ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話 第三章 「水俣」シリーズの彼方に インタビュー
1 『水俣ー患者さんとその世界ー』
映画か運動か
ー一九六九~七〇年、水俣の映画の始動の時期になりました。まず『水俣ー患者さんとその世界ー』を撮り始めたきっかけを教えてください。プロデューサーの高木隆太郎さんは水俣に近い熊本県宇土半島のご出身ですね。
土本 当時、高木さんは岩波映画から出てフリーになっていて、東陽一と東プロで『沖縄列島』(69)を撮っていた時期です。一九六〇年代は後半、東大はじめ日大など、全国の学生が決起に明け暮れた激動の時期でしたから、映画界も既成の体制が崩れていく時期でもありました。「青の会」はじめ、多くの作家がフリーになり、自主製作をめざして、作家同土がしのぎあっていた、面白い時代でした。東プロも、高木プロデューサーを通じて新展開していました。『沖縄列島』で解散と決めていたんだけど、故郷の熊本で水俣病関連の運動をやっている友だちが沢山いて、東君で水俣をどうかつていう話があったんです。で、東君と僕も呼ばれて、話し合ったことがあります。だけどなかなか決まらなくてね。僕は『水俣の子は生きている』以来、水俣が怖くて、気持ちが整理できていなかったんで、心理的には逃げていました。でも最終的にはやっぱり僕がやるって名乗り出なきゃ駄目かなって思っていました。
僕の気持ちを前向きに作るのは大変でした。そのため、映画を撮ることを抑制して、まずは患者さんの運動に集中することにしました。それは正解でした。その頃、いろんな支援活動の人たちが熊本から上京してきて、東京の人もそれに応えてデモをする。つまり、運動映画を作るならハイライトが山ほどあったし、キャメラを回そうと思えば回せたんだけど、回さなかった。現場で患者さんとの本当の関係が生まれるまでの間、むしろやるべきことは運動そのものだ、とキャメラマンの大津幸四郎君とも話して、キャメラを持たずに東京での運動に参加しました。厚生省の中に座り込んだときは、彼は警視庁に届けを出す役とか、僕は偵察役でどこから入れば省内に入れるか偵察するとか。一九七〇年の五月二十五日の厚生省行動のとき、支援者十人くらい一緒にパクられましたけど、八階から一階までの階段を全部警官に担がれて降されたのは僕一人だったんです(笑)。それで、やっと撮れるかなっていう感触にはなってきた。
ー「運動」をしているご自身と、映画を作るご自身を区別するというのは、どのような考えに基づいているのですか。
土本 それというのも、僕は最初に水俣へ行って失敗したからね。あれから四、五年たっても患者さんを撮るのが怖くてね。支援者として、そのあと厚生省に抗議に行くとか、デモをやるとかは一所懸命やりましたけれども、撮影についてはなかなか返事をしなかったんですよ。そんなとき、熊本の渡辺京二(評論家 一九三〇年~/主著「評伝 宮崎滔天」など)という「熊本水俣病を告発する会」の中心人物がいますが、堅くなっている東京の支援者たちを見てニコニコしながら「しかし、患者さんは面白かですよ。彼らはもともとは漁師ですからね」と言った。この一言ですよ。「患者の手前に漁師があるから面白かですよ」って。僕は患者の話は全部深刻な話だと思っていたから、そう言われて、ああそうか、そう見ればいいんだと、つまり人間が撮れればいいんだ、とそう思ったら気がすっかり楽になった。そういう意味では僕を”演出”する人もいたわけです(笑)。
ー小川プ口の「三里塚」シリーズの場合は完全に運動の中に入っていって撮るという方法ですが、土本さんはなぜ運動をしながら撮ってはいけないというふうに踏みとどまったのでしょうか。
土本 あとで付けた理屈はいろいろあるけど、やっぱり運動していたら映画のことにあまり頭が回らなくなるだろうということと、映画を撮っていたら運動に対してある種の期待をするでしょう。こう言ってほしいとか、ああ動いてほしいとか。それは相手にそれとなく伝わっちゃうんじゃないかと。だから映画は映画のちゃんとした枠というか運動との隔たりを持たなくては駄目だと思ったんです。
ー水俣の場合は撮影期間がもっと長期化するという予感はありましたか。
土本 ええ、日本の裁判闘争は十年や二十年は続くだろうという予感はありました。裁判は勝つだろうが、そのあとどうなるか。裁判までは確かにマスコミの追い風があった。患者を代表して渡辺栄蔵さんが「マスコミのみなさん、本当にありがとうございます」とお礼を言ったのは当然です。ところが患者の全面勝訴になった一九七三年の段階で、世論は祝福ムードになって、さーっと引いたんです。報道の頻度はがた落ちになった。僕はむしろそのあと見えてくるものを撮りたいという思いから、『医学としての水俣病ー三部作ー』と『不知火海』に向かったわけです。通常のジャーナリズムと違う点はそのあたりでしょう。
ただ、心配だったのは青林舎という製作母体の体力です。一本作るのにあの当時で九百万円くらいだったけれど、借金してるのは分かっているし、スタッフにも十分な生活費なんか出ない。そりゃ小川プロはもっとひどかったでしょうけれども。だからスタッフを常駐させておくことはできない。ちなみにみんなで稼げる仕事を探して、僕はあの時期にCMを随分撮りました。「トヨスあられ」とか靴の「クラリーノ」とか電電公社とか。けつこう賞を取ったんですよ(笑)。
ーCMをやらないとやっていけなかったと。
土本 いや、もう、あれがなかったらちょっと大変でしたね。だから小川プロが怖かったんですよ。上映収入とカンパでやっている。それでいてみんなが楽しそうにやっているでしょ(笑)。小川ちゃんは僕のところに来ると、いかに団結してやっているかを、ぶわーっとぶつわけ。実はいろいろとあるだろうけれど(笑)。だから僕はいつも小川プロに気位で負けていました。
「名刺ショット」と「撮った順」
一『水俣ー患者さんとその世界ー』を撮っているときのスタッフワーク、特に大津キャメラマンとの関係ですが、土本さんと患者さんとの関係性が作られる一方で、直接的にキャメラを向ける大津さんと患者さんの関係というのが非常に重要になってくるのではないかと思うのですが。
土本 当然そうです。しかし、撮影の条件は僕も作ります。大津君は演出力のあるキャメラマンですから、ある現場を作ればあとは何にも注意しなかったです。シンクロ撮影ではないという苦労はありましたけど。つまり、当時使っていたアリ・16STキャメラは駆動音が相当なものです。キャメラを回しながら声や音を採るのは無理でした。音と画を同時にとれる今のようなキヤメラは当時はありませんでしたね。防音キャメラ(同録用に開発された)が使えるようになったのは、この三、四年ぐらいあとからです。もっとも金さえあればレンタルで借りられましたがー。ですから話をする人物の声は無視して撮影し、話は別に採って画を重ね、最終的に編集の段階で調整をするという、多分、日本でしかやらない方法で繋いだのがこの『水俣ー 患者さんとその世界』です。普通のキャメラマンは機材が揃わなければ撮りません。しかし大津君には音を考えながら、喋る人物を撮ってもらうという無理を頼みました。ですから、話とその表情は一致しているようでも、口と声が合わないのです。いま観るとその合わないことが不思議なリアリティを感じさせますが・・・。
ーということは、インタビューはまず音声を採って、そのあとに画を撮るのですか。
土本 基本はそうですが、逆の場合もあります。被写体に応じて臨機応変です。
一番苦労したのは僕を入れて四、五人のスタッフが患者さんを囲んでいますから、威圧感を感じるのが当然です。誰もが話の種を持っているわけではありませんし、黙っていても喋る人たちではないですから、いかに言葉を引き出すかということと、こちらに対する安心感をどう作ってもらえるかをいつも考えていました。そこで考えたのは、「名刺カット」という方法です。誰でも人に一番見てほしいもの、撮ってほしいもの、分かってほしいものを、必ず一つ二つは持っているんです。例えば自慢のメジロを飼っていたり、かわいい子ネコとか、水俣病とは関係ないけれども、とても慈しんでいるものがある。それを最初に撮ることにしたんです。「名刺カット」と名づけたけれど、名刺を交換するのと同じような感じで、相手にとってはそれが名刺なんです。そういうものをきちんと撮っていく過程で僕たちも次を考えられるようになるし、相手もそこからまた話が始まる。
ー『水俣の子は生きている』のときに罵倒されたというエピソードからこの『水俣ー患者さんとその世界ー 』は五、六年経っていますが、水俣の状況も変わってきていたのでしょうか。
土本 そうです。政府が認定して、いよいよこれからどういうふうに償いをしてもらうかというときですからー。すっかり変わりました。患者さん百二十一名も二派に分かれ、国の方針に任せる「一任派」と、裁判で争っても、自分たちで納得するまで補償を要求したいという「訴訟派」とに分かれました。訴訟派の人たちが裁判を起こした一九七〇年から僕たちは映画を作りましたから、五年前のTV『水俣の子は生きている』のときとは局面がまったく違うんです。前はいくら撮られても何の役にも立たないということを骨身に染みている人たちだったけれども、そういうふうに状況が変わって、水俣病が今まで誰のせいか分からなかったのが、チッソが流した毒が原因ということを政府が認めるようになった。そういう原因を隠してお涙金程度の補償金をよこしていたチッソに対して「なんじゃ」ということになりました。だから、発言したいという患者たちの気持ちが裁判を通じて溢れ出ていた時期だったんです。
ーどういう人から撮っていったのですか。
土本 訴訟派の人たち二十九世帯を全部撮りたいわけですが、映画はそんなに大勢の人を細かく撮るわけにはいかないから、最終的にはどこかで選ばなくてはならないという気持ちは働いているんだけど、全世帯をとにかく撮るということをまず決めた。場合によってはフィルムが全世帯均等に回せなくなっても、音声テープだけは十分採ろうと決めた。患者さんを選別しない、相手をこちらで選ばない、そういう原則をまず決めた。それを決めたあとで、誰から撮り始めるべきかを考えていったら、ある現象に気がついたんです。つまり、同じ被害者でもいくつかのタイプがあるということ。自分自身が水俣病になったから補償してくれという人と、水俣病で死んだ家族のために補償してくれという人と、もう一つのケースは子どもの患者。
その三つは似ているようで大いに違うんです。小児患者の場合は、いたいけな子どもが物心ついてきたところですから、親たちは子どもを心配させたくないという気持ちが当然あって、子どもが撮られることには非常に敏感にならざるをえない。それから成人の患者本人というケースは、職場とか結婚とかいろんな局面で直接的な差別を受け続けてきた人たちだから、非常に敏感です。で、やっと一カ月か二カ月経って気がついたのは、それぞれの違いです。死者のために裁判している遺族は口が非常に滑らかなんです。思い出を語りやすい。自分の親や夫がこんな苦労をしたという話だから、比較的話しやすい。話すことに対するわだかまりがそれほどないということが分かったから、まず撮る順序としては死者について家族が語るところから順番に撮っていこう。それが済んだら次に当事者の成人患者を撮っていこう。そして最後に小児患者と胎児性患者を撮ろう。スタッフもすぐこの方針が飲み込めた。家族の思い出を語る人と、現在の自分の身体を説明して怒りがこみ上げてくる人と、子どものことを考えて非常に神経を使う親たちと、それぞれの違いを、スタッフもすぐに理解してその順番を守って撮っていきました。
ー完成した映画もその順番になっていますね。前半に亡くなった人の話があって、子どもが出てくるのは最後のほう。
土本 その順序は崩せないんだな、僕は。冒頭にいわゆる最もショッキングな例を出すという構成法はないことはないと思うけれど、それは僕の考える「リアル」とは違うんです。この場面がクリアできなければ次に進めなかったという撮影のプロセスを、映画を観る人もその順序で観ていってほしいと思っていました。基本は「撮った順につなぐ」ということです。
