ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話 第二章 すべては汽車とともに始まった インタビュー <2008年(平20)>
 ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話 第二章 すべては汽車とともに始まった インタビュー

 1 『ある機関助士』

 トラブル続きの製作

ー『ある機関助士』の企画が成立した経緯を教えてください。たしか直前に「三河島ー事故」を起こした国鉄が、この頃安全性のPRに力を入れていたという話を聞いたことがあります。

土本 三河島事故が起きたとき、あの頃の国鉄は事故に関係なくPR映画の大作を年一本作れる年間予算を持っていたんです。国鉄のPR映画を作るセクションというのは大変なものですよ。それに対してこの映画は、常磐線の有名な一九六二年の三河島事故によって臨時に作ろうということになった企画で、その脚本を書いてみないかと会社(岩波映画製作所)から言われたんです。三河島事故の特徴というのは、運転者(運転士と運転助土)の信号に対する注視義務違反と結論づけられたんです。事故の原因はそういう過失にあると。一部の新聞で労働過重だという論評はあったけれども、メインは過失であると言われている中で、交通安全に努力している国鉄というテーマで撮ってくれというわけです。で、どう考えても、そのときの国鉄の状況で安全がPRできるとは思わない。特に東北へ向かう常磐線は、東海道本線に比べると、新しい安全装置の設置も遅れがちなわけで、だから同じ路線が安全であるという保障はないわけです。少なくとも早急に改善される見通しはないというふうに見ていました。。

ー企画書を書いたのですか。

土本 脚本は何を書いてもいいということだったんだけど、入札に記録映画十七社が参加したので、国鉄は各社に台本を競わせたわけです。そのときに国鉄は、東京から沼津までだったか、その区間の安全停止装置(ATS)が完成するからそれを紹介すると言った。それは列車が衝突しそうな距離になればオートマティックに働く装置です。そういうふうに誘導するから、各社はそっちにロケハンに行ったんです。ロケハンに行けばそれは書くことになるに決まっていますよ。でも僕は大事故と同じ路線で安全を描かなければ趣旨に沿わないだろうと思った。そんな安全装置を採用した東海道線を撮っても駄目だろうと思って、僕だけ「見に行かない」って言ったんです。仕方がないから岩波は他の人がATSを見に行って、僕は常磐線のロケハンに行った。ロケハンに入るに当たって、僕のクセなんだけど、労働組合にまっすぐ行ったんです。
 田端機関区の労働組合。今のJR総連・東労組本部の元委員長だった松崎明っていう革マル系の大幹部がいるけど、彼がまだ現場の青年部の責任者だったわけ。その田端機関区の人々が罪に問われているわけだから、「よく来た」っていうことで、下にも置かないもてなしでね。僕は「機関室に乗りたい」と言ったら「どうぞ」っていうわけで乗せてもらって上野ー水戸間を二往復した。そのおかげで大体ディテールは把握したんです。
 上野ー水戸間を乗ってみて、運転中のたった三分の遅れで機関士たちがどれだけの精神労働・肉体労働に追い込まれるか、そういう事実を隠す必要はないと思ったから、それを基軸にしながら一所懸命に機関車の面白いところを書き込んで、すごい脚本を書いたんです(笑)。すごいっていうのは書き込みが多いという意味。全部それを実現できるように手配するのは国鉄だから、これが受かったら臨時ダイヤを組まなきゃいけないわけ。僕は落ちると思って、脚本代だけもらえればいいと思っていたら、意外にも、僕の脚本がポーンと受かっちゃった!たぶん審査する側も機関車が好きだったんですね(笑)。

ー撮影は順調に進みましたか。

土本 準備の段階ではかなりうまくいったんだけど、現場で打ち合せをしてみるとロケ用の特別仕立ての列車なので、一日一便しか走れない。だから「もう一ぺん」なんて指示は当然できないからワンカット・ワンチャンスしかない。それと、夕暮れ時に走る列車の話なんだけど、秋から冬にかけての撮影で日がどんどん短くなっていくから、光量に合わせて撮る時間を調整してもらわなければならない。そんなわけで、九百万円の予算のはずが、千三百万円くらいの目算になっちゃった。国鉄は「九百万しか出ません」と言うし、岩波は「足が出るのはとんでもない。この台本のままじゃできないからカットしろ」と言うわけ。で、スタッフの経費はぎりぎりでカットできないから、しょうがないから「オレが降りる」と言って一週間くらいふけて雲隠れしたんですよ。仲間のところを泊まり歩いて、会社が連絡取れないようにした(笑)。そうしたら会社も困っちゃって、「何とかするからともかく降りるな」って言うんで戻ったんです。
 結局、僕はヘリコプターを使いたいのに安いセスナ機に変更させられたり、すったもんだの末にクランクインしました。そういった戦い方も、「青の会」をはじめとする仲間には分かってもらっていましたけどね。岩波映画製作所にとって九百万円は少ない予算じゃなかったし、僕も賛沢したわけじゃない。で、最終的にいくらかかったか分からないけど、ちょっと足を出したくらいでともかく撮影が終わったんです。労働組合の線で動いたから、映画に出てくる機関士も機関助士も、仲間には知られている人。特にあの機関助士は水戸地区の青年部長で、台本を見て、これは自分たちの労働の何かを拾い上げてくれる映画だと思ったんでしょう。だから現場は非常に協力的でした。

ー撮影で苦労したのはどのようなことでしたか。

土本 一番大変だったのは機関車の手配。撮影によっては機関車と炭車だけでいいときもあるけど、航空撮影の場合には列車十一輌の頭からお尻までまるまる写つてないとまずい。国鉄当局はそのシナリオに基づいて、一秒とは言わないまでも一分と違わない撮影用臨時ダイヤを組まなくてはいけない。そうでないと追突するでしょ、過密ダイヤの中でやるわけだから。どういうシーンを撮りたいのか、何時にどこの駅を通過するのがいいのか、どんな天候ならいいのか、そういった判断が全部僕のところにくる。これが一番苦労しました。例えば狭くとも炭車の中の撮影はいくらでもアドリブでやれるけど、もっと大きい骨格、列車が動いているという大枠は、少しも変えられない。だから全カット綿密なコンテ表を書きました。安全のPR映画を撮っていて事故を起こしたらどうしょうもないからね(笑)。

 完成後の足踏み

ー完成後、スポンサーの反応はいかがでしたか。

土本 映画が完成したら、その映画を審査して公開のOKを出す第三者の審査委員会が国鉄の中にあるわけ。映画評論家とか映画館主といった人たちが四人いて、そこでチェック試写したんですが、ニカット切れと言われました。一つは、機関士と機関助士が上野から水戸まで行って、水戸駅の休憩所で休んで帰る。そこに僕は、機関士たちの鉄道事故のひやっとする話を耳にして、足の爪を切っていた機関助士が、つい深爪しちゃうという足のどアップを撮ったんです。そのシーンがNG。もう一つは、さあ出発しようというときに、国鉄の若い女性職員が三人揃ってすーっと通る、機関区のすすけたモノクロの世界の中で彼女たちのカラフルな衣装が際立った、その、ニカットを切れというわけ。その理由が「外国では足首は性器を見せるのと同じくらい恥ずかしいことでアル」というのと、「国鉄の女性職員は勤務中あんなに自由に歩いているものではない」だってさ(笑)。実際に歩いていたじゃないかつて反論しても、切れって言うわけ。本当は大騒ぎするほどのカットじゃないんだけど、そのときはもう完全にアタマにきて、またストライキやったんだ(笑)。そうしたら、小川(紳介)ちゃんや岩佐(寿弥)君が”隠れ家”に来て、「土本さん、逃げるんじゃなくて戦わなきゃ!」ってハッパかけられてね(笑)。それで、切れって主張した張本人の委員の家まで乗り込んだりしてー。交渉の末に妥協して、女の子のカットは生かして、足の深爪のほうを、髪の毛を手でいじっているどアップに変えたんです。それでひと月遅れたんだけど、やっと完成しました。ところが上映でまたモメました。
 東京駅の大丸の近くにあった八重洲観光ホールという常設館で上映の予定だったんだけど、その上映が延期になった。というのは、『キネマ旬報』の文化映画欄を担当していた映画評論家某氏が、「これは国鉄の交通安全の映画であるにもかかわらず、非常に怖い映画だ」というようなことを書いたんです。「国鉄の金を使いながらこんなPR映画を作るとは」と言った。彼はPR映画の世界では影響力を持っていたので、それで上映延期になった。結局上映されたのは半年後くらいでしたね。

ーキャメラが機関室に一緒に入っているシーンがあったり、空撮があったり、客席を映すシーンも若干あったり、それから駅の側から列車を撮ったり、かなりバラエティー豊かな構成ですね。

