講座ドキュメンタリー映画の方法と展開 新日本文学会館にて 1984年7月14日 講座
『原発切抜帖』について
広汎な労働者の中には、電力会社や原発産業にたずさわっている人もいるし、核には反対だが原発ということをからめると統一が困難だという意見がありました。
しかし、反核のたかまりの中で原発ということを考えなければいけないと考える人がわりとおられました。
例えば、浦和の市会議員で小沢遼子さんなんかは市会議員として反核、反原発ということで、浦和市議会として決議すべきだと提案したのですが、原子力の平和利用を促進することと反核ということを切り離して考えなければいけないということが大変強い自民党側の意見としてありまして、自民党は反核運動の盛り上がりによって、反原発運動がついでに澎湃としてわきあがってくることに我々の想像以上の危機感がありまして、党として反原発運動はなんとしてもつぶすということがありまして、文章にも書いてあります。
そういう中でどうしても反核と反原発をむすびつけたい、出来れば「にんげんをかえせ」と、同時並行で、こういった作品を見てもらえないかという動機でつくったわけです。
もう一つの動機としては
映画としてつくる人のいたずら心がありまして、絶対に映画にならないものが映画になるかならないかというところがありまして、「切抜き」をかなり前からランダムにやってまして、その中で2つだけ鮮明に頭に残っている記事がありました。
それは中学生の時に見た広島の原爆投下の記事でした。それははっきりおぼえています。
小さい記事で、「焼夷弾」になっていて、たいしてこわくないというイメージでした。
それからもう一つは、ビキニの被爆の時の図ですけど、絶対に入っていけない危険区域の外なんです被爆地点が、その時に思ったのは、たくさんの実験しているアメリカ人やたくさん現地人はどうなっているのかということでした。
圏外にいる人で死の灰をかぶっただけで、船員が23名、被爆し久保山さんは亡くなったと。広島、長崎の原爆問題が叫ばれて、2度とこういう問題がこないと思ったら、核実験で行われたということは、この2つがありましてこのこと切抜きをやっていかなかったのですが、この記事をさがしてみようということで、12000枚の記事を、戦後の反核と反原子力についての流れの新聞記事を10人ぐらいの若い人といっしょに手分けして調べました。
実際に新聞のコピー、2千何百枚を集め、それを見ていくと一瞬にして戦後が新聞だけでぴっと、「ホップ、ステップ、ジャンプ」じゃないけど、巻き取られてとくに自分の記憶のある一度は見たことのある、特別に努力したわけじゃなく家に配達された記事にこれだけのことがあったのかとあらためて思いました。
そして金がなかったもんですから、いろいろなことをやり新聞だと金をくわないと思ったんですが、朝日新聞社に使うといったら、50万円だせといわれた。一点5000円で100件50万円です。しかし、ねぎって5万円にしました。
そしてコピーはクリヤーにしましてつくりました。
これを作ったときは知らなかったけれど、アメリカに『アトミックカフェ』というのがあって、これは政府の原子力問題、核問題のPRをつなげたものです。
新聞記事だけで映画にするためのいろいろな工夫を充分に出来ているとは思いませんが、小沢昭一にラジオ番組の「小沢昭一的こころ」が大好きだったので頼んだのです。
「声だけだけど、どうだ」といったら、「映画にならない記事だけで映画をつくるのは、これはブレヒトだな」とかなんとかいって小沢さんが乗ってくれて、ナレーションをいれてくれました。ところどころ彼の言葉がはいっていないところがありますが、それは記事で読んでもらったほうがよいと思いました。
これをテキストにして観ていただきながら、『原発』『原爆問題』を考えたその想いがすぎないうちに、日本が被爆国でありながら、どんなふうになっているかということを、そのことを知っているはずだった新聞だけでみてもらえたらという思いがありました。いわばこれは完全なテキスト映画です。
作品ではありません。新聞の中で、われわれの思索の旅というか、発見の旅という意味でつくったものです。45分くらいです
<『原発切抜帖』上映>
今日は皮肉な映画会で、ドキュメンタリー映画作家としてよちよち歩きをしたいた時期の「ある機関助士」と「水俣病」などいろいろなことをやった後で、とにかく当面はこんなことでも発言が出来るかというつもりでつくった『原発切抜帖』の二本の観ていただきました。この後には「「海盗りー下北半島浜関根」という映画しかつくっておりません。
普通は「水俣の土本」とかなんか言われておりますが、それをポンと飛ばした紹介で、ある意味では選択としてはおもしろいと思います。