一つ失敗談を話しますと、ちょうど僕たちが向こうで仕事を始めた頃に、すぐ前の家に胎児性患者の上村智子ちゃんという女の子がいたんです。胎児性で「アア」「アア」としか言えない最重症児です。ちょうど夏休みの時期で、初めて水俣の子どもたちが先生に連れられてお見舞いに来たんですよ。先生も水俣病なんかに関わると差し障りがあるから、特にそういう積極性はなかったわけ。同じ水俣にいながら初めて小学生が来たわけだから、これは撮っておくべきだと思って撮りに行ったら、智子ちゃんの様子がおかしい。目をひんむいて、もの凄い形相で引きつる。ところが、お見舞いの子どもたちはそれが水俣病だと思っちゃうわけ。もの言えぬ子どもの怒った顔なんだけど、一回しか見ない人は、怒っているのか痙攣しているのか分からないから、ああ、水俣病ってこんなに凄いのかつて思ってしまう。そういう写真いっぱいありますしね。でもたいていそういう写真の大半は、患児が嫌だと訴えているのに撮っているわけ。相当著名な人の写真でも子どもが拒否しているのが分かる写真があります。ユージン・スミス(写真家 一九一八~七八年/『写真集 水俣』など)の有名な湯船の母子の写真もそうです。体が強ばっています。思春期になりかけの女の子がどういうふうに嫌がっているかは、よく写真を見ればすぐ分かります。
僕らも智子ちゃんがどれだけの感性を内面に持っているか全然知らなかった。親のほうはもう慣れっこだから、引きつっていても抱いている。子どもたちがお見舞いに来て神妙に覗き込むけれど、やはり子どもたちに見られるのが嫌なのね。だからキヤメラもそのとおりに撮れちゃったんです。で、ラッシュを見て、これは違うぜ、と。僕たちが日常的にふっと見る彼女とあまりにも違うと。だからそれはまったく使わなかった。それで子どもを撮るにはどういうふうにしたらいいのかを考えて、まず遺族、次に成人患者、そして発信力の弱い小児患者にいくという順序を決めたのは、そのときの失敗が大きいです。
子どもを一人ずつ撮っていくうちに、他の親たちもいつ来るかなと思っているので、家でそういうことを話題にする。「もうじき映画の人たちが来るぞ」「鍵を閉めておかなくちゃ」みたいなことを普段言いながらも、とにかく撮らせてくれる。そうすると子どもは何も言わないけれど、キヤメラが来て自分を撮るということをあらかじめ知っていて、親が話題にすることで一回クッションになっているから、完全に気持ちが打ち解けているんです。これはすごい判断力です。もう全部分かっている。親が見ても、この子は今日はいい顔をしている、というようなことになる。それは全部、家庭が状況を作ってくれたということです。
ー例の『戦ふ兵隊』で亀井文夫が中国人をどう撮ろうとしたかという話とも繋がってきますね。引きつった顔のほうがショッキングな告発の画にはなるかもしれませんが、『水俣ー患者さんとその世界ー』にそういう子どもは一人も出てきませんね。
土本 亀井さん的な、羽交い絞めされた少年の顔を撮るという発想は僕にはないですから。
永遠のよそ者
ーもう一つ伺いたいのは、土本さんご自身の水俣での立場についてです。子どもとのやり取りの中で「おじちゃんは東京から来たんだ」と会話されていますが、旅人と定住者という両極があるとすると、そのへんはどういうふうにお考えになったんですか。
土本 そのへんは徹底して東京の人間ということです。僕は方言を覚えましたが、今にいたるまで一言も使ったことはないです。インタビューを水俣の方言でやって映画を撮る人もいたし、それはそれでおかしくはないけど、やはり僕は”よそ者”という線を最後まで自覚していたいから使いません。
ー自らをよそ者と自覚するというのはなぜでしょうか。
土本 内部者になれば、あなたの気持ちは本当に分かるんだよな、みたいなことは言いやすくなる。そういうことはおくびにも出したくなかった。つまり永遠の分からず屋という立場です。こうだよね、ああ、そうですね、という阿吽の呼吸は一切やめた。僕と相手の二人だけで分かっているようなふりは一切したくなかった。だからほとんど分かりながら、分からないところを大切にして、そこを聞いていくということです。患者との関係性をつくるとすれば、なあなあになるのではなく、分からず屋になるということ。患者たちは、この苦しみは当事者にしか分からないだろうと思っている。まったくそのとおりなんです。だから、分からず屋の僕が分かる話は一般の観客にも分かるはずだ、ということを念頭に置きました。
補足すると、知り合いになった順序と撮った順序はイコールではない。川本輝夫さんとはかなり初期に知り合ったけど、映画に出てくるのは最後の未認定患者の部分です。というのは、誰を先に撮って、次に誰を撮ったかということは、周りはみんな知っています。あの映画の人たちはどういうふうに自分らと付き合っているか、というのをみんな微妙に掴んでいるんですよ。例えば、なかなか小児患者の世界に入っていけなかったときですが、最初に発病した田中実子ちゃんの父親が、僕らの宿舎の近所なもんで、時どきちらつとラッシュを見にきては黙って帰っていくんです。で、あるときやって来て、もういい加減に俺んちを撮らんかつて言うんだよ(笑)。俺んちを撮らなくて何が水俣を語れるか、って。ああ、そうですかと恐縮して行くと、それがすぐ周りに知られるわけね。実子ちゃんの親が撮らせた、じゃあ次は自分のところだ、というふうに広がっていく。僕らも全部撮ると言っていたし、みんないつかは来ると思っている。だからどういう順序で撮るかというのは大きかったですね。
ーほぼ四カ月でラストの株主総会まで全部お撮りになったんですか。
土本 そうです。実はラストシーンだけは「撮った順」という僕の原則を曲げて、株主総会のシーンのあとに、総会前に撮ったシーンをあえて入れてあります。だから、総会のあとも水俣では相変わらず畑仕事が続き、ボラ漁が続いているという順序で終わる。あえて株主総会で終えなかったんです。というのは、勝った勝ったで終われば東映映画のラストと同じになっちゃうんです(笑)。あのときは一株運動もあって、株主総会は必ず盛り上がるという雰囲気があるから、患者さんたちもだいぶ前から御詠歌を練習して、やっぱり演技を考えるわけです。以前の告発のときみたいにゼッケンとハチマキじゃなくて、巡礼姿がいいんだと。白装束に同行二人と書いた。あれは頼まれて僕が書いたんですけど(笑)。会社にやられた人間が最後に立ち上がって「社長!」って糾弾するのなんか、まるで頼んだように東映映画になる。これはかえって困ったなと思ったんです。株主総会での患者の怒りの爆発は徹底的に撮ろうと思いましたが、それだけでは終われないというのもずっと前から感じていました。それで、勝つことは勝つだろうが、この闘いはその後が大変だろう、現実は続いていく、という終わり方にした。撮った順を編集で崩して、水俣の「み」の字も言わないで、畑仕事をしている会長の渡辺老人の「魚は美味い」という話だけ。それからボラを獲る小舟に御詠歌をかぶせて締めくくった。これは賛否両論でした。イギリスのある監督は、株主総会で終わったらどんなにいい映画だったか、なんて言うから、この劇映画カントク、何を言うかと思ったけど(笑)。
浜元フミヨさんのこと
ースタッフの宿舎はどうしたのですか。土本そうです、どこが宿舎かは大事ですね。僕らを判断する材料になりますからー。株主総会で江頭社長に食ってかかる浜元フミヨさんという人がいますね。弟の浜元二徳さんも総会のシーンに出てきます。彼らの両親が亡くなってフミヨさんが一人で住んでいる。その一人住まいの家をほとんど空けてもらって、スタッフの寝泊まりから、僕らの家事一切の面倒をみてもらったんです。これは石牟礼道子さん(作家 一九二七年~/主著「苦海浄土 わが水俣」など)が段取りしてくれたんです。水俣の町なかには宿があるけれども、ちょっと離れた部落の中によそ者が泊まっている場所は僕たちのところしかなかったから、当時は三里塚なんかもそうだつたと思うけど、支援者が入れ替わり来ては泊まっていく。彼らの水俣の”宿”になってしまった(笑)。
食事はとにかく刺身を食わせてくれればいい、と言ったもんだから、地元のボラの刺身ばかりでした。一日三百グラム以上食べると水銀が危ないって言われているのに(笑)。そのときはこれくらい大丈夫だろう、魚なんか怖くない、みたいな顔をしてね。実際うまかったから、魚を食わなかった日はなかったですね。
ー浜元フミヨさんはどんな方だったんですか。映画で観ると力強いおばさんという印象ですが。
土本 いやあ、水俣で僕たち居候はフミヨさんに何度も怒られましたよ(笑)。小川プロなんかもそういう時期があったと思うけど、外部の人が絶えず集まってくる場所になっちゃうから、飲み会から何から、全部成り行きになるでしょう。だからフミヨさんには、僕たちの世話だけじゃなくて、僕たちを訪ねてくる人の酒、食事、宿泊を含めて大変な面倒をかけました。暑い夏でしたから汗をかきます。風呂は当時まだ五右衛門風呂でしたね。それをみんなで使うわけだけど、支援者は都会育ちだから入り方の心得がない。入った者は自分の使った分だけ水を足して、薪を足して火を絶やさないようにして、次々に入れ替わりながらお湯が切れないようにする知恵があるものなんですけど、ところが東京から来た人なんかは五右衛門風呂の入り方なんて知らないから、頭を洗って出ると風呂の底が見えるくらい湯が減っている。彼女はそういうのを見ると怒るんです。「人間の風呂の入り方はあんなもんじゃない。あとの人に気を遣わん東京者は好かん!」てね。で、怒りの矛先はすべて支援者たちを泊めた責任者の僕に向かってくるから参りましたけど(笑)。共同生活をやっていく場合に一番大事なことを教えてくれる、ああいう人がいなければ僕らの生活も成り立たなかったですね。フミヨさんは恩人です。
当時、患者のところに寄ってくるのはみんな「アカ」だと見られていたから、警察がしょっちゅう気にするわけ。何とかおべっかをつかいながら立ち寄ろうとする。これに即座に厳しい態度を見せたのもフミヨさんでした。「この人たちは私が面倒見てるから、何かあったらこっちから電話するから、来んでいい」と言って遠ざけていました。それから警察はロケの四カ月間、一切姿を見せませんでしたね。
ー電話やテレビは普及していましたか。
土本 一九七〇年代のはじめ、電話はまだ普及前だったし、テレビが揃うのも五年くらいあとです。一九八〇年代、水俣もやがて総中流化というか、どの家にも電話とテレビが入って自家用車があるという時代に移っていくわけですが、同時に過疎化も進んで都会に若者が吸い取られていった。七〇年代初頭から現在までに人口が三分の一くらい減ったんじゃないですか。
ーそれはチッソが水俣工場を縮小したことが影響したのですか。
土本 それは大きいです。六〇年代の安定賃金ストを境にチッソ自身がどんどん合理化して労働者を減らしました。いわゆるオートメーション化です。片や漁業のほうも、今は水俣病が起きた頃の漁業の形とはまったく違うでしょう。養殖が主体になって、一種の漁業産業になっちゃいました。一本釣りや網なんかでやっている人、あるいはイワシのちりめんを獲っている人なんか、水俣ではもう指折り数えるほどしかいないですよ。
大津キャメラマンとのコンビ
ー土本さんの周りにはいろいろなキャメラマンの方がいらっしゃいますが、その中でなぜ大津幸四郎さんを選ばれたのですか。
土本 なぜかね(笑)。昔から「青の会」でも気が合ったんだけど、彼はあの頃、小川ちゃんの『圧殺の森ー高崎経済大学闘争の記録』(67)とか『日本解放戦線・三里塚の夏』(68)をやったでしょ。僕はうまいなと思っていました。それで『パルチザン前史』で組んだのだから、次の『水俣ー患者さんとその世界ー』は自然な流れですね。彼も三里塚のほうは一段落したという感じだったし。大津君はキャメラというものが非常に恐ろしい特権物であることをよくわきまえている人です。それに撮る当事者としての「私」というものをよく分かっている人。彼のそういうところに対する基本的な信頼があります。
ータコ獲り老人のシーンは印象的です。
土本 あれはね、大津君と二人で腹を決めてやったのは、俺らも水に浸かって撮ろうということなんですよ。だからテープレコーダーを海水に漬けて壊しちゃって(笑)。あの目線の位置と、海中の歩行があそこの撮影のポイントです。船やいかだに乗って撮る方法もありましたが、あれは大津君もタコ獲り老人と同じになっていたわけです。箱眼鏡の中にキャメラを入れて、手持ちでずっと追いかけていく、大変な撮影です。
ーああいう名人だというのは、付き合っていくなかで分かってくるんですか。
土本 ええ、そうです。患者の集会で送り迎えの運転手をやったりして打ち解けていくうちに、だんだんと「俺のところへ撮りに来い、タコ獲りを見せてやる」みたいになっていった。あれはおじいさんの一番好きなことを撮ってあげたから、撮られるときにうれしくてうれしくてね。彼も僕らの撮り方を見ています。一所懸命に水に浸ってカメラを回している。それを見ると彼も”名演技”に没頭していくんですね。やらせなんていうものじゃない。”共演”していくんですね。それがあのシーンの魅力じゃないですか!
