ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話 第四章 アフガニスタンへの道程 インタビュー <2008年(平20)>
 ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話 第四章 アフガニスタンへの道程 インタビュー

 1 偲ぶ・中野重治

 中野重治の葬儀

ーこの章では、一九八〇年代に土本さんがアプローチされた二つの大きなテーマー「原発」と「アフガニスタン」ーを中心にお訊きしたいと思います。ところで、土本さんはずっと「記録なくして事実なし」と言ってこられましたが、最近は「表現にしなければ人の心に残らない」としきりに仰っています。

土本 記録すらむずかしい時代に、せめて記録だけでもしておかなければダメだ、という意味に重点を置いていた時期がありましたが、今は簡単に記録することができるし、記録したものが人に見られていくことを考えると、撮るだけではダメで、撮ったものが一つの表現になっていくようなものでないとむずかしい、そんな感じで言ったと思います。

ー例えば『偲ぶ・中野重治』(79)では、冒頭ではっきりと「これは記録のために作った映画である」と字幕が出て、弔辞を読む方々を長回しの据え置きで撮っているので、一見すると一〇〇パーセント記録に徹しているかのような印象を受けますが、実は相当に編集されている。具体的には、それぞれの弔辞をどこから始めてどこで切るかというところで、かなり濃厚に土本さんの表現者としての選択が出ていると思うのですが、どうでしょう。

土本 映画の中の弔辞の順番は現実そのままの順番です。クライマックスの宇野重吉さん(俳優)の弔辞が素晴らしい。中野重治(小説家・評論家・詩人 一九〇二~七九年/主著『むらぎも』『村の家』など)が日本共産党から一九六四(昭和三十九)年に除名されたのちも、党も運動もない芸術家同士として宇野さんと中野さんの付き合いがあったわけですが、共産党員宇野重吉としては、思想的な人間として中野さんをたたえて弔意を示すことはできない、というむずかしい弔辞だったと思うんです。その人間的な苦悩は瓢々とした宇野さんの言葉に惨んでいます。

ー『偲ぶ・中野重治』は、製作が「中野重治を偲ぶ映画人有志の会」となっていますが、これは土本さんに誰かから依頼があったのですか。

土本 いや、誰から頼まれたものでもありません。僕から申し出て撮ったものです。念頭には戦前の映画『山本宣治告別式』(29)/日本プロレタリア映画同盟)があったでしょう。中野さんの訃報は天草をロケハンしている宿のテレビで知りました。で、葬儀の日に間に合うと分かったので、「撮っておきたい」と申し込んだのです。製作の「有志の会」というのは、映画を作るには製作者の団体名が要ると思い、咄嗟につけた名前です。僕が手を上げて「人を集めて映画を撮りたいと思うけど、どうでしょう」って仲間の映画人に言ったら、「じゃあ僕もやります」という形で、高岩仁キヤメラマン、鈴木志郎康さん(詩人・映像作家 一九三五年~/『日没の印象』、主著『映画素志 自主ドキュメンタリー映画私見』など)、小池征人さんたちが賛同してくれた。つまり言い出しっぺは僕です。

ーということは、土本さんの中に中野重治の人生や思想に共鳴するものがあったと。

土本 ええ。あれだけの芸術家として人生を全うした人だったら、僕らの常識では、全国の人民とは言わないまでも、共産党をはじめ革命家の手によって厚く葬られるのが当然だと思うけど、共産党の指導部や幹部は”反党人士”として彼の葬儀には参加しない。まあそうなるかなとは思ったけど、党のそのときの考え方によって、革命家としての履歴を持った人が無視され、記録されないのはおかしい、それなら一矢報いよう、という思いはありました。
 では、どういう人が弔辞を述べるのだろうと思っていたら、何人かが選ばれて弔辞を述べるということが分かってきた。だからあれは僕のほうから撮らせてくれと言ったんで、誰かから撮ってくれとは言われていないんです。「撮りますけどいいですか」って佐多稲子さん(作家 一九〇四~九八年/主著『女の宿』『樹影」など)に訊いたら、びっくりしながら「ありがとう、是非やってください」と言われました。
 だけど、”コミュニスト”らしい葬儀になるかは分かりません。中野重治の身体に赤旗を巻きつけて、棺の中に入れて弔うかというと、そうではない。文壇における葬儀担当者というのが大手の出版社にいるんです。そういう人が一切を手配して取り仕切るわけ。中野さんにもっと本質的な革命像を投影していた人にとっては、あんなブルジヨワ化した葬儀には行かないということになる。中野重治を愛惜しつつ、あの葬儀に行かない人も結構いたんです。きれいごとになっちゃったからね。
 徹底して赤旗だけで葬った葬式というのは、映画人では亀井文夫さんくらいじゃないですか。誰も弔辞を述べない。棺には何の虚飾もない。それで遺体を赤旗だけで覆いました。野田真吉さんは「見事なコミュニストの別れだ」と感動していましたね。

ーところで、土本さんとしては、社会主義の理想をもとめる一方で、七〇年代から八〇年代にかけての左翼運動の停滞や社共の足並みの乱れがあり、海外でも社会主義国家の抑圧のシステムが徐々に露わになっていくという現実を、どういう視点で見ていましたか。

土本 『シベリヤ人の世界』を撮ったとき頃から、現実のソビエト国家と、思想としてのマルクス主義との間のギャップを感じはじめました。日本から見ていたソ連やその他の社会主義国家、それから日本で誹謗中傷をやり合っている左翼勢力など、何がどうなっているのか分からないというのが率直な感想でした。最も民主的な部隊であろうとした前衛が最も民主的でなくなり、敵対関係で追い詰められると相手を抹殺する、というセクト同士の内ゲバ現象が起きてきた。すると、映画の世界だけで何ができるかということを考えたときに、目の前で起きていることの記録というものを、僕の手の及ぶ限り正確に心がけていく、ということしか自らを規定できなかった。だから僕は政治的な発言をほとんどしてこなかったし、その意味では怠慢だったと思っています。

 2 「原発」をめぐって

 ナレーションについて

ー『原発切抜帖』(82)の構想というは、どのくらい前からあったのですか。

土本 一年前からです。一九八〇年くらいから、全国の原発をともかくこの目で見ておこうというんで、暇さえあれば見て回ったんです。ところが回っていながら、これを撮るのはどうしたらいいかを考えました。原発を撮らせないという雰囲気があるー。そのとき、原発地帯にキヤメラを持ってウロウロするのはヤバいことなのだ、と骨身に染みたんです。なにしろ出稼ぎ労働者が口をきいてくれない。それから町の人が、映画の人間を見るとすごく警戒する。そこで、工場に入る方法はないかと思っても管制はきびしい。どの原発にも見学用のPR館があって、それをずっと見て回ったんだけど、そこでも撮影はできない。こりゃダメだと思って、別の方法を考えようというので、新聞の切り抜きという方法ならいけるかもしれないと思ったんです。

