退廃ここにきわまったミナマタ怪獣映画『プロフェシー』(恐怖の予言)をみて、監督フランケンハイマーを批判する。
この映画の配給社CICの宣伝材料文を40人ほどの試写室でうけとった。その冒頭に「これは文明の名において、自然を破壊し進歩の美名のもとに環境汚染をひろげていく人たちに恐るべき『予言』を宣する作品である。製紙工場が20年にわたってメチル水銀を湖沼に投入した。それをのみ、そこの魚を食べる人間や動物にやがてどのような影響があらわれるか。水俣の悲劇は……いまや万人の知るところである」格調高い警告映画風だ。そしてスタッフの超一流をうたい、オリジナルシナリオは『オーマン』のディビッド・セルビア、音楽は『エデンの東』のレオナルド・ローゼンマンそして監督が『五月の7日間』『フレンチコネクション』のアクション社会派フランケンハイマーの水俣映画と売り込まれれば、私ならずとも耳目をひこう。
一方、映画ではモンスター・ムービー(怪物映画)とことわっている。ゴジラ風の空想的怪獣映画なら私もめくじらをたてはしない。
それがいま現実そのものの水俣病(有機水銀汚染)と隣接した現代の悲劇の映画として描かれ、しかもあきらかにこの十年争いつづけられているカナダ・インディアン水俣病事件を下敷きにし、水俣病をヒトがバケモノに突然変異するひとつのファクターに利用している点で、昨今、アメリカでも珍しい商魂だけの映画、その卑しさとズルサと、その人間性のレベルの低さでは比をみない駄作、悪作である。
放っておいても見向きもされないほどの映画にも一片の価値もないが「日本でも当たったミナマタ怪獣映画」などと世界中にふれ歩かれたら同時代の映画人として見逃すわけにはいかない。映画は悪しき意味でも時代の鏡だ。そこに奇怪な水俣病が映っている。
映画はのっけからインディアン居留地での原因不明の惨殺事件の続発から怪奇映画風にはじまるが、白人医師とその妻の登場、医師調査員として現地にふみこむまでは“社会派”らしい“重厚さ”で招き入れる。製糸工場とインディアンとの険しい対立。企業の毒物汚染に疑いを深め、インディアンと交情をもつ医師夫婦といった“良心的”人間構図から、映画は自然の異変に移って行く。巨大なサケの出現、ケイレンする洗い熊の人間への襲撃、妊娠を告げなやむ妻は、汚染魚のサケをたべてしまった。
原因は何か、やがて文献をひもといて、1956年に“発見”されたミナマタ病=メチル水銀中毒にたどりつく。カナダの事件は製紙工場から水銀流出だが、映画ではずるくも、下請けの蓄木業者の防腐剤(?)として、工場のあづかり知らぬ水銀の汚染として描かれ、大企業政府の責任は“抜い”てある。
「インディアン部落の死産流産、アルコール中毒風のインディアンの“充猛化”脳や神経、知覚をおかされている獣やヒト」といった水俣病像の断片をつなぎあわせた上で、この頃、森にあらわれる怪獣は「胎児性水俣病として胎児の過程でも生命力をもったある生きもの」だと飛躍する。ぼかしてあるがインディアンの胎から出て、独立して生存し、子をつくるサイクルに入った「胎児性」の生きもののゴジラ化がそれだと医師が宣するのだ。
ここからインディアンも企業も医学者も一致して怪獣から逃れ、闘い、これを殺す。そのなかで、ただ白人医師夫妻だけ生き残り、悪夢の土地から、記憶“生きもの”の子どもを毛布にくるんで自家用紙で都市に脱出する。そしてその飛行機を見送るもうひとりの怪物がパートⅡの映画用か、ヌックッと湖から顔を出してエンド・マークである。
社会派的な前半の社会問題は、この怪獣との闘いですべてふきとび、人間の未来への「予告(原名)」となるといった映画的メッセージ風に終っている。知能犯にもいたっていない。
胎児が映画で怪物に仕立てられることは、それを水子として供養し地蔵尊にまつる日本人の感性を涜すだけでなく、主人公の妻の妊娠時の不安を責め具にそれでいたぶる神経は、もはや少女姦、獣姦の世界にも刺激をうけなくなったアメリカ映画職人のゆきついた極北だろうか。退廃という言葉ももったいない気がする。奇型した映画人のなれの果てというべきか。
まして水俣病について、遺伝子云々は学界でひっくりかえる珍説である。胎児性は遺伝というより母胎で胎盤からうけた有機水銀による重い人間機能破壊である。水俣に生まれた胎児性患者は毒をうけても生まれ出た点で、つよい優性をもち、その人間的感受性の豊かさと敏感さは常人よりすぐれてすらいる。だから私たち自身の悲劇であり、私たち自身が闘うべき問題として可視的なのだ。
私はフランケンハイマーを作家とみてきた。しかしこの一作で批判する。その否定も拒否する。世界映画市場にむけて、水俣病に苦しむ各地の人を、“化け物”の世界に封じて描いた差別者、人間冒涜者として弾劾する。配給社CICもともどもである。
森さん。こういう風にしかかけません。ひどい状況です。もっと枚数があれば一シーンごとにその卑劣な映画手法まであばきたいのですが、いまは挑戦にとどめます。医学的にもデマ、SF的、空想的としても陳腐、退廃。いいとこゼロの映画です。これ以上醜い映画を私は知りません。
こんな文がアサヒグラフにふさわしくないとしたら、私は悲しく思います。しかし、弾劾の方法をえらび、公開への手痛い反響を批判として呼び続けるつもりです。(電話で相談してからと思いましたが、まず文章にしないではいられませんでした。)
一筆 土本