ー何人くらいのスタッフ編成で水俣にいらしたんですか。
土本 四人です。僕と助手の堀傑君、それに大津さんと一之瀬正史君(撮影監督 一九四五年~/『ナージヤの村』など)のキャメラマン二人。堀君というのは中央大学の全共闘で手配されていたんです。じゃあ俺について来いというわけで水俣へ連れていった。彼はこれとあと一本くらいで映画の世界から抜けちゃいましたけど、『水俣ー患者さんとその世界ー』のときは編集まで全部付き合ってくれて、とても頼りになりました。批評が的確でしたからー。
最初もう一人助監督がいたんですが、この人には帰ってもらいました。というのは、新婚早々で、僕らに何も言わないで同じロケ先に患者さんのツテで部屋を借りて奥さんを住まわせて、通い始めた。知らない女性と一緒にいると思ったら、彼の奥さんだったんです。奥さんが水俣を知りたいと言うから連れてきたけど、スタッフに言うのは面倒くさいから、自分の金でやりましたというから、困っちゃった。そりゃ分かりますよ。熱心な奥さんで、それなりにしっかりやる人だろうし、奥さんのほうが追いかけて来たんだろうって。でも水俣では困ります。水俣は水俣病になったために離婚したり結婚できない人があっちこっちにいる世界でしょ。だから当時の僕は女房を一度も連れていっていません。それからスタッフは四カ月に一度は家庭に帰しました。一之瀬君は独り者だったから帰らなかったけど。向こうの人は、仮に僕がカミさんを連れていっても何とも思わないでしょうけれども、僕のほうが怖かったんです。地元の人との恋愛は一切禁止しました。恋愛はご法度。だって、堀君に娘をどうだなんて話がくるんだもの(笑)。
ー取材に回る”足”は自動車ですか。
土本 ええ。一台しかなかったけれども、四人だったら十分乗れるから。僕らのいた家で集会を開くことが多かったんですが、みんなバス停で二つか三つくらい先から来るでしょ。それも一日朝夕の便しかない。僕らが何往復かして送り届けるわけです。茂道という遠い部落の患者が一番多くて、僕らのあだ名が茂道タクシー。運転するのはほとんど僕です。それがよかった。患者と二人だけの話ができたから。集会のあとだから、「土本さん、みんな本当のこと言っていると思うかな」なんて聞いてきて、家に着いても車を降りないでまだ話している。それがものすごく勉強になった。
ー録音は土本さんがマイクを持ってやったということですか。
土本 ええ、その点はフレデリック・ワイズマン(映画監督 一九三〇年~/『動物園」など)と同じことを同じ時期にやっているわけです。最終的には久保田幸雄さんに整えてもらいました。
「水俣」シリーズの方法論
ー『水俣ー患者さんとその世界ー』を観ると、対象に応じて撮り方を工夫されているという印象を受けます。つまり、群れになっている集団を撮る闘争のシーンと、ほとんどものを言わぬ子どもを一人ずつキャメラに収めるシーンは対照的です。こうした対比の並べ方など、それまでのご経験で培った方法論の再構築のようにも見えるのですが。
土本 そうですね。僕の方法論はおおむね『留学生チュアスイリン』以前と以後に分かれます。それ以前はドキュメンタリーと必ずしも言えないような演出を求められました。『ある機関助士』も『ドキュメント 路上』もシナリオがあって、それを元にドキュメンタリー的な撮り方をして映画を作っていくというやり方です。
ところが水俣の場合、現実の物事は、どうなっていくか分からない。こっちが考えるとおりにいかないことは百も承知で、そのうえで「しまった、こんなことは予測しなかった」ということがないように絶えず二、三通りの展開の可能性だけはみんなで考えておく。予想どおりいかなかったときに、ぱっと切り替えられるようにする、という方法が、水俣以前の『パルチザン前史』までにだいたいできあがっていました。
水俣は、みんなが手探りで進めていることだから、僕たちも雑談なんかからヒントを得て引き出しを沢山作っておく。これはそっち、それはあっちの引き出しにあった、てな具合に大津君も掴んでいるわけ。それを撮るみたいなことをしますからね。ドキュメンタリーは、いわばスタッフの旅の記録ですから、もう引き返せないんです。次へ行ったら、次のドラマがあるはずだと僕は思います。
この前アメリカ(二〇〇三年のロバート・フラハティ・セミナー)で、僕の修業時代の『ある機関助士』『ドキュメント 路上』と、「水俣」シリーズを続けて上映したら、文法がまったく違う、別人が撮ったんじゃないか、と議論になりました。それはそうだろうと思います。現実を再構成した初期の映画と水俣の全記録を歴史的に残そうとするものとの違いはありますからね。どちらも映画としてホンモノでありたいと思っていますが・・・。今後もドキュメンタリーの課題であり続けるでしょう。
ーところで土本さんが時どき画面に映ると、サングラスをかけた東京のおじさんが映っている、という感じになるんですけれども、サングラスで怖がられたり拒絶されたりとかそういうことはなかったですか。
土本 それはあったかもしれないけれども、慣れてもらったんでしょうね。確かに今見ると普通の眼鏡にしとけばよかった、と思わないでもないけど(笑)。僕は映画界に入ったときから遠視性乱視がひどかったから、眩しいです。だから色付きなの。
ー撮らせてくれと言って、いや、撮らないでくれという人もいましたか。つまり結局この人は撮れなかった、というような人は。
土本 撮ると決めた範囲では一人もいません。ただ、訴訟派でない別組織のリーダーはついに撮れませんでした。それから地元の医者で、信頼されている医者なんだけど、水俣病という診断を絶対に下さない人がいたんです。もう亡くなられましたけれどね。その人のインタビューは断られましたね。それからチッソには当然断られた。それから認定する側の学者にも断られました。
ー確かに『水俣ー忠者さんとその世界ー』にはチッソの側の意見は出てこないですね。チツソの関係者で出てくるのは、胎児性患者の父親でチッソの下請け会社の運転手をやっているという人。
土本 上村さんですね。この方はみんなに知られた智子さんの父親ですから、公然化していましたが、それを言わない人も多かったですね。水俣市民の三分の一が何らかの形でチッソ本体か下請け孫請けのところで現金収入を得ていましたからね。水俣で現金収入を得る勤め口は公務員かチッソしかなかったですから。
ーということは、チッソがあれだけの害毒を流していたのと同時に、あの工場がなくなってしまうかもしれないことは、水俣全体にとっては重大なことだったわけですね。
土本 そうです。今でもそうです。今は水俣の患者も含めて、チッソは憎い奴だったけれど、いったん認定したら金はすぐ払うし、葬式には花輪を持ってくる。いくつもの裁判でその判決に服して、一貫して加害者性を認めるチッソを許している患者も多いです。だからチッソが町を離れるというのにはみんな、反対しました。
ー皮肉な話ですね。まさに第三世界的な状況なわけで、加害者だけど資本のある者がいなくなると、地元の経済自体が立ち行かなくなってしまう。単に水俣病を公害病として考えるだけではすまない問題だと思うのは、公害の海であっても漁を続けなければ生活できないし、チッソがなくなっても生活できない。その複雑さを描くには、単に資本家は悪という態度だけでは、そこだけ告発したとしてもより深い部分に到達できない映画になってしまうだろうと思います。
土本 公害はすぐ社会問題なり政治問題になるわけで、それは非常に大事なことだけど、現実に不知火海で生きる、あるいは水俣で生きる者にとって、根本的には公害の問題よりあからさまな差別、おとしめられた地域の文化の問題が最も基盤にあると思うんです。そもそもここの人たちの不健康については、ちょっと目をつぶろうという意識がまかり通ったことです。ですから、毒性のある廃液の垂れ流しを放置することになったんです。だから僕なんかが許せないと思うのは、人間の生命に対する極端な差別、第三世界的にチッソが水俣に君臨してきたという歳月です。そしてさらに事件をここまで引っ張ってきたことへの反省が政府にも、県にもないことです。人間には過ちはあるんだから、それを認めることが一番大事でしょう。それを不可能にするような、いい加減さというか、被害者層への差別と倣慢さがやっぱり一番許せないことです。「もう二度と水俣病を繰り返すな!」と言いますが、骨身に染みた教訓になっているでしょうかねえ。せめてその疑問を抱き続けたいと思いますね。
2 『水俣一揆ー一生を問う人びとー』
闘争の映画か?
ーさて、中篇の『水俣レポート1 実録 公調委』(73)を経て『水俣一揆ー一生を問う人びとー』(73)が完成しますが、このあたりは一見するとシリーズ中で最も激しい「闘争の映画」という印象です。特に『水俣一揆』は初のシンクロ撮影という点でも重要ですが、東京のチッソ本社に乗り込んだ患者たちの直接交渉に随伴した緊急レポートです。ほとんど全篇が室内劇で、激しい交渉闘争の最前線にずっとキヤメラとマイクを置いているという意昧では闘争の映画ですが、詰め寄る患者さんの表情はむろんのこと、チッソ側の人間にも威厳とか尊厳が感じられるような印象で、実は「闘争の映画」と簡単にくくれないところがあるような気がします。
土本 フランスの作家が「これはシナリオには書けないような言葉のドラマということが分かりますー」と言ったが、本当にそうでしょう。あとで再録シナリオにしたのですが、「よくもこんなセリフが・・・」という、無駄のないとぎすまされた言葉でつづられた一篇でした。僕もびっくりしたんですが、人間の本当の怒りのあらわれ方というのは想像がつかないものです。患者さんが心底腹を立てて喋っている。眼前の敵に向かって「これだけ喋ってもお前は本当に分からんのか」という根源的な怒りです。ところが、反論できない相手を見ながら自分のほうで調子を変えていく。つまり加害者にいたわりの眼差しすら投げかけるようになっていく。対決の中でこういった光景は滅多に見られるものではないです。ずっとくっついてきた僕らのキャメラがもう目障りではなくなっているわけ。会社側と患者側が向き合って並んでいて、僕は床に座って両者にマイクを振っているから、音はやたらとクリアに採れた。あれは成功したと思います。
ーチッソ側の言い分も撮らなければいけないという方針を立てていたのですか。
土本 そうです。会社側の言い分をたくさん撮るのが今度の仕事だと思っていました。患者側の論理はそれまでの作品で分かるわけですから。それに比べて会社側の論理は『水俣ー患者さんとその世界ー』では撮れなかったし、僕にも分からなかった。つまり、患者から責められて絶体絶命に追い込められて、彼らがどういうふうに患者に応えるのか。そこに人間がいるのかいないのか、というような関心です。
僕はトータルに見れば壮絶なすれ違いがあったと思います。しかし、人間がいることは確かだった。島田社長はのちに死の床でチッソの工場を全部、組合と患者の管轄にしようという文章を秘書に書かせて、これを重役会で諮ってくれと命じたといいます。重役会はそれを棚上げにしましたが、その文章が残っています。その社長の気持ちは、このときに生まれたものだと思います。
ー大津幸四郎さんのキャメラは会社側の背後にあるシーンが多く、患者さんを社長の肩越しで撮っていますね。
土本 基本方針としては、患者さんが社長に向かって発言するのをとらえるように、社長の側にカメラを置いて撮ったものと、もう一つは会社側の顔が見えるように、患者さんの背後にもう一つ置いて、二台で回したんです。高岩仁さん(撮影監督 一九三五年~二〇〇八年/監督作「教えられなかった戦争」シリーズなど)と大津君で。
ー結果的に使われているのは社長の背後にある大津さんのキャメラが多い。島田社長をきちんと撮るべきだというのは、土本さん自身が最初から指示したのですか。
土本 ええ、こんな機会はもう二度とないと思いましたから。チッソが元気のいいときは、キャメラが交渉の場などには入れませんでしたからね。ところが裁判が敗訴になって、患者の言うことをじかに聞かなければいけない立場になった。その患者たちを追いかける僕たちのキヤメラも交渉の場に入れざるを得なかった。僕たちもきちんと挨拶してキャメラを入れさせてもらったんです。どうぞとは言われないけど、断られませんでした。で、社長の脇でマイクをかざして、その言葉を採ったのです。空前絶後の録音でした。
文化の衝突という問題
ー最初のシークエンスで文書の署名についてやり合う場面で、社長が「これだけ患者さんが増えてしまうと、補償でチッソが潰れてしまうということも噂されていて、だから「できるだけ(補償する)という一言を入れさせてくれ」と言います。ああいうことを言ったらそれだげで株価が下がるような気がしますが。
土本 事実、下がったんですよ。
ーあれを言った時点で、この人はもう覚悟を決めているんじゃないかと思いました。
土本 どん詰まりのチッソを救済できる人格というのは、あのまじめな島田社長しかいなかったでしょうね。
ー前作の『水俣ー患者さんとその世界ー』の株主総会のシーンで、浜元フミヨさんに詰め寄られる、当時の江頭社長が思わず引きつったような笑った顔をしていて、「いま笑うたやろ」と糾弾される場面が印象的なんですが、『水俣一揆ー一生を問う人びとー』の島田社長に関してはそういう感じはしない。自分のできる限界のところで誠実に応対している感じがします。
土本 ええ、人柄がよく出ています。患者たちも島田さんしか信用していなかった。患者さんたちは彼がどれだけ心を揺さぶられて、自分たちのほうへ歩み寄ってくれるかということが焦点だと思っていたのではないでしょうか。
ー特に凄まじいシーンは川本輝夫さんが社長の前の机の上であぐらをかいて、禅宗とカトリックの違いは?趣味は何だ?どんな本を読むのか?という会話をするところです。
土本 だけど言葉のトーンには優しさがあります。あれには社長もこたえたんじゃないですかね、あの問いに応えていくのは。社長の張り詰めた神経がクロース・アップで撮れています。よくぞ撮れたと思います。
ーまさに島田さんが人間として抱えている自分の良心を立場上、資本主義システムの中では全うできないというのが、非常によく出ているシーンだと思います。