というのは「ある機関助士」は、僕は岩波映画にわりと仕事をさせていただいているのですが、PR映画しかとる事が出来ませんでした。例外は羽仁進さんで『絵をかく子供』とかきわめて自由な映画作りが出来ていましたけれども、ちょうど高度経済成長でして、大半は造船所の映画とか水力ダムの建設の映画とか、『佐久間ダム』は有名ですけど、製鉄所の映画とか作っておりました。私は「製鉄の土本」とかいわれていたぐらい製鉄所にくわしくなっていました。
しかし、PR映画しかとれない。それを不満に思っていた人たちの研究会がありました。これは曰く言いがたい研究会で、いずれ文章に残そうと思っておりますが、現在、映画界ではなんらかの仕事をしている人がまだ無名のころこの会におりました。
記録映画では小川紳介、劇映画に移っていきましたが非常なシリアスな問題にあえてぶつかっている黒木和雄とか東陽一。カメラマンは『海つばめのジョー』の鈴木達夫、録音の久保田幸雄、編集の人もはいって三年間くらいすったもんだ、すったもんだ勉強会をやったわけなんですけれど。
その勉強の主旨というのは、自分たちはこんな映画を作ってくさっているような人間じゃない。我々は志を持って、なんかやろうということで、仲間の作った映画を徹底分析する。徹底分析といっても批判や悪口はあって当たり前ですが、限られた条件でやっていますから、みんな条件とか制約とかわかっていますから、その情況の中で彼らが優れた映像とか、インパクトのあるモンタージュをやったか、一番は撮影現場をどんなふうに組み立ててみんな撮ってきたのかということでした。
こんな驚くべきショットは、今でいえばそうではないですけれども、どういう破格の常識をこえた考え方で撮ったか。あるいはどういう映画潮流をまねて試みたのか。あらゆることを裸にしてやる研究会がありまして、それを「青の会」といったのですが、会社の中でそういう事をやると疎まれますので、新宿ののみ屋を2つぐらいつぶしたのではないでしょうか。
この時期の映画が僕の第一作としてあったわけです。
もともと僕は映画の外様を歩いてきたものですから、監督になる条件はなかなかあたえてもらえないわけですけれども、『ある機関助士』は、たまたまシナリオが私のものだったものですから、撮るのはお前やれということで、撮らせてもらいました。
この映画ではある意味で亀井文夫さんの映画とかなり似た屈折があったわけです。
というのは亀井さんも反戦という映画はつくれない、戦争反対ということを正々堂々という映画はつくれない。
だから、ある意味ではその中にどれだけの映像のメッセージをこめるかだから、亀井さんも「戦ふ兵隊」では簡潔な字幕にして、一番うけとってもらいたいものは絵の中にかくしておられるわけです。
僕の映画も何時何分にどこを出て何時何分にいくつの信号を見たと、定時になってどうしたとか、データしかしゃべらずに、あとは彼が機関士になりたかったという心情のことがサービスとしてあるんですけど、一切ナレーションによる伝達をしていません。
その時期は、三河島事故があり、映画の完成時には鶴見の大事故があった。
何百人と死んでおり、それがすべて国鉄の労働者が弛緩してるとか安全管理をやぶっているとかそういう形で逮捕されている。
そいうことに拮抗するにはどのように作ったらよいかという事が一番の命題であった。
しかし、三河島事故では労働者には罪はないといいたいわけですが、それを言ったら作れないわけです。
自主映画なんてものは絶対に可能性がなかったものですから、PR映画でどれだけのことを自分でいえるかという事を、その策略のかぎりを尽したと私は思っているんですけれど、そういった映画です。
ただ一つ良かったと思ったのは、自由に機関車を借りることができた。その意味でスペタクルは確保できました。
その中で撮って行く、機関士と機関助士は僕の意図をよく知っていて、僕は「いつも運転している通りの運転すれば良いんだよ」ということしかないわけなんです。
なぜ「3分遅れ」にしたかというと「5分遅れ」だったら取り返さなければいけない。そのとりかえす焦りのなかで事故がおきている
では「3分遅れ」という設定にした場合はどうするかというと、機関士ですから その駅までに回復するためにはどこをどのようにブットばさなければならないか、登り坂がありカーブもあり、しかも多少のひびわれがあり水が漏れているというスティエーションがあるわけで、まあこのくらい事は普通なのです。
けれど、そういった中でどれだけのことをやるかというスチュエーションの中だけでつくったわけです
そのとおりやってもらうとあのように追い込まれた情況になる。
