記録映画の世界-水俣病から原発へ-『海盗り-下北半島・浜関根-』をめぐって インタビュー 『社会評論』 6月号 活動家集団思想運動 <1984年(昭59)>
 記録映画の世界-水俣病から原発へ-『海盗り-下北半島・浜関根-』をめぐって インタビュー 「社会評論」 6月号 活動家集団思想運動 

 水俣を描いた二本の記録映画についての感想

ーさいきん、久しぶりに水俣を描いた二本の記録映画、一つは土本さんの手となり足となって水俣の記録映画をつくってこられた小池征人さんや撮影の一之瀬正史さんたちが、今度独自にまとめられた『水俣の甘夏』と、もう一つはどういう人たちか良く知らないんですが、フィルム工房というところでたぶん若い人たちがつくったと思われる『無辜なる海ー1982年水俣』が上映され、話題をよんでいますが、これらの映画についての感想からおききしたいのですが。

土本 そうですね。できた順序からいうと『無辜なる海』の方が先なんですが、これは非常に若い人たちが、いつまでに作るという期限なしに、本当に初心でとりくんだ映画です。まず現地の運動体と仲良くするだけじゃなくて患者と仲良くするため家を借りまして、はじめはとにかく撮れないんですよね。そういう中で時間をうんとかけて、援農をやったり、漁業を手伝うっていうか、人手のいるところを手伝った。主として運転手をやったんじゃないのかな。そういったことで地域にとけこんだ製作態度の勝利というのがあったと思います。とくに艮かったのは水俣病のド真ん中の水俣じゃなくて周辺地帯の福浦というところなんですけど、水俣からそうですね、車で三十分くらいかかる海岸地帯にいましたからね。ここは運動が水俣より薄いところですよね。そういうところで、水俣病の闘いとのかかわりが運動としては比較的薄かった人の中に身を定着させてやったということが、かれらにとってもまったく新しい世界に行ったと同じような気分もあったでしょうし、良かったと思いますよね。大変ですよあれは。
 『水俣の甘夏』っていうのは、限定された、主要目的をもって作られた映画だったんですけどね。それは甘夏を相思社が患者とともに低農薬ではじめて、その販路をひろげてゆきたいということがひとつと、相思社の十年の歩みの中で患者の支援闘争をもっと具体化して、甘夏を通じて全国の消費者につなげる仕事についたということを知らせるという目的です。この甘夏は全水俣の甘夏生産の三割におよんでいるんですよ。その影響力は非常に大きいです。この甘夏は農協のシステムと違った配給・普及をしようということで始ったから、もう農協に戻れないんですよ。元漁民であり、そして患者であった農民にとっては農協とのつきあいはまだ浅いでしょう。それがこれから一生農協とはつきあわないかもしれないという重大な生き方の選択があったわけですね。相思社と自分たちの手で産地直送をやろうということ、そういった大変にジャンプした計画だったので、消費者にみせようという目的でつくられたものです。
 その費用の半分は水俣病患者果樹同志会の人たちが出すことを決めて映画を作り始めたんですけれども、その中で、低農薬しか使わないといったところがもっとたちの悪い除草剤を使った。そこで会の存在そのものが問われるというところまでいったんです。映画も、実は続行不能のところまでいったんですよね。というのは、もう撮らせたくないんですよねそういった弱みを。結局それをジャンプできたのは相思社の思想性というかなあ、患者から学んだことをもう一ぺん整理してみると、患者はいつもチッソや国・県が物事を隠さないで来てくれればこんなに被害は起きなかったしといったわけでしょう。これは患者から教わった大変な教訓ですよね。そのことにこだわって、患者にも、すべて隠すな、自らの失敗にむきあおうという線を打ち出したんですね。そのことが映画の思想になったし、ジグザグしたけれど「会とは何か」という原点にまで戻れたし…‥、やはり水俣でなかったらああいうことは無かったでしょうね。
 生半可な産地直送運動とか自然食運動とかだったらああいうものは出ないだろうけど、水俣体験というものが見事に結びついていたと思います。よくがんばりましたよ小池君、一之瀬君。だから、映画も水俣とのかかわりはあれで変わるんじゃないですか。僕たちも変わらざるをえないっていうか。

ー『水俣の甘夏』には大変感銘しました。『無辜なる滝』はみてないんですけど、土本さんは聞くところによると『無辜なる海』についてはかなりきびしい批判をされているということですが……。

