記録を人間の仕事とした人・鬼塚巌 鬼塚巌著『おるが水俣』所収 初版7月1日 株式会社 現代書館
私が鬼塚巌氏にはじめてお会いしたのは、水俣病支援のため、東京をふりだしに主要都市を巡礼し、喜捨をたずさえて九州入りした、砂田明氏(現・乙女塚墓守り・俳優)ら一行と患者さんとの熊本での交流集会の場であった。昭和四十五年七月である。手に八ミリカメラをもち、私たちスタッフと撮影ポジションをゆずりあって同じ対象を撮っていた。チッソ会社の社員(工員)で合化労連・新日窒労働組合、いわゆる一組の八ミリグループのメンバーとして、いらい裁判所で、あるいは患者さんの集合の場で仕事を同じくした。聞けばその二年前から、本文中にも詳しい新潟水俣病患者の水俣訪問の記録『水俣病・Ⅰ』を皮切りに、『そのⅡ』そして『怒れない世界』(第二十章参照)を撮影中であった。無口な氏に引きあわしてくれた藤川治水氏(熊本在住の映画評論家)は「プロのあなた方の映画が総論なら、鬼塚さんは八ミリで各論ば克明に撮んなっせと言うとですよ」と言葉を添えられた。その寸言が胸にひびくほど、鬼塚氏の八ミリカメラはいつも患者さんのそばにつきそっていた。
上記のプリントは熊本・水俣の支援者、市民の間ですりきずだらけになるほど見られていた。
その作品には自分の働くチッソの企業犯罪を指摘し、患者に代って怨みをのべるものであった。企業内告発をこえて、いわゆる一組の「恥宣言」ー何もしてこなかったことを恥とし水俣病問題を闘うーという労組の贖罪的姿勢を映画で表現したものであり、この八ミリグループは私には映画工作者集団に思えた。
カメラを手にする氏の日常的な患者さんとのつき合いは東京から来た私たちを心ひそかに羨望させるほど濃いものであった。しかし、控え目に徹していた。たとえばカメラマンにありがちな一寸した注文をつけることなどをみたことがない。たえず、その場の雰囲気をこわさないように耐えて撮る姿があった。今回、その姿勢をとらせた氏の撮影の原点をあらためて知り、ふかくうなずかされるものがあった。
はじめて仲間の親戚の家で胎児性水俣病の少女に会い、ただ会うだけでカメラをむけることを自らに禁じたくだりがそれである。「第十九章 はじめて八ミリで水俣病患者を撮る」に「カメラを向けて撮ろうち、そげんこつもできんし、だいたい、そういうことは絶対してはいかんことだち」「してはならん。ただひとつ『せん』ですね、ほんなこつ一途そのものでしたからね」。この粛然たる決心をかえて記録のためにグループとして撮るまでにどんなに「水俣病をいかに捉えるか」の激論がつづいたことであろう。そしていざ患者さんを撮るときめたあとも、悲しさと恥ずかしさのため、自分の眼をとじ、指だけでシャッターを押しつづけたという。姿で謝罪し、目をつぶって指だけでカメラを押したーその姿勢がいま思えば氏の水俣病患者の記録作業に一貫していたのだ。これは私には鈍く重い衝撃だった。なぜ、いま、この人たちを撮るかという気持ちの確かめは同じだが、伏して恥じてカメラで謝まるという水俣のひとの心はもたなかった。「水俣の海を汚染し、毒をのませたのは自分だ」という痛覚がその作品に色濃くにじみ、ためにセンチメンタルと紙一重の心境がナレーションにつづられていたのであろう、まさにフィルムによる「恥宣言」であったのだ。
カメラを通じより深まった氏の水俣病事件とのかかわりは持続的である。そして昭和四十三年のこの八ミリ記録から、写真記録、資料収集、手記、回想メモとその記録は氏の生活、労働、行動範囲のすべてに及ぶものとなった。
「会社におるときは牢屋におると思っとる。八時間つとめたあとの十六時間は俺のもの、それば使うて自分のせんばならんことをしたい」という。いわゆる一組に属していることだけで蒙る職場差別・配転に耐えながら、その抑圧のプレッシャーの分だけ、エネルギーを自分の記録に注ぐといったふうに見えた。
十年近く前から、氏にしては珍しいしつっこさで、家に招かれ、数冊のぶ厚い造本のアルバム、手記と絵でつづられた文集を見せられた。あきらかにそれは人に見せ、読まれるための工夫が凝らされていた。本書の中にはその一部しか紹介できなかったが、今はない戦時中の工場の細部などが描かれている。とくに少年工時代の道具数十種のイラストや、水俣病をひきおこした水銀釜の構造図などは、撮影禁止だっただけに、はじめて視覚化され、工場の労働現場として描写されていた。
