付・資料 1985年、既撮影フィルム・メモ 『1985年4月 アフガニスタン・カーブル取材行』(1時間10分)
スタッフ・演出・上本典昭
撮影一之瀬正史 高岩 仁
§撮影許可条件…TV・商業的フィルム取材と異なり、友好運動の一環と見なされカメラ他機材の持ち込み自由、検閲なし
§ロケ条件…「アフガアンを知る会・友好 訪問団の滞在中(七日間)団体行動を一 緒にしながら。
§現地滞在費…招待側アフガン平和一連帯・友好協会(PSFO)負担。
§問題点…行動半径は安全上、首都カーブルに限定。時間的制約のためカルマル議長他のインタビュー取材できず。
◇市民生活 ・カーブル市の集落密集地、オールド・タウン。土レンガで壁を積む旧工法での家つくり。
・バザール、路上で、天幕で、常設市場で。果物、野菜、木ノ実、羊肉、鶏卵、チーズ類は品数とも豊富。主食ナムはいたるところで焼かれている一日用雑貨、消耗品の石鹸、歯ブラシ、炊事用品、食器類は一見過剰にならべられ、アメリカ製・日本のメーカー品が目立つ。たばこ「マイルド・セブン」250円。
・人気の焦点は新品、中古をとわずラジカセ、腕時計(ゼンマイ巻)
・子供の物売りは多い。市内の街かどごとに武装したパトロール…交替制の民兵。勘を働かせ、警戒心を解く。銃口に一輪の花をさすのがだてという
・市のセンター・革命広場…党・政府のある一角だが、警備の物々しさはうかがえない。
◇識字運動 ・町内ごとにある識字学級(婦人のための授産学習センターもかねる)
85年当時、38万人が学習…テキストにコーランを使用している中高年クラスもあった。
婦人の文盲層のにターゲットをしぼっているようだ。
(ゲリラは街を襲う場合、校舎を破壊のうえ真先に教員をころすという。層として、進歩的な為。)
◇イスラム寺院 人民民主党治下、タラキ、アミンの極左主義により聖職者を弾圧、彼等をゲリラ側に追いやる失政を冒した。今日過敏なまでに気をつっかている。金曜日の大礼拝シーン。
◇新アパート街 ソ連の援助の最もめだつモニュメント。
セントラル・ヒーテイング(地域集中暖房式)、熱板式電子レンジ・オーブン2DK。トイレ、シャワー付き。家賃1200アフガン(6000円)。
カーブル市民の中流 10000AF(1AF= 5円)。
工場労働者の最低3000AF~熟練 12000AF。家賃比率20%におさえようとしている。
◇ナーサリー
革命後つくられた孤児、親を失った嬰児から未成年期の子女のための農場つき施設、今日では、ゲリラ戦で犠牲となった子供たちが多い。保育、小中学校、職業訓練施設の一貫教育を施している。ソ連・東欧の援助が厚い 。「ナーサリー」はいまの悲劇的な児童環境のなかの救いとして、シンボル的な響きをもって語られている。なお同じ言語のウズベック共和国など、数百人の児童、生徒が教師とともに留学しているという。
◇ 4・27革命記念日
カルマル議長はじめ政府、人民代表の出席のもとに開催されたこの日のパレードを、早朝集まりはじめしたグループ、集結場所でのひとびとの素顔に、もっぱらカメラを向ける。“祭り”に魅了されている熱気が、じかにに伝わってくる。ドラマテイックに繰り拡げられるパレード…。
群衆の中から膨れあがる波動、喚声の熱狂、それにイスラム世界の色彩を見た。
国境守備の民兵、自動小銃を胸にする婦人たち、その最先頭にナーサリーの子供たち。指導者たちと民衆との間に親しみが流れあっていた。
◇近郊農民の自衛組織
ある街道沿いの町、その駅馬車の中継地、そこには正規軍の兵士がたむろしている。16~27歳位。この近郊もゲリラの出没地帯で 2~ 3年前にはロケット弾を撃ちこまれたという。(カーブルにある戦争展示館にみる鹵獲兵器、ロッケト砲、対空火器に、米・英・パキスタン製もあるが、90%は中国製であった)
◇ アマド・カン
いわば番外編、予定にない取材であった。1000戸ほどの純農村、ここも、 2年前ロケット弾攻撃を受け、ひとりの婦人が重傷を負った。
「革命前まで銃など手にした事はなった。今は村の自衛のため、百人程で日夜パトロールに怠りない。」と、旧式の英国銃を見せてくれる。それは実弾とともに各戸に配られていた。ゲリラに対する自覚性がつたわってくる。
土地改革も端緒についたばかりのようで、二戸の地主によって占められていた農地を八戸の自作農に分配し、共同での開墾も始まっていた。畑に叉銃しくわをふるう農夫たち。
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◎このフィルムは数本のヴィデオにし「アフガニスタンを知る会(日本・アフガニスタン友好協会の前身)」の活動に提供され、85年夏、アフガンTVに寄贈された。国内 の各局に働きかけたが、「日本のTVは“西側の報道姿勢に立つから、この内容は不 適当」”として忌避され、わずかにTBSがニュースに断片的に放映したのみです。
◎この段階で既に、アフガニスタンPSFO(平和・連帯・友好委員会)より数十日のロケーションの内諾を得ていましたが、資金とタイミング上、本格的記録映画化はいままで持ち越されていました。既撮影の上記のシーンはいかしますが,この記録映画 『遺産と和解』は前出の構想により、今88年度、新撮するつもりです。
(1988/1/26 )