土本 ええ、機関室に入っています。あれは根岸栄君(キャメラマン)と僕の二人でもうスペース的にはぎりぎりです。照明が要る場合には炭車の上です。照明さんは石炭を減らして、炭車からランプを棒につけてやるとか、いろいろ試しました。要するに、炭車は機関車のすぐ後についていなきゃいけないもんだから、空間がないんです。キャメラマンには工夫してもらいました。あと、多くの場合は一日一カットですよ。”踏切を通る列車”というシーンだけでも時刻が決まっていて、そこを通ってもらわなければならないし、ライテイングはきっちりやらなきゃいけない。例えば、機関助士の目で見ていると、どこかの駅を通過する場合に、駅の灯りが車体を照らして、真っ暗な車体がパツと一瞬見えるみたいなことが面白かったから、それを再現したいんだけど、その撮影が大変なんです(笑)。やっぱり一日一カットです、そういうのは。通常の何倍ものライトを、やぐらを組んで車体に当たるようにして、そんな準備に一日かけたりしてね。

ーさっき仰っていたように、休憩時間といいますかいわゆるオフの時間もとらえていますよね。髪を洗ったり野球の真似をしたりとか。最初から全部シナリオに書かれていたんですか。

土本 それもやっぱり当然、働いている時間全部をすくい取ろうということですから。『ある機関助土』の場合、ちょっとPRくさいんだけど、新幹線が登場する時期だから、「あんな新幹線の運転士になりたい」みたいなセリフをあえてサービスで入れたりしてます(笑)。だけどやっぱり、ああいう企業サイドで企画した映画に対しては、労働者意識があればあるほど労働者は構えるんです。会社のために撮っている映画じゃねえかつて。あの当時の労働組合におけるPR映画観っていうのが分かりますよ。だけど、それまでのPR映画とは違うものをめざしていることは、かなり分かってもらえました。その人たちがこれは自分の映画だっていうふうに思ってくれないと、撮影中にも無理言守えないでしょう。

ーそうすると、『キネマ旬報』の批評は批評として、国鉄本体からはOKが出たということだったんですね。

土本 国鉄はね、そういう人に文句を言わせながらも、「君はよく勉強したね」って言うんです(笑)。要するに国鉄の人自身が機関車が大好きなんです。誰もが”誇り”云々よりもー。だから、そこのところでこの映画はできたようなもんです。あてずっぽうで撮ったシーンも多いんですけどね。「よくあそこまでメカニズムを勉強した」とか言われて。そりゃ機関車の本まで買いましたよ。それからいろいろな人の話も聞いたしね。

ーこのときはまだ同時録音ではないですね。でも様々な音がとても印象的です。

土本 同録ではないですが、録音はとてもうまくいっています。のちに大島渚「愛のコリーダ」(75)などの録音をやった安田哲男という素晴らしい録音技師が、撮影の間ずっとついていました。特徴のある音はキャメラなしで一番採りやすい条件で、”音ロケ”といって、音だけのロケーションをしましたから。それは異例なことでした。

ー撮影についてですが、カラーフィルムですね。

土本 カラーフィルムです。ふつう三倍の許容ですけど、これは五倍くらい回したかな。キャメラマンの根岸栄さんの好みでアグファ・カラーです。それがあの鉄の質感を出すのに成功しました。彼とはもう本当に喋りまくってやりました。例えば、彼は空撮を安いセスナ機でやれという会社の要求をOKしちゃったけど、僕はヘリコプターじゃなきゃ撮れないよって言うとか。でも一所懸命やりましたよ。あのキャメラマンも命がけの仕事でしたね。どちらかというと我の強い人だったけど、キャメラマンとしては凄いものを持っていました。
 彼が亡くなる二年ぐらい前に会ったとき、「本当は二カットだけ撮り直したいところがあったんだ」って言うから、「こことここだろ」って言ったら「そのとおりだ」と。思っていたことはまったく同じでした。一つは、走っている列車を空撮のセスナ機でぐーっと回り込んで、機関室をフォローするんですが、そのとき罐曜から炎が上がっていなかったんです。だから真っ暗。「これは失敗だ」って二人でしゃべったんです。もう一つは、上野駅にやっと到着というときに、かなり長いショットで、決めていた止め位置のちょっと手前で機関士が列車を停めたんです、危ないから。以前に御殿場駅でそういうカットを撮ろうとして死んだキャメラマンがいたので非常に注意して、三メートル先で停めちゃったわけ。そしたらサイズに隙聞が出た。要するにキヤメラマンとしては、画面一杯に機関車という画が欲しかったんだと、そのとき彼が言っていた。死ぬ前に会ったら、当時と同じことをまだ言ってるから笑っちゃった。つまりワンカット、ワンカット納得して撮った仕事だったんでしょうね。

ー本作をはじめ初期の作品の音楽は三木稔さん(作曲家一九三〇年1/オペラ『「春琴抄』、映画音楽『愛のコリーダ』など)がいくつか手掛けていますが、これは土本さんの要請ですか。

土本 伊勢(長之助)さんから学んだんです。僕は音楽は全然分からないから。録音の安田さんもあの人いいよって言ってた。そしたら本当に、とても良かったです。でも、『ある機関助士』で作曲家にすまないことをしたんですよ。エンディングに列車が上野から去っていく長いショットがあるんですけど、最初そこに三分くらいのエンディングの音楽を作ってもらったんです。エンディングには音楽が要るという頭があったからなんだけど、そうすると何だかハッピーハッピーに終わっちゃう。成就感が出ちゃって。僕はあの運転の精神労働・肉体労働の痛みをそのまま抱えながら終わりたかった。ナレーションも「本日、特に異常ありません」と、あえて劇的でない感じで終わっています。その一言で、本当は機関士たちは大変な緊張をし続けた時間を経たということを逆に表現しようと思ったわけ。そこの音楽がとても良かったんだけど、何となく「映画を観ました」って感じで終わりそうな音楽だったんで外しちゃった。音楽なしで終わるっていうのは、当時の記録映画の常識ではなかったです。三木さんも「いいのかね?」って心配してくれたけど、初号試写で三木さんが「これは大丈夫」って言ってくれたので助かりました。

 2 『ドキュメント路上』

 都会の”殺虫装置”を描く

ー第二作『ドキュメント路上』について伺います。これは乗り物の映画という意味では『ある機関助士』と繋がっていますが、アヴァンギャルドな手法を駆使している点など、かなり肌触りが遣います。企画の成り立ちについてお訊きしたいと思います。

土本 そうです。違えています。自動車の事故は本人の責任となっています。国鉄の事故のように過密ダイヤという批判はしにくいんですね。この『ドキュメント路上』は、東洋シネマという会社が善意の固まりで僕に仕事をくれた話です。丸茂孝という、東宝で美術監督をやっていた人が東洋シネマに移って、僕を起用してくれた。起用の条件が「自由に作っていい。ただし交通安全が基本テーマだ」というわけ。「どこで見せるんですか」と訊いたら、「自動車免許試験場で免許更新のときに観せる映画です」という。しかし、全国の教習所で観せるとなれば、二~三百本は売れる。これなら商売になるのは当然でしょう。丸茂さんのプロデューサーとしての初仕事でした。彼は「警察庁の交通局長がたまたま昔の同級生で、彼の約束を取り付けたから大丈夫。それに、土本さんはもう乗り物の映画の心得ができているじゃないですか」って言うんです。当時、この種の映画は五十本も売れれば元が取れたので、悪くない話でした。
 ところが僕は自動車の運転を知らない(笑)。参ったなあと思ったけど、「交通安全というより、もうちょっと根本的に、交通事故はなぜ起きるかというような話にしていいですか」と訊いたら、「いいでしょう」と言う。僕の思っていることを提案すると全部「いいでしょう」という返事。「実際に役に立つ映画は作れないし、作らないほうがいいと思っているんですけど、それでいいですか」と言っても、「うん、そういう映画もあっていいよね」と全部OK。プロデューサーとの関係では珍しいですよ。
 シナリオは「青の会」仲間の楠木徳男さんに書いてもらいました。撮影して、ガラッと変わりましたけど・・・。僕の直感では、これは絶対に”役立たずの映画”になると思ったんで、プロデューサーに「映画には、楽しめる映画と、滝に打たれる映画と二種類あります。これは滝に打たれる映画になりますが、いいですか」と言ったら、「うん、面白い」と言うんで(笑)、それで腹を決めた。
 まずキャメラは達ちゃん(鈴木達夫)と組みたかった。その達ちゃんに岩波映画を辞めて専念してもらいたいといったら、彼はあっという間に辞めちゃった。それから久保田幸雄君に録音をやってもらうつもりだった。彼も岩波を辞めちゃったんだけど、すでにプロダクションのほうで契約した別の方がいてね。だから久保田君は失業して、どこかの百貨店で荷積みのアルバイトをしていたんじゃなかったかな。
 そんなこんなでスタッフを組んで、「この映画は締麗な透明ガラスビンの中で虫が知らず知らずに死んでいくように、何百万人という人間が死ぬような空間として都会は存在していることを描かなければ、交通安全も何もない。そういう映画にしよう」と話し合ったんです。「引き受けたからには、PRとしては即時的に役に立たなくても、”いい映画だ”ということだけは残さなければいけない」と全スタッフが意思統一して作った感じでした。