土本 批判的じゃないが、若い人の映画にしては、なぜいま水俣かというポイントが、実際は撮れているんだけど整理されてないと思うんですよ、なぜ水俣にいま行って撮るのかという。水俣の事件史とか、水俣での受難をこうむった人たちの今日とかいったものを撮ったという意味では、かれらしか撮れない撮り方をしてると思うけれども。
 僕らの世代というのはいってみれば水俣の患者と同じ世代であり、胎児性の子供たちにとっては親の世代でしょう。しかしあれを撮った人たちは胎児性の患者の人たちと同じ世代でしょう、年齢的にも。水俣にはもっと水俣以外に不知火海全体に累々たるものが眠っているわけで、そういったものについてもアプローチはしておられるわけだけとも、なぜいま水俣にとりついたのかという意味での若いジャンプがあったのかというところが……、やっぱり水俣という現実に対する真摯な対話性でとどまっていて、そこからもう一つふみこんで今日時点での状況全体への強い批評性を持つみたいなところがね…‥。たとえばプロローグの水中撮影でとらえた汚染魚とじこめの封鎖の網が何の役にも立っていない、といった出だしに見あうシーンが終章に置かれていたらと思う。しかし編集はうまいですね。ある意味で”円熟”がある。そこが不満といえば不満ですね、ないものねだりでいえば‥…。

ー『水俣の甘夏』。これは水俣病で漁業ができなくなった人たちが共同で低農薬の夏みかんの栽培にとりくむ。それを花の咲く春から収穫のときまでを淡々と撮ったものですが、この記録映画のおもしろさは、その中にカメラを参加させることで、人々の生き方や考え方を前向きに変えていくということですね。たとえば、雑草駆除の農薬を使ってしまった人たちの立場をカメラで、とらえていくことで、もっとも後退した部分のかれらが、「失敗の会」という発想で全体をひっぱっていくところなど……。カメラが参加することによってそこに参加する人々の意識も変革させていくーこれがこの記録映画の特色だと思いますが。

土本 やっぱり今度の企画の主体が相思社ですからね。相思社のねらいは物が売れればいいというのではなくて、甘夏を媒介にして水俣のことを分かってもらおうというのが映画の元々の趣旨だったから。もしどこかのプロダクションが映画だけのかかわりや試みで、たまたま甘夏ということに焦点をあてていたら、あれをきっとスキャンダルで、ドキュメンタリーの常道を守ったような形で、あれをスキャンダルな運動の崩壊とか、人間のダメさかげんとかいった形で作りあげることも可能だったでしょうね。映画のスタッフも患者を知りすぎていることであえて写すことに長いためらいがあったでしょう。しかしやはり水俣にかかわった人たちであった。それで突破できたーもうひとつああいう映画を作らしめた相思社の力が大きいですね。だから運動主体と映画主体が実にがっちりと、その間にすき間が無かった。もっといえば運動主体と映画主体があの問題がおきたからより親密になったんじゃないですか。

ーこれはかつての水俣三部作をつくったときの土本さんの映画づくりをひきついだものといえるのではないでしょうか。

土本 記録映画には誰の方法っていうんではなく確実な製作の原則があるんですね。その原則をきっちり貫いていることですよ。だから個人の方法は多様だけれどもドキュメンタリーの原則はやっぱり相手から学び、ひき出し、それをクリティックしてゆくということしか無いわけで……。時間をかけてね。両方ともその意味で非常に僕は感心していますね。経験やテクニックの問題じゃないんだもん。

ーそれが今度の『海盗りー下北半島・浜関根』にもつらぬかれてるわけですね。

土本 まあそうしたつもりだけど見てもらわないと分かりません。映画を人にみせてゆくって場合、僕たちが映画館を借りて上映するならばそれなりに何時間でもかまわないってところがあるんだけれども、方々の活動家にわたしていくって場合、やっぱり時間は大きいんです。仕事が終わった時間からちょっと一杯ひっかけて家に帰るという時間を考えるとね。田舎だったらとくにバスの時間があるでしょう。そうするとやっぱりどうしてもねえ二時間以内でないとやりづらいというかね。今度のは一時間四十三分です。