土本 島田さん自身がチッソの一員として、患者たちに真摯に向き合おうとしても、基本的に患者の論理と社長がしがみついている論理がまったく違うから、どこまでいっても一致しない。患者にとっては一生をどう生きるかという交渉の局面だったから、切羽詰まったやりとりですね。患者も責めながらも、いたわりの気持ちに変わっていくー。ドキュメンタリーだからこそとらえられた表情ですね。本当の人間のドラマがここにあると言えます。
ー土本さんの父上が「水俣一揆」を観て「あの社長は悪い人じゃない」と仰ったそうですね。
土本 かわいそうだって。うちの親父は電力会社の総務課長で、非組合員・反労組の立場の末端管理職だったから、組合から一番よく叩かれた口なんです。
確かにいわゆる悪役ではない。彼らの世界の論理では正しいことを言っているわけです。自分の会社はあなた方の言うとおりにしたら潰れちゃうから、政府の意見を聞いて、それまで判断は保留したいと言っている。彼らの理屈では当り前のことです。だから、患者がいかに怒ったかということは画に残りますけど、考えてみれば、企業の論理と民衆の論理が違うわけですから、すれ違いがあって当然です。僕の画をよく観てもらえば、彼らを決して悪役にしていないです。嘲笑もしていないです。
だから、あの映画は変な映画なんです。敵も懐かしいというか。例えば島田社長は川本輝夫さんに責められて立ち往生して困っちゃいますね。でも顔に滲むわけです。すまん、自分は本当に何もできないけれど、それも言えない、という何ともいえない追い詰められ方が正直に出ているんです。でも正直だから、患者も分かっている。この人はいい人だと。それが患者の応答にも出るわけです。だから社長の前に川本さんが座って「趣味は何ですか」「どんな本が好きですか」と尋ねるときに、本当にその人に対して訊いてみたいことを普通に訊いている行為だということがよく出ています。それに対して社長も、いったい何を訊くんだという顔をしないで誠実に応えている。これは編集した僕が何度でも観たくなる名シーンです(笑)。
ー『水俣一揆』から見えてくるのは、単なる善玉と悪玉の対決などではない、先ほど言われた文化の衝突の問題だと思います。
土本 チッソは、富国強兵を信じ、科学を信じ、経済発展を信じ、その論理の中でベストを尽くして競争原理を勝ち抜いてきた企業です。経営者の中にも理念があるー。しかし労働者や地域住民をどう見てきたのか。戦争をするときには労働組合も地域住民もまったく眼中にないわけです。全部兵隊にしていく考え方だから。いわば戦後民主主義以前の戦前の文化でチッソは水俣を支配していたのです。このシーンはのちに川本輝夫さんの追悼フィルムや、『水俣病=その20年=』にも使っていますが、独立したドラマとなっています。どう切り刻んでも”生きているシーン”と言えるでしょうね。
3 『医学としての水俣病ー三部作ー 』
『水俣一揆』から『医学としての水俣病』へ
ー水俣映画の連作の中で幾つか大きな山みたいなものがあるとすると、『水俣ー患者さんとその世界ー』と『水俣一揆ー一生を問う人びとー』の山があり、次の段階として『医学としての水俣病ー三部作ー 』(74~75)と『不知火海』(75)がもう一つの大きな山になっているという印象です。いわゆる闘争の時代がひと区切りしたのち、映画を撮り続けるという行為をどのように考えられたのか。つまり、いたるところで騒乱が起きていて、そこにキャメラを向ければとりあえず「面白い」「派手な」画が撮れるという時代から、そうではなくて沈静化したものにどうやって追っていくかという転換点みたいなものがこの時期に露呈してきたような気がします。そうした時代背景の推移と土本さんの映画作りの方法論についてお訊きしたいと思います。『水俣一揆』ののちに『医学としての水俣病』に向かった経緯について教えてください。
土本 実は『水俣一揆』という映画ははじめは予定してなかったんです。むしろ医学に特化した映画の構想のほうが先にあって、とりあえず水俣に行って、熊本地裁での裁判が終わったという場面をプロローグとして撮るくらいのつもりでいたんです。ところが、それこそ裁判の半月くらい前に、仮に勝訴してもそれで終わりにするのではなく、すぐその足で東京まで行って、その後の補償の問題についてチッソと直接交渉するぞ、ということが決まってきた。当初それを聞いていなかった僕たちの構想としては、熊本で勝訴したら、それ以降の問題として医学の問題があるという形で、その勝訴の瞬間をその『医学としての水俣病』のいわばプロローグとして撮るということだけで頭がいっぱいだったんだけれど、水俣に行ってみて計画を変えざるをえなかったんです。患者たちが「決してこれで勝訴とは申せません」「われわれにはまだ補償の問題が残っている」という勢いで東京のチッソ本社に攻め上ります。とにかくそれを追わなければいけないということで、追いかけていくうちに一本できちゃったわけ。あの映画は起承転結のある話ではなく、東京のチッソ本社を相手にする闘争の山場を緊急レポートとしてとらえたものです。それを一本にまとめて『水俣一揆』という題名を付けた。その後、一九七三年七月にチッソと患者との間でいわゆる見舞金契約ではなく補償に関する協定書ができて、それが闘いの一つのピークになった。これからは状況が全部変わっていくだろうという判断をして、「医学としての水俣病」の撮影を具体的に仕掛けていったという順序なんです。
ー医学に特化した映画を作ろうという構想自体はいつ頃から考えていたのですか。
土本 一九七二年の六月にストックホルムで開催された国連人間環境会議の人民広場集会という場に、浜元二徳さんや坂本フジエさん・しのぶちゃん母子ら患者たちと一緒に『水俣ー患者さんとその世界ー』の英語版フィルムを抱えて参加して、そのあと三カ月間、ロシア、イギリス、オランダ、フランスなどヨーロッパ各国で上映して回った。そこで「医学的な側面がもっと見たい」という意見をあちこちで聞いたんです。それは僕もよく分かっていたんだけれど、訴訟の続いている間は医学者は協力してくれなかった。いろいろな映像素材を持っていて、研究の蓄積もあるけれど、証人として引っ張り出されるならともかく、そうでなくて患者の運動に自分たちのものを発表して影響を与えてはまずい、患者側に有利にはたらくことがあったらまずいということで、熊本大学医学部の学部長名義で裁判のあるうちは実質的に”封印”されていた。だから裁判が終わらなければ医学者もそのインタビューも映せないという読みがあったので、準備はしつつも裁判の経過を見ながら待っていました。そこで七三年三月の結審があり、『水俣一揆』が先にできてしまい、それからいわゆる『医学としての水俣病』へと向かったわけです。
医学者に取材する
ー『医学としての水俣病』というタイトルからして、これはお硬い学術的な映画かと思うと全然そうではなく、医学に関する先生方の解説は高校生くらいなら理解できるような平易なものだし、また土本さんのお仕事の中でもかなり実験的な新しい方法論を試しているという印象を受けます。つまり、土本組が撮った映像のほかに、地元の医師たちが撮っていた古い八ミリ・フィルム、新聞の切り抜き、それから学者たちが解説する場面のスライドの映像ーこれは顕微鏡やレントゲンで見た人間や動物の”内部”ですがーなどなど、いろいろなレベルの映像が折り重なって、映像のアーカイヴというか、坩堝のようになって進んでいく重層的なドキュメンタリーになっています。
土本 すでに魚がやばい、有機水銀がやばいということは全部分かっていました。ただ、病気としてどこに現れてくるか分からないという点で、まとまった見解はいまだに出ていなかった。水俣病とは何か、という研究には、病理畑は病理の見解があるし、臨床畑は臨床の見解がある。それが「政治」と絡む。政治といったのは、水俣病と認めることが、一九七三年の判決以降は一人千六百万円~千八百万円を補償することを意味するようになったからです。その補償該当者を決める根拠が医学者の認定に求められることになってしまったものだから、医学者にそれをセーブするように暗々裡に圧力がかかってきた。それが水俣病を狭い医学の枠に閉じ込めた理由です。社会的で疫学的にみれば「魚をたくさん食べる生活だったか」どうかで判断できますが、医学的に非常に複雑な形になってしまった。認定審査会が認定するんですが、本来ああいつた食中毒に”認定”なんてことはあり得ない。だから”認定”とは何かと突き詰めていくと、結局それだけの補償金を出すに値する重篤さがあるかどうかということになります。
そういった「政治」がありながら、ここに登場し証言する人の中には科学的な医者もいるし、まさに政治に絡め取られた医者もいる。でも各医師の見解から意見をもらわないと映画はできないという大前提でやりました。そこが最も苦労したところです。基本方針は「いろいろな人の意見は全部聞きます。それぞれの意見に対して僕のほうで修正や注釈は付けません」ということでした。そのかわり自説には責任を持ってほしいと言いました。つまり教育映画や科学映画の分野では定番の、”全篇を監修するトップの監修者”は置かないことにしました。「みんなそれぞれが責任を持って映画に向き合ってください。僕はそれを総合ドキュメントとして作ります。教育映画じゃありません」と言いました。
ー医者たちが自粛するような雰囲気はありませんでしたか。
土本 作っている間じゅうハラハラしたのはまさにそのことで、撮影している間じゅう、医者たちの自粛ムードがずっと強まってきたことです。「やっぱりこの映画に協力するのはやめる」といつ言われるか分からないから、仮にそうなってもどうやって作れるか、そればかり考えていました。結果としてみると、それぞれの医学の”ニ重性”透けて見えるものになったと思います。そういう認定、即補償という制度に足を引っぱられたのが初期の医学者たちだったということが、僕のコメントは一切ない中ではからずも見えてきます。逆に言えば、そういう立場を強いられた彼らをまず最初に撮りたいということから撮り始めたわけです。それが「第一部 資料・証言篇」、そして「第二部 病理・病像篇」です。それに対して最後の「第三部 臨床・疫学篇」は、熊本大学の原田正純さんが自主的にやっていた往診の医療行為を記録しています。これは時間が経っても色あせないという確信がありました。この人はいつでも撮れるっていう確信があったから一番最後にもってきました。三部作全部で四時間半です。一ぺんに観ても順序だって観ていけるし、一作一作でも観られるようにしました。それが成功しているかどうか分かりませんがー
構成と編集
ーいろいろな先生にアポイントメントを取って、その場で資料映像を映写しながらコメントを取っています。背広でネクタイを付けた訪問者として土本さんも映っていますが、興味深いのは、多くの人が撮った八ミリ・フィルムが残っていたことで、それを集大成して挿入しています。特に「第一部」にそれが顕著です。土本さんは基本的に「撮った順に編集する」とつねづね仰っていますが、これだけ新旧のいろいろな素材が入ってくると、映画全体を論理的な構成にするためには、必ずしも撮った順に編集するというわけにはいかなかったのではないですか。
土本 ええ、この作品は違います。水俣病の発見史自体の順序がありますし。それから、水俣病は外見ではどうか、病理的にはどうか、臨床ではどうか、疫学的に世界の中に置いたらどうなるか・・・、というわけで、最初は漠然と第一部が「資料・証言篇」、第二部が「病理・病像篇」、第三部が「臨床・疫学篇」と分けて、それからいろいろなフィルムを各パートごとに振り分ける設定にしたんです。
ー時間半平均で三部作という長いものにする計画は最初からあったのですか。
土本 そうです。本当は一時間以内のものを三本にしようと思ったんですが、どうしてもそうはいかなくて。結論が明解に分かっている病気の場合には、どんな方法でも説明の省略ができます。ところが、水俣病には定説がいまだありません。”現在進行形”で研究途上でした。だからこの病気について、患者の側の意見があり、各専門医の意見があり、医者の中でもAという医者の意見、Bという医者の意見があるので、実状に正確を期すと短くならないんです。外国からはもっと短くしろって言われます(笑)。もっとも学生に観せる医学映画の定番はふつう十五分、あと講義をしても一時間に収まるというのが常識でしたから。
ー全体の構成についてはどのように考えていたのですか。
土本 僕は専門家ではありませんから、「僕に分かるように話してくれなければ、映画を観る人は分かりませんから、僕を納得させてください」と言って、分からなければ分からない顔をしてサインを出したり、ちょっと合いの手を入れて尋ねたりするから、先生方も言い方を考えてくれました。やっぱり自分の業績を自分の言葉で喋る、それには責任を取らなければいけないというのは、これはみなさんに徹底してお願いしていましたから。
全体の構成については、患者とか漁民の状況が原点にあって、それを見て解析する医者がいて、これまでに到達した医学的な結論を発言してもらうことにしたんですが、ところが今度はそれをどういうふうに患者の認定に生かすかという地点までくると、はたと困っちゃう、みたいなところがあった。つまり環境庁や認定審査会では少数意見として、認められていないからです。つまり学問のことが政治に取り込まれている。僕らとしてはそういうことを見届けた上で、絶えず現実から医学へ、医学からまた現実の壁に医学をぶつけて考えてもらうことを考えました。例えば「第二部 病理・病像篇」のラストはその典型的なシーンです。医学者と取材者の立地点の違いをそのまま交錯させました。
ー確かに「第二部 病理・病像篇」で映画の構造が変わって図像学のようになり、「第三部 臨床・疫学篇」になるとまた現実密着型に戻り、次の『不知火海』に繋がる撮り方になってくると思うんですけれど、「第三部」で現実に戻すという構想は当初からありましたか。
土本 ええ、ありました。水俣病の歴史を諸先生の学会用フィルムでたどるという「第一部 資料・証言篇」をまず作らないと、「君たちの作り方がおかしいから、この資料映像を提供するのはやめた」って言われたら、もうギプアップです。だから事実を主にした「資料・証言篇」を真っ先に作った。”見解”を述べる「第二部 病理・病像篇」は意見の違いや矛盾を描くー。それから最後の「第三部 臨床・疫学篇」は、本当に現実に患者を見続けている原田正純さんの一人称映画でいい、原因さんの主張に沿った映画を作ろうと決めていました。
