『無事なる海1982年水俣』をめぐって〈鼎談〉 対談 『映画新聞』 第5号10月 映画新聞 <1984年(昭59)>
 『無事なる海1982年水俣』をめぐって〈鼎談〉 対談 「映画新聞」 第5号10月 映画新聞

久保田 水俣の映画を土本さんが撮り始められてから十数年で、映画も十数作品。そして今度新らしい世代の香取君が「無事なる海」を撮ったのですが、何故、水俣で映画を撮る気になったのでしょう。

香取 水俣で川本輝夫(チッソ水俣病患者連盟会長)さんという自分の実人生にとっても非常に魅力あふれる人間との幸福な出会いがあって、その中で学ぶうちに川本さんだけでなく多くの患者さん達の魅力にひかれていってね。今でも水俣病という間違いが続いていることを知らせたいと思いました。僕はこの人達の存在感の魅力というのは我々の生活に何か与えられるんじゃないかということをつくづく感じました。そしてそのことを多くの人に伝えたかった。

久保田 初めて水俣へ行かれたのは。

香取 一番最初は、7 4年の想思社の落成式です。公害の勉強がしたくて東京の自主講座に参加しているうちに直接被害者の当人に話を聞く方が勉強になると思い春休みを利用しカネミ油症の座り込みに行きました。そしたら、そういう勉強なら相思社という所で落成式があるから行かないかってことになりました。その時、案内してくれたのが川本さんで、水俣のいろんな問題のある場所へ行ったんです。丁度、百間港で土本さんが映画を撮っていて紹介してもらったんです。大変なところで撮ってるんだなあと思ったんですけど(笑)
 今まで多くの人は、お前どうするんだと厳しく間うんだけど、川本さんは何も問わない。只、一人一人いろんな患者さんを紹介していって僕が驚いたのは、寝たきりの孝子さんの家へ行ったとき、我々ならちょっと話しかけられないんだけど川本さんは、ススッと「テレビみたいんか」とかはなしかけるんです。だから水俣病がどうしたとか言わない。後についていった僕は川本さんは一体何を伝えたいんだろう?なんだか後姿をみてジーンときました。俺はこのままただ単に生きていていいのだろうかと感じて東京へ帰ってきた。何か手伝うことはないかと思い集会とかデモにいって、そこでも出口さんっていう人に出会って、そして初めて環境庁交渉にいったとき、彼は「香取君初めてだから聞いたらどうか」って入れてくれるし、すると自分なんかこのままでいいんだろうか、頑張らなきやって。そしたら今度、川本さんの裁判を支援する組織ができるっていうことで、又、水俣と深く関わるようになったんです。川本さん個人を通じて水俣現地へ行く機会ができた。
 その中で多くの患者さん達に出会いました。

久保田 その時は映画を撮るということは考えられていましたか。

香取 かなり意識していましたね。カメラは持って行きました。その時はもう水俣と関わって八年位たっていました。

久保田 以前には学園斗争なんかの映画撮っていたんでしょう。

香取 自分の表現手段が映画であって個人的に好きでやってました。なぜ水俣かといえばやはり川本さんの個人的魅力で一言一言が自分の心を揺さぶると感じもした。

久保田 最初にどういう映画を作ろうという出来あがったイメージはありましたか。

香取 川本さんの映画を撮るんだと意気込んで行って。魅力を伝えなければと。で向うで相当反発くらって、お前は川本を月光仮面にするつもりとか言われ、川本さんにも撮りたいと四回程手紙書いたり、いろいろ頑張ったけど、自分の力量ではどうしようもなく、結局川本さんの映画は撮れなくて川本さんにも「わしを撮るよりも、もっと苦しんでいる人がいるからそこで一年間住み込んで撮った方がいいんじゃないか」って、その通りだと思い、川本さんの映画はやめますと手紙にも書きました。そのあと自分の撮りたい余地があるのかどうか模索していました。その中で今回映画に出ていただいた人達と出会いました。一時はもうやめようかとも思って、そんな時小崎照雄さんが協力しましょって、それに感激してまたやろうと思った。これはもうやはりやらなければいけないと思いました。

久保田 フィルム工房も青林舎も、水俣に住んで手伝って、もう映画を撮ることが目的じゃない位つき合って、そこの生活それ自体がほとんど目的になっていて、それでなおかつ映画ができる。それだから映画ができるというその辺の微妙なニュアンスはどうでしょうか。

