水俣の明日 『解放教育』 9月号 明治図書 <1981年(昭56)>
 水俣の明日 「解放教育」 9月号 明治図書

 記録映画をつくっております土本典昭と申します。
 一五年間、水俣につかず離れずまいりまして、水俣に関する映画は、この『水俣の図・物語』で、一四作、その他に外国語版を合わせますと一九本になります。水俣の明日というテーマは、ひじょうに話しづらいというか、私が申し上げられるようなことではないのですが、今日まで、映画をやっているなかで見えてきたことから、多少私なりの考えはのべられるかと思います。



 水俣病が発見されましたのは一九五六(昭三一)年の五月の一日です。その日に町のはずれの漁村部から訴えのありました一人の少女の診察をなさった新日窒-毒を流した工場の附属病院の院長である細川一さんが、これは明らかにひじょうに重大な病気であると発表されたと聞いております。
 ところが、その後調べますと、水俣病の患者で第一号といわれる人は、すでに五三(昭二八)年から出ている。さかのぼれば、四一(昭一六)年から出ているということが、ほぼのちの調査で研究的にはおさえられております。
 一つの工場で、水銀を流してから、どのくらいで生物がおかされ、人間がおかされるかという例にカナダの水俣病があります。カナダに私もまいったんですが、パルプ工場が戦後建てられまして、一〇年たって、水俣病が発生しております。その意味で、一九三二(昭七)年にチッソに酢酸工場がつくられ、その工程のなかで当時としても大変膨大な水銀を流しつづけたことによって、水俣の方がたが四一年から病気になられた、というのは当然だろうと思います。
 しかし、水俣病が世の中に明らかになるまでのその一五年間に、どういう病名で、この人たちが病んで亡くなったのかは、これはまだ十分に明らかにされておりません。また、現在、患者認定申請が一〇三七七というのですが、たしかに名簿上はそうなっておりますけれども、実際に病んでいる人の実数というのも、いまだ明らかになっておりません。
 数字を出すと、またしかられるかもしれませんが、私が最初に水俣病に出会った一九六五(昭四〇)年には、患者の数は一一一人でした。その五年後に行きましたときには、一二一人です。ところが現在、それに百倍するところの人数が、申請という形で名のりをあげている。大阪、兵庫、奈良、京都、滋賀の五つの府県において、二二八人が、ひじょうに情報の少ないこの遠隔の地で体の不調を訴えておられる。その中で認定された人は、今年の一月段階で一六名。いまだに処理されてない人が一三一人、あとは棄却、というふうな数字をうけたまわっております。



 私が最初に水俣に行きました一五年前、町を歩いていましても「水俣病のことをどなたか知りませんか」ときくのですけれども、「さあ、見たことない、そういえば病院の帰りにこういう人たちがかき氷をたべとった。ふるえる手で口元にもっていききらん」とか、「いっとき工場のそばですわりこみしょった(一九五九年)とかいうが‥…」という程度で、「もう水俣病、終わったんじゃないですか」ということを町の人もいいました。
 私はそのとき、水俣に誰も知っている人がいなくて、石牟礼さんの名も一冊の本(『日本残酷物語』)で知っておった程度で‥…患者さんにお目にかかりに病院まで行って、町の人の「知らない」というのもなるほどと思いました。
 かなりベッド数のある市立病院ですが、そのころ、水俣病の方の専門の病舎がありました。ところが、それが伝染病病棟の奥で、しかも霊安室の脇なんです。たいていの病人や見舞客が足をふみこまないところなんです。私も全部数えたわけではありませんが三十数名の、ほとんど絶望的な方がおられて、私の感じでは、その半数が亡くなっておられると思います。
 その中に、最初の映画に出てくる坂本しのぶさんとか、加賀田清子さんとか金子雄二君とか半永一光君とか、いろんな人たちが、ちょうど八、九歳だったと思いますけれども、いました。発育が悪くて、ひじょうに小さく、私はもっと幼少かと思ったのですが。在宅の患者さんを訪ねていくのに、まったくあてどがなくて、患者さんの多い漁村地帯を歩いてみますと、あきらかに病気のお子さんが、お母さんが買物に行ったあとに、ごろんとねたまま一人で遊んでいる。それから眼のつぶれた少年が、しきりにラジオで野球を聞いている。だけど何も見えない。
 そういったいろんな人たちに会いまして、実に肝をつぶしたわけなんです。水俣病の「み」の字も知らないで、とびこんで、大変おこられました。突然ちん入着として、映画を撮って、あんた何やっとるんか、映画を撮ってもちっとも良くならんばい。この子のことうつしてもいっちょ、病気は治るまい、と大変叱られました。言ってみれば、静かにこのまましとった方がいい。もう水俣病のことでは、さんざん辛い目におうてきた、という感じだったと思います。
 私は水俣病を知り、全然ちがう時代と世界に入ったことをいやおうなく知らされました。それを直視すること、それにむかって闘うことは、日本国の国是に抗うことであり、国家との戦争であると思いました。しかし、私の非力をなげき、軽々しく水俣に入った責は同時に色こくのこりました。



