ドキュメンタリーの海へ 記録映画作家・土本典昭との対話 第五章 失われた九十年代、そして現在 インタビュー
1 アルコール依存症と失われた九十年代
アフガニスタンのウオツカ
ーここでは一九九〇年代から現在までのお話を伺いますが、まずは禁酒について(笑)。酒好きの土本さんがどういうきっかけでやめられたのですか。
土本 『よみがえれカレーズ』のあと、アルコール依存症になったんです。まず幻聴が起きるようになって、聞こえるはずのない人の声が聞こえるようになった。それから錯視というのが起きて、人を見間違えるようになったので、これはいけないということで、高岩仁さんや武井昭夫さんたちが心配してくれて、一九八九年六月に久里浜にある有名なアル中の病院(国立療養所久里浜病院/現・独立行政法人国立病院機構久里浜アルコール症センター)に僕を送り込んだんです。『よみがえれカレーズ』の上映運動をやらなきゃいけないと思っていたから、入院している暇はないと言って抵抗したけど、しょうがないから結局、三~四カ月間入院して治療を受けました。刑務所以来の長逗留ですよ(笑)。相当ヘビーになったのは、アフガニスタンでウオツカをガブ飲みしてからです。あれがよくなかった。
ーそもそも水俣では毎晩、焼酎の一升瓶を空けていたとか。
土本 ええ。水俣では百本ずつ注文してました(笑)。スタッフもみんなお酒好きだったからね。
ーすると『よみがえれカレーズ』の前後でお酒の量が増えたのは、ストレスということもあったんですか。
土本 それはとても強かったです。まずアフガニスタンでの撮影中のストレスは、言葉が分からないことです。僕が咄嗟に意思表示をしたり、相手に問いかけていくという、直接のコミュニケーションがなかなかできなかった。熊谷(博子)さんに頼んだり、通訳の人に頼んだり、英語のできる向こうの人と片言でしゃべったり、もう極端に言葉が制限されていて、そのイライラが根本にあって大量の飲酒になった。酒飲んだって解決するわけじゃないんだけど。
前に『シベリヤ人の世界』の撮影でそれこそウオツカだらけのソ連に行ったときも、七〇年代にカナダを通算二百日くらい通訳なしで歩いたときも、こうはならなかった。ソ連やカナダだと、なんとか英語で話そうと努力していれば、向こうが察して分かってくれるけど、アフガニスタンは勝手が違いました。
ーそれで、凄まじい酒量が日本に帰ってからも続いた。
土本 ええ、毎日。僕の仕事部屋でみんなで編集作業をしたから。だいたい朝十時に集まって、夜八時くらいまでやって、それから必ず酒を飲んで、食事をして帰るという生活。
ー入院中の病院に小川紳介監督が来られたのですか。
土本 いや、電話だけで来たわけではありません。ちょうど山形国際ドキュメンタリー映画祭を立ち上げる時期で、小川ちゃんが「土本さん、一緒にやろう」っていうんだけど、こっちはアル中だし、それと僕はコンペテイシヨンで競い合う映画祭というのがどうも肌に合わないんで、まあ小川ちゃん頼むわ、と断りました。でも、小川ちゃんが本当にいいことをしたなと思うのは、アジアの映画人たちにとっての目標を作ったことです。山形は今ではたいへんな盛況でしょう。
ソ連の崩壊と水俣と
土本 退院後も九〇年代の土本さんは、実際に現場ヘ出ていく形の映画をほとんど作つていません。
土本 アル中以後は精神的には引退ですね。九〇年代なんてのは惨憺たるものでした。僕は、引き際というものがある、と初めて思ったんです。一番の問題は、社会主義に対する長年の信念が目の前で崩れていくことに、どう対抗していいのかまったく分からなかった。これが大きな自信喪失の根本です。今でもロシアの記事を新聞で読んでいると、ロシアの共産党は全然元気がないし、今後の展望もない。その関心も、党派間のことやロシア内のことばかり。じゃあヨーロッパのどこかで社会主義が回復するかといえば、いわゆる社会民主主義はいろいろな形で緩やかに定着したけど、本当の草の根の左翼というのは見えてこない。中南米に社会主義の胎動がありましたが、知りませんでしたしね。
もう一つは、水俣病の運動の流れです。大きく言えば、水俣病の闘争がどうして人々の心を打ったかといえば、やはりアンチ資本主義を考える人の危惧が的中したことでしょう。資本主義はいかに人を殺めるのか、利潤追求の旗の下にどれだけ勝手なことをやるのか。いろいろなことが全部、見本市のように露呈した。だから、それに対する反対運動の中で、当然左翼的な色彩を帯びた水俣病の運動の流れもあった。それとも僕は関係を持ってきたけれども、水俣病の闘争というのは、八〇年代に中核的な前衛性を失って変化していったと思います。例えば川本(輝夫)さんも直接交渉という自分の最も得意とする闘争方針を封じられていく。裁判、裁判でみな患者自身の闘いではなく弁護士などの代理的な闘争になっていく。そんな中で、水俣病闘争での僕の一番のショックは、ずっと応援していた水俣病運動の相思社(財団法人水俣病センター相思社、一九七四年設立)が、農薬をかけた甘夏を絶対に売らないということで無農薬運動を始めたのに、農薬を使ったということで、八九年に「甘夏事件」と言われる事件を起こして理事が総辞職した。それまでの運動の理念が鮮烈だっただけに、なぜそうなっていったのか分からないということも含めて、水俣病闘争の中でも中心的な僕の拠り所がなくなったという思いが強かったです。
ーソ連と水俣のダメージに、アフガニスタン後のアルコール中毒が加わったと。
土本 この二つが、僕の九〇年代の暗さを規定しています。その九〇年代に入る頃には、僕は慢性の欝になっていました。ものすごい欝。とにかく人の前でものを言うのが怖い、自己喪失というのかな。この間、一九八九年に親父が死に、九一年に妻、悠子が癌で亡くなった。そして九二年に小川ちゃんが逝ってしまった。これもみんなキツかった。みんなの僕に対する”期待感”すら重荷でした。アテネ・フランセ文化センターでの小川紳介追悼シンポジウムで僕は「もう土本・小川と言わないでくれ、新しいリーダーが出てきているのだから」と言った。それは原一男君や佐藤真君(一九五七~二〇〇七年/『阿賀に生きる」など)を意識してのことだったけど、ひどい欝状態の中で自分は引退だと決めていたからああいう発言になったと思います。
九〇年代に映画を撮る機会はなかったのですか。
土本 そういう話も一、二回はあったけれど、僕自身が馴染んできた方法が、それを成立させなくなっていくわけ。六十歳で撮った「よみがえれカレーズ」でアル中になり、療養して酒をやめ、糖尿病も重なって、夜の会議というか付き合いに出られないからだになり、僕らの特有の方法だった、酒を飲んで延々と議論してとことん付き合って映画作りに向かうことができなくなった。一緒に酒を飲んで”狂っていく”というのはもう無理です。からだは年々衰えていく。いろいろなことを思いました。改めて、先輩の晩年を思い出して、自分のあり方を考えたものです。
宮島義勇の晩年
土本 僕が忘れられないのは、宮島(義勇)キャメラマンの晩年です。それは九〇年代の状況とぴったり重なっていました。彼は一九九一年に監督作『怒りのこぶしで涙をぬぐえ』を完成させた。これは戦後の朝鮮半島とくに北朝鮮に関するドキュメンタリーで、九三年の山形国際ドキュメンタリー映画祭でも上映されましたが、僕は編集を手伝いました。