ー『ある機関助士』や『ドキュメント路上』で労働組合をまず味方につけた土本さんにとって、原発労働者が口をきいてくれないというのは異例の事態ですね。ところで、この作品のナレーターは小沢昭一さん(俳優)で、新聞記事に寄り添いながら軽妙な語りを披露しています。いつもの伊藤惣一さんのドライな調子とは対照的です。

土本 このときは少しコミカルな調子にしてみようかと思い、麻布中学の一年下という小沢さんの起用を真っ先に考えたら、小沢さんも気に入ってくれて、「やりましょう」という具合でした。

ーあの原稿は土本さんが考えたのですか。

土本 僕が原案を書いて、台詞担当の長瀬未代子さんに渡すという順序です。

ーちょっとナレーション論ということで話は飛びますが、『はじけ鳳仙花ーわが筑豊わが朝鮮ー』(84)では女優の李礼仙(現・李麗仙)さんが「私は」という一人称のナレーションを担当していますね。

土本 あの「私は」っていうのは、当時の在日コリアンを主語にした一人称の呼び方です。李さん自身が在日で、幻燈社の前田勝弘プロデューサー(故人)が「ナレーターなら彼女がいいよ」と薦めてくれた。気持ちのすごく乗り移る人だって。

ー土本さんの映画といえば、伊藤惣一さんのドライな声のナレーションというのがイメージとして浮かんできて、時どき小沢さんや李さんが入ってくるバリエーションが面白いですね。最近は「自分」というのもあります(笑)。

ー小川プロ作品でいつも小川さんの声が響いているのに比べれば少ないです(笑)。ナレーション論は面白いですね、それぞれの作家ごとに考え方があって。

土本 僕は映画の世界に入ってから、記録映画のナレーションについてはプロの人にお願いしてきました。それは、ナレーションについては、監督の肉声が介入できる余地は少ないと思っているからです。ただ、『シベリヤ人の世界』を作ったときに、どうしても僕が喋らなければニュアンスが伝わらないという箇所がいくつか出てきた。それ以降は、僕の喋りでしか責任が取れないことを喋るときは僕の言葉でやると、いうふうにしました。

 原発を扱うことの困難

ー白黒の活字媒体である新聞を、あえてカラーで撮った狙いは?

土本 新聞は古くなると、しようゆ色になっていきます。それにはなんとも言えない質感があって、カラーで撮っておこうと思ったんです。それと、長年新聞を切り抜いていていつも思うのは、切り抜いた脇に違う記事が出ているでしょう。それが時代を語っているわけ。切り抜いたものには、余分なものは一行もありません。きれいに切り抜いています。しかし、もともとの紙面にはその日、そのときの記事が隣あわせになっていて面白い効果があります。その全紙を保存してあるところが東京大学の新聞研究所にある。その紙面をパンダウンすれば、隣に映画の広告が出ていたり、あるいは皇族が子どもを産んだときの写真があったり。そういう”余分”を生かすためにも全紙面とカラーのほうがいいだろうと思いました。

ー通常は客観的で信用できる情報という形で引用される新聞が、『原発切抜帖』の場合は紙の質感や周りの広告も含めて一つの伝達媒体にすぎない、という意昧で、非常に批評的なスタンスを見せています。

土本 だから新聞記者によっては、あの映画を観て、「映像によって新聞が痛烈に皮肉られた」とか「自分が書いたものが、ああいう語りとああいう文脈の中で使われていくのは非常につらかった」と言った人がいます。僕はそれを狙ったつもりはなくて、あくまで瞬間風速を記録している新聞というメディアと、それを長いスパンで観ていく映画とのぶつかり合いだと思います。

ー原子力という問題は、土本さんの抱えてきた諸々のテーマの中で、水俣、アフガニスタンと並ぶ柱の一つですが、八〇年代に「水俣」シリーズの間隔が空いてきた頃、『原発切披帖』と『海盗りー下北半島・浜関根|』(84)と、いくつかの短篇が発表されたくらいで、連作としてはなかなか結実しませんが、どこにむずかしさがあったのでしょうか。

土本 一九七〇年代から八〇年代にかけては、スリーマイル島の事故(一九七九年、米国)やチェルノブイリの事故(一九八六年、ソ連)が起こり、世界基準では原発に対する考え方が変わっていった時期です。だから、日本の中だけで考えていくのには少し戸惑いがありました。結局、反原発、非原発っていうのは、電気を極力使わないという、いわば不便な生活を引き受けていくということと一体です。日本は電力の三割、四割を原発に頼っているわけですから。

ー電気を使う量を半分近く減らさなくてはいけない。

土本 それは暮らし全般の変革を伴うわけで、そのこと抜きに反原発だけ主張しても通らない。これは反原発を主張する側の大命題です。その答えはまだないでしょう。

ー実は原発の問題は水俣以上に複雑かもしれません。つまり水俣の場合は、チッソという一企業が毒を流したことは重大ですが、毒を流してまでチッソが何を作っていたのかということはそれほど考えないのに対し、原発が作っているのはわれわれが日々使いまくっている電気なのだから、ストレートに考えざるをえない。

土本 水俣のように、絶対的な被害に伴う悲劇を究極まで見てしまうと、われわれも加害者だということが素直に言えるけれども、原発の問題では必ずしもそうは見えてこない。それから、加害/被害の図式だけではドキュメンタリーは価値をもたないということがだんだん分かってきました。

ー原子力というものに情報として遭遇されたのは、広島の原爆ですよね。でも占領下では、その情報はほとんど伏せられていた。いつ頃から原爆の恐ろしさを意識されたのですか。

土本 最初に原爆のことをなまなましく聞いたのは、丸木位里さん・俊さん夫妻の展覧会が一九四五(昭和二十)年におこなわれたとき。そこではまだ”原爆”や”ヒロシマ”という題名が使えなくて、”八月六日”という題名でおこなわれていた。戦後まもなくのことで、それは知っていました。それからいろいろあったけど、ヒロシマのことが全部『アサヒグラフ』に出たのが、昭和二十七(一九五二)年の夏でした。獄中に差し入れてもらって見て、本当にひどいもんだと思いました。

