こころじゅく講座 水俣と私 冊子 第67号 昭和56年10月15日 財団法人交通遺児育英会
水銀による病気は人類の歴史が始まった頃からある。
日本では仏像に金箔(きんぼく)を張るときに水銀が使われていて、中毒になった人もかなりいた。しかし、これは無機水銀であったために、早く処置をすれば直るものだった。今はしっかりした治療法もあり薬もある。
恐しいのは有機水銀である。揮発性と流状性があり、体内に入るとすぐ血液と結合し、体中をまわって細胞を腐食する。肝臓などは腐食されても再生するが、脳や神経の細胞は再生しない。どんどん減っていく。また、胎児は母親以上に脳細胞や臓器が侵されてしまうという。だが、人類はこの有機水銀に対して防御する術を何も持っていない。
このような恐ろしい毒物が科学工場でつくられ、無制限に海に流される。毒に汚染されたプランクトンを魚が食べ、その魚を猫、犬、豚、牛、そして人も食べ不治の病で倒れていく。これが水俣病である。十九世紀まではまったく知られなかった新しいタイプの病気である。
水銀はプラスチックの材料である酢酸アセトアルデヒドをつくるときの触媒として使われた。プラスチックの出現は確かに私たちの生活を豊かで便利なものにはしたが、それとひきかえに有機水銀という恐ろしい毒物をまき散らした。
もし原因がわかったとき、企業も行政もすぐに対処すれば、水俣病もそんなに恐しいものではないかったはずだ。しかし、チッソ水俣工場は利潤追求のため、事実をあくまで隠そうとした。ここに水俣病の持つ第二の問題がある。その経過をあげてみる。
1.昭和三十四年。水俣病の原因が工場の中でつくられた水銀らしいということが、工場内の病院長の実験でわかったが、工場ではそれを発表しなかった。
2.昭和三十八年。水俣病患者は百十一人と発表され、患者はそれですべてだと調査は打ちきられた。水俣病の発生は終わったという情報が流れ、水俣の人々は再び不知火海の魚を食べはじめた。ここで行政も動いて完全に害を防止する努力をすれば、悲劇は最小限にくい止めることができたはず。だが、現在認められている患者は千七百人、自分でおかしいと名乗り出ている人一万三百人。しかも、昭和四十六年生まれの子供にも害が及んでいるといわれている。
3.患者でもないのに補償金欲しさに名乗り出る人がいるだろうと、積極的に調査をしなかった。そればかりか、水俣病については情報を流さなかった。
4.水俣病の症状が非常に悲惨であるため、家族は患者を人目に触れさせようとしなかった。
チッソ水俣工場は昭和四十三年まで水銀を不知火海に流し続けた。この年は千葉県に水銀の工程を必要としない装置を備えた新工場ができた年である。そして、原因が廃液であることを認めた年でもある。
政府が水俣病を認めると、患者たちは裁判というかたちで立ち上がった。私が患者側から信頼されて本格的に映画を撮り始めたのが昭和四十五年。この年は水俣病について膨大な情報が世間に流れ、水俣病を知らない人はおそらくいないだろうと言える程だった。
各国で大きな反響
昭和四十五年は公害元年とも呼ばれる。水俣病だけではなく、イタイイタイ病、カネミ病、四日市ぜんそくなどがいっせいに問題になったのである。私はこの当時、「水俣病患者-その世界」という映画を制作し、日本中を上映して歩いていた。そのうち日本だけではすまなくなり、外国へも出かけることになる。
ある会議で「あなたの映画には医学がない。医者の証言が無いではないか。日本の医者たちはどのように闘っているのか」と問われた。私は「医者の証言が欲しかったが、もらえなかった」と、苦しい言い訳をせざるを得なかった。
医者が企業の側に立ったり、政府の政策に従って、地域の人々に情報を提供しないなどということは、西欧諸国の医者たちにはとても考えられないことなのだ。
想像を超える水俣の悲劇
一つの問題に取り組むとまた次の問題が出て来る。私が今でも水俣病と取り組んでいるのは、そういったどうにもならない連続性によるものだと考える。
水俣裁判が勝訴すると、支援者は次々去った。「水俣病はまだ終わっていない。これを世界に知らせなくては」と思い、「不知火海」という映画をつくることになる。水俣の患者は補償を受けても、不知火海沿岸の人々は忘れられていた。私は映画をもって、四か月かかり百四十四の集落を歩いた。ここにも忘れられた水俣病患者が確かにいた。水俣病患者は量的に私たちの想像をこえて広がっていたのである。
水俣には耳鼻科、眼科もあわせて医師会加盟の病院が五十一あるが、「水俣病」と診断書で書ける勇気ある医者は二人しかいないだろう。それは行政が医者に対してある種の意識調査をして、水俣病患者を出さないようにしているからである。それにもかかわらず、現在一万三百人の患者がいる。水俣病と取り組もうと全国から約三十人のボランティアが集まり、患者たちを訪問しているが、とても対応できない状況になっている。その敗北感は大きい。
若者の手で水俣に「塾」を
しかし今、水俣に「塾」を作ろうという若者たちの新しい動きがある。水俣の人々と共に生活し、水俣の現実を見つめることで生き方を学ぶ塾を。そして、水俣をただ、朽ちて死なすのではなく、そこから生まれてくる新しいもので水俣をよみがえらせようという青年運動を始めようとしている。
企業、行政も時の流れによって水俣病を自然消滅させ、遠い過去に葬りさろうとしている今、教科書からも「水俣病」という言葉を削りとろうとしている今、この若者たちの運動は意義深い。
水俣病と取りくんで二十年近くになるが、水俣をよみがえらせるためには、そして、同じ誤ちをくり返さないためには生きながらえることしかない。