この映画ができたあと、宮島さんはどういうふうに発表するかで苦しんだ。というのは企画から完成までの二、三年の間に、すっかり北朝鮮の現実政治が変わってしまったからです。あの頃、八〇年代末期は韓国が民主化されていく過程で米軍基地反対運動なども盛り上がりをみせていて、韓国も反米に固まってきた。だから冷戦後の朝鮮半島全体が反米になってきたという状況判断をして、そのセンで北朝鮮に行ってあの映画を作った。まだ金日成(国家主席一九一二~九四年)も生きていて、よろしく頼むということで帰ってきたんだけど、間もなくアメリカのクリントン新政権と金日成の間にある種の雪解けというか、政治的妥協が成立したわけ。クリントンのほうから北朝鮮の「封じ込め」はやめて「対話」にしましょう、ということで、やがて北朝鮮の希望する軽水炉の建設をアメリカや日本が支援するみたいな流れになっていく。だけど、その変わり目を北朝鮮にいてみえなかった宮島さんが反米に凝り固まった映画を作ったもんだから、在日の人たちの幹部たちとしてはそれは因るということになってきた。協力を約束していた朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会、一九五五年創立)も手を引いたし、製作費の借金問題がもつれて裁判沙汰にまでなってしまった。彼は最後は肉体的にもボロボロになって亡くなりました。
ー宮島さんは八十五歳でなくなったのですね。
土本 その最期の日々に接していた人は数少ないと思います。僕と、『「天皇」と呼ばれた男ー撮影監督官島義勇の昭和回想録』(愛育社)の編者の山口猛(故人)です。ずっと宮島さんと付き合いながら、かつて「天皇」と言われるだけの栄光を持った男で、日本共産党の文化部長までやったという人が状況に裏切られたとき、何に依拠したかといえば、やはり映画を観せること、つまり「映画運動」なんだけど、もう力がない。それを無理してやったために、最後は本当に肉体的にもボロボロになって、誰一人味方のないなかで死んでいった。宮島さんは「おいドロ、人間七十五歳までしかダメだな、俺は八十過ぎてから朝鮮に行ったけど、うまくいかねえや」なんて言ってました。そのときは聞き流していたけど、いま思い出すと、作家としての引き際を考えていたんだな、と思います。その宮島さんを反面教師として考えざるをえません。
一九九九年の春のこと
土本 一九九六年の「水俣・東京展」のために水俣に長期滞在して、患者の遺影を写真撮影することはしたけれど、映画がまったく撮れなくなっていくなかで、九九年二月に川本輝夫さんが亡くなり、『されど海ー川本輝夫と緒方正人』という映画の企画を考えたんですが、これも作品化できなかった。水俣の人たちに電話をバンバンかけて、「あなたのところにいつ頃撮りに行く」とか、「こういう話はどうだ」とか、水俣へのオルグはすでに動き出していたから、今さら、撮れなくてごめんなさいでは済まないわけ。およそ十数人の方には撮らないなら撮らないで、今度の映画はこういう訳でできませんでしたと説明する必要があるから、妻と二人で船で水俣に向かったんです。船っていうのは、川崎~宮崎間のフェリーがあるんです(注:現在は廃止)。観光客は少なくて、野菜や肉などの積荷を積んだトラックが主な客なんだけど、皇族が泊まるような特別室もあり、それに隣接して一等室が十ぐらいあるわけ。僕は以前は車で水俣に行くことが多かったからこのフェリーを愛用していて、いつかはああいう部屋に泊まってみたいなあと思っていた。
映画はダメだけど、水俣に行かざるをえないから行く。じゃあ俺は何しに行くのか。映画を撮れない言い訳を喋りに行くだけなのかと考えたときに、パッと頭にひらめいたのは、川本さん追悼の意をこめて、関係者や胎児性の患者たちにも一緒の船に乗ってもらって洋上ツアーをやろうと思ったんです。そこで、川本さん亡きあと、水俣の患者運動を担うことになる人たちと話し合いたい。そんな思いで五月十八日から二十日まで、川本さんの遺族や胎児性患者九人を含めて二十六人で船に乗りました。一等室と特別室です。これを借り切りました。
それはまったく僕の自己満足のためにやったのだけど、それをやったことは、もう四十歳を越えた胎児性患者たちのその後の展開をこの旅の中で準備できた側面もあったと思います。ふだんバラバラだった彼らが再び一緒に動き出す拠点作りのきっかけというか。二十数年前の石川さゆりショー以来の共同作業が、船中で、このビデオを改めて観たりして、胎児性の諸君に”川本さん以後”のことを考えさせたようです。そのことの痕跡は今度の『みなまた日記|甦る魂を訪ねて』(04)の中に滲み出ています。
2 アフガニスタンからオホーツクヘ
『よみがえれカレーズ』の評価をめぐって
ー数少ない九〇年代のお仕事としてNHKテレビの『存亡の海オホーツクー8mm旅日記ロシア漁民世界をめぐる』がありますが、その前に、『よみがえれカレーズ』は発表後、九〇年代を通じて好意的な評価を得られず、ずっとあとになって、特に「9・11」以降に上映の機会が増えたという印象があります。まあアフガニスタン自体が激しく揺れ続け、九〇年代半ばのタリバーン支配期に入っていくわけですから、一九八八年の時点の映像を客観的にみるタイミングではなかったともいえますが。
土本 反響が芳しくないのではないかという空気は、撮っているときから感じていました。どう考えてもソ連のアフガニスタンへの軍隊の派遣っていうのは間違っています。しかもその軍隊には高度な武器の体系があって現地の反政府軍の装備とは非対称的なわけです。朝鮮戦争では中国の人民義勇兵という形がありえた。あれも非常に微妙だけれど、正規の軍隊は介入しません、あくまで義勇兵です。そういう考え方がもう左翼の国際主義の中になくなっていることをアフガニスタンでいやというほど、知らされました。それにしてもソ連の十万人の正規軍の派遣っていうのは、どう考えてもおかしい。だから、「八〇年代のアフガニスタンはソ連の傀儡政権だ」と言う人の論理の半分は僕も理解できます。でも僕が実際に行ったのは、アフガニスタンという国がどういうふうになっているのか全然分からずに、情報もまったく乏しいまま傍観していていいのか?と思ったからです。
色川大吉さん(歴史家 一九二五年~/主著『明治精神史』など)が劇場用パンフレットに批判を含めた感想を書かれています。
土本 色川さんは、あの一九七八年の四月革命当時、アフガニスタンに旅人として滞在していました。それでソ連が入ってきて政権が変わるときを歴史家の目で見ている。あれは革命じゃなくてクーデターだっていう見方を歴史家として掴んでいた。だから精神的にはマスードみたいな独立ゲリラ的な人に最もシンパシーを感じていたのではないでしょうか。ゲリラにも二種類あって、アフガニスタンからパキスタンに出て、アメリカなど外国からの資金で武装して抵抗していく形と、マスードみたいに外国に出ないで国内にとどまって、本拠地を作ってそこで内戦を仕掛けていく形があった。僕もマスードは大した人物だと思っているし、アフガニスタンでもマスードの悪口は聞かなかった。そういった意味で色川さんの理屈は通っていました。
ー色川さんの批評に対しては、十二年後のやりとりも含めて、長くこだわっておられましたね。
