映画にとっての『水俣病-その30年-』-新作『海は死なず』-海の甦りと人の語- 『映画新聞』 第24号 6月 映画新聞 <1986年(昭61)>
 映画にとっての『水俣病-その30年-』-新作『海は死なず』-海の甦りと人の語- 「映画新聞」 第24号 6月 映画新聞

 昨秋からこの六月初旬クランク・アップを目標に『海は死なず』という題の映画を撮っている。前作『不知火海』や『水俣の図・物語』で予感してきた海の甦りと人の話が主題である。海は死ぬことが出来ないように、死者のあとに水俣病に冒されて生きのこった人びとがいる。しかも救済に見捨てられた人びとも数千人いる。
 この映画の主格ともいうべき人は、現役の三十二歳の漁民であることより、永く水俣病申請者協議会会長としてもっとも戦闘的だったことで知られている。その彼が自ら申請を取り下げ、ただのひとになった。当然申請者組織から離れる。知的で感性の鋭い若いリーダーの活動力に期待し頼りにしていた患者・申請者・支援者の落胆は少なくない。あるいは”脱落”と同じともー。
 芦北郡女島の緒方正人(敬称略)がその人である。

 国・県当局の患者切り捨て

 彼は国家や県当局や裁判所に一縷の期待をつないできた。とくに裁判は患者(原告)の連戦連勝、つねに「勝訴」と報じられた。患者・原告の主張は最近の棄却取消訴訟(四名の棄却者による不当処分取消しを求めるもの)は四名とも認定すべきものとし、棄却と判断した認定審査会と処分者熊本県当局も完膚なきまでに批判した。にもかかわらず、国・県は控訴、上告することによって、いくつもの「勝訴」に肩すかしをし、時をかせいで患者切り捨てをほしいままにしている。この手口を彼はつぶさに見てきた。そして彼じしん県議の、「ニセ患者発言」キャンペーンに怒りをあらわにしたために暴力事犯としての暴力の点のみとらえられ、控訴審でも有罪となった。彼は思案のすえ最高裁に上告した。
 緒方家一家は生死を問わず水俣病患者となった。当時六歳の彼の眼裏に父の狂死は焼きついている。数ヶ月前、彼は県に自分の毛髪水銀値を問い合わせたところ、六歳時に160PPM(50PPMが発症のイキ値とされている)それを知ったときにはさすがの彼も動テンしたという。いまも就寝中に襲う足腰の硬直激痛や手、指の突然のカラス曲りに恐々としている。

 チッソに問いかけたたったひとりの人間

 その彼が、なぜ、申請をとり下げ、闘いとった医療費補助の”恩典”まで返上するにいたったか。それをときあかすことで水俣病事件三十年の現実がもうひとつ見え出した。
 たったひとりの判断と行動で、県当局とチッソ水俣工場にじかに問いかけるー
 「自分の体の水銀汚染がチッソにあることをみとめよ。申請を取り下げた今なら言えよう。金ではない、事実の確認と謝罪を求めているのだ」これには誰しも言葉を失った。
 支援者に対しても言い方は変ってくる。「認定による(金の)救済の支援は求めない。人と人としてこの不知火海にむすばれてともに生きたい」という。
 彼が申請にふみ切ったのは一家の怨みをはらすためでもあった。自分を認定させること、不知火海の潜在患者(ニ万ともいわれる)を救済させることが彼の怨みの晴らし方だった。だがこの約十年、認定制度が前面に出て「医学的に」処分されるのみで、主敵チッソはそのかげにすっぽりと隠れた。国、県そして水俣市もチッソを後景にかくして行政の壁をめぐらした。申請者の怒りは空しく法廷や環境庁(しかもその鉄柵の外)で放散する他なかった。彼は漁民特有の生活律もままならず、この申請後の十年、三児の父となった。追いつめられた眼で、自分の生きる世界をよりつよく眼前の海に求める気になった。海にダマシはないのである。
 「俺はチッソを巨大な存在と思ってきた。国や県をわが父親とも思ってきた。すべてが幻影であった。この海で漁師として生きてみせる。この海と山は俺のもの、子どものものだからだ。それを再び汚すものがあれば、自ら死力で闘う。」…だからと言うべきか、対岸・離島の申請者、かくれ水俣病患者の窮迫への想像力はつよまり、不知火海の像をまるごと把える好奇心がうつぼつとしてきたようだ。

 不知火海の甦りの予兆

 去年秋、この映画の題を『海は死なず』と書いてみたとき、「海は死んだーチッソのおかげで漁は死んだ…」とする今までの通説と真反対のことばに自ら憶するものがないわけではなかった。しかし緒方正人の、時を同じくしての転心に触れて、あらためて晴々たる受難史のなかでかすかながらよみがえる人びとの系を見ることが出来るようになった。
 海は、誤解をおそれずにいえば一事件一個人の時間をはるかに超越している。ヒトたる生物が絶滅しても、海はなお生きつづける。その海すら企業の暴力によって死の信号を発するまでにいたった。それが「水俣病事件」であり、意味である。瀕死の海はそれ自体では決してそのよみがえりをひとに気づかせないようだ。ひとの魂のよみがえりなくして、どうして海の甦りがあろうか。人のよみがえるとき、はじめて海はよみがえるのだ。
 この映画であえて空撮と水中撮影を試みている。それは半ば緒方正人に捧げるカットである。魚の産卵・生育の場、つまりヒトの生きる場としての不知火海の全貌をつかむこと、悲観の眼には決して見えない生きものの再生のきざしを微視的にることを試みたいからである。
 五人にひとりという対岸の多発地・御所浦島(町)が今も非汚染地域として水俣・芦北と画然と差別されている。その線引きも一望の海の光景によって色を失うであろう。行政とは無縁の海そのものなのだ。不知火海の水俣のドーナツ地帯、その辺境の地にこそ不知火海の甦りの予兆が見える。
 同じ海に胸をはった漁民群像がいる。患者も漁をやめないことで残る体力を生かし抜いている。水俣病事件は終っていない ーそれはこの海が聖地になることではない。自力で生きるたる生地に甦る日までの連続的な闘いを意味しよう。そんな楽天に支えられて映画をとっている。
(八六・四・四・青林舎・水俣の家にて)