は羽仁進監督に気に入られて、いわば羽仁さん専属のような助監督になりました。それからは小熊君を通じて、羽仁さんの仕事とか岩波映画の情報を得るようになったわけです。羽仁さんの『教室の子供たち』(54)を試写室で観せてもらったのも小熊君経由です。そこで「ワアーッ」と大きなショックを受けました。それから記録映画をやりたくなりましたね。
ー土本さんはそれまでどんなドキュメンタリー映画を観ておられましたか。
土本 実はあんまり観てなかったですね(笑)。子どもの頃の『蝉の一生』(36/監督:太田仁吉)とか、戦争中の文化映画。戦後は記録映画製作協議会が作った『月の輪古墳』54/監督:荒井英郎・杉山正美)、『日鋼室蘭』(55/監督・菅谷陳彦)。これらは日映演(日本映画演劇労働組合)系の作品でした。亀井文夫さん(映画監督一九〇八~八七年/『戦ふ兵隊』など)の映画にしても、東宝争議の頃の劇映画を別にすれば、リアルタイムで観たドキュメンタリーは『流血の記録・砂川』(56)あたりからじゃないかしら。
ー羽仁さんの映画のどんなところに新鮮さを感じたのですか。
土本 それはもう圧倒的にキャメラ重視というか、キャメラで見たものが基本だという考え方。構成やナレーションや筋書きじゃなくて、キヤメラの見つめたものが原点、だということ。従来の映画の文法からいえば、おかしなところもあるけれども、全部それが生きている。そういった点ーで、映画作家として非常に自由で大胆だと思いました。記録映画をそこそこは観ていたと思いますけど、「ごもっとも、ごもっとも」っていう映画ばかりでね。そこへ羽仁さんが登場した。僕は映画を観て「参った!」という感じになったのは、羽仁さんに尽きます。
岩波映画に入る
ーそして、いよいよご自身が岩波映画に入ることになるのですね。
土本 ええ。吉野さんには「そのうち」なんて言われていたんですが、山村工作隊時代の”暴力事件”の裁判も終わった昭和三十一(一九五六)年一月に声がかかり、臨時雇員という契約で岩波映画に入りました。まったく時代のドラマといいますか、あの東宝争議を闘った連中の多くが、そのころには岩波を母体にしてPR映画の製作に携わっていました。
PR映画というのは、まず企業の株主総会用に作るのが目的なんですが、その中で優れたものは劇場公開もできるという状況があった。例えば『佐久間ダム』三部作(54~57/監督:高村武次)とか『日本の鉄鋼』(55/監督:伊勢長之助)などです。企業が満足して、一般公開にも耐えうるという、その両方できる力量を持っていたのが、わずかに岩波映画をはじめ幾つかの会社しかなかったということはいえるでしょうね。
だから予算は潤沢で、スタッフ編成も劇映画並みに大部隊でね。演出部、撮影部、照明部、製作部の人間が、それこそ何十人というスタッフがチームを組んで働いているわけです。だから人材不足もいいとこで、僕のような人間まで「人材」になっちゃったわけです(笑)。
ー最初から監督志望だったのですか。
土本 実は、僕は映画をやるならキャメラマンだと思っていたんです。演出とか編集の能力よりも、キャメラを持たせてもらって対象の解析をしたい。そういうことなら向いているという自信があった。で、吉野さんに「僕はたぶんキヤメラマンに一番向いているから、そっちのほうでお願いします」って頼んだんです。ところがキャメラマンというのは、大学なんか出ないで専門学校を出てすぐから修業する人が多いんですよ。鈴木達ちゃん(達夫、撮影監督一九三五年~/『とべない沈黙』など)なんか、十八歳くらいから岩波で始めてるしね。片やそのとき僕はもう二十八歳ですから、吉野プロデューサーに言わせれば「きみは、年齢からみて、とてもじゃないけど無理だよ」つてなわけ。それなら演出か、と思ったんだけど、周りをみると、黒木和雄(映画監督 一九三〇~二〇〇六年/父と暮せば』など)、羽田澄子(映画監督 一九二六年~/『痴呆性老人の世界』など)、時枝俊江(映画監督 一九二九年~/『夜明けの国』など)、みんな二十歳そこそこで映画にかかわって岩波で一本立ちしている。二十歳代の七~八年の遅れって大きいですよ。だから演出は厳しいか、と思っていたら、吉野さんが「そうだ、きみは全学連を引っ張った男だから、製作がいい!」って言うんです。「オルグと製作の仕事はまったく同じだよ」って(笑)。だから、僕は監督コースには全然予定されていなかったわけ。
吉野さんは最高幹部(常務)で人望のあった人でした。僕の睨んだところでは秘密党員じゃないかと思うけど、僕に「共産党の活動はするなよ」って言うから、「しないわけにはいきません」って言い返したら、「じゃあ、目立たないようにやれ」って(笑)。
ー岩波映画入社の頃に結婚されていますが、奥様(悠子氏・故人)の父上の山崎謙太氏は『ハワイ・マレー沖海戦』(42/監督:山本嘉次郎)などの脚本家として知られた方ですね。
土本 岩波に入ってすぐ結婚しました。彼女と知り合ったのは、日中友好協会で中国映画を上映していたときに、さっき触れたように女性の解説弁士のグループの一人だったんです。字幕を付けないかわりに、彼女たちが観客の前でマイクを握ってそれらしく解説するわけ。彼女は演劇志望だったから喜んでやっていました。それで、生活が安定したら結婚しようと言っていたから、岩波に入るのと結婚が同時だったんです。彼女の父親の名は知っていましたが、付き合う三年くらい前に亡くなっていました。母親ももっと早く亡くなっていました。彼女の身寄りは二、三歳下の弟、だけでした。戦犯映画といわれる映画を作って、戦後苦しんだ父親を見て育っていますから、僕が生活のためとはいえ、気の向かない作品をやるのは許しませんでした。これは大きかったですね、僕にとってはー。
ー臨時雇員として岩波映画に入社というのは、どのような契約だったのですか。
土本 映画一本ごとの雇用契約。だからいつでも辞めさせられるし、僕としても辞められる。どうして臨時雇員という言い方をするかというと、正社員とは別に契約社員がいて、その契約社員の下の格に臨時雇員というのを置いたからなんです。でも、臨時雇員というのは、多分僕一人だったと思います。