ー構成については、例えば撮る前や撮っている最中でも、これは「第一部」か、いや「第二部」だ、みたいな判断をしながら進めたのですか。
土本 このときは僕の頭の中で、これは「第一部」向け、これは「第二部」向け、という判別は割と速かった。仕上げのときも、きちんと仕分けしてやっていくことができました。撮る順序としては、僕が正しいと思うものをかなり初期の段階で撮るようにした。つまり僕たちの側に確信がないとなにごとも始まらないし、それを他の人への取材に広げていくこともできないと思ったから。「第二部」にある脳の標本とか脳の機能の説明とか、あのへんは僕の一番苦手なところなので最初のほうで撮り、医師の確認を得ながら撮り進めました。それが信頼される方法でもありました。
熊本大学の同じ医学部でも、各科で同じような実験をして同じようなフィルムが残っていた。患者の症状を撮った学術用フィルムと動物実験のフィルムですが、つまりあれは、熊本大学の歴史に残ると思うけど、どこの科が先にノーベル賞を取るか(笑)みたいな競争になったんです。内科部門と眼科、耳鼻咽喉科などの各科がお互いに競争して、学会用のフィルムを撮っていたんです。僕たちは要するにそれらを全部引っぱり出して「これはこっちの実験のほうがはるかに良い」とか「これはこっちのほうが良い」と整理したということです。本当に沢山のフィルムがあったけれど、似たようなものは使わなかったから、僕たちが使ったのはほんの二割程度でしょう。使わなかったものも含めて全部複写して青林舎にあります。一フィートも捨てていません。映像資料なしには研究できなかったせいか、水俣病ほど丹念にフィルムにとられた病像はないでしょう。
映像のアーカイヴ的な集大成
ー「第一部」の冒頭にかつて水俣の保健所長だった伊藤蓮雄さんと、彼の撮った八ミリ・フィルムが出てきます。
土本 あれは趣味で撮っていた人です。もう八ミリが大好きで(笑)。それが生きたわけです。
ーそれから徳臣春比古さん(熊本大学・内科)の場面でも、この人自身が撮ったフィルムが別に出てきてます。
土本 例えば伊藤さんと徳臣さんは、横の連絡はあるけれど、フィルム自体はそれぞれが秘蔵しているから、誰かがまとめて持っているということはなかったです。
ーすると土本さんは、いわばすべてのフィルムを集成して、アーカイヴ的に全部見られるように整理したという立場ですね。それに加えて『医学としての水俣病』では、この意見は間違ってるとか、合っているという類のコメントは一切ないですね。
土本 ええ、ないです。喉元まで出かかっていてもないです(笑)。というのは、これだけ集まった映像の価値を思うと、そういうものをどんな事情にせよ大切に残してくれた人たちに、感謝と尊敬がまず前提にあります。ただ、水俣病の発見から認定の問題にいたる過程において、一部の医学者がどのように患者に対して不利なスタンスをとっているかは一方で分かっていますから、そういうシーンも作ってあるのです。つまり患者が医学者に抗議しているシーンも撮ってつないでいます。でも、そこに重ねて「先生、いま批判されてますね」とか、そういうようなことは一切していません。全体を見れば、その人たちの学説が患者たちに批判されていることは観る人には分かるようにはしているつもりですけど。そこのところはこの『医学としての水俣病』ができてから運動サイドで、「土本は医学者にハッキリものを言っていない」と批判されました。「痛ツ」と思いましたけどね(笑)。
ーなぜ、あえてそういうことをやらないようにしたのですか。
土本 医学としての見解が決定していれば別だけれど、まだ定説が確定していない時代です。だから、患者にとってこの学説は有利か不利かつてことは分かります。環境庁寄りでチッソに有利な判断のもとに作っている学説かどうかつてことも分かります。ただ、定説が確定していない以上、あくまでも中間報告に相当するドキュメンタリーだという位置付けがはじめから僕の中にありました。
専門医の所見に映画作家も発言する
ーただ、「第二部 病理・病像篇」のラストで、「水俣湾の魚を食べてはいげない」と言う医師に対して、土本さん自身が「そんなこと言ってもみんな食べてますよ」と何度も反論しているシーンが突出しています。土本さんの本音がみえます。
土本 そうです。登場人物の専門医に逆らっていますね。どういうことかというと、医学の映画を撮る場合に映画作家はいつも裏方に潜んで、医者を頼りに映画を作っていくんです。医者の見解に少しも疑いを挟まない。
ところが水俣病は「運動」の側面も背負っているから、患者に会い、その症状をつぶさに撮影し、その生活歴を見た撮る側としては、純病理学の枠内で見る医師に対し、批判を持つ場合も多々あるわけです。例えばこの病理学者が認定審査会の会長をやっていて、認定申請を棄却や保留にしていくことについては「なぜ保留にするのか」という思いがある。患者が保留にされる場面も撮っていますが、患者と一緒に会長の発言を聞いていると、「最終的にはよく分からないから、もう少し時間がほしい」みたいなことを医者が言う。僕はそれに対しては、やむをえないと思うけれど同時に批判も持つわけ。やっぱり基本的には病理だけで分かるはずがないと。もっと先生たちの尻をひっぱたいて、臨床とか、現場を見るように言いたい。「現場に根づいた医学をやらなければ、あなたは審査員をやる資格がないんじゃないですか」って言いたい。言いたいけど言えないから、映像としての方法で問い詰めていくことを考える。
だから、「第二部 病理・病像編」のラストは、彼がいつも持ち歩いている不知火海の図表を見ながら、ここの魚を食べると危ないとか、ここの魚は何日間か食べ続けたらどうなるとか、図表でもって登場人物の医学者は僕に説明するんだけど、僕がことごとく反駁している(笑)。でも、ああいうことは信頼している武内忠男先生(熊本大)だから言えるわけで、僕たちが背後の現実を知ってるから言えることなんです。
つまりこの『医学としての水俣病』の全篇は、少なくとも医者に”従属”するドキュメンタリーではないということ。どの局面についても、医学に対して僕は言いたいことを持っていて、表現者としてぶつかっていったというか。だから、質問の仕方とか、やっぱり対等にものを言わざるをえないんです。だからこの『医学としての水俣病』は従来の医学映画、科学映画ではないです。通常は映画作家が医学者の権威に逆らったら、そもそも映画自体が成り立たなかったんです。
ーそうした「映画作家も発言する医学映画」である点や、専門の違う医師たちがタコツボ的に個別に撮っていた映像をアーカイヴ化してみんな並べてしまった点など、実のところかなりラディカルな仕掛けです。そういえば『不知火海』の冒頭は、権威ある医学者たちが海を視察に来るところから始まりますが、あそこも告発調のコメントは何もなく、ただ「彼らは三十分視察しました」と客観的事実を述べるだけです。告発しないという告発(笑)。あのへんなども『医学としての水俣病』から繋がっている感じがします。
ええ。それというのも予定になかった『不知火海』という映画を一本作らないと納まりがつかなくなって、番外篇として作ったんです。一時間以内のものを三本作るはずの『医学としての水俣病』もそれぞれ一時間半ずつになっちゃうし、そのうえもう一本追加なんて言ったらプロデューサーに怒鳴られるだろうと思って、しばらく高木君の顔が正面から見られなかったですよ(笑)。
はからずも『不知火海』ができてしまった
ー医学とか科学というものが、チッソに代表される現代文明の先端技術と結びついている地点では、すでにそのこと自体が政治的であり、社会的な意味を持ってしまっている。そのことを、一見するとアーカイヴ的・中立的にみえる『医学としての水俣病』が、実のところ映画の構造としてはっきりと炙り出しているように思われます。
土本 ええ、そうなりましたね。というのは、どんなに優れた医者でも、現実の患者、現実の水俣、「現場」を見続けることはない。彼らが見ているのは、顕微鏡下の世界であり、カルテの上の世界であり、文献的な世界だったりするわけでしょう。でも水俣病っていうのは食中毒だから、伝染病でも何でもない。水銀を取り込んだ魚を人間が沢山食べたための食中毒ですから、一家に一人の患者が出ていれば、多かれ少なかれ周りの家族も食べているはずです。そういった見方があってしかるべきでしょう。ところが、これは残念ながら家族の中で患者が出た場合などで、兄は健全者、弟は胎児性患者と別々に処遇されがちです。こうした矛盾は『医学としての水俣病』を撮りながらずっと心に付きまとっていたことです。例えば「水俣湾の魚を獲って食べてはいけない」なんて医者は言うけれど、直ぐ近くの囲いの向こう側で獲って食べている。魚を食べる生活は変わりなく続いてる。医学者は「それはいけません」と言うけれど、そんなこととはまったく関係なく人々は魚を食べ続けている。だから、医学者が見ようとしても見ない本当の環境とか疫学とか、そういう「現場」に目が行かざるを得ない。そういうことを考えるようになっていったら、いつの間にか『不知火海』ができちゃったわけです(笑)。
ー『医学としての水俣病』から『不知火海』への流れには、生活の中の水俣病、という視点を感じます。
土本 『医学としての水俣病』とはちょっと違った視点の、生活としての水俣病というか、水俣病とともにある生活というか、そういったテーマは当初は考えていなかったんだけれど、『医学としての水俣病』を撮っているうちに堪らなくなってきたんです。つまり、不知火海における人々の生活、浜での暮らし方、食生活、そういったものを医者に見せたい、世の中の人に知ってほしいという思いが非常に強くなった。そこで撮りためてあったものをまとめたら『不知火海」になったんです。
だからおかしいですね。『医学としての水俣病』を撮ろうとしたらその前に『水俣一揆』という映画ができてしまった。次に『医学としての水俣病』を作っていたら『不知火海』ができてしまった。この流れは自分でも面白いと思います。だから高木プロデューサーに「もう一本できちゃうよ」って言ったのは、ロケーションの大半が終わる頃だったと思います。スタッフは「『医学としての水俣病』だけじゃ絶対に終われない」「これはもう一本作らなきゃダメだ」っていう雰囲気になっていて、あるとき高木君が来たもんだから、「もう一本できるから作らせてくれ」って頼んだら、彼は熊本県宇土半島、不知火の生まれだから、不知火海のことなら目がないんで、「ああ、いいよ」って言ってくれた(笑)。それでホッとして『不知火海』を作ったんです。
ー『医学としての水俣病』を挟む形で、その前の最も激しい『水俣一揆』も、その後の叙情的な『不知火海』も、『医学としての水俣病』との関係において誕生したということですか。それは非常に面白い関係性ですね。
土本 今でこそ疫学を軽視していたという反省が医学者の中からも出て、例えば一九八二年に県外患者が初めて提訴したチツソ水俣病関西訴訟でも疫学を重視する判決になった(注:二〇〇四年には最高裁が国と熊本県の行政責任を認めた)。水俣病は疫学軽視の風潮との闘いでもあったわけです。だって、同じものを食べている一家で、同じ症状の人が二人いて、一人は神経痛、もう一人は水俣病として別々に扱われるなんておかしいでしょう。この三十年の裁判闘争というのは、大きく言えば水俣病なのかどうか、どっちか決めてほしいという闘いだった。例えば末梢神経が痺れる患者がいたとして、もし末梢の痺れだけだったら糖尿病かもしれないし、ほかにも百以上の病気の可能性があるから、それだけで水俣病と断定して補償はできないというのが二十年余りの”壁”だった。それが今世紀に入ってからの関西訴訟ではっきりと「末梢神経だけの痺れといえども、それは脳を侵されていることによる痺れであるから水俣病である」という画期的な判決が出た。水俣病の歴史は疫学を無視し続けた歴史です。この判決は環境庁、熊本県の行政への全面的で根元からの批判なのです。
”結論”としての疫学篇
ーそうしますと、『医学としての水俣病』の構成で「第三部 臨床・疫学篇」を結論として最後に置くという考え、つまり臨床や疫学が最も重要な結論であるという構成上のアイデアを最初からお持ちだったのですか。
土本 アイデアはあっても確信ではありませんでしたね。当時の医学の傾向からは随分ズレていたのでしょうが、映画は自由ですからね。この時代は、それまで水俣病の発見からの過程で汗をかいてきた医学者たちが環境庁に取り込まれて、患者をなるべく認定しないような認定審査制度を作らされていく時期です。他方、そういうやり方でなく、自分で試行錯誤しながら疫学的な道を深めていこうとする人たちも生まれてきた端境期の記録です。結局、疫学を重視した原田正純さんの「第三部」が今日を予言しています。彼の視点ははっきりと『医学としての水俣病』の根底に入れたつもりです。
ー「第三部」の主人公ともいえるその原田正純さんがやっている往診医療は、あの当時としては最先端であるがゆえに、批判も多かったのではないですか。
土本 原田さんの意見がなかなか相手にされなかった時代です。だから原因さんもまだ言葉に迷いがあります。実際にやっていることは正しいことばかりですが。
ー原田さんは「この人はもう患者だと分かっているのだけれど、認定とするのは自分でもむずかしい」とナレーションで言っています。
土本 原田さんの中には、医学の映画を残しておかなければいけないという思いがあったから、僕らが提案したときに、彼は賛同してくれました。ただ水俣病医学のボスではなく異端視され続けた方だったから、自分から進んで旗を振ることはできなかったけれど、いろいろな知恵をつけてくれました。
小川紳介と『医学としての水俣病』
伏屋 『医学としての水俣病』が上映されたときの小川紳介の衝撃たるや凄まじかったです。何度も「土本さんの映画はいろいろあるけれど、俺はこの作品が一番凄いと思う。土本作品の核になるのは『医学としての水俣病』だ」とか、「実はこれこそ水俣作品中最大の金字塔なんだ」と周りに熱っぽく語っていました。のちに小川さんが稲の生態を探るに至ったのと、『医学としての水俣病』はどこかで通低しているような気がします。