土本 この映画のパンフレットに彼に依頼していた、この辛口の批評が出たとき、色川さんらしい書き方だなと思いました。ただし色川さんが亀井文夫を引っ張ってきて、亀井文夫は思想的にはっきりしていて、土本のほうが曖昧だと言ったのは、それには承服できなかった。僕がソ連軍の戦車の上から撮影している点をソ連ベッタリの取材姿勢のように指摘されたのですが、高岩キヤメラマンなんかは危険だからとしきりに止めたんですが、僕はもし帰っていくソ連軍に対して民衆から反抗や発砲などの動きが出たら、すぐ撮ろうと思っていた。でも結果的には、僕の見ている範囲でそういうことは起きなかった。そういう意味で戦車に乗って見ていたわけで、フレームの中に入ってくる民衆の動きを見ているかぎり、亀井さんの『上海』のような、じーっと日本軍を睨みつけている中国人のようなアフガン人はいなかった。むしろ、歓声をあげて見送り
ー『よみがえれカレーズ』にしても、かつての『シベリヤ人の世界』にしても、決して教条的なプロパガンダにはなっていないわけですが、土本さんご自身の政治的な思想とご自分の映画作りとの間に、どこで一致点を見つけてこられたのか、ということに大きな関心があります。どのようにご自分の思想と映画の間の折り合いを付けてこられたのでしょうか。
土本 答えになるかどうか分かりませんが、『よみがえれカレーズ』の後半で、かなりのものが撮れたと思ったのは、元ゲリラの一族が統治している村を撮影したときです。中央の政争とは関係なく、宗教的な点でも行政的な目配りの点でも、長老が地域を統治していて実にしっくりいっている。共同体的な意識としては、ずっと変わらないイスラムの習俗が根底にあって、そのうえで近代的な土地改革をやってみたりしながら、民主的に人が選ばれてアフガニスタンの将来を担うことにだんだん近づいていく。ああ、彼らはこのテンポで進んでいくのだろうなと思ったとき、その変化の兆しが撮れたと思いました。
僕がソ連に対して『シベリヤ人の世界』以来、ずっと抱いている印象というのは、ソ連時代に生まれ育った人に対して、僕は非常にいい感じを持っています。彼らを支配している中央の党官僚たちではなくて、一般の人々の受けた教育というものがあり、世界や異国民に対する見方や、平和に対する考え方というものが身についているなという感じがして、そのような人々の生活が好きなんです。『シベリヤ人の世界』を撮ったときも、そういった人々と繋がることができた、と思いました。
ソ連でもアフガニスタンでも、どうしようもないのは党の組織における官僚主義で、それは共通していました。やはり僕たちは”客人”の域にあることを考えさせられていました。
民衆のコミューン
ー土本さんは長いキャリアの中で、つねにソ連を遠くに見ながら活動されてきた側面があると思いますが、一方で国家としてのソ連は、ハンガリー動乱(一九五六年)、チェコ侵攻(六八年)、アフガニスタン侵攻(七九年)、チェルノブイリ事故(八六年)など、十年ごとに区切ってもそのつど重大事件を起こしました。いま仰ったような民衆への信頼は、国家としてのソ連とどのような関係であるとお考えでしょうか。
土本 体験的にはソ連とアフガニスタンの間にキューバ滞在(一九六八年)が入るんです。ちょうど『シベリヤ人の世界』を撮り終えた一九六八年頃に、ソビエトと東欧諸国との分裂が始まるわけです。冷戦構造の中でブレジネフ政権がソ連帝国主義的な暴力を露出していく動きがはっきりとしていった。そんなときに黒木の『キューバの恋人』のプロデューサーとしてキューバに行ったんですが、カストロ独裁体制と言われるけれど、民衆の中に育っている一種のコミューンみたいな雰囲気が、新しい動きとして確実にあった。やはりチェ・ゲバラの遺産というのは否定されるものではなくて、ゲバラを受け入れながらカストロ的なものを進めていくところが、相当に面白いと思いました。
九一年にソ連がぶつ潰れてから、僕はオホーツク海沿岸をずっと歩いてみたんだけど、基本的に変わらないと思ったのは、ある種の理想を教科書で学んできた世代の好ましさでした。例えば僕は、通訳の女性と一緒に取材して回ったんだけど、あるときこういうことがあった。カムチャッカの漁民はだいたい月収二、三万円がいいところ、みたいな生活の中にあって、漁業コルホーズのリーダーである船長は月収二十数万円を取るわけ。で、彼女に「ついこの間まで社会主義をやっていたロシアで、こんなに収入に差があるのは許し難いと思うけど、どう思うか」みたいなことを訊いてみた。すると彼女は「そうでしょうか」と言って、丸一日考えてから「彼が私たちのために魚を獲るのに、危険と熟練を要していることを考えると、多いとは思いません」と、まじめに答えてくるわけ。
そうするとこの人は、自分は月収二、三万しか取れない、別の人は十倍も取るという生活水準の差を、階層の分裂みたいな視点で見ないで、誰が誰のために力を尽くしている代償なのかをいちど自分の中で洗ってみてから、僕にちゃんと答えようとしているな、と思った。これはやっぱりソ連の教育を受けた人でないと身につかない思考法だと思いました。お金ではない価値というものがあるということ。それで「なるほど、こういった社会を作ろうとしていたんだな」と思いました。そんなに理想的にはいかないけど、資本主義ではない生き方というのを、ともかくも何十年かやってきた人々のよさと、その反面、暴力装置としての国家権力のひどさー。矛盾しているけど、その両方を絶えず見てきたという気はします。
幻視の党と「海」
ーキューバを導入すると、シベリア、キューバ、アフガニスタン、オホーツク、という流れが見えてきます。土本さんはよく「幻視の党」という言い方をされますが、つまり民衆のコミューンに究極のコミュニズムを期待するという民衆論が一方にあり、他方『パルチザン前史』を暴力論の映画と規定されたように、なぜ社会主義からスターリニズムが生まれるのかという問題意識も感じます。
土本 国家が社会の権力装置であるとすれば、国家はなくなってもいいと思いますが、今はそれに変わるべき民衆のコミューンの理念もできていません。
僕はなぜ、季節はずれにオホーツクの人々のことを考えたかというと、かつてはロシアもない、日本もない、しかし魚はやたらとあって、アイヌやいろいろな人々が国なんか作らずに魚を獲って生きてきた歴史を踏まえたうえで、いったいこの島は誰のものかといえば、これはもう、現在そこに住んでいる人のものだ、と言うほかはない。国家間の歴史的な経緯だけで帰属を明確にして、人々を地理的に動かすということは、けしからん発想だと思っているわけ。だからまず、島にいるロシア人島民をこの目で見てみたいと思って歩いてみました。
僕がロシアの漁民に着目したのは、戦後、千島列島に入ったロシア人たちは日本人の元島民から教わって漁業を覚えた。それから両方で密漁をしあう、その密漁体験から、日本の漁法を勉強しながら自分たちの漁業を作っていくみたいな、実に人間臭い姿が面白かったんです(笑)。
オホーツクというのは、あらゆる人が生きていけるだけの生産物を生み出す海だというふうに僕は思っています。ロシアにはいろいろ海に接するところがありながら、どうしてオホーツクが話題になるのかといえば、結局はアムール川なんです。大きくいえば、いろいろ陸地で生まれたものが溶ける。それを待ち構えている生き物や魚がいる。そこで、自分たちの餌を見つけて繁殖していくのに一番ふさわしい海はオホーツク海なんです。オホーツク海の有名な流氷が一月くらいに流れ始めて北海道に着いて、四月ぐらいまである。その流氷の塊の下に苔が生まれる。それが、半透明の氷を通して注ぐ太陽の光によって、流氷として流れている間じゅう繁殖しながら、千島沖で寿命を終える。その苔は、サケとかマスとかカニにとって成長源の食糧なんです。その大変な漁場を国家権益によって排除しあって、それで民衆が困っているのはけしからんと思います。