いきなりの現場と先輩たち
ーすぐに現場へ行かれたのですか。
土本 ええ。いきなり「鉄の現場に付け」と言われて、九州の八幡製鉄所で撮っていた伊勢長之助監督『新しい鉄』(56)の製作進行を担当しました。そのときは実は内心忸怩たる思いでした。というのは、職業革命家として生きるにしても、「映画の仕事くらいは覚えておこう」という気持ちがあったから岩波に入ったんだけど、いきなり巨大資本の企業PR映画でしょ。キャメラマン、助監督、照明部には党員の人も入っていたんですが、そういう人たちがPR映画を作っている。党とか運動とかの話が出るのかと思いきや、お互いまったくそういう話はしない。「あれ?」っていう感じ。スポンサーは横柄な態度なのに、現場の製作部関係の人たちは腰が低くて情けなかったです。まあ当時の企業が映画にかけたお金は凄いですよ。今の値段でいえば何億っていう金を一本の作品に使ったんじゃないですか。それだけお金をかけるから、当然口も出します。株主総会で株主に見せるんだから。
ー企業や株主を相手に作るという前提がある以上、映画に要請されるテーマは否応なく明瞭なものになりますね。
土本 ええ。はっきりしてました。あの時代は誰もが技術的な発展とか、資本の近代化とか、そういう”革新”に関心を持った時代ですから、あるがままに撮れば、それがPR効果を持ちえたんです。ただ、現場で思ったのは、僕としては労働者の人間的な側面にどうしても目がいくんだけど、やはり主人公は工場であり、アメリカから買い入れた巨大な圧延設備なんです。まるで役者を撮るように機械を撮る。労働者は点景にすぎない。瀬川順一キャメラマンも劇映画の手法をとことん利用するわけ。何か感動的なときにはキャメラが女優に寄るように機械にぐっと寄って行く(笑)。それには新しい撮り方、劇映画の手法をどんどん取り入れていましたね。
ー岩波映画の最初の現場で接した先輩たち、すなわち『新しい鉄』の構成の伊勢長之助(映画編集者 一九一二~七三年/『カラコルム』など)、撮影の瀬川順一、演出助手の藤江孝(のちに彫刻家 一九二六~九一年)といった人々との交流について教えてください。
土本 一番大きかったのは瀬川さん。瀬川さんはお喋り好きでした。僕は映画に入るまでは一年に五、六回も酒を飲めればいいという質素な生活だったんですが、岩波に入ったその晩から、食事の前に全員に酒が配られる。次の日もその次の日も(笑)。その世話をするのが僕なんですが、いきなり三百六十五日、酒を飲まされた。酒を飲んでからバーに繰り出す。瀬川さんなんかと一緒に行くわけだけど、そこでの話はひたすら映画、映画、映画。それも「今日はいかにしてあのカットを、ああいうふうに工夫して撮ったか」という類の技術論。僕が面白がって聞くもんだから、彼もどんどん話すわけです。だから映画論ばかり喋っていた。
他方、兄貴分の助監督のチーフの藤江孝って人は本当の芸術家なんです。だから、PR映画なんかに逆上して夢中にならないという確固たる意志があるわけ。もちろんお酒も飲むんだけど、もっぱらフランス行きのために、フランス語の単語カードで勉強しているときが至福の時間、みたいな人でした。僕が、撮影する被写体になる圧延機械なんかの、ちょっと汚れてる部分を一所懸命に雑巾で拭いていると、「土本、ファインダー見たか。そんなところ写らないよ」って言う。映画をよく知っているだけに、新人の僕に対して皮肉に見てたし、PR映画に対して非常に割り切った見方をしていました。やがて一九六五年に彫刻の勉強にフランスへ行きましたけど。彼は日共”分派”の神山派でしたが、最後まで節を曲げない人でしたね。PR映画をやって、フランスに彫刻の修業に行くという目的がはっきりしていましたから、ギャラの要求は助監督クラスで最高額を要求して、貫徹してましたから、立派でしたね。助監督のプロの最たる人でした。
ルーペ論争
ー瀬川さんは『戦ふ兵隊』(39/監督:亀井文夫、撮影三木茂)の撮影助手ですが、当時のエピソードをお聞きになりましたか。
土本 ええ。この映画を実際に観たのはもっとあとですが、瀬川さんはそれこそワンカットごとにイメージできるくらいの感じで詳細に語りました。『戦ふ兵隊』の冒頭に、日本軍の通過した戦場のあとには人々の苦しみが残っているというんで、年寄りや子どもの出てくるシーンがあります。祠で拝んでいる人とか、髪を洗っている農家の女性とか、いろいろなスナップショットが続く。その中の一つに使おうとしたんだろうけど、撮影中に亀井さんが一人の子どもを後ろからガバッと羽交い締めにして、「このアップを撮れ」と三木茂(撮影監督 一九〇五~七八年/『黒い太陽』など)に言った。子どもはもう半泣きになってる。三木さんは「撮れない」と言って、最後まで撮らなかった・・・。
で、その晩から「ルーぺ論争」という有名な論争が始まった。三木さんは、なぜ撮らなかったかという理由を言うわけ。「羽交い締めにしているあなたの手が写っちゃうじゃないか」と言うと、亀井さんは売り言葉に買い言葉みたいなもので、「構わんから撮れ」と応える。「どんな顔でも、編集できちんと俺の思ったとおりになる」と。「前後のつなぎで必ず俺の考えのように、戦場で苦しんでる顔になるはずだから、それは俺に任せればいいんだ。お前は黙って撮ればいいんだ」と。すると三木さんもますますカチンとくる。結局、三木さんは「自分の感情としては、そんな羽交い締めにした顔を、どう撮っていいか分からない」ということで、「撮れない」という結論になる。で、最終的には「亀井さん、あんたはエゴイストだ」「スタッフの気持ちの分からん人だ」と言葉を投げ掛ける。そして亀井さんは反論するんです。「あんたはルーぺの中しか見ない。僕はキャメラのおかれたすべてを考えているんだ!」という意味の言葉をなげかけた。これが「ルーペ論争」とー言われたものですね。瀬川さんは生涯この問題にこだわっていました。つまりドキュメンタリーのキャメラマンはどういう見識を持つべきかというところまで思考を煮詰めていた。僕にその話をしながら、「亀井さんの作品はドキュメンタリーじゃないと思うけど、どうか」って尋ねるんです。それに「そう思うが・・・」とか、「映画であれば良いのでは」などと苦しまぎれの返答をしていたけど、僕はドキュメンタリーを考える訓練を重ねていたと思う。