土本 ええ、小川ちゃんは僕にそう言ってくれたことがあります。特に「第二部」で神経病理学の白木博次先生(東京大学)が猿の輪切りの実験に基づいて解説する場面に大きな刺激を受けたと。あの部分は僕にもとてもよく分かるから力を入れて紹介したんだけど、小川ちゃんは「自前でああいう実験を作らないと、人からどんなによい実験結果を与えられても身にならないことを学んだ。俺たちは自分で、自前の映像を実験で作る」って言うのね。まあ猿の輪切りなんて自前じゃできないけれど(笑)、小川ちゃんは「自前で稲の映像を作る」と言っていた。僕はなるほどと思いました。
ーその白木氏をめぐる問題で『医学としての水俣病』上映阻止運動があったと聞きました。
土本 全共闘系の東大精医連(東京大学精神科医師連合)が白木さんを告発していたんです。映画のできた一九七〇年代前半はまだ全共闘運動が影響力をもっていた時期です。その批判は全共闘・精医連というだけで正統視されました。精神病理学者の白木博次氏の場合、戦後間もない頃に、やってはならない実験を生きいてる患者にやったとして”旧悪”を告発されて、生態実験反対糾弾運動が起きていました。僕は精医連に談判に行って、批判はいいし公に批判集会をやるのもいいが、映画を観せないという方法だけは止めてくれって言ったんだけれど、岩波ホールでの上映の際には入場しようとする人に「止めなさい、止めなさい」ってロックアウトするわけ。それがいろいろな場所で最後まで続きました。全国的な上映ではだいぶ痛かったですね。熊本ですらそうでした。試写を観て検討するでもなく、熊本大学医学部の精医連も上映拒否です。これには患者さんたちは驚きました。その精医連に対して水俣病患者たちは、「白木氏の実験に対する糾弾は、われわれに対する敵対行為だ」と川本輝夫さんの名前で声明を出したんです。患者はやっぱり、あの実験が自分たちを一番よく説明していると思ったんでしょうね。白木さんはあまり弁解しないで、すぐ教授職を辞めて自分で研究室を持って、自分にできることをやるように切り替えていきました。運動が終わったあとで精医連の親玉に会ったとき、「ひどい目にあったけど、覚えてる?」と訊いたら、「覚えてる。あのときは時期が悪かった」って、謝っているんだか、いないんだか分からないような返事でした(笑)。
4 『不知火海』
『不知火海』で甦りを描けたか
ー次は『医学としての水俣病ー三部作ー』を作っていく過程で自然にできたという『不知火海』ですが・・・。
土本 水俣と付き合いはじめた当初は、いわば絶望的な思いから入って水俣病を追っていった。僕たちが絶えず考えなければいけないのは、「社会的にこういうことがあってはならない」ということは言い続けなければいけないけれど、だからといって水俣が悲劇として滅びていくことは誰も望んでいないでしょう。ところがある観点から言えば「資本はこの街を滅ぼしている」という言い方になる。”正義感” のあらわれかもしれないが、そこには生きている人への思いがない。市民は生きているー。こうした観点も踏まえながら、どれだけの根拠を持って「ここで生き続ける人がある限り、ここは甦るのだ」ということを描き切れるかどうかです。ただ観念として「甦る」と言うだけなら宗教と同じになってしまう。そうでなくて、どこで「甦る」のかということを具体的に表現しなくてはいけない。僕は随分そういうことを念頭に入れてやってきたつもりです。
ー「甦るのではないか」という思いから『不知火海』という映画が始まっているように見えます。
土本 それは明解にそうです。メインタイトルの一カット前に、チッソ工場の排水溝に銀色の鱗をした魚が泳いでいるシーンがそれです。排水溝から魚影がすべて消えたと言われて以来、初めて僕は魚がそこにいるのを見た。それから「あれ、カキが戻っとる。これは二、三年もすればもっと戻ってきますよ」と漁民が言うくだりを使った。あそこはカキが全滅した地域です。二、三十年たってはじめて生きものを見たのです。漁民が、あるいは僕が、そこで「甦り」を見たということを冒頭に置きました。
ー「甦る」というと楽天的にすぎると言われかねませんが、逆に水俣は永遠に悲惨であり続けるという考え方も硬直していると思います。
土本 そういう傾向が一九八〇年代までははっきりありましたが、社会の変化、患者の運動の変化、科学やテクノロジーの変化とともに、水俣はまだ悲惨であり続けているということの中身が随分変わってきたとは思います。むしろ絶望的なのは、水俣病に対してこれだけの被害を起こしてきた国・県とか科学者とか行政が、依然として被害の全貌を認めないことです。この犯罪的な体質が直らない限り、同様の事件が日本に起きた場合はまた同じパターンで繰り返されるんじゃないかという危慎を感じます。そういう点での追及は終わりませんが、受難のどん底から不知火海の自然が甦りはじめているという事実は大いに叫んでいいと僕は思います。それを『不知火海』のモチーフにしました。そうでなければ、あそこで生まれるしかなかった住民には救いがないですよ。
ー『医学としての水俣病』に対する批判として、もっと医者を告発すべきだと言われたそうですが、『不知火海』についてはどうでしたか。
土本 『不知火海』で救われたという意見が多かったですね。『医学としての水俣病』のあと、『不知火海』については僕自身が「耳を澄ませば生き物の賑わいが聞こえる」っていうキャッチコピーを書いたし、『医学としての水俣病」における因果論の狭さから離れて漁民が暮らしている世界の広がりを見せましたから。
ーそうすると、ある意味では『医学としての水俣病ー三部作ー』と『不知火海』で四部作になりますね。しかも『医学としての水俣病』で非常に論理的かつ禁欲的な構成をとったあとで、『不知火海』は「現在」を撮った映像がスイスイ進んでいきます。そこにとても美しい海の風景が随所に入ってきます。
土本 だから、医学で一番軽視されていた環境というか、人間の生活、生き物の生態、それを『不知火海』のほうにひたすら叩き込んだという感じが自分ではしています。映画『医学としての水俣病』と『不知火海』はいわば双生児だけど、逞しい男性と美しい女性の一卵性双生児ではないかと思います。
清子ちゃんのシーンについて
ー通常は『水俣ー患者さんとその世界ー』と『不知火海』が土本さんの代表作として並び称されますが、『医学としての水俣病』を導入することで見えてくるものが本当に多いと感じます。撮影自体は『医学としての水俣病』のスタッフが撮り溜めたものが同時に『不知火海』のほうにも流れ込んでいるという形なんですね。
土本 映画は強いつながりを作るものです。そのコミュニケーションがスタッフを引っ張っていくものですね。のちに監督になる小池征人君(映画監督 一九四四年~/『水俣の甘夏』など)は患者の女の子にモテるんです(笑)。あの当時、独身だったから。患者たちからいろいろな話を彼が聞いてくるわけ。例えば『不知火海』で最も有名になったシーンがあるでしょう。原田さんに胎児性患者の加賀田清子ちゃんが「頭の手術をしてほしい」と訥々と語る長回しのシーン。あれは事前に小池君が「清子ちゃんが原田先生に何か相談したがっているけれど、どうでしょうか」って僕に伝えにきたんです。「それならお膳立てしてそういうシーンを作ろうじゃないか。君は清子ちゃんを説得してくれ。原田さんには僕が言うから」ということで、彼が中心になって段取りして作ったわけ。きっと生まれて初めて彼女から本心を語るだろうと思いました。胎児性の諸君の中でも初めての彼らの意思表示でしたからー
ーこの場面について土本さんはいろいろな場でお書きになっていますが、スタッフは撮影しながら泣いた。撮影後に車で帰る道すがら、土本さん自身も車から出て泣いたと。
土本 人間的な感動です。あの場面については、清子ちゃんはずっと後ろ姿だけですが、彼女を真正面からは撮らないという決断をしていました。あの子をよく知っているから、真正面から寄ると顔を隠しちゃうのも分かっていた。原田さんは彼女の相談の内容が何なのかは全然知らない。僕も知らない。誰も知らない。だから彼女が何を喋るのかというスリルは、観客だけじゃなくて僕らも原田さんも共有していたわけです。あの場面は、原田さんが清子ちゃんに「このまま治らなかったらどうする?」みたいな質問をするわけですが、運動サイドのうるさがたからは「原田さんの質問の意味が誤解されるおそれがあるから、あの部分は削ったほうがいい」と言われました。そりゃそうです。水俣病を誰よりも知る原田さんが、治らないなどということは熟知しています。それなのに彼女の思いの中に「治ったら何をしたい!」というものがあるかもしれないと、ふっとそれを訊く気になったのでしょう。原田さんだからこそ訊けたと思った。だからその質問の言葉と表情は撮ったままにしておきました。観る人がこの矛盾したやりとりをそのまま受け取ってほしいのです。
御所浦へ
ー『不知火海』の終盤の四十分、撮影は対岸の御所浦島へと移行します。初めて接する人々が登場することもあって、水俣の場面とは違うある種の緊張感を感じますが、白倉幸雄さん宅で撮影隊をもてなす刺身がずらーっと食卓に並ぶところは圧巻です(笑)。でも不知火海の魚ということで、あの美昧しそうなイカを見ながら複雑な気分に襲われます。
土本 僕の知っている限りでは、水俣病になった人は本当に凄い量の魚を食べていました。だから食べ控える地帯では患者の発生数がガクンと減ったりするんです。水俣の漁村では、その怖さを知り、食べ控えましたからー。それにひきかえ、不知火海の沿岸や離島の人には警告も注意もありませんから、好きなだけ食べ続けていました。それも漁村の魚好きの人の食べ方は無茶苦茶というか、本当に腹一杯、ご飯代わりに食べます。刺身のシーンで思うのは、”魚食の文化”があれだけ豊かにあるんです。焼き魚があり、煮付けがあり、酢の物があり、刺身がある。それを普通のおかみさんが作っている。こんな幸せな食の生活が都会にあるでしょうか。
ー御所浦島での撮影は当初から計画されていたのですか。
土本 水俣に加えて御所浦を描くには相当な力量がいると思っていたから、撮りたいという思いを念頭に置きながらも、たぶん高木君のOKを取ってから「じゃあ、天草もやろう」ということになったと思います。それまでは自分たちの自動車で行ける不知火海の沿岸でしたが、天草離島は船がないと行けませんから。でも御所浦が撮れたのは大きかったです。今の不知火海に出てきている患者はこれら離島の人々ですからー。この映画をこれからの彼らの裁判に使ってほしいものですがー。
ー映画の流れをみますと、そこまでは親しんだ世界といいますか、いろいろな知り合いの人が出てくる世界だったのが、初めて登場する御所浦のシーンで緊張感が高まり、最後の最後に光を浴びた海と帆船のシーンで全篇が昇華して締めくくられるような印象を受けました。
土本 つきつめて描いた映画のラストシーンというものは、意図を超えた天啓がありますね。あるシンボルというか、計算を超えたものが撮れたという感じです。
カラーとシンクロ
ー技術的なことを伺います。『医学としての水俣病』と『不知火海』でカラーになりました。その前の『水俣一揆』からシンクロになっています。シンクロになりカラーになったことで撮影方法が変わった点はありますか。
土本 ええ。『水俣ー患者さんとその世界ー』のときから話の中身や話し方が非常に重要な要素だったんです。できれば画と音を一緒に撮りたいけれど、お金がないからそういう機材が使えなかった。でもシンクロをやりたいという思いは十分熟していました。
ー声といえば、『医学としての水俣病』『不知火海』から土本さんの作品で重要になってくるのが、伊藤惣一さんによるドライなナレーションです。例えば『水俣ー患者さんとその世界ー』ではナレーションを一切使っていないのですが、この頃からナレーションをかなり使われるようになってきましたね。
土本 『医学としての水俣病』はナレーションが必要だと思いました。僕のナレーションに対する考え方は、最低限、判断する材料だけを無機質に語ってもらいたい。あまり調子を付けないで喋ってもらいたいというわけで、思いついたのが伊藤さんのナレーションでした。
ー映像と音のシンクロについてお訊きしたいのですが、大津さんのキャメラワークでは、話している人から平然と離れていって海のアップになって、そのまま人物の顔に戻っていくような撮り方がみられます。
土本 それは小川ちゃんなんかも大事にしていたと思うけど、キャメラマンが話を聞きながら同時に画を考えていくというか。話の中身が海のことになれば、海にキヤメラを回して撮っていくというか、そういう内容的なシンクロ性っていうのは非常に大事にしたんじゃないですかね。
ーつまり監督がインタビューアーとして話を聞いている以上に、キャメラマンも画を見ると同時に話を聞くということですね。普通は監督がキャメラマンに「海の画をあとで撮っておいてくれ」と指示を出して編集で繋ぐわけですが、あのようにワンカットにすることで、見え方が大きく遣ってきます。
土本 それは、映像と音がシンクロするようになったときに大きな問題として考えました。というのは、非シンクロの時代は、誰かが喋っているシーンの場合、それをカットで割っても音声を被せておけば普通につながったんだけれど、シンクロということになると、演出もキャメラも両方考える。つまり、どの話のどの部分で聞いている人が領いたか、というところまで問われるわけです。だから、何かを喋っている人からずっとパンしながら脇を映していくと、そこに別の人が聞いていたり、まったく別の世界があったりして、それに対して再び耳に聞こえている話のほうに戻していく。こういったシンクロのキャメラと音の関係性から必然的に生まれてくる、キャメラをパンすることへの信頼性というか、音や内容との相乗効果はいつも意識するようになりました。
