“敗けいくさ”の記録 「影通信」 第6号 8月15日 影書房
この間、第十五作目の水俣映画を撮っている。時としてたまたま水俣病の所在確認から三十年の節目であることもあって、四半世紀を超えた「歴史としての水俣病事件」の意味を考える作品にしたいと思うのだが、まだ生ぐさい「事実としての」それを探りつづけるものになりそうだ。一つの社会的事件、たとえば戦乱にしても二十五年を経れば歴史として対象化されうる。現実への配慮から秘とくされる外交文書のたぐいもアメリカでは二十五年をへたものは公開されるときく。それ以上の秘とくは学問上有害だからだ。だが水俣病事件は被害者・加害者の間で病像論ひとつとっても事実上の争いが三十年後のいまも法廷で争われている。法理ですら「有機水銀中毒は全身病とみるべきで神経系統の障害に限って見るべきではない」(棄却取消・行政訴訟裁判・本年三月二七日一審判決)と見るのに、これに対して熊本、鹿児島県は、神経系欠陥に限定し抜く。そして控訴し、最高裁まで争う構えである。その間、四人の患者原告のうち二人は死亡していった。
またある裁判・判決の確定したいわゆる第二次水俣病訴訟控訴審では、法廷での医学(病像)論争をへて水俣病と認定され、補償額が決められた。この判決は病像論では原告・患者の主張「慢性的経過・疫学的条件」に与しながら、損害の補償についてはチッソ会社の「各患者の症状に応じ、いわゆる一律の補償額を算定することは公平の原則に反する」説を採って、低額補償の前例をつくるものとなった。チッソはこの低額判決に同意して上告をやめた。なぜならこれによれば、通常千六百万円から千八百万円の慰謝料、それに加えていわゆる年金・医療費を見込めば一人三千万円とも四千万円ともいわれる生涯救済の責務を、わずか六百万円から最高一千万円の一時金の支出だけで後くされなく処理できるからである。チッソは心ひそかにほくそえんだにちがいない。水俣病患者が二つに仕分けされたのだ。ひとつは司法による一時金的認定者と、ひとつは今までのようにチッソと患者の間の第三者としての国・県の行政責任による判断処分によって生涯救済を義務づけられる正規の認定患者とにである。損害論としても二つのケースが水俣病三十年目を前に出現したのだ。とても歴史的な記述が下せる段階ではない。まだ生々しい加害者・被害者間の闘争の最中におかれているのだ。
八六年五月初め、水俣病公式確認三十年の記念に民衆サイドではじめての「アジア民衆環境合法(代表・浜元二徳=重症患者)」が水俣で開かれた。現地での見聞により、討論により、アジア各国(マレーシア、フィリピン、インド、インドネシア、含むカナダ)の代表はミナマタ病を実見した。不知火海全体の汚染を当熊のことと理解できた。その多層多岐な病像の所在も当然のこととうけとめた。しかし一方で三十年たって、まだ病像論ひとつとっても争われていることは理解に苦しむことであった。
マレーシアの環境運動家カレン・ラジャンドランさんは「このまた十年後、このような未解決の問題をかかえたままで『水俣病・その四十年』のシンポジュームをむかえるのでしょうか」とスピーチをしめくくった。そうした『四十年』はあってはならないと誰しも思った。患者・民衆サイドの病像と行政の固執する病像とは抜本的に異なる。もしミナマタ病像論が日本国政府の水俣病事件切捨てのために策定されようとしている神経障害の典型例に限定されるならば、アジアの公害被害民は病像をどこに依拠したらいいのであろうか。
