書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」国境をこえる真実、土本典昭とアジアのドキュメンタリー キム・ドンウォン/佐藤真/土本典昭 <2005年(平17)>
 書籍「ドキュメンタリーとは何か ー土本典昭・記録映画作家の仕事ー」国境をこえる真実、土本典昭とアジアのドキュメンタリー キム・ドンウォン/佐藤真/土本典昭

 土本典昭 僕が映画の世界に入ったのは、日本で民放がスタートした年でした。今、テレビは十分すぎるほど強大なメディアになっていますが、当時、テレビは映画で食い詰めた技術者が行く所でした。僕が入った岩波映画も、あんな”電気紙芝居”なんか作れない、自分たちは”映画”を作るのだという作家が集まっていました。岩波映画は文化や科学、教育映画が得意で、テレビに合う企画が浮かんでいたと思います。私はそのトップバッターでした。記録映画でも監督になるためには、五年、七年と、助監督をやらなければなりませんでした。偉い監督はテレビ番組の制作はやらない。君、気が利くからできるだろうというので、キャリアもないところでテレビを作り始めたのです。作りながら、これで映画になっているのか、不安でした。編集も、ちゃんとした教育を受けていません。伊勢長之助という編集の神様といわれた人が、「編集というのは何回自分で見るかだ、いわば自分で見るに耐えるかだ、それしかない」と言われました。これはこたえました。すり切れるほど編集して、自信はないけれど、時間切れになったところで終える。そうやって作ってきたと思います。
 映画の観客が減ってきたころ、記録映画は国家的プロジェクト、大資本のプロジェクトとしてのPR映画として生き残りました。僕が記録映画の世界でうろうろしてこられたのは、膨大な金をかけたPRが作られた時期で、今でこそ僕は三、四人のスタッフで映画を作っていますが、その頃は撮影、照明の大人数を擁し、三十人、四十人のスタッフで作っていました。佐久間ダムとか、八幡製鉄作所とか、化学工場の映画などが製作されました。
 国鉄当局にしても、そのポリシーを伝えるために毎年一本、PR映画を作っていました。一九六二年、東京・荒川区の三河島駅で死者一四〇人という大変な人身事故を起こし、そのお詫びとして、安全な運転を目指していることを理解してほしいということから、この年は特別予算を組んでさらに一本、製作することになりました。これが『ある機関助士』です。
 その時期、テレビにおけるドキュメンタリーの芽生えがひたひたときていました。民放にはやばやと入った早稲田大学の友人が力をつけて、「ノンフィクション劇場」のキャップになっていて、声をかけてくれた。さらに東京オリンピック、大阪万博で国家がドキュメンタリー風の、記録映画風の映像を使うような時代がきました。こうした時代を経験してきたのです。
 僕がどこかで自律的な作家に変わったとすれば、一九六〇年代後半からの、世界的な異議申し立ての潮流の中で、たまたま『留学生チユアスイリン』や『パルチザン前史』などの反体制運動の映画を作ったことからです。それら自主作品が私のその後の選択になりました。その中から、資本によって完全にボイコッ卜されている水俣の問題が出てきました。水俣は、僕が一九七〇年に長編『水俣ー患者さんとその世界』を作るまで、テレビは二回だけしか番組を作っていません。最初は一九五九年、NHKの「日本の素顔」というドキュメンタリー・シリーズの一作でした。二回目が、六年後、私が「ノンフィクション劇場」の企画でつくった『水俣の子は生きている』です。はじめは連作にするつもりはなかったのですが、一作終わっても事件は終わらない。新しく紹介すべきいろいろな分野が見えてきますので、水俣に腰を据えて作り始めました。
 今回のこの企画は、私の五〇年近い流れが、日本の映画の、作家の内面史にいささか関わっているのではないか。そういうことから、全作品を頭から終わりまで一度やってみようと思われたのではないかと思います。映画、ドキュメントの歴史からいっても、私の今回のフィルモグラフイ展を皮切りにして、いろいろな方の作家・作品論が起こるのかなというように思います。
 もう一つあるのは、技術の発達です。キヤメラ、プロジェクターなどを含めて、個人でも映画を作り、観せていく時代になったことです。映画劇場、テレビという舞台だけでなく、昔詩人が自分の詩を自ら酒場で読み上げていたのと同じような形で、大きい場所ではないけれども、本当に自分の伝えたいことを映画として語ることができる時代になった。かつては映画は本当に”産業”でした。大きい資金がなければ実現できませんでしたが、今は、そうでなくてもできます。私の師匠の羽仁進監督が、キヤメラが万年筆のように使える、さらに映画が本屋の棚で選べるようになる時代が来るのでは、と言われたことがあります。四〇年前のことです。当時は、そんなことは信じられませんでした。が、そういう時代になったのです。若い人の個性ある作品が出てくる、近年のアジアにおけるドキュメンタリーの興隆をみると、映画の質はさておき、物質面の革命的な発展が大きいと思います。これを節目に語っていくことは必要なのではないかと思います。

キム・ドンウォン 韓国では、ドキュメンタリーが撮られるようになって一七年ほどにしかなりません。それで今日、私は土本監督と並んで座らせていただいたことに感激しています。土本監督が還暦を迎えられた一九八八年に、私は最初のドキュメンタリー作品に着手しました。当時、私はドキユメンタリーとは何であるのかを知っていたわけでも、あるいはドキュメンタリーをやりたくてやったわけでもありませんでした。八〇年代の韓国の状況は、私をして商業的な劇映画に安住することをできなくするようなものだったのです。結果的に、私はドキュメンタリーを製作する最初の世代になりました。それまで、ドキュメンタリーは放送局が制作して、テレビで放映するものでしかありませんでしたし、状況に対する抵抗精神を持ったものはまったくありませんでした。