ーそういえば不知火海というのも、凄まじい漁場ですね。
土本 ええ、あそこも凄まじい。戦争で若い男がいなくなって漁民が魚を獲らない時期が続いた結果、繁殖がものすごくなって、復員してきた漁民は工場に勤めるとかいろいろな選択肢があったけれど、漁業ほど稼ぎがいい職業はなかったので漁業を選んだそうです。
ー土本さんの、国家に対抗するもう一つの夢として、見果てぬコミューンという概念が浮上するわけですが、それが具体的には「海」のイメージとして多くの作品にあらわれているのではないかと思います。これまでも土本さんは水俣の連作を通じて「海の作家」と言われてきましたが、それとは別の意味で、もう少し深く考えてみると、水俣であれオホーツクであれ、海はもともと国境などないグローバルな、コスモポリタンな存在です。土本さんの思想の根底に、国家の廃棄、死滅という概念があり、国家に対抗する具体的な存在のありようとして「海」というものに突き動かされているのではないでしょうか。ロシアの理想主義的教育も、言ってみればコスモポリタニズムというか、国際市民的な理想に基づいています。
土本 面白い仮説ですね(笑)。『シベリヤ人の世界』にしても、山奥の森林コルホーズに飛び込んだ若い夫婦を追いました。そういうもののほうが信頼できるという僕の見方は確かにあります。モスクワの赤の広場のパレードを見ながら、ああいう選ばれた市民だけが旗をもって参加しているのはイヤでしょうがないわけ。そんなふうに組織されないで歌を歌ったり、酒を飲んだりしている周りの民衆のほうが本当だと思うんです。
中国の変容とイスラム民主主義
土本 社会主義国家の話ですが、中国の変容をどう見るかについては正直、あまり自信がないし、八〇年代以降の変化について、ちゃんとものを言ってもらいたいと思う人が日本に何人もいます。七〇年代に、色川さんや鶴見和子さん(社会学者 一九一八~二〇〇六年/主著『南方熊楠』など)たち「思想の冒険」のグループが中国を研究していて、文化大革命を未来的な生き方だということで評価していた。人々が働くところに共同体を作り、そこに教育機関から保険機関から何から何まで揃うような、誰もが脱落しない社会が中国にできるというような感じがした。そうした文革の理解が正しかったと今でも言い切れるような人は少ないんじゃないかな。中国の変容というのは非常に大きいから、僕も迷いの中にあります。
中国のように、政治は社会主義で経済は資本主義、でも人民は管理されるという功利主義的な社会主義になっていて、今から思うと八九年の天安門事件がそれを省みる分水嶺だったのに、どんどん高度経済成長の方向にいって、あの事件は風化していますね。国家の理想を信じることができなくなった結果、残るのは経済効率だけです。
僕自身が自分に問わなければいけない体質というのは、やはり社会主義に対する摩り込まれ方というか、具体的にはソ連に対して甘い評価を下してきた体質です。それはよくなかったけれど、関心を失わなかったという点ではよかったと思っています。しかし、こういう社会を僕らが目指すべきじゃないか、と言える規範が、本当に持てないのは事実です。僕と同じ世代で、僕と同じような苦しみを持つ人はたくさんいるでしょう。
ー社会主義時代のアフガニスタンは、イスラム国家でもあったわけですが。
土本 アフガニスタンとの付き合いを通じて、どうしてもイスラムに惹かれるのは、例えばラマダン(断食)というのは、食えない人のために自分も食わないという考え方だし、富めるものも、ザカート(喜捨)をする。もったいぶって喜捨するのではなくて、喜捨する喜びがあるという思想をイスラム教が持っているとしたら、イスラムと社会主義の接点を考えたくなります。男女の役割とか、女性の解放という点では、イスラムは困ったところもあると思いますが、人間の生き方の平等感という点では、非常にかみ合うところがあると思います。だから、これからイスラム民主主義というものが生まれていくとすれば、アフガニスタンからであり、イラクからではないかと思うのだけど。
翻って冷戦後のヨーロッパについては、社会主義を標榜したときの、よかった部分については、もういちど見直してみたほうがいいんじゃないかと思います。
ー全否定すれば済むものではないと。
土本 僕は社会主義をどこで考えるかというと、マルクスやレーニンが生まれる百年も前から人類の平等と自由についての思索があったことが社会主義思想の源泉だと思うし、そのことは体制の如何を問わず、どこの国でも現在もなお人間に突きつけられている問題だと思います。だから僕は、社会主義的なコミューンの問題を考え続けることはやめない。社会主義を二十世紀のモスクワからだけ考えるのはナンセンスです。
3『回想・川本輝夫 ミナマター井戸を掘ったひと』と『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』
記憶と祈り
ー水俣関連のものは、その八〇年代以降かなり時間が空いて、川本輝夫さんが九九年二月に亡くなられたときの追悼集会で上映された四十二分の”私家版ビデオ”の『回想・川本輝夫ミナマター井戸を掘ったひと』(99)を経て、現在のところ最新作である『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』(04)へと移行します。これは一九九六年に品川でおこなわれた「水俣・東京展」で、土本さんは水俣病で亡くなった方々の遺影を集めて並べる遺影展を担当されたわけですが、その五百という遺影を写真に撮らせてもらうために、九四年から九五年にかけて水俣に約一年間滞在されていたときに、遺影集めの余暇にビデオキャメラで撮っておいた素材を、ニ〇〇四年に完成させたものです。これまでの「水俣」シリーズとはまったく違う文脈で、かなり肩の力が披けているのと同時に、新しい展開の予感に満ちていると感じました。
土本 それはほめすぎですね。いま回しているのは遊びです、といってテレながら回していました。連れ合いの基子を助手兼録音係にして、小さなアマチュア・ビデオで、遺影集めの一年、いわばしんどい遺影集めの息抜きに、水俣の風物と患者さんたちの動きを、そのつど撮っていたんです。もともとキャメラマンになりたかったぐらいですから、ああだこうだとフレームをみて画を考えるのは、楽しみであり、遊びなんですね。遺影集めが”闘い”と思っていましたから、それ以外は”本題”には思えず、気楽に二十時間ぐらいのビデオを回していました。いわば、ぶらぶら歩いて周りの風景を撮った記録です。だから遺影とは関係ない。遺族の声も生活もありません。もっぱら普通の日々です。だから『みなまた日記』としたわけです。えびす祭りとか、いくつかのイベントは風物詩調に撮っていますが、あとはもう本当に向こうの日常。すごく明るい映画になりましたけどー。
ー各部落をすべて回って遺影を撮影するのは大変な労力を要することですね。