昭和十八年に十四歳で二等工員となったときの誇らしさと化学工場の中でボルトナット磨きという見栄えのしない作業に軽い失望を覚えながら、自分のまわりの工具や器具への鮮やかな印象が長年定着液に浸され、はじめてとり出されたおおむきである。さらにおどろくのは、初めて日給をうけとった、金七十銭の辞令が宝物のように保存されていたことだ。それは低賃金の見本としてでなく、工場長名と印鑑で保証された「会社行き」の証書として、一旦神棚に上げられたものの保存としてである。いま氏の立つ地点と正反対だが、かつてこの土地の人間として会社に選ばれた栄光をものがたっている。
文集には水俣病をひきおこした会社への許すことのできない犯罪性への記述があるかと思えば、職場の匂いへの限りないノスタルジア、職工事情への回想が並記されている。百間排水溝の惨状とともに、浜の生きものの写真とそれにそえた文章がある。すべて筆ペンで書かれている。おおよその字はそのまま縮小しても読めるものだが、時に粟つぶほどの細字で書かれているものもあって、原版複製はむつかしかった。
文章は独学で修得したであろう画数の多い漢字や、固い表現で刻まれていて、読み流すことを拒むようであった。また一方、回想や聞き書き、口伝、自然描写には、水俣弁、特に侍部落独特の言いまわしや発音が付せられ、厳密を極めていた。方言研究家にとつては、まさに垂涎ものであろうが、そのままでは九州の人にも解読しがたいものもあるように思われた。
その記述の正確さについては徹底している。日付や数字や物の名前について、ひとつもたがえない心くばりがある。その一字一句の正確さは彼の手もとの克明な日記や組合紙『さいれん』や社内報『芦火』などのコレクションに支えられており、ひとことの質問に一束の裏付け資料が運ばれてくるといったもので、その埋蔵量の見当はつきかねるほどだった。
趣味の写真は初期はいわゆるサロン写真風のものから、しだいにシャープな記録的視角に変わってきていた。水俣病をひきおこした背景の工場、百間排水溝、八幡・残渣プールなどは同じポジションから定点観測的に記録され、それが独自の工夫でレイアウトされており、手づくりの、たった一冊の本、そして資料性の高いものとして完成していた。それ自体、印刷物の対極ともいうべきものとして。
これを出版したらと思いながら、これは一冊しかない書籍、アルバムとして手つけずにおく方がよいという思慮も働いた。
水俣に調査研究に赴いた人びと、とくに一九七六年から始まった不知火海総合学術調査団(団長・色川大吉、最首悟氏ら)の研究者は一度はその資料を閲覧し、視覚的に水俣病事件史とともに生きた一労働者の半生を辿ることで、多くの知見を得られたものである。だがこの出版には私と同じような配慮が働いたのであろう。紹介された一、二の出版社、編集者もその膨大さゆえにたじろぎ、ついにながい間、寝せておくことに結果した。この本の原本ともいえる私家版のできたときからほぼ十年たって、ここに形をかえて『おるが水俣』としてその一端を出版するはこびとなった。一旦、この造本から離れて、そこにある記録性、資料性を盛り込みながら、鬼塚氏によりその半生を再構成してみるという方法が現代書館の村井三夫氏によって提起され、そこで出版の実現にむけてジャンプすることができたのである。
私は奇しくも、鬼塚巌さんと同じ昭和三年生まれである。都市・農村と生まれも育ちも全く対象的であるが、この二十年近い歳月を水俣・不知火海にかかわることで、重なりをもってきた。また同世代としての共通性をもっている。戦争体験、とくに少年時代を軍国主義教育の中で送ったのも同じなら、ほぼ同じ十五歳で勤労動員にかり出され、少年工として明電舎やいまの国鉄・大井工場で働き、空襲をさけで壕にひそんだ体験を同じくしている。そのあとの私のコースは、まかりまちがえば、会社の学校出の社員さんと同じ階層に属したかも知れない大学生活をおくり、レッドパージ闘争に参加、党派の運動をへて、映画にすすんだ。彼は以後、一貫して「会社行き」として工員でありつづけた。映画、写真、そして記録作業への執心に見るその一刀彫の深さでは私の及びもつかないものだった。なまじ、私も映画記録を仕事としているだけに、彼の記録映画『水俣・たうちがね』(第二十四章参照)のように七年間、同じ潟に行って、カニのほうが、長靴の上にはい上がるまで、まさに名前のとおり巌のように待つといったことの至難さに負けるのである。生きものとの対話といっても、彼の場合、生きものの言葉の解読者といった方がいい。同じ人生五十有余年を、真反対の別のカーブを通って、笹の葉のように根と葉先で合流している。そしてその生活歴と思想のなかみは、どのひとつとつても、考えればなおさら分からなくなる類いの謎をもっている。たとえば、安定賃金闘争を通じて、どうしてあのように労働者としての真の資質をつくり上げたか、会社の偉か人と対の誇りと自負をもちえたかを、この水俣の日常のなかで見るとき、やはり稀な人間的作業であったと思うのだ。