5 『年輪の秘密』から『不良少年』へ
影響を受けた映画
ー戦後どっと入ってきた外国映画、特にイタリアのネオレアリズモ作品などはご覧になっていましたか。
土本 ええ。当時のイタリア映画は別格でした。あと、意外かもしれないけど、僕は戦前からのフランス映画が好きなんです。獄中でそれまで観た映画を片っ端から思い出して感想をノートに書き留めたけど、フランス映画が多かった。ジュリアン・デュヴイヴイエ(映画監督 一八九六~一九六七年/『舞踏会の手帖』など)が大好きでね。『地の果てを行く』(35)とか『旅路の果て』(39)とか。あと、マルセル・カルネ(映画監督 一九〇九~九六年/『北ホテル』など)の『天井桟敷の人々』(45)とか、ジャン・ルノワール(映画監督 一八九四~一九七九年/『ゲームの規則』など)の『大いなる幻影』(37)とか、面白くて夢中になりました。それに比べるとアメリカ映画はちょっと苦手。監督の演出術なんかに注目してみていく癖がついていれば、やれジョン・フォード(映画監督 一八九四~一九七三年/『駅馬車』など)が面白いとか、ヒッチコック(映画監督 一八九九~一九八〇年/『サイコ』など)が面白いとか、いろいろあったと思いますが、僕はどうしても中身というか、人間のドラマのほうに関心が向いちゃうんで、もう一つ乗れませんでした。
イタリアのネオリアリズモは日本の映画作家、特に独立プロの人たちに大きな影響を与えました。今井正(映画監督 一九一二~九一年/『青い山脈』など)にしても、亀井文夫さんの劇映画にしても、東宝を辞めて資本とのしがらみがなくなって、自由に作り始めてからの独立プロの映画はダメでしたね。亀井さんの劇映画は、『女の一生』(49)とか『無頼漢長兵衛』(49)とか『母なれば女なれば』(52)ですが、左翼臭が強くて見ちゃいられない(笑)。つまり、自由である反面、突き詰めたものが感じられなくて、大衆迎合というか左翼ポピュリズムにすり寄ったような映画で、僕は好きではなかったです。
ー中国の革命映画はいかがでしたか。
土本 (日中友好協会の)仕事で上映会に立ち会って、『白毛女』はそれなりにひたむきなものがあったけど、他のいわゆる”建設記録映画”に見るべきものはなかったように思いますね。ナレーションが公式的でね。
初めての演出
ーさて、岩波映画の新人としてPR映画『新しい鉄』の製作進行を経験され、翌一九五七(昭和三十二)年には長女(亜理子氏)が生まれ、岩波は一応退社という形でフリーランスの立場になられる。そして一九五九(昭和三十四)年にテレビ・ドキュメンタリーの演出を手がけられていますが、このあたりの経緯を教えてください。
土本 会社は僕を演出家に育てようという意図はまったくないことは歴然としていました。だから、昭和三十二(一九五七)年頃から岩波にもテレビの仕事が来るようになって、「土本にも(演出を)やらせてみようか」となったときは、これ幸いという気持ちで『年輪の秘密』を何本か演出したというわけです。PR映画と違った回路の仕事でしたからー。
ー『年輸の秘密』シリーズは、岩波映画が制作してフジテレビが放映した番組ですね。
土本 そうです。岩波が本格的に始めたテレビシリーズは二つありました。一つは『たのしい科学』という科学番組のシリーズで、僕はそちらとは無縁でした。もう一つ岩波がレギュラー番組として制作したのが、日本各地の伝統芸能とか伝統工芸を作る人を紹介する『年輪の秘密』シリーズ。当時は映画至上主義ですから、テレビなんてのは”電気紙芝居”なんて呼ばれていて、紙芝居なら誰がやってもできるだろうから、定評がなくても若い人を起用しよう、ということだったと思います。
ー『年輪の秘密』シリーズ中、「出雲かぐら」「久留米がすり」「有田の陶工たち」「博多人形」(以上、59)、「江戸小紋と伊勢型紙」「糸あやつり」「京のたべもの」(以上、60)を演出されていますが、撮影隊は何人くらいの規模で、撮影期聞は何回くらいだったのですか。
土本 現場スタッフ編成は三人でした。演出とキヤメラマンと助手。音響関係は演出家が自分でやるし、助監督もいない。要するに今のテレビとあまり違わない編成です。撮影日数は三日から一週間くらい。使えるフィルム(十六ミリ)は三倍と決まっていたから、番組が約三十分として、九十分くらいは回せた計算になります。あらすじは企画者が書いてくれましたけど、現実には出演者へのアプローチから何から何まで演出家がやりました。なにしろ非常に短い時間で作らなくてはいけなかった。これが有り難かったのは、伝統芸能や工芸に携わっている人間を撮影することができるわけです。被写体はその道の達人ばかりだったから、勉強になりました。言い換えれば、そういった仕事が僕には有り難いと思われるような状況だったんです。つまり、僕のようなキャリアのない奴は会社で何をやらされるかというと、スポンサーである鉄鋼会社や家具会社など、いろいろな会社の株主総会用やユーザー向けに、十五分の宣伝映像を作るとか、いわゆる助監督の立場でありながらまだ監督になれない階層の人がそれに動員されるんだけど、僕なんかもしょっちゅう動員された。それに対抗するには、他の仕事をやっていればいいんだけど、他の仕事がないときもある。
だから、テレビであっても、こういった人間を撮れる、少なくともそれを一般の人が観てくれる、そういう作品を作れるというのは、ものすごくうれしかったです。このシリーズを羽仁進さんも観ていて、その流れで羽仁さんに引っ張られて『不良少年』(60)につくことになったんじゃないですかねえ。
ー『不良少年』にいく前にお訊きしたいのですが、土本さんが初めてこれらのテレビ・ドキュメンタリーを演出された一九五九(昭和三十四)年という年に、NHKが水俣病を扱った初めての番組を放映しています。『日本の素顔 第99集 奇病のかげに』ですが、当時そのことはご存じでしたか。
