苦闘する欧州の記録映画 「朝日新聞」 3月29日付 朝日新聞社
さる二月、ベルリン映画祭のヤング・フォーラムに私の「海盗り-下北半島・浜関根」が招待上映され、同時に、国際交流基金のきもいりで、西ドイツ・フランクフルトの映画ミュージアムとフランスのシネマテークでも上映とシンポジウムがもたれた。フランクフルトでは一挙百本、パリでは五百本という、日本にいても見られない企画である。とくにパリの場合、ドキュメンタリー映画に理解の深いヒロコ・ゴバースの選で、多くの作家の作品の系譜的プログラムが組まれ、私もそのひとりの栄に浴していた。
上映後に論議の時間
私はとてもヤングとは言えない。招待状にわざわざ「年齢の若さでなく作品の若さによる」とそえられていた。昨年は小川紳介「ニッポン国古屋敷村」が批評家大賞を与えられている。今年は井上芳夫、諏訪敦両氏のドキュメンタリーと、石井聡互氏の劇映画計四本が招かれ、フォーラムの話題とされたが、私の期待したいわゆる第三世界のそれは少なかった。
賞を競う本祭とちがい、このフォーラムは新人発掘と育成を目的として、世界的な映画の広揚(フォーラム)をめざしたグレゴール氏(主宰者)の個性的な仕事である。作品上映後、一時間の作家と観客とのディスカッションが保証されており、それがこれの魅力だった。拍手とブウという嘲(あざけ)りに分けられる反応だけではない上映方式なのだ。
数ある問いかけの中で、私に集中したのは、「どうやって資金をつくり、どこで上映し、いかなる運動を組んで今日映画をつくっているのか」ということだった。水俣にせよ原子力問題にせよ、この種のテーマの映画が政府の資金や援助をのぞめないことは相手も承知の上だが、民間の基金やテレビ局とのタイアップもないと知ると、前の質問にさらに詳細に答えてほしいようだった。いわゆる自主製作のドキュメンタリーの継続力では日本のそれは一部には知られていたが、その問いかけには、いままでに見られない切実さがあった。
「ドキュメンタリーは人が入らない」と彼らもいう。事実、このフォーラムでも、私のも含め、観客の寄りつきは良くなかった。だが半分の入りでも主宰者は「良く入った」という。
石井氏の「逆噴射家族」はスーパーぬきでも分かるほどの映画的ダイナミズムでわかせた。井上氏「うまれてはみたけれど」は小津ファンをひきつけ、諏訪氏の「薩摩盲僧琵琶」には何故か婦人層が多かった。
私の場合、その毛色を異にした。映画関係者や志望者、緑の党などなど。映画美学の論が出たためしはなく、一気に映画の運動論や、「海盗り」以後の状況、日本の原発問題、そして上映の方法などに質問が集中し、最後は「どうやって作れるのか」にしぼられる。ヨーロッパではいまドキュメンタリーづくりは難渋しているというのが分かり、私の招待は、そうした体験の交流におかれていたかも知れないと思ったほどだ。
詳しく語りあえたのはフランクフルトでであったー。
山根けい子さんという日本映画シリーズ上映の責任者の仲だちで、ある記録映画集団の責任者で映画監督のウーメ氏にあえた。ベルリン映画祭終幕の翌日である。もしこの前に会っていたらもっと深く洞察できたであろうと思えるほど、かれの話は具体的だった。
社民党政権からキリスト教民主同盟主導の政権となってからの状況の右傾化が、ドイツのドキュメンタリストにどう響いているかーまずテレビ局人事が変わった。企画の内容についてのチェックが厳しくなった。彼自身、一九八〇年に地元空港の拡張に反対する映画を作り、二万五千人に見られた。資金の一部はその運動から出された、反再軍備をテーマとした映画の場合も成功した。だが稀(まれ)な例だという。
劇場使えないことも
ドイツでも記録映画が商業映画専門の劇場で上映されることはまずない。プログラム(企画)もので特色を出す小映画館で上映できることもあるが、いま全国に百ほどある公共映画劇場に上映の場を求めている。それもラディカルな映画はうとまれ、ひどい場合は知人宅の上映会しか出来なかったこともあったー。だから互助組職を作りたかったという。
ドイツの新しいドキュメンタリーは、六〇年代終わりのフランスの五月革命、ドイツの学生運動の中から生まれた。テレビに企画ももちこめた。七〇年代後半になって、反核、反原発、環境破壊、ドイツの再軍備というだれもが手がけたいテーマを見つけたころから政権変動につれてガラッと苦しくなったからドキュメンタリー映画作家集団をつくり、公共映画劇場で月一回、「ドキュメンタリーの日」をきめた。私の映画を上映したのがまさにその日のためだったのだ。
「突破口は作ること」
「日本より遅いけど、テレビより自立した映画づくりを構想したい。仲間の研究会では未編集のフィルムを上映して叩(たた)き合いをやったりして作品性をみがきあっている」という。まさに私には修業時代に、仲間とそうした日々を送ったころを思わせた。私は小川紳介たちや、若い作家の具体的な作品づくりを事こまかにのべた。同行のカメラマン清水良雄は映画機材の扱いから同じ質の話しを深めていけた。そして「作ることからしか物事ははじまらない」といった自明なことがらに帰るのだ。
彼らは社民から保守への政権の交代を困難のひとつの契機としてとらえ、政治的意識も鋭くなっていた。私たちは万年自民党政権下にある。映画づくりの好転の契機などその点考えてみずに、自主製作をつづけられたのかも知れない。
昨年国際交流基金に招かれ、「村からの手紙」で注目をあびたアフリカ・セネガルの女流作家サフィ・ファーユをパリの二間のアパートにたずねた。「あの作品をつくって十年たつのよ。企画をたてては直し、人から金を借りて作るわ。小川もあなたも借金だと聞いて、もうフィルムメーカーをあてにしないことにした。六月からセネガルに行く」といっていた。そして、「映画、それは人生」ともいってわらうのを聞いた。映画のしごとはどこも同じの思いはさらにつよい。