 それと、私が特に意志が固いとか、政治意識が高いためにドキュメンタリーを製作するというのではありません。私は自分の意志と、外部の求めのようなもの、その半々でいまだにドキュメンタリーをやっていますが、外から励まされることが多いというのが事実です。また、世の中をよく知っているからドキュメンタリーをやっているのではなく、やっていることで世の中を学ばせていただいているのだと思っています。十数年やってきて、世の中がこういう風に変わるべきだという思いが自分の中に生まれてきましたし、今ではそのような世の中を実現させるためにドキュメンタリーを作っていこうと思うようになりました。
 土本さんは「ドキュメンタリーはコミュニケーションの重要なツール(道具)」だと書いておられますが、そのとおりだと思います。監督がしっかりした事実に基づき、正しい世界観と強い信念を持っているなら、ドキュメンタリーは今でも世の中を変えるための道具たり得ると、私は信じています。
 ただ、八〇年代の韓国では、ドキュメンタリーは変革の道具であると言われましたし、私自身もそう考えていましたが、今、私が考える世の中の変化というものは、例えば独裁を打倒するとか、理念を変えるといった、そういう直接的なものではありません。私はドキュメンタリーが独裁を打倒できるといった確信には至っておりません。「ドキュメンタリーが世の中を変える」という言葉の意味は、そのドキュメンタリーによって人の心が変わらなければならないという意味です。そうならないと、いくら世の中が変わっても我々には変化が起こらないと思うのです。どうすれば観客の心を動かせるのか、懸命に考えています。その問いは、結局は自分自身に戻ってきます。まず自分が正しく生きていなければならない、信念を持ち続けなければならないと思います。土本監督のように、一つのテーマを持ち続け、追っていく信念と力がうらやましいとも思います。
 ともすれば、作品の完成度そのものより、製作過程における製作メンバー、人と人が出会う現場、そして監督の生き方そのもののほうが、ドキュメンタリーにとってはより強い力なのかもしれません。また、監督は常に現場にいる時、すなわち現場との関係を失わずにいる時、不断に充電されていくものであろうと思います。幸いに、私は製作の過程で出会った被撤去民とか学生運動のメンバー、あるいは『送還日記』におけるような元非転向長期囚の方々から常に力をいただくことができました。
 現在の韓国では、次第に「現場」や激烈な事件が少なくなっています。このまま、外から見えるように安定した社会になっていくと、ドキュメンタリー監督は二重の苦しみを抱えることになるのではないかと思います。一つは、テーマを見出すのが難しくなるという点、もう一つは根を張るべき「現場」を監督が失うという点です。
 そうした意味で韓国のドキュメンタリーは、私が出発した一九八〇年代、そして一九九〇年代を経た今、土本監督、小川紳介監督の作品からいろいろな面で学んでいます。単純に方法論だけでなく、どのように生きていくべきかを重要なものとして学びました。これからも土本監督のような方たちから多くを学びたいし、私が土本監督と同じ年齢になった時に、このような場が与えられれば幸せであろうと思います。

佐藤真 僕はキム・ドンウォン監督と同世代の感覚があります。実際には、キム監督は一九六〇年代生まれ、一九八〇年代に学生生活を送った、韓国のいわゆる「三八六世代」ですが、僕は一九五〇年代生まれで一九七〇年代に学生時代を過ごしています。七〇年代後半の日本は学生運動の退潮期で、一体何をやったらいいのか誰もが迷っているという時期でした。私の場合、ドキュメンタリーを志したというよりは、何となく知らない間に入っていた。水俣に、土本さんの映画のスタッフとはまったく違う、若い世代の映画クルーの一員として、自主映画に関わることからキャリアをスタートしました。運動からものごとを発したというよりは、運動の不在から、自分の生き方の迷いみたいなところから始まった感じです。それで土本、小川両監督という、大きな山脈みたいな映画の巨人とぶつかって、一体我々は果たして何ができるのかと深く悩みながら、細々と自分の仕事の場みたいなものを作り始めた世代です。
 日本の場合は、僕らの前に土本典昭、小川紳介という存在が確固としてあった。この確固たる先人とどうぶつかって、向き合っていくのかというのが、我々の世代が自主ドキュメンタリーを作っていく上での大きな問題だったと思っています。
 土本さんは「ドキュメンタリーの本性はコミュニケーションである」と書かれています。土本さん自身の言葉で「映像の親和力」という言い方をなさっていますが、本当にそのとおりだと思います。自分の問題意識に引き寄せて言うと、ドキュメンタリーとは「対話」だと思っています。土本さんがおっしゃるように、被写体となる人たちとの対話もありますが、もう一つ、これは土本さんのスタッフ論の影響を強く受けた結果の考えではありますが、スタッフとの対話で生まれていく側面がドキュメンタリーにはある。対話は変容が可能なのです。スタートラインからゴールに至る過程は被写体やスタッフとの対話によって変わり得るというのが、ドキュメンタリーの本性だと考えています。企画の段階から結論、あるいは終着点が見えているような映画もありますが、スタッフとの対話によって、対象と向き合っていって、自分たちが想像もしなかったような場所に映画が着地し得る表現というのが、ドキュメンタリーの本性だと思っています。
