ふたりの絵かきと娘たち-映画『水俣の図・物語』の主題として 「毎日新聞」関西 5月14日付 毎日新聞西部本社
水俣病が発見されたのは昭和三十一年、おなじ年、私は映画の仕事をはじめた。翌年、長女を授かった。丁度その前後数年間に胎児性水俣病患児があいついで生まれている。
九年後の昭和四十年、テレビ取材で初めて彼らに会った。すでに七・八歳になっていたはずの坂本、しのぶさん・鬼塚勇治君たちだが、そのよちよち歩きやよだれ、そのロのまわらない言葉つきから、どうしても四・五歳の幼児にしか見えなかった。
やがて、同じ年齢の私の娘は彼らを思う私の物差しになった。少年の反抗的も、人格の独立をねがう気も、前途への不安にみちた思春期も、である。水俣病発見後二十五年を今年むかえた。
映画の中で、しのぶさん・清子さんは、いわば交替不能の役を負っていることにある感慨なしではいられない。
世界的に有名な「原爆の図」をはじめ南京大虐殺やアウシュビッツの悲劇など二十余年にわたり、一貫して描きつつけできた丸木位里・俊さんたちが、「水俣の図」を最晩年のテーマにとりあげられた。原爆と根っこでは同じと語られる。映画はその制作過程から完成までを前半とすれば、後半は「水俣の図」では描ききれなかった、もうひとつの水俣をさがし求めての旅の記録である。その系でいえば、この映画は水俣をいかに描くか、いかに感じとったかの記録でもある。
丸木おふたり合せて百五十という高齢の夫妻の半生にも触れながら、映画は共同制作の場に立ち入っている。その点、制作の過程を辿りながらおのずとおふたりの軌跡を描くことにもなった。
「水俣の図」は正面から等身大に描く一方、小さな生きものや人びとをそこここにつとめて親密に描いた。その上に太く黒い墨が流された。水子像に対するいつくしみにも沈められた。撮りながら、ときに私はつらさにいたたまれないほどだった。だが苦悩し、つらさを感じてのうえの作業であった。それをたよりにした。
くろずんではいたが、その完成から、そのにじんだ初心のほんのうが浮かび出てきた。それを辿り、映画は水俣の図の分解シーンとして一つの章にまとめた。それは武満徹氏と、石牟礼さんの「原初よりことば知らざりき」の朗読の重なる部分でもある。視角では見えない(ディテール)まで移動やクローズアップで撮影した。レンズの眼でしか、ーうちなる水俣への旅と日々を辿れなかったからである。音楽によって、いまは魂のかえりゆく(未来)までの世界に近づく試みが絵はあらためてその凄さを表わしたように思えた。
「苦海ばっかしになってしまった」と完成を前にして俊さんは述懐する。私はむせこんでしまった。丸木位里・俊の水俣はやはり苦海を通過することしかなかっただろうと思えた。十六年前、私も最初の映画で、水俣に首の骨をへしおられ全く絶望的になった。そもそも自分が映画作者であることを疑い、その一切を捨てたくなったほどだ。その水俣ロケ半ばで萎縮し、何かがこわれたようになったとき、水俣市立病院でただ子供と遊んでいた。息児達が身にまつわり、私に遊んでくれとせがみ、それに興じているうちに徐々に気をとり直すことができたのであった。
「水俣の図」を完成して間もなく、梗塞で倒れ、万一が危ぶまれた。再訪がかなったのは昨・昭和五十五年晩秋だった。このとき、俊さんはふたりの肖像を描くことで、風景で、水俣の水俣なる何ものかを発見したのだった。それがこの女人像につながるのだが、このとき小さな色紙に描かれた絵画の世界は画家と患者との独特のつながりを生んだ。
水彩で色を用いて措かれた肖像を、しのぶさんはすぎてもったいない、私じゃないほどだという。しかしその絵は特徴をとらえていた。そのうえしのぶさんのなかのその精神性をもとらえ出されていた。私は夫妻の優しさ、その俊敏な感性を改めて感じた。と同時に、創造に駆りたてる名状しがたい衝撃のようなものがふたりの女性からおのずと照射されている気がした。それは水俣の二十五年ゆえにそなわったひかりー生きるあかしといったものではなかったか。
水墨画は一千年もつという。位里さんはその口の下から、わしの代で焼いてしまうともいわれる。描くことが生きる意味だったということでもあろう。その創作の一年にわたる水俣体験にとって、この水俣病多発部落でのふたりの娘との出遭いがあるいは作品よりも大きいものであったかも知れないと考える。水俣といかにつながるか、つまるところそれがこの映画の主題と思わずにはいられない。