(企画ノート)八六年四月 はじめにーなぜ、いま「海は死なず」と題するか 企画書 <1986年(昭61)>
 (企画ノート)八六年四月

 はじめにーなぜ、いま「海は死なず」と題するか

 水俣病の所在が確認された一九五六年(昭和三十一年)から数えて、この八六年(昭和六三年)でまる三十年を関する。この間、いくたび「海は死んだ」「死の海と化した」「漁りの海は滅び、漁民は生活を奪われた」といった言いかたが水俣病をめぐって新聞、テレビでいわれてきたことか。たしかに、チッソが企業の利潤追求の立場から海をおそれもせずにけがし、直接に経口摂取するなら、数億の人命をたおす水銀を四百数十トンとも六百トンともいわれる規模で流して顧みなかったことへの指弾のことばとして、正しい方向性をもっていた。このことばのイメージはすでにひとりあるきしている。だが不知火海の人びとは同じこのことばを誰一人のぞんでこなかった。そして漁業をやめることを一日も望まず続けてきたし、魚を喰うことをやめない三十年であった。たしかに水俣湾内とその周辺のものとわかればためらうことはあっても、眼と鼻と舌で試して、確信さえもてれば喰った。魚がいれば指をくわえて見逃すことはできなかった。患者自身がそうである。これは何か。海と人とは所詮切り離されることはなかったのである。
 海は死ねない。死ぬことができない。浚渫ヘドロ埋立の予定地にさえ、巻貝、小ガニ、ボラ仔、ナマコが棲みだし、それを常食とするサギ、トンビなどが飛来している。水俣湾内の漁獲禁止の立看板の下は皮肉にも禁漁区なるがゆえに魚にとっての天国になっている。
 不知火海は全く独自な性状の海である。ひとつだけ例をあげれば地元の漁師は海の干満差は世界中多少の差はあってもほぼ同じと思っている。最大、四月下旬大汐時には四メートル、平均二メートル近い。映画『海盗り』の舞台下北半島では干満差二五センチ、原発地帯の若狭湾最大干満差四〇センチ、北欧数ヶ国の共有海域バルト海はわずか一〇センチに過ぎない。それらをこの眼で見、確かめてきた。
 不知火海の平均水深三〇〜四〇メートル、その水層の厚みの二〇分の一前後が一日二回、年七三〇回干満し、東シナ海の対島暖流とまじり合っている。つまり外洋の鮮血を不断にひき入れている。そしてここに産卵に来る魚群の習性は最汚染時にもそれを忌避することなく上って来、回遊し、産卵、孵化し、幼年期の成育を営んできた。もし魚が死んだり、絶えたりしたら、それを食することもなく、ひいては水俣病にもならなかったろう。つまり海は汚されても、なお生きることをやめなかったゆえに水俣病の発生をみたのである。患者や漁民がアニミズムの世界では起こりえない現代文明の生んだこの事件ゆえに、その食性を変えることはなかった。
 この映画には「海は死んだ」とする概念への反語として、この題をかかげた。