ー人間が自分でコントロールできない原子力というものを作ってしまった。

そのとおりです。半減期が何万年とか何億年とか、本当にバカバカしい。原子力というテーマを取り扱うことはいつも考えていました。安全神話というのはどんなに語られても、僕たちは原子力本体の悲惨さを原爆でイヤというほど知っている。他方、原子力と病気の因果関係はなかなか見えにくい。医学の側は、患者の甲状腺がおかしいのは原子力に包囲された生活をしているからだ、と言うためには因果関係が必要だが、結果がはっきり出てくるまでに時間がかかりすぎる。だからいっさい断言しない。だけど僕としては、原発というのは必ず原爆と同じ被害が出てくると信じているし、それをなんとか映画でやりたいけれど、むずかしいですね。例えば僕も電気を享受しているわけで、単純に原子力を批判・否定しているだけではダメだとは言えますが、そこから先へ主題をどう持っていったらいいのか。
 最近では新鋭の鎌仲ひとみ監督(一九五八年~)が『ヒバクシヤ』(03)でアプローチしている。アメリカの汚染された工場地帯でどんどん人が癌で死んでいくのだけれど、はっきりした因果関係が医学の側からは一つも確定されない。水俣病の未認定患者と同じです。医学は本当に狂っていると言えます。

ー化石燃料が枯渇するから代替撚料が必要だ、という理屈までは分かるんですが、なぜ原子力に飛びついてしまったのか。核燃料の再処理が日本国内でほとんどできないのに、それを何十年も引きずっているわけです。

土本 軍需と産業がごちゃごちゃになる原点が原子力でしょう。武器であると同時に、その一連の工程が莫大な科学である。それでいて安全神話がどんどん生まれ、利用が広がっていく。われわれも電気を享受しているわけだから、単純に原子力は是か非かという二元論をたてても意味がない。しかし五〇年代には兵器としてほとんど完成に近いところまできてしまったし、まだまだ原子力の武器化と産業化はどんどん開発されています。そういうことをしている巨大な国がいくつか地球上にあるのは怖いことです。

ー「9・11」以降、世界の平和に対する関心がテロリズムに向かい、核兵器の問題が忘れられているように感じます。

土本 人間というのは、忘れていく生き物なんでしょうか。何ベんも忘れちゃいけない、と言い聞かせても、僕自身もときには忘れてしまう。劣化ウランの話を聞くと、”劣化”というのは少し毒性が弱いという意味かと思ったら、とんでもない。ウランとしての劣化なのであって、毒性は全然変わらない。そんな具合です。

 3 『よみがえれカレーズ』

 アフガニスタンへの関心

ーそもそも土本さんがアフガニスタンに関心を持たれたのは、どういうところからですか。

土本 一九七〇年代の動向がきっかけです。七四(昭和四十九)年に国王が追放されて共和制になり、七八年に「四月革命」が起こった。それは遅れてきた革命なわけで、つまりあの国は、ナセル大統領時代のエジプトのアラブ社会主義化の失敗とか、いろいろな国の失敗を知っているわけです。しかも地理的にいうと、革命後の中国を眺めているし、インドとパキスタンの確執を眺めている中で、遅れに遅れて「四月革命」をやった。この新聞記事から、いつか必要になる予感がして切り抜きを始めました。このときはソ連に近かった軍部がクーデターに近い形で反乱して革命を起こしたのだけれど、翌七九年に社会主義政権が生まれ、同じ年にソ連軍の侵攻が始まった。「四月革命」を報じるある新聞に、民衆が戦車の砲口や鉄砲の銃口に花束をさしている写真が載ったのを見て、軍部と民衆の共闘関係という点に興味がわいて、「これは絶対に見届けなくてはいけない」と思ったんです。
 その当時、佐々木辰夫さんという南アジア研究者がアフガニスタンについて現地やパキスタン・インドの情報から論文を書いて『社会評論』などに発表していました。新聞も特派員を出して”革命”を描いた記事や写真を出したんです。その中に革命の細部の描写が出てくるんです。お祭り騒ぎになって、銃や戦車に花をさすアイデアが出て、皆で手をたたいて喜んだとか、花屋の店主が花を提供したとか、そういうエピソードが紹介されていて、「これは見届けよう」と思いました。佐々木さんは二〇〇五年に『アフガニスタン四月革命』(スペース伽耶刊)を上梓されました。

土本 一九八五(昭和六十)年に最初の現地取材に行かれたわけですが、冷戦下の当時としては、西側の撮影隊が入るのは異例なことだったと推察しますが。

土本 初訪問の三年ぐらい前から、日本でも社会党系の友好団体(日本アフガニスタン友好協会)ができていました。そこに協力してもらって、最少の映画スタッフ、高岩仁さんや一之瀬正史さんと組んで行くということになったのです。このときは招待旅行ですから一週間の滞在です。その間ではニュース映画のような素材しか撮れません。ー九八五年の素材だけでは作品にならない、という思いは当時からあったのですか。

土本 ええ、ありました。首都カーブルの友好ムードだけの題材では満足できない、と思っていました。むしろこのときに、次に来るときに映画を撮るよ、という話をアフガニスタン側に相談しました。ソ連軍のいるうちは、あまり行きたくなかったんです。八八(昭和六十ニ)年にソ連軍の撤退が始まったときに、アフガニスタンの人々は次に何を期待しているかということが中心テーマだと思いました。八八年の五月のジュネーブ協定で正式に撤退が決まり、撤退の日にちも分かったので、その日に合わせて行ったわけです。八五年の同行者は高岩、一之瀬のキャメラマン二人だけでしたが、八八年『よみがえれカレーズ』のスタッフは全部で八人。僕と前の二人、プラス熊谷博子(共同監督)、藤本幸久(演出助手)、北候豊(撮影助手)、栗林豊彦(録音)の各氏。それと照明兼プロダクションマネージャーみたいなことをした外山透氏、ということで、いつもより人数が多くなりました。”西側”世界の取材は初めてーということもあって、西側世界に流すことを視野に入れていました。

ー八八年には二回行かれています。

土本 まず五月に行って六月いっぱい。それと九月に行って十二月下句まで。ビザの関係です。そのあと編集には八~九カ月くらいかかりました。言葉を正確に翻訳するのが大変で、その人がいなかったんです。幸いカーブル大学を出て日本に留学中に日本人と結婚した二十歳くらいの混血女性が見つかって助かりました。外国ロケの映画の場合、原則的に言って作家は言葉を覚えないとダメです。相手が喋っていることが正確には分からないからです。それが鉄則であることを思い知らされました。

ー現地では、ダリ語やパトゥシュン語と日本語の間の通訳はいなかったのですか。

土本 この両国語に通暁した人はいませんでした。この通訳には本当に困りました。現地語を英語にする通訳はいたので、熊谷博子さん(映画監督一九五一年~/『三池終わらない炭鉱の物語』など)がその人の英語と日本語を繋ぐ役割をしてくれました。僕も片言の英語だったら分かりますから。

ー滞在中の生活で苦労されたことは?