インドのポパールの有毒ガス事件のように因果関係のはっきりした事件とことなり、ミナマタ病のように食物を通じて、汚染物質を日常摂取して犯される健康障害は直ちに追跡しがたい。だから水俣病の三十年の時間経過に照して経験を学びとる必要があったのだ。しかも、水俣の漁民のように魚介類を多食し、かつ湾内湾の濃厚汚染の海で暮し、しかも四百数十トンの総水銀をたれながされた事例はもはや頂点・その象徴とも見なしえよう。むしろ、今日の水俣病像のように全身の深部に蓄積され神経系統のみか各臓器までやられ生活者として失格していく”人間破壊”がアジアでは最も出現する可能性が高い。その警告的典例が水俣に広く厳然としてあるのに、ミナマタ病として公式に国際交流されないとしたら、アジアの公害問題はどこへ行くのか。
カレンさんの「十年後もまた……」の危惧は現実味を帯びている。
ところで今、映画をとりながら「敗けいくさの記録」と思う。勝ち負けの次元ではないと戒めつつも、裁判の経過には勝訴・敗訴の区別はあるのだ。そしてこの間の裁判の争いの場ではおおむね勝である。先にのべた棄却取消裁判の一審判決などは、法理としても歴史的視点としても、また行政への抜本的解決の促がしの点でも理路整然たるものであった。自民党政府とその地方機関である県当局は控訴することで時間かせぎに逃れたものの、到底、ここまで徹底的に論難されるとは予想しなかったにちがいない。だが、彼らの水俣病始末のシナリオのスケジュールに変化はない。一部反抗的患者への医療費の打切りと同時に行政のみとめる、柔順な患者たちをボーダーライン層にしたてて、医療費を保証する手続を実現化してきている。権力は圧倒的に実務の面でひたおしすることで、患者に無力感を味わせつづけているのだ。
「このむつかしい時に、よく映画をとる気になったなあ」とつきあいの深い患者はキッと私を見て言う。「運動も壁に当っとるし何もかも手探りの時期で、”花”もなかときに……」私は「敗けいくさをせめてきちんと撮っておかなければ、本当の敗けよ」とつよがるもののたじろぎはあった。過去十数年、戦列の先頭をきって戦った患者さんたちに今や法廷すら権力のうちにとりこまれつつあることへの危倶がつよまっている。チッソは主敵にすえがたい。彼らは国・県の盾のうしろに隠れすんでいる。水俣病の幕引きは熊本県政の最大課題とされ、つねに自民党政権の強圧の下にある。水俣病は今日、認知したものの、この水俣病始末の動向にさからうものは孤立化される。社会病理としての”水俣病”はいまだ差別の鉄冠にしめ上げられている。患者は患者であると名乗り出たゆえに、根っこの”人間なるもの”にまで思いを沈める。そこで負けるか否かである。
この映画でであった若い被害者の青年は映画の中で心のバネをこうとき明かした。父を狂死のうちに見とったのは彼が六歳のときだ。
「俺は父親にあの世で訊かれるに決っとるーお前はシャバでチッソにどげんことばしたか、どげん俺のうらみば晴らしてきたかって。そんとき、おやじに言うてきかせられる生き方をせんば死に切らん」と。そう考えたときから国・県の盾のかげにひそむチッソと対決しようとその途を探し、ついに患者としての申請を取り下げた。そして申請者連盟の会長をやめることになった。そしてまぎれもない水俣病一族の、確乎たる被害者(公式に認定されざるものの)として自分で自分に宣言し、新たな生き方、闘い方に自由の場を得た。チッソはもはや彼に関する限り、さしで対応を迫られても拒みようがなくなった。
「金はいらぬ、俺の体が水銀で犯されている事実をみとめよ、この企業犯罪のうしろ盾に国・県のあったことをみとめよ」との二点を一生問い直すという。莫大な補償金を払う身であることで、被害者面のできたこの間のチッソにとって、再び加害者の原地点に立たされたのである。
死にぎわの自分から今の生き方をみる。その逆光の視線は私には想像しがたい難苦を思わせる。だが水俣病のその三十年、四十年ではない『水俣病・その生涯』を引きうけた彼に打たれる。それを映画にいささかでも止めたいと思っている。