 水俣病事件史の流れといまの患者の立場性

 この映画で語るポイントとして、問題を整理しておこう。

1.水俣病の新たな出現の危険性はあるか?
それは、こんにちほぼないといってよいだろう

 新たな発生はやんだーとみなすには勇気と配慮を要する。依然として湾内に水銀が滞留、沈澱しており、もしヘドロを埋立工事によって掘り起こし、水中に拡散するならば、こんにちもなお、きわめて高い汚染値をもつ魚がでるといわれる。それゆえにこそ、ヘドロ処理事業差し止めのための仮処分を申請して法廷であらそった(七七年末申請・八〇年まで)。これに対し、漁民も漁協会員資格をもつ患者・家族もほとんど加わらなかった。原告は労組員、公害運動家が主体であった。もちろん、悪名高い水俣漁協幹部のしめつけはあり、工事推進運動への動員へかりだされたとしても、もし漁民・患者として同じ危惧をもつなら、すくなくともみすみすおどらされることはなかっただろう。一方阻止側の原告も、異例にも一審の判決のまま控訴をすることをやめた。そして水俣湾のヘドロ処理事業はスタートした。
 ここで重要なことは水俣湾の最汚染時の想像を絶する地獄図を再現してみることだ。魚が浮き、猫が狂死し、貝・小魚を食べた鳥が垂直に墜落し、残りものの魚を食べた豚まで死んだ一九五五年(昭和三十年)前後を彼らは見ている。町中の人には稀な、この悲惨な漁民の記憶があればこそ、二〇年後の水俣湾のヘドロ処理事業を、よりましなものとして容認したのであろう。
 漁獲禁止区域の設定も遅きに失した(昭和四十八年以降)にもかかわらず、漁民は多食を手びかえた。水俣病の教訓を彼らなりに身につけた。そして水俣病の新たな発生から脱出していったといえよう。

2.「水俣病は終らない」とは何か

 水俣病事件と水俣病とを区別してみることはできない。しかしその事実の所在と救済、治療とは次元が異るように混同はできない。
 前節で、水俣病のこんにち時点での新たな発生はないとする見解は政府、県当局、御用学者の古くからのいいぶんであるゆえに、運動的には「水俣病はまだ終っていない」と言い続けるべきかもしれない。だが、そのことばの外衣をはぐことからこの映画を始めなければならないかもしれない。
 つまり水俣病事件そのものは終らないでいる、解決されないでいる、其の救済も医療の途もまだ見出されずにいる。ーその意味で、こんにちの現実を「水俣病事件はいまだ終らず」というべきだろう。だがこの場合、行政の施策に原因を求めるだけではなく、それを許した被害民のありかたにも眼を向ける必要があるのではなかろうかーこれが今回の映画の複眼的視点である。水俣病患者自身が闘う姿勢をもたないかぎり、行政の方から救済の手をさしのべることは、水俣病事件史のどの一頁をとっても絶無であった。いま行政は、闘わない、あるいは闘いえない大部分の患者たち、川本輝夫氏や、申請協の闘いが少数派であることを目して、孤立させうると読み切ったからこそ、あらゆる手段で幕引きにとりかかっている。闘いの因果関係は相対的である。
 行政、つまり自民党政府と熊本県当局は不知火海沿岸住民自らの水俣病かくしの心情を尊重するかのように『一斉検診』なるものをしてきた(一九七一年〜七五年)。偏見の中であえて検診を受けない住民に対して、追ってまで受診をすすめることはなかった。アンケートに応じた人まで含め、五万五千人検診の結果、水俣病の疑いを含め、要審査対象者一五八名、要管理対象者三九八名と発表して、七五年八月以後は本人の申請を待つという方針で水俣病のピックアップは終ったと宣言した。行政は、あと度重なる調査の要求をしりぞけてきた。

3.水俣病事件は終っていない

 「事件」とよぶにふさわしいいくつもの裁判がある。八六年には相ついで判決が出るであろうものは次のとおりである。

・不作為の違法、つまり行政の判断処分の不当の遅れを問ういわゆる「待たせ賃」裁判控訴審
・ニセ患者発言によって行なわれた患者(申請者協議会)の行動を暴力罪として告訴したいわゆる「謀圧事件」控訴審
・棄却取消訴訟の一審判決

 そのほか、いわゆる第三次訴訟、大阪水俣病訴訟、東京水俣病訴訟等があり、ともにチッソのほか国を被告としてその国家賠償を求める裁判がうたれているが、これらの判決はあと二、三年かかるものとみられている。前の三つの裁判がさらに控訴・上告すれば、さらに解決の日はのびるだろう。裁判でみるかぎり、文字通り「事件」は解決をみていない。

4.住民の申請の動きはやんでいないこれには申請団体の総申請運動の与えた刺激も大きいが、住民の健康への不安、疾病による生活・医療への救済の要求など地の庇のうめきに支えられていることは確かだ。
 なぜいまになって申請するのか。
 重ねて述べるが、

