私論・黒木和雄の映画世界 『アートシアター』 131号 2月25日 日本アート・シアター・ギルド
黒木和雄を知る私にとって、晦渋な男である。作品より、実生活の方がはるかに難解のように思われる。まだしも、彼の文字の方が、一節を表現するため、土くれを洗い落とした小石のように把えやすいが、それも、どこまで本当か分らない。まして言行は分らない。ただ映画だけが、彼が何者であるかと語ってくれる。彼は作品論なしには作家を語れない
希少な存在である。だが、あえて作家論的にいえば詩をもった変革をかたる説教者に似ている。新聞、雑誌、文学、演劇からゴシップにいたるまで、変革の詩、変革の教義にかえて、その一節から渾然と宇宙とそのイメージまで語る。また別に一節にふれると半日にして君子豹変して、まったく逆のことを言いだす。それが又真実の別の側面を射当てており、射当てた瞬間の感動とともに語るので奇妙に矛盾しないのだ、私は彼の総体に対して、矛盾の発生期と終息期の混然たるオーバーラップしつづける自己運動体としての彼を見る以外にない。そしてそれが彼の作品の原衝動であり、方法でさえあると思える。彼の実生活は破滅型で異常性格で時に言動不一致で支離滅裂でさえある。
だがその作品は処女作「海壁」(1958年)以来、混沌の中から辛うじて昇華し得たイメージだけが抽出され、ある哲学的な澄明さと、格闘し終えた闘志の浄福といたものが香う。そこに私は詩人を感じてきた。そしてその作品は一見難解な文法をもちながら実に単純化されており彼の実生活の晦渋に比べ、よくぞここまでの古典的ともいえる省略と雄渾に結実し、余分の装飾を一切排除し得たと感じる。それでいて、イメージは深部におけるものの衝撃と内なる葛藤を引き出し、人間のロマンの核を突き刺してくる。「とべない沈黙」はそうした作品系列をもつ彼のピークに思える。
はじめ「とべない沈黙」のシナリオを見たときその大食漢的なまでに、エピソード過多に驚いた。本来彼は、萩における男女、大阪の一夜の男女といった一節だけでも、ゆうに一本の長編をつくれる作家である。「あるマラソンランナーの記録」(1964年)でそれを見事に立証した直後でもあり、その力量はすでに充分であった。その彼が長編の処女作で、香港まで含む全国横断のストーリーと組んだとき、彼の固有の混沌が収拾不可能な膨張をとげるのではないかと恐れた。だが完成した作品をみたとき、その彼の内部でとげたであろう格闘の傷跡の息づき、しかも澄明な彼の哲学が一本の糸として、ともかく貫き通していることに息をのむ思いであった。ナガサキアゲハ蝶とそのブヨブヨの幼虫を通じて、現代の確度のたかい一点の物を探りに歩み出すという現代人の決意を毛虫の管足の足どりにみるようであった。ポキポキしたドラマとドラマの間にある観客への問いつめ、あらゆる物体へのセクシャルなまでの愛撫と解体、蝶を殺すという少年の行為が、あふれるばかりにいたわりの果てであることを全イメージで感じられた。見終えてのこる黒木和雄のやさしさは、生やさしいものではない。彼の作品に一貫してみられる人間存在のへの最終的な肯定――つまり否定のプロセスを経めぐったはての肯定そもいえる抜き差しならないものに裏打ちされており、全エピソードをそれによって緊張させている。
今までの映画の多くが、話好きの人が、微にいり細にわたってドラマテックに親切に、面白く見る人に語りかけているのに比べ、全くおもむきをことにしている。あたかも彷徨して傷だらけで帰京した男が、見る人、観客の一人一人に対して、親友のように心許し、隣席でうわごとのようにその旅をみた人間のすべてを、その恍惚を語り続けているようだ。聞くものにとって触発と生命にみちた言葉を自分のように切り取り感じ入る。今の私は何だ。今の時代は何だ。彼は何を見、何に傷ついたのだ。それにしてもこの生気は、何に触れたのだ。多くの感動が繁殖していく、そんな“親友”の立場で、観客に横から語りかけてくる作家を彼に見た。
わたしと黒木和雄は岩波映画の助監督時代からの知己であり、仲間である。昭和30年ごろであった。彼の映像を語る前にその頃のことに触れておきたい。
10年前、彼が映画に入った頃の映画状況は、特徴的には独立プロの衰弱と解体の時期であった。その全盛の時代に映画への夢がかきたてられ、その道を選んだ時は独立プロ映画運動への参加が出来なかったし、そして独立プロの精神そのものがシニカルに問いかえされていた時期に出遭っていた。岩波でも彼は正式採用者ではなく、長期の臨時雇助監督として、体制的にはアウトサイダーの列中で仕事を開始していた。丁度「佐久間ダム」を皮切りに、以後、教育映画界に大企業をスポンサーとするPR映画が最大未曾有の顧客として受け入れられ全盛期をむかえようとしていた。ピューリタン的「文化映画」の中に資本の総体へのイデオロギー的エッセンスであるPR映画がもちこまれたとき、全くそれに対する芸術上の方法論も作家の論理もなくこれをむかえた。当時、助監督として働いたわれわれは、多くのすぐれたドキュメンタリーの作家や、独立プロを背負った人々の健闘を見た。しかし更に多く、創作上の敗北と、ドキュメンタリーにおける転向そのものに立ち会わなければならなかった。多くの酒乱の日々が黒木にもあった。仕事をする仲間の内部の腐敗の開始を誰よりも一番はやく感じる助監督として、それを全身に感じていた。