 そのように言うと、非常にかっこよくみえますが、周りの人間とかスタッフ、応援してくれる人たちの立場からみると、最初に言っていたものとできたものがまったく違うじゃないか、ということになる。あるいは映画を撮っている間にどこに行くのかまったくわからない、最初に自信をもって言っていた話が聞けば聞くほど不確かな、あやふやな、果たして映画になるのだろうかというような暖昧な世界に入っていくということになります。それでも、そのひどく不確かなところに真撃に向き合って、くじけずに、スタッフと対話を続けていく行為の連鎖がドキュメンタリーだと私は思っています。
 その連鎖を支えるものが、土本さんがお書きになった、フィルムが持つ「親和力」だと思います。私たちが見て、感じている日常とは違うものを、フィルムはその機械的再現力をもって物質化してくれる存在で、それは、ビデオになろうがデジタルになろうが、フィルムの持つ力は変わらない。そこに映像表現の本質的な批評性があると僕は思っています。自分が見ているものなのに、あとで見た時に、果たしてこんなものを見ていたのだろうかというようなものが映像には映っているし、その時には感じなかったような音が入っている。撮影の時には意図しなかったようなものが映像の隅に、主にNGフィルムと言われるような失敗した撮影の片隅には映っている。そこを根拠に、自分の中にある固定観念や先入観、思い込みを自己解体、自己批評していく契機がフィルム自体の中にある。そうしたフィルムそのものとの対話の結果として、自分たちが想像できなかった場所に映画が着地して行き得る可能性があるのではないかと思います。
 私にとっての土本さんは、スタッフ論のオルガナイザーとして、私たちの世代にとっての親父みたいな存在であります。一九九二年にできた私の最初の映画『阿賀に生きる』をスタートしようと思った時に、私が一番相談しなければいけないと同時に、どう話したらいいのか最も悩んでいたのが土本さんでした。土本さんはお忘れになっているのですけど、私が新潟水俣病の映画を作りたいと最初に話した時、えらく怒られました。挑発したのか、嫉妬したのかよくわかりませんが、君のような知識とその程度の問題意識で映画なんかできるはずがないというふうに叱責されました。それがあまりにも悔しくて、当時スチールカメラマンで映画を撮ったことのなかった小林茂と、新宿かどこかの安酒屋でビールをしこたま飲んで、それでも我々は作るんだと怪気炎をあげたんです。それは土本さん流の挑発であり、スタッフ論の戦略なのかなと思っているのです。土本さんはスタッフとの対話を、映画を作る、大きなうねりのような自主製作ー自主上映の独立プロダクションの映画運動の中でやってこられた。土本さんから見れば子供世代に当たる我々、孫に当たる今の二〇代の作家に対し、それでも土本さんは本気になって挑発し合う、批評し合う、時には褒めたりおだてたり、いろいろな形でスタッフ論の火種をまいてもらっていると思っています。

 『送還日記』と『みなまた日記』の類似性

土本 『送還日記』でキム監督は、確信を持って思想を変えない、そのために三〇年、四〇年と収監されていた、そういう人たちが保釈という形で韓国社会に放り出された時に出会われるわけです。その出会いのシーンが面白い。いつもキヤメラを携行している。だがその時は映画を撮るとは誰も決めてはいない。遠慮気味にお断りを言いながら、はじめて相手の許しを得て回していく。迷いと自信のなさを隠さない。キヤメラを持って来たから回す、といった声も採っている。とりあえず撮っておくという作家の日常と非日常がごく自然に撮影の出だしを記録している。そのことは僕にとって非常に面白いことでした。仕事として映画をやろうということではなく、自分はいつもキヤメラを持っている人間だということが最初にあって、撮ろうか、撮るまいかと迷いつつも、だけどつい回してしまうみたいな不思議な映画の始まりなのです。キム・ドンウオンさんがキヤメラを回していることが大きい。非転向という畏怖すべき人を前にして、恐れも迷いも素直に声に出している。・・・自分で撮るという決断をしたわけではないけれど、とにかく会った時にはキヤメラを回していた、回しながら、その相手の反応を見ながら、そして撮りながら、これは付き合っていかなければいけないのではないかと自問自答していく。相手の日常の人間的な魅力に自然に惹かれていくということが、非常にうまく出ています。これは僕が映画を撮った時にはなかったスタートのかたちです。キヤメラを回す時には事前に撮影を決定しており、プロデューサーがスタッフを把握しています。キヤメラを回すのはその後です。この一〇年がかりの映画『送還日記』には、そのシユート(撮影)開始以前が撮れている。これには驚きました。
 私の最新作『みなまた日記ー甦る魂を訪ねて』はどこかでキムさんの映画作りと似たところがあります。映画の出だし、つまり企画から製作決定、撮影といったメリハリがまったくないところです。一本の作品を作ろうという決定以前にカメラを回しているところが似ているといっていいでしょうか。二台のビデオキヤメラをいつも車に積んでいましたが、仏間(仏壇)の遺影を各患者の家庭で普通の写真機で複写するという遺影集めの仕事の場では、ビデオキヤメラもテープレコーダーも出しませんでした。遺族は遺影を祭るというから仏間の遺影の複写に同意したのであって、改めてインタビューや撮影をするなら断るというのが大方の遺族でした。それは私には嫌というほどわかります。世間に隠れるように住んでいる水俣病の遺族です。遺影を写させるだけでも遺族には勇気がいったはずです。しかし、もともと記録映画の作家である私には辛い禁欲的な日々でした。それだけにビデオを回すことは私の唯一のストレス解放でした。
 「今日はお休み、遊んでやれ」という時も、他にあまり芸がないものですから、ビデオを撮ろうかということになる。花が咲いていたり、非常に美しい空とか、祭り、にぎわい、そういうものがあるので、それを撮っておく。テーマが決まっているわけではなく、選択はありません。それが日記でしょう。今日の僕はこうしましたというのを基本的に撮っていた。せっかくビデオというものがある、水俣という所にいて、滞在記録をビデオで残さないということはないだろう。そうしてできたのが『みなまた日記』です。