ー例えば『水俣ー患者さんとその世界ー』では、あえて直接関係しない画と音をぶつけ合っています。例えば水俣の上空のヘリコプターの空撮ショットに、鹿児島市の街頭で患者さんが公害の恐ろしさを訴えている声を重ねるとか、そういう一見違ったものをぶつけていますが、『不知火海』では、そうした先鋭的な衝突のモンタージュではなく、むしろ丁寧に画と音のシンクロの関わりを大事にしていく、というスタイルに変わったような気がします。
土本 シンクロに変わったからです。『水俣ー患者さんとその世界ー』のときは、画を撮りながら、この画にはどういう音をかけたらよかろうかとか、例えばインタビューを聞きながら、この声にどういう画が必要なのかということをつねに考えています。ところが『不知火海』の頃になると、もうシンクロがありまずから、例の原田先生と清子ちゃんの海岸での場面も、これはもうまったくシンクロの強さで、あれこそ本当にシンクロでなければ、あれほどの圧倒的な凝縮力は出なかったでしょう。
ーカラーと白黒フィルムでは、当時はカラーのほうが高かったのですね。
土本 ええ、高かったです。まあカラーにしたのは、『医学としての水俣病』をやっていくなかでどうしても標本の微妙な色とか、自然をカラーで撮ってみたいということになっていったんです。
製作態勢について
ー「演出」として四人の名前が出ています。土本、小池と有馬澄雄、一之瀬紘子。図表の解説の場面に何度か登場しているのが有馬さんですね。
土本 そうです。有馬君というのは医学に詳しい人物で、そっち方面の知恵袋として参加してもらいました。小池君は患者の家を回って関係を作り、いろいろな声を聞いたり、撮影のアイデアを出したり、車の運転もしました。
ー『医学としての水俣病』『不知火海』の資金調達はどんな形だったのですか?様々な団体名がクレジットされていますが、共同出資者ということでしょうか。
土本 いえ、金をまとめて出したというのはほとんどないと思います。青林舎が責任を持って作ったということです。
ー『医学としての水俣病』と『不知火海』で回したフィルムの量というのはどのくらいですか。
土本 だいたい二十時間くらいじゃないですか。三十時間は使つてないです。割と回してないでしょ。ということは、完成型でいうと『医学としての水俣病』『不知火海』を合わせて七時間くらいだから、三分の一か四分の一くらいですね。あまり捨てずに使っているわけで、ドキュメンタリーとしてはかなり少ない比率だと思います。
ー編集作業はどこでされたのですか。
土本 青林舎が借りていた目黒の編集室にほとんど丸一年寝泊りしたりして『医学としての水俣病』と『不知火海』を仕上げました。僕のほかに、ポジ編集をする人が一人と助監督が一人。小池君がほとんど付いていました。
ー一九七〇年代前半から半ばにかけて、これだけの短期間に『水俣ー患者さんとその世界ー』『水俣一揆ー一生を問う人びとー』から『医学としての水俣病ー三部作ー』、『不知火海』までの大作を連作し、その後七五~七六年にフィルムを持ってカナダ先住民の居住地を回る巡回上映、七七年に「不知火海・巡海映画班」と銘打った巡回上映を実施。さらに七六年にはアテネ・フランセ文化センター主催の「映画技術・美学講座」高等科講師を務めるなど、相当ハードなスケジュールだったのではないかと思いますが、いま振り返るといかがですか。
土本 そうですね、四十代後半の働き盛りで、やっぱり一番忙しい時期でした。
ーむちゃくちゃ忙しいときにマキノ雅弘(映画監督 一九〇八~九三年/『浪人街』「次郎長三国志」シリーズなど)は栄養ドリンクがわりにヒロポンをやっていたとか、映画人の伝説はいろいろありますが、土本さんはそういうことはなく・・・。
土本 酒です(笑)。酒はすごかった。九州だからひたすら焼酎。不知火海あたりでは焼酎をお燗して出すから、むせるんです(笑)。
ーお湯割りじゃなくて熱燗ですか。
土本 あちらの人は旅の者の見分け方として、酒の飲みつぷりを見て心を許すんですよ。それには歴史があるらしくて、ヘンに酒を控える奴は、「何か下心があるに違いない」みたいなものでね。だから勧められるままにスッテンテンに飲むんですよ。
ー東京での編集作業も。
土本 また焼酎(笑)。酒が入ったほうが論理力がアップして素晴らしいアイデアが浮かぶような気になるんだけれど、脇で醒めて見ている前の女房(悠子)に言わせると、「大したことないわね」って(笑)。
ー編集は好きだと仰っていましたね。
土本 ええ。『ドキュメント路上』を作ったとき、ベテランの劇映画の編集マンが「この映画は俺には編集できない。カチンコも何も入つてないじゃないか」と言って下りたんです。で、「しめた」と思って僕が全部やった。本当に言いたいことを編集によってどう表現するかという思いは、『ある機関助土』とか『ドキュメント路上』の頃からずっと持っていますが、その頃の編集は変化球、クセ球をたくさん用意しました。『水俣ー患者さんとその世界ー』はもうストレートで、むしろシーンごとの展開とか、シーンとシーンの衝突で進んでいくから、編集自体に策を駆使することはあまりしていません。
5 カナダと不知火海での巡回上映
製作から巡回上映へ
ー『医学としての水俣病』『不知火海』を完成されたあとは、フィルムを抱えてカナダと不知火海での巡回上映を行っておられます。このあたりの経韓は『わが映画発見の旅 不知火海水俣病元年の記録』(筑摩書房、一九七九年/日本図書センターより2〇〇〇年に復刊)に詳しく書かれていますが、作り手が自作の上映運動に関わり、しかもカナダではケベック州の先住民居住地、不知火海は天草上島から始めて百以上の集落を回るなど、いわば津々浦々まで徹底的に参加するケースはあまり例がないのではないでしょうか。
土本 一九七六年と七七年のまる二年間、カナダと天草で巡回上映をやりました。他にやる人がいないから自分でやったんですが、確かに監督がやるケースは少ないでしょう。そこまでやった動機は、水俣病の被害者たちに本当に観てもらいたい映画は絶対にテレビに出るはずがないと分かっていたから、自分で映画を持って出かけて行くしかなかったんです。上映運動の人たちだったら、必ず妨害されたでしょう。
特にカナダにフィルムを持って行ったのは、カナダにいるボランティア団体の人たちから来てくれと言われたこともありますが、日本の医学者や水俣病患者が映画を持って行くことはむずかしかった。つまりカナダも加害者側は御用学者を使って「カナダのは水俣病ではない」と言いたいときに、日本からそんな人たちが映画を持ってくるのを歓迎するはずがない。そうすると、映画を作った人間が行くのがいちばん自然で、地元からも受け入れられやすいのではないかと誰もが考えたわけー。それは正しかった。カナダでは映画監督は尊敬されていますからね(笑)。
天草の場合は、テレビの普及が遅れていたから映画を観てもらう必要があったけれど、漁業がダメになるからということで、水俣病のミの字を言うだけで地元から排斥されるような状況があった。そこに映画を持って行くことは誰もが考えたけれど、水俣の活動家たちも顔を見合わせてむずかしいって言うわけ。自分たちが持って行くと「アカ」に見られて絶対に断られるに決まっているから自信がないと。それなら作った人間が「欲得じゃなくてお観せしたいから持ってきました」というのがよかろう、と言うことになったんです。カナダと基本的に同じでした。
ー前に「水俣は日本の第三世界である」と仰いましたが、カナダという”先進国”にも「第三世界」的な状況があったのですか。
土本 まったくそのとおりですね。工場の開発によって先住民が移住させられて、移住した先では白人が用意した仕事しかない。つまり魚釣り観光のツアー・ガイドみたいな仕事をやるわけ。そういう人たちの集落の上流で工場廃水による汚染が始まって、下流が全部やられていく。工場があるところに観光なんて両立しませんから、ガイドの仕事もなくなるし、工場は廃水を垂れ流す。で、州政府はフイツシングはいいけれど釣った魚は食べてはいけないみたいな中途半端な規制です。そんなこと言ったって、そうはいきませんから、やっぱり食べることになってしまう。水俣と同じです。ただ、日本人ほど多食ではないので、日本の場合ほどやられてはいませんが、それでも魚をしょっちゅう食べる先住民と、食べない白人を比較すると、発病率の差は歴然でした。川の下流が全部やられてしまうということは、ある意味で水俣にもまして悲惨です。
『水俣病=その20年=』
ー二度にわたるカナダ巡回を終えてから四十三分の『水俣病”その20年”』(76)を作られたのですね。
土本 ええ、それまでは一時間半とか二時間半の長篇ばかりで、短い作品が一本もなかったんです。だからカナダには五、六種類の映画を持って行って、今日はどれを観せようかとその都度判断してかけるんだけれど、一本観せるのがやっとで、しかも観客を引き付けておくには長すぎることもあるわけです。だから、やむを得ず長篇のこの巻のここからここまでとか、そんなふうに分解してピックアップ上映もやりました。
ー上映会場で再編集するようなものですね。
土本 ええ。発病した猫のシーンだけまとめて観せるとか。それをずっとやっていて考えたのは、観客の質問に答えるような形でまとめてみようかということ。それで四十五分の英語版を作ってみたら、これがやたらと便利なんです(笑)。それを入門にして長篇にも入っていけるようになっていく。あれがなければ二時間半の『不知火海』だけ持って歩くなんてことはできなかったですね。それから、カナダ人用にはもう一本、カナダ人患者たちが水俣を訪れたときの記録映像を作って、その二本立てで随分やりました。という経緯で『水俣病”その20年”』ができ、不知火海の巡回映画から使いました。『水俣病”その20年”』は今も上映希望があります。僕らの作品の最多上映作品ですね。
ー土本さんは、いわば日本の高度経済成長のエネルギーを撮る岩波映画の現場から映画作りに参入されて、やがて「高度成長、ちょっと待てよ」という地点まできたわけですが、日本を追いかける形で中国をはじめアジア諸国では今まさに高度成長の真つ只中です。私たちが「ちょっと待てよ、いろいろ危ないんだから」と言ってみても、「あれほど高度成長を謳歌した日本が何を言うか」と説得力がない。逆に言えば、三十年前に撮られた水俣の映画がいまだにリアルな現在形であるとも言えるのですが。
土本 理屈で公害がダメだと言うことはやさしいけれど、公害はひどいとか避けたいというリアリティが人間の生理の中に入り、DNAにまで入らないとダメですね。知識としていくら分かっていても、当面白分の国が発展するためには、「日本は先進国として行き着くところまで行ったが、われわれはこれから発展しようというのに、そんなにうるさく言われたら原発もできないし、化学工場もできないではないか。われわれだけをいつまでも低い生活に押し止めておくつもりか!」という反発が途上国には圧倒的に多い。これに対しては、僕ら一人ひとりが「よくないこととは、美しくないことである」という相当徹底した美学的表現を自分のものにしないとダメだと思います。
6 『わが街わが青春一石川さゆり水俣熱唱ー』から一『水俣病ーその30年ー』まで
『不知火海』後の状況
ー『不知火海』以降の水俣シリーズに移りたいと思います。私の印象では『不知火海』までは”総論”的な水俣ものという印象なのに対して、その後の『わが街わが青春ー石川さゆり水俣熱唱ー』(78)、児童映画の『海とお月さまたち』(80)、丸木位里(一九〇一~九五年)・丸木俊(一九一二~二〇〇〇年)夫妻の壁画創作を扱った『水俣の図・物語』(81)などはさまざまな局面の”各論”に入っていったものであり、またダイジェスト版というべき『水俣病=その20年=』や『水俣病ーその30年ー』(87)もあります。『不知火海』を撮り終え、カナダと天草の巡回もご自分でやられた後の一連の映画作りについて教えてください。
土本 『不知火海』を完成させた時点で、僕のやりたいテーマはかなり出し切ったという感じがあり、次はもう相当のものでないとそれを越えられないという思いがしました。これはあとの話題になりますが、『不知火海』に繋がるその後の被害者像の映画は、あれに出ている人たちのその後の生き方を二十数年ぶりに描いた『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』(04)まで飛びますね。その間の、いま名前のあがった作品群は、おっしゃるとおり”各論”やダイジェスト版で、研究会や学校教材向けに「こういう映画を作らないか」というオファーがきて、その都度それに応えて作ったものが多いです。『わが街わが青春ー石川さゆり水俣熱唱ー』の場合は、高木隆太郎プロデューサーの企画です。これは当時の環境庁長官だった石原慎太郎が「俺の肝入りで石川さゆりを水俣に呼んであげるから、それでやってみるか」みたいなことがあって、公演が決まって胎児性患者たちが動き始めていて、運動としてはそれをどう見るかということでもめるわけです。そんな石原慎太郎を美化することに繋がるようなスターの公演などは支援者たちは協力できないという意見もあれば、原田先生みたいに「胎児性患者が初めて自分たちでやりたいということから始まった話だから、トコトンやらせてみたらいいじゃないか。健康のことは俺が責任を持つから」という意見に分かれていました。僕は原田さんの意見に賛成でしたから、「じゃあ、撮りましょうか」ということで作ったんです。そのときは、運動サイドが諸手を上げて誰もが賛成するというのではなかった。要するに、「たかが歌謡ショーじゃないか。もっと本質的な認定患者の問題とか、そういうのが山ほどあるじゃないか」という意見だったわけです。いま思えば新左翼系の学生運動出身のままの、いわば硬直した観念主義者が、告発運動の中には根強かったのです。そうした新左翼系の”政治主義”には本来の水俣病を告発する会(熊本)の”長老たち”、例えば亡くなった本田啓吉さんたちも手を焼きましたね。しかし、このイベントの成功は胎児性水俣病患者のあり様をつよく印象づけ、その後の運動をのびやかにしました。とてもよかったと思っています。それから『水俣の図・物語』は、丸木夫妻が自分たちで「水俣の図」を描くことを決めて、僕たちの知ったときにはもう描き始めていました。その参考資料として僕らのフィルムを見せたりして協力しているうちに、高木君が「待てよ、これを映画で記録したらどうかな」と考えた。それまで丸木夫妻の「原爆の図」は今井正が『原爆の図』(52)で扱いましたが、長い間彼らの実作は記録されていませんでしたから、お二人も「撮っていいよ」と言うし、「それでは撮りましょう」ということで撮った映画です。高木プロデューサーが惚れこんだ企画でしたね。
