TVドキュメンタリー・企画案 第三稿 「銃と革命と」(仮題)-アフガニスタンの今日像― 企画書 <1985年(昭60)>
 TVドキュメンタリー・企画案 第三稿 「銃と革命と」(仮題)-アフガニスタンの今日像―

 カルマル政権5年間のアフガニスタンの歩み・アフガンのひとびとの暮らしと戦いの今日を探る。

 企画意図
 
 はじめに

 今日、アフガニスタンについての報道は数少ない。しかもそれはいわゆる西側大通信社(APUPI、バルチモア、サンなど)によるもので、パキスタンのゲリラの基地(あるいは難民地帯)からみたもの、もしくはモスコワ通信員からみた“ソ連軍の駐留問題”に焦点をあてたものなど、極めて限定されている。
 では現実のアフガン人民の生活と意見はいかなるものか?
 アフガニスタンの治安、安全の概念もあってか、この国自身も取材上の制限、入国が困難であった事情も加わっている。
 だが80年代初めからはじまった民間人の訪問によって具体的な見聞が伝えられるようになった。それにより、西側報道の信憑性が疑われる事例が続出している。(たとえば革命最大の戦闘と伝えた1983年8月16日のAP電は「カブール全市で戦闘、ゲリラ、ソ連軍主力を攻撃」と報じたが、同月同日(アフガニスタンを知る会)訪問団は首都で平穏にすごした)
 こうした西側の報道独占に対して、非同盟、第三世界諸国間に新国際情報秩序に関する動きがはじまった。
 1984年11月末、カブールで開催されたアジア、アフリカ人民連帯機構(AAPSO)がそれである。そこでは新興独立諸国の自立と発展にむけて“マスコミ”の脱植民地化が討議され、その中で西側情報の誤報や策略的デマゴーグが多くの事例をあげて指摘された。と同時に、西側をふくめ世界の誠実なジャーナリストに対し、真実の情報を伝えることに惜しみない協力をする事も約束している。今回の企画はこうした新情報システムへの胎動のなかで、初めて実現の可能性がみいだされたものといえよう。

 企画のポイント

〇 「日本は今こそアフガニスタンの真実を知るべきでないか」
 1978年の四月革命以後、とくに1979年12月の革命の第二段階といわれるカルマル政権の成立と時と同じくしたソ連軍の駐留はSALTⅡを中断、日本も援助を打ち切るなど大旋回をもたらした。アフガニスタンは王制当時すでに世界最初のレーニン政権を承認した国である。カルマル政権は繰り返し「反革命ゲリラを使っての米、中、パキスタンの軍事的干渉に対抗するためのものである、アフガニスタン、ソ連の友好善隣条約と国連憲章第51条(集団自衛権)による」と声明、これをアフガニスタン国有の国内問題と規定している、(ソ連が派兵を決定するまでに、前アミン政権時より通算13回の要請があったという)にもかかわらず、日本を含む西側は、これをソ連の武力的侵略とみなし、一気に防衛力の飛躍的強化にむすびつけた。(山海峡封鎖、1000カイリシーレーン防衛)これが日本のアフガニスタン像となった。
 一方カルマル政府については新たな国家主権者を外交上みなしつつも、本質的にはソ連の隷属国とみなし、短命と予測し、反政府ゲリラによる国家中枢のマヒ状態のように印象づけられている。そして日本はアフガニスタンへの援助を打ち切り、いわゆるアフガニスタン難民へのそれに切りかえた。
(1985年1月14日朝日によれば、CIAのアフガニスタンゲリラへの援助は急増し、中東のオイルダラーよりの援助も含め、全体で5億ドル近いと報じられている)

〇「アフガニスタンの選択は何に起因しているのか」
 この国の面積、フランスよりも一回り少ない64万7497平方キロ、人口推定1745万人、完全な内陸国で耕地はわずかに15パーセント前後といわれ、決定的に水不足の大地である。
 国民所得は日本の45分の一といわれ、世界で最貧国のひとつであった。ゆえに国家財政の70パーセント外国援助に依存し、経済的にみるかぎり、独立をたもつことは不可能な国といわれてきた。