・水俣病の情報の伝達、調査、患者の掘り起こしについての行政の努力がなかったこと。
・一体であるべき不知火海の水俣(九州本島側)の対岸、天草、離島が汚染地域指定からはずされ、濃厚汚染は本来、これら島の町村にはないものとされていること。
・不知火海にみられる水俣病像は、かつてのようにすべての症候群をそろえた急性劇症型典型的水俣病像ではなく、いまは病理学的につきとめられているように(したがって臨床学的には定説といいがたいとしりぞけられている)慢性型、加齢性型など非典型的水俣病の所在が主である。このいわゆる総住民型ともいえる水俣病像への認識がなく、また住民に知らされていないことなど。ー以上のほかに申請の遅れと申請後の対応についての住民=申請者側にも問題点がある。
・水俣病をきらう精神風土から脱し切れない保守性、漁民のむら社会の盟約性。
・したがって、水俣病の名を背負うことへのおそれ、申請するに当っても、できれば匿名をもって自らをかくす。その結果いわゆるかくれ申請者となり、棄却されれば声もなく引きこもる。かりに認定されてもけっして公然と名のることはない。このかくれの構造が住民同士の足をひっはっている。
・現実に差別がある。子どもの就職、結婚等の差し障りをおそれ、それらの片付くまで我慢し、齢五十、六十を越えてやっと申請に踏み切る。そのため申請の好機を返した。好機とは、ひとつには、一九七一年からのち約三年間、環境庁の第一回次官通知「有械水銀の影響のあることを否定しえない場合、認定せよ」ーの趣旨がともかくも、県・国の判断に生かされていた時期を示す。このころ認定率五〇パーセント以上八〇パーセントであった。もうひとつの好機とは、症状のはっきりでているときに診てもらうことである。壮年期には症状が明確であっても、年をへるにしたがって各種老人病と重なり合って、単独に水俣病症状をとりだしにくくなる。つまり我慢してやっと申請の決心をしたときには、行政のまきかえしによって認定審査基準はさらにきびしくなって、くわえてほかの疾患と重なることによって認定基準に合わなくなって、認定は「針のメド」を通るほどむつかしくなってしまった。その出遅れの代償は過酷にすぎる。
・「魚が売れなくなる」ことへの過剰反応ー事実、この三十年間二度にわたって熊本のみならず、全国の魚市場から水俣を含む不知火海の魚は取引を停止され、飢餓寸前まで追いやられた。このことから漁協が自ら、その組合員に申請を禁じた。のちに禁じた漁協長自らが重篤な症状に苦しんだ例もある。だがその禁が事実上とけるまでに約二十年かかったのである。水俣病の申請は主治医のすすめによるものではなく患者本人の申請書への申し立てと署名捺印から始まる。いわゆるこの本人申請主義によって住民は、漁民社会からひとりぬけがけするかのようなためらいを感じざるをえない。申請すること自体に強い呪縛があり、『反則』でもあったのだ。

ー以上の経過にもかかわらず、申請の動きはやむことなく増えている。そこには生活と健康と未来(余生)へのおさえがたい不安と苦痛があるからである。そして、水俣病事件以後三十年の歳月を経てようやく漁村から仮りに申請者が出現しても、もはや魚価になんの影響もない時節になった。水俣病は、過去の中毒によるもの、つまりその後遺症と見なされ、現在の魚の安全性をかつての水俣病と切り離してみる見方が漁業関係者の問で一般常識となってきたのだ。この時節の到来を待った申請者たちの前に立ちはだかったのは、かつてと比べものにならないほど認定率の低い(一〇パーセント前後)いわゆる「患者切り捨て」政策であった。