 水俣で、死者と対面する遺影集めは、どうしても萎縮します。通常の神経ではできません。何十年も行っていますから、多くの遺影の顔に見覚えがあります。その顔が意味しているものが大体わかります。その重さから逃れるように、キヤメラで遊ぶのです。その時は対象に触発されて、楽しみ、熱中して撮るわけです。しかし作文ではなく、日記なのです。テーマのある作品なら起承転結があります。例えば、普通、撮影の終わりになるにしたがって、不思議なまとめの気持ちが出てきて、いわゆるラストらしいシーンをもって終わりにしたいと思います。しかし日記の話法では劇的に構成するという作為はもともと排除されています。日付けは動かせません。一年の終わりのシーンがラストなのです。しかし、そのシーンがなんとなく、”在るべきラストシーン”のような位置を持っている。『みなまた日記』ではこうした奇妙な感じを味わいました。それは編集の思考の過程で生まれた何かでしょう。
 では映画を撮るということはどういうことか、記録に残すというのはどういうことかを考えますと、自分の気になったもの、面白いと思うものを撮っておくことだと思います。記憶は消えてしまうものです。しかしレンズとマイクで物理的に記録しておいたものは残ります。あとで見れば見るほど「背景にこんなものが入っている」とか、「その時にはぜんぜん気がつかなかったけれど、こういうものが撮れている」という発見がある。見え方の変化がある。最近私は「考える道具としての映画」「考えるための手段としての映画」というような言葉を考えてみました。撮りあがった時が終わりではなく、いじくり回している、その過程が僕の仕事だと思います。映画が好きな一人の人間だと思っています。
 「記録がなければ事実なし」とつくづく思ったのは、一九九〇年代の初頭に、韓国の従軍慰安婦の問題がでた時です。日本の政府は何でごまかそうとしたかといえば、「そういう記録は残っていない」ということでした。「そういうことはしていないはずだ、軍は関与していない、業者は関与していたかもしれないけれど」と言い逃れた。だが、記録の書類は防衛庁にあったのです。人間としてではなく、”荷物”として記録されていたものが、実は従軍慰安婦を送る書類だった。そこに一枚の紙があったことで、従軍慰安婦問題は急速に明らかになりました。記録のすさまじさというか、記録がなければ事実がなくなってしまう。これは水俣で嫌というほど経験したことでもあります。隠し事をされたら、その事実はなくなってしまう。我々はそういう時代に生きているのだとつくづく思います。

佐藤 私は一九八〇年代の前半に、遅れてきた支援者の一人として水俣病の運動に少し関わることから、あの水俣の空間を見てきました。その後二〇年くらい、不知火海には行っていませんが、『みなまた日記』には知っている人たちがいっぱい出てきて、その二〇年が思い返されました。いろいろな場所と土地が出てきて、いろいろな知り合いの遺影を見て。この作品は、土本さんの日記として撮っているのだけれど、土本さんがおっしゃったように、遺影の一人ひとりの中にさまざまな人生、思いがあって、その人のまるごとの人生からすると最後の一枚である遺影にも生の痕跡が残っている。その遺影を訪ね歩く旅の中で、土本さんとお連れ合いの基子さんとの共同作業の一年間があって、その一年間の時間の厚みの中に、言葉では語れないさまざまなディテール、特に映されている人々をよく知っている私にとってはいろいろなことが浮き上がってくる作品でした。作品の中では、この時にこういうことがありました、という日記風の出来事が羅列されているだけですが、僕にとってはいろいろなことが想像できる、まさに日記という形式ゆえに、逆に多くのことが立ちあがってくる作品だと思いました。
 水俣での体験とか、あそこに出ている人たちのさまざまなディテールに対しての親和力の違いによって、あの作品の見方も当然変わるだろうと思います。土本さんは水俣のことをずっと考えていて、水俣のあの世界をずっと見据えている、七〇年代の初頭から少なくとも三五年くらい、『水俣の子は生きている』からだと四〇年近い長きにわたって、あの世界をずっと見てこられた。確かに運動の局面とかピークとかは水俣ではすでに終わっています。ありていに言えば映画になる柱あるいは中心軸みたいなものは、今の水俣からは見えにくい。患者さんたちが日常の中に戻っている。その中でも目に見えない亀裂みたいなものがまだまだいろいろな形で膿を出し続けている。そのことを土本さんが四〇年見続けている。逆に言うと、ほかには誰も見続けてこなかった。少し関わった人間として、私も、ああ何も知らなかったんだなという自省を、うながされる。そういう日記として私は見てしまった。身につまされるような思いをしながら、一方には甘美な懐かしさみたいなものと、たまには水俣を訪ねてみようかなという思いにかられました。作品として観るというよりは、水俣に流れる独特の時間と対話をすることができたという感じです。

キム 私は水俣の人たちのことをよく知りませんし、日本語版で『みなまた日記』を拝見したので、どのくらい正確に理解しているのか自信はありませんが、多くのことを感じました。土本監督が水俣の人たちと非常にしっかりとした絆を持っておられるということ、またその人たちが監督の人生においていかに重要な意味を持っているかということがひしひしと伝わってきました。亡くなった人たちだけでなく、今水俣に住んでいる人たち、次の世代を担う若い人たちにも、監督の関心が向けられていると思いました。胸にジーンとくるものがありました。
 実は私も最初の作品で、経済開発の過程で強制的に撤去させられた上渓洞という地域の問題と取り組みながら、そこの住民たちや子供たちのことを多く思い悩んだ経験があります。『みなまた日記』を観て、撮影をしながら出会う人々は単に映像の対象ではなく、共同製作者でもあり、友人でもあり、あるいは伴侶でもあるべきであると、もう一度思いました。