土本 いろいろと厚遇されましたけど、食い物はチャーハンふうに米を妙めたものに、マトンの肉と、野菜を少し、というのが毎日続くので、ちょっと困りました。ホテルもあえてアフガン人向けのホテルに泊まったんです。カーブル郊外にアメリカ系の資本で作ったインターコンチネンタル・ホテルがあって、外国人はみんなそこに泊まるんだけど、街なかに古くからあるカーブル・ホテルにしました。アフガン人のホテルでしたから、市民の結婚式のシーンも全部そこで撮れたので、結果的には大成功でした。

ーお酒は?

土本 ソ連兵が横流しするウオツカが一本七百円ぐらいで闇市に出回っているので、まったく不自由しなかった。飲みすぎて帰国後にアル中になっちゃったんだけど、それはまたあとの話に(笑)。

 『よみがえれカレーズ』の編成

ー当時の人民民主党政府から、「ここを撮れ」「ここは撮るな」みたいな指示はあったのですか。

土本 幸運なことに、なかったんです。僕らが人民民主政府とじかに提携していたら違っていたかもしれないけど、もう一人の共同監督のアブドウル・ラティーフ氏(映画監督 一九五〇年~/ニ〇〇五年のアフガニスタン映画祭で監督作『渡り鳥』(86)と『石打ち刑』(04)が上映された。そのときの姓名表記は「アーマデイ・ラテイフ」)が社長を務めていた半官半民のアフガン・フィルムズと提携したんです。アフガンの映画人と僕らとの提携だから、そういう制約を受けるような雰囲気はまったくなかった。ただし、例えば「大石仏のあるパーミヤンに行きたい」なんて言っても、アフガン人も行けないゲリラ地域という意味で「行けない」という制約はありましたが。秘密警察に監視されたとか、撮影中に止めろと言われたことは、まったくなかったです。

ー三人の共同監督の仕事の分担は?

土本 日本で考えたとおりの分担でした。最初に考えたのは、イスラムのアフガニスタンに行って女性も撮るということと、言葉の問題。そこで英語が堪能な女性のスタッフ、と考えて、前から知っていた熊谷さんにお願いしました。途中からペルシャ語のできる東京外国語大学卒業生の林野緑さんと組んでもらいましたが、それは基本的には成功したと思います。つまり女性を撮るときは彼女らに任せるでしょ。そうすると、女のスタッフだとやっぱり違う。熊谷さんとはそういう仕事の分担をしました。
 彼女らに一之瀬キャメラマンがつきました。アフガン・フィルムズの責任者でもあるラティーフさんは現場にいるわけではなく、いろんな人を紹介してくれたり、あちこち電話して許可を取ったり、現地コーディネーター的な役割でした。でも、僕らが政府の機関と提携していたら、絶対にムジャヒデイン(反政府ゲリラ)の親玉なんか撮れなかったでしょう。ラティーフもさるもので、誰とでも付き合う神経を持っている人間的魅力に溢れた映画人ですから、あれこれの人間たちを掴んでいるわけです。彼も相当悩んでから、「それじゃあ、とっておきの”友人”を出すか」ということだったと思います。
 彼は八三年から六年間モスクワの全ソ国立映画大学(VGIK)に留学した人で、九〇年代以降にムジャヒデイン政権からパージされてるんじゃないかと心配したんですが、今は復職しています。彼とは今はメールのやり取りもしていて、『在りし日のカープル博物館1988年』(03)の現地語版を作るのは彼に任せています。ちなみにNHKが出資した『アフガン零年』(03)のセデイク・バルマク監督(一九六二年~)は、ラティーフの助監督から出発した人です。
 僕は三人のうち一人でも欠けたらこの映画は成り立たなかったと思っています。

ー基本的な構成は、いつもの土本さん流の「撮った順」と考えてよいのですか。

土本 ええ、前後してはいません。冒頭、聖者の埋葬とカレーズ(地下水脈)のシーンは、撮った素材の中からシンボリックに構成していますが。
 この作品を観るたびに、編集のシャープさがない、どうしてだろうといつも考えるんですが、まさに撮った順にこだわったせいかな、という気がします。僕はどうして撮った順にこだわるかというと、この種のドキュメンタリー映画は、そもそもロードムービーだと思っているわけです。つまり自分が対象と付き合っていく過程で次々に物事にぶつかって、ぶつかるたびに前の自分を否定したり、逆に大きく飛躍したり、そういうことを正直に出すのが面白いと思っているんです。そこがうまくいっていない。撮影が許可されたものの順だからです。そこが自由取材と違うところです。

 『よみがえれカレーズ』は失敗作?

ー構成の問題とも関係しますが、しばしば『よみがえれカレーズ』は失敗作である、と自ら発言されています。なぜそう思うのですか。

土本 一つはソ連軍の描き方に突っこみが足りなかった。ソ連軍の兵営のロケはわずか一時間でした。兵士の帰国は撮れました。例えば女性兵士が祖国に帰るのに同行して、彼女がそれまでの緊張から解放されて喜ぶ姿を撮った。あとで出てくるアフガン難民も祖国に帰ればうれしいわけで、それを対比させようと思って彼女を描いたのですが、考えてみれば、それはソ連の侵攻に対する批判にならなくて、ただのニュース的な描写に近い。誰でもそういう瞬間はあるだろうという撮り方になってしまい、もう一つ深く、ソ連の侵攻に批判的であった一般の民の表情と思想を撮れなかった。
 一方、ソ連の侵攻で一番間違った点は、国家権力の軍隊を使うしかなかった、という点ではなかったでしょうか。例えばスペイン戦争のときに、コミュニストは国際義勇軍を作った。朝鮮戦争では、中国は”義勇軍”という形で参戦したわけで、国家の正規軍として出動はしなかった。今回のソ連軍はその点がダメということ。それとソ連と当時のアフガニスタンでは戦力がケタ違いーまったく非対称でした。ゲリラは八〇年代の半ばからアメリカの最新の対空ロケット・ステインガーを入手しますが、それまではイギリス植民地軍の残したあり合わせの鉄砲で対抗していた。他方、ソ連にはヘリコプターから戦車から何でも武器がある。あまりにもバランスが悪い。要するに義勇軍の問題とも絡んで、ソ連の大国主義が露骨にあらわれた。
 だから、現地のそういう気配を必ず撮りたいと思っていたんですが、僕らにはうまく撮れなかった。まあ、外国のいろいろなジャーナリストに聞いても、「撮れない」という意見なので、やむを得なかったとは言えるけれど。