なぜ原子力に反対するかー水俣からの発想

ー『海盗り』の編集はおととい終わったばかりということですが、少し中身をお話しして下さい。

土本 それに入る前に原子力エネルギーの平和的利用ということの問題をどうしても整理しておかなければならないことが僕の中にあるんですよね。それは原子力船であれ、原発であれね。その点ではいまの社会主義国をふくめて納得のいかないことが多いわけです。特にソビエトの原子力利用については、一切のデータが世界にやっぱり共有されてないしね。その事故についても共有されていると思われないし、中国が廃棄物を自分の国のどこか過疎の砂漠かなんかにもつてきて、世界中の廃棄物をひきうけましょうというような最近の報道が真実だとすれば、何たる国かいや何たる政策かと思いますしね。それから日本の進歩的な人々の中にもやっぱり原子力の平和利用ということについて、民主・自主・公開の三原則が守られるならば、基本的には未来のエネルギーとして賛成だという考え方がありますけれど……。僕はいま、あらゆる点で原子力は総資本の中心問題だと思うし、あらゆる国家管理、言論管理のテコになってゆくと思うし、軍事の問題にストレートにつながってゆくと思うしね。なにより一種の、水俣病発生以来の本当に人間が考えなければならない中心の問題として受けとめない限り、僕たちは大きく間違えるだろうという感じが非常に強いです。
 水俣をやって一番学んだのは、有機水銀中毒というのは、いまからわずかに半世紀前にその毒性が発見されながら、産業的利用の中で、まあたいへんな”毒物の平和的利用”ですね。そういった運用をやってきた中でこれだけの汚染をおこしたわけですからね、プルトニウムとかウラニウムとかの毒性を平和的利用の名の下にやってくることについていかなる意味においても僕は賛成できない。こういう立場が水俣をやってきて生まれた強い考えです。だから原子力というものをもてあそぶのは軍事も民事も同じだ。実に反人民的であり反人間的であり、反自然的であり、反階級的であるべきだと思っているわけです。
 まずこういう思いがあって二年前に『原発切抜帖』を作らざるをえなかったわけだ。というのはあの時は、反核、反核兵器を論じても、反原子力エネルギーを論じる風潮は非常に鈍かったと思うんですよね。それに対する一種の批判的な気持ちからあれを作ったんですけどもね。たとえば映画人の間で反核の署名運動がきたので、僕はそれはあたりまえのことだからね、それには賛成ということはもちろんだけれども、僕がなんで参加できるかということでいえば現在反原子力ということを考えているんで、だから「反核をふくむ反原子力」というカッコを入れて下さいっていうふうにその署名に応答したんですよ。そしたら五時間の論議の末、僕の賛成署名は反核をふくめて除外されたんです。それでは統一がとれないと。僕は個人の意見として、個人的に反原子力を含むということをカッコで入れてくれということをいったにすぎないんだけれども。
 それにはバックグラウンドがあって、一昨年あらゆる自治体をふくめて反核宣言や決議が出たときに、「含む反原子力」の問題まで提起した浦和市議会において自民党市会議員が猛然と反対して、そういうことであれば反核署名・宣言はできないといっていたし、東京都議会でも同じやりとりがあったと思うんですね。資本にとっては反核はすでに、権力の許容範囲内であってですね、原子力の平和利用だけは絶対に前に進めるという、これに反対するものは徹底的につぶすという局面についての危機感があった。そのことがあの映画を作らせたし、今回の映画も一つのモチーフはそこにあったと思うんですね。
 それともう一つは、なんたって漁民がですね、漁民の命運というものがめちゃくちゃにされてきていますからね。水俣の受難の深さ、暗さ、痛さをまず漁民が受けた、それと同じです。しかし僕たちが問題に気づいてある原発地帯を訪れたとします。原発が完成してしまったときには漁民はある意味で補償金をもらい生活を変えてしまって、そして外部の人にもなかなか物を言わないという状態になっている。その頃にようやく歩きだす。そしてやっぱりぴしゃっと閉ざされて本当のことは何も聞けずに帰ってきてるということが多いわけ。で、僕がたとえば運動をするつもりでそこへ行って、住民票も移す決意でそこに一年でもいれば、いろんなことが聞けるかもしれないけど、やはり僕は映画でしか仕事ができないから、そういうことで行ってるからうまく入れないわけね。ところが今度の下北の場合は非常にラッキーな手引があって、そういった渦中に入れるというふうに判断したので、何をおいてもまずこれは撮ろうということで始めたんです。
 