だから彼らの絶対に嘘を言っていないわけです。オーバーにやっているわけではない。
要するに日常ある事の条件を完全にクリヤーするためには、あれだけ過密な労働しなければならない。
それが一時間半であれ、人間の限度一杯の労働であるというものをだしている。
だからそこところは国鉄当局としても全然怒れないわけですね
自分のためた範囲のスチュエーションで、なんら国鉄が困るスチュエーションではないわけですから、機関助士があれだけの情況に追い込まれているというもの見慣れているし、いつも管理して尻をたたいていることですから、彼らはそうとがめる事にならない。
要するに内の人間にはおかしくないことが、外の人間の私には実に異常にみえる、それで事故がおきないのは非常に集中力の強い労働者によってささえられている。
非常に高揚した人間的な感情によってささえられている、そのことをなんとかして見せたいと思いました。国鉄は僕の意図を全部みぬけませんでした。
蒸気機関車がなくなる時期でありましたので、ノスタルジアを感じておりましたし、身をすりへらしている機関士に対する尊敬がありましたから、当局も撮り上がるまでPR映画にはめずらしく文句が出なかった。
しかし撮り終わった最後に2カットだけはずせといわれました。
一つは機関助士が先輩の怖い話を聞いているうちについ深い爪してしまったという足の爪のカットなんです。風呂からあがったブヨブヨの爪であんな話を聞いていると、深爪をするだとうという、多少その僕は金属と肉体の相克というふうに機関士労働をとらえていましたので、ハサミの金属と柔らかな爪の角質がどんなふうに深爪になるかという、とるにたりないアイデアなんですけれどもそういうのをアップにしてみようと思いました。
もうワンカットは残りました。
機関車の前を女の子が通り過ぎるカットでした。
バカがいまして、機関士がそんなものを見るはずはないと、しかし僕はやっぱり若い青年だったら、女の色を見るだろうと思ったので、かんばって残したのですが、とうとう爪のカットだけは審査にあたった著名な映画監督が「この映画を外国へもっていった場合は国辱映画になる」と、「外国人は女の足のゆびというのはセックスとおなじだ。そんなものをチョンきるアップを出すというのはけしからん」というので、それはどうしてもだめで、髪の毛をとくという部分にさしかえたわけなんですけれども。
闘争のために2ヶ月ストライキをやりまして姿をくらまして仕上げをしなかったものですから、1カットを差し替えることを僕がのんだのですっかり当局は安心して、外は注意するヒマがなかったということがあるんですけれども。
映画ができて見ると、ちっとも国鉄の安全映画になっていない。
これで安全だというふうに主張するのは国鉄としてどうかしているというので、映画としてはどうかしらないけれども、PR映画としては惨憺たる作品であるというのがキャンペーンででましたが、あの映画が年末にできたものですから、いろいろは映画祭にかまわず出品したら賞を10いくつとったので、国鉄の方も非常に困りましてそんなに良いならよいじゃないかといことで残ったフィルムなんです。
しかしながらさっき僕が一言解説しないような形で、この映画を僕がもう一度観る時に言えていないんです。
やっぱりこの時の時代背景がないんです
だからある時に、この映画は外国でも知られていまして、ジョルジュサルルという人に見せたときにその説明抜きにしたら、なぜこれだけ安全にこだわった映画になっているかというのが病的なくらだという批評をうけたんですね。
僕は病的でもなんでもない。日本に於いて大事故が続発した時期に労働者がどれだけ咎められているかという事を思ってつくったわけですから。でも知らない人が見たら病的なまでに安全の問題を労働者が考えているという映画で、いわば権力のしかけが充分に見えてこない。僕の想像ではうかんでこないわけですね、見た人に。
それは大きい意味ではあれは時代の産物であって、15年たって見せたんですけど。
前提がない場合はやはり映画として、読み取るものは一つ欠けるという意味では、本当に自主であったら、自分でつくる映画であったら、はっきりとスチュエーションをのべられていたであろうというくやしさと同時に、もしそういった制限がなかったらあそこまで一所懸命にとっただろうか。つまり国鉄映画でなければ、言葉やなにかに移し変えてもっと安易につくったかもしれない、その事は思いました。
というのは、映画はつくる人間の自由の問題と創作の問題はかならずしも比例しないというように思うんです。
こういった映像でなければ絶対に発言できないという手足もしばられた状態の中で、パントマイムをやってのけたという気がするわけです。