ーソ連軍撤退の場面は、戦車の上から撮っていますね。

土本 そこが最も良い視座でしたからー。ソ連軍がジヤララバードから撤退していくとき、同行するロケ隊として、外国の映画チームは僕たち二人だけが許可されて、あとはみなフォト・ジャーナリストたちでした。戦車に乗って、かなり長回しで見送る群衆を撮ったんですけど、例えば亀井(文夫)さんの『上海』で、日本軍の行進の傍らで中国人の眼がギラッと光っている、というようなイメージは持っていて、そういうものがあったら撮ろうと思っていたし、逆に友好的な雰囲気があればそのまま撮ろうとも思いました。
 だけど、もう一つの視点というか、あの民衆の背後にどういう眼差しがあったのか、ということを押さえておくべきだったという反省はあります。僕なんかの世代だと、ベトナム戦争の終戦のときのアメリカ軍のイメージがあるわけ。つまり無茶苦茶に負けて、あわてふためいて飛行機に乗って逃げていった。それに比べれば、この部隊は民衆から憎まれていないという印象がしたし、実際に花を持ってくる少女もいた。だから、もう少し説得力を持つためには、もう一台のキャメラで背後の人たちを撮って、その人たちも最前列と同じような姿でソ連軍を見送っているかどうか、というのが確認できれば安心できたんだけど。

ー「撮った順」の編集・構成が、あまり効果を発揮していないように感じるのですが。

土本 その点を撮れなかったことへの悔恨はありますが、まあ撮れなかったんだからしょうがない。そうすると、撮れたものをどう編集すればよかったかという問題になります。僕はよく「撮った順」といいますが、この作品も基本的に撮った順で、それで描けるというふうに考えました。ところが、農村地帯のへラートという元ゲリラの支配地へ行ったときに、むろん農民の姿は撮りたい。それからモスクや宗教関係も撮れたらありがたい。それから頭の中では、民衆は国民和解を望んでいるはずだから、それに繋がるものが撮れて映画になればいいと思っている。要するに描くものが多すぎて、ラストに向かって集中していく編集になっていないんです。農業の話は各シーンに散らばっているし、”カレーズ”の位置づけも、農業の話と絡めてきちっと固まっていない。むしろ、ラストのイラン国境で見つけた、これから国に戻ってやっていきたいという難民たちの帰還を核にして、国民和解の動向という観点に合わせて全体を編集していったほうが、後半に気持ちがドライブしていくような構成になったでしょう。この作品に関しては、撮った順というより、撮れた順でやった結果、編集・構成の集中力が弱くなってしまったと思います。
 ほとんどの自分の映画については、このシーンの次はこれだったという記憶があるんですが、この映画の場合は「これが出てきたか」みたいなところがあるんです。自分で本当にシャープに研ぎ澄ませた構成になっていれば、そんなことはない。ところが自分で観ていて「あ、これが今ごろ出てきちゃったか」とか、そういうふうに思うような拡散性に気がついちゃつていますね。

 撮れたシーン、修正した箇所

ーモスクの外壁を飾るモザイクの修復のシーンが印象的です。職人の轍密な手仕事をじっと見つめて徹底的に撮っている感じがします。

土本 ええ。あれはよくキャメラを止めなかったと思います。逆に、農業のシーンはあれほどうまく撮れなかった。ロバの背に藁をあんなに大量に積むなんていうのは面白い画だけど、綿摘みのシーンも平凡だし、やっぱり僕の不勉強だと思います。

ーでも、女性たちがオリーブを摘むシーンは印象に残ります。

土本 オリーブの実の加工工場のシーンですね。あのオリーブ摘みのところで、「家族はほとんど死んじゃった」と言う中年女性が「革命後はここみたいに働く機会ができた」と言います。人民民主革命が女性の解放であったことを、ズバリと言いますね。あの女性は表情だけを見て選んだ人です。まったく偶然にインタビューした方です。その発言は予想もしないまるで模範的な答えで驚きました。あのあとタリバーンが支配するわけでいま見直すと、ああいう言葉をよく撮れたと思います。

ーヘラー卜の村に反対勢力のはずのムジャヒディンの親分が訪ねてくるシーンは、どうして撮れたのですか。

土本 村人にとって彼の訪問は不思議でも何でもないわけ。その地域の全体を支配するリーダーは、あそこの土地の場合はサイーデイーという人ですが、革命のあと二、三年は武装ゲリラだった人で、このときでも、武装集団を率いていました。だから、革命政権と繋がりながら反対勢力とも人脈のある人望のあるリーダーなんです。彼は大学を出ていて字が読めるわけ。あの地方では字が読めるというのは非常に大きいことなんです。だから人望がある。現地語(ダリ語)であっても、彼らが何を話しているのかは僕にも顔つきで分かりますよ。「自分はもう疲れて、国民和解に協力しようかと思うので、これからもよろしく頼む」という流れになっていることは分かりました。

ーあとで修正したカットがあるそうですが。

土本 最近作ったバージョンで、あるカットをストップモーションにして五秒延ばしました。大事なカットでしたが、短かったからです。それは外国から帰還した人たちに屋上でインタビューするシーンで、熊谷さんが「これからどうしますか」ということ以上に突っ込んで、「この中でゲリラだった人はいますか」と無邪気な質問をする。そうすると一人が彼女をキッと臨むんです。その睨んだカットが短くて七コマしかなかった。だからすぐ終わっちゃう。それをどうしても延ばしたかったんです。取材者を信用しないで睨みつけている眼です。あの眼は僕たち全員を問うているんです。自分らの苦しみを知らない外国人の、いかにもありそうな質問だな、と僕たちを厳しく批判している眼です。よくよく注意して見ないと、七コマや八コマではそれを批判とは気づかないわけ。「僕らは批判されている、しかし撮っている側は忸怩たる思いであの眼を見るしかない」いうことを観客が察してくれるには、やはり五秒かかると僕は思った。熊谷さんが質問者だから、彼は苦々しげな目付きで彼女を睨むんだけど、それは僕ら全体に向けられている。ほんの一箇所の修正だけど、僕らが問われている一例として観てほしい、という思いで直しました。

ーナレーションがすべて伝聞調ですね。

土本 僕が被写体とじかに会話しているのではなく、通訳が間に入って「彼らはこう言ってます」という形だったわけで、その状況をそのまま残すとしたら「伝聞」の形になると考えました。