一登場人物はどうやって見つけたのですか。

土本 またしても労働組合へ飛び込んでいったんです(笑)。タクシー・ドライバーの労組の全国組織で日本自動車連盟というのがあったんです。そこに行って「実は警察庁のPR映画を撮るんですけど、協力していただけませんか」と言ったら、みんなそっぽを向くわけ。だけどゆっくり聞いてもらって、「製作費は一千万円以上あるから、それを僕はドライバーのために使いたい。だから、そういう適当な労働組合の強いタクシー会社を教えてくれませんか」と言ったら、「それなら分かった、いいところがある」と言うわけ。青山に、今ストライキして自主管理で会社を運営している労働組合があると。だから社長がいない。そこを推薦してくれた。主人公役のドライバーも選りどり見どりでした(笑)。そのギャラも”実費補償”という形。
 主人公のタクシー・ドライバーは、撮影で拘束されるから稼ぎが減るでしょ。だからそれに相当する分は僕のほうで出すということで納得してもらった。で、彼はまだ独身だったんで、やっぱり奥さんと子どもがいたほうがいいだろう(笑)というわけで、編集助手だった南映子さんを奥さん役にしたんです。彼女のお母さんは黒沢明作品などの編集で知られる南とめさん。南映子さんは僕が岩波に紹介したこともあって、「ぜひ、役者をやってくれ」と言ったわけ。ところが彼女も独り者だったから、赤ん坊に困っちゃってね。で、赤ん坊は、母親と赤ん坊が集まっている、いわばタレント養成所みたいなところから選びました。社長役だけはそういうタイプがいないので、金井大っていう役者を使いました。あとは組合員と相談して役を割り振りました。だからまったく劇映画みたいなものですね。主人公のアパートは、その会社に本当に勤めていたー人のアパートを居抜きで借りました。普通、意識的な労働組合員ほど、いわゆる会社PR映画やCMなどには出たがらないようです。交通事故のたびに新聞に出されて、いわば悪役扱いされている側ですから、拒否反応があって当り前でしょう。それが逆になりましたね(笑)。
 片や警視庁方も、いわばスポンサーの立場に立ちましたから、撮影場所の確保とか、白バイとか、全面協力です。警察庁の交通局長が命令するわけだから、実に自由。警視庁の一階にあった、事故現場に虫ピンを刺した大きな被害図パネルの運び出しも全部やってくれた。だから、PR映画ではないけど、そういうことを最大限利用させてもらい、片や労働組合員の仕事場も全部使わせてもらった。

ーナレーションなし、音楽もほとんどなしというスタイルは初めから決めていたのですか。

土本 この映画にナレーションを入れると意図とか本音がバレちゃうんですよ(笑)。要するに、観てもらって感じるのは勝手だけれど、それを僕の本心でヘタにナレーションを入れるとねえ。

ー交通安全どころか交通事故は必然的に起こるものだ、という映像のメッセージを感じますが。

土本 そうそう、大都会そのものが殺虫装置ですから絶対に起こるもんでしょ。だから、もう画だけでやろうと。キャメラマンの苦心は相当なものでしたよ。道路を横断する人の表情のアップをハイスピードで撮ると、ものすごく悩んでいるような、悶えているような顔になるんです。とにかくキャメラやレンズにこだわって、ミッチェルを借りたり、長焦点の望遠レンズを借りたりしてました。
 撮影の指示はいちおう僕が出しますが、キャメラマンが一番嫌うのは、いわば監督が望遠でいこうとか、ハイスピードでいこうとか、こういう言い方をするとカチンとくるもんなんですよ。こういうフィーリングーでー、ということを言わないとね。俺にはこの人はこういう顔に見えるけど、どう撮るんだみたいに言えば、いろんな方法を考えてくれる。キャメラマンはそういう仕事をしたいんだということは瀬川(順一)さんーとの付き合いで分かっていたわけ。
 一例をあげると、タイヤの目線というやつ。達ちゃんの発案で、タイヤと同じくらいの高さの目線で撮りたいね、なんて話をしていたんですよ。人の目はどうしてもそれ以上の高さになるからね。誰も見たことのないローアングルでなきゃね。じゃあどうしようかつて車輔担当の人と相談して、バンパーのところに人がー座わって乗れる台を作って、太いボルトを突っ込んで体重に耐えるようにしてー。あれは今じゃ絶対に許可下りませんよ(笑)。

 演出か偶然

ー偶然撮れちゃったんですか。

土本 いいえ、お芝居です。全部お芝居(笑)。あの乗車拒否のシーンはプロダクションの人。それから衝突寸前のシーンは、その場で大型トラックの運転手とタクシー・ドライバーに「こういうふうにして、ちょっとケンカしてくれ」と演技指導してます。そのうちに後ろの車が止まって渋滞になっちゃった。まことに申し訳ない(笑)。お巡りが傍にいてね、普通はケンカを止める役でしょ。ところが撮影に協力しているという立場なので、交通整理をしなきゃいけませんね、なんて言って後ろの渋滞の整理をしてくれたり。脚本に書いてあるとおり警察庁の映画です、あなたのところの映画です、と言ってあるから、お巡りがその場に来ている。わざわざ呼んだわけじゃないけど来ているから、全部それを逆手で使っちゃった。

ーすると、終盤にブレーキ・テストと称して迫力満点の急ブレーキの点検みたいなことをドライバー総出でやる場面がありますが、あれもパフォーマンスですか。

土本 はい(笑)。あれも、どういうふうに終わりにしようかと考えたんだけど、ドライバーも事故を起こさないようにするには自衛する以外にない、という意味を持たせたかった。僕は運転を知らないから、「ブレーキのテストはするもんですか」って訊いたら、「ときどき各自でやるくらいだ」っていうんで、「じゃあそれをみんなで一斉にやってください」って言ってやってもらった。全員で狭いところでキューキューキューキュー、行ったり来たり。高度な技術だし、すごい迫力ですね。

ーみんなでレントゲン写真を見て胃下垂の話をするシーンもありますね。

土本 あれも仕込み。レントゲン写真を借りてきて、実際に胃の調子が悪い人がどこの職場にもいるから、その人たちとそういうレントゲン写真を組み合わせてやったら、自然にあのようなシーンになったんです。ああいう話題は日常的にあるんです。ああいうふうに会話が実にうまいから、話のやりとりは脚本をはるかに超えて、真に追っているんです(笑)。

ーしかし、いたるところ凄まじい道路工事の風景ですね。

土本 オリンピック前年の東京はあんな風景でした。工事中の道路の上に枕木を並べて適当に釘を打っていて、その上を車が通ると弾んでポコンポコン鳴っていますが、あんな状況が現場でよく放置されていたものだと思います。みんながこのヒドさに麻痺していたんですね、あの当時はー。

ー完成後は免許試験場で上映されなかったのですか。考えようによっては、確かに事故は必然的に起こるんだから、なるべく注意しましょうというのは適切な教訓だと思いますが、他方、あのナレーションなし・音楽なしの実験的な映像を、免許の更新に来た人たちが大勢で観ている風景を想像すると、なかなかシュールですね。

土本 完成したら、警視庁はさすがに自分たちの映画ではないと言って全然見向きもしなくなった。プロデューサーが困っちゃって、自分で改編しようとしたけどどうしょうもなかった、と聞きました。

ー完成後のそうした不遇はあったにせよ、この作品は、その後のいろいろなお仕事の中で、製作面ではかなり自分の思いどおりにできたという印象ですか。

土本 うん、だけど、いまだに自分で解釈できないのは、出資者に受け取ってもらえない映画というものを作っていいかどうかということです。こういう映画があっていいんじゃないかということは今も考え続けていますけれど、人には勧められないです。ずっと未公開になっちゃったしね。最近ですよ、これが見直されてきたのは。

ーこれでもうPR映画的な仕事はやめてしまおうと思いましたか。

土本 そんなことは全然思いません。じゃんじゃん作ろうと思ってました(笑)。

ー『ドキュメント路上』は土本作品の中でも特に最近上映される機会が増え、国内だけでなく外国でも熱狂的な反応を呼び起こしています。実験的な手法だけでなくて、土本さんが映画作りにおいて社会をより批評的に分析していく分破点になった作品ではないでしょうか。

土本 そうでしょうね。ただ、これと同種の映画をその後の僕は作っていないですね。やっぱり水俣というストレートなテーマがあったからでしょう。しかし、『ドキュメント路上』の場合は、もうクリティック、批判しかない描き方だったからね。そういう作り方で成り立つかどうかというところに賭けてみよう、というような映画。交通安全はいいことだけど、交通安全を訴える警察の意図っていうのがちゃんちゃらおかしいっていうのがあったわけで、そうすると、話をどこからもってくるかが一番大きい問題でした。結局、タクシー・ドライバーが日々感じている生理と心理を描くというふうにもっていったから作ることができた。その部分は『ある機関助士』と同じです。これは劇映画であるといってもいいのですが、精神はあくまでもドキユメンタリーのつもりです。