5.『患者像』と立場性の変化

この三十年の患者の運動の流れを見よう。

・患者の闘いのピークは二度あった。そのひとつは一九五九年(昭和三十四年)の不知火海漁民闘争と患者自身による坐り込み闘争による見舞金獲得の闘争もうひとつは、一九六八年より五年間にわたる水俣病裁判・東京チッソ本社への坐り込み闘争。そして裁判勝利後のチッソ・患者間のいわゆる『協定書』締結までの直接交渉(七三年)、それの妥結を待っての不知火海三〇漁協のいわゆる第二次不知火海漁民闘争である。
・このふたつのピークの闘いの特徴は、直接交渉のかたちをなし、患者のうらみと要求を集約したいわゆる患者主導のものであった。これに全国の支援者、各地の反公害グループが結びついた。既成左翼による党派主導型の代行主線はこのピーク時には影を失っていた。
・患者闘争の最大の獲得果実は、一九七三年三月の水俣病裁判の判決の示した慰謝料に加えて、同年七月のチッソとの補償協定書をとりかわしたことにより得た、いわゆる生活年金と医療費の生涯にわたる終身補償である。この獲得したものの内容は当時の各種公害闘争の水準をはるかに越えるものだった。協定締結時、この受益対象である患者は四〇〇名余、申請中の患者は二千数百名であった。当時チッソはこの協定による救済対象の枠を千五百人が限度と踏んでいたと思われる。だが申請者の増加のピッチはチッソの目算を大きく越えた。その動きの中から自民党政府、熊本県当局による強力な巻き返し、かはじまった一九七五年頃からである。その後こんにちまでの十年が今回の映画の舞台になるだろう。

6.チッソの立場性からも見てみるー

 チッソは水俣病発生の当時から、日本化学工業会、経団連を通じ、自民党政府と深く接触をもち、その指導のもとに患者と水俣病事件に対峙してきた。チッソが最も怖れたのは何か。それは近年になって公理となったPPPの原則(汚染者による補償責任)によりチッソひとりでその全責任をひっかぶることであった。自民党政権、時の三木環境庁長官はあえて国・県を第三者の場におき、すべての補償をチッソにひっかぶらせたものの、この不知火海住民の地の底から涌くような申請者群の大量出現の事態まではよみとっていなかったに違いない。
 もともとPPPの原則は水俣病事件のような、一企業の体力をすべて、つまり資産のすべてをなげうっても償い切れないような、広汎にして深刻な公害までも視野におさめてつくられたとはいいがたい。しかし原則は原則である。営利を目的とする一企業の環境汚染によって生じた生命・財産の損害の賠償に国民の税金を充当することは原則上不条理である。だが事実としてはどうか。資本金七八億のチッソに仮りに一万人に対し、一人当り見込額生涯補償をふくめ最低三千万とみてその補償金相当を掛けて得る累積三千億円の数字をみれば、PPPの原則のこの場合における適用は一企業の負担をはるかに越えるものであることはたしかである。