しかし、パントマイムはパントマイムであって状況が変わった中では受け取れないそういったことが本にはありますけれど、野田真吉さんが書いた『日本ドキュメンタリー映画史』という非常に優れた本がありますけれども、その中の『亀井文夫論』に展開されていることなんです。
亀井さんが戦争中あれだけの手を封じられた状況の中に釈迦力になって作った。
あの人は厭戦映画だというけれど、やはり厭戦をこえてやはり戦争にまきこまれない作家の目があって、それが結果としてドキュメンタリーは反戦をうったえていると言う事を思うんですけれども。
ところが時代が変わってなんでもしゃべるという時代になってゆくと、亀井さんは映像について本当にかつてのような刺激的なまでに策のある悪智恵のかたまりのようなああいった映画のテクニックを自分でとらえかえされただろうかと言うことがですね。
同じ問題として述べてましたけど、それは僕に対する批評でもあり批判でもあるとうけとっているわけです。
そういった意味では『ある機関助士』は岩波の「青の会」の中ではある種のこころみとしてみんなと討論しました。
2ヶ月くらい蒸発している間にみんなと討論したんですが、いろいろ討論を重ねた意味で、小川紳介君、黒木和雄君、東君その他もろもろの30人ちかい映画青年たちの智恵を僕はいただいたし、彼等もあの映画で自分の映画をつくったように悪戦苦闘したと思います。
僕にとっては映画をつくり始めてからこれからもっと映画をつくれるかと思ったんですけど、世の中的には、企業で映画をつくる事は2度目はありませんでした。
2度目はありました。『ドキュメント 路上』(1964年)という映画で土本は機関車とか、動くトラフィックに強いから交通事故の映画をつくれというので、タクシードライバーというか、安全の映画をつくれというので、これはPR映画ではなかったのですけど出来上がったら警察に買ってらおうということで作ったんですけど、出来上がったらわけのわかない映画で警察は一本も買いませんでした。1作から2作の間に売れっ子から一番売れない作家になったわけです。
それでなにか良いことはないだろうかと思っていたんですけど、映画界の中で生きる道がなくなりまして、テレビをやろうと思った。
その当時、テレビドキュメンタリーに非常に可能性を感じました。
テレビのドキュメンタリーをやった人たちの平均年齢が僕たちと同じでしたから、学生運動に参加し、安保なんかにも出かけたような人で番組を持つと、やはり時代の子としてテレビを押し出してゆこうという人たちと僕たちは昭和三十代後半にともに生きたものですから、その人たちと番組とつくろうと、映画でできなかったらテレビでやろうと非常に希望をもちまして、僕は各局のテレビドキュメンタリーにかかわりましたが、一番熱烈にかかわったのは日本テレビの若いドキュメンタリーを作る諸君でした。
その中で『ノンフェクション劇場』とか初期の『すばらしい世界旅行』とかやったんですけど、その中でテレビではこういう事が出来ないんだという事をはっきり思い知らされまして、それは毎日しゃべりたくはないんですけれども、国際的な波及効果のある問題、日韓とか僕の場合はアジア留学生の問題でしたが、あと原爆問題、日本の差別、受験制度批判の問題がむずかしくなっていきました。そういった中で僕の映画がクランクイン前日にだめになるということがありました。
それから3年して『ベトナム海兵大隊記』が三分作で登場するところを、一部作になま首を出したというので2部3部が駄目になりました。
それから以後、日韓の企画が作る前からどんどんつぶされてゆくというふうになって、もはやテレビにわが道はないNOWAYだということがわかったのが40年代でした。
そのころ中国では文化大革命がおこり学生運動の中では全共闘運動が若々しく登場してくるわけなんですけれど、そういったものが私たちにプラスに働きました。
そういう中で我々は映画をつくってゆこう。観る人は我々の仲間であり、市民であり学生であり、そういった人たちと切りむすぶようは、その人たち観てもらえるような映画を作ろうということで、小川紳介は学生運動の映画を撮ってから三里塚にはいる。
私はキューバに行ったり、ソビエトに行ったりして、作品をつくったりつくらなかったりしている間に、『パルチザン前史』といわれる京大全共闘の映画をつくったのを最後に水俣に入るのです。