 3 実現しなかった企画と『水俣の子は生きている』
 
 山岸会を取材する

ー『ドキュメント路上』のあと、一九六四~六六(昭和三十九~四十一)年にかけては、日本テレビの「ノンフィクション劇場」を何本も演出されています。土本さんが水俣病を初めて取り上げた『水俣の子は生きている』もその一本ですね。同時に、初の自主製作映画『留学生チュアスイリン』も作られています。これらの「撮った」ものの前に、取材したにもかかわらず「撮らなかった」あるいは「撮れなかった」ものについてお訊きしたいと思います。一九六五年の初頭に三重県の山岸会(一九五三年発足、九五年より「幸福会ヤマギシ会」に改称)を取材されていますが、「結局一尺(フィート)も撮影できなかった」とお書きになっています。

土本 僕は山岸会を外から見ているときに、雑念が入らないように裟婆や家族と離れた「場」で、「係」と呼ばれる人の質問に答えることを何日も続けるいわゆる「特講(特別講習会)」によって豁然と何かを掴む瞬間があるということに興味を持ったんです。僕は宗教とはあまり関係ないけど、レーニンが「査問」ということを考えたときに、あれは日本語に訳すると査問なんだけど、本来、徹底的な自己開示のことです。統制よりも自発が主であるという思想。レーニンは、自己批判が主であり、他者の批判はそれを助けるための従である、自己批判が本当の変革である、という主旨のことを言っています。だから、本来の査問というのは、自分が変わる、あるいは組織の人間として何か新しいものを掴むという、非常に同志的な回路がある。ところが、実際にはスパイ摘発とか拷問とか、おかしなことになってしまった。そうしたレーニンの考えた本来の査問といったテーマから入って山岸会を取材してみたいと言ったら、日本テレビ側もそれは面白そうだ、取材してみろ、という具合に動き出したんです。
 ところがいざ現場に入ってみたら、本部側の様子がだんだん変わってきた。要するに、「特講でぱーっと開示する瞬間というのはキャメラがあったらむずかしいんじゃないですか」「仮にあなたが特講を受けている最中に撮影されていたら無心になれますか」と彼らに言われて、ピーンと分かった。特講というものは自分の雑念を払い、しかも指導者がいるわけじゃなくて、参加者がそれぞれ自分をさらけ出していくことで共鳴していくわけでしょ。相当な集中力が要るときにキヤメラがいたら、やっぱりむずかしいだろうと思った。だから、どういう撮り方があるか考えるから時間をください、と言って考えた。どっきりカメラか隠しカメラか、それじゃしょうがないしね。劇映画にしたら撮れるかもしれないと思ったりもした。隣の会場からは特講が進んでいるらしくはじけた声が聞こえてくる。で、結局「いい経験をさせてもらいました、辞めます」って言って帰ってきました。
 ダメでしたってテレビ局に報告したら分かってもらえなくて、君は本当にしょうがないなって。それからしばらく干されました(笑)。

ーそれはドキュメンタリーにおげるキャメラの介入という大きな問題を字んでいると思いますが。最近では森達也(映画監督まで繋がるような。一九五六年~)の『A』(98)、『A2』(02)あたりまで繋がるような。

土本 僕もその仕事で初めてその問題にぶつかりました。結局やめましたが、納得していたから、森さんとは違うでしょう。

ーもう一つ補足的に伺いたいのは一九六四(昭和三十九)年に「映像芸術の会」に参加されていますね。

土本 その前に「記録映画作家協会」というのがあって、人脈的にはそうそうたる党員作家たちが集まっていた。松本俊夫も党員だったし、野田真吉も党員だった。一つの母体にいたわけですが、PR映画の枠を超えてどうやって自分たちのドキュメンタリーを作っていくのかという問題意識が芽生えるとともに、党内闘争の反映もあり、別派の「映像芸術の会」を作ったということです。僕は戸畑製鉄の記録映画づくりに二年、北九州にくくりつけられていたので、この組織の運動には殆んどタッチしませんでした。党派の分派闘争に引っぱられる運動には反発していたのです。全学連を党が私有化した苦い体験から逃れていませんでしたね。「映像芸術の会」は政治主義から独立した団体にしたいと思っていました。
 そこでこの「映像芸術の会」についての僕の評価を言いますと、いい点をあげれば、機関誌活動が旺盛だったこと。のちに残るいい論文がたくさん出ました。他方、メンバーの討論の議題は、自分を除いた”他者、他作”の批評、つまりゴダールやアラン・レネ(映画監督一九三三年~/『二十四時間の情事』など)といったフランスの作家論など、日本より海外の作家論が多かったと思います。だから、「あなたは現実に自分の職場でどういうふうにして映画を作っているのか」というような実作の話にはならない。メンバーたちはそれぞれ優れた映画を作っているんだけど、その点があまり伝わってこなかった。僕みたいなタイプは、徹底して現場的かつ具体的な話に興味があるほうなので、「青の会」みたいに、ざっくばらんに肝胆相照らし、相手をひんむきあうほうが性に合っていたんでしょうね。

 長回しと間接話法

ー一九六五(昭和四十)年に入ると三作品を並行して撮っていますね。日本テレビの『ある受験浪人の青春』(制作期間一月~四月)と『水俣の子は生きている』(同一月~四月)、それに当初はこれらと三部作になるはずで、結果的に自主製作映画になった『留学生チュアスイリン』(同一月~五月)。相当忙しかったのではないですか。

土本 ”かけもち”は初めてでした。よく憶えてないけど、『留学生チュアスイリン』の場合ですが、留学生たちの新年会があったので、一月で予定より早かったけど、これはどうしても撮っておきたい、ということで、これを先に撮ってから水俣に入ったような記憶があります。日本テレビの「ノンフィクション劇場」は半年に一~三本作ってくれ、みたいなローテーションが決まっていたときでね。『留学生チュアスイリン』はその一本として作っていたら、テーマ的にまずいから止めてくれって言われたんで、こうなったら自分で作ろうということで自主製作に切り替えました。

ー早撮りがきくみたいな評判になっていたんですか、当時の土本さん。

土本 というよりも、その当時のテレビは、番組の制作の現場はせいぜい一週間から十日しか使えないんです。それがテレビでは常識でしたから、その間に撮れるように訓練しないとできなかったんですよ。

ーそうしますと、『水俣の子は生きている』はケースワーカー志望の女子短大生(西北ユミさん)が医療実習で水俣をまわる四、五日の話になっていますが、撮影自体もそれほど長いものではなかったのですか。

土本 現地での撮影は一週間くらいでした。

ー『水俣の子は生きている』にはニつのスタイルが混在している印象があります。まず非常に印象的なのは冒頭の長回しで、病院の入り口から入って、院内をずーっと歩いていって一番奥の患者さんの病室まで行って、顔のアップまでワンカツトでいく。製作してから時間的にはそれほど経過していない『ドキュメント路上』の自動車の動きがそのまま作品を越えてやってきたみたいな、冴え切った移動撮影です。ところがその後の構成は、じかに患者さんたちに接するのではなく、西北さんが患者を訪ねるのに随行して、彼女が接している患者を撮るという、いわば間接話法になっていきます。そのあたりのところ、つまり撮るときにどんなことをお考えになっていたのかをお訊きしたいのですが。

土本 つまり僕に患者さんそのものを取材する関係を作れる自信がなかったんです。そういう関係を持っているのはケースワーカーとか医療関係者だし、そういう人を通じてしか患者さんに近寄れないと頭から決めていたんです。水俣病患者はなかなか撮れるもんじゃないということを、撮る前からいろんな意味で予感していたんです。だから非常に策を練った撮り方をしています。今でこそ水俣のことは内外に知れわたる大変な広がりになりましたけど、あの頃は「寝た子は起こすな」という時期だったんです。水俣病のミの字も街かーら聞こえてこない。確かそういうナレーションも付けていますよ。それから、トップあたりに水俣市民病院で、外から院内を横断する長い移動撮影をやったのは、水俣病はいかに病院の中でさえ隠されているかを映像で示したかったわけ。あの病院の中でほんとうに一番どん詰まりの、(描かなかったけど)霊安室とか伝染病患者専門の病棟とか、そういったところの一番片隅に水俣病の患者はいたんです。だから病院にお見舞いに行った人は山ほどいるだろうけど、回廊の一番奥までたどってみた人はほとんどいない。患者を隠すとはこういうことなんだなと思いました。

ーそんな中で、胎児性患者の母親に激しく叱責されたことがあったのですね。

土本 ええ、そのことはあちこちに書きました。僕らは意識するしないにかかわらず、存在自体としてはテレビ局からやってきた、キヤメラという”正義”を抱えた撮影隊ということになってしまう。しかし彼らにとって、撮られることに何もいいことなんかない、と撮影を拒絶されました。撮影のむずかしさは、予想していました。だから西北ユミさんを撮っているフリをして彼女の接する患者さんを撮るということを計ったんですが、痛烈に見破られ、批判されたわけです。これは幾度も書きましたが、その後の水俣映画を考える上での原体験になりました。

