映画『水俣の図・物語』の発表にあたり [映画水俣の図・物語]通信 No.12月 青林舎 <1980年(昭55)>
 映画『水俣の図・物語』の発表にあたり [映画水俣の図・物語]通信 No.12月 青林舎

 新作(長編35ミリ・カラー)の完成をまえにして、またしてもお願いごとで恐縮です。
 実は水俣病始末のいやまさるこの数年のあいだ、私たちは巡海映画活動以来構想している『不知火海水俣病元年の記録』(仮題)の実現をねがって、調査活動や子供向けの内海の漁と人間を描く『海とお月さまたち』のロケなど、身を不知火海にひきよせて過ごしてきました。いまだその機の成熟の半ばです。
 患者さんの運動の一見停滞・苦渋するなかで、一方この二、三年の間に、記録・表現活動が息の長い仕事の結果として一斉に実を結ぶのを見ました。「不知火海総合学術調査団」の五年間の研究は別格として、青林舎の本『水俣病』につづいて若い記録者たちによる千頁近い『水俣病自主交渉・川本裁判資料集』そして水俣関係写真集第四作として相思社刊『水俣・厳存する風景』も刊行され、演劇行動としては砂田明さんの『海よ母よ子どもらよ』が水俣病事件史を体験しなかった若者の手で全国に巡業されている・・・丸木位里・俊夫妻の共同制作『水俣の図』もこの一連の、水俣の記録・表現の”再興期”ともいうべき八十年春、完成をみるに至りました。
 何がそうさせるのか、石牟礼道子さんのいわれる「水俣事件の背後にある光る暈」のしからしめるところでしょうか。

 その制作の半ば一月より、青林舎・高木隆太郎の発心により、一之瀬正史・西山正啓など、いわゆる水俣スタッフにおのずから、”映画生活五十周年記念映画”と軒昂たる瀬川順一カメラマンとその外山透照明技師、柳田義和撮影助手をむかえ、ごく自然に製作に入りました。この映画が直接的な運動上の緊急性を持たないだけに、その分、時間をかけ、冬から春、そして夏から秋と撮り、のこす終章を撮り終われば一年余をついやしたことになります。
 この一年の長期取材がこの映画をいわゆる美術映画の域にとどまることを許しませんでした。両氏の水俣への関心は、八年前の石牟礼道子さんとの奇しきめぐり合いからはじまっていました。彼女はこの大作の助産婦にもなりました。原爆と”根っ子”は同じと認識しながらも、絵筆をもっての表現のきわでは「水俣をどう描くか」「表現者にとって水俣は何か」の自問自答の道程は息づまる苦悩と勇気の交錯でした。そしてそのジグザグの行程の全記録がこの映画のかおつきともなりました。
 「今回の絵はどうしようもなく暗くなりました・・・しかしもうひとつの水俣があるはず、・・・苦海は描けたが浄土はいつの日か描く」とお二人は完成間近に吐露された。精魂をつめられたのか、位里さんが心筋梗塞で長期入院されたのは、人人展の公開を前にしてでした。
 位里・俊さんあわせて百五十歳、原爆と戦争・大虐殺に絵をもって報復しぬいたお二人に、日本画壇は白眼をむけようと、その偉業はすでに国際的に定着しきっている、その最晩年の仕事に水俣のテーマを選ばれたことは、水俣の業に重ねるに作家の業を思わせました。そして表現に対し青年のように悩み、迷いぬく姿をフイルムにとどめました。
 二人の制作の秘密はすこやかなライバル同士の練磨であり、自己否定につぐ否定といったそのプロセスは、すべての創作の”原型なるもの”をも思わせました。映画は第二作の構想の準備・着手で終わるでしょう。

 いまこの絵に石牟礼道子さんの詞・詩を掛算のように重ねたいと考え、でき得れば、石牟礼さんの声をもってする自作自朗誦を望んでいます。
 音楽は武満徹さんが”海へ、Toward the Sea”を十二月一日には書き上げて下さいました。
 終わらざる水俣に連れ添うべく、この映画が表現の力を束ねて、運動に伝承力を寄せうるかどうか、皆さんの御協力と御批判を待つものです。諸事深謝に堪えません。
(一九八〇・十二・一)