外国にいくと、よく金が続いたなといわれるのですけれど、外国でも若い人たちが映画をつくるのはたいへんな冒険なわけですけれども、それこそ劇映画で、アメリカ映画、メジャーな映画を作ったもので、若い人は夢見るわけですけれど、日本でみるようなアメリカ映画というのはアメリカでも非常にまれな登場の仕方をするのと、興行資本と作家たちのたいへんな闘いの中で限られたエリートの作家たち、若々しい少数の作家たちがでるのであって、映画を作りたいからといって第一作が出来るという機会にめぐまれるのは100人のうち7から8人だと思うんです。
その人たちが思っているのは映画を作る上の金作りときびしさにあるわけです。
そういった中でつくらなかった、というのはアメリカでもヨーロッパでも金がある国ではないかといいますけれども、僕もヨーロッパの国は金のあると思っていましたが、たいへんな間違いであんな貧乏な国はありません。文化的に金のない国です。
アメリカ商業主義が発達しすぎてそれがすぐとりこんでいきますから、自主映画をつくるよりも三大ネットワークのテレビなんかでまだ作れるから、自主映画はあまり作らなくてよい。
アメリカでもコロンビア大学の学園封鎖の映画とか、人種差別の映画(ブラックパンサ)とかニューズリール運動の映画とかできましたけれども、僕がみるところ我々の映画とはくらべものにならないくらい金もかけてないし、思いは別として、作品的にも、それほど練り上げたものではありません。なぜ日本が出来たかといいますと、我々の映画をささえるだけの大きい矛盾が世の中にあったからだと思うんです。
一方では大変な繁栄に向かっている一方にはものすごい矛盾がある。ものすごい矛盾が解決されないまま、万博に突っ込んでいく、それでいて不思議に金はどこかにすこしづつゆとりを持ってきた。映画をつくる人間には金はなくとも映画を作ることにおいてなんらかの合法非合法とわず、僕なんか大分非合法に近いことをやっているんだけれど、むちゃくちゃな形にせよ金のある国であったということ。そしてそれがさしせまった矛盾を持っていた。「水俣」しかり「学園闘争」しかり、「三里塚問題」しかり、それを観たいという人がいた。これがわれわれを育てたと思うのです。
ヨーロッパのことを言いましたので例としていいますとね
『くみこ』という十年くらい前の映画で『ベトナムを遠くはなれて』の総監督で知られてクリスマルケルという人がいます。
彼はフランスでも非常に人望のあつい人です。ゴダールの大先輩であり、ジュルジュサルーなんかも一目も二目もおくというすぐれた思想的な監督ですが、その彼が僕たちの映画がどうしてこんな規模で出来るかわからないというのです。
「ではあなたはどうしてますか」と尋ねると、だから苦労している、自分たちの作れる金は100万いかない。どのくらいフィルムを使えるかといったらほんのわずかだ。一週間で撮って編集には時間をかける。何人に見せるかときくと、何千人だからそれでは喰えない。
そんなもので喰おうと思わないで、まずフランス語のわかるベルギーとか、スイス領のフランス語圏のテレビでやる
そうすると外国映画の扱いになるので、フランスのテレビはお義理で買ってくれる。フランスのテレビには仲間がいるので俺の言い値で買ってくれる。そういったことでやっとつながる。すると映画にかける日数から言っても、作った金や映画をみせることから言っても日本は十倍だと思います。
フランス映画という劇場映画を想像するけれど、フランスにもいっぱいの社会的な問題を撮りたい人撮っている人がいるわけです。
又そういう運動もあるけれど、日本にくらべたら非常に苦しい状態でやっている。
その事情はインデペンデントな映画であればヨーロッパイギリスも商業的映画でない限りはどこも同じです。
商業的映画になると、あれだけを言葉の違いに苦しんでいる国民ですから英語にしてもすぐフランス語に翻訳する。フランス語にしてもすぐ英語に翻訳する。アメリカに輸出するという、世界市場に豊かさがありますから、われわれの知り得る劇映画、話題映画は日本で作るよりも10倍も金をかけた映画が出来るわけです。
だけどインデペンデントなものは、日本がヨーロッパにまけないでつくれたというのは非常に面白いと思います。
話があっちこっちしますが、第三世界の黒人青年とか第三世界の無名な人とあいますと、一番勉強したいのは日本のドキュメンタリーがどうやってつくっているか。金の面ではもう日本はあっても、自分のところにはないということはありますけれども、どういう機材でどういう編集で、ダビング場を融通し合って、どういう仲間意識で、最低コストでつくるかは、なかなか他の国には学べないわけです。
第三世界の人が勉強にいくのは自分たちを支配していた国へ、親玉の国へいきますね。イギリスに支配された国はロンドンに行くというように、それから圧倒的な第三世界がモスクワに行くのです。インドネシアの学生や中国やベトナムも行きました