私はゆきがかり上、助産夫の役をかってでた。しかしあくまで鬼塚巌・謹製でなければならない。私は出版にも編集にも門外漢である。撮るべき方途は、私の映画つくりの体験しかない。
映画なら、ラフな構成を立て、撮れた膨大なフィルムを縦横につないで、そこで映画的文章をつむぎ出す。何を生かし、何を捨てるかである。今回、迂遠にせよまったくその方法でやってみることを氏に提案した。つまり、膨大なフィルムの代りに、膨大な言葉を掘り出して字に変え、話し言葉を基調にー方言重視もあってそうしたのだがー文章に組み立てることである。その方法として、テープを前に、根ほり葉ほり聞きつくし、それを鬼塚さん自身で原稿用紙の上に文章化してもらうことにした。話の重複をいとうことなく語りつくしてもらい、テープをおこしてもらい、さらにそれを自分で取捨選択するという彼の作業のなかから、補足や資料とのつき合せ、写真との組み合せなどが見えるようになった。それまでに二年ほどかかったろうか。
本を作るー自分の記録がただの字から活字になって出版に至る道筋など想到もできないと尻込みする鬼塚さんに、「百年の会」の石牟礼道子さんや、西 弘さんらが声援をおくつたり話の引き出し役になっていただいたりした。方言に対してルビを附す工夫は井上ひさしの『吉里吉里人』にならったものだが、この方法をすすめたのも石牟礼さんである。水俣の言葉をそのまま文字にすることに愛着しながら文学としての工夫、言葉の磨き上げに心胆をくだいてこられたであろう石牟礼さんにとって、鬼塚巌さんのように、方言のニュアンスにこだわりつくさなければ文の息(イキ)のでてこないような侍部落の土着の言葉を、この際思い切ってつらぬてみること、ルビのわずらわしさはあっても、反復を経、そのリズムに慣れることによって、息のふきかかってくるような言葉へのある親密さが生まれはしないか、そんなおもんばかりとささやかな試みへの誘いがあっての、石牟礼さんの助言ではなかったろうか。私の映画のなかの人びとの言葉が、音触や語感として伝わりながらも、一向に分からないというややこしさに悩んできただけに、あえて、ルビを付す方法をとってもらうことにした。
その点、第一章の「子供の頃」は水俣弁というか、侍言葉というか方言の原石のような語り文で始まる。ここを通過すれば、あとはおのずと水俣の言葉の世界に入れるといった趣きになっている。どうかこの章で立ちどまらないでいただきたい。
水俣病の所在の確認から三十年目をむかえる今、この本の意味は少なくない。今まで、チッソの一工員の立場からつづられた水俣病事件史はきわめて限られているからである。別格として岡本達明前新日窒労組委員長の膨大な著述があり、いまもその記録作業がつづけられているが、四十年にわたる現場作業者の眼と手でつづられたものは少ない。
水俣病事件史に、昭和三十四年の三年のちに起こった水俣を二分する大事件、安賃闘争はときに省かれてきた。水俣病患者も体験した安賃闘争のもつ意味の語られることは少なかった。もちろん、安貰闘争十年後に作られた新日窒労組編の『安賃闘争』や石田博文著『抵抗のなかから』などがあるが、一工員の眼で書きつくされたもの、水俣病とのかかわりの変化を率直に語ったものは珍しいと思う。昭和三十四年のいわゆる不知火海漁民騒動、それにつづく患者家庭互助会の正門前座り込み闘争に「漁民の勧進どもが、会社に祟りに来て」と憎々しく横眼でにらんでいた著者が、安賃闘争を境に、自ら、会社の差別と分裂工作を受けるなかで百八十度改心していくさまは劇的である。そして患者の受難と会社の自分へのしうちは同根同性のものと悟っていく。それが光栄ある会社行きとなった少年工時代からきめこまかな職工としての成長、熟達した技術の体得と並行して語られていく。そして「水俣の会社にはいつも二つの世界があった。『会社と工員』-この二つの世界だけはどこまでいってもつながらん、平行線じゃということだ」と知り、その到達地点に立って水俣を見まわすとき、そこに企業の利潤追求と収奪のすえに変わりはてた自然と世の中と、水俣病事件が自分のまわりに遺留されている事を確かめざるをえない。そしてふるさと水俣のかすかなよみがえりにも感応する記録へとすすんでいくのだ。分断と差別をもともともたなかった原初の侍部落への誇り、それを起点に水俣の記録へとひろげようとしている。これがいまの彼の仕事である。この本が次の仕事のスタートとなるのは鬼塚氏にとってごく自然ななりゆきであるだろう。
一九八六年四月一七日 水俣にて