作者よりあらすじにかえて 『原発切抜帖』上映用チラシ 10月 青林舎
この映画製作の動機に,ある若いアジア人のひとことがありました。「私の国で原発をつくる日がきたら、きっと日本がひきあいに出されるでしょう”原爆の怖ろしさをあれほど知っている日本でさえ、原発大国になっているではないか”」と。
昭和20年8月7日,広島のピカの第一報は3.5センチ角のベタ記事でした。「焼イ弾により若干の被害が出た模様」と国民の眼に原爆であることを隠したまま終戦に至りました。以後7年の占領期間、原爆被害報道はタブーであり,日映の原爆フイルムは没収されたのです。
昭和29年の第五福竜丸の死の灰による被爆は大事件でした。今回映画で当時の連日のニュースを追ってみると、福竜丸は広大な危険区域(立入禁止)の60キロ圏外の洋上で被災したことに気づきました。
アメリカ軍部の原子力・放射能障害の危険性の認識ぐあいはせいぜいその程度だったのではないかーとすれば、それをベースに計算された原子炉の安全性、放射能の安全基準は、その出発から誤算したままではないかとの疑いが生じました。
この映画は内外の原子力事故の追跡を当時の新聞報道の一行一行で試みたものです。
そして何より自ら怖ろしくなったのは,アメリカの米兵にせよ、南太平洋の島民にせよ20年、30年ののちに病み死んでいっている、その”時差”でした。ヒロシマ・ナガサキの体験をいつ、なぜ見失ったか、それは一篇のミステリーとも思えるのでした……。