その時教えるのはその国の最良のシステムで教えますから、自分の国へ帰っても同じ機材がない。
そういったことで、たまたま僕が知り合った第三世界の人たちは小川とか僕たちの薄汚い映画の仕事場に来て映画の作り方をおそわって、僕らが使っている安っぽい機材を改造すればつかえます。そういうものを持って帰ってドキュメンタリーを始める。そいうような動きがありました。
なぜ、そこら辺まで話が行ったかといいますと、日本のドキュメンタリーというものがテレビというもののものすごい発達に、僕も目をうばわれましたけれども、テレビのゆきつくところ、その勢力が巨大になればなるほどやはり本当の情報がコントロールされてゆく。
その中で本当にのぞむものがテレビというものが、影響が強ければ強いほど一番しめつけが多い。
それが日常な皮膚感覚になって、かつてドキュメンタリーにあった若さを失ってゆく。
そういったものとまるっきり拮抗しながら現在まで日本の記録映画はつづいている。
これは依然として日本に矛盾があり、日本にはオーデオの国、カメラの国というか、だれでも映画をつくったらなんとかなる。みんな編集感覚はすごく発達していますね。
CMなんかみて僕なんかよりうまい人はいっぱいいますよ。そういった若い人がはじめて作ってもおどろくべき映像教育が日常的にされているという意味で、そういった若い人が輩出して越してきますし、つながっているし、そういった意味ではまだ我々は続けられると思っているわけです。
その一例として水俣なんかつくっていますが、水俣はよいしょっていうくらい金を使わなければできないのですけれど、『原発切抜帖』はとにかく新聞記事を読んで、読むには金がかかりませんので、よく考えて、こんなものが出来やしないかということで、驚くべき安さでできた。50本くらい売れていますので、これについてはペイしたという報告がされている。そういった試みを若い人にうけるついでいってもらいたい。まだやれるという感じがするのです。
でもこの前、アメリカに映画大学の先生に映画を見せたときに、「君の次の世代の人に、すぐれた独立した記録映画作家はいるか」といった時に考えたんですけれども、30代がいないのです。40代の人がいない。
40代の人は優秀な人はほとんどテレビ行って、テレビで良い仕事をしていたし、時々でもする人はその世代です。
今、30代の人が、テレビが本当にメデイアではないと思って記録映画を勉強してきたから、ちょうどその人たちが20代の後半くらいからやってきた作業で、今映画を撮っている。
山谷君は8ミリだけで映画を撮っているし、青林舎の周辺にも『水俣の甘夏』の小池征人、『新せっけん物語』(若月治)とかがいるし、グループ現代にも日本のオリジナルな姿を残したり、教育映画をつくったりする人がいます。みんな30代です。
そういったように一つの層が十年単位で、巨大な日本のテレビのメデイアと細々たる日本のドキュメンタリーの流れをとギクシャク交替している20代がいなくなったのが現在です。20代に人がおもしろがるのはCMです。
言っちゃまずいけれども、CMとかイラストとか劇画とかアニメーションです
記録映画にともなうところの作業を全共闘以後おそわった教育世代の中ではつかんでいないわけです。
全共闘がよい運動だと思うのは、いくらやぶれても全共闘世代の青年たちは自分で自分のコミュニケーションを発見していったと思うのです。
ところわれわれ大人の責任ですけど、現在20歳になってこれから映像を選択しようとする人たちに、僕らの映画は全然学校で見せられたことがないわけです。
見に行くというのは、それより勉強してなければならないわけだし、あるのはテレビだけ、時々あるのは実験映画とかニューミュージックのようなサイケデリックな映像について興味とか映像に対する洗練度はどんどん増しましたけれども、一つの社会の証言者になるとか記録してゆくとかそういう人たちはそういう教育はうけてこなかった。
だから映画を僕たちといっしょにやりますと、ものすごく興味を持ってこういう世界があるがという意味で興味を持ってくれてる。
これから30代の人が作家たちが20代の若々しい力とむすんで映画をやっていくならばはやり40代が陥没したように20代後半がインデペンデンスフィルムで陥没しているわけですが、そういうのをつなげてもう一辺日本のドキュメンタリー映画の流れを作ってくれるのではないかと思っているわけです。