 アフガニスタンから見る「国家」論

ーラス卜では、国家の消滅というか、何千年と続く国境を越えた人間の営みを提示しています。

土本 それは、ああいう国を見ていく場合の基本じゃないですかね。だから例えばイランに二百万人もの難民が行っているというから、これはどういうことなんだろうと思ったけど、平均国民所得がイランとアフガニスタンで十対一だった。つまりイランの経済力と、イランの持っている教育や文化の水準は、アフガニスタンの若者にとって憧れの的なんです。だから、食えなくなったらイランに行けばいいさ、というのが普通だった。まるで同じ国の中のように平気で出稼ぎに行く庶民の感覚。それが国境まで行つてはじめて分かりました。ちょうどイラン・イラク戦争(一九八〇~八八年)の終わり頃で、人手不足のイランでは、清掃とか建築とか、いわゆる「3K」産業は、ほとんどアフガン人が従事して成り立っていた。あとになって、イラン映画の『サイクリスト』(89/監督:モフセン・マフマルパフ)とかを見ると、差別されていますね。ああいうのはみんな僕たちがアフガニスタンで見てきた光景と表裏一体で符合しました。イラン映画には、普通に働いているアフガン人がどうしてこうまで差別されるのか、といったテーマが多いですね。同じイスラム国家で、隣あわさっているのに、石油資源があるかないかで、国民所得の違う典型がアフガニスタンとイランでしょう。何しろ一対十ですからー。出稼ぎが常態なのです。それが、”政治的難民”と目される。アメリカや西側にとってはそのほうが”宣伝”になりますからね。

ーアフガン人はイランに流れ、その同じイランからは、ほぼ同時期の八〇年代後半、多くの人が日本に出稼ぎに来ていました。経済力に伴う人間の移動というのは大きなテーマですね。
 さて、近代に欧米列強が強引に国境線を引いたわけですが、いわゆる国民国家の国境に対する違和感、アフガニスタンで感じたこともあったのですか。

土本 かつて『シベリヤ人の世界』を撮ったときに考えたんですが、近代国家はお互いに版図を広げているくせに、抑制的な意味で国境を重視しようとする。それは帝国主義同士の勝手な決め方であって、僕の中には、一般の生活ではそれはもともとなかったという感触があります。だから彼ら生活者の目線では本来、国境なんでものはないだろうと思っていましたが、アフガニスタンに入って、クルドについて考えたり、イランやパキスタンとの国境地帯に行ってみてさらにそれを実感した部分も大きかったです。

 「閉ざされた国」を撮る

ー土本さんの履歴を考えると、アフガニスタンに対しては複雑な思いがあったのではないかと想像します。全学連の副委員長などアクテイヴィストであり、社会主義者としての立場からすれば人民民主党のポリシーは分かる。他方、べトコンを思わせるムジャヒディンの抵抗にも共感されたのではないでしょうか。いま思うと、日本がバブルに向かってどんどん中産階級化していく八〇年代後半にアフガニスタンに行かれたわけですね。

土本 マスード(一九五三~ニ〇〇一年/反ソ連軍ゲリラ司令官、対タリバーン北部同盟副大統領。自爆テロで暗殺された)なんていう人間像を撮りたかったですよ(笑)。マスードみたいに、国内にとどまって自分の地域を守りながら、そこに学校や病院や保育所も建てて、現政権やソ連軍の侵入を許さないという戦い方をして、自分は絶対に国境から出ないという人には非常に共感を持ちました。一ぺんは外国に出て、アフガン政府と戦ったヘラートのサイーディーがインタビューの中で「パキスタンやイランにいる連中はどこか間違えている。やはり国民に選ばれた存在でなければダメだ」というふうに言います。あれは言葉をかえれば、国内に住んで、その地域の人々に信頼されている人間でなければ、政府に何を言ったって状況を変えられるわけがない、外にいてガアガア言うような立場は良くない、ということを彼は言いたかったんだと理解しました。

ーこの作品を観ていると、北朝鮮やかつての中国のような「閉ざされた国」に入っていくドキュメンタリーの系譜をいくつか思い出します。例えば宮島義勇監督の『千里馬(チヨンリマ)』(64)のように、あるイデオロギーに則って方向性をはっきり打ち出すこともできると思いますが、土本さんとアフガニスタンの場合はそうはならない。先達の作品と照らし合わせて、ご自身ではどのように思われますか。

土本 オーバーに言えば、やはり作家の思想性ではないでしょうか。僕は今でも共産主義の根本は信じますけど、実際の抑圧装置に変わっていったソ連とか北朝鮮という権力的な国家を見ると、単純にその国の良いところを紹介して、日本にそうなれと言うんですか?と思うわけ。それは取材者自身がその国でちやほやされて、良い国だったなあと思うレベルは、人間だからあるんですよ。例えばオランダのヨリス・イヴエンス(映画監督 一八九八~一九八九年/『北緯17度』『中国』にしても、第二次世界大戦前に作ったものは、彼自身がかなり疑問を持ちながらもソ連万々歳で作っていく。じゃあ本当にそう思って、自分の国でそういうことをおやりになるんですか、という疑問が以前からあります。ついでに言えば、一回目の山形国際ドキュメンタリー映画祭(89年)で上映されたイヴエンスの遺作『風の物語』(88)は中国にいわば仕返ししている映画ですよ(笑)。最初はソ連万々歳の評価をしていたアンドレ・ジッド(作家 一八六九~一九五一年/主著『狭き門』など)は、実際にソ連へ行って反ソに転じました。だから僕らはどうしても、取材する場合に粗探しする気はないけど、アジテーシヨンの映画にはしたくない。映画を観客に観てもらって討論してもらう場合に、自分の考えを押し付けるとか、党派的なキャンペーンに使うとか、そういうことはしたくないということです。宮島さんの場合には、あの当時の北朝鮮嫌いの日本に対して一矢報いようとした結果、この国はこんなに素晴らしいということを主眼にして撮った。だから全体としてはアジテーシヨンになってしまってます。資本主義国家でも、例えばロバート・フラハテイ(映画監督 一八八一~一九五一年/『極北の怪異(極北のナヌーク)』『アラン』など)の『ルイジアナ物語』(48)は石油会社との関係の中で作られた映画ですね。石油の社会、即”進歩”として、それを疑ってみることは少しもない映画だった。二〇〇三年にアメリカのロバート・フラハティ・セミナーに招待されましたが、そのときもフラハテイ晩年のこの映画に批判的な人は少なくなかったようです。

 ソ連の崩壊と九〇年代

ー『よみがえれカレーズ』を発表されたのち、九〇年に湾岸戦争が起こってアラブ・イスラム対アメリカという構図が見え始め、九一年にソ連は崩壊。九〇年代半ばにはアフガニスタンもタリバーンの支配が強まります。土本さんも体調を崩されていますが、この時期の国際情勢をどのような気持ちで眺めていましたか。