 『送還日記』に出てくる元非転向長期囚たちは、最初、私が「伴侶」と受けとめるには、かなりの距離を感じざるを得ない方々でした。特に一九九二年当時、非転向長期囚、あるいはスパイというのは、私にとってはとても怖い存在でしたし、自分とはまったく関係のない人々だという考えを持っていました。ところが、釈放された元非転向長期囚が偶然私と閉じ地域に住むことになり、彼らを近くで観察しながら、自分が今まで共産主義者ないしはスパイと言われる人たちにどれほど先入観をもって生きてきたか、どれほど「レッドコンプレックス」に閉じ込められていたかを、強く思い知らされました。元非転向長期囚の方たちへの先入観は、初対面の時に半分はなくなりました。そしてだんだん付き合っていくうちに、徐々になくなっていきました。映像をご覧いただければ、先入観やそういうイメージはなくなると思います。
 はじめは、あの方々に撮影のためにお会いしたのではなく、同じ町内に住む隣人として出会ったのです。作品を作るというより、スナップ写真を撮っておくというような感じで撮り始めたものでした。そうしていくうちに、親戚よりも近い関係になったのです。人間というものは、イデオロギーに関係なく親しくなれるということを確信するに至りました。私としては非常に貴重な経験になったわけです。
 このシンポジウムのテーマは「国境を越える真実」ということですが、ドキュメンタリーがすべての境界を越えて人間的な価値を持ち続けている限り、我々はより平和で進歩的な世界に達することができると思います。お二人のお話にもありましたように、台本もなく、どういう形で終わることになるのかさえもわからない不安と向き合って、時に全部投げ出してしまいたい衝動に駆られながらこの仕事をやってきました。そういう苦しみを克服できたのは、映画に出てくる方たちとの人間関係に勇気づけられたという側面が大きいのです。その結果、佐藤さんがおっしゃったように、想像もできなかった着地点をみつけることができました。

 アジアのドキュメンタリーと『送還日記』

土本 僕は外国に行って映画を撮ったことが何回かあります。一九六八年の『シベリヤ人の世界』の撮影に行った時は、シベリヤに最初に入った日本人でもありました。外国でいつも感じる疑問点は、日本人の僕が映画を撮っていいのかということです。シベリヤに映画人がいるはずだと思い、ハバロフスクの撮影所に行って話したのです。若い人たちがいて、その人たちに、あなた方がシベリヤを記録すべきですと言いますと、ある種のショックを受けていました。その意味はよくわかっていました。僕は『シベリヤ人の世界』を撮りながら、社会主義を批判するようになりました。というのは、あの国は趣味の8ミリ映画はあっても、16ミリ映画のシステムはない国なのです。35ミリ映画はもちろんありますが、それは国家のものです。個人とはまったく無縁です。8ミリで個人の趣味的な映像は作れます。しかし、16ミリのような個人でも作れるし、劇場にもかけられる、どっちにも作れる機材は一切ありません。「あなた方が映画を作りたければ、こういうふうにしなさい」と学校で全部教えて、35ミリの機械でちゃんとした映写機で上映の機会もあげますよ、記録映画も作ってよい。その代わりシナリオを出しなさい、それは審査します、いいものにしていくように協力しますという。それは検閲にもなるものだと思います。ロシアの十月革命に登場したドキユメンタリストのジガ・ベルトフがそれを予感して、「私は絶対にシナリオを書かない、ノートしか書かない」と言って、シナリオを通じて作品の思想性を管理しようとしたスターリンの映画政策に反対しました。そして多くの作家同様、悶々として不遇の晩年に追われたといいます。映画にはいろいろなドラマティックな人生がありますけれど、ドキユメンタリストをロシアは育てなかったと思う。その後、社会主義国から本当にいいドキュメンタリー映画が生まれるかを見てきましたが、劇映画のほうにドキュメンタリー・タッチの傑作はありますが、本当にフリーなドキュメンタリーが社会主義国でできた試しが革命初期のロシア、ジガ・ベルトフ時代以外にあったでしょうか。ほかの社会主義国ではキューバに一時は、期待しましたけれど、サンチヤゴ・アルバレスの実験映画以外、本当に優れたドキュメンタリーは発展していないと思います。体制は常にドキュメンタリーの批評性に怖れをもつものなのでしょう。
 外国に行って映画を撮るということは、基本的には外国の人を助ける映画が基本だと思います。もう一つは、違った目でその国を批評するという意味では、どんどん外国に行って映画を撮ったらいいと思います。
 これからアジアでよい作品が生まれてくるのは韓国と台湾だと思います。中国のドキュメンタリーは抑圧のもとにあって、うまくいくでしょうか。ドキュメンタリーと民主主義運動は不可分です。その意味でいまだに問題を抱えた国だと思います。一九八〇年代に民主主義の闘いを経た韓国にはものすごく可能性を感じます。先日、台湾にも行きました。映画を支えているのは、映画に対するニーズ、必要性の強さです。韓国と台湾にはそれがあります。映画が一人で作れる、仲間がいれば作れる時代になったこと、これは革命です。
 僕は映画は二人で作りなさいと今でも思っている人間ですけれど、もっと精密に言うと、一緒に作る仲間に”批評家”を持ちなさいということです。けなす批評家ではなく、ここはいいぞと、気がつかない点を指摘してくれるような、前に押し出してくれる批評家がいい。映画のよさを観て、前に突き飛ばしてくれる仲間がいいのです、それがスタッフだと思います。