・チッソは裁判判決以後執拗に破産のオドシをかけたのは一に患者むけの恐喝だったのだろうが、それには時の自民党政府の責任、ひいては日本株式会社ともいえる企業集団国家に対し、「自分が倒れたら、協定書は空文に帰し、あとの補償問題はストレートに国にぶつけられる。いかがなさるか」と両刃のやいばを向けるものであった。それが自明の理ゆえに、後に県債発行というかたちで、チッソへの国庫公金の支給につながり患者の切り捨て策の根源的意識を培養している。
・この恐喝はまた住民、被害民、患者に対しても正確に有効に働いたといえる。
・認定された患者に大別して二つの集団と経過の違いがある。ひとつは旧認定患者群約百十一名、その数字は園田厚生大臣により、水俣病の原因がチッソにあることを公式にみとめた一九六八年(昭和四十三年)九月当時のものである。
 チッソは加害者として自覚する対象は極論すればこの人たちの範囲までであり、のちに生じたいわゆる新認定患者は、「典型的患者ではない」ゆえに同じ水準の補償は「公平を失する」という思考パターンに依拠させた。さかのぼること十年前、昭和三十四年当時の第一次患者の坐り込み闘争以来、患者のかかげたのは『一視同仁』にみなし、見舞金に軽重をつけるなというものであった。
 ゆえに後に裁判で闘った少数派のいわゆる訴訟派は、他の患者グループすなわちチッソに一任し帰順の意を表した一任派にも中間派にも、この裁判判決の示した最高水準の慰謝料金額にならうことを良しとし、文字通り自主交渉派(代表川本輝夫民ら)の血と汗と歳月であがなった協定書の水準への自動的ともいえる参入を許した。旧患者グループ同志の公平感覚は脈々と生きていたのである。これはチッソの公平とは似て非なるものだ。
・チッソは裁判以後一貫して新認定患者の補償切り下げを策してきている。これに対する旧患者の批判の声は聞えてこない。チッソ特有の卑劣さへの非離はあるとしてもである。ここで気になるのは旧患者の心の奥底にある水俣病の元祖・正当派としての新認定患者群へのいわくいいがたい違和感の厳として存在することをチッソは見ぬいていはしないだろうかということだ。旧患者にいわくいいがたいこだわりがあるー「いまの手のしびれるぐらいの患者が、おどんたちが味わった死と痛みとうらみと一緒にされてはたまらない……」。そう口にしないだけ救いがあるが、その本音にもとづく挙動はおのずとチッソや行政にもつたわるものだ。原田正純氏(熊本大学医学部)はつねに「水俣病患者の被害に軽重はない。その健康な肉体、生活から失われたものの意味と被害は他者から軽重の差のつけられるものではないし、つけるべきではない」と主張する。しかし常民の見るところ、軽重はあるのである。「五体がともかくもそろっている」と見るのである。近代法の損害論ー指一本いくばく腕一本いくばくといった人身に対する補償の合理主義とは別に「どんぞこから這い上ってきた自分たち」という気持を特別視するのも当然、かもしれない。
 「足腰あって口もかなうのに……」という見方は川本輝夫氏に対してもあるようだ。勇猛果敢な氏の国・県・チッソへの戦闘性を見るとき、チッソや、既成党派の人でさえ「暴力派患者」のレッテルを貼り、「あれでなんで水俣病か」という風説を流し、新患者全体、運動全体の足をひっぱるのに躍起である。だが、一貫して狂死した父の怨み、広汎な被害者を背負って闘いをやめない氏には旧患者は、ある種、畏敬の念を禁じえないようだ。闘うことで、より差別を受けることに過去の自分たちの痛みがつながるのであろう。しかし一方、そうであればあるほど、こんにち、差別の薄れたなかで、申請もかくし、受け身のままで、認定を待つ申請者、そして「棚からボタモチ式」に認定された「後発」の新認定患者への区別感は現存しているといわなければならない。そしてそれはチッソの患者分断の土壌であることもたしかだ。患者原像も時代と場合によって変容していく事実をみとめないわけにはいかない。

7.市民意識から見る

 一九七五年、勢いをもり返すべく画策した自民党熊本県議会議員の「ニセ患者発言」に端を発した、患者二名、支援者二名に対する暴力事件のデッチ上げ、後のいわゆる謀圧事件裁判の底流には、水俣市民の抱く非典型患者への違和感がある。彼らの患者像には急性劇症型患者、あるいは水俣病の祖像ともいうべき胎児性水俣病等、いわゆる旧認定患者たちのイメージが定着しており、いっけん常人と見えながら深く症状を秘めている患者の訴えが理解できない。また交流の回路もなく、無関心に等しい。その隙間をついたのが「ニセ患者発言」であった。そして、いっけん的確に人びとのもつこだわりや疑問を、スキャンダラスな側面から切って見せたのである。「本当の患者は気の毒だが……後んとは医者が棄却といえば棄却じやろが…」という市民は多い。患者側からいえば、現実の認定制度が、かずかずの裁判でつよく批判されており、認定審査会の棄却者が、裁判による鑑定によって水俣病と判断されていること、棄却のまま死亡した患者が病理解剖の結果認定された事例をもとに、あるべき救済を求めている声を発しつづけているが、それは、市民住民を納得させるに至ってはいない。「医者どんは専門家ばい」と認定審査会の判断に傾くのである。この現実はチッソのPPP原則の適用の”不合理”倒産の危機の共有に支えられている。
 協定書を死文とすることができる。チッソは企業として死ねば、すべての生涯補償はもとのモクアミに帰する。この協定書の陥し穴は、患者代表とチッソ会社との協定であり、国・県は立合い以上の何ものでもないからである。
 要約すれば、水俣病事件の終り方、終らせ方の主導権をとっているのは自民党政権とその地方機関としての県当局であり、チッソである。その構造はその始まりもそうであったように、いまも何ひとつ変わっていない。変えられたのは患者組織の分断と地域社会の差別の深化、重層化であり、六千人の末処分者への切り捨てが、彼らの先手先手で着実に進行している。そのただなかにあるということである。