土本 遺影を撮るのは本当に辛かったです。遺族から気持ちよく撮らせてもらうためには訪問するまでの気遣いが大切で、ああ撮らせてもらってよかった、というときはいいんだけれど、ちゃんと段取りしていっても断られるときがあって、それが一日に五軒回って全部断られるなんて日があるから、そうなるともう憂欝でした。すると次の日やる気がしないから、宿でひっくり返って寝ているほかはありません(笑)。そのうちビデオキャメラを持ってぶらぶら歩くのがストレス解消の最良の治療薬になったわけ。それが楽しくて楽しくて(笑)。もちろんシナリオも何にもないから作品にまとめるなんて意識は皆無です。だから『みなまた日記』はこれまでの僕の作品の作り方とまったく違います。無意識に繋ぎましたが、やはり”甦り”を見つめようとしていますね。
遺影を集めようとしたときに、調べてみたら患者や遺族ごとの派閥が二十二あったんです(笑)。その中の大きなものだけでも、共産党系、チッソ系、”環境庁”系・・・と六つくらいある。だから結局どこにも組織として協力してもらうことはしなかった。これがよかったと思います。
僕は”よそ者の映画屋”ということで徹底していましたから、そういう意味で勝手に動くのが当り前になってきていました。それを自覚したのは九一年に前の女房の悠子が死んだときです。水俣病は冠婚葬祭は派閥ごとに分かれる傾向があって、お互いによその葬式には出ないのに、僕のところにはどの派からも弔電や香典をいただいた。それで「これは女房の引き合わせにちがいない」と思って、その返礼に、各派にお礼を申し上げながら回ったんです。そこでまた関係が深まりました。
ー全方位外交と、そこに住み着くのではなくて東京からやって来るという立ち位置ですね。
土本 僕は水俣へ行って方言の真似をしたことがないんです、一年くらいで大体おぼえるから方言を使う外来者は多いけれど、僕は一切使わないです。標準語が一番分かりやすいだろうと(笑)。
ー『みなまた日記』では、患者一人ひとりがこれからどうやって生きていくかが重要な問題となっています。
土本 あれだけの経験を持った人々なのだから、これからの生き方に注目しています。患者たちはいくつかのグループに分かれていて、なかには犬猿の仲でいまだに没交渉のグループもあります。現実に水俣の受難者がまだばらばらで、お互いにドッキングできてはいない。唯一、映画の中ではドッキングしているようにみえますが。でもそれが”シヤバ”ではどこにでもある”不幸”なのでしょう。
ー品川で遺影展を見て圧倒されました。四方の壁に掲げられた夥しい数の遺影と対面しているうちに、逆にこちらが見られているような感覚に襲われてしばらく言葉が出ませんでした。あれを準備しながら並行して明るさと軽みをもった『みなまた日記』ができてしまったというのは興味深く、『医学としての水俣病ー三部作』を撮っていたらまったくタッチの異なる『不知火海』ができてしまったというエピソードを思い出します。
土本 そうです。一作一作、自由に創れる場を保障してくれた青林舎あってのことです。しかも基本的にはそこの一員ではなく、”フリー”としてふるまうことを許してくれましたから。そうした”自由”がなくしては「水俣」シリーズはありえません。黒木さんとも”フリー”が大切と相互確認をしあったものです。
水俣から世界へ
ーところで『みなまた日記』には広大な埋め立て地が登場しますね。
土本 かつて水俣湾は非常に豊かな漁場でした。内湾でプランクトンが多くて、波が立たないから産卵もできて、生まれたての稚魚を食いに来る太万魚が来る、という具合に大変な魚の宝庫だった。そこの魚を汚染魚ということで端から全部ドラム缶に入れて、それを海底に沈めて土をぶつかけて作った埋め立て地です。だから患者は埋め立て地を「先祖の墓場」と呼んだ。確かに生き物を死に至らしめた場所です。ところがそこから草が生え、菜の花が咲き、鳥はさえずり、もう大地の営みを始めているわけです。
ところが一部のジャーナリズムは、水俣がそんなに明るくなってもらっては困る、まだ政府が手ぬるいとか、患者が本当は救済されていないとか、要するに「水俣病いまだ終わらず」というパターンを言い続けたいらしい。僕はそうかな?と思うんです。確かに終わっていませんよ。終わっていないけれど、しかし変わってきたことは事実なんだ。「終わっていない」というところでくくると、変わってきたことが抜け落ちてしまう。
例えば『回想・川本輝夫』のラストは、水俣を世界遺産にしようという川本さんのアピールで終わります。世界遺産は沢山あるわけですが、二つだけ毛色の変わった世界遺産がある。一つはアウシュビッッ。もう一つはヒロシマ(原爆ドーム)とです。だからミナマタっていうのはあっていいと思う。そういう川本さんのアピールをきれいな夕景の映像とともにラストシーンにしました。実はあんな三重の幕が垂れたような美しい夕景は地元の人でもめったに見られません。じっくり見るのはね。
この間、水俣のある小学校で五、六年生に向けて話したんですが、君たちは大きくなったら絶対に外国に行く機会がある。世界の人は日本で知っている町が五つある。東京、京都、これはもう当然。それから広島・長崎はセットで知っている。次がミナマタ。公害という言葉とペアで水俣という名前を知っている。そのときに水俣の話を思うまま話せるのはここで生まれ育った君たちなんだ。今は立派な良い海に戻そうと努力している水俣から来た君たち。しかし、君たちは当時の汚染には何の関係もない。だけど君たちの町の工場が毒を流していた過去があるのは事実で、そのため水俣の映画も沢山作られたんだから勉強するのに事欠かないでしょう。だから水俣のことをうんと勉強して、世界へ行ったらミナマタを説明してあげなさい、ってね。この話はものすごく子どもに受けました。目がキラキラしてくるんだね。家に帰ってお母さん方に話した子もいるそうです。
ー『みなまた日記』で水俣ものは十七本目です。十七本作ってこられて、当初はむろん運動と連動した映画作りという側面が強かったと思うのですが、いま撮り返って総体的に俯瞰されると、何を一番強く感じられますか。
土本 これだけ作ってみて思うのは、何が水俣の救いかと考えたとき、長年、ここ水俣を長期取材して、ふつう見えないものが見え、今後の水俣や不知火海を長い目で見ることができるようになったことが一番です。二、三年の取材だったら「悲劇のミナマタ」で終わったかもしれない。しかし、長期取材を考えていたためか、そう言い切ったことはない。
一例ですが、不知火海は一日に潮が二回入れ替わるんです。非常に干満差の高いところで四メートルから六メートルに到達します。それが一日二回、川のように凄い勢いで海が流れる。要するに、そういうふうに自然が自然によって生かされていく光景を沢山見ていますから、僕は海も生き物も必ず甦ると思っていました。今、映画として「甦り」をテーマにした『みなまた日記』を作ってみて、間違ってなかったと思いました。とかく運動系から水俣に関わった人は、何の”闘争”も、シャープな”批判”もないこの作品にピンとこない人がいるようですが、水俣の人や水俣に骨を埋めるつもりのよそ者は、この映画のこの日常の質を分かってくれるようです。
「甦り」と敵への目線
ー印象に残っている土本さんの言葉に、「海は凄い」という言葉があります。土本さん自身も当初は水俣病を絶望的に考えていた。ところが、今のお話のように、海流が実は大河のごとく流れていて、海を蘇生させ、人間も蘇生させていく。人間の想像力を超えた巨大な力となってすべてを蘇生させていくのを実感したと。そういった意味では、『よみがえれカレーズ』もそうですが、土本さんの「甦り」とい言葉には、祈りであり願いであると同時に、絶望的にならない、希望の可能性を信じる、というニュアンスも感じます。