 写真の目張りを取る

ー他方、展示してある患者たちの写真から勢いよく目張りを取り去るシーンも印象的です。モザイクだらげの最近の報道の傾向とは真逆の行動です。

土本 目張りはまるで人物を否定的に紹介するようなやり方だと思います。最近のNHKテレビでも、現在の水俣の話をしながら昔の患者の映像を引用しているシーンがありますけど、みんな顔をぼかして使う。そうするものと決めているんですね。だから僕の映画みたいに個々の人間の表情をそのまま出すということはもはや考えられない。本来、彼らは記憶されるべき受難者のはずです。その人を見つめたいのです。
 『水俣の子は生きている』で唯一、自分ではいいシーンだと思っているのはあの写真の目張りを剥がすシーンなんです。”いい”っていうのは、意図としてはいいシーンだという意味。桑原史成さん(写真家一九三六年~/写真集「水俣』など)の写真が展示してあって、黄色いビニールテープで目隠しされていたのを僕が剥がしているわけです。あれを展示していた水俣の学生グループが「剥がしていい」と言ったわけじゃなくて、逆に「何で剥がすの?」みたいな雰囲気の中で僕が剥がしながら撮ったんですけど、あれは僕の違和感というか、こういうふうに患者を扱つてはいけない、という自分に対する宣言みたいなシーンだったと思います。あれからずっと水俣に関わってきて、このところ患者の遺影を撮ったりいろいろしながらもプライバシーの問題を考え続けていますが、テレビ報道のような世界では、目隠しが常識になって、肖像描写などは禁物というか、手も足も出ない不自由な感じになってきてますね。これは今後も大問題でしょう。「ボカすなら撮るナ」というのが僕の持論です。

 4 『留学生チュアスイリン』と『シベリア人の世界』

 ”キャメラマン論”と”ベトコン方式撮影”

ースポンサード・フィルムだった『ある機関助士』『ドキュメント路上』に対し、『留学生チュアスイリン』は初の自主製作映画、インディぺンデン卜映画になるわけですが、キャメラの瀬川順一さんをはじめスタッフ体制はどのようなものだったのですか。

土本 これは日本テレビが途中で「ノンフィクション劇場」の趣旨に合わないといって撮影の前日に降りた企画です。僕がこの企画に取りかかる前に、実はNHKがチュア君の撮影を申し込んでいながら、政府筋の”圧力”で中止していたあとですから、チュア君は傷ついていました。もうあとには引けません。僕のほうで、チュア君にすまないから撮り続けなくてはいけない、と決めて、岩波時代から知っている藤プロの工藤充さん(現・自由工房プロデューサー 一九二四年~/羽仁進『教室の子供たち』、羽田澄子監督の諸作品などを製作)のところに駆け込んでプロデューサーをお願いしたわけ。即答でOKです。そこでキャメラマンの瀬川順一さんが契約で仕事をしていました。瀬川さんとは岩波に入ったときからいろいろなことを教わって以来の長い付き合いなので、瀬川さんならやってくれるんじゃないかと思って相談したら、「やりましょう」と即答してもらえました。しかし、この種のニュース撮りは瀬川さんにしても、初めての仕事だったと思います。
 瀬川さんはもともと非常に構築的な美しい画を作るキャメラマンです。前にも話しましたが、製鉄所のPR映画の現場でパーッとライトを当てて撮ったり、圧延機械をまるで女優に近づいていくように撮る手法の人です。いわば”職人”の最たるキヤメラマンでした。あの時代、ドキュメンタリーの画であっても作り込んで撮る、ここでこういう画がほしいからとイントレ(台座)を高く組んじゃう、というタイプです。
 僕は撮影というのは究極的には二通りあって、一つは絶対にこのアングルしかないというところまで探して探して追い詰め、どこからどこまでの範囲で画を切り取るかを考えて、フレームをはっきり決めて完成度の高い画を作るというやり方、それが瀬川さんです。もう一つは、被写体や現場の状況がどう動くか分からない、相手とどう関わってキャメラを動かしていくか、そうした中で臨機応変に撮っていくやり方。まさに『留学生チュアスイリン』は後者のやり方しかありえなかったので、その意味でも僕の映画としても転換点だったわけです。
 構築的なキャメラの瀬川さんと臨機応変型の『留学生チュアスイリン』で組んだのは、いつでも状況が動き出せば現場に駆けつける、ゲリラ撮影だったので、フリーランスの人でないと無理だろう、という事情がありました。もう少し瀬川さんの話をしますと、僕は瀬川さんからキャメラマンの魂を学んだし、それへの畏敬の念があります。特に瀬川さんが生涯ずっと話していた、『戦ふ兵隊』(39)における亀井文夫と三木茂の確執については、瀬川さん経由で理解したという思いがあります。
 例えば「ルーぺ論争」(四八頁参照)のように、脅えている(中国の)農村の子どもを羽交い締めにして「これを撮れ」なんていう演出は僕にはとてもできない。僕はつねづね、撮れないものが三つある、と言ってきました。一つ目は、セックス。なぜなら、冗談ですが、自分がやるほうがいいに決まっているから撮っていられない(笑)。二つ目は、人が人を殺す場面。これは当然その前に僕が止めるだろうから撮れない。三つ目は、人が死んでいく場面。これはやっぱり何ていうか、祈りながら見送るしかない、という三つのことをあげたんです。そうしたら、その中のセックスに関しては、原一男君(映画監督 九四五年~/『ゆきゆきて、神軍』など)が、それは俺がひっくり返してみせる(笑)、土本の撮れないものを俺は撮ってやるっていうんで、『極私的エロス・恋歌1974』(74)にそういうシーンを撮りましたね。僕が挑発したのかなあ。まあ、その三つというのはたまたま口走ったんだけど、いまだに僕の頭のどこかにあります。
 だから、瀬川さんが亀井ー三木論争を整理してみたときに、三木さんにはキャメラマンとして「ノー」と言う権利がある、中国においてわれわれは何といっても加害者であり、相手はキャメラを見れば武器と思うし、それで引きつった顔を加害の側の人間が撮れるものか、と整理したのは理解できます。やっぱり加害・被害の立場で考えなきゃいけないし、三木さんには絶対にキャメラを回さないキャメラマンとしてのモラルがあったと。これは記録映画の場合、相当に大きな問題です。

ー監督とキャメラマンの関係についてですが、例えばいま名前の出た原一男監督の場合が土本さんや小川(紳介)さんと決定的に違うのは、彼自身が監督でもありキヤメラマンでもあるわけです。

土本 そう、それは先駆的でしたね。僕は『極私的エロス・恋歌1974』は凄いと思いました。あれは僕の記憶すべきドキュメンタリーの一本に入っています。彼の全作品に言えることだけど、キャメラを持って被写体との関係を試みていく自らの内部運動があるでしょう。それがあんなに正直に出ている映画はそれまでになかったんじゃないかと思います。女にど突かれたりしながら、全部それを撮りきって、しかも自分を白虐的なまでに晒す姿勢がある。「正直」というレベルを超えてもっと何か神秘的な情熱すら感じます。
 人によっては『ゆきゆきて、神軍』(87)のほうを評価するかもしれませんね。主人公(奥崎謙三)のキャラクターの面白さ。あの人が最後に牢屋に入ってしまったという字幕に至るプロセスの強烈さは、これはもう大変なものだと思います。それから、やっぱり原君がキャメラを持っているがゆえに、こういう撮影ができたな、というところが全篇にあります。つまり、打ち合わせなしで主人公が動くでしょう。そうすると、原君も咄嗟に「アッ、動いたか」ってパッと一緒に動いていくじゃないですか。あの同期性というか、シンクロ性っていうのは、演出とキヤメラ、二つとも自分がやる以外にないという立場がキッチリしていなかったら、ああいう咄嗟のキャメラワークはできませんよ。そういう点で、実際に画の撮影ができる演出家という立場ならではの成果が残っていると思います。被写体その人と原君との巧まざる映画ならではの共同作業がありますね。僕が被写体との間で作るのとはまったく違った関係のあり方ですね。対象と丁々発止でやり合いながら、それが映画になっちゃってる面白さっていうのかな。だけど、ああいうのを映画として晒してしまえるのは、ものすごく勇気のいることだと思います。
ー『留学生チュアスイリン』の製作態勢を土本さんは「ベトコン方式」と名づげていますね。

土本 そうそう、ベトコンね。非正規軍の態勢をそう呼んだのです。常時スタッフを組んではいられない。しかし何が起こるか分からないから、チュア君から連絡があると動けるものがスタッフを組んで直ぐ飛んでいく。彼は本国から追われていました。だから連絡先や身元を明らかにできない立場でした。あらかじめスケジュールなど立たないわけ。
 スタッフはみんな生活があるから大変だったと思います。特に瀬川さんは売れっ子キヤメラマンだから、どうしてもからだが空かないこともあり、そのときは弟の瀬川浩さんが回したことも何度かありました。撮影者として四人の名前がタイトルに出ていますが、あとの二人は助手です。

