“水俣百年”のなかの記録とは-映画『水俣の図・物語』の制作の日々 『読書北海道』 6月15日 <1981年(昭56)>
 “水俣百年”のなかの記録とは-映画『水俣の図・物語』の制作の日々 「読書北海道」 6月15日 

 十年にわたり”水俣”の記録映画を撮り続けてきた映画作家土本典昭氏の最新作「水俣の図・物話」が、七月十日の函館を皮切りに道内十二ヶ所で上映される。丸木位里、俊氏の「水俣の図」、石牟礼道子氏の詩、武満撤氏の音楽で構成されたこの映画の、記録性について土本氏に執筆してもらった。(編集部)

 記録の先駆者たち

 水俣病の記録に映画的資料がもっとも必要なことを知り、撮りためていたのは、映画関係者ではなく、実は医学研究者であった。
 まだ水俣病とも名づけられず、水俣の漁家集落のひとつで、最初に発生した船だまりの湾の名をとって”月の浦病”とか”三年ガ浦の奇病”とかよんでいた昭和三十一年五月から夏にかけ、研究者の手ではじめ八ミリ映画、のちにアマチュアカメラながら十六ミリフィルムでその病像観察と記録がなされた。
 通常の医学的記録は写真などで済んだのだが、この奇病だけは動きのある映画でなければ捉えられない特異な病状を呈していた。
 食事をとる手の動きが、一夜にして不自由になった上に、口もとに近づくほどふるえ、はしと口が勝手に近づきはなれてゆく。水をのむ瞬間に器が踊りだす。ボタンがけができない。まっすぐに歩けない。眼をつむっての片足立ちはすぐ転倒する。体力は残っていても人間的動作は奪われている。テープもとられた。言葉はもつれ、幼児語風に退行し、犬の遠吠え風の悲鳴をあげる。視野を失い、難聴になっている。その病像の全貌を知るには映像と音声を記録して、集会や研究会の席上での医学的判断の材料とするほかなかった。はじめから映画であったのだ。
 写真家は一枚写真でその病像をどうとるかに腐心した。指の屈曲硬直のクローズアップや、喪心状況の表情などでそれをとらえた。桑原史成やユージン・スミスたちは微視的な凝視でそれを表現することに成功した。が、そのためにスミスは三ケ月の滞在予定が三年にもおよび、その取材中のチッソ五井工場の暴行事件がもとで脳打傷の手術をし、それが原因で死亡した。

 丸木夫妻の画集

 水俣の表現を今度は、原爆の図でしられる丸木位里・俊さんがその絵筆で挑戦したのだ。画家としてその写実性においては写真より、まして映画よりさらに独特の表現上の産みの苦しみに立ちむかわれることになった。
 かつての『原爆の図』は私には地獄図のストップ・モーションに思えた。しかし、水俣病事件は今日でも発生をみているいみでもまさに現在進行形であり、その病躯をかかえて、生活し、生きつづけなければならない人びとの、”今”を描くものであったからだ。
 写真や映画では今日、もはや撮れない水俣病の発生当時の”水俣”を、その想像力で再構築できるのが絵画である。そして自然や生類たちや、漁民の現在過去未来をひとつの構図にまとめうるのも、大幅の障壁画の、ひとりよくなしうるところである。そして水俣病事件に象徴的なメインイメージをかたちどれるのも水墨画の深さをもってはじめてできるであろう。丸木位里・丸木俊さんの肩にかかる『水俣の図』はそのすべてを含み、統一するまさに一大画集であったと思う。
 私たちは画室の中で、息をつめていたわけではない。撮るときにはこうこうとライトをつけ、回転音をたてるカメラをまわすのであれば、それが気にならなくなるまで、その異常な雰囲気に慣れてもらうほかなく、そのため、筆をとるお二人とも話しを交さないわけにはいかなかった。また演出上でも、次の筆は何を描くつもりかをあらかじめ想定しなければならず、つい質問を重ねるのだった。
 お二人は実に闊達で自在の境地におられた。むしろ、私たち映画撮影上の時間・空間の上での制約の多さに同情しながら、撮りやすいように、持ったり、位置を心持ち変えてくれたりされた。しかし緊張感はたえず彼我にあった。人物の芯になる骨描きをかかれる俊さんは人物二百数人を描かれていた。そのひとりひとりを描くたびに、合掌するかのようであった。ひとりかいてつぎのひとりへと、それは巡礼の道行きのようであった。
 話題といえば水俣でのあれこれであり、私の体験も聞かせてほしいと誘われる。こうして画室で絵を描き、フィルムにおさめる全時間が、実は”水俣”であった。埼玉県東松山市下唐子に水俣らしい水俣の世界が出現したように思えた。図は表現と記録のあざなうなわのようになっていった。  

 水俣での出遭い

 映画のドラマの最初の嶺が訪れた。それは描き終えられたときのインタビューである。ふつうなら、自分の画業に肯定的でしかあり得ぬはずの作者が「苦海浄土というけれど、苦海ばっかりになってしまった。けど明るい水俣って描けるかなあ」と俊さんは悩みをのこし、位里さんは「闘いや運動やあの美しい不知火海の風景などをいつかはきっと描く、しのこした仕事だから」と、その時、すでに連作の必然をかたられるのだった。
 シナリオのない私のドキュメンタリー映画の作法でいえば、だから、そこで「一巻の終り」にはならなくなったのだ。完成後、日ならずして位里さんは過労のため心筋梗塞に陥り、一時は再起すら危ぶまれた。大平前首相と同病だけに俊さんの心労は予想をこえるものがあった。幸い小康を得、医師もあきれるほどの頑建さで位里さんは退院された。
 もういちど水俣にいこうといいかわしてはいたが、当時は何のあてどもなかった。だが、秋になって体力気力も回復され、ごく自然のなりゆきでお二人は水俣を再訪することになった。映画が期待する旅でもあった。
 二度目の旅で、胎児性水俣病として生まれ成長し、「良き娘となった加賀田清子さんと坂本しのぶさんに遭い、彼女たちのなかから、生きる命を発見されたのだった。それは予期せぬ心理的・感性的なでき事であり、ドラマ的展開になっていった。映画はたんに現在形ではなく、未来形の水俣を二人のむすめの生きかた、ありかたによって暗示されたのであった。
 水俣病事件は四半世紀をへた。しかしこれが果してどんな傷であり、どんな教訓になしうるかは今後百年のスパンで見るべきだと、不知火海調査団の団長、歴史学者の色川大吉は明治の足尾銅山事件と重ねていう。その点でこの水俣の図も、この映画も、百年の持続力をうながす役割の一端をになうことになろう。それは詩の石牟礼道子にも音楽の武満徹にも志は同じである。その表現を合せえたこの映画自体が水俣病事件史の現在の記録なのだと思わずにはいられない。(筆者つちもと・のりあき氏=映画監督)