「海盗り」と映画撮り 心の痛みと政府不信の呻きを撮る 『公明新聞』 7月3日付 公明党機関紙局 <1984年(昭59)>
 「海盗り」と映画撮り 心の痛みと政府不信の呻きを撮る 「公明新聞」 7月3日付 公明党機関紙局

 正直に目的を喋る

 「むつ」の母港に擬せられた下北半島・浜関根の日日……よく「映画は現地に入りこむのはあたり前だろう」と言われるが、映画を撮る人間だから入りこめないのが事実である。”盗(撮)って逃げる”点でスリ・カッパライと同じ行動とみられなくもない。ましてTVは妙な媒体だ。漁協総会直後、皆カッカッと頭のほてってる最中に、マイクをむけられ、その”チョット失言”のところや、あるいは紋きり型の”敗戦の弁”ばかりつないだりして、たちどころにその日の茶の間のブラウン管で流される。ビラ・チラシのたぐいなら読まずに棄てられるが、ブラウン管とのなじみ工合と、その強制力はやはりすごい。つい見てしまう。「あれ、もちっと違ったことも言ったはずだがなあ」とつぶやくのが精一杯。だがこの”失言”でムラはゆれる。電話はどこもお話し中になり、うわさは闇をつんざいて一夜で走る。
 だから私たちは取材の目的と発表の方法、そして聞きたいポイントを正直に喋ることに決めてきた。まず「映画です。一年後に完成して、この問題に関心のある人に見せます。聞きたいのはこれこれです」という。相手のひとから「反対派か賛成派か」と無駄なことは聞かれたためしがない。というのは、浜関根ずい一の反対派の網元(松橋漁業部)の番屋に寝泊りしていることはこの地に足を入れたときからムラの人に知られているからだ。もっとも、映画班のあいさつビラを全戸にまいてあいさつめぐりをしたり、集会所や中学校でおメミエ映画会をやったりして仁義を切ったものの正体はもはや「何を隠そう……」なのである。だから、断られる場合はす早い。脈があれば確かだし、あいまいのひとなら接触をくり返す。そんな撮影の日々のなかで、まず、ムラの海をとり、漁をとり、浜の自然の朝夕にカメラをむけるとき、ムラ人たちは欲得なく笑み返してくる。ムラ挙げてのコンブ漁のわななくような情況のなかの男・女・子供は誰しもレンズに笑い顔をむけるのだ。
 だが海を売るその痛みを撮ろうとすると表情は固く、拒絶的になる。

 選ばれた理由

 カメラを持たないと、ムラのひとの口もなめらかになる。その時本音が流れ出るようだ。「原子力船が安全なものなら、東京湾に母港をつくるはずだべし。いく分危険なものだから、こんなところにもってくるのだろうさ」「自然の条件はヤマセも小さいし、波の立たねえむつ湾(大湊)がいいに越したことはないが、ホタテ漁民は反対の意思が固というところで……。人間の条件のいい(つまり人のいい)浜関根にもってきたんだべし」「むかしから軍港・大湊のかけで国策には慣らされてきた土地柄だからだ」とほとんどの人が、この地を選ばれた理由を挙げることができる。すでに先刻御承知なのである。その選ばれた理由こそ実は彼らを探く傷つけているのだ。
 ときに、現地闘争本部のスピーカー付宣伝カーが浜にくる。革新政党の地元代議士が浜からたったひとりでボリューム一ぱいに挙げて、家にとじこもってテレビをつけっ放しの人びとにも伝わるような音量で訴える。その趣旨は右にのべたことと同じである。だから、「現地をバカにした話だ。これを許してはならない」と結ぶ。そこにはムラの人に耳障りな挑戦的言辞はいっさいない。「賢明な皆さんなら、反対を選ぶであろうことを信じてやみません」で休止するのだ。私はつい言葉を胸の中で繰る。
 「ここの人はバカにされている理由をあなたより倍も知りぬいています。でも浜に出てマイクをにぎる貴方の前に出ることもはばかっているのです。賛成派の人ですら”気の毒に、反対派ぐらい浜にいって聞き役になって拍手のひとつもやってやったらどうだ”と気をもんですらいるでしょうに…」と。
 無人の浜で虚空にむかって「……御静聴ありがとうございました」と深々と頭を垂れる姿がある。それが誠実だろうか。地元の選良で同憂の士であるなら、なぜ「顔をみたい。私から会いにいきます」と歩き出さないのか。住民も選良もともに後味が悪かろうに…と思う。

 受難を受けたムラ

 ある日革新系無所属の参院議員が訪れた。日本中の環境破壊・開発・原発地点をその眼で見るための体験旅行だった。滞留一時間。氏は持論の「土建資本亡国論」を噛んでふくめるように語って、二、三の質問をして現地を見た。わずか五、六分である。秘書の役をする夫人がスナップ写真を撮るのも急がせて、帰っていった。おそらく中央での氏の持論は更にこの現地体験で厚みをますであろうが、現地の声をいくばくか把ええたであろうか。「中川長官のときも五、六分だったナ」とムラの人は思い出す。
 受難をうけたムラに、非礼があってはならないのは自明の理であろうし、騒がしさは避ける礼儀はあろう。しかし「海盗り」の側の県や原子力船研究開発事業団の現地担当者は夜射ち朝駆けで戸別訪問しているのだ。地元の人たちの「騒動の日々」はより騒動を経なければ終りがない。いまもっぱら知りたいのは他人の考え、中央の動き、そして他の地方の同じ受難の人たちの経験ではないか。多少ごぶれいでも膝を割って話しこみにくる人を実は心待ちしているのではないだろうか。それほど孤立しているムラだ。だからこそここに廃船をもってこられたのだ……。ならばだ!
 こう思い定める日がロケの半ばすぎに私たちに来た。「反対派の宣伝映画班」のレッテルをおでこに貼ったまま、賛成派の阻合長や、反対から賛成に”寝返った”漁民の下にカメラとマイクを運んだ。「映画だな」「TVじゃないのだな」と念を押して喋り出す。そんななかから辛うじて漁民の心の痛みと、賛成派のドン・漁協組合長の政府不信の呻きなどを撮ることが出来た。この映画『海盗り-下北半島・浜関根』は非礼な映画作りだったかも知れない。しかし非情ではない…その先の想いはあると思っている。許していただきたいの一語につきる。 
 (八四・六・一二)