ー山岸会を取材してまったくキャメラを回せなかったというお話を伺いましたが、『留学生チュアスイリン』のときは逆の状況が起こったと書かれています。当初はアジア人留学生の問題に無関心だった千葉大生たちが、キャメラが回ることで変わっていったと。確かに『留学生チュアスイリン』で特徴的なのは、手持ちキヤメラで多くの学生たちの顔を移動しながら舐める翫めるように撮っていくショットです。

土本 キャメラが回り始めたら人が集まってきたんです。チュア君の演説に熱心に耳を傾けている学生がいると、寄って行ってその姿を撮影するんだけど、その学生に「あなたを撮っていますよ」と分かるように撮る。キャメラはそれ自体が動き回りながら「呼び込み」のパフォーマンスをしているような形になっちゃって、その輸の中でチュア君が演説しているという形になるんです。ある学生は、キャメラが記録していること自体がチュア君への関心を高めた、と言っていました。つまり、これも本に書きましたが、「カメラのある状態とは平常ではなく、かりに平常としても撮るものと撮られるものの関係をうみ、それが相互に一つの緊張を生み出す」(※9と同じ)ということを実感した瞬間でした。

 シベリアからソ連を見る

ーそれでは一九六〇年代後半についてお訊きしますが、このへんから海外ロケのお仕事が増えますね。六六年には日本テレビの「すばらしい世界旅行」のためにドミニカ共和国へ飛び、六七年はほぼ一年がかりのソビエト・ロケで『シベリヤ人の世界』を作り、六八年は黒木和雄監督の『キューバの恋人』(69)のプロデューサーとしてキューバに行かれています。やっと六九年の『パルチザン前史』で国内の題材に復帰するという順序です。そこで『シベリヤ人の世界』ですが、ずっとあとの『よみがえれ力レーズ』(89)あたりとテーマ的に重なってくるところもありますね。

土本 これは持ち込まれた企画です。郡谷というプロデューサーから話があって、やってくれって言われたんですが、第一印象としてはお断りだったんです。というのは、日本が学生運動をはじめとして騒がしくなり始めた時期だったので、日本で僕のやるべきことが必ず出てくるに違いないと思っていましたから。だからシベリアを撮る意味をいろいろ考えたんだけども、話がモスクワでなくてシベリアだ、という点は興味を持ちました。この時期は三十代後半で体力的にも最盛期が来ようとしてる時期で、何で今シベリアかなと思いつつ、やるとなったらこうしたいという条件をどんどん出していった。テレビのあと総集篇として長篇映画にすること、これは最終的にOKされ、『シベリヤ人の世界』になりました。あとは取材の独自性を中ソ対立に置きたいということでした。もともとあったジャーナリスト的な根性が猛然と駆り立てられてきました。それというのも、コミュニストとしてジッとしていられなくなったからでしょう。それほど中ソの対立は信じられない出来事でした。そんなことがあってたまるか!西側のデマに決まっていると見ていましたが、どうもそうではないらしいと思いはじめている時期でした。その中ソ紛争がシベリアが舞台なら、それは撮りたいと思いました。・・・少しこのへんのことを思い出しながら話させてください。そもそも僕は獄中で読んだ毛沢東文献からマルクス主義哲学を学びましたから、中国びいきです。日中友好協会もそれを強めてくれました。ですから中ソのいずれかといえば無原則的に中国の文革にひきつけられ、ソ連にはシンパシーをもてませんでした。ただ、シベリアには映画『シベリア物語』(47)の影響もあったから、”革命的ロマンチシズム”とゴッチャになって、心ひかれるものはありましたね。僕の辺境ごのみもありましたから、モスクワよりシベリアでした。それに”革命五十周年記念”ということは、レーニン的理想も盛大に回想されはしないかとも思いました。戦後間もなくのころマルクス・レーニン主義にひきつけられた私の青春時代がありましたしね。それは間違ってはいなかったと再確認したかったんです。で、モスクワの一九六七年メーデーからクランクインしたのです。ロケはそのあと極東のナホトカからしましたけどね。

ーで、土本さんのその思いは果たされましたか。

土本 残念ながら、志半ばで終わりましたが、シベリア人のナマの世界は、苛酷な寒冷地で辛うじて働く小さな木材コンビナートとか、原住民のシベリアならではの暮らし方に共感し、いわゆる「シベリア人」の世界を描きましたがー。撮りたいものの許可は下りず、四カ月のロケの旅自体がいざこざの連続でした。ソビエトでドキュメンタリーが育たなかった理由もよく分かりました。つまり、何をどういう意図で撮るかということを詳しく書いて、それが政治的にも、内容的にも当局に了解されなければ何も始まらないのです。ところがドキュメンタリーというのは、その場その場で感じたことを撮るから、事前に説明なんかできない。特に僕は中ソ国境紛争のことに触れたかった。僕らをコーデイネートしていたノーボスチ通信社がそれを知ってビビったわけ。日本人がこういうことを言うけどどう扱いましょうか、というわけで、責任者がモスクワでの会議に行き、ひと月待たされました。結局、責任者が入れ替わったんだけど、新任者が絶世の美人だった(笑)。リュドミラさんという方に入れ替わって、それで僕がその人に惚れちゃったんです(笑)。あとは彼女の好意的なアレンジによって動きました。彼女がいなかったら撮れなかったモスクワのシーンもあるんです。赤の広場で革命記念日に撮影したときのことです。革命記念日の行進だから当然、全部の市民が自由に参加できるのかと思っていたら、どうもそんな感じがしないので、赤の広場以外の場所も自由に取材させてくれるように交渉したんです。これがまた大揉め探めに揉めて、そんなことはどこの国にも許可していないと。そうしたらリュドミラさんが本気で幹部を説得してくれた。「この監督を信頼してください」「決して社会主義を裏切るような撮り方はしない方です」という意味のことを言ってくれたんです。それで時間制限付きだけどOKが出た。
 すると、赤の広場以外は革命とは無縁の単なる普通の休日なわけ。当り前のことでしょうけど、選ばれたエリートしか赤の広場には行っていない。そういうことが広場の外に出てみて初めて見えた。そのことを作品中に正直に出しました。みんな、ウオツカを飲んで街頭で楽しんでいる。同じ時刻、いかめしくソ連革命軍をたたえる演説がスピーカーで全市に流れているといった様子を、ナレーションではいいませんが、画では語りました。こんなふうに見たのも、僕の失望感があったからかもしれませんね。革命記念日というのは革命論を学び直すような集会をするのかと思ったら、そんな機会は探したけど一つもなくて、一切、軍事パレードだったー。革命期から今日までの軍隊の推移を全部並べて、最後は最新兵器の圧倒的な行進で終わる。僕はナレーションに「これでいいのか」という意味のセリフを入れてます。僕の主観主義のあらわれた作品かもしれません。ウソは言っていませんが、失敗作と思っています。
 テレビで放映したあと別編集した映画版をいよいよ公開という直前に、いわゆるチェコ侵攻が勃発してオクラ入りになりました。ノーボスチ通信社でもこの映画は良いという人は少数でした。つまりソ連社会を軍事的なところにばかり焦点を置いて正しく紹介していないという批判もあって、ソ連でも映画版は上映されなかったです。というわけで、僕は日本の学生運動がピークを迎えていた騒乱の「六八年」前後には、あまり日本にいなかったんです。

 5 『パルチザン前史』

 小川プロとの連携

ー『パルチザン前史』の企画は小川プロが土本さんに依頼したのですか。

土本 小川プロが助けてくれたんです。『シベリヤ人の世界』のあと、僕は黒木の『キューバの恋人』のプロデュースをやりながらうまくいかなくて悶々としていたんです。その頃学生運動が暴力を伴うようになってきていて、チェ・ゲバラ(一九二八~六七年/アルゼンチン生まれのマルクス主義革命家、キューバ革命指導者)とか毛沢東の思想を踏まえたうえで、日本における”暴力”とは何かと考えさせられていました。”暴力”についていつかは映画を撮りたいと思っていたときに、小川(紳介)ちゃんが「撮ったらどう」って言ってくれた。どっちが先だったかな。当時の関西小川プロにはプロデューサー担当の市山隆次さん夫妻がいました。映画の舞台が京都大学なので、関西に草鞋を脱いで撮りました。これは小川プロの協力、小川ちゃんの友情を全面的に受けて完成したフィルムです。

伏屋博雄(元小川プロ) 僕はまだ小川プロに入って間もない頃でした。小川さんから聞いた話ですが、土本さんは『キューバの恋人』でプロデューサーを引き受けて、家も抵当に入れて資金をつくり、全面的に黒木さんに対する友情を発揮したんだけれど、作品が興行的に当たらなくて、借金取りが来るとか、そういう苦境に追いやられているんだと。で、小川さんはスタッフに「あんな素晴らしい監督をこのままにしておいていいのか!」って檄を飛ばしたんです。「お前ら、ホントにこのまま黙視する気か!」って。僕は、まだ土本さんの作品を観たことがなかったんだけど、小川さんの熱弁で、僕らが動いて土本さんが監督できるチャンスを作れるのであれば、それは是非やるべきだという、そんな気運が一同にみなぎったんです。で、小川さんが直接依頼したと思うんですが、それからしばらくして、土本さんが事務所へ来られて、「関西でおもろい人間を見つけたぞ」と言ったのを僕はよく憶えています。それからまたしばらくして、『パルチザン前史』の主人公の滝田修(本名・竹本信弘、京都大学経済学部助手(当時)。一九四〇年~/主著『ならずもの暴力宣言』など)が事務所へ来て、彼を囲んで飲み明かしたわけです。上半身裸になった滝田が、「俺が箱根の山を越えて来るときは、死に物狂いで来てるんだ!(日本権力の中枢・東京に乗り込むんだ!)」って凄い勢いだった。ワイワイ話して、みんな滝田に魅了されちゃった。その頃ちょうど小川プロの本体は「三里塚」シリーズの第二作『日本解放戦線・三里塚』(70)を製作中で、結局、関西小川プロの市山隆次を中心にして『パルチザン前史』を製作することになったんです。

 滝田修との出会い

ー滝田修氏との出会いは?