 つぎに映画を撮ったのは、大きく状況が変わってきた一九七〇年からです。            それは私が水俣に行ってから二年ほどたって、時の厚生大臣で天草出身の園田直が、彼の地元の問題として水俣病をはっきりさせろということで、一九六八(昭四三)年にやっと、政府としての公式見解-チッソの工場廃水が水俣病の原因である、有機水銀を流したためだ、ということが確定しました。
 その翌年ぐらいから、患者は分裂しますけれども、一部の人たちによって訴訟がたたかわれたわけですが、その闘いには、どうしても全国の力を得なければ勝てそうにないとのアッピールが、現地の患者さん(訴訟派二九世帯)や支援の方からございました。
 じゃあ俺たちは何をやったらいいのか。私としては、映画をすぐ撮りはじめるというような神経にはとてもならない。前、あれだけみなさんの心を傷つけるような取材態度をとった私です。どうしたらいいのか教えてほしい、ということでお話をしました。そしたら訴訟派以外の患者さんの三分の二が厚生大臣の肝入りで、調停者たちから低額の見舞金をおしつけられ、再び眠りこまされようとしている。これから厚生大臣に会いに行って、その企てを阻止しよう、というわけですね。熊本にできた「水俣病を告発する会」のつよい要請としてそれを断固阻止してほしい、とにかく厚生省の八階の調停の会場にいって、その談合をとめるべく廊下で寝てくれと。寝て、それをまたがなきゃ通れないようにしてくれ、というんで、よしきた、われわれは政党でも組織でも何でもない一介の助っ人集団だからって。一九七〇年五月二五日でした。一〇人ほどで警戒線を突破して会場に入りました。私も寝ころがって最後まで起きませんでしたら、首謀者あつかいにされ、たい捕されたりしました。
 そんなことから、水俣病患者が声を出すということが、どんなに大変なことか、それから実は、政府がこの問題の処理について、そうとうな先行きのおびえを持っている、とよくわかりまして、それで映画を撮るにいたりました。