 映画の局面、現実の局面

 今回、水俣病三十年史をまきとる企画としてスタートした映画であったが、やはり、三十年目にして見えてきた新たな局面のドキュメンタリーにならざるをえない。
 その局面とは、水俣病患者の精神性に根ざす闘いによって保ってきた引力ともいうべき主導性が、自民党政府、県当局によって強行的に奪取されつつあることであると先に述べた。裁判の『常勝』すら行政に対してなんの歯止めにも、現状の見直しにも役立たない局面は患者の運動にとって異常事態といえる。だが彼我の関係のディテールはきわめて連続的で日常的でさえある。そこが水俣のいまの局面の特徴といえる。映画のむきあう局面もそこにある。あらためて重複を恐れず整理を試みてみよう。

・国・県はチッソに代り申請者に対処しながらも、第三者の立場を崩していない。そして今後も補償・救済の当事者となることは回避し、幕引きにむけて詰め手を打つことに進むであろう。
・不知火海沿岸住民とくに離島、対岸天草に病む被害民が申請をしはじめたこの十年、国とか県はとりつく島もない対応であった。環境庁は門を閉ざし、県当局はあきあきするほど同じことばを繰り返した。「調査はしない。認定基準は変えるつもりはない」と。被害民は国・県が所詮彼らにとって無縁な存在であることを知らされた。
・被害者の誰もが医療費の負担に苦しんでいる。「認定患者になりたい」と願う主旨は、医療費にある。水俣病申請者の運動によって、申請後一年たった者には、国保の自己負担分の県費による補助支給を勝ち取った。かろうじてそれだけが申請者への「特典」であった。だがそれも打ち切られる趨勢となった。
・理由は「検診拒否者に支給するいわれはない。処分の遅れは一に検診拒否による検診事務の停滞による」という。だが申請者はデタラメ検診や「棄却のための検診」を忌避し、せめて、申請期間中(棄却されれば打ち切られる)に支給される医療費の「特典」を手放すことを恐れたのだ。申請者、末処分者の大半が事実上、検診を拒否している。それに対する最後通告である。棄却処分を不当とする者の取りうる途は二つある。ひとつは裁判で取消しを求めあるいは水俣病の認定を勝ち取る途である。いまひとつは改めて申請する、いわゆる再申請・再々申請の途である。棄却者の多くはあとの方途を選んでいる。これが行政の幕引きの障害になっていることは明らかだ。
・これを防ぐために「ボーダーライン層」への救済対策が打ち出された。いったん棄却し水俣病ではないと判断・処分したもののうちに、ボーダーライン層を策定し、水俣病対策としての医療費の途をつくること自体矛盾している。つまりボーダーライン層とは、水俣病患者と区別できない症状を持つことを認めていることにほかならない。
・この対策の真のねらいは何か。それは、先に述べたように、医療費支給の被害民の渇望、最下限の願いを先取りし棄却者の裁判や再申請を禁ずること以外の何ものでもない。ふつうの行政による認定患者は最低でも補償金千六百万円、それに年金、医療費が支給される。しかしその認定がむつかしいとすれば「せめて死ぬまで病院代の心配のいらない方法がなかか」という声も出る。そこまで追いつめられているのが申請者の実情である。五年、十年後の認定よりいまの医療費をーという申請者の焦慮を卑劣にも見抜いて策を立てたものだ。
・さらにこのボーダーライン救済策の悪質さは、「誰に支給するかは県知事が決める」としていることである。「どこの線で救済されるのか、どんな患者がボーダーライン層か」の問いに、環境庁も県もその秘手を明していない。だが人びとは直感的に知っている。「御上に柔順な患者」だけが選ばれると。
・行政のねらいは、一般的に高齢化していく患者・申請者を老人医療支給資格の七十歳代まで未処分のままで送りこむこと。それに達しないもののうち、棄却者から一定数の者を恣意的に選んで救済したかのようによそおい、世の中の批判をかわすこと。権力の威をさとらせ、「無駄な抵抗はやめるよう」にしむけることだ。こうして運動を圧殺できるとよんでいる。ムチとアメの策略はいつの時代にもたちあらわれるものだ。行政にとっての『水俣病三十年』は以上である。