土本 滝田とは京大の「反大学講座」という場で出会ったんですが、探し当てたといったほうがいいでしょうね。彼のグループは大きいセクトではなかったけど、日本で武装や暴力について最も具体的に深く考えているのは滝田という人物をリーダーとする「京大パルチザン五人組」だということは聞いてました。それで、彼と出会って二晩くらいとことん飲んだ末、お互いに「やりましょう」ってことになりました。ただでアパートを貸してくれる学生がいて、スタッフ四人はそこに寝泊りしながら撮りました。
 この作品については、僕自身がどういう観点で撮るのか、どうまとめていくのか、まったく分からないままに撮っていった感じです。つまり、滝田の話を聞くと、言葉としてのロマンチシズムはヒシヒシと伝わってくるんだけど、映画としてどう表現しようかという問題ですね。いわゆる”暴力”に対して、民衆の支持があるのか、民衆を巻き込んでどういう運動を作っていくのかという点が疑問だったんです。つまり、学生だけの世界では”部隊”を結成できますが、一般の人との絆はどうするのっていうことについて、僕自身が疑問を持っていました。何人かの学生はアルバイトで琵琶湖畔の工事現場で「五人組」として働いていました。それをラストに滝田の声で終わります。ー「われわれ自身が武器を自分で作り、調達し、自分で闘うという方法なしには、とてもじゃないけど理屈で人は動くものじゃない」とか、「まず自分たちが強くならなければダメだ」とか、彼の言葉”滝田節”と絡めながら、このへんでいいのかなって思いながら作ったんで、いまだにあの映画については何の確信もないですね。日本社会の民衆運動における暴力の問題については、いまだに僕は十分な結論に至っていないということです。いわゆる”テロ”とは何かということについてですがー。ただ、あのときの学生たちの気分を滝田は相当に代表していたとは思います。完成後、『パルチザン前史』は映画と講演というセットで巡回されたので、滝田は一躍、全国区になっちゃった。あちこちの大学が、全共闘をそれなりに作って旗は上げたけど、どういうふうに旗を下ろすかという時期で、どうやって後退戦を戦うかというときに、あの映画はそうしたきっかけになるような使われ方をしたんです。それで巡回していくうちに彼は有名人になって、『週刊朝日』の大橋巨泉との対談にも出るような、いわゆる有名人にされていきましたが、やがて一九七一年八月の朝霞自衛官死亡事件(赤衛軍事件)で指名手配されることになります。

 大学解体と予備校教師

ー滝田氏が大学解体と言いながら予備校で教えていたり、工事現場でドカベンを食べていたり、家で赤ん坊を抱いていたり、生活者としての側面をとらえた場面が後半に置かれている一方で、火焔瓶の作り方みたいな具体的かつ実戦的なシーンもあります。

土本 撮った順ですよ。滝田は、人はアジるけど運動はどっちかというと不得手な人なんです。だから京大前の戦い(百万遍闘争)なんかで、滝田がヘルメットを被って闘争やるなら撮っておこうと探しても、キャメラから逃げちゃってて見当らないんです。彼はどこかで「この映画は俺がOK出したんだけど、みんなに納得されているかしら?」っていうのをずっと思っているから、自分がヒーローとして撮られることからは逃げるという神経があったと思います。だから滝田をきちんと撮れたのは予備校と家庭のシーンです。このときに彼は予備校の教壇で自分を裏切らない喋り方をしようと思ったんだろうね。浪人生に「あなたは大学で入試反対闘争なんかやっているけど、俺らどうなるんだ」って言われて、答えようがないじゃない。大学解体と叫んでいる張本人が予備校で教えてるんだから。彼のそのあとのあけすけな話が面白かった。「自分の助手の給料三万八千円、・・・家賃が一万一千円、このあと幼稚園の費用六千円、これを引いたら」と白状していく。この正直さと聞く生徒への対応ぶりは、この作品の白眉でしたね。で、この撮影のあと、間髪入れずに「家を撮らせてくれ」て言ったら、彼、断らなかった。もう自分を開放しているから。それで家に行って、ローザ・ルクセンブルク(一八七一~一九一九年/ポーランド生まれのマルクス主義哲学者・ドイツ共産党創設者)の本を開いて好きなところを読むみたいな話になっていく。そのときに僕は「この人はローザのここを読んでいるのか」と意外な感じがした。それは、自然と人間の素晴らしさを謳った叙情的な一章でした。アジテーシヨンのかけらもない。そこを長々と撮っている僕たちに、彼も好意を持ったと思う。彼もすごく開放的になってくれて、奥さんが連れて来た赤ん坊を彼が抱いているシーンを撮った。僕は、これが彼を撮れる限度だなと思いました。

ーラストは「五人組」の人たちが肉体労働をしているシーンですね。

土本 あれはやや作り物で、パルチザン五人組のうち、滝田を除く四人は実際にああいう仕事をしていたんです。で、滝田に「パルチザン五人組が裟婆に入って労働しているという場面だけど、君どうするんだよ」と言ったら、「ちょっと待ってくれ」っていって一日だけ働いたんです、あれ(笑)。毎日、学生の集会に呼ばれていましたからー。この五人組のようなシーンについては彼自身もインチキだと思っているわけだけど、他の四人は実際に仕事していて、彼らとはすごく仲が良いから基本的にウソではない。最初に京大であの映画を上映したときに、滝田一人だけモジモジしちゃって、上映会場に入ってこないんだよ。「もう俺見たくないから、ドロちゃん(土本のニックネーム)勘弁してくれ」っていうんだ。だけどパルチザンの連中は全員集まっているんで、彼もしょうがなく出てきて、見終わったら誰もがシーンとしちゃってね。そこでパルチザンの中に一人黒幕的なOBのリーダーがいたんだけど、彼が「この映画はわれわれに重荷を背負わせた。この映画が流れていくならば、これはフィクションなのだから。しかし、われわれの主張は出ている」と発言した。それからみんなで映画の感想というか、要は「自分が出てる」って話ばっかりするんだよ(笑)。「もうちょっといい男に撮ってほしかった」とか与太話ばっかり。あの映画で滝田はどうしようもなくヒーローになっちゃったけど、そのヒーローに対する周囲の学生仲間も、「滝田は俺だ」という自己確認をしていたんだと思う。最後の工事現場については滝田に頼んでやってもらったわけだけど、僕はこの映画のラストに関してはこれしか思いつきませんでした。しかし百人余りのパルチザンのうち、たった一組では、やはり映画的なラストにした感じで複雑です。

 いわゆるローザ・ルクセンブルク論について

ーいわゆるローザ・ルクセンブルクに対する共感について伺いたいのですが。

土本 まずその質問に異論があります。”共感”には至っていません。僕はローザを滝田の話を聞くまで名前しか知らなかった。彼が心酔しているので、ローザに興味をもったわけ。ですから、映画の中で、滝田が抱いていたローザを描いた。それ以上ではなかった。僕の”公式主義”ではマルクス・レーニンが至上の存在だった。それが誤りではなかったかー。例えば社会主義の考え方はマルクスからスタートしているんじゃない、フランス革命の中から生まれてきたわけでしょ。マルクスのずっと前から社会主義は何故求められてきたのかというヨーロッパの歴史もあるし、それからヨーロッパだけで考えていくのもどうも違うんじゃないか。
 イスラム教のコーランを読んでいるんだけど、やっぱりそこにはその時代にしか生まれなかった民主主義的な配慮というのはどんな教義にもあるんじゃないですか?争う民衆の集団のあいだの和解の仕方とか、相手の受け入れ方とか。多数決というのは、例えば集団の中で人数の多い意見のほうが勝ちでしょ。それに対して村の集まりは、時間はかけても全員一致を目指して話し続ける。それでも外れた場合は村八分で制裁するわけだ。僕の党生活で体験してきた、いわゆる多数決は、意見が違う人がいて、多数が決まると、じゃあ少数の人はあっちへ行ってくれって話でしょ。これは村八分よりはるかに苛酷じゃないですか。だから、日本に古来からあった村や集団の考え方とか、古い宗教にあるいろいろな考え方をもういっぺん見直していかないと、特にいま地球上にいる十何億のムスリムの気持ちがさっぱり分からないわけでしょ。
 僕が戦後、本当に立ち直れたのはマルクス主義に出会ったから。戦後民主主義のうねりの時期、あの時代に、とてもいいものを見たんです。一九五〇年から六〇年にかけての学生運動の中で、闘う中で作られる仲間とか連帯とか、本当に兄弟みたいな仲間。あいつのために死んでもいいみたいな、口ではそんなこと言わないけれども、それぐらいの気持ちを持ち合うような、そういう経験をしたんです。それは何なのかというのをずっと大事にしてきました。それが私にとっての「党」であったようです。それは「青の会」の活動であったり、滝田とそのグループとの出会いの一瞬であったり、水俣病の闘争の中で「告発する会」というのがあって、社会党でも共産党でもない連帯の作り方というのに、はっきりと新しいタイプの”党”を見た思いがしました。

