わたくしの恥の自覚の源泉について 「草月」 6月号 草月出版
いまは昔、寝小便体験について平気で人に話せるようになったのは三十歳をすぎてからである。さいごの粗相をしたのが中学の一、二年頃だったから、やはり時効に二十年近く要したことになる。
寝小便の自覚はいつ頃からかよく憶えていない。おしめのとれたのは普通の児といっしょというから一歳すぎだったろうが、朝、母が「ああまたやってしまって、しょうがない子だねえ」と情ない顔で布団を干すのをあえて異なこととも思わずけろっとして遊びまわっていたようだ。おそらく産みの親、育ての親であればかかる性癖も自分のせいと共同意識をもっていたためであろうか、辛く責めたてられた記憶はない。つまりその自覚は他家での体験からはじまった。
当時わたしたちは名古屋にすんでいた。そのわが家の近くに伯父の家があり、同年輩の可愛い女のいとこがいた。ともに幼稚園児である。電車で二停留所ほどの距離であったが、ある日、ひとりで泊りがけで遊びにいくことになった。母の眼の届くところでは、寝る前に水気のものを摂るのをひかえさせられるのだが、遊び相手とはしゃいで、のんだりくつたりした上で疲れはてて眠ったようだ。
その夜、夢を見た。それは立小便をしている夢だった。幼いながら気がかりだったのだろう。わたしはいとこに「小便していいな、いいな」と念を押し、彼女の快諾を得てから放尿したのだが、いけなかった。せっかく断ったのにと口惜しかったが、あとは恥かしさで縮み上った。地図をかいた布団を丸めるや、手近かの押入れに入れて、夜明けをまって伯父の家をぬけだし家に帰ってきた。いつばれるかと内心戦々恐々だった。が、母はとがめ忘れたようにそれを口にしなかった。伯母がその日に様子を見にきていたのにである。伯母は母に「あれでも恥かしがって……」とでもいったのであろう。のちに話の端にでるのだった。私はこの一事で、大人の想像を絶するほどの恥かしさをもつたし、その秘密に悶々とする日々を味わったのである。わが寝小便史上の”最初の衝撃”とでもいおうか。
小学校に入った。悪がきはクソとかションベンとかやたらに使うものだ。寝小便を知られたらたまったものではない。わたしは成績はどういうわけか一、二位で、規則によって級長・副級長にされ、リボンを胸につけさせられ、幼い仲間のなかでも一目置かれる小ボスになっていた。それだけに大きな秘密に思えた。だれかれも寝小便したぞと軽くいうが年に一度か二度の失敗か、とっくに卒業したはなしとしてである。わたしのように今夜またしくじるかも知れない現役のはなしではないのだ。
当時の写真を見ても、小学校一、二年生のなかにひたいにタテジワのあるひねた子はいない。私はどこか影のある子供だったようだ。秘密をもつことは、ある人だけに打ち明け、ともにそれを分けあう意味で甘美ですらある。恋の手くだはもっぱらそれだ。しかしこの寝小便の秘密だけには酸いも甘いもない。みっともなさにおいて救いがないのである。
夜、眠る前に漠然とした不安にとらわれる。そしてほとんどの場合夢をともなうのである。それもだんだん手がこんでくる。「小便してもいいよ」と誰かが夢のなかで確言する。とわたしは夢のなかで「まえもいいというからやったんだ。こんどは夢ではないんだな。だますなよ」とだめ押しをして、しからばと放尿する。その甘美な放尿感は一ときで、あと眼がさめる。一拍夢からさめるのが遅れるのである。夢のなかで夢を疑う夢をみるというくり返しがつづいた。
小学校六年生になった。伊勢、奈良に三泊ほどの修学旅行がある。私は行かない口実を探したが親にも言いだせなかった。母はくりごとのように「水気をひかえな」といいパンツの替えを沢山もたせながら気に病んでいたようだ。
伊勢の宿、その夜、旅に興奮して皆夜ふけまでせいぜいはしゃいでいるなかで、わたしは便所にいちばん近くの床を選び、そう出もしないのになんども足をはこんだ。
その夜は夢と闘った。夢にふけってはならぬ、いつかはあの寝小便問答のコースにひきこまれる、心せよと夢に抗ううちに眼をさます。また別の夢を見る。こうして何幕もの芝居の幕あけだけ夢みるやむっくり起きることをくり返していた。眠りのなかで夢とさめた声が交錯し共存するのである。こうして旅行中に破局を迎えることなくすんだ。そしてこれを機に以後ふっつりと熄んだ。夢に夢中にならない代償としてである。
おもえばわたしのシャイネス(恥)の源流はここにある。表と裏、光と影のような、人間なるものの二重性への共感も、寝小便とそれゆえの秘密を抱くのこころから育てられたであろう。だから私は完全秀才型より寝小便型にんげんに出遭うのをこのむのである。この恥の自覚の肉性はその後のわたしの内的な赤面恐怖症的性格を決定づけたと言えなくもない。その点で、いまはこの寝小便に感謝すべきかもしれないと思う。