土本 うーん、ただやっぱり僕たちが絶えず考えなければいけないのは、社会的に「こんなことはあってはならない」ということは言い続けなければいけないけれど、だからといって水俣が悲劇として滅びていくことは誰も望んでいない。ところが、別の観点から見れば、「大資本がこの町をつぶした」という言い方もできるわけです。すると、敵を叩くためには自分の依拠すべき根拠をつねに省みないといけない。それに対して単に「甦るならいいんじゃない」という具合に楽天的に見ることが躊躇われる瞬間が必ずあって、そこでその人の思想が試されると思います。敵に対する目線も持ったうえで、どれだけの根拠を持って「甦る」ということを描き切れるかどうか。ただ観念で「甦る」と言うだけなら宗教と同じになってしまう。水俣の連作を作る中で「甦る」という実感を初めて持ったのは『不知火海』のときですが、そういうことをDNAのレベルにして、やってきたつもりです。変な言い方ですが・・・。
4 土本流・映画の組織論
「土本プロ」を作らなかったわけ
ーここではスタッフ論、プロダクション論についてお伺いしたいと思います。自分のプロダクションを持った小川紳介監督とは対照的に、一貫して契約者として高木隆太郎プロデューサーの青林舎と組まれてきたわけですが、「土本プ口」を作ろうとは思わなかったのですか。
土本 それはもう、小川ちゃんのほうが人間のスケールが大きいから(笑)。
ええと、僕が考える理想的な組織というのは、自発的に参加して、絶対に失望することのない仕事の中で能力が磨かれて、各自の一番よいものが自然と出てくるような組織です。つまり、スタッフの中からそれぞれの最高のものが出やすい自由が保障されているような組織で、ただし外からの指示によって動き方が決まるんじゃなくて、あるヒントさえ与えられれば、みんな内発的に動くという形が望ましい。それは映画の現場でしょっちゅう起きてくることですが、それが僕のスタッフ論の基礎になっています。
ープロダクションを持つということは、スタッフを食べさせるということですね。
土本 僕は大学を除籍されて、就職もなくて、月給取りの生活はできないと思っていたので、岩波映画に入って、食うや食わずの給料しか出なかったときも、そんなことは当り前だ、このレベルでやっていけば人間は生きていけるものだという妙な自信はありましたよ。だからフリーになるときも、あまり悩まなかった。ただし、「青の会」の仲間がみんなフリーになっていくときには、そりゃフリーになったほうがいいと思いながらも、「でも君、それで食えるの?」みたいなことを言ってましたけど(笑)。
仮にプロダクションを作った場合、スタッフに対して「ぺイできるの?」っていう命題が出るでしょう。できないに決まっている(笑)。ペイできないことを前提にして、映画作りの仲間意識を作っていったんじゃ、たまったもんじゃない、という思いが僕の中にあるわけ。アナーキズムかもしれませんが、組織的なプロダクションの中で義務を負うとか、負担を負う、というのが嫌いなんです。だけど人がプロダクションを作るのはどうぞっていう無責任(笑)。
ー映画を撮りながら、土本さんご自身はCMの演出などもされています。
土本 CMをやるときは、映画で組んでいるスタッフを豊かにしたい、ということで、同じスタッフでやりました。でも時代の流れっていうのは敏感で、八〇年代、水俣映画がブランクの時期に入り、さらに滝田修との交友関係を理由に警察のブラックリストに載ったりして、CMの仕事はまったく来なくなりました。広告代理店とかクライアントとかは、そういうことには実に敏感ですよ。
ー青林舎がこれだけ連作を続けてこられたのは、製作費の調達と回収がきちんとできていた、ということですか。
土本 七〇年代から八〇年代初頭の作品までは、できていたと思います。でも、一番大きかったダメージは、お金をかけて作った『医学としての水俣病ー三部作ー』が思うように売れなかったことですよ。僕の映画の場合、確実に回収できた作品は半分もないんじゃないかな。ちなみに、一番売れたのは『海とお月さまたち』です。今はビデオで安く作れるようになりましたが、当時はリスクが大きかったです。ハイ・リスク、ハイ・リターンならまだいいんだけど、映画の場合、そううまくいかないからね。
ビデオ時代の作品製作
ービデオ時代の作品製作についてお訊きします。日本では「セルフ・ドキュメンタリー」と呼ばれる傾向の作品が流行っていて、自分を撮るとか家族を撮るという題材で、すべてのスタッフの仕事を一人でやるタイプのものが増えてきた。この種の作品については、社会性がないとか賛否両論あるわけです。少なくとも、例えば土本さんのように、根底にある思想があって、情報収集をして、スタッフを組んで、対象との関係を作り、それから撮影に向かっていく方法とはまったく違う。まず自分の身近にいる人をとりあえず撮って、繋げていく、イデオロギーはあまりない、みたいな非常に軽い作り方に一気に移行しています。現場も一人、編集も一人、すべて一人というのは、世界が閉塞してしまう危険性がありませんか。
土本 その方法に徹すれば面白い面もあるとは思います。何も分からない自分をさらけ出し、愚問を発し続ける。それを見て、俺は何を撮っているんだろうと、そこから考え始めると面白いけど、それはまだ入り口ですね。いつも自分の撮ったものを疑わないとダメです。これが撮れたぞみたいな次元で自分に酔っているものは、すぐ分かりますよ。
ー例えばアフガニスタンを取材したもので、吉岡逸夫監督『アフガン戦場の旅ー記者たちは何を見たのか』(02)は、ジャーナリストがアフガニスタンで単身ビデオを回して作った作品です。
土本 あれを観てつくづく思ったのは、もともと吉岡逸夫氏(新聞記者・映画監督 一九五二年~/『笑うイラク魂ー民の声を聞け』など)は新聞記者だから、解説で自分の意見を言う。「あなたはそういう考えだけれども、私はこう思う」とか延々と喋る。そうするとイライラするのは、その内容云々よりも、まず喋っている本人の姿が見たいわけ。どういう人がこの内容を喋っているのか。結局、彼が出てくるのは、部屋の鏡に写ったワンカットがあるだけで、人格が画として見えてこない。欲求不満になります。これはやっぱりもう一人いて、脇でその人を撮っておけば、もっと面白いスタイルになったと思うんだけどね。一人で撮るのはあり得ると思うけど、できるだけ、音を考える人と、画を考える人とのチームを作るのが理想です。音の表現力と画の表現力と自分の思想を三つ巴にするような表現が、一人で撮っているとなかなかできないだろうとは思います。僕も『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』というビデオ作品を作ったけど、最低限意識したのは音のシャープさ。一人でやっていると、キャメラをパンさせるときに音が不安定になるでしょ。そこは気をつけました。
スタッフというのは自分以外の最初の観客です。僕は仕上げの段階でできるだけ多くの人の意見を聞いて、点検を受けたい。そもそも映画作りなんて”独りよがり”にならなきゃできないですよ。でも、それが他者に適用するかどうかは別。だから一緒に作って点検してくれる人がいるのが理想です。
キャメラマンのカ
ーデジタル時代になって、撮影が容易になった点はもちろんありますが、同時に、一人で何役もこなせてしまうリスクもあるのでは?