土本 まったく混迷の時期というか・・・何も分からなくなっちゃった。今は元気なんですけどね(笑)。人民民主党政権が倒れ、九六年にタリバーンが支配してから、これは最悪のパターンがイスラム圏に生まれてしまったという感じがしました。他方、ビンラデインの生きざまというのは、巨万の軍資金を持って山の奥にいて、世界をじーっと眺めながら兵隊を訓練しているというのは悪くない、と思うところがあるもんだから、一概にテロリズムはけしからん、ということにはならなかった。パレスチナをはじめ、それだけのことをアメリカはしたじゃないか、というのがあるわけです。僕は『パルチザン前史』などで暴力とは何かについて考えてきましたが、いまだに頭の中が整理されていない部分があります。
 イラクの問題でも、アメリカが入ってフセイン政権を倒してイラクが解放された、なんていうふうに言うけど、そんな単純なものではないだろう。全部が全部、暴虐な圧政一色で語られるには、イラクはとても複雑だし、もっとよく見ていかなくてはいけない、と思っています。
 僕はアフガニスタンは連邦制が一番いいと思っています。それぞれに言語が違うんだから。ただ、そうすると資源とかいろいろな点で富の偏在が生まれる。そこをうまく解決できれば連邦制がいいと思っています。イラクもそうです。もともと列強の帝国主義的な支配と分割によって民族と国家がねじれた不自然な形になったわけで、そのねじれを押さえるには強権政治しかない、という過程がどうしても生じてしまった。

ーイラク戦争が終結した二〇〇三年の六月にアメリカに行かれたそうですね。

土本 さっきも言いましたが、フラハティ・セミナーというドキュメンタリー映画の国際セミナーに招かれて、『よみがえれカレーズ』ほかの自作を上映したんだけど、グラウンド・ゼロも見てきました。見て思ったのは、こんな悲惨なことが起きる手段を、なんとすさまじい形で二十世紀は持ってしまったのだろう、ということ。スペイン戦争のときに、兵隊が命を失うのは仕方がないとしても、一般民衆が空からの爆撃によって多数殺されたことが、ピカソ(画家・彫刻家 一八八一~一九七三年/「アヴイニヨンの娘たち」など)をしてあれだけの大作この「ゲルニカ」を作らせた、というのがたかだか七十年ぐらい前の話でしょ。無辜なる市民が無差別の空爆で死んだ、はじめての人類史的体験ーというか悲劇だったんじゃないですか。今ではピカソの絵で知られるけど、それまでの戦争体験になかった悲劇でしたでしょう。それから十年足らずで原爆が生まれた。そして米ソの競争があって、それをテコに世界中に戦争をいっぱい撒き散らした。ほとんどの戦争の種がソ連かアメリカですよ。そういった歴史から見れば、「9・11」はその帰結だと思わざるをえない。
 だから僕はニューヨークでグラウンド・ゼロを見ながら、テロリストに対する憎しみというところには気持ちがどうしてもいかなかった。どうしてこんな悲劇が生まれたのか・・・悲惨に決まっていますよ。そういう意味でのモニユメントとしては、このまま鉄屑のままにしておいたほうがいい、いろいろなことを考える場所として、鉄屑のままのほうがいいと思った。

ーフラハティ・セミナーでは、「フセインは悪者ではない」という発言をされたそうですが。

土本 もっと悪い奴がいるじゃないか、という意味です(笑)。
 僕はフセインの側が一〇〇パーセント悪いとか、あれをアメリカがつぶさなければ民主主義はなかった、とは思っていません。クルドの虐殺をはじめ、フセインを咎めるべきことはあるけれども、アメリカはアメリカで、湾岸戦争以降に経済封鎖して、制空権を取りました。それで、ありもしない「大量破壊兵器」をあるかのごとくウソを言って攻めていったわけだからー。

 4 『もうひとつのアフガニスタン カーブル日記1985年』と『在りし日のカーブル博物館1988年』

 土本映画は「快楽映画」

ーアフガニスタン撮影から十五年以上が経過したニ〇〇三年になって、『よみがえれカレーズ』で未使用だった映像素材を使い、二本のビデオ作品にまとめられました。『在りし日のカーブル博物館1988年』と『もうひとつのアフガニスタンカーブル日記1985年』です。それぞれ三十二分と四十二分の中篇ですが、これらを作られた経韓を教えてください。

土本 カーブル博物館の記録をいつかまとめなくちゃというのは、この十数年来の宿題でした。『よみがえれカレーズ』のときにそれができなかったのは、撮影時(一九八八年)、バーミヤンの大石仏があるヒンドゥークシ山脈一帯が反政府勢力の支配地で入域が禁止されていたからです。そのカットのない”アフガン美術”はありえないと思っていますから、その日の来るのを待っていたのです。そうこうするうちに、一九九二年、撮影に協力的だった人民民主党の政府、ナジブラ政権が倒された。これは決定的でした。この政権は開放的で、普通、決して撮らせない”秘宝”を日本のわれわれには許可しましたが、莫大な協力金でも積まなければ許可されないのが普通です。それは植民地時代を経験した国々では常識です。帝国主義の文化収奪と闘ってきた歴史がそうさせるのでしょうね。やはり九二年、ナジブラ政権が倒れ、反政府三派の暫定政権になってからは撮影の見通しはまったくたたなくなりました。ですから、手持ちの映像素材から編集したものです。

ーだから十数年も遅れて、この二本は発表されたんですね。この二篇には現実録音はありませんでしたが、何故、わざわざ私家版と冒頭にタイトルを打たれたのですか。

土本 それには恥をさらさなければ。十数年の問、素材は製作会社のシグロに預けっぱなしだったんです。シグロもその問、引っ越しや資材整理もしました。その問、ネガだけは守られていましたが、録音テープは行方不明になりました。ですから、苦肉の策でしたが僕の解説でやりました。画の編集に音のなかった時代の無声映画的な手法を心掛けましたから、観客は現実音を画面から想像して鑑賞してくれたようです。これは僕にとっても実験でした。
 『在りし日のカーブル博物館1988年』は展示されていた美術品が中心でしたから、音がなくてもよかったのですが、一九八五年の訪問記である『もうひとつのアフガニスタン』は、インタビューや現実音が必要だったので、そのテープの喪失は一時、作品化を断念させるほどショックでした。しかし、イスラム国家の、社会主義的国づくりの実験という貴重な実験が最も成功した時期の話ですので、ぜひ紹介したかった。で、ナレーションでこちらの主観がでないように、苦心しました。自分で画面を観て、そこから浮かんだものを言葉にするといった解説をしました。最低限、画面を読み取る助けになる言葉を喋ったんです。だから完成後、黒木君、岩佐君などにこの方法の是非を訊きましたが、「主観主義にはなっていない、よく分かった」と言われたんで、発表しました。
 そのとき、”私家版”と銘うちました。音の欠損はやはり隠せません。自費出版という形なら申し訳が立つ。本に自費出版・私家版があるように、映画にもそれがあってもいいと思った。作らなければゼロですが、いったん作っておけば、あとで生きるかもしれない。その典型的な経過をたどったのが「在りし日のカーブル博物館1988年」です。これは信頼するラティーフ監督(『よみがえれカレーズ』共同監督)にアフガニスタン版を作ってもらい、まずカーブル博物館、アフガン・テレビ等に現地語版を常備してもらいました。そして、その線からユネスコ中央に知られ、パリ本部の常設備品に採用されたのです。ここまでは全部、僕と妻の私費でできました。フィルム時代には考えられないことです。パソコン時代だからできたことでしょう。