 1954年から77年までの援助の累積額はアメリカ3億9740万ドル、ソ連は約3倍の12億6500万ドルとなっている。ソ連の農業・治水、ダム建設、教育などの援助はソ連が国境をひとつへだてて同種、同言語の民族によるトルクメン、ウズベク、タジク共和国における60年の経験をもつだけに、着実な実績をあげてきたという。(津田元一郎「日本的発想の限界」弘文社)
 では4月革命からソ連軍の介入までは?
1978年4月のタラキ政権、79年のアミン政権は土地解放、高利貸制度の一掃、男女平等、文盲一掃の措置をとったが、強行的な政策、イスラム教への無理解、農民政策の失敗等の失政に加えて、多数の革命指導者を投獄、同年9月16日、ついにアミンはタラキを暗殺するにいたった。
 ここに国外から武装した反政府ゲリラが激化、ついに12月27日、アフガニスタン軍のクーデターによりアミン政権は打倒され、カルマルが首相となった。
 この時点、かねてソ連軍の介入をもとめていたことが現実となった。―――これはアフガニスタン政府の発表の要旨である。
 封建制国家から民主制へ、そして人民民主主義革命へと突き進んだ20世紀の歩みの中で、その選択はいかなる事実の上になされたか。革命後6年、いまだ新旧、内外の戦いの交錯するさ中で、その選択の方向をみてとるのに、今もっとも時宜に適していると思われる。
 以上、私のまとめもあって、紙数を重ねたが、この企画の主題は、あくまで1985年、今日のアフガニスタンにおかれることは論をまたない。

〇「アフガニスタンの人びとの側にとって 革命とは」又は「アフガニスタンの百年をひとつの家系をたどる試みを通して」
 ――ここに百年というのは、親子、父母、できれば祖父母、親族という、一家族の数世代を系図的にたどり、その記憶をインタビューすることによって取材可能な歳月の長さを言う。その肖像と暮らし、語りによって彼らの眼に映じた革命を描き出してみたいのである。

 カルマル政権の実施する政策のテンポは決して急がずにあるという。
 ひとびとの政治的覚醒、自発的参加の意志、教育の浸透にそって革命を具体化していると聞く。
 したがってその変化をみるには、フラットに横並びに現象をとるのではなく、たての百年の時間軸の中で、この数年間のへ変革をみるという手法が必要であろう。
 例えば、壮年期の一家、妻と子供たち、都市の工場で働き、政治的にもアクテイブな核家族がいる。その出身地の農村には(又遊牧地)には父母、兄弟も健在であり、祖父母もそこに長老として社会にひとつの席をもっている。―――こうした一家をえらび出し、その祖父母の時代の生い立ち、結婚、生業と生活、戦争と政変、イスラムへの帰依をきくことからはじめ、父母の時代のそれ、植民地からの脱却はどんな風に生活をかえたか、封建時代についてどうみて暮してきたか、現息子夫婦の結婚としごと、成長をどうみているか――そして都会に働く主人公の核夫婦と子供の生活、主人として男として、新しいアフガニスタン人として考えを聞く。(三代それぞれの周辺の人も声も交えならが)
 以上のドキュメントを通じて、風土、習慣、宗教、生活デイテールを入れていく。最も社会主義の典型の事例まで―。
 「今日、革命で何がかわったか?」との問いにストレートに解説的に答えられる人は一般の人には少ないだろう。しかし、もしこの追跡ができれば、アフガニスタンのひとびとの“百年”を望見することはできはしないだろうか。そして革命なるものを対象化し資格化できるであろう。

〇「銃で何を守らねばならないか、その建設の重点は何か、今日、反政府ゲリラはどのような姿と力をもっているか、そしてソ連軍の役割は?」
 前項をたて軸としながら、カメラの独自取材で、今日の建設を横断してみたい。当然一家系の生活フレームにそれらは入り切れないからだ。
 