PR映画は、まず企画でチェックされ、台本で規制され、とり上ったフィルムは更にコメントで枠をはめられ、資本の論理を語る道具になる。そのレールから逸脱、その思想を語る方法は、素朴なリアリズムでは不能に近かった。PR映画は自由であるべき作家にとって、一つの極限状況をもたらしていた。
やがて、それに気づいたわれわれには誰でも、この状況を肥え、これに耐えながら、観る人に作家の思想とその自由をつたえる創作方法論をもつことを迫られていた。黒木和雄は若いわれわれの中で、いち早く監督する才能をみとめられていただけに誰よりもさしせまって、その方法を模索する場に立たされた。しかし、黒木は一回も真の意味で被害者にならなかった。被害者として泣いても、その作家の作った作品は独自に上映され、ひとりあるきしてゆくという法則がある以上、免罪符はあり得ない。企業の一員という安全帽の下の被害者面ほど欺瞞はないと彼はいった。
幸いに大量生産されるPR映画の中で、若い作家に、ともかくも1本とれるチャンスがきたときに黒木は積極的に、証明する先頭に自分をたたせた。「海壁」につづく、「ルポルタージュ炎」(1960年)はその頃の彼の作品であった。彼は意識的に自然主義的リアリズムからの離脱をはかった。そしてフィルムの、カット毎に、二重のイメージをこめようとはかった。スポンサーの要求する画面の中で別の視点―作家のイメージを自由に描き、観る人に直接感じとられる独自の思想をこめた。だから現実的には一カットといえど厳密であった。どう寸断されても、映像が作家の断片でありうるような厳しさを要求した。しかもそれが、スポンサーにとっても、新鮮で圧倒的で、唖然とさせるような美と完全主義と精神の大きさを表現することを求めた。つまりイメージの中には作家固有の砦があり、それはスポンサーさえふみこみ得ない芸術独自の尊厳と自立を、そこにこめようとしたのだ。
横須賀火力のPR映画「ルポルタージュ炎」はまさにそういた作品だった。四巻もの最後の一巻はコメントの全くない自由は映画詩であった。その炎とつくり出した労働者の力と創造力と機能的な美をうたいあげた10分間のバラードは圧倒的な力感をもって建設記録を締めくくっていた。それはスポンサーや小心な製作者がともすればもつ、「作家の実験や独断、に対する警戒線を突破して個性のみちたすぐれた作品となった。当然、賞を得て市民権は得たものの、一年後、ことわりもなく、その数箇所がズタズタに改変されたが…。
その後の北海道電力PR映画「わが愛北海道」(1962年)では男と女の出会いの中で北海道を描いた。古いニシン御殿の中で男女の愛のシーンはPR映画にセックスを正面から描いた本邦初演となるべき作品であったが、そのシーンはカットされた。しかし、その全体をつらぬく愛のテーマは決して切り裂かれなかった。
彼のPR映画に対する戦闘的な方法は、対象をとわず貫通していた。しかもそれがイメージにもとづき、映画固有の美しさを武器としたが故に、誰もが手をつけられなかった。
それは蛮勇でも強引でもなかった。彼は美と芸術の使徒として弱々しく、ときに困惑のまま沈黙して、敵対者の中に反作用の出るまで待った。
だが彼は、錯乱的にみえながらチミツに現状況を分析し、突破できる壁の部分を探り求めた。そして現場ではスタッフに対するアジテーターであった。理論家的論理と労働者的労働とときに同調者をまきこむ製作運動の組織者であった。
一群のPR映画作家の中で、この与えられたギリギリの状況そのものを、作家の手ですすんでとらえなおし、イメージを私有化するという作業をへたとき、彼が客観的にドキュメンタリーの世界で果たした役割は顕然化し、一つの芸術運動を生み出すまでになった。
同時期、松本俊夫は理論的に作家のあり方を掘さくしていた。松本の理論を黒木ほど吸収し、戦友感を共有し、更に論理の再生産を迫った作家は少ない。
彼の編集はユニークをきわめる。全くあたらしい映像の文体をもっている。先ごろ夭折したすぐれたカメラマン清水一彦は、編集者としての彼の手にかかると、全く撮影意図が一変すると語った。だがその変わり方が、現場での対象との対話方法について討論の発展線上にあって、それが文句をいわせない。しかしカメラマンとしては大変なイヤな奴だと困惑していた。そのことは一つの黒木論であろう。
劇映画が厳密なコンテによって、1カット毎にナンバーがいれられ、そのナンバーによって編集者が1週間ほどでそれを順つなぎするという慣習とは決定的に無縁である。勿論ドキュメントから出発した羽仁進、勅使河原宏、ともにすぐれた編集者であり、その編集に再創造をかけることで知られている。彼も亦そうであるが、彼の場合、自らとったフィルムへの決別が見事なのだ。「あるつもり」から別れて、別の魅力を探ろうとする。