土本 香取君が言ったように最初に川本さんと撮りたいと思いあきらめてそれでもやっていったようなことだよね。映画のプロフェッショナルとして入る入口もあるけれどあなた達のようにまず現地に映画はできるかどうかわからないが、キャメラと機材を持ってそこで何人か住んじゃうということが映画を決める一番の大きなファクターで、自信もないけど自分達を励ましてくれる人達と付き合いながら映画を撮れたらという願望で既にキャメラを構っていっているという仕組を作った、若さナイーブさが映画を決めたところですよ。それに、水俣を中心に水俣の活動は組まれているけれど、彼等の選んだ福浦女島というのは、水俣の運動の中では飛地のような所で、とかく運動が強く影をささない。そこに居を構えたことを僕はすごく有難いと思った。映画を撮るだけでなく生活の中でも彼等はその地の人々のいろんな手足となることをしているわけで、そこでは水俣の中とは違った視え方がしただろう。もっと棄てられている、もっとナイーブに自分の体を抱えて苦しんでいる人達が視えてくる。意識的にそういう所を選んだと思うけど運動としても人手のないところを補いながらやったのが映画にも反映していますよね。
 頭からどういう映画を作るか決めていかなかった良さと限界が撮っている過程にあったと思う。それを仕上げの中で克服し克服しね。自分達の打たれたものを素直に出していったというところがこの映画の人をうつものがある。
 限界としては、撮影の記録性は実に克明にあるけれど、なぜ今水俣かという構想力は不足していると思う。なぜ今水俣に居て訴えねばならないかという点では、前半、ヘドロの水中撮影をして問題提起をしている。あるいは天草まで眼を拡げているということはあっても、君達が映画を撮っている中に大きかった権力の水俣つぶしの意図というもの、患者の斗い、充分この映画は撮られていない。これは作品の良さを低めるものではないけれども

久保田 撮影期間はどれ位。

香取 カメラが回ったのは、最後の三、四ケ月ですが、四人で住み入んだのか一年二ケ月、その前僕がいったりきたりしたのが二年です。最初、すぐ回しても仲々使えるフィルムはでないからある程度焦点をしぼってから撮ろうと…。スタッフでは、素人は素人ながら水俣の問題をどうするんだということを真面目に考えた。住んだ場所も三ヶ所、案があって水俣市内というのもあったけど一番可能性がなかった。結果的にはそれがよかったんですけれど。

久保田 当初はかなり患者さん達の交渉などを撮っていたんでしょ。それを編集の段階で大分苦労したらしいですね。

香取 それはさっき土本さんが言われたような形での権力の問題なんかの構想がきちんと捉えられてなくて、こちらの水俣の現状認識の浅さが交渉のシーン撮っても図式的で、入れるのならこちら側の視点がなくてはならず、そうでなければやはり撮れるのは、行政が悪いとか言い尽くされたようなことになってしまって…。

久保田 映画を撮るとか上映するということは患者さん達のところへ行ったり話したりすることの大事なきっかけになるでしょうか。

香取 水俣にいる以上、自分達の立場、基盤を明らかにしなければならない。相手にすれば何してるのか不安ですからね。実際明らかにしないで撮れるかも知れないと思って結局最後まできりだすキッカケがなくてシャットアウトされた例もあります。

久保田 出来あがって患者さん達に観せに行ったときどうでしたか。

香取 出てくれた人は全員観てくれました。とにかく観てもらうのが礼儀だと思って。そしたら自分達がこんなことしゃべったかなって(笑)小崎君のおかあさんなんか、「いやにドラマチックにできてますね」ってそんな感じです。

久保田 土本さん、映画を撮って、編集するとき、田舎の人と東京の人が観るのと観客によってどう違うか意識されますか。

土本 そういうことは配慮し尽くしてるというか、患者さんがしゃべっていることが患者さん個人の利益からプラスなのかマイナスなのかということ。もっと深くいえばこれは近所に揉め事を起こすなということはあるしね。そういうこと考えて撮るけれども最後は僕自身が観客として納得できるところでしか編集しない。あとは撮ってしまったという責任があるからね。
 この映画でびっくりしたのは小崎達純君が社会的な眼を非常によくもっていたことだね。空港に水俣のパンフを置いて世界中の人に見せていきたいというのは、自分自身が晒者になっているというか被写体になっていることを充分呑み込んだ上で、自分が病気になった上でできることを語っている。あれは非常に感動しました。

フィルムが映画の中で使われているけれど、10年後、別のグループが撮った映画としては似ているその中で達純君の生き方のつながりがあって印象的でした。

土本 一人の個人史を結果として16年の時空を隔ててもう一遍くみとるということが水俣のような長期取材の舞台で可能だったってことだよね。それはああいうふうに一人の少年期と青年期をパーンとつなげてみるとドキッとする人生を感じる。
 初めはあまりに安易に使うなら貸すのやめようかと思ってたけれど、あの時の子供の肌触りをある程度残してつないでくれたから良かった。映画の思想的方法論としても非常に似通ったものがでたから、いわゆる映画的手法として使っていないから、だからはまるんです。

久保田 この映画、とてもさわやかで素直な感じがしました。

香取 人間というのは、いかに強いものかという、達純君にしてもモモエさんにしても、あれだけの経験して暗いイメージを乗り切って生きるということは、これ程までに悲しく美しいことなのかって感じます。モモエさんなんか、ほんとよく何度も会ってたんですが挨拶が上品で、言葉がキチンとして、ほとんど語らない人だったから、品のいいおばあさん位にしか思わなかった。ある時、遇然、話を聞く機会があって。