 原子力半島化の実態をとう視覚化するか

 土本 一番最初にみえてきたのは、その漁業の実情が反対するのが当然というくらい盛況なわけです。そこも知られてないでしょう。僕なんかがみても、こりゃダメだ、なんにも、誰も漁業をやってないというのとはまったく違ってたわけ。それがまず第一でしょ。それはすぐ撮れますよね。それからそれを売らせようとする工作が進みますね。そういうのはオープンでやられる限り撮れますよね。それから今度は売らないという人の気持も撮れますよね。そうすると今度はどうしても売らせたいからいろんな策略をやるわけ、そうするとここで海の盗み方のテクニックが見えてくる。しかしすさまじい談合の場面や、隠微なひそひそ話のところは盗みどりとか、強要的なカメラでないととれない質のものです。だからそういう手法では撮ろうとは思わなかった。その結果、あとに工作の痕跡が歴然と残る。「これだ」と確信できるものがいくらでも撮れるわけです。だから海をどうやって盗んでゆくのか、漁民社会のどういう弱いところをねらって盗ってゆくのか。漁民の闘い方のどこに落とし穴があってつい後手後手に回ってしまったのか。そういったのが前半の話です。そしてついに負けてゆくわけです。反対派は海を盗られてしまうわけです。その盗られる過程を漁協の臨時総会に文字通り非合法でもぐりこんで、ともかくそれの核心だけはとってきました。それが第一部といえるものですね。それから『海盗り』という映画が展開していくわけです。
 盗られたバックグラウンドを探っていきますとね、僕たちは関根浜なんていうと東京にいると、あれ、聞いたこともないって土地ですけれども、関根浜からみるとたえず権力から目をつけられていた土地なんです。戦争中はバックに大軍港があるわけで、最前線で準上陸用地点の重要候補だったですね。まあ戦争中ほとんどの海岸がそうだったからそれはもう言いませんけど。次に、沖縄で勝手なことをやったり富士山麓でやったりしている米軍の射撃場だったんですよ、関根のとなりの海岸が。土地を完全に米軍に接収されていたんです。
 海へ実弾射撃をばんばんやって。そりゃ多少の補償金は当時支払われたといいますが。そういったことで朝鮮戦争が終わるまでそういうのに非常に好適な土地ということを権力はちゃんと実地に知りぬいているわけ。まず第一に人がわずかしか住んでいない。それからいろんな意味での情報のとどかぬところ、逆にいえば情報のそとに洩れないところ、つまり日陰地帯ということになっていた。それともう一つは、今日の三海峡封鎖をふくむ軍事地帯として、実に軍事施設の適地として再三候補にあがり、ねらわれた土地ですよ。だからたまたま「むつ」の母港として偶然関根浜がねらわれたということではなくて、僕たちの知らないところで軍事支配の意味でも原子力半島にしようという企てについても、あるいは廃棄物処理とか再処理工場とか、そういった核の集中的処理の意味でも、またそこの人々の意識の条件、自然の条件そういうものをかれらなりに調べ、把握した上で事を始めたということを知ってゾッとしましたね。
 それからもっと眼を展開して、なぜ「下北」とつけたかというと、下北には六カ所村があるでしょう。六カ所村の巨大開発「むつ小川原開発計画」、これは五五〇〇ヘクタール盗ったんですけどね。その広さは、たとえば東海村の全原子力施設を合わせても七百何ヘクタールでしょう。五五〇〇ヘクタール盗って海の漁業権は七〇〇ヘクタールぶん盗ってますからね。それだけ盗った経験のある下北の北端にまた原子力船「むつ」がくるわけですよね。そうすると僕としてはどうしてもかつて十五年前からこの地を襲った開発というものが、そういう人たちにとってどういうものであったのかを知りたくなります。漁民同士で意見を交流しているのかと思ったら、やはりというか、漁民の十五年間の苦難を下北全体に伝えていない。まして関根浜に伝える手だてがないんですよ、漁民自身では。関根の人もそこに行って聞く手だてがないんですよ。それはいろんなことでそうなるんでしょうね。