えらそうな事になってしまってまずいですけれど、大きな流れだけはどっかでつかんでいってほしいと思うものですから、もう9時ですから質問の時間にしたいと思いますが、こういう機会でありますので「海盗りー下北半島浜関根」という映画をつくりながら非常に考えたことは、情報がたくさんあり、情報をおやつのようにくいちぎっていかないと落ち着かないし仲間はずれになりそうだというあせりがある。たくさんあってハングリーになっている。たくさんありながら、情報に対する解読力がやはり弱いそれは我々の問題ですが情報の与えれ方が困ったことになってきている
例えば関根でたいへんな大衆動員がありました。
2年ほど前、労働組合もあり、漁民も生まれて初めてハチマキまいて、生まれ始めて「デモをやってがんばろう」という言葉を初めてしやべったというたいへんな高揚した日があります。
それは故中川一郎がこの村をいただくということを決めておいて、初めて行って「よろしく頼む」といった時に、なに言ってんだと、大闘争を組んだわけですが、その大闘争は一日か2日ですが、地方の新聞はほとんど全紙使った報道しました。
新聞の一面、社会面の下北半島版に一生懸命、読み物のように書いてある、かなり真実がひろえている。それが地方にある新聞全紙と「朝日」「読売」4大紙の地方版には書いてあるってたいへん物事はシャープに分析している。地方紙はそういうことを見本として、よく書いている、地元の問題をところが本になるくらい書いた。
ところが、当日の朝日新聞見ますと「中川長官、現地視察、説得にあたる」というベタ記事です。あといくらみても特集で書く以外は、その時のドキュメントはありません、東京で報道しない。その傾向が強まっています。
つまり知らなければならぬ情報は地元の当事者にはうんと与えられています。中央にはこない。地元の人は中央にも同じように与えられている錯覚する。テレビも同じです。
よほどのインテリでもないかぎり、これが東京の新聞には出ないという判断はつかないと思います。
このようにとりあげた情報は全国につたわっていると思うと、それは全国的にいって数行のワンカットの記事になってしまっている。そこに含まれる一番大事なものが出してないわけじゃない。しかし、ベタ記事、一行とか9時のニュースだけでやったとか、そういう意味で葬られている。
我々の生活で知らなければならない問題がかくされていっている。発表しながら隠している。二重構造になっている。それをなくしていくにはどうするかというと飛脚しかない
なにかを見てきた奴がしゃべるとか、映画を撮るとか。ルポを書くとか、それをガリ版でも良いですから、ガリ版でいいかげんなものもありますが、ガリ版で知らせてくる原発地点の情報とか、いろんな自然食とか、そういうもの中に非常に大切な記録性の高いものがあります。又、そういうふうにしていかないとどうしょうもないだろう。
そういうものが、テレビが発達してゆく中で、ほとんど完成段階にきているという事を思うわけです。
ですから、本当に知らせるならテレビが良いと何べんもいわれるんですよ。
お前がつくたって何人がみるか、全国で10万もみないだろう。
テレビなら1パーセントで30万みる、なんでテレビで働かないのかといわれるんです。
その時に、僕がなんでこれを作っていますかと逆に問い返したんですけど、そこはやはりこれから我々が物をかくとか、まとめるとか、見せてゆくとか、受けるとか、送るときに絶対に共通に知っておかなければならないことだと思います。
そういった意味で、僕は応援されていると信じていますし、その流れは不幸ながら形で映画を送ってゆくこと以外にない時代に入っておると、それでなかったら存在していない。そういったことをはっきり確認した上で、こういう講座でもそうですね。やってほしいと思います。
情報はいっぱいあります。しかし問題がはっきりしない。
話題はいっぱいあり、話すだけで済んで、聞き流すだけで済んで、それが問題に組み立てられていない。
この恐るべき時代だ。しかも映像が一番良いのに一番腐敗している。
映像が一番体制に利用されてゆく。
だから一番大事は国家的事情です。オリンピック、万博、エクスポ、天皇ヨーロッパ訪問等々この時には何10億と金をかけて映画が製造されている。しかも記録映画です。
だから国をまるごと世の中へ出していくためには記録映画の方法を使いますよ。
にせ記録映画の方法、だからこわいですよ。フィクションは使いません。
本当に映像をつかってナショナルプロジェクトを遂行してゆく、そういう時にやっぱり我々は記録映画をどういう風にみるかどいうことを考える場合に一人一人元気になんとかやってゆく以外にないと思っているわけです。
質問1)
水俣の巡回上映の映画の中で、漁業がだめになるために、水俣病をかくしたり、申請させないようにする。いわゆるそういう人たちの映画をそういう人たちのためになる事を願うことがあると思うのですが、巡海映画をしてゆく中でそのような深い2重の問題にぶつかけられた時にどのように感じるか、工夫されるか。