ラストカットが真ん中につかわれ、全然意図しなかったカットがラストになるのなどは通例である。彼の編集は、又、別の創作活動が白紙から始まった観がある。
フィルムの上に定着された、イメージそのものが語りかけてくる1カット毎の個性を取り出し、撮影中の約束からすべて放心して、ただひたすらその生命をとりだすまで、フィルムとの対話と批評がはじまる。だがこのことも、ドキュメンタリストにとって、さほどめづらしくはない。だが彼の場合趣が違うのだ。
編集中のある日、午前中は、AはAであるという論理でつないでいたものが、深夜にはAはAで果たしてあるか?というつなぎになり、翌日はAはAでないというつなぎになる。試行錯誤と錯乱のつみかさねのうちにフィルムの断片がバラバラにされ、乱れ散りつながれて外され、次々に否定されてゆく。形式的には完成された編集をもう一度解体したあと、彼の深部の重層した思想で再びイメージが組み立てられる。更にばらしていく。こうして、とぎれとぎれながら、全く新たなイメージがにじみ出すまで、全く振子のようにゆれうごきながら、撮影中、顕然化しきれなかった映像の新しいことばが見つかるまで、否定をかさねるのだ。ラッシュの中の彼のcutは使いようによって、たとえば四つ位の言語をもっている。それを四本トラックに並び替える作業であろう。そのことが彼の編集したものをいくつものイメージとして重合させ、分裂させる。
一緒に働いていたころ、彼は中間編集をよく私たちにみせて「意見をくれ」という。だがフィルムは満身つぎはぎだらけ、飛躍と矛盾にみち、一度みた位では追跡不可能の状態で、正直言ってさっぱりわからず、意見のだしようもないシロモノとなっている。だが完成したそれには、映像の立体的な彫刻をみるように渾然としており、原感覚ともいえるセクシャルな時間と論理の構造がなりたっているのだ。記録映画の仲間の一人、東陽一は、この「とべない沈黙」に協力したが、「日本の映画では、はじめて、キュービズムの作家が出てきたような気がする」と評した。
黒木にとって撮影現場での事実は、撮影の素材にすぎず、そこでつくられた1カット毎のイメージは、彼の観念の表出するための粘土にすぎず、彼の創作行為は、更にその休みない彫刻行為の軌跡そのものとしての作品になったにすぎないだろう。
初期示したアラン・レネへの傾斜、そしてゴダールへの「嫉妬にみちた」敬愛、それらをへて、彼は独自にドキュメンタリーともフィクションとも分類不能な地点をすげにまさぐっている。
カメラマン鈴木達夫がこの「とべない沈黙」で示したカメラワークは彼の映像への要求にみごとに答えきっている。そしてあらゆるパートが両面的に感じられる。最終的に作家はひとりしか残らないという映画とは決定的に違っている。その是非は別として、それが感じられることが黒木作品の完全主義を逆に立証しているのではないか、そのスタッフを含めて、この映画に至るまであった。われわれはささやかな運動にふれないわけにいかない。
この3年間、岩波映画他の企業から、多くの監督、助監督、カメラマン、カメラ助手、録音、編集者を含む30名前後の若手が次々とフリーになった。結束してやめたのではなく未来の映像を語っているうちに必然的にそうして現象が生まれた。もし社に止れば有利に監督のチャンスをつかまえられた新人まで、あえて自由化した。そのグループは「青の会」という研究会に結集し、のちに「映像芸術の会」に発展的に入った。この間の研究活動は、規模も小さく体もなさず、多分居酒屋的であり、酒乱的であったが、たえず自分の作品のことを話し合い、自作の中の作家を問い、現代における告発力をもった映像を問い詰めあった。エコード・パリーにおける洗濯船の共同生活、ヌーベルバーグを生んだカイユ・ド・シネマの親交ある生活のグループ、それらにインターナショナルな親近感を覚えつつ。ただ映画のことを語った。
そしてこの映画スタッフのほぼ全員はこのグループから参加した。誰一人長編劇映画の経験なく、それを誰一人奇異としなかった。
そのグループの制作活動の中から、ある青春の匂いがありはしないか、北海道原野で蝶を追うシーンのたくいないリリシズムの側線に、一行のト書き「蝶をおいもとめる」というひとことに数千尺を費やして切ったスタッフたち、その無人の原野での行為を思い受かべる。草に白樺に蝶に、そして捕獲網におどろくべき豊富な視線と感性をこめた、映像に対する使途たちを見る。そしてそこにバイタルな完全主義と、青春そのものの息遣いを見る。そしてそれが私にも映画の未来を感じさせる。そして勇気を。
映像そのものが、映画における一つの運動の宣言書となっているそんな映画がまた、ここに生まれた。その意味で、まさに戦闘的なフィルムとなっているといえないだろうか。