『水俣・韓国・ベトナム』 桑原史成 『朝日ジャーナル』 8月13/20日号 朝日新聞社 <1982年(昭57)>
『水俣・韓国・ベトナム』 桑原史成 「朝日ジャーナル」 8月13/20日号 朝日新聞社

歴史的事実を継続的に追う
肺活量の大きな写真家の証言

(評者)土本 典昭

 昭和三九年の冬、水俣の初取材に当たって、数枚の新開切り抜き(『熊本日日』『朝日』)と石牟礼道子の一文(平凡社刊『日本残酷物語』所載)しかなかった私に、NTV・ノンフィクション劇場のスタッフが借りてきてくれたのが桑原のまだ刊行前のプレゼンテーション用のなまの写真アルバムだった。克明なアップにひきつけられた。彼の一九六〇年ごろの仕事である。字井純氏の『月刊合化』誌の連載「水俣病」は始まっていたが、知らなかった。
 当時運動は皆無だった。ただ、熊本短大の学生が水俣の胎児性患児の見舞金あつめの街頭募金をしているのみだった。そこからカメラを回しはじめたが、学生諸君の作った.ハネルに桑原の写真がすでに大きくつかわれていた。
 だが、そのどれにも眼張りがされていた。隠し事のようであった。桑原が最も表現したかったであろう目が黒のビニールテープでおおわれていた。それが当時の水俣病かくしの一断面とも思えた。私たちはあえて、ゆっくりとそれをはぐシーンを撮った。少女の黒いまつげ、瞳が甦った。その時、彼のフォーカスの鋭さと、直視の構図に圧倒されたものだ。
 農業大学に学びながらなぜ写真をえらび、いかに水俣に出合ったかの序章は初々しい記述で書きすすめられている。この青年をいかに患者の家族が招じ入れ、もてなしたか、一はりの蚊帳を、焼酎によいつぶれた桑原に釣って寝せ、自分たちはひと晩じゅう団扇で蚊を追っていたくだりは、水俣病に連れそうことをきめた若いカメラマンへの患者家族の優しき返礼として感動的である。それほどに他からの支えに飢えていたことの証言でもある。
 これは写真集ではない。しかし水俣をはじめ韓国、ベトナムについてのルポルタージュとしても、私には新発見の記述をいたるところに見た。現実を撮る、カメラで撮る。そのために、どれだけ足と時間をかけ、アンテナをはりめぐらすかを語っている。単身のカメラマンゆえの不安がある。ゆえに敏感な志向と資料の裏付けと判断力を要する。それでも撮り得ない時がある。「写真」と「写真」のはざまの目撃、見聞、思考の細部を、現代の証言として、さしあたり書きとめなければという、彼の気持ちが、生理的臨場感と現実性をもって語られている。それが水俣・韓国・ベトナムの報告としても独特の語り口になっているのだ。
 昭和三〇年代から四〇年代の諸事件の中で水俣・韓国・ベトナムの三テーマを継続的に数年、一〇年をかけ、それぞれのワンサイクルの終わりまで撮りつづけようとする桑原の姿勢にはスクープカメラマンの「ハイエナ」性はない。韓国で友人をつくり、CIA当局と倦むことなく取材交渉し、反韓国的ジャーナリストとマークされながら、いつのまにか韓国女性と結婚し、その生き方をこの国にきちんと正対させて、取材をつづけていく。
 ベトナムでも、解放の瞬間とベトナムの一農村の解放の受けとり方を見とどけたいと望むが、彼の計算より早くサイゴンと南半部の解放の日が早まる。そのワンサイクルのとれなかったことへの悲憤は深い。それは瞬間を切りとる写真家でありながら、そのときどき組み写真で語る方法をとるーさらに進めて、一テーマの歴史的流れの大組み写真を撮ろうとする本来の桑原の肺活量を物語るものであろう。
 何年もの「空白」が彼の水俣にはあった。かつて出会った胎児性患者に一〇年ぶりにあい、写真は名状しがたい旧知の情が画面に流れている。桑原の「原点返り」の高揚感だけでなく、同一テーマへの回帰を果たしつつあるといった人間的ドラマがあるのである。胎児性患者にとって、最初に立ちあらわれ、連れそってくれた「カメラを持った男」への原体験を回想しているような直視が、見る私を衝つ。継続性が生まれた瞬間のシャッターなのだ。
 ベトナムの解放区の章に重ねて、桑原の生地、島根県木部村に、戦後、共産党員村長による「赤い村」が誕生、三年後占領軍によって追放される一章は紙数不足だが、「ワンサイクルを見とどける」という彼の志向を知る上で示唆的な原光景である。未熟児のままの”コルホーズ体験”をべトナムに託したのであろう。一枚の写真をいかに撮るかのテクニックには一行も割かれていない。しかし報道写真家は同時にジャーナリストたらざるを得ないという記録者の目と心が伝わってくる。その点、とくに写真家志望の人たちの必読を期待してやまない。