しかしもうすでにやられた六カ所村の人たちは、なんとしても関根の人たちがむざむざまた海を盗られては見るにしのびないと思っているんです。がんばり抜いて海だけは残しておかなきやと思ってるわけ。まだ関根がやられてなければ、この点とこの点に注意してがんばってほしい。たとえば「漁業権放棄には断じて同意するな!」といったことです。だけど関根の人は自分のとことそことは事情が違うということで、そこへ聞きに行こうとはしないわけです。海はつづいているが漁民は漁区ごとに切断されているんです。そういったことについての、僕の下北半島全体についての思いがあるわけね。だから、下北の各地に行って意見を聞き助言をもらい、あるいは関根の人に対してこの話を聞いてもらったらヒントになりゃせんかということで、いわば下北学習の旅が始まったわけです。その中で僕自身が映像でつかまえられるものは全部とってきたから、軍事とか原子力とかの実態がほとんど視覚的に、撮れてきた。
 それからもう一度関根に戻りますよね。そこでもう海は売ってしまった。海はもう自分の手に戻らないと本当に皆が思っているのかどうか。
 そこで下北半島についての希望を投げてしまっているのか。あるいはダメだと思ってもなおがんばりつづけるのかということを見たいわけです。そうするとがんばるにはがんばる根拠というものがまだ生きつづけていなけりやいかんでしょう。漁業についてはまだかれらは原子力船が来なければやっていけると思ってるし、自分たちの漁法をさらに工夫すればやがて若い人も戻ってこれると、漁業者の生活基盤は安定できると思っている。その根拠とする自然、魚況、漁法、そして人間がちゃんとあるわけですね。そこも撮りたいわけですね。それを撮ると今後は、今下北の北端で、支援もなしにがんばっている少数の反対派の漁民はどういう考えにかわりつつあるかを聞きたくなる。すると、やっぱり組合自身というか、若い漁民世代が旧漁協の老害人種にかわって革新していかなければだめだということでやってるわけですね。そのうちの一人がたった一人で裁判おこした人がいるわけです。その人の中には外部の支援とか何とかよりも、まず組合で俺が一人で闘うことから始めていかなければ何事も始まらない。皆、村八分をおそれて口をつぐんでいるが、かれらも漁民であればいつか組合を、本当の漁民をひきつけてゆくだろうという未来にフォーカスをあわせた連帯感というか、相互信頼がその人の中にちゃんとあるわけね。それが撮れたときに大体映画は終わるわけですけどね。
 状況を先取りしてね、こうしたら勝つだろうとか、もっと支援があったらいいなどということは絶対言えないし、言わなかった。しかし反対し、闘う根拠は何かーそこまでは、真実としてみえたところまではきちんと描いたつもりです。ただ”海盗り”ということでいうと、海に対する考え方は、国の考え方はあくまでも国の海であり、「民に使わせている」という神経が抜きがたいけれども、海辺に住む人々の考え方はあくまでも自分の海なんですね。だから政府は盗ったとは思わないだろうけど漁民は盗まれたと思ってるんです。それからいったん漁業権をとりあげた海に、漁民が入ることを政府は非合法・違法とみるだろうけど、漁民にとっては正業(生業)なんですよね。正業をやれば罰せられてゆく。こういったことの痛み、その不当性というのがはっきりみえてくれればと思います。
 それを実行している漁民が下北にいますからね。漁業権売り渡しに承服しなくて彼あてに出された補償金も受けとらないでがんばっている人が、百%漁業権の消滅した鷹架沼で今も公然と漁業やっているわけです、禁止地帯で。その人は金もらってないからね。この人は自分の漁師としての生き方を金をもらって売ってないもん。でもこれは関根じゃなくて下北半島、六カ所村の十何年も闘ってきた人々の、一万人の中の一人というか、何千人のうちの一人ですよ。でもそういう人が生まれてきてるわけですよ、一万分の一というか。だからもし関根の人が一人がんばれば一千分の一でしょう、パーセンテージとしてはすでに高いですよ。