 日本に小川、土本の時代が出現したのはなぜかというと、最近、こういうふうに整理しています。全共闘が指摘したどうしようもない社会、日本の将来はどうなるのかという一九六〇年代、一九七〇年代、日本の若い作家にはPR映画や文化・教育映画で培われた厚みのある映画体験がすでにありました。映画機材も彼らに手の届く国になっていたのです。矛盾に満ちた物語性のある時代が、例えば小川、土本を世に押し出す機運も胎動していたと思います。映画先進国、映画機材、情報産業の隆盛期に、日本がアジアのドキュメンタリーの登場を担ったのは、けだし当然のことだったでしょう。韓国で「統一」という時、こんなに心に響く言葉はないでしょう。その目標に向かって朝鮮半島でそのためのドキュメンタリーが作られる時代が来たことを、キムさんの映画は雄弁に物語っています。日本人映画作家にとってうらやましいほどです。日本の一九六〇年代、一九七〇年代にあったテーマが、今の韓国、台湾にはあります。大胆な歴史の見直しが進行している。『送還日記』をビデオで二回、映写で一回観たのですが、毎回観るごとに情報量が増え、びっくりしてしまうのです。特に驚いたのは、ここに登場する人たちは韓国のマスコミの作った韓国の現代史を否定的・批評的に見ることに真撃なことです。特に北朝鮮への憎悪、偏見、敵対心を植え付けてきた独裁権力とマスコミへの洗いざらいの検証は立派です。
 新聞のカットで出てきますが、あの大韓航空機爆破事件ですら、今、KCIAの洗い直しの中で、策謀として真相の糾明が遺族と市民で起こされている。あの朴正照政権をはじめ韓国現代史を総点検する強い目が映画に流れている。拉致問題によって、韓国・北朝鮮と日本の歴史を近視眼的にして、差別・侮蔑と誹謗に明け暮れている日本人に重い衝撃を加える映画になるだろうと思う。例えばキムさんと友人の日本人ジャーナリスト、石丸次郎氏とのやりとりの場面でもそうです。北朝鮮・金正日の評価のずれに、私たちは石丸氏とともにキムさんに窘められたように思いました。この石丸氏は長く北朝鮮を見続けている人で、延辺や吉林で北朝鮮から脱出してきた人たちをフォローしている方ですし、日本人としては公平な視点を持たれていると思います。その彼が金体制の欠陥を指摘します。それは一九九〇年代の半ば以降、事実として正しく、それには僕も同感します。しかし何故か、その遠因について、さすがにキムさんの把握している歴史意識が日本人と全然違う。現在のほとんどの日本人には朝鮮戦争は記憶にないでしょう。しかし、キムさんの視点が遥かに朝鮮戦争からの歴史に注がれている。アメリカと北朝鮮との関係は一九五三年の休戦協定のまま冷戦構造に固定されてきた。とりわけこの『送還日記』の登場人物にとっては朝鮮戦争は昨日のことでしょう。この時代の証人である元非転向長期囚たちはキムさんの映画の主人公として五〇年、六〇年の歴史を共有しておられる。朝鮮戦争は休戦状況で、不可侵協定にも至っていない、いわば戦時下の緊張が続いている。その事実に目を瞑らないでほしいとキムさんから指摘された気がしました。まして日本のメディアはどんなにかずれていることでしょう。キムさんが北朝鮮の誤りもゆがみも自分に引きつけて、この映画を作られたことをあらためて思いましたし、キムさんの現実認識が今の韓国の現世代にかなりの普遍性をもっていることを教えられた気がします。この国のドキュメンタリーがさらに魅力的なものになっていくことをとても期待しています。

佐藤 我々がアジアのドキュメンタリーを知る窓となっているのは、山形国際ドキュメンタリー映画祭だと思います。一九八九年に始まった第一回の時に、キム・ドンウォン監督とお会いしました。最初の作品、一九八八年のソウルオリンピックに関する移転反対闘争を撮った作品を見せていただきました。これはホームビデオで撮ったものでした。その当時、韓国、中国、その時はまだ中国の作家はほとんど登場していなかったのですが、第一回の山形国際ドキュメンタリー映画祭で小川紳介さんがやったシンポジウムのテーマは「なぜアジアにドキュメンタリーがないのか」というものでした。アジア各国における「ドキュメンタリーの不在」についてのシンポジウムから山形国際ドキュメンタリー映画祭が始まったことが非常に印象的でした。なぜなら今、アジアのドキュメンタリーの不在を問題にする人はいません。逆に、日本のドキュメンタリーの不在については言われるかもしれません。
 まず僕らが最初に映画を作ろうと思った時、16ミリのキヤメラをどこからかレンタルするか、中古機材をどう安く買うかということからスタートしました。次に技術スタッフをどう集めるかが問題だった。それは間違いなく、土本さん、小川さんの直接の技術的、スタッフ的な影響下で製作をやっているわけです。しかし、一九八〇年代後半あるいは九〇年代初めのアジアの監督たちは、その方式ではまったく不可能である。そもそも自主上映が成り立たない。土本さん、小川さんがやってこられたのは、自主上映の組織を自分たちでつくったからです。あまりお金は入ってきませんが、連作を続けられたのは、それを支援した上映母体があったからこそ成り立った。それが日本では一九九〇年代になると急速に退潮してくるので、我々の世代も自ずと映画の作り方を変えざるを得ない状況に直面してきました。いずれにせよ、我々の世代のドキュメンタリーは、小川さん土本さんが築き上げた自主製作ー自主上映の基盤から生まれたものだったのです。