土本 もうひとついえば僕はずっと水俣を撮っていて、たえず自己模倣したくないと。今回はカメラをどう回すかと考える。この映画では、水俣に初めて行った人の感動のポイントがある。そのボイントは僕とは全然ちがう。
 さわやかさと重なるんだけど、水俣が我々に残した叙事的な世界、今生きている強さは充分でている。今のこととして水俣を考えていくつながりはあると思う。

水俣だからの関係性

久保田 青林舎の映画でもこの映画でもそうですけど、患者さんは充分絵になるし充分美しい。そして又、それだけの話がある。水俣の事件にはそれだけのドラマをもっているのだろうか、表現の素材として豊かであるが、それはなにによるんだろう。

いやな言葉なんだけど対象との関係性ですよ。どの人をとってしても映画で撮る側と撮られる側の関係性が結ばれているかぎり結果として絵になるね。

久保田 それは、隣近所日常どこにでもあるのだろうか、あるいは水俣だから、ある風土性なのだろうか。

土本 水俣だから。水俣だからああいう人を選択するし、水俣だからそういう人の苦しみを充分に聞こうとするし、やはり水俣という問題をかかえていった映画人の内面と水俣病をかかえた人の内面との了解があったうえでのぶつかりと関係性じゃないの。それはマレにしかないああいった惨苦の風土がなければでてこない…。

香取 年くつていても人間的魅力、存在感そういうものが水俣では、とても強く感じてそれが一番衝撃的だった。東京で会うとそうでもなくてその段差があるのかどうかまだはっきりとわからない。「海盗り」を観ても東北には東北の風土の顔した人がいて神楽やっている人みても近代によって失われた共同体の哀しみ、観てる方にヒシヒシと感じる、僕はやっぱり巨大な事件、普通の人の人生で到達しえない人間存在の孤独なり神なりいやが応でもみざるをえなかって、人生をみつめた結果としての存在感みたいなもの。誰がみてもいい顔してる。

君がこれから都会人を撮っても、本当にその人に関心をもち、その人の問題点を追求していくならばおそらく全くちがった表情と人間をその人にみる可能性があると思う。映画というものはそういうものだと僕は思っている。いい映画を撮るためにいい対象、いい事件のところへ行かないと撮れないってことになり、それを探すのが作家だってことになってしまうとこれは題材主義になってしまう。映画にひきもどしてドキュメンタリーとは何か、もう一度自分の写真からとらえかえしていいんじゃないかなあ。

香取 僕は表現っていえば人間の哀しみを撮りたい。僕の今後といえば、水俣なりの大事件ではなく、人は誰でも「神の王国」を持っていると思うから、新聞でいえばべタ記事、そんなチョコっとした事件を堀り下げていけば、生きるところの哀しみを、次を選ぶべきだと思うしやってみたい、一度水俣から離れて、そういうのを繰り返して、又、再び水俣に出会っていくべきじゃないか、そんな気がしています。そして僕はやはり最初の夢であった川本さんという人を撮りたい。

久保田 青林舎の映画もこの映画も運動のCMフィルムではないのね。だから、ある種の拡がりの中で運動にはねかえる。観た人がすぐ行動に参加しなくても感動してくれて、水俣のファンだとか協力者が拡がっていく。

土本 水俣は不思議な作家に対する大教訓があるのね。政治の問題ではなく思想の問題という枠組みが水俣の世界にはある。だから、今の即運動や政治に役立つというのではなく全体性をめざしもっとディテールに執着するというか、本質的に時代と人間と芸術の関係をとらせる世界だと思う。

久保田 一つの専門の仕事なり技術なり表現を持っている人が水俣と出会った時、そのものが水俣に対してなんであるか緊張関係をしいられる。

香取 水俣っていうのはすべて社会的な立場とか職業とかのりこえた形で根本から問われる。

土本 映画にしても演劇にしても医者であっても水俣とは結局プロフェッショナルなところで差しで勝負していると思う。水俣に関わった人がベースにしているのは、連続性とか反復性とかディティールに執着してそれを克明に記録していく謙虚さ、対象から学んでいくとか、発見する眼を持たなきやいけない。でもたえずめげようとする自分との斗い、総体がいつも問われてくるフィールドであることは確かだ。
 見つめていく、連れ添っていく、発見するとかそれを自分の思う通りに記録していくとか、香取君達は見事に一つ一つの基本をふんでつくつたと思う。だからといって若い人達が、一ケ月位みんなでいってつくられるかといえばそうではない。様式は真似られても精神は真似られない。
 そこで住んだり、そういうことを話していく事が、映画を作る事が楽しくなるネアカな部分と元気さを自分で確信しないとね。