土本 全然知らなかったです。そもそも家にまだテレビがありませんでした。だから自分の演出した番組も家では見ていません。貰い物のテレビが家に入ったのは昭和三十六(一九六一)年。子どもが欲しがるようになった頃です。
『不良少年』に演技指導する
ー羽仁さんの『教室の子供たち』を岩波映画に入る前にご覧になって感銘を受けたというお話を前に伺いましたが、いざ岩波に入って経験されたPR映画の現場と、同じ岩波でも羽仁さんの現場とは、かなり違っていたのではないですか。
土本 まったく違いましたね。『不良少年』のとき僕は監督補佐という立場ですから、「キャメラマンを誰にするか」といった企画の段階から関わりました。羽仁さんは今までにない映画を作りたいという意欲があって、僕も入れて毎日談論風発でね。彼は当時フランスのヌーヴェルヴァーグに非常に感銘を受け、映画は実に自由なものだという信念を持っていて、それを自分の映画で実現しようとしていた。だから、出演者は全員素人でいきたい、実際に少年院に入ったことのある少年たちでやりたいと言うんだけど、彼らの演技指導は土本の仕事だっていうわけ(笑)。
出演者はみんな掻き集めの不良少年で個性も強かったから、なかなか言うことを聞かなくて、とても演技の指導なんかできないけど、まあリハーサルを重ねてコツコツやりました。
セリフを覚えさせるのは無理だって分かってるから(笑)、その場の状況で好きに喋らせるという方針。ところが(映像と音声が)シンクロならいいんだけれど、キャメラはシンクロじゃないんですよ。いま言ったことをもう一遍喋れといったって無理なんだけど、いったん撮影したあとで、一応「君は今こういうことを言ったよ」ってフォローして、その場で音声をあとから採るんです。雰囲気が同じうち、”現場の温度”が同じうちに採っちゃうみたいなやり方。アドリブ的な演出というか、少年たちが自分の無意識にあるものを・・、それを最大限に引っぱり出そうというやり方だから、彼らも面白がってやるんですけど、実際は編集の段階で死ぬほど大変でした。コトバを映像に合わせるのにね。でも、いま考えると、あの映画はシンクロでは無理だったでしょう。彼ら勝手に動くんで、マイクなんかどこに置いたって少年たちは自由に動きますから、固定マイクは意味がない。つまり劇映画の録音方法は捨ててかかったんです。それでなきゃできなかった。その点、音合わせとか、編集はキツかったけど、ある意味ではシンクロより自由だったと言える。羽仁さんはこの映画で本当に大胆な実験をしたと思いますよ。
画と声が合わないんで、しょうがないから最後はベテランのアフレコ技術者に来てもらって、口のズレを見てもらいました。そうすると「二コマあげ、三コマけずり」なんて言って、そのとおりに直すと合うんです。だからもっと早くああいう人に来てもらえばよかった(笑)。あの当時のアフレコの人は訓練を受けたすごい技術者でしたね。
リハーサルにしても、”ど突きあい”のリハーサルをやるわけです。僕がど突かれ役(笑)。彼らが遠慮したりすると、羽仁さんが「ダメダメ、君らが普段やってるように」って言うから、だんだん本気になってくる。あれには参った。あと、リンチの練習とかね。まあ、そんなふうにして彼らは、監督が自分たちに望んでいるのは演技じゃなくて、ある種の生の姿なんだということを感得していったと思います。
黒木和雄との出会い
ー『不良少年』の撮影中に、黒木和雄監督と初めて出会われるのですね。
土本 羽仁組が横須賀で撮影しているときに、黒木組もPR映画の『海壁』(59)をやっていた。同じ久里浜が舞台でした。旧将校クラブが宿舎だったんですが、そこの半分を羽仁組、もう半分を黒木組が使っていたんです。そこで僕は黒木と初めて会ったわけ。で、羽仁組のスタッフは対等な友だち同士みたいな雰囲気で、監督とか助監督とかいう感じはあまりなかった。片や黒木は劇映画の助監督をやった時期が半年ぐらいあるから、”映画監督ごっこ”が好きなんですよ、あの人(笑)。監督と助監督の関係はきちんとしていなければいけないとか、助監督には助監督らしさを求めるとか、身に付いたモノがあるから、彼にしてみれば相当 ビックリしたみたいですね。「土本の膝枕で羽仁さんが寝つ転がってた」みたいなこと言うんだよ!(笑)
ー黒木監督はよく冗談めかして「自由学園と麻布中学が仲良くやっていて、田舎者の自分はついていけなかった」みたいなことを仰っていましたね。
土本 まったくもう(笑)。でも、確かに当時の岩波では羽仁組っていうのはエリートの集団に見えたでしょうね。黒木はじめみんながPR映画をやるか、文化映画的な型にはまったものをやっていたときに、羽仁組だけは好き勝手なことをやっているわけだからね。
ー音楽を担当された武満徹さん(作曲家 一九三〇~九六年/「ノヴェンパー・ステップス」など)との接点はありましたか?『不良少年』のギターのテーマ曲は、いまだに演奏される機会の多い名曲ですね。
土本 武満さんはまだ登場して聞もない頃だったですね。彼は最初、虐げられた少年の暗い欝屈みたいな曲を作ったんです。ところが合わせてみると、画の中の人物たちがおっちょこちょいなのに音楽が重くて、うまくいかないんです。で、書き直してくれって頼むのを羽仁さんが自分でやらないで、僕にやってくれっていうんで、武満さんのところに行ったら、怒っちゃってね。もうやめる!ってカンカンです。それを必死に説得して、一晩かけてなんとか収拾しました。最後までやってくれましたね。
ーその後も羽仁監督の『充たされた生活』(62)、『彼女と彼』(63)、『ブワナ・卜シの歌』(65)で編集を担当されていますね。
土本 『不良少年』も僕が編集しましたので、次からは肩書きも「編集」になりました。台本があるからそのとおりに編集するわけですけど、羽仁さんからクレームが出たことは一度もなかったですね。もちろん試写のときに意見はやりとりしますけどね。まあ自由にさせてもらったっていうか。
”伊勢長”の編集術