 危機感にかられて資金力ンパ協カー総評

ー土本さんはよく、記録映画をつくることは人との出会いだといわれてますけども、今度の映画では、一人芝居をされた松橋勇蔵さんとの出会いが大きかったんですか。淡谷のり子さん、泉谷しげるさんも参加した日本教育会館での資金あつめコンサートも大成功でしたね。

土本 かれとの出会いがやっぱり大きかったですね。入口をちゃんとつくってくれて最後まで一緒にころげまわって悩んでつき合ってくれましたからね。コンサートも大成功で、あんなこと僕はやったことないからびっくりしちゃった。今度はやっぱりいろんな人が支えてくれているという感じがしますね。今までの原発反対運動だとどこか顔のみえた人ばっかりだったんですけど、今度は松橋さんという人が持ってる一つの世界があったろうし、僕が持ってる世界があったし、原発反対運動の持っている世界があったし、だから水俣よりも関心の幅、間口はひろいみたいですね、深さは別として。

ー上映運動はどうい形ですすむのですか。

土本 四月の半ばから青森県は主要都市ならびに各漁村上映。漁村上映はちょっと遅れますが、スタートします。それから、全国の上映委員会づくりというのはこれからオルグをとばしてやっていくんですけど、今度の映画で僕はどうやったら漁民の人たちがこれをみてくれるかを考えています。全国に五〇くらいの都道府県があると思うけど原発問題で海が荒らされている、あるいは海盗りの話が出ているところがほとんどなんですね。原発間題だけで三十何県ですよね、問題となっているところは。あるいは石垣島みたいに空港間題、あるいは石油の洋上備蓄とかね。そういったことで漁業権を不法にとられていっているところは非常に多いです。僕はこの映画を撮りながら長崎県・上五島の備蓄基地へ行ってみましたが同じですよ。まず海を盗るテクニック、その言い草と漁民に対するだましのテクニックは同じです。そういった意味で漁民にみてほしいけど漁民が映画を文化運動としてやる習慣はまずないと思いますからね。だから結局近郊のまわりの人たちが上映運動をどうやってそこに持ちこんでくれるか、そういったことがしやすくなる方向を僕たちがどれだけつくれるかということでしょう。
 『原発切抜帖』を僕が一番自由に出入りできる漁協でやったらね、みんな寝ちゃったんです、活字ばっかりだったから。(笑)

ーコンサートで今度の映画のラッシュをみたんですけどとてもきれいな海ですね。

土本 きれいな海ですよ。それにきびしいし、恐い海ですよね。何たって自然の残ってるところ、辺境がまっ先にねらわれるという不思議なアイロニーがありますから。水俣でもやたらにきれいですしね。僕の作った映画以上に本当はきれいなところです。そういったきれいなところに毒がまきちらされる、まきちらされたから発展しないですよね。発展しないから東京湾のようなものをみている人にはまことに自然がたくさん残されたようにみえる。海は東京湾とは比べものにならないくらい汚染されているでしょう。でも下北はまだ、敵の侵略のテンポが遅いから、自然が残っているから、残っているうちになんとかなればと思いますね。下北には五回くらい行って、ロケはのべ五〇〇日くらいです。今度はお金は最初、フィルム代の他一〇万くらいしか持たずに行ったんですよ。ともかく原子力船研究事業団と関根浜漁協の間で漁業補償交渉の機会がもたれると、そこに青森県当局が介入してね、その一晩のうちに海を売り渡すハラを決めさせるという日が急に耳にとびこんできたんです。あれは、八三年五月三十日です。製作資金なんかありやしないですよ。今度そういうことでスタートして、映画資金づくりが準備できなかったから、そういった点では、製作上の苦しみは水俣の比じゃなかったですね。水俣もつらかったけと、一定の運動の先駆形態がありましたからね。めやすがつけやすかった。今度はまったく支援ゼロといった状態、以前に大湊に「むつ」があったときにはたいへんな闘争があってその闘争の組織が残ってるんです。残ってるんだけども内湾の場合には明快にみんなにわかるスローガンがあったんですよね。要するに欠陥炉であるということ、内海むつ湾でこんなことをやったらホタテが全部だめになる、なんでこんなもんをもってくるんだということがはっきりあったでしょう。ところが今度は炉は直した、そしてその当時からみんなが「たとえ国策でも外洋ならともかく内湾は困る」といってたが、その外洋へ持っていった。だからズッコケちゃったんです。むろん何人かの人は心を痛めて動こう動こうとしたんですが、漁民の中に有効にとけこんで支持するっていうことができなかったんですね。ビラまき程度です。だから闘争資金とか、まして映画をつくる資金とかは、やってる間は本当にできなかったです。
 今度面白いことに労働組合運動とのむすびつきができました。青森県評が今年の一月から始まった「むつ」の騒ぎで、いちばん心配している下北半島をまるごと原子力半島化するという権力の意図が、廃船廃港の騒ぎの中であぶり出されて出てきたし、また再び大湊を母港にするというこんたんもありありですからね。それで大きく動きはじめました。画期的なことですが、青森県評が製作費の半分まではなんとかしようということで現在資金カンパをしてくれるようになりました。資金カンパをするということはすなわち映画をみるってことですから実のある話です。すでに七〇〇万か、八〇〇万円つくってくれたんじゃないですか。今度の映画は二五〇〇万くらい完成までにかかっていますが。それから総評の国民運動部会がこないだの原発立地県の県評の連絡の会議で、この映画を総評として推進していこうという、資金の点でも、総評の名において傘下の組合員に呼びかけることを決めたんです。これは今までの僕の映画には一度もなかったことなんです。これは大きいし、画期的なことです。やはり情勢、みんなの共通の情勢判断、今、本当に下北について知って、共有の情勢判断をしたら「むつ」に関してはつぶせるかも知れないと。そのつぶせるというのは、同時に下北半島の軍事化についても、つながって、クレームをつけていけるというふうな、非常にアクチュアルな現地の危機感とこの映画のテーマが一致したのだと思うんです。この一月以来の危機感の高まりの中で、この映画が完成段階をむかえていたというのは幸運なタイミングでした。ことし八月末に政府は「むつ」の廃船の是非をきめるといっている。その「むつ」が廃船になるかどうか分からないあいだに「廃船すべきだ」という主張をもった映画ができたということは、かろうじて映画が間に合ったという思いがします。