 韓国の第一世代のキム監督が撮った『送還日記』という作品の場合、一〇年間という時間を一本の作品にまとめ上げる時に、いくつかの編集の可能性があったでしょう。二回ほど拝見して、この作品にはいろいろな隙聞が実にいっぱい入っていると思ってびっくりしました。対象となっている元非転向長期囚の人たちの人生を撮っていく時に、最初から確信めいたものは何らあったわけではなく、挨拶のようなもの、あるいはうまく撮れなかったもの、後半にいけばNGフィルムとしてしかみなされないものの中に映っている微細なディテールが、一〇年の時間の厚みとともに隙閉そのままのような形で立ち上がってくる。そのディテールをじっと覗いていると、実は韓国の中にある、目に見えない国境を越える真実、土本典昭とアジアのドキュメンタリーさまざまな亀裂みたいなものが立ち上がってくるという感じがしました。韓国社会の中に分断と統一という問題から派生する亀裂がさまざまに入り込んでいる。分断ということに関して言うと、分断という事実がものすごくわかりやすいケース、引き裂かれている姿がよく見える人たちというのもいる。我々がニュースなどで見る典型的なイメージは、そうしたステレオタイプによって形づくられているわけですが、『送還日記』の対象者は、典型的な分断の渦中にいて、これほど極端に民族の悲劇みたいなものを体現している人たちはいないというような対象でありながら、そのディテールを探っていくと、いろいろ暖昧な、目に見えなかった思い、家族や国、思想への思いというのが、見る側に拡がっていくという感じがします。それが、さきほど私が申し上げた隙間です。一回目に観た時は気がつかなくて、日記のような一〇年間という感じがしたんですけれど、二回目、その隙聞に心魅かれて別な感想を持ちました。
 『ブラザーフツド』を観たのですが、朝鮮戦争、あるいは分断について、韓国の劇映画が巨額の予算を投入して、撮影技術のすべてを投入して大作を作る、それを韓国の人が支持する時代になってきた。残念ながら、その大作の「北の悲劇」のとらえ方がものすごくステレオタイプ的なので、ガツカリしました。兵隊の死に方がかつてのアメリカ映画の描くナチスドイツの姿とまったく同じなんです。ただ軍隊の中の部品として、あくまでも一つの駒に過ぎないからそこには名前も顔も見えない。だけど、そういう映画が大作として作られている一方で、キム・ドンウオンさんは、そういう流行現象からは見えない、非典型的な目に見えない亀裂みたいなものを、いろいろな形で、いろいろな読み方ができる隙聞を駆使した編集をした作品で表現している。日本人の立場で言うと、分断のディテール、南の出身なのか、北の出身なのか、その家族が南にいるのか、北にいるのか、そうしたディテールについてわからないで観ているのですけれど、それがわかる韓国の観客にとっては、より深い隙聞の読み込み方ができる作品だと思います。

キム メッセージがはっきり現れてくる映画は、少しカビ臭い映画のように思っています。特に若い世代は、そういう映画を嫌っていると思います。強いメッセージを持っていながら、そのメッセージが表に現れているというよりは内部に溶け込んでいるような映画が、最近若い世代に受け入れられているようです。『送還日記』では統一という言葉は使っていませんが、統一に対する思いと希望を込めて作りました。また、抽象的ではありますが、どのように生きていくべきかを問いかけ、その問いに対する私の考えを盛り込みました。この二つが、この作品の持っている主要なメッセージだと思っています。
 この映画を作った当初は、映画館での上映は考えてもみませんでした。それまで映画館での上映はやったことがなかったもので、想像さえもしなかったのです。この作品が無事に終わればいいなあということばかり思っていました。ところが、サンダンス映画祭に招待され、受賞したことがきっかけになって映画館で上映する可能性が開け、二〇〇四年の三月半ば頃から六週間ほど上映させていただきました。韓国ではドキュメンタリーが映画館で上映されるということは大変珍しいことで、「送還日記」は映画館で上映された三本目のドキュメンタリー作品です。この上映で二万五〇〇〇人の人たちに観てもらいましたが、これは映画館でのドキュメンタリー観客動員記録となりました。
 こういった事情で、韓国の保守的な側からもかなり好意的な評価を受けました。特に、韓国でもつともメジャーで最も保守的な新聞である『朝鮮日報』の記者、映画にも出てくる記者で、元長期囚の方々からかなりいじめられる場面もありますが、その記者がいい記事を書いてくれました。評価の中には「こんな映画を作るやつは刑務所にぶち込むべきだ」というのもありましたが、全体として深刻な問題はありませんでした。この映画に対する反応として予想していたのは、左右両側からの強い批判なり賛成がくるということでした。そういう状態がかもし出されることによってこの映画は成功するのだと思いました。論争はありませんでしたが、両側から若干の批判が出ています。代表的な例として、これは思想性を度外視してまったくヒューマニズムに偏った映画であるという左側からの批判と、まったく観る価値もない「アカ」の映画であるという右側からの批判です。右翼の人たちによる比較的好意的な評価としては、イデオロギーを越えたヒューマニズム、あるいは人間像を描いた作品であるということですが、今のところこれをイデオロギー的に悪用しようとの動きは見えていません。とにかく、私が期待していた以上にいい評価が得られ、特に中学、高校の先生たちから、この映画を教育用に使いたいので短く編集してほしいというような要望もよくきています。映画館での上映が終わってからは、団体や学校や教会などで巡回上映をして、八月末までにさらに五万人くらいの人たちに観てもらえました。