土本 亀井文夫さんみたいに、現場を飛び回らずに編集機の前に座って「構成・編集」というタイプもいました。そうした例も含めて、ドキュメンタリー映画に関しては、圧倒的にキャメラマンが開拓してきた歴史なんです。『戦ふ兵隊』でいえば、現場を見ている三木茂さんがいたからこそ、非常に奥深い作品に到達したと思います。キャメラマンは頭の中で、フィルムの量とか現地の状況とかいろいろな制約を考えて、現場では監督以上に演出をしているんですよ。デジタルになって、いくら回しても大丈夫という時代になったから、そうした緊張感は薄くなったけど、それでもキャメラ自体の持っている演出性を作品にどう反映させるかというのは、とても大事なことだと思います。
ー大津幸四郎さんは『大野一雄 ひとりごとのように』(05)で監督デビューしました。考えてみると、演出家志向の大津キャメラマンと、キャメラマン志望だった土本監督のコンビで「水俣」シリーズが作られたことになります。
土本 大津君と組んで、僕が編集作業をするとき、第一に考えるのは「大津はなぜ、こういう撮り方をしたんだろう」ということです。自分ではない人間が撮ったもののうち、何を生かすべきかを考える。『みなまた日記』でビデオキャメラを自分で操ってみて分かったけど、自分でいいと思ったものしか撮らなくて済む効率性と、人が撮ったものを観て考えることがなくなる寂しさと、両方ありました。あと、困っちゃうのは、『よみがえれカレーズ』みたいに人と共同演出をやっていると、人のやった部分を切りたくなっちゃうこと(笑)。
ーある映像が長い間残って伝承されていくかどうかは、何にかかっているのでしょうか。
土本 例えば日露戦争の記録映像とか、珍しい昔のフィルムを観ると、何かを表現しようとする”狙い”のあるフィルムはどんなに稚拙でも面白いんだけど、単に撮れちゃったというレベルの映像をニュース的に繋いでいるものは、珍しいと思うだけで、現在の視点で観るとつまらないです。白瀬中尉一行の南極探検を撮った昔のフィルムがあって、キャメラは下手だけど、実に鮮やかに残る。というのは、キャメラマンに”狙い”があったことが分かるんです。つまり、一緒に行った人の顔をとにかく全員撮るとか、拙いなりに狙いがある。そこが面白いんです。
音のない世界で
ー『もうひとつのアフガニスタン カーブル日記1985年』と『在りし日のカーブル博物館1988年』は、音のない映像だけが残っていたのを再構成して作品化したものですね。
土本 それは僕が古い人間だからできたかもしれないと思う。というのは、音がない映像でも絶望しなかったということです。画が語るものを持っているとき、そこにどういう音をぶつけて表現するかということを仲間と競った時代があるから、音がなくてもがっくりしなかったんです。サイレント編集というのは実に面白みがあるわけ。『もうひとつのアフガニスタン』では、久しぶりに古典的なモンタージュの面白さを満喫しました。古い映像に現在の自分の語りをのせると、不思議に”現在形”になっていくんです。僕は、画で語れるものは極力、画で語っておいたほうがいいと思うけど、テレビのドキュメンタリーなんかはそういう工夫をする発想がないように感じます。
ーエイゼンシティン的な「映像と音の対位法」という考え方をずっと意識されてきたのですか。
土本 画と音は、掛け算だと思っているわけ。複雑な恣意的葛藤で見せるドラマだ、という考え方。掛け算でも二の画×二の音が人によっては八にも十六にも見える、そういうやり方がある。
昔の編集マンの鉄則は、「一度捨てたラッシュ・フィルムに触ってはいけない」というんです。これはどの編集マンも叩き込まれたルールです。ハサミを入れたらそれで終わり。だからハサミを入れるときに徹底的に考えろということ。ところが僕はそれが不安でできなくて、わずかな切れ端まで全部取っておくタイプだったので、テレビ局では反発を受けました。「ノンフィクション劇場」なんか、いろいろな監督が入れ替わ幸り携わるでしょ。そうすると、編集部というのがあって、監督には絶対に編集機の前に座らせない。せいぜい脇から「ウン、それでいい」とか、「ちょっとそれ、つまんで」とかは言えるけど、フィルムにさわれない。それがテレビ局の編集者のプライドなのね。僕は脇に座るだけでも大冒険だったけど、ずっと座って、編集マンが捨てたものを「取っておいて」と言うでしょ。そうすると「何てヤツだ」ってことになるわけ。ところが、それを取っておいてよかったでしょ、ということが何回もあって、結局それで編集マンが「なるほど」というんで、他の監督とは違う扱いをしてくれるようになりました。まあ、テレビの場合、そんなことを全員に言われたらスケジュール的にとても間に合わないけど(笑)。
黒木なんかも「編集・監督」ですよ。現場では何も言わないんだもの。シナリオはこの人がいいと言って指名する。キャメラマンはこの人がいいと言って指名する。そして現場では何も言わない。それを考えるのはあなたでしょ、みたいなことしか言わない。そのかわり、編集でしっちゃかめっちゃかに作りかえるんだから、「編集・監督」と呼ぶべきですね。
新しいドキュメンタリーー王兵、ワイズマン、金東元
『鉄西区』をめぐって
一最近のドキュメンタリーで気になったものはありますか。
土本 王兵(ワン・ピン、映画監督 一九六七年~)の『鉄西区』(03)ですね。単純な感動というのではなく、とても気になるという意味です。九時間だけど三回観ました。僕の根本の考え方とぶつかるところがとても面白い。三回観ても、ダメだと思うところは変わらないけど、訳が分かってきた部分もあります。この九時間にわたって続く映画の現実は、そのことをどう見るかという、僕も問われている問題だと思います。
王兵はワイズマンあたりをかなり観た人じゃないかな。ナレーションを使わない、音楽を使わない、字幕はかなり多用している。ある風景を長い時間、凝視し続ける。ビデオ撮影で、何時間撮ろうが大丈夫という時代になって、デジタルのプライベート・フィルムが撮れる時代になった。こうなると映画で根本的に考えなければいけないのは、映画の長さに対する考え方だと思います。どこから回してどこで終わるかということ。なるほど既成の映画理論からは、人間の生理とか、いろいろなことが言えるのだけれども、これから出てくる記録の方法というのは、映画にとってどれだけの長さが相応しいのかについて、これまでとまったく別の映画時間論になるかもしれません。永遠の映画があってもいいかもしれない。
つまり、僕らはフィルムという有限のものを、きわめて制限的にしか手にできなかった世代なわけで、八十倍だとか百倍、だとか、いくらでも回せる時代ではなかった。もっともワイズマンはフィルムで百倍回しているそうですが(笑)。だから、ドキュメンタリーのこれからについて必要なのは、『鉄西区』なんかを基にしていろいろ考えていくことで、あれを単純に素晴らしいというだけでは不十分だと思います。
ー『鉄西区』のどこに注目しましたか。
土本 僕も製鉄所のPR映画の現場を知っているし、鉄道マンやタクシー運転手の労働を撮ったけれど、『鉄西区』でもどかしいのは、繰り返し登場する仕事場があって、溶鉄を流しながら何かを作っていくわけですが、それがどういう労働なのかが、何回観ても見えてこないんです。そういう労働が、個人的な職人芸ではなくて、一種の完成した構造の中に組み込まれていて、それで工場がずっと稼働してきたのに、もはや時代遅れになって、その工場が滅びていくというドラマだと思うのだけど、彼らが汗を流している労働の世界が、僕にはモノとして具体的に見えてこない。労働者が動き回ったり、休憩室でくつろぐ姿は伝わるけど、彼らにとって労働の世界とは何だったのだろう、というのが見えてこない。それは作家の興味の持ち方なのかな。そういうことに作家は興味を持っていないな、と僕には感じられる。
それから、何度も何度も荷台の袋を上げ下ろしして積んでいく長回しのショットがあるんだけど、その長さが必要なの?と思うわけ。その必然性が前後の流れの中でまったく見えない。例えば、一人が同じ行為を延々としているのは、長くても見られるわけ。
ー『よみがえれカレーズ』で、モスクの外壁のタイルを作る職人の手仕事をじっと凝視しているシーンを思い出します。