 右の分析は、つくり手の悪意ではなく、事実経過であり、現在進行している局面であり、患者、申請者、沿岸の健康被害者のすでに察知していることがらを文字にしたまでである。
 この動向に対する患者の思念は「死ぬまで待てというのか」に重く込められていた。だが権力は事実死ぬまで待つ、あるいは死ぬまで放置する気でいるのである。かつて人を粛然とさせたこのスローガンでさえ、彼らの耳にはタコができているのだ。被害者の声を聞き流し、あらゆる言葉に麻痺し、司法による法理にすら抗して最高裁まで時を稼ぎぬこうとしている。
 この権力意志に対して、あと残る闘いの手段は、まさに一揆といったものしかないとさえ思わせる。その意味で「国や県は法を守れ」という被害民、支援者たちのゼッケンのスローガンは、すでに法治国家であることに絶望し、怒りを深く沈めるいまの気持の現われでしかない。だがいかなることがあっても、人は死ねず、生き残っているのだ。
 映画づくりにとっての局面とは何かー青林舎(前東プロを含む)は十数本の水俣病映画を連作してきた。その過半数は裁判闘争から、さきに述べた第二のピーク、一九七五年までである。以後、『わが街わが青春ー石川さゆり水俣熱唱』、『水俣の図・物語』、『水俣の甘夏』、そしてフィルム工房の『無辜なる海』などである。それは全局面をフォローするものではなかった。
 私に関して述べれば、かつて水俣病事件のすべてをつまびらかにすることによって、いいかえれば、チッソの企業犯罪性、国・県のこれへの深い加担の実情を描くことが、事件の解決にいくばくの力になろうと考えた時期があった。第二のピークまでである。告発に力ありやと問うことができた。だが、展望は持てなく、どこかでニヒリズムと紙一重であった。それを転回させ、楽観の途を見出しえたのは、海の主題への傾心であり、人の生きることへの直感であった。七七年の天草・離島を巡った巡海映画の旅はまさにその分岐点であったといえる(『わが映画発見の旅ー不知火海水俣病元年の記録』筑摩書房)。ここにやや長い引用で恐縮だが、いまの映画の局面への予感が「あとがき」として述べられているので参考にしていただきたい。一九七八年の文章である。

