下北の海を守る漁民たち 『総評新聞』 5月11日号 日本労働組合総評議会中央機関紙 <1984年(昭59)>
 下北の海を守る漁民たち 「総評新聞」 5月11日号 日本労働組合総評議会中央機関紙

 「まだ間に合う」

 今回、いわば海を盗られまくっている下北半島に佇みながら気持にある平静さがあった。一ニ年前、上北の六ヶ所村の巨大開発による土地買い、海盗りの実際をみたときと、まだあまり変わらない海や沼があったからだ。
 もちろん、鷹架(たかほこ)沼という、六ヶ所開発のヘソの海岸に大きい工業港が建設されていたが、その隣に自然の浜がつづいている。百%漁業権を売りわたし、計画通りなら、とっくに堀込港として、茨城県の鹿島港のようにコンクリートでかさ高くなった岸壁にクレーンが林立しているはずであるのが、いまも尾鮫(おぶち)沼には白鳥が憩っている。鷹架沼も内がわはまだ昔のままの漁業があった。
 去年八月、漁業権を原子力船「むつ」の新母港に売り、本年二月末、二千百立方米余の石をほうりこんで着工したとのデモンストレーションした関根浜の予定地も、まだかすり傷ほどしか痛められていない。
 このもたつきは原子力船開発についてゆれている政府自民党中枢の動揺もあろうが、母港に必要な陸上施設の予定地のド真中が反対派漁民の土地であり、いま手に入る可能性はゼロに等しいからだ。
 さらに漁業権を放棄していないとする行政不服一件と、工事差し止め訴訟一件は厄介この上なく、しかも政府はこの八月末までに、「むつ」廃船の可否の結論を迫られている。
 予定地の定置網は強引にあげさせたが、タコのはえなわやウニかごはどんどんその空白の海で操業している。
 ここの海はまだそのまま残っており、漁場としていつでも復元できるのである。映画「海盗りー下北半島・浜関根」は「水俣」シリーズとは違って、私にゆとりをもたせた。水俣は、とり返しのつかない悲劇であり、どう描いても絶対的に死や業病をもたらしてしまった後の映画である。だが下北半島は、まだ健康な漁民が住み、漁を盛大にのばそうとしている人びとがおり、ところによっては、土地を売らない人がそこで漁と畑仕事で頑張っている。
 もちろん公害病にも放射能汚染にも浸されていない。
 「あるいは間に合うかもしれない」というのがその自然を見て歩いた私の実感だ。もちろん、漁船はこわれ、田畑は荒れた。とてもすぐに元にもどれる話ではない。
 しかしその海を知り、陸を知りぬいた人が、海や陸を売らされたことを骨の髄から悔い、だまされたことを恨みとする日々を送りながら、まだそのままのこされた、自分のものだった自然を見ているならば、彼らの中の漁民・農民・牧畜民のこころはまだ生きつづけているはずだ。天と地と人の利を得らば、ふたたび燃えさからないとは誰も言えないだろう。

 死の灰の処理場に

 私は核燃料そのものの利用に反対である。丸木俊さんではないが「戦争中は原爆で、平和になったら原発に化けた」と思っているからだ。およそ放射能の毒性はその半減期の長さにおいて水銀の比ではない。プルトニウム二万四千年にくらべ水銀のそれは二百数十日である。しかも、ともに侵されたら、量の多少をとわず、必ず被害を発生しはじめる。
 そして一〇年二〇年後に病名がつけられるまでに進行する。その時は解毒法も治療法もない類いのあらたな人工毒物なのだ。その時差が恐ろしい。
 昨年一二月の各紙は「英国環境省はウインズケール再処理工場周辺の海岸の使用をやめるよう勧告した。工場近くの海岸群に通常の百-千倍の放射線が検出されたためである」と報じた。日本の原発の死の灰の処理をひきうけたこの北イングランドでは、すでに海が”死に体”となっているとき、この下北半島がこの再処理工場に加え、ウラン濃縮工場、核廃棄物の貯蔵施設のいわゆる核サイクル三点セットの地として確実視されてきた。
 原子力船「むつ」の母港も、それら原子力施設の専用港に転用されるという。
 地元では政府や電力業界の、この出方に怒るより呆れるといった風である。巨大開発に賛成した人は、公害に眼をつむっても開発による地域の発展に夢を托した。それは六ヶ所村に見る通りほぼ無人に近い石油備蓄基地に終り果てた。安全といいくるめられ、原発立地の誘致や原船のように追い出し可能なものには賛成したが、日本中の死の灰の処理場やゴミステ場などにOKしたつもりはない-というのが地元である。
 今一番中央政府や県当局、そして資本に対し内心警戒心と不安をかきたてられているのは、町当局、村当局、そして漁協の推進派であろう。「ここまでいい加減とは思わなかった」のだ。
 漁民がよく新聞をよみTVニュースを見るようになった。そして六法全書や漁業法、水協法まで指でくって暗唱している様にド胆をぬかれた。むつ市長菊地漁治氏や同市の市民運動の中村亮嗣氏(歯技工師、画家)などは学者顔負けの原子力研究者である。もはや「わしらにゃ分りっこない」といった逃げではすまなくなった」漁民も勉強をはじめ、少くとも「なぜ下北にもってきたのか?」の疑問にたちむかうことになろう。小数者が確実に智慧をきたえはじめた。かれらの望みは下北を知ってもらうことだろう。私たちの映画が、その入門に役立つことを切に願ってやまない。