土本 映像というのは時間芸術で、あっという間にいってしまう、本ならば読み返すことができますけれど、そういうことができない。よくわからなかったら二回、三回と観るのがいいでしょう。僕は、大きなスクリーンで映画の迫力を感じ、お客さんの気持ちと一緒に観る。反復して観たいものは、ビデオで何度でも観ます。キムさんの映画で面白いのは、反対論に対して非常にオープンであることです。反対の人たちの抗議とかアクションとか、全部入れています。実に見事にうまいこといっています。それと、彼が、この人たちに会う、怖い人たちじゃないかと思いながら会う、ドキュメントしていくきっかけを全部ナレーションで正確に言っておられます。投獄された彼らがなぜ、転向しなかったのか。考え方か、マルクス主義か、ぜんぜん違うのですね。言葉が二つあります。「未転向」というのは、未だ転向していない。「非転向」というのは、断じて転向しない。この二つの言葉はごちゃごちゃしていて、韓国のマスコミに出てきます。なぜ彼らが非転向を守れるかというところで、一九七〇年の初め頃らしいですけれど、韓国の自由主義がいいんだと、北の政府の考え方は間違っている、考えを転換しなさい、転換しないのならば拷問します。水攻めなどむちゃくちゃです。これに対して、こういう人間を人間とも見ない拷問だったからこそ頑張れたというのです。主義主張じゃない、いろんなことを考えておられるのです。自分に恥ずかしくない生き様をつくろうとしたのは、辱められたからで、それと闘ったからだとはっきり言っています。誰でも、この高みには頭が下がります。とてもいい人格の主人公たちです。
 もう一つ感じたのは、儒教の国で、年寄りに対し本質的に敬意を持っている、この美徳が根にあることに感動しました。

キム 私は韓国の数え年で五〇歳です。今までドキュメンタリーで出会った人たちをもう一度訪ねて、サンゲドンその人たちの今の状態を続けて撮りたいと願っています。例えば、十余年前に上渓洞で強制的に住居を撤去させられた人たちがその後どのように生きてきたのか、今はどのように暮らしているのか、昔闘ったことをどのように覚えているのか、あるいはその方たちを通して私が学んだことは何だったのかなどを確認してみたいと思っています。また、この映画にも出てくるように、私は北朝鮮に行こうとして果たせなかったのですが、いつかピヨンヤンに行って『送還日記』で会った元非転向長期囚の方たちと再会し、彼らのその後の様子を撮りたいとも願っています。

佐藤 自分の作品については、なるべく最初に考えたことと違ったところに着地点をもっていきたいと思っているので、今取り組んでいる作品もまったくどうなるのかわかりません。ただ、さきほど土本さんが言われたことは大事だと思うのですが、僕も外国で映画を作るのははじめてで、エドワード・サイードの記憶をテーマにした新作のためにパレスチナの難民キャンプなどに行き始めているのですが、向こうで起こっている事実に関して、果たして作品を作る責任と権利はどこにあるのかを悩みながらキヤメラを向けるという気持ちが非常に強いです。キヤメラを向ける権利と位置と意義みたいなものを、問い返さないと映画にはならない、自分たちの揺れる姿を映画にしていくしかないだろうとは思っています。翻って日本がどうなのかという視点を持たないとダメだと思っています。それでも、こういう形で中東諸国を回ることは、僕の個人的な体験として非常に大きな意味を持っていくのではないかと考えています。ただ作品として昇華する場所はどこなのかという悩みは深いわけです。日本のドキュメンタリーは、かつての自主製作ー自主上映のスタイルからは完全に離れて、私もいくつかの学校といった場で、私より更に若い世代の人たちと一緒に作品を作ったりしていますけれど、土本さんがおっしゃっていた、編集がパソコンで可能になったという世代が、日本の中でも力を発揮しだしている。ただ、土本さんと違うのは、中国の作家の方たちがノンリニアでとんでもない作品を作り出しているという感覚を、私は持っています。たとえば王兵の『鉄西区』。そうした人たちが、大きな可能性を持っていると思います。機材の可能性は我々に等し並みに与えられているわけです。ところが最初に思ったところとは違うところに飛んでいく、想像外の着地点をいかに持てるかどうかということに関していうと、日本のドキュメンタリーは脆弱な部分を持っているかもしれないという危倶を、自分のことも含めて、抱いています。
 わたくし性と公共、私的世界と政治や社会との関係でいうと、わたくし性が非常に力を持っている時代になったと思います。土本さんの『みなまた日記』にせよ、キムさんの『送還日記』にせよ、わたくし性の映画でありながら、土本さんはこの四〇年たった一人で、結局水俣のその後について責任を持っているのは土本さんのキヤメラでしかないということが、映像の端々からにじみ出してくる。まったく個人的なキヤメラであれ、その責任の取り方というか、水俣の四〇年を観ていく土本さんの責任のとり方の倫理観というようなものが、作品全体の中から立ち現れてきているわけです。『送還日記』は、まさに対象としている人たちの見事な人生のみならず、この一〇年間の韓国の社会の変わりようというか、在りようまでにじみ出してくる。わたくし性でありながら、政治であり、時代であり、国家である巨大なものと向き合っている。翻って我々日本のドキュメンタリーの作り手の問題として言うと、デジタルキヤメラが持っているプライベートな製作体制、濃密な人間関係を、個人で撮影しきれるという機能と、最終的には編集で完成版を個人でできるというノンリニアの技術を利用しながらも、他者と出会って、スタッフと飲んで、他者の批評と時代の流れとの葛藤がなければ映画は予想外の着地点に向かって大きな飛期はできないという、かつてからずっと変わらない問題とどうり結んでいくのかというのが、大変大きな問題です。それに関していうと、土本さん、小川さんが走っていた時代と、我々が今直面する問題は一見異なるように見えますが、同じではないかと思います。確かに、少なくとも一九七〇年代までは、日本の中でさまざまな亀裂と矛盾が、キヤメラを捉えた瞬間に目の前に現出していたのに、今はその亀裂があるのに見えにくくなっている。ただ、見えにくくなっているだけで矛盾や問題がなくなったわけではない。その見えにくくなっているものを、どう見えるようにするかに関しては、土本さんの時代よりも高度な方法論的な模索と、戦略、戦術が必要なのではないかと思っています。その戦略、戦術を持っているドキュメンタリーの作家たちが、いろいろな国、特にアジア各地から出てきているという感じを持っています。