答え)
映画は基本的に遊びなんです。
たとえばこの場を映画に撮るとしますね。ここで撮ったら、ストーリーがあってもなくても、自分がどんな顔で映っているかでにぎわうもんでしょ。
だから、映画というものはそれぞれの場所において遊びとしてわかるチャンネルがあります。映画はおもしろいものだというチャンネルがあります。
しかし、それが偽って伝えられるならば、非常に大打撃をうけるというのも知っているわけです。
一例を言うならば、ある発見をして患者が県庁や環境庁とやりあっていると、涙ぐみながら自分たちの衷情を話すシーンがいっぱいあるのに、県庁側がわからないために患者が怒って「そんなことわからんのかバカ」というところだけとて編集して出すわけです。
そうすると川本輝夫なんて人は暴力派患者でケンカばかりしていると報告されるし編集されます。するとカメラには絶対にうつりたくないと思うわけです。
最近、僕は決めたんです。テレビじゃなくて映画だといっているんです。
いつどういう風に作って、どういう人たちに見せるか、そうことを正直にいうようにしている。その時からわかる。
それはいかにテレビがいかに自分で言ったことを出さずに、しかも朝に撮ったシーンが夕方にはできるわけですから、「あのバカ東京へ行って、あんなバカやってる」と、すぐみんながその出来事を検討するゆとりなしに情報は情報でひとつの力を持っているわけですね。
だからテレビを窓口にしている人が、テレビにとられるのを一番警戒しているわけですね。
それだけのテレビの一般体験は、僕は進行してきたと思うのです。
テレビを長い時間みていますから、テレビについて神経はシャープです。
それが僕には助けになってきている。「これはテレビではなく、この問題を考える人に見せる。」ということをいって「あなたには何を聞きたい」。賛成派にも「あなたが賛成するには根拠があるでしょう。金という形で書かれているけれど、根拠があるでしょう。その根拠を聞きたい」と宿題をおいていくわけですよね。
それで、いろんなものを撮っていってみると、「あれはいままでのテレビと違う、酒でも飲んでみようか」ということになると思うんですよね。
そこから聞けてくる話が、やはり関係性があっての話しですから、非常に深いものがあります。それが一つの我々が聞きにくかった情報と合致すれば作品になる。時間がないので、話だけつなげて、情況や風土だけでも見せたらいいだろうと、あと盗み撮りでやろうといったってあと絶対に残らない。僕も残そうという気がおきないし、だからどうしても時間かけた仕事になるんですけど、そいう事がつらい仕事でなくて、ある人間の胸をひらいてもらうとか、その人から本当のコミュニケーションもらうという意味と、僕にとってはうれしさとこの仕事である喜びといっしょになっているからやれるわけで、いつもいじめられて、お前は出て行けって石を投げられればそんなことやりませんよ。
そういうことがあったし、あるというがわかりながら、非常におもしろい今までなかった方法が教えてもらえるし、考えられる。そういった点でそれは考えるよりもやれっていうことですよ。想像はつくでしょうけど。
質問2)
映画の中で、自分の意志を押し通すために蒸発したとのことですが、なかなか自分は他の人の事を考えたりしてそれが出来ない。
それは労働者がいなかったら工場は動かない。僕がいなかったら映画はできない。
僕もケンカ早いほうなので、僕の映画を他人がやるというのは出来ませんからね。
そのところはね。今の三浦さんみたいにね。逃げながらあっちこっち連絡してね。
「俺はやる気はあるんだぞ」とか、「俺以外にさわったらゆるさない」とか、いろいろやるわけです。
そういう時に、「青の会」とか形成されていないと一人の思い上がりということになるわけです。
みんなもがんばるだけがんばれと情報を送ってくれたりしてくれる。だから非常にほがらかにやっていました。
ただ本当に戦う時には自分の作品に未練を持ったら駄目ですね。
妥協した作品は絶対よくないですから、人が妥協したというのは別ですが、自分が妥協したのはだめですね。
作らないほうがよい。この会社とも写真ともおさらば縁がなかったと思って棄てますね。
そうするとくるって戻っているか、もう一辺うかんでくるということがあります。
労働者がストライキするというのは命取りということになりますが、それしかないということもありますからね。
その他の質問
『原発切抜帖』で新聞を使ったことの質問
記事の対象化について
ドラマ、劇映画の可能性
映画の集会性について
以上