ーそうすると、編集についても、岩波映画の先輩で編集構成の名人といわれた伊勢ー長之助さんのやり方と、ご自分で会得された羽仁作品の編集のやり方とは、かなり異質なものではなかったかという気がするのですが。
土本 そうですね。『不良少年』というのは実に面白い撮り方をしたと思うけど、スクリプトなんて誰も書いてないし、撮り終わったラッシュ・フィルムと、セリフのメモだけで編集をやりました。ただ僕は、自分で同じものを何度でも観る癖がついているんです。いろんな人の意見も参考にはなるけれど、局自分が観て飽きなくなったら、OK。自分が飽きるようになったらダメっていうのがある。だから、どんな作品でもフィルムが擦り切れるまで観ます。自分が観客になった気持ちで観客の心理を読むことにしました。果たしてこの繋ぎで伝わるだろうか、と。まったくの”我流”だったですねえ。だから編集のコツは何ですかつて訊かれでも、何度も観ることだ、と言うしかない。専門の勉強をしたわけでも、独自の法則を見つけたわけでもないから。ただ、膨大なラッシュを前に、編集室の周りが呆れるぐらい何遍も観ましたよ。
他方、伊勢さんからはカットの長さのコツについて徹底的に教えられました。あるカットを自分なりの長さでOKにしようかと思っていたときに、「そのカット飽きない?」って言われたことがあってね。「ちょっと長いんじゃないの?」って。もう一度観ると確かにちょっと長いかもしれない。で、短く切ったら、「うーん、いいんじゃないですか」ってOKをくれた。僕も伊勢さんもお互いに勘のやりとりです。
伊勢さんは、人間の目が映像を観て「分かった」っていうまでの時間には必ず法則があるというわけ。僕はそれを学びました。だから今でも人の映画で長いカットを観ると、これを長くしていることはどういう意味を持つのかっていうふうに考えます。その答えが次に続く映像の中で展開されてこないと、この人の編集は長いなって思うんです。「カットを長く使うのは、観る人を信用してないからだ」っていうのが伊勢さんの持論でした。観客にとって「もう十分わかった、それ以上はいい」っていうタイミングがあるはずだって言うことです。そこには、観る人の心理を読み取る力と、観客がその画を確実に受け取る時間というものに対する”計算”があるんですね。「映画は人の時間をいただくものだから、余計な時聞をいただくな」とも言われました。一度、伊勢さんの編集ものを観て、コマの処理の仕方を全部調べたことがありますけど、一つ分かったのは、彼は偶数で切るんです。例えば二十三コマでは切らない。二十四コマで切る。あとは分かりませんでした(笑)
ーそれは人間の心理現象として何か論拠があるのでしょうか。
土本 いや、僕には分からないです。だけど、どのコマで切るかというときに、僕もそれを踏襲して一応偶数で切っていますが、気分本位ですよ。
土本流編集術
ー小川紳介監督(一九三六~九二年/『圧殺の森』など)も、伊勢さんの編集法を「卜ントンパツ」とか「チョンチョンパツ」と言って表現していましたが、どちらかというと否定的なニュアンスだったような気がします。うまさに関してはもちろん認めるけれども、自分の映画術との兼ね合いでは否定的な対象であると。土本さんはプラスのほうの影響を受けたという印象でしょうか。
土本 ええ。とっぷり伊勢さん編集に浸っていました。一方、小川ちゃんは、もうテレビでは当り前になっていた、長回しの手法をまさぐっていました。で、シンクロ・長回しのできない手持ちキャメラを何とか長回しできるように工夫をしていましたね。
七〇年代の半ばでしたか、当時の小川プロは二班のスタッフに分かれて、「三里塚」シリーズをやりつつ、横浜のスラムを舞台にした「どっこい!人間節ー寿・自由労働者の街」(75)を奥村祐治君(撮影監督 一九三五年~/「さらば夏の光」など)のキャメラで助監督を抜擢して湯本希生君の演出でやっていました。こっちの寿町の記録は、全篇、労働者のインタビューですから、シンクロ・長回しで撮って欲しかったろうけど、奥村君のほうには三分足らずしか回らない百フィート巻きのキヤノン・スクーピックしかあてがなかった。でも、せめてあと一分でも長く回せたら、その分いい話がとれるかもしれない。四百フィート巻きのエクレールなんかは十一分くらい撮れるんですが、この奥村君のほうのは、やっと三分なんでインタビュー撮影には辛いんですよ。一寸しか回りませんから。で、どうしたかというと、四百フィート巻きを切って三本にした。つまり通常百フィートしか巻かないリール状のスプールに百三十フィート以上を巻きつけたんです。これなら四分は回せるという、誰も考えつかない工夫です。これにはびっくりしましたね。
長回しというのはシンクロの時代になってから効果的な技法になったわけですが、非シンクロの時代は、キヤメラマンが厳密な狙いをたてて撮影した素材を、編集者がやはり厳密な狙いをもって扱うということで、互いに丁々発止とぶつかっていたわけです。そうすると、そのカットの意味がどこで観客に確実に伝わるか、どの長さで切るかということを、やはり非常に重視します。いいカットだと、つい長くしたくなるんだけどね。だから、伊勢さんの言うとおりに繋ぐと「あーっ、もうちょっと観たい」というところで終わるんです。そのかわり、名残り惜しいカットの印象がむしろ強烈に残るということが彼のテクニック、それが伊勢編集術だったんでしょうね。
だからでしょうか、このカットをもうちょっと長くしようか、と思うことは僕にはなかったですね。ただこんなことがありました。羽仁作品の編集でした。あれは、左幸子さんが主演女優だったから『彼女と彼』のときかな、左さんが「主演のスターのカットの繋ぎはね、もっと長くするものですよ!」って言うんです。「脇役のカツテイングはそれでいいけど、主役のカットの場合はね、もうちょっと長くするもんです」って。「そうですかねー」と答えていたけど、そうはしなかった。ただ、長いスターシステムの歴史の中で、スターシステムの映画の編集には、そういう工夫もあったんかと妙に感心したものです。