 社会主義国の核、日本の映画、記録映画の原則について

ー先ほど社会主義国の核についてお話しがありましたが、もう少しくわしくお話をお聞かせ下さい。

土本 僕はジャーナリストとしか会ってませんけど、かれらは非常に明快に原子力を肯定しますね。だからソビエトはそういうことにちゃんと注意を払っているし、今のところ事故は起きてないし、そのまわりには牧場があり、牛はミルクを出している。放射能などの問題はここ十数年起きていないなどということを理由にあげています。
 社会主義国の人々もシビアに危険物質ということは知っていますが、その安全については社会主義国は人間を重視しているから事故などがあったら資本主義国のように隠したりしないで、ちゃんと直してゆくという、社会主義国特有の力が働くということをふくめていっているんだと思いますけど、そればっかりではすまないようなデータがでてるんですね。「ウラルの核事故」とかね。かなり実証的に科学者が書いた『ウラルの核惨事』(ジョレス・A・メドページェフ、梅林宏道訳・技術と人間)というのもあります。ソビエト政府は発表してませんが。
 核廃棄物の問題でいっても、世界の核の科学者がそのスタート時点から今日まで解決案をもてず、南極の岩盤の下にうめよとか太陽にロケットでうちこめとか、僕たちの知っている範囲ではこれを地球上におくことそれ自体撞着していると考えられています。大体において東西を問わず原爆核兵器所有国はその所有の意志を決定したときから、その「平和利用」については故意に楽天的に描き出したという気がしてならないんです。
 ー話は変わりますが、さいきんの日本映画の衰弱ぶりははなはだしいものがあると思いますが、何か日本映画でごらんになったものがありますか、もしあれば、それについて、あるいは同じ映画作家として日本の映画作家に対する意見があれば、最後にお聞かせ下さい。

土本 日本の映画ですか。あんまりふてませんね。えーと『魚影の群れ』をみました。『楢山節考』もみてないし、大島渚のもみてないし……。あんまりみる気しないんです。僕はどうも、いわゆる原作のある映画は本でよむべきで映画にするという着想がどうもダメだと思ってるんですよ。原作のある映画はついに原作の水準をこえられないですから、原作以上にはできないですからね。原作はベストセラーであったり、面白かったりするんです。だから原作ではなくて確実に映画作家の眼としてつくりあげたメッセージを提出しなければだめだと思います。外国にだって原作映画はたくさんあると思いますよ。しかしどういうものが原作であったかを調べてみるとびっくりするようなものを原作にしているんですよね.人が見落しているようなパンフレットだったり。やっぱり人民の中に深く考えを沈めてそこから発想するような回路を映画作家が自由にもてない限り、いい原作を演出的な処理で、あるいは撮影的、技術的処理や才能でやっていけるようなものはないし、先がみえてますよ。そういったものに衝撃力はもうないですよ。だからSFや恐怖映画なんとかの方がショックの意味じゃ強いし、観客はそっちへ行くんじゃないですか。別に原作を否定はしないけと、本当に映画じゃないとできないものもありますしね。これは劇映画でやってみたいということはいくらでもありますよ。でも僕はまだそれを記録映画でできるからそれをやってるわけです。
 だから『ヒロシマ』という映画が日本でできたとき、やはり広島への原爆投下を憎んだ人たちによって作られたし、『基地の子』という映画も知らない人に知らせる意味を持っていたんですが、今は知っていることをどうあるかということでしょう。たいていのことはみんな情報として知ってますからね。なぜ映画でそれをとりあげるのかということは作家が本当に問うて映画をとらない限りは、なかなかよく映画化されているとか、いい映画だという範囲のことでは僕はもうあんまり……。

