なぜ いま『水俣の図・物語』 か 「北海道上映用チラシ」 7月
闘いにはやはり波のうねりがある。いま水俣の波は率直にいって低い。また「水俣の図・物語」かという声もある。私自身、原発も、アジア問題も、その他あれこれと興味は山積するが、いまはやはり水俣である。つまり、いくら醒めても水俣が主なモチーフなのだ。それは深い意味で私の快楽だからだ。
苦しいことのみ多い悪者さんにとっても、宝物のような思い出は、チッソの社長に一こと、思いのたけをのべえた一株運動であったりする。まさに凄絶な闘いに間断ない川本輝夫さんも、心のどこかで、青春時代を逆にたどっているふしがある。東京のチッソ本社での一年余のすわりこみ、環境庁での自炊までした籠城の苦労のかげで、若い青年・娘たちと、手なわかけられるなら一蓮託生といった青春の客気を花開かせていたかも知れない。私たちもまた日本の国、熊本の県、チッソ会社への告発を記録しながら、映画的僥倖を醒めても味わいつづけてきた。
水俣病二十五年のうちふたつの波頭が吃立して見える。一九五九年の不知火海漁民闘争と患者互助会の座りこみを第一波とすれば、のち十年の沈潜期を経て、一九七〇年前後をピークに水俣病闘争が起った。その風化をつき破ったのは患者によるケッ起であり、川本氏らによる自主交渉闘争であった。その第一波の頃、患者は百人に満たず、十年後の第二波当時ですら二百人に至らなかった。いま総申請一万余人である。不知火海全域から名乗りでたひとびとだ。
組織を分断され、棄却処分にあい、地域の差別にさらされようと、病躯を訴えでるいきおいはいささかも減るべくもない。
漁帥は汐の満ちひきのとまりぎわに魚をとる。正確に魚信を知ることができもからだ。
いま、この五年ほどの間に、記録、研究、表現の仕事が一斉に浮上してきた。どれも、数年かけての労作ばかりだ。写真をとっても、六十年代の桑原史成、塩田武史、七十年代の宮本成美、そしてユージンとアイリーン・スミス、八十年代の芥川仁らとバトンタッチされた写真の記録期間はほゞ水俣病の全史に迫っている。色川大吉、鶴見和子らによる不知火海総合学術調査団の研究、青林舎の「水俣病・20年の研究と今日の課題」、若い人達による「水俣病自主交渉川本裁判資料集」など、そして水俣の墓守志願砂田明の勧進公演は十年ぶりに全国行脚として実っている。そして何より石牟礼道子が水俣に根を深く下して微動だにない。そして今日、丸木の共同制作をもつことができた。色川氏が中間報告とその大部の研究書に附すように、誰もが、表現をなし終えたとは思っていないことで共通している。私たちにとっても、不知火海を見るべく映画を次の目標においている。
現実の波と波長の異る表現の波ではある。しかし水俣病の次なる大きな波頭にむきを進める船であるゆえに全スタッフが乗りあわせともに漕いだのだ。ふたりの画家の個人史のたどりついた画は美術であるとともに時代の記録であった。
ともあれ、これだけ犯行と過失の明らかな水俣病が記録されつづけなければ、他の国の共犯たるはすべて尻きれ闇はさらに深まるだろう。だが私たちは楽天に支えられている。天与の強さをもっている。患者、漁民、支援者の人の運もまた耐えて更に強い。あとは時の運を持つといま思う。すでに十年余がある。
「水俣はまだ終っていない」という。だが映画を手にする私たちにとつては、「言うは難く、行うは易い」ものである。この映画が根底に水俣の天の運なる楽天性に支えられて作られたからだ。そして次の一里塚に確実に歩き進みたいことをかくせないのである。どうか次の波まで、映画を見、批判をつづけて頂きたい。
(文中敬称略)