そういえば羽田(澄子)さんがうまいこと言ってたけど、「自分のお腹にストンと落ちたときが編集が終わるときだ」ってね。まったくそうだと思いますよ。若い人に編集について訊かれると「ナルシシズムが一番怖いよ」って答えています。
ー『不良少年』製作の時期はまさに「六〇年安保」と重なっていますが、どのような立場で関わったのですか。
土本 岩波の中で、羽田さん、時枝(俊江)さん、藤江(孝)さんたちの共産党(細胞)のグループといろいろ議論したのを憶えています。『不良少年』を作っている最中に並行して安保闘争が起こっていて、羽仁組はずっと横須賀に滞在していたので、東京の集会にはほとんど行けなかったんです。で、闘争の本筋とは関係ないんだけど、出演者の少年たちにはかつての知り合いのヤクザがついていて、そいつらが安保闘争の右翼の側に少年らを動員するわけ。だから突然、みんないなくなっちゃうんですよ(笑)。僕が彼らを捜しに行って、連れ戻す役目だったんです。
6 『日本発見シリーズ』と『青の会』
『日本発見シリーズ』でのトラブル
ー『不良少年』の翌年の一九六一(昭和三十六)年からは、岩波映画制作・NETテレビ(現・テレビ朝日)放映の『日本発見シリーズ』を何本も演出されていますね(「三重県」「佐賀県」「大分県」「鹿児島県」「山梨県」以上一九六一年、「東京都」一九六二年)。
土本 これは通称「地理テレビ」と呼ばれていた、各県を紹介する番組でした。これが面白かったのは、清水邦夫さんも入っていたけど、ベテランの企画者たちが調べ抜いて書いた企画書が僕たちに配られて、それを手にして現地に行ったら、帰ってくるまではまったく演出家の自由なんです。だから企画書にはとらわれるけれど、ロケそのものは、すごく自由だった。いろいろと思いどおりにはできなかったけどー。二本オクラ入りになりましたしね。
ーそれはスポンサーのチェックですか。自治体のチェックですか。
土本 スポンサーからです。彼ら、いい勘してるんだ(笑)。僕は「山梨県」と「東京都」が切られました。例えば「山梨県」は、貧しい養蚕の村の話をしたあとで、山梨のシンボルである富士山の麓の忍草(南都留郡ー忍野村)で起こっている米軍演習場の反対運動をラストにもってきたわけ。当時の山梨県の住民にとっては大問題だったので、何もないところをほじくったつもりではないんだけど、さすがにラストが米軍反対、自衛隊反対になって、これは見事にやりすぎて切られた。
それから「東京都」は切り口が難しかった。東京を三十分で描けって言われたら、何らかの切り口がなかったらできないでしょ。で、僕はそれまでにいろいろな地方を撮りながら、どこへ行っても人が”東京へ出て行く”っていう場面に必ずぶつかってきた。昭和三十年代の中頃っていうのは”金の卵”と呼ばれた中卒者の大需要期ですからね。戦争が終わったときに人口三百万だった東京が、その頃ちょうど一千万になった。だから東京はそうした地方の人たちによって作られているというふうに作ったんです。
例えばトップシーンが新宿西口の高層ビルの建設現場で、出稼ぎ労働者が溶接作業しているはるか下に新宿駅があり、車の群れが流れている、みたいなところから語り始めるんだけど、昔からの東京の良さとか何とかっていうことには一切触れず、東京を支えているのは夜間労働者であり、地方から来た人たちであり、そういう人たちの人権もへったくれもない職場で、休み時間には雑魚寝をしながら深夜まで働いているとか、そういう陰のシーンにもキャメラを向けた。ラストはまだ懲りずに東京にやってくる若者たち(笑)。懲りずにってことはないけど、つまりそういう人たちによって東京の活力があるという切り口にしたんです。そうしたらスポンサーが、「世界に冠たる大東京が、地方の人間の寄せ集めで成り立っているというのは、いくらなんでもひどすぎる」って。どこをカットしろっていうレベルじゃなくて、「全部気に入らない」って言うーから、僕には直せませんでした。しょうがないから他の監督(各務洋一監督)が全部作り直しました。
ー黒木和雄監督も同じシリーズを何本か手がけ、スポンサーとぶつかったそうですが。
土本 黒木は「群馬県」と「北海道」をやりましたが、「群馬県」のときに、彼は劇映画が好きだから、ちょうどそのとき黒沢明(映画監督一九一〇~九八年/『七人の侍』など)の「用心棒』(61)が公開されていて、上州気質を解説するくだりにポーンと『用心棒』のポスターのカットを挿入して、つまり群馬はやくざの世界だっていうわけ。で、スポンサーから「これは遊んでる」って指摘されてオクラ入りです(笑)。
それから黒木は北海道電力のPR映画「わが愛北海道」(62)で探めました。黒木は僕らにとって大きい存在でした。というのは、彼は志望がドキュメンタリーじゃなくて元々劇映画志望なんです。で、岩波に入ってPR映画をやりながら、記録映画に対する距離感と劇映画への愛着が非常にあったから、映画は面白ければいいはずとばかり映像的な感覚が飛び抜けて冴えていた。だから会社側の期待するものと違うものを作り上げて、しかも魅力あるものを作るということを実現してきた。ところが『わが愛北海道』は、北海道の未来の可能性をある技術者と少女の出会いに託すという映画なんだけど、そこにベッドシーンを入れたりしたんです(笑)。彼はどこかでこんなシーンはPR映画ではカットされるかもしれないと思っているんだけど、いちおう一所懸命撮るんです。結局これはスポンサーの不興を買ってカットされました。僕や黒木のこういうカット事件の数々が、仲間の危機感に繋がっていきました。PR映画の世界で食っていくんだったら道はあるだろうけど、そこから抜け出そうとする人々が岩波には多かったんです。
PR映画の限界が見えてきたという感触がありましたか。