 挑戦したい未知のドキュメンタリー
 今後も私は水俣・不知火海を描くにあたり患者の側に立つことにかわりほない。しかし、彼らのみを描くことでなく、むしろより多くのスペースをその反対者、その障壁となって立ちはだかる人びとにむけなければならないだろうと気づく。「本心いえば、わしはチッソはもう憎んどらん。水俣病、水俣病とさわいで、わしら漁民の生活を脅やかす患者を憎んどります」と東町の宇部組合長は言った。この四月再会し、彼の心からのもてなしの席上であった。私はそれを耳のなかにうけながら、すこしも彼を責める気はなかった。彼をしてそこに立たせている東町漁業者の生活の未知の部分を知り、宇部氏の人生観をききつくさなければ、私は歴史的なスケールで見る地点に立てないであろうと感じた。そして宇部氏のような人びとの声を聞く映画づくりを試みたとき、不知火海の人びと、とくに漁業者はそのプロセスに共感をもち、彼らのほうから水俣病映画に近づいてくれるだろう。 私がさきに患者の闘いが正面作戦、正攻法の時代ではなくなったとのべたのは、私の映画も、敵の後背地を調べ、その退却路をたつ、新たな視点を映画としてももたねばならないと思ったからである。
 一、歴史的な尺度での人間への信頼、二、映画人としての独立、三、そして何より、科学をもって四囲のデータをかため、その科学を表現としての芸術に高める力量がなければ、私は無限の相対論にはまるであろう。いわゆる通常T V局の客観的報道なるもの、Aの意見、Bの意見をならべるといったものと劃然と区別されるファクターは、右の三点のほかに、両者ともに正負にせよ関係を持続しぬく覚悟であろう。このような質の映画がいまわたしの挑戦したい未知のドキュメンタリーなのである。それはその映画を運ぶ地を不知火海に決めてはじめて見えた模索の糸である。そのためにも、私は不知火海を私の新しい映画方法論の主戦場としつづけるほかないのである。
 不知火海には水俣病の歴史よりさらに長い歴史が可視的にみえる。水俣病患者もそれに内包されるほどの人びとに加えられた暴虐がある。それは近代百年がこの地に強いた貧苦、過疎、挙家離村、逃散、疫病、その放置、老人孤独地獄、共同体の死滅過程といったなかに水俣病はその惨苦の近代化をたてに貫く毒のまっ赤な糸である。それはそのすべてにかかわる毒の神経繊維のように不知火海の全体躰に迷走しているだろう。
 一方、人びとが相争う場となっている不知火海にいまも魚と共生の世界があり、他方、人の手で魚を作る海の独占産業が台頭している。そのいずれも魚とひとの関係である以上、水俣病患者を敵視する構造からぬけ出られないのだ。だがこの背景に、水俣病の歴史を重ね、その科学を描き、この不知火海の現在、過去、未来をとらえられたら、それは国と資本はしょせんこの地の人びとと相容れざる世界であったことが浮き出てくるのではなかろうか。
 日々闘いがあり激突のある水俣病事件の今日性からみれば、なんとも迂遠な映画づくりに見える。しかし、そのような旋回の対極に、あるべき現実の先端がみえる気がしてならない。

 水俣にとってのよみがえりとはなにか

 ひと言でいうなら、「水俣、ミナマタ、MINAMATA」、つまり水俣の文字が各様にことばとして生き情念として刻まれること、それがよみがえりの第一歩であろう。
 死相のままデスマスク化された水俣、水銀汚染の地として永年強制冷凍された水俣がうごきだし、生色をとりもどす日までが水俣病事件史であるだろう。その再生のプロセスが、ふたたび水俣病を世界にひきおこさないだけの体験史としてまきとられる日までである。
 ミナマタ、MINAMATAが忘却を拒み生きつづけること自体、闘いなしにはありえない。生きることが別の意味をもつ。それが水俣で発見できないなら、水俣の受難と人びとの痛苦は、なんらむくわれないといっていいだろう。「海は死なず」とは、人は死すとも……、あるいはチッソ死すとも……、とつなげる意味をもつ。「人は死ねず、人は死なず、人は生き残りの生を生きる」。それは生の終末から逆に現在を見すえる視点でもある。
 ある被害民(のちに述べる緒方正人氏)の場合。
「死ぬときに水俣病患者であったことがどういう意味を持つだろうか。不幸を逆転して、水俣病をへずしては見えなかった人間の本当の幸せをもってあの世の人と会いまみえることができはしないか、そんな生き残りの生を生きたい」
 このことばを撮ったときに、私はめまいに似たものすら感じた。これは信仰であろうか。宗教であろうか。だがいわゆるそれらとは劃