”水俣”の表現行為 「優秀映画」 5月1日 優秀映画鑑賞会
人によく聞かれる。
「『水俣の図・物語』は記録映画としてみるには疑問がある。かといってドラマともなっていない。作者はなぜ”物語”とことわったのか」と。「今までの一連のドキユメンタリ-とは方向を変えたのか」とも。
またいささか私の処女作当時(『ある機関助士』『ドキュメント路上』)の織っている仲間から『退行現象なのか』と問われる。それらにこの機会をかりて少しでも答えなければならない。
この水俣にかかわっての十五年、連作に入っての十年、私は完成度の高い映画にしたい誘惑に駆られながらも、まず水俣の事象をあきらかにし、のこすことに重きをおいて仕事なしてきたといってよい。それは水俣が同十年周期かで必ず問い直され、どんなディテールまでも見逃すことなくほじくられる日がくると予期するものがあるからだ。
へんな例で恐縮だが、私自身、忘れ果てていたことを見て思い出すことがしばしばだ。前の画に、チッソ工場のシンボルだった粉塵・ガス拡散用の、のっぽのお化け煙突は今はない。水俣湾のチャッカ船のシーンから改めて漁具・漁法の変遷を喚起させられる。
”資料である”という、いわば資料説とでもいうべきか、水俣の場合つねに念頭にそのことをおいてきた。それがむだの種にならないように構成、編集に腐心してきたといえる。それはとくに、疫学的アプローチを兼ねた『その世界』『不知火海』や『医学としての水俣・三部作』に顕著である。
プロフェッショナルでありたいとする私は、当然としてこれら映画の長さをおそれもしたし、事実それによりその機会を少くすることに悩まされつづけてきた。
だが今回は、水俣についての表現行為をテーマとした映画であり、いわば資料性は全くといっていいはどない。その点、方向も方法も今までの水俣シリーズと変っている今回には、報道性も、その緊急性もないのである。
夫妻の記念碑的『水俣の図』は丸末美術館にいけばいつでも見られるし、音楽もコンサートでもLP盤ででも聞ける、石牟礼文学も自由に読めるのである。それら独立した表現を何故映画にしたか、それが私の問題であろう。
今、水俣ですら一つの節を終えたとの声がある。いままで、水俣病闘争のたかまりのなかで私は映画を作ってきた。しかし運動の波がへこんだ時こそ、表現・芸術は興るべきであろう。闘いのピークに、芸術はむしろ必要ではない。むしろ闘いこそが表現の最高のものと思うからだ。いま運動のへこんでいる時、絵の登場は必然的な出来ごとにおもえた。一方、そう捉える私たち映画のものどもがいた、ということであるろう。”表現者にとって今、水俣とは”何かを考える映画にしたかったし、絵画・詩・音楽の表現に拮抗して映画もまたひとつとして水俣への思いを対象化したかったというのが本心である。
この『水俣の図・物語』の登場人物はすべて創作をもってかかわり、その一年が映画となった。その点で、ドラマ性を内包するものとなったのである。だが水俣にかかわるどの画面も一九八〇年の水俣の事象とその人々の実在をドキュメンタリーの忠実度をもって描いたつもりである。冒記の問いに答えるにあまりに少いが、いつわりない、いまの私の気持である。
(一九八一・四・一〇)