ー土本そうですね。もう少し詳しく言いますと、自分などはいわばPR映画の水ぶくれ状態のなかでチャンスを得たにすぎないという自覚が僕たちの中に生まれてきたんです。というのは、それまでの大作PR映画の時代が終わってテレビの時代になり、そうなると企業としてはどうやって映画を売るかというときに、大きな志がなくなって、ものすごく小さな志のPR映画ができていく。映画の作り方がひ弱になっていくわけ。そういう状況に対する危機感と自分たちは必ず人員整理されるという危機感が僕をはじめフリーの契約者集団にはありました。何らかの形で自分なりの方法論を持たなくてはいけない。でも、チェックの多いPR映画の現場には、実験ができる場はなかなかない。そのとき黒木は劇映画をはっきりと睨んでいた。僕は羽仁さんの編集をやっている間に劇映画の醍醐味を堪能させてもらったし、まあ劇映画よりもドキュメンタリーをやっていきたいという気持ちになっていました。そう言えば勅使河原(宏)さんにしても松本俊夫さん(映画監督 一九三二年~/薔薇の葬列など)にしても、六〇年代から劇映画に移ったし、いろんな人が記録映画から劇映画へという道をたどりましたね。勅使河原さんなんか、「記録映画だと有名にならないもんな」って言うんですよ(笑)。
「ナルシス」あっての「青の会」
ーそうした状況下で「青の会」という合評会が作られたのですね。
土本 『わが愛北海道』のベッドシーンが切られたり、「地理テレビ」が次々にオクラ入りになったり、そういったことが重なっていたので、合評会の機運は十分に醸成されていたんですが、できれば毎日のようにやりたい、というなかで、昭和三十六(一九六一)年の秋だったか、その場所が新宿に見つかった。歌舞伎町の「ナルシス」というバーなんだけど、仕事が終わるとそこに集まって、ツケで酒を飲みながらみんなで互いの作品を合評することを始めたんです。僕らの問題意識は切実でした。誰からもカットされないドキュメンタリーをどう作るか。カットされる弱みがどこにあったのか。スパッと切られでも仕方がないような隙のある映画の作り方をしていたのではないか。簡単に否定されるような浅いところで映画を作っていなかったか。そういったテーマを率直に議論した。誰にもカットされない、いわば”不敗のドキュメンタリー”とは何か、ということが全員の意識にあったと思います。
そうした映像の力を極めたいという思いが第一でしたから、「青の会」は演出家重視ではなく、キャメラマン重視の集いでした。つまり、キヤメラマンが演出家のいかなるヒントによってこのカットを着想したか、ということを訊くのが僕らの一番の関心だった。だから、「そのとき黒木はどういうふうに撮れと注文したのか」とか、「あなたは監督にどういうふうに言われてこれを撮ったのか」とか、「このときの撮影のフォーカス送りとかピント送りとか、いろいろなことがうまくいっているけど、どういう方法でそれが実現したのか」とか、そういういわばすぐれた映像の生まれ方を根掘り葉掘り訊くことが、具体的にものすごく役に立ったわけ。記録映画だから、映画のストーリーとか、そういう話題にはならない。むしろ映像の喚起力というか、力を持つ画がどうして撮れたのか、その非凡さがどこから生まれたのかを探るという方向です。期せずして、徹底的にプラス志向の議論に終始しました。マイナスを批判しても面白くないからです。
ー「今日はこの作品を姐上に載せます」というふうに始まるのですか?司会者がいるのですか。
土本 毎日深夜まで飲むのが先でやっていました(笑)。最初からはっきり議論のテーマが決まっているわけではないし、司会はいなくて無礼講というか談論風発。ただし、喋らない奴がいるのはけしからんということは決して言わないことにしたんです。喋りたい奴が喋ればいいということで。だから、じっと深く聞いているタイプの人と、それからワアワア喋る人と、大事なポイントになると横からパチンと的確なことを言う人と、いろいろ個性的に分業していました(笑)。
ーどんなメンバーが集まったのですか。
土本 常連は、監督では土本、黒木和雄、小川紳介、東陽一(一九三四年~/『やさしいにっぽん人』など)、岩佐寿弥(ー九三五年~/『ねじ式映画私は女優』など)、あと二人くらいいたかな。それからキャメラマンが凄かったんですよ。鈴木達夫、大津幸四郎(一九三四年~/「水俣」シリーズなど)、奥村祐治、田村正毅(現・たむらまさき 一九三九年~/『ニッポン国古屋敷村』など)、亡くなった清水一彦(一九六五年没 享年三十二歳/『わが愛北海道』など)。彼は天才的なキャメラマンでした。それから録音の久保田幸雄(一九三二年~/『サード』など)、編集の加本悠利代・・・。キャメラマンの技術を研ぎ澄ましてもらいたい要求が強かったから、キヤメラマンが主役の会でした。もちろん僕や黒木は演出家としての意見も言ったほうですけど、とくに僕には記録映画の面白さはキャメラにあるという認識がありましたから、キャメラマンをあおって話を引き出すのに躍起になったー。一番よく喋ってたのは大津さん。逆に、(鈴木)達ちゃんや田村君はほとんど喋らない。毎回深夜まで集中してやりましたけど、誰が会長でもなし、会則もなし。三年続いて終わったときに女将に聞いたら、借金四十万たまってますって(笑)。よくそれまで黙っていたと思うけどね、昭和三十年代の四十万円ってすごい金額でしょう。そうした「場」のあるなしは”運動”にとっては大きいですね。
当時の「ナルシス」は一度記録しておこうかと思ったぐらいユニークなバーでした。僕は瀬川(順二さんや藤江(孝)さんたちによく連れて行ってもらったし、その人脈のおかげで(宮島義勇)さんとも合流して飲みました。あの人はあそこの開拓者みたいな人でした。文壇バーという感じもあって、作家では井上光晴(一九二六~九二ー年/主著『地の群れ』など)でしょ。それから埴谷雄高(一九〇九~九七年/主著『死霊』など)は新宿に行けば「ナルシス」しか行かなかったんですよ。評論家の佐々木基一(一九一四~九三年/主著『私のチエーホフ』など)もしょっちゅう来ていました。詩人では田村隆一(一九ニ三~九八年/詩集『言葉のない世界』など)、関根弘(一九二〇~九四年/詩集『死んだ鼠』など)・・・。今の「ナルシス」は娘さんの代になってジャズ喫茶になっていますけど、ああいう名物バーが少なくなりましたね。
大島渚とゴダール