 6 『パルチザン前史』から七〇年代へ

 五人組のスタッフ論

ー滝田修ら「パルチザン五人組」について、”組織論”から見てどのように評価されますか。

土本 そんなむずかしい話は僕にはだめです。ただー、「水俣」シリーズを作りはじめて十五年くらい経ったころだったか、羽仁進さんに随分遅れて『パルチザン前史』を観せたら、「やっと分かった。これがあったから土本さんは水俣へ行けたんだね」と感想を言ってくれた。さすがに僕をよく見てくれているなあと思いましたよ。この話で察してください。
 ただ、患者さんたちのこの映画の反応は意外でしたね。僕がどういう”監督”という名刺代わりに、患者たちに前作という意味で、『パルチザン前史』を水俣の地区労ホールで観せたんです。ここに居るスタッフで作ったんですといってー。支援者の人も一緒でした。僕には冷汗もんでしたが、患者の爺さん婆さんたちは、京都の百万遍の市街戦の場面を観ながらみんなグラゲラ笑ってるんだよ。彼ら、おまわりと喧嘩する人は「いい奴だ」と思っているわけ。というのは、裁判で熊本へ行くと、警戒が厳重な中で、熊本大学の学生たちが当時流行ったフランス式のデモ(手をつないで道幅いっぱいに横一列で行進するデモ)をやると、機動隊にボコボコ殴られる。水俣市内でも、街の大通りでデモをやると、熊本の勇猛な第五機動隊が来て、両側を囲んで手も足も出ないようにするという具合に、機動隊が運動を制圧するのを経験しているから、僕の映画の闘争の場面を観て愉快でしょうがないらしい。僕は冷や汗かきながら「こんな映画に興味を示すかな」と思っていたんだけど、ともかく憎い奴は同じだ、という素地があったのね。だからみんなゲラグラ笑って観ていた。「あのリーダーっていい奴やな」つてなもんで。
 ところが共産党が、それを僕に対する悪口のネタにするんだよ。「土本はヒューマニズムみたいなことを言うが、暴力的な学生運動の一番暴力的な映画を、こともあろうに水俣で患者に観せて教育した」って言うんだよ。そう言われてみれば、事実としては間違ってはいないけど(笑)。

 ”後退戦”をどう撮るか

ー「パルチザン五人組」の闘う姿に”敗北の予感”のようなものを感じてしまいますが。

土本 僕は負けると思っていました。あの映画を分析してもらうと分かるけど、学生運動が高揚しているシーンのあとに、パーンとロングで京都の市街をワイドで観せる。そんなパターンが何回かある。それは大学という塀の中でいくら闘っていてもダメだと、僕はそう思っているから、時にとんでもないロングショットを入れています。それから滝田が「学生運動は大学の枠の外に出なきゃダメだ。それはできるはずや」と一言問う場面も残してある。そういった部分を観てもらえば、民衆の中に入らない限り、学生だけの運動は絶対に敗北するという僕の意見が反映されているはずです。
 まあ民衆の中に入ってもやはり敗北するだろうけどね。だからナレーションは付けなかった。音楽も使わない。映画全体を観て判断してもらう以外にない。パルチザン五人組が次々とできれば面白いんだけど、まだ「これから作らねばならない」という段階の話だから、パルチザン「前史」なわけだ。前史は前史のままで終わってしまうのだけどね(笑)。

ーご自身の山村工作隊体験と「パルチザン五人組」を重ねたり比較したりするような局面はありましたか。

土本 いや、それはないですね。山村工作隊は”奴隷状態”でした。食い物もないし、トイレもない。そもそも自由な討論が許されない。「われわれは米軍基地に水を供給している小河内ダムを潰さなくてはいけない。朝鮮戦争を準備しているのはこのダムだ」というようなことを上意下達で言ってくる。その方針が絶対なわけ。五人組の”納得づく”とは違います。

ー負け戦になると分かっていて撮っているように見えます。

土本 われわれ民衆にそもそも勝ち戦はないんです。勝ったときには世の中が変わっちゃうわけ。だから負けていいんです。なぜ負けたかを掴めればいいんです。だけど、負けるからもう戦わないとなったら、人間として失格なんです。内面的な戦い、精神的な戦いでもいいけれど、戦いというのはいっぱいあるわけ。勝ったことなんて今までの人生で一度もないけど、そのプロセスが大切なんです。プロセスをちゃんと表現できているかどうかが。普仏戦争とか第一次世界大戦とか、具体的な戦争の時期以外に革命が勝利したことはない。沢山の流血があって、この国王に従っていてはダメだとか、このブルジョアに付き合っちゃダメだとか、知る。言い換えれば戦争という膨大な血を流して、やっと世の中が変わる。平和なときには変わりませんよ。むずかしいですね。今の共産党はまったくピンとこないけど、マルクス主義の母体となった思想は、この二、三世紀の間にー長い時間をかけてー作られてきた理想だから、こんなに簡単に一九〇〇年代の一世紀のことだけで否定されてたまるかと思いますよ。

 万博と「第三世界」

ー『パルチザン前史』の頃の関西といえば、一九七〇(昭和四十五)年の大阪万国博覧会の準備が急ピッチで進んでいたと思いますが、そうした光景を横目で見ながら、万博についてどのように考えていましたか。映画人を含めて”芸術家”がいかに万博と関わるか、あるいは関わらないかということが問われたと聞いています。

土本 僕にとっての万博の七〇年は、水俣を果たして撮れるかどうかで悩み、撮り始めた年でしたが、同世代の映画人の様子を反面教師として見ながら、やはり僕は万博はダメだと思ったんです。優秀な人材は限られていますから、瀬川順一さんや松本俊夫さんも関わった。万博が作家に与えた条件というのは、金銭的・予算的には僕らが一生かかっても二度と出会えるかどうかというくらい大きかったんです。その後いろいろな博覧会がありましたけど、万博ほど金を使えた機会はなかったでしょう。まあ松本さんなんかはあまり金を使わずにやって、その後の劇映画に繋げたのを知っていますけどね。で、僕は必ずしも人が万博やったからどうのこうのとは思いませんけど、自分としては、万博は誰のための青写真を描くものなのかと考えたときに、ドキュメンタリーが入る余地はないと思いました。だから、何も意図して反対したわけじゃないけど、僕はちょっと他にやりたいことがあるので、という形で関わらなかったんです。

ー万博に出る企業のPR的な映像を作ってほしいみたいな依頼が多かったのですか。

土本 万博が終わって一、二年経ってみると、あれが一人ひとりの作家に与えた”影響”というか、意外に本人も気がつかない、周りも気がつかないくらい微妙で深い影響があったと思う。つまりその時期に、小川(紳介)ちゃんたちは三里塚に入っているし、片や僕らも水俣を始めているし、あまりにも対比がハッキリしちゃった。
 万博というのは先進国の象徴ですが、あの当時の時代状況を考えてみると、水俣や三里塚のように、毒を流されたり土地を奪われたりという、いわば前近代的な状況も同時並行してあったわけです。人が住んでいるところに毒を流して知らん顔をしているとか、空港を作るから先祖代々の農地を壊すとか。「これは日本の中の”第三世界”でもある」ととらえるほうが、相応しかった。あんなふうに、日本の中で第三世界的状況と先進国的状況が渦巻いていた時期はなかったと思います。まあ、「第三世界」を撮らねばならぬ、なんていう観念よりは、事実、水俣のほうが面白いから撮りに入ったんだけど。
 僕は怒っていなければ仕事ができないタチなんです。戦争体験の話になっちゃうけど、信じ切っていた天皇制なり軍隊なり、そういった価値観が一晩でまったく逆転してしまった。あの体験で、権威に対する不信感が骨の髄まで染み込みましたからね。だから今でも例えばベストセラー本を見ると「これはきっと胡散臭いぞ」って思ってしまうし(笑)、僕自身が納得しなかったら映画は作らん、という思いはずっと変わりませんね。