『水俣』を描くことそして、その人間のドキュメンタリ- 『水俣の図・物語』上映用チラシ 2月 青林舎 <1980年(昭55)>
 『水俣』を描くことそして、その人間のドキュメンタリ- 『水俣の図・物語』上映用チラシ 2月 青林舎

■『水俣の図』の実作をレンズを透してみていました。一枚三畳敷ほど初画紙の上に坐って、丸木俊さんは柔らかい息づかいをふっととめ、筆を動かしました。水俣病の少女を描く。そのひたい、ほお、あご、うなじと墨の線がただ一本。失敗も修正もかなわぬ水墨画の描法のもつ緊張の時間はすずりの土で休止するほか流れつづける。ひらかれたまぶた、ものいいたげな唇、柔い掌、丸みのある腰、母親に抱かれた娘の姿が決定的な一本の線で描きだされる。
■位里さんはその純白の母子像に太い刷毛で薄墨を流す。容赦苛責ない激しさで浸す。俊さんはその途方もない画想にあらがうように細部をかきこんでゆく。犯されてなお生きる母子像が刻々に変ってゆく。夫婦か仇か。
■登場する人像二百八十八、ヘドロの海にすむタコ・イカ・ボラにカニ、浜辺の水鳥、カラス、狂い猫などの生類はかず知れず。滋愛の相貌のお二人からときに悪鬼の魂魄がみえる。描くあいだに水俣の現在過去未来が去来しての事でしょう。
■八十年二月、天地三米、横十五米の大画面が完成した。「水俣の底知れぬ暗さを思いきり描いた」と位里さん。「苦海浄土とはよい言葉ですけど、苦海ばかり・・・」と俊さん。
■誕生した『水俣の図』に作家・石牟礼道子の詩と武満徹の音楽を重ねたい想いしきりでした。絵の初めに描きこまれた生類とヒトの姿を浮上させ、水俣と海のテーマを響きあわせたいからです。
■八月の原爆忌、十一月の不知火海への旅。「水俣は生きています。そしてよみがえりたいのです」との石牟礼さんの願いは同じ表現者として、二人の心に泌みいり、はずみを生むものでした。「もうひとつの水俣・浄土を描きた被い!」若いしなやかなこえでした。
■水俣病事件の受難のあかしとして生きる娘たちと老画伯とのであいと理解・・・表現者にとって水俣とは・・・「それをわしはこの娘に教えられたわい」と位里さんは白いひげで笑みました。この映画が終らざる水俣病を照り返すものであればとねがっています。