ーこの頃フランスのヌーヴエルヴァーグ、それを受けて松竹ヌーベルバーグなど、映画の新しい潮流が注目されます。そのあたりの映画はご覧になっておられましたか。
土本 ええ、大島渚の初期のものは観ています。『青春残酷物語』(60)、『太陽の墓場」(60)、有名な『日本の夜と霧』(60)、みんな好きでしたよ。吉田喜重(映画監督一九三三年~/『戒厳令』など)の『秋津温泉』(62)も面白かった。ジャン=リュック・ゴダール(映画監督 一九三〇年~/『気狂いピエロ』など)もまあ観ていますが、あまりピンとこなくて、『勝手にしやがれ』を観て、もっとまじめにやれ、と言いたくなりました(笑)。
ー大島監督とは全学連のときに少し接触があったかも・・・というお話ーを伺いましたが、本格的に面識を得るのはお二人とも映画界に入つてからですか。
土本 まさに「ナルシス」でですよ!大島の名前は聞いていたけど、ちょうど『飼育』(61)を撮るときに、大島組は「ナルシス」を溜まり場にして、(若くして亡くなった)プロデューサーの中島正幸という男が仕切って企画会議をしょっちゅうやっていたんです。まだ「ユニコン」(新宿・御苑街のバー)とか、大島の後年の溜まり場ができる前だったんでしょうかね。それで会いました。
ーすると、同じバーの店内で、片や大島組がミーティングをしていて、片や「青の会」が開かれているわけですか。すごい光景ですね。
ところで、ゴダールへの「まじめにやれ」という感想をもう少しお話しいただけませんか。
土本 いや、口のはずみが過ぎましたが、やたら移動が多い気がしたんです。移動撮影に車椅子を使っていたようですが、観ていて、万事が流れてしまって、凝視することができないので、イラつくんです。僕は移動(撮影)にすごく神経を使うんです。フォローショットとか移動ショットに。つまり、移動の必然っていうか、フォローの必然っていうのが、僕にとってまず念頭にあるんです。『勝手にしやがれ』は移動がやたら多い。ドリー(撮影用移動車)とか車椅子とかを使ったのか、非常にうまいと思ったけど、あの移動の意味が摘めないんですよ。はじめはうんうん頷いて観ていたんだけど、この人は移動で遊んでいるんじゃないかと思ったら、気になって、気になってね。僕にも古いところがあると思うんだけど、移動は非常に感情移入しやすい、肉体的生理に同化しやすい手法だから、しっかりと静止画で人物とか、その表情を観たいっていう欲求があるんです。・・・どうもうまく言えませんが。
その後のゴダール、特に六〇年代後半の『ベトナムから遠く離れて』(67)や『中国女』(67)のあたりはいかがでしたか。
土本 すみません! 観てないです。水俣に根をつめていたときじゃなかったかな。
小川紳介は”映研作家”だ
ーでは、この「前史」の締めくくりのコメントをお願いします。
土本 僕は若い頃のフランス映画体験で、うっとりするとか、血湧き肉踊るとかっていう映画体験は済ませちゃったんです。それ以降ももちろん仲間の作ったものは、どんな映画でも観ますけどね。それに比べて、小川ちゃんはホントに映画好きだった。その点では世界的なカリスマですよ。小川ちゃんと別れたことは辛いです。僕は彼のお墓に行ったときにご家族や親戚や地元の方たちの宴会で言ったんだけど、「小川紳介は世界に冠たる”映研作家”だ」ってね(笑)。ハワイの映画祭に行っても映研をやる、ベルリン行っても映研をやる。どこへ行っても映研をやる、映研だけで映画監督になったという、世界でも珍しい映研作家ーだったと。僕はあそこまで映画に対して情熱的になったことは一度もないです。
映画は”第二義”の道だった
土本 僕は、学生運動から映画界に入るときに「ついに第二義の道を選んだ」って思ったんです。「第一義」っていうのは、自分の全身全霊を注ぎ込んで、幸せな社会を作ろうとして死んでいく無名の人生。実際に革命運動をやる者は、その行動によって命を顧みない生活もあるわけ。だけど映画の道は僕にとって「やっぱり第二義なんだ」という思いがある。「いや、そんなことない」っていう意見は全部分かりますよ。「映画だって第一義の道なんだ」っていう意見は百も承知なんだけど、僕の心理の中には水俣をやってて、「映画は第二義」という思いがしょっちゅうあるんです。つまり水俣で、名前も記録されないで、支援とか運動に関わった人とか、人生の一番大事なときをそれで使い果たした人とか、そういう人たちが「第一義」だと思うわけ。そういう人たちに僕は勝てない。映画を撮った人間の責任として撮り続けることはしたにしても、それ以上のことをやったなんて僕には思えない。そこが僕のよく批判される政治(第一)主義の由縁でしょう。しかし、戦後、学生運動などで摩り込まれたものは消しがたいですよ。
映画人生で楽しかったこと
土本 僕が映画をやっていて楽しかったことは幾つかあるんです。一つは一九七五~七六年にフィルムを抱えてカナダ水俣病のための上映に延べ百十日をかけてカナダを横断したこと。それは非常に楽しかった。楽しいっていうか、「俺でなきゃ、こんなふうに楽しまないだろうな」と思った。それから七七年の「不知火海・巡海映画班」。いわゆる「水俣映画」を観る機会のない対岸の天草や離島の漁民集落を回って、バス停ぐらいの間隔でそこの公民館、それがなければ野外で映写するわけ。テント生活を含めて四カ月。あれは楽しかったし、意味がある。僕の心のどこかにやりたい思いがあったんです。中国の文化大革命の「下放」に託した思いを、こうした映画会でやっているような気持ちだったんでしょうかね。それからこの人(基子夫人)と一緒に、九〇年代半ばに水俣病患者五百人の遺影を一年かけて集めました。僕が運転手と写真家をかねて遺族の家を一戸一戸訪ね、遺影を複写させてもらうー。これはキツかったけど楽しかった。どれをとっても一銭も儲かる話じゃない(笑)。だけど映画生活で楽しかったことは、その三つですね。また追々話しましょう。
ーいよいよご自身の映画監督デビュー作『ある機関助士』(63)に向かわれるわけですが、そこからは章をあらためたいと思います。