 そうして裁判闘争を含め患者の生活を撮ってきたのですが、私は裁判が勝ちはしないとしても、チッソの責任は認められるだろうとは想像していました。当時の補償要求の額です。近頃の労災でも五千万、七千万というのが常識ですが、いまだに千八百万です。裁判提起のときは九百万だったのですが、裁判に四年もかかるもんですから、これでは補償要求にこめた制裁金というかチッソへの懲罰にもならないというので、それを引きあげても、そんな額です。これはとれるだろうと思いました。事実とれました。
 これで企業はかなりダメージをうけたような顔をしていますけれども、そのころから後の政治の進展というのは、私の予想をこえて、すさまじいものがあります。
 警察はそれまで、患者さんの体に縄をうつということはしませんでした。機動隊がチッソの本社にすわりこんでいる患者たちを排除しようとかする場合にも、支援の連中には手荒いことをしても、患者さんはだましだまし外へ出すとか、なるべくこぶしは使わないで、ひじとか肩で押し出すとか、いろいろ彼らなりに世論をおそれ、工夫をしておりました。
 ところがその後水俣でも、六年前のことですが、裁判が終わって二年もしないうちに患者さんに縄がうたれました。これが実に象徴的なんですが、なにがきっかけかといいますと、熊本では、県議会の発言がひじょうに強いのです。そこでの公害担当の杉村という病院長でもある自民党県議が、環境庁との折衝の中で、患者の急増をあげつらい、最近の申請者のほとんどはにせ患者だと暴言を吐いたり、あるいは、新聞にスッパ抜かれたごとく「彼らは補償金目あての金もうけの亡者どもである。私も医者だが、彼らは全部たいしたことはない。他の病気を水俣病にひっかけているにせ患者である」といういい方をしたわけです。
 それに対して、患者は当然憤激し、県議会に行き、直接彼らにつめよりました。そのとき、むなぐらをつかんだとかの、こぜりあいをもって「暴行罪」とし、一九七五年一一月九日の未明、患者・支援者一人当り五、六〇人の大量の警官を動員して、一人の人をつかまえに来る。それはあきらかに見せしめを意図したもので、ものものしくサイレンを鳴らして、交通止めをし、なにも逆らいもしない、体のきかない患者さんを連れていくという、水俣市はじまって以来の大変な捕り物劇をやりました。



 こうして、チッソは表面に出ないで、警察がかわって出てくるという時期になって、水俣では、二つのことが現れてきました。
 一つは、やはり、もう水俣病問題については、世の中も冷えてきた、患者としても裁判で疲れはてた。身辺にも、いろんなことがあるし、あまりさわぎたくない。あるいは、私はもともと病人だから、少し静かにしたいという雰囲気がでてきました。一方で、ほぼ同じくして県の側でつくられている水俣病認定審査会というのが、それまで良心的な医師も中にはいて、患者を救済しようという雰囲気だったのが裁判判決後まもなくガラガラとくずれていきました。
 まるでシナリオのように物事は組み合わさって、患者を不幸にさせる一方、一部良心的な医学者をも不幸にさせるーこんなにも、よくまあ事件がタイミングよく起こるものだと思うのです。裁判は六八年の三月に終わっています。そして東京では、一生涯の補償を求めて、患者さんたちはチッソに坐り込みしていました。その年の五月には、水俣のあります不知火海でなく、隣の有明海の、しかも湾の入口で第三有明水俣病というのが発見されます。これは、今まで水俣だけだと思っていた行政の気持ちを動てんさせ、対策を失わせるほどの大きい出来事です。
 この事件が起きてから後の医学では、ひじょうな緘口令が敷かれました。私が『医学としての水俣病』という映画のため取材していた多くの医者も、私の目の前で言わなくなってきました。審査会のメンバーもすぐさま首のすげかえ、辞職という形で変わりましたし、熊本大学の医学部でも、個人で、水俣病あるいは第三有明水俣病についての個別の、自由な見解の発表を禁じる、と。大学の教授会の手を経なくては一切だめだ、というふうになりまして、翌年の全日本的な水俣病医学者による環境庁健康調査分科会の公式見解として激論のすえ、第三有明病はなかった、今の時点では、というただし書きつきで、黙殺されました。
 そのころから、医学はやる気を失っていく。そして積極的な認定作業もしない。一方患者さんの申請はどんどん増えている。そこでその患者をいかに切り捨てるか、という策謀が前面に出てきました。
 チッソはもう資力がなくなったという印象を陰に陽に世間にうえつけました。チッソが大体見当つけていた患者数の見込みは千名から千五百名である。それ以上出た場合には、いかなる”誠意”をつくしても、これは払いきれない。こうしたことをいいだした七三年春頃、認定患者数四百人前後、それが今日千七百人余です。そして今は大っぴらに、その金を県から出してくれ、といいだしました。それが県債といい、県の名儀ですが、実質は国庫から出ています。
 チッソの工場では水俣病の補償をかかえている限り、もはやこれ以上の労働者を養うわけには、企業としてもまいらない。人べらしや水俣からのチッソ撤退もありうる。あとの残る何千人かの申請者に対する救済を、もしおやりになりたければ、国にその覚悟がありますか、と居直ったのが、この県債事件の本質だと思います。チッソは県に下駄をあずげ、県は国に下駄をあずける。それが患者の苦痛を目の前にしてやりとりされている。このことは、水俣市民に大きなカゲをおとしました。