土本 そうそう、ああいう職人芸には見入ってしまうでしょう。ものすごく美しいモザイクを、小さなタイルを繋げて作っていくことへの驚きと尊敬です。その驚きを観る人にも共有してほしいから、あれだけ延々と撮った。僕がその人を驚きと尊敬をもって眺めているとすれば、眺められている人も、自分の一番いい表現を出してくれるんじゃないかと思うんです。ある人に対して、美化するのではなくて、この人は尊敬に値するとか、この人の話は面白いとか、そういうことをこちらが本当に感じて、それがその人に伝われば、その人は相当のものを表現してくれる。そういうことはあるだろうと思いますよ。
そこで、「鉄西区』のみんなで袋を運ぶ流れ作業なんだけど、こういうものを長々と撮っても何も発展がないと思うわけ。そんなことをいろいろと考えちゃって、『鉄西区』については正直、まだ分からないところがあります。ただ、はじめにシナリオありき、できあがった映画のイメージありき、ではなくて、撮れたものから考えるという非常に今日的な映画です。はじめに撮影ありき、というこの方法は、僕らのスタートした時代には考えられなかったなあ、と思います。僕はやっと『みなまた日記』からですよ、そういうことを考え始めたのは。
ー例えば『水俣ー患者さんとその世界ー』のように、冒頭の漁業から始まって、漁業で終わるという形で全体の構成・構造を考えるような作り方は、今のアジアの若手のドキュメンタリーでは少ないかもしれません。
土本 僕がいま分からなくなっているのは、作り手の生理としては、うんと長い映画はあり得ると思うけど、観客の心理・生理としてはどうなんだ、ということ。中国で『鉄西区』の話をしたら、中国の同年輩の映画人たちから「あれは世の中に発表されていません。何人かのサークルで観ているだけです」と言われた。そうだとすると、”公開”というものに対する考え方も、僕ら映画育ちとは違うかもしれない。そのとき一緒に行った村山匡一郎さん(映画研究者)によると、『鉄西区』が山形映画祭でグランプリを獲って以降、「どういうものが山形映画祭で受けるのですか」という質問が多いというんですね。映画祭向けの傾向と対策つてのはどうかと思うけど・・・。一方、公開時間の長さからいっても、どう人々に観てもらうかの方針を作家も考えてしかるべきでしょう。
僕はテレビのように「何分しかない」と言われれば、その制限の中で作ったし、PR映画や短篇映画の世界では三十分とか五十分以内で作るのが当たり前だった。自主製作になって、二時間、三時間の映画も作ったけど、どんな長さのものでも大切なのは、退屈させないだけの緊張感を持っているかどうかということに尽きます。
ワイズマン『福祉』と金東元『送還日記』
ー最近はフレデリック・ワイズマンの作品を多数ご覧になっているそうですね。
土本 ワイズマンもまた、僕のスタイルと違うところに目がいきます。突然ポーンと始まったり、プツッと終わったりというのは、すごく意識的にやっていると思いますが、それよりも各シーンごとの訴求力に目を見張りますね。シーンごとに完結しているというか、実に不思議な編集です。
ー土本さんの映画を観ていると、人聞の労働のディテールというものにすごく関心を持っていることが画面から伝わってきます。『よみがえれカレーズ』のタイル職人の例が出ましたが、『海とお月さまたち』で疑似餌を作る漁師のおじさんの手を非常に丁寧に撮っている。『ある機関助士』や『ドキュメント路上』もそうですが、労働のディテールを、ある執拗さを持って撮っています。ワイズマンも人間のある所作を延々と撮ることがありますね。
土本 そこがワイズマンの魅力というか面白いところでしょう。「福祉』(75)で、市役所の福祉係の人が貧しい市民の家へ消毒に行くシーンがあるんだけど、ゴキブリが出そうな台所でお婆さんがキャベツを延々と切っている。画面では他にいろいろなことが起きているんだけど、キャメラはキャベツ切りの作業に何度も戻っていくわけ。お婆さんが台所でキャベツをずっと切っているだけの画。映像のリズムとして面白いんだけど、そういうのは僕にはあまり撮れないですね。僕はその人がやっている仕事に対してある驚きがないと撮れないです。『海とお月さまたち』の、おじいさんが子どもに質問されながらイカの餌を作るところは、自分で見直して、よく撮れていると思います。というのは、子どもに説明しているおじいさんは、いちばん懇切丁寧に自分の手のうちをすべて明らかにするように語っています。僕はそこにすごく感動したので延々と撮りました。あのおじいさんの頭の中にある、生きものの世界と自分の世界とが、餌を介在して見えてくるんです。僕自身の驚き、プラス、映されているものの持っている存在感があってこそ、作家の意図を超えて、観る人の記憶に残るのだと思います。
ー韓国の金東元(キム・ドンウォン、映画監督 一九五五年~)とは対談もされています。
土本 彼らが八〇年代に推進した民主化運動が、『送還日記』(03)にも思想的な成果として現れていると思います。日本人の持っている北朝鮮観と全然違う。北に対する偏見の前に、同じ民族であることがはっきりと出ている。『送還日記』の中で、彼に協力しながら北に入って連絡を取ったりしている石丸次郎(ビデオ・ジャーナリスト)という人がいて、彼と意見が食い違っているところがよく出ていたと思う。その食い違いというのは、石丸さんの「やはり北には懐疑を持たざるをえない」という言い分は、日本人には普通によく分かる理屈なんだけど、金東元の見方はちょっと違って、「北朝鮮との関係を、韓国人は朝鮮戦争からずっと見るクセがついているから、最近の南北関係だけでは見ていない」と言う。そこのところの両者のズレが映画にあらわれていて興味深いわけです。
記録映画にNGはない
土本 金東元とフレデリック・ワイズマンについて語り出したらとても時間がないでしょう。それに僕は作家として、いわゆる他者の”作家論”はうまく語れない。多分自分の嫉妬深さからうまくいかないことを知っているからでしょう(笑)。「もっとも半分は正直に言って」の話ですが、しかし、あとの半分は、その作家に則して自分の映画論をとうとうと語ってしまうと思うからです。それより自説を徹底的に分解することに徹したほうが良いと思う。それも僕流の”基準”があります。”OK度”という撮った画の受け取り方です。僕には捨てる画がありません。劇映画の監督はその場その場で、何十カット撮ろうとも、シナリオと美学からみて、”OK”とか”NG”とか、その場で選択・決定を迫られますね。助監督の頃、それは当然、と思っていました。迷うことなどないだろう、それが監督たるものだろうくらいに考えていました。それがどうやら違うと思いはじめたのは初期のテレビ制作の現場を踏んでからです。映画や放送から遅れてマスコミに登場したテレビの現場は映画の技術者が頑張っていました。勢い、彼らの持ち込んだ映画現場の習慣、技法が踏襲されましたから。今から考えると、迷うことは時間と手間の無駄なんですね。
またフィクションとの比較ですが、劇映画の監督がなかなかOKを出さないとか、今井正なんかはNGを出して俳優を途方に暮れさせるといったエピソードを読んだり、聞いたりすると、まさか苛めではなかろう、多分俳優さんの選び方自体に問題があったんではないかと考えるようになりました。・・・その俳優がどのような演技をしても、それが彼なりの台本を読んでの”表現”だとしたら、果たしてNGと言えるのか。映画作家ならその表現(演技の記録)を見比べて、そこで改めて”考える自由”はないのか。それがドキュメンタリー作家としての僕の劇映画演出へのクエスチョンです。
撮影に特別の過誤がないかぎり、僕は「記録映画にNGはない」と言いたい。それは「果たしてNGか、この映ったものこそ本当ではないか」という自由な思考が許されなければ、飛躍とか桁はずれの発想などできないでしょう。NGこそ面白い!とすら思います。ですから金東元やワイズマンの作品を観るときに彼らの自作に対する”OK”を観るのではなく、”OK度の高さ”を観ているのです。その作家のドキュメンタリー製作のプロセスの”OK度”の追求というか、こだわりというか。彼の”OK度”を信頼できたら、僕はその作家と共に、”その物事”を観たと言える!と思います。それが果たして自作の場合、自分のOK度をどの高さに置くかが僕の闘いですと言っておきたい。その”高さ”は観る方々の見方如何でしょう。
ー長い長いインタビューをこのへんで終わらせていただきます。ありがとうございました。