ー確かに今では編集の段階でもフィルムの時代より様々な映像表現が可能になっています。

土本 僕らが映画の世界に入った頃は、映画の生命、賞味期限は二年もてばいいよな、なんて言っていた。映画があとあと役に立つとか先々に残るなんて考えはまったくなかった。当時の映画の肺活量はそんなものです。撮影が終わり、公開にベストを尽くして終わり。ところが自主製作映画はそこが決定的に違ってきたわけです。その変わり目は「水俣」あたりからです。だから賞味期限の短い商業的な映画と、本当の意味での自由な映画はどこが違うかと考えていくと、やはりあえて「考えるための映画」だからだと言わせてもらったほうがいいんじゃないかと思うんです。
 基本的にはこういうことです。人間にはぱっと観て、感覚的に楽しくて、美しい花を見たときのように、ウワーッと一瞬でうれしくなる映画はいっぱいあっていい。だけど観ているうちにだんだん物事が分かってくる楽しみもある。外からアジられて分かっていくんじゃなくて、観ていくうちに自然に分かってくる快楽、物事が解き明かされていく快楽というのが、人間には絶対にあると思うんです。そこに近づきたいと思うんだけど、なかなかうまく行かないけどね。その意味で、僕の映画は一種の”快楽映画”だと思っています(笑)。
 映画の最大の特権は何かといえば、編集のときに物事を考えられることだと僕は思っているんです。亀井さん流の「映画は編集でどうにでもなる」というのとはまったく違うけど。かつて自分が撮ったものを徹底的に洗って見ると、そのときは俺たちこういうつもりで撮ったけど、ひょっとすると全然違うことを意味する画ではないかということを、気に留めておくこと。そのとき使わなくても、あとで取り出してはめ込んでみると、新しい意味が生じることがある。映画も生きていると思う。
 まさにドキュメンタリーは、撮りながら考える、編集して考える、音を付けるときに考える。もう最後の最後まで考えることのできる、不思議なものだと思います。それを極端にやってみると、十五年前にアフガニスタンで撮って寝かせておいたフィルムを改めて拾い出して、また考えるみたいなことをやった結果、この二本になったわけです。

 甦る映像

ーこの二本を観て、五年、十年と熟成されて味が変わるお酒のような印象を受けたのと同時に、『よみがえれカレーズ』の側の意味も多層化したという印象を持ちました。もし『よみがえれカレーズ』に今回の映画で使ったフィルムを入れていたら、明らかに方向性が変わったと思います。具体的には八五年のロケで撮った映像を加えれば、より人民民主党寄りのニュアンスが増したと思われます。当時はそれを意識して使わなかったのですか。

土本 『よみがえれカレーズ』を作った時点ではもう十分だと思ったんです。前に撮ったフィルムのことをもう一度考えて、ああこうだったのかと気がついたのは、つい最近のことです。

ーその時点で捨てたフィルムが、今になって甦ってくる、というダイナミズムはすごく面白いですね。

土本 不思議ですね。同年輩として僕の映画を観ている時枝(俊枝)さんが、この二本を観て「とても新しい」と言うんです。手法じゃないんです。無音の映像に僕がナレーションを付けているだけですから。そうじゃなくて、「映画の新しい試みという意味で、とても新しい」と言う。それは、そういう時代が来たということだと思います。

ーいま観ると皮肉なのは、イスラムを排除していない社会主義の姿が映っています。

土本 カーブル限定とはいえ、女性はヴェールをしていない。こういうことが可能だったのに、その後に極端な方向に行ってしまったのはなぜ?と考えてしまいます。

土本 今でも女性が抑圧されているアフガニスタンが、一九七八年の革命からたった数年の民主的な運動で、まあカーブルだけの話だけれども、あれだけ素顔をさらすような生活に移行できたということ自体が面白い。それから農家の女性を撮ったんだけど、ついてきたアフガン・フィルムズの人が、「はじめて女性が平然とキャメラの前に顔を出した。これはアフガン映画史上はじめての事態だ」って言うんです。つまり因習ゆえに変わらないということはないし、逆にタリバーンが来て取り締まると、もとの習慣に戻っていく速度もはやい。だから本当に政治というのは大きな創造的な仕事を含んでいると思います。人がコロッと変わるんだもの、良いほうにも悪いほうにも。
 だから、『もうひとつのアフガニスタン』は、九〇年代に反動のひどい時代が十何年と続いていたことを考えると、それとの対比という意味で非常に面白いと思います。この映画を内外で観せると「八〇年代半ばのアフガンがこうだつたなんて、知らなかった」と言われます。それはそのとおりなんです。だってそれを伝えるテレビやニュースフィルムなどのメディアが何もなかったんだから。
 これからのアフガニスタンには、外に亡命しているインテリゲンチャが帰ってくるかどうかが大きな問題でしょう。今回の二本のような歴史資料が、少なくとも政治をやっていく人の間で見られるようになる機会は、僕が考えているより早くなっていくような気がします。とくに若い人には一つの現代史としてですね。

ーこういう歴史的な美術品に価値がある、という教育自体がなかった、と解説に書かれていますが、これからどう変わっていくと思われますか。

土本 原理主義者から見れば、カーブル博物館なんてのは異教徒の”偶像の巣窟”みたいなものだったわけで、これからはまず歴史の見直しが始まるでしょう。美術品を価値あるものとして見るかどうかは、歴史認識に照らして価値があると思うから見るわけで、そうでなければ平然と仏像を破壊することにもなってしまう。『在りし日のカーブル博物館1988年』で僕が絶対に切りたくなかったのは、まったく普通の洋服の女子学生たちが見に来るシーン。この映画の監修者の土谷モタメデイ遥子さんというカーブル博物館に勤めていた人が、これを観て驚いているんです。「私がいた時期には、こんな服装の学生は一人も見たことがない。あの時代はそうだつたんですね」って。ちなみに、『もうひとつのアフガニスタン』のほうは、ペシャワール会の中村哲さんが観てくれて、「アフガニスタンにこんな時代があったの?識字教育していたの?」って、やっぱりびっくりしていたと聞きました。だからそのカットだけ残っていれば、あの当時のことを察したり、調べ直したりしてもらえると思うんです。これがドキュメンタリーのいいところでしょう。

ー土本さんご自身が、古美術品がお好きだったというわけでは?

土本 まったくない(笑)。