 実は水俣に行きますと、いつでも水俣市側の水俣病、つまり水俣病を汚染源の水俣市に焦点をあわせ見る、ということになってしまって、不知火海全体のこと、対岸や離島がどういうふうになっているか、被害者がどこまでいるのかがなかなかつかめませんでした。そこで天草の方の映画をうつしながら歩いてきました。
 そして、ひと夏、どんな小さな漁村ででも、映画の上映を続けようと決めまして、ビラを全部の家に入れ、ごめんください、今日映画をやります、今日映画をやります、といって、みなで手分けして沿岸を歩いてきました。
 そこで、一三三地点で映画会をやったのですが、その中で私が見た数多くの体に障害のある人たち、病める人たちが、水俣病の情報を全然伝えられないでいました。その不健康さについては、水銀にむすびつける知識はなく勝手におかしくなったんだろう、と思っている様子でした。不知火海一帯の人びとは、水俣病は文字通り水俣での話だということで、自分のことにはひきつけない。一方行政は水俣だけで終わらせたい不知火海一帯には拡げたくないということで、ほとんど医事行政の手だてをしておらない。それをこれからどうやっていくかの問題がまだ残っているわけです。
 私も、不知火海の水俣病の全体像をとく映画をつくらなければ、やはり片手落ちだと、今思っております。むつかしいことですが、なんとかして、行政に恥をかかすことをしないかぎり、何も動かない。水俣だけにとじこめよう。しかも、なおそれをしぼりあげていこうとする状態ですから。



 最近五年間、水俣病を調べてこられた学者たちの総括会議というものが、去年の暮ありまして、そこでおもしろい結論がでたことをお話したいと思います。
 不知火海総合学術調査団はこの五年間の調査活動のなかで、水俣がどうよみがえるかということを、あらゆる角度で探してきた。経済的に復活する余裕があるか、あるいは、失われた共同体が再生する何かの息吹きがあるか、また、何か新しい活力を生むものー産業とか、新たなコミューニティを築きうるだろうかと研究してきたけれども、なんにも答えがなかった。だが一つ、肝腎なことが見つかった。
 それは、水俣病の多くの闘いの中で患者さんが体得し、患者さんが体制や差別者にむけて投げ返すところのすさまじい理念的な新しい人間の成立-新しい哲学とは言いませんけれども、思想・考え方をもった患者さんの登場とその生き方というものが、みごとに水俣にあらわれた。そして、その周辺において、無農薬とか無公害とか、原発反対とかあらゆる反自然・反人間に対する闘争がすぐ組めるといった質の患者さんと支援の集団が、数少ないけれども形成できた。
 われわれが五年間調べてきて、何がよみがえるかというとき、人間がよみがえった、あるいはよみがっている。また、そういう角度から見直していくことをしなければならない。その意味で、われわれ調査団の五年間は高邁なる理念を追いもとめて、その結果、実に平凡な真理、つまり水俣のよみがえりとは水俣病患者の精神のよみがえりであったことに外ならない。ということがその報告書の結論となるのではないかと思います。



 水俣病事件はいまだ終わらないという主張のうちに、水俣病の日本化・全国化への警告があることを思わずにはいられません。
 あの昭和の十五年戦争ですら始めがあって、終わりがあり、ともかくも戦争はいけないという価値観をのこしました。水俣病は二五年間の戦争です。その間、日本国、行政、企業のあやまりは事実上ほぼあきらかになっているのに、まだ被害者の全貌、全体の数、範囲すらわからず、その責任者たる国、県が問われないまま、再び公害規制をゆるめる風潮にあります。こんなに恥ずべく、愚かなことを許してよいでしょうか。そんなことを考えるよすがに、私の映画のしごとが役立っていけばしあわせに思います。
 (映画監督)