ー『海とお月さまたち』と『水俣の図・物語』の撮影は『留学生チュアスイリン』以来となる瀬川順一さんですね。
土本 『水俣の図・物語』は「絵を撮る」という作業になります。瀬川さんなら絵を細かく分析して見事に撮るだろうという思いはありました。それからもう一つのテーマは、丸木夫妻を絵に向かわせていく不知火海の美しさと、それと裏腹に人間の受難という問題もある。それはやはり瀬川さんの格調のある画がいいだろうと思いました。この映画の場合はそうしたテーマを考えて、キャメラは瀬川さん、音楽は武満徹さん、それから絵と絡めて詩が絶対に必要だと思っていたので、それは石牟礼道子さんに。そのへんは頭の中で設計図ができていました。
ーしかも十六ミリでなく三十五ミリで撮られています。
土本 ええ。絵の色の深みやディテールをとらえるには三十五ミリだろうということで、瀬川さんも意欲に駆られましたね。撮影も凝りに凝りました。外山透さんの照明も一流でしたしね。これは毎日芸術賞ほかいくつもの特選を受けましたが、当然そうだろうとスタッフは見ていましたから、お祝いの”会”もしませんでした。瀬川さんは作品歴のトップにあげておられましたけど・・・。
『水俣の図・物語』
ー丸木夫妻の「水俣の図」自体を土本さんはどのように見ましたか。
土本 この絵は、創作の過程自体がそうでしたが、水俣の「甦り」というものを本当に絵で描けるのかどうかを問いかけています。悲惨さとか悲劇とか、そういうものはどんどん描けていくんです。ところが、「甦り」はむずかしい。僕がなぜそれを求めたかというと、現実の水俣にそれが見当たらないにせよ、生き物はいかに甦るか、海はいかに甦るか、その甦りへの願いをどうやって絵として表現するかという美学の命題はまったくそれまで見たことがなかったからです。スペインのゴヤにせよ、ピカソにせよ、死は描いても”甦り”は描いていない。しかし”水俣”なら描けるのでは・・・、丸木夫妻でなければ描けない「甦り」が実現するのではないかと思ったんです。「原爆の図」とは違う形で、水俣だからそういうものが描けるし、それを撮ることもできるのではないかと言って、彼らと討論するんだけれど、「そうだそうだ」と眼を輝やかせながら描いていくものはどんどん暗くなっていくわけ(笑)。
ーそれは映画でも分かります。
土本 一回すごく暗くなっちゃったところで話を終えて第二作目の水俣に取り掛かります。水俣を再訪して加賀田清子さんや坂本しのぶさんを描くなかで、ようやく母子像みたいなイメージが現れてきて、それを描き始めたところで終わる。位里さんがここまででいいだろうと言われたので、ラストにしました。ただ、あれを突き詰めていっても観念的な造形だけになって、本当に深いものにはならなかったと僕は思います。つまり、彼らは絵描きとして水俣の「甦り」を描きたいんだけれど、それはすごくむずかしくて、僕はあの映画でその限界まで問い詰めた気がしました。だから、あの映画をどこで終えたかを思い出してもらいたいんですが、俊さんが「最も悲しいものを、最も美しく描ければ絵を描くものとしては本望だ」「私はゴヤを越えたいと思うけど、どうかしら」と言う。実はそれを聞いていた位里さんが「土本、俺たちはここで絵をやめるから」と言われたんです。この絵は寓話的な母子像は表現できるかもしれないけれど、水俣の本質に絡んで何か訴えるものにはならないという見極めが炯眼の位里さんにはあったのでしょう。僕はなるほどと思いました。つまり、俊さんの具象的な絵に位里さんの墨が加わって仕上げになるんですが、ダブダブと絵具を上から撒き散らすようなことになって、彼自身もあれがどう乾いて、どういうふうになっていくか分からない。自分たちにとっても謎であるというところで終わっています。写実じゃないんだから、画家は夢を描かなければならないという考えはよく分かります。だから水俣の「甦り」を描かなければいけない。しかし、それがなかなかうまくいかない。絵描きとして「原爆の図」や「アウシュヴイツの図」よりむずかしいテーマだったと思います。画想をめぐる闘いとして壮絶ですらありました・・・。
ー『水俣の図・物語』と『はじげ鳳仙花ーわが筑豊 わが朝鮮ー』は「絵を撮る」という形で絵画というものが介在するドキュメンタリーということで、いろいろなことを考えさせられます。絵の実物をそのままじかに観ることと、映画作家の切り口に従ってその絵をフィルムを通して観ることは、まったく異なる体験だと思いますが、特にこのニ作に登場する絵は、丸木夫妻の絵にしても、富山妙子さんの絵にしても、直接的なインパクトの強い絵です。それをもう一度フィルムというケースに入れるというか、移すということについて、かなりお考えになったのではないですか。
土本 僕は若い頃から絵を観ることが好きでしたが、絵をフレームに入れて撮るのは割と単純なんです。まず、フレームの中を一つの舞台として考えます。絵の中心ーまあ主役といってもいいーそれが想念の中から筆に出てきてはじめにキャンパスのどこに描かれるか・・・その筆の運びそのものに画家の”心の旅”が見えてくる気がします。描き上がった絵と描いている渦中の絵とは違います。そこに映画ならではの描写のドラマがあります。写真では絶対に出ないものですね。主役が描けたら次は脇役です。その脇役をどう入れるかということ。それから描線には、画家が描くときの筆致のスピードがあるはずですから、すでに描かれたものをあとから撮るときはそのスピード感を再現しようと。そういうことはいつも考えますね。
ー「水俣の図」は巨大な壁画なので、あれを一ショットに収めるのはむずかしいですね。
土本 ええ。ああいう大障壁画は、歩きながら立ち止まりながら観るというリズムですから、この映画も絵を一気に見せることはしていません。時に覗き込んだり歩きながら見たりしてます。
ーところで丸木夫妻と土本さんはいつ頃からお知り合いだったのですか。
土本 指名手配中の滝田修を匿ってくれたんです(笑)。あの映画の七年くらい前、一九七三、四年、あそこに三カ月間。その恩義をずっと感じていました。二人とも根っからの反権力です。理屈ぬきに滝田修をかばうんですね。その瓢々たる二人のお人柄のままです。僕はいい人間像を記録できたなと思っています。
『水俣病ーその30年ー』
ー『水俣病=その20年=』と『水俣病ーその30年ー』が製作された経緯を教えてください。
土本 『水俣病=その20年=』については前にも言いましたが、カナダ巡回のあとに上映の効率化を計ろうとしてできたものです。
『水俣病ーその30年ー』のときの事情はまったく違います。というのは、一九八〇年代でいったん僕は水俣を撮れなくなったんです。それはどういうことかというと、闘いが、直接に患者と加害者側がぶつかって闘う形ではなく、裁判闘争になっていった。裁判するのは弁護士で、公判が終わると弁護士が「ポイントはここでした」みたいなことを喋るだけで、患者の闘いが見えなくなってきたんです。川本輝夫さんの周辺にはまだそうした闘いの形が残っていましたけど。
患者さんや漁民たちの闘いや告発運動は、それ自体噛みしめるに値する面白さがありますけど、弁護士や支援者にはそれがありませんから、撮る気にならないのです(笑)。
それで、あの当時はまだ千人とか千五百人くらいの患者さんが水俣病の認定をめぐって裁判で争っていましたが、それは人々の眼には見えないわけです。”闘いの代行”が裁判闘争なんですね。”絵にならないもの”も撮るのがドキュメンタリーでしょうが、肝心の作り手がその気にならないのです。初期の水俣病闘争のようにはいかない。しかし水俣病の被害者は不知火海全体で二十万人ともいわれています。それを描かないのは権力の思うツボにはまることでしょう。
そこで不知火海全体はどうなっていくのかというテーマで、『海は死なず』という不知火海の再生のイメージを探る映画を考え、シノプシスも書いてスタートしたんですが、お金がパンクしちゃって金策もできなくて、結局それまで撮りためた分をまとめて『水俣病ーその30年ー』にしました。社会の水俣病問題の関心ももう冷えていた証左ですね。
ー『水俣病ーその30年ー』は冒頭とラストで空撮をやっていますね。チッソ水俣工場の内部を俯瞰し、汚染された海辺が新しい埋立地に変貌しつつあるさまを上空から撮っていて、水俣病の「風化」という新しい事態が示されます。あそこだけ観ると大長篇が始まるような雲囲気がありますが、実際は四十三分です。そういう事情があったとは知りませんでした。
土本 でも、あのまま続けていても、僕自身がパンクしたでしょうね(笑)。笑ってすませられない問題ですけど・・・・・・。
『海とお月さまたち』
ー児童映画として作られた『海とお月さまたち』は、不知火海の漁業を記録した貴重なフィルムですが、映画の中には「水俣病」という言及がまったくない。水俣病が起こる以前はこうであっただろうという、自然とともにある生活を丁寧に描いています。海と魚とともにある生活のディテールから入り、そのような生活に密着した地域共同体が生まれて、それがなくなっていく近代社会の構造まで見えてくるような作品だと思います。
土本 あれは水俣病の起こる前のふつうの不知火海の人々の暮らしはどうか、ということを知ってもらいたいと思って作りました。それが不知火海の一番辺境の漁村に残っていました。その習俗をいま撮っておかないと消えてしまう。水俣の漁師の暮らしや、かつての漁業を誰も知らない時代が必ず来ると思いましたから。水俣病は、ああして一家総出で魚を獲る暮らしをしていた人たちの上に降りかかったのです。あの当時の漁師には、魚獲りとしての誇りがありました。自分たちがどれだけ魚と心を通わせて魚を獲っていたかという時代、魚とともに生きてきた誇りがまだありましたからね。この作品は天草の町村の資料館に引きとられ、郷土の歴史として保存されているようです。もう歴史になりました。映画の中の鉾つき漁などはもうまったくなくなりました。あの名人はわざわざ隣の村から来て、「どうか撮ってください」と頭を下げられました。「鉾つき漁」は自分の代を最後に滅びていくことを自覚していたんです。見事な方がいるもんですよ。辺境にはー。
ー『不知火海』あたりから、海や漁業、あるいは水と人間の関わりといったテーマが土本さんの中ではっきりしてきたように感じられますが、いつ頃からその興味が芽生えたのですか。
土本 やはり水俣をやってみて、患者が漁民であるからこそ持っている魅力というのに驚いたんです。魚の話をこんなに生き生きとうれしそうに語る人がいる。これにはびっくりしました。
ーこの『海とお月さまたち』は、どういういきさつで企画されたのですか。
土本 日本記録映画研究所というプロダクションに茂木正年という面白いプロデューサーの社長がいて、「子どもたちは三十五ミリの映画を観たことがない。条件は何も言わないから、幼稚園から小学校低学年ぐらいまでの子ども向けの映画を三十五ミリで撮ってくれ。全国的に上映をして回るから」とー。そこで「不知火海の話でいいか」と訊いたら「結構」という。頭の中に「月とともに生きる漁民」というのがあったから、瀬川順一さんに「子ども向けだけど、こういう映画やりますか」といったら、「やるやる」ってすぐに乗ってくれて(笑)。
ー三十五ミリですから非常に色彩も濃厚で、瀬川さんらしさも出ています。ドキュメンタリーというよりは、絵コンテなども決めてきちんと撮られたのですか。
土本 ええ、そうです。子どものための映画詩のつもりで作りました。いま子どもが映画館で観るのはせいぜいアニメくらいで、大きなスクリーンで現実社会を映したドキュメンタリーを観る機会は皆無といっていいでしょう。でも子ども向けの映画を作るのはむずかしいです。子どもは大人が考える勝手な省略についてきませんから。映画的なモンタージュがきちんとできていればついてくるけど、観念で繋いだものにはついてきません。子どもの観客は侮れないです。
このプロデューサーの茂木さんは実に独創的な方で、今の時代(八〇年代)こそ幼稚園児や小学生の低学年児に、子ども向けの映画を作り、スクリーンの画面で観せたいと考えている人で、それが当たりましたね。大きなホールを借りてやるんですが、それには親も一緒ですから、採算は十分にとれるんですね。だから三十五ミリ・フィルムならではの迫力もあって若い母親たちも大喜びで観たようですね。プロデューサーの茂木さんに言わせれば一種の”文化運動”だそうです(笑)。
ー水俣ものの中で今でも上映の引き合いが多いとか。
土本 『海とお月さまたち』はいつも変わらぬ人気を持っているんです。今度(二〇〇四年八月)、石牟礼さんの「不知火」という新作能を水俣でやるにあたって、地元で発起人会をやるというので上映したのが『海とお月さまたち』です。それがまた隣の町に口コミで伝わって、離島でも上映会をやるとか、あのへんではちょこちょこ休みなく上映されるんです。ほかの「水俣」シリーズはそんなに上映されていないけど(笑)。
ー「月」という発想はなかなかないと思ったのですが、あれはどこから?
土本 漁師は今でも仲間うちでは旧暦を使いますから。月の暦です。潮の満ち引きとか、大潮・小潮。今も新暦を使わないんです。現役で漁師をやっている人は大体お月さまの暦が頭に入っています。それは今後も変わらないでしょう。
ー水中のシーンは、セットを組まれてやったのですか。
土本 あれは大分マリンパレスという水族館で撮ったんです。その水族館は珍しい魚ではなくて、ありふれた魚の生態を見せるという方針を持っているところで、そこでタコ壷やイカを撮りました。瀬川さんならではの見事な魚の生態撮影の映画のせいか、誰より漁師さんが喜びます。「これをビデオにしてくれ」といって、製作費の負担まで考えて頼みにきたのも、水俣病患者の緒方正人さんですからね。熊本県内の高校・小中学校での講演会には必ず上映しています。「ミナマタ」とはひとこともいっていない映画ですけど、そこがまたいいらしい(笑)。