ーカメラを持ちこむとき、人々にカメラをむけるときなかなか苦労されたんじゃないですか。

土本 原発の問題というのは最も撮りたい原発内部は撮れないし、その労働者もつよい管理と監視下にあってなかなか記録映画に撮れないものです。秘とくの壁の最も厚い世界です。だから今回やっぱり海を売るか売らないかという漁民の側から映画を撮りはじめました。いまだ管理下にない、生業のさなかの漁民だから撮れたのです。いままで原発に関する映画は黒木和雄監督の『原子力戦争』と記録映画で敦賀の運輪一般労組が作った、いわゆる渡り鳥労働者とよばれる原発にたずさわり定期検査でひっかかった人たちを撮ったものがあるくらいで、あと『原発切抜帖』でしょう。たまたま僕のは海に即したから撮れたので、原発労働者の映画なんかは絶対といっていいくらい撮れてないですよね。
 撮影については非常にやわらかい対応でしたよ。たとえば非公開のはずの漁協総会のシーンでもカメラをゆるしてくれました。どこかで映画とテレビを区別してみていましたね。もっとも撮るまでには浜の人々と知りあってるし、子供むけの映画会や、学校での映画会をやったりして僕のことは知ってくれているからキャメラをむけてもね…。テレビ局の取材チームは各社「取材協定」をして、紳士的に総会シーンをぬけがけしてとらないということになってるし、お互いに足をひっぱりあって一斉にカメラを引きあげるんです。ところが僕たちは幸いなことにジャーナリズムのいかなる協定にも属してないから、山賊みたいな存在だから思うままに撮る。だから取材はフリーではなく、テレビの世界にはつねに自己規制があるってことです。かれらの中に協定があって協定をやぶると相手から情報を提供されず、記者クラブからの除名あつかいは死にひとしい。僕らはもともと当局や機関からニュースをもらわないという世界に住んでいるから、かれらと違った取材・報道の系に頼るほかありません。それは大きな損もしてると同時に、大きな自由ももってますよね。最近の少年少女雑誌のポルノ規制なんかは絶対反対です。こういった表現に対する管制は報道に関する管制につながるし、現場に対する管制につながりますよ。初めはポルノとかではじまって、次は一切の自由をなくしてゆく方向に走っていくのが常道ですからね。だってそういうものに対する制裁の方法は本来読者自身がもってるんだもの、買わないとか、みたくないとか、お上の手でやってもらういわれは一切ないですよ。セックスなんてのはうんと早いうちから知っておくのが間違いないですよ。僕ら抑圧されて小さいときから興味があって誤って理解したためいまでもずいぶんばかなことをやってますけど。
 カメラはいつも正面から撮ることです。撮れないことは、映画にうつらないわけですから、隠しどりは一切しないというか、誰でも正面から撮るのが原則です。記録映画はいつもノゾキとかいうけど、ノゾいて撮れたものの質は何らの表現にはならんと思うんです。自分で責任もった表現というのは、やっぱり正面からあなたの声を聞きたいとか、あなたの心の中をうつしたいとかいうふうにいかない限り表現にはならない。結局人々の心の中に資料とか記録として残されてゆかないからね。しかし大体拒否されますよね。その中で撮れたものを探してゆく。今度賛成派の漁協の組合長のインタビューなんか、廃船論のかまびすしい嵐のあとで撮りにいきますよね。そうすると自分が愚かだったということをベースにした人に言わない言い方で取材を批判しますよね。自分は今後廃棄物の処理工場が関根浜に釆たら、自分の流儀でやっぱり反対すると言います。だから日本の政府・中央の政府に対する不信はぬきがたいと言いますし、逆に、こういったことはテレビじゃないから言えるのかも知れません。テレビだったら言ったとたんにその晩にでもブラウン管に流れるでしょう。その問題に関心のある人にみせたい。みたくもないのにちん入する気はないですよ。ここでは取材者をみわけますよね。テレビの方に出たがる人もいますが、テレビには出たくないというのが普通じゃないですかね。むつ市長の菊池さんはこの映画の推せん者です。かつての「むつ」追い出しの当時の市長、その後かれは選挙に負けてしまうわけです。いつもシーソーゲームで勝ったり負けたり。河野市長が勝ったときに「むつ」関根浜への受入れが行なわれたわけです。それでひきうけてやってもたもたしてるうちに今度は萄池さんが勝ったんです。むつ市民の選択があったんですね。だからかれは市長として、市民に対してこの映画に一つ〇円でも二〇〇円でもカンパしようと訴えかけたわけです。それは大きいことだったですね。この映画はこれからの反対運動の手段になってくれればと思います。反対運動をやっていく上での入口をつくっていく。北国の運動は夏ははやるんです。冬は雪にとじこめられますね。人がこない。だからこれから夏にむかうからいいんじゃないですか。水俣なんかは常夏の地ですからいつでもだれでもゆきますが、下北なんかは冬はちゃんとしてないと死にますからね。ちょうどいい時に映画ができるし、むつの廃船かどうかが八月に決まりますし、映画上映は夏にむけちょうどいいと思っています。
 (聞き手・編集部/広野省三)