 銃――工場の一隅にも農村の集会場にも銃架はあるという。
 かつて、一、二年前までは文字通りに右手にくわ、左肩に銃をもって耕した人びともいたという。ひとりひとりの手のとどくところに銃がある。それは守るべきものへのつよい意志一致なしにはあり得ない。「うしろ弾」にだってなるからだ。
 そこに民衆の革命への意志に対する信頼なしにはとれない措置ではなかろうか。
 
 反政府ゲリラ活動の解明――今回の取材はあくまでもアフガニスタン内部からの映像で組み立てるつもりなので、パキスタンのゲリラ訓練基地などの取材は考えていない。――
 ここで興味をひくのは、かつてゲリラのひとりとして、対政府軍と事をかまえた兵士が、政府の声明により、罰せられる事無く、“尊厳を傷つけることとなし”という言葉によって多数、生地に帰還しているという。その“亡命中”の体験をインタビューし、その証言にそってうらずけるにたる戦闘地帯や●獲品などを取材したい。

 ―――ソ連軍の取材は困難であろうが申し込みたい―――
ソ連の役割は前述の特長と効果に加えて、革命後はさらに計画経済に果たすところが多いであろう。だが軍事力についてはそれが異物視されるのはさけられない。しかし、ソ連の兵士たちにとってはゲリラ等に“もっとも標的にされる存在”として危険を負っていることである。同族流血とちがう怖さがあるはずである。
 それをあえて担って守ろうとする革命とは何かである。さらに現代、最も新しい革命の実像、革命と反革命、国際的ゲリラ支援による過渡期の現実の一部として、その役割を積極的に描いておきたい。

 まとめ

 この取材に登場する人々の中で、とくに女性と児童について重視して描きたいと思っている。
 “女性を教育するにはまず女性の教師の育成からしなければならない。男の教師と婦人、女性の生徒ということはまだむつかしい。と聞く、識字運動すら、こうしたスケールの話である。職場や屋外活動の中でチャドリをどうするかひとつにも3000年の歴史と闘いがあるのであろう。また「その国の活力は、その国の子供の時に輝やきで分る」というのが私の見方である。
 女性と児童がいかに遇され改革されているか、そこに最も「プロセスとしての革命」をうかがい知れるとおもう。

 今までと今度の段取り

◎ 本年一月「アフガニスタンを知る会」を通じてアドヒル・ムハート大使とモハメッド・ホタキ第一書記官と面談、TV取材の0kの感触を得る。

〇本年四月 企画書第一稿~第三稿

〇本年四月末~五月上旬 企画立案と取材の可能性たしかめるため、アフガニスタンの訪問団の一員として(映画スタッフ)個人的に参加の予定。

◎ TV企画として成立すれば―

〇取材50日から60日、帰国後一ヶ月で完成

〇ロケ取材の時期未定

〇予算未定

〇仕上げ 一時間から一時間以上の番組枠で完成希望。

以上



 補足(この補足は第二稿の為に書かれたと思われる)

 この企画の実現を希望する私は、海外取材の体験として、第三世界と社会主義の国々を訪ねた。ドミニカ、キューバ、ソ連(シベリア)、エストニア、東南アジア等である。それから取材の中で、社会主義の特長を次のように考えている。

〇いわゆる自由・勝手な取材は出来ない。その代わり、意図を説明すれば、とことんその便宜を供してくれる。
〇その国の最も見せたい、あるいは知らせたい対象に、もっとも魅力的な問題が内蔵されている。これを“宣伝したいもの”と反発したり、無視することは、必ず後悔をまねく。その対象に正面からとりくみ、納得のいくまで取材することで新たな発見がうまれる。
〇「社会主義国を客観的にみる」といったスタイルはない。
どこの国へ行っても、同じドキュメンタリーの方法でよいはずだ。ことさら社会主義国だから、「客観的」にみることはかえって主観主義の誤りにむすびつく。人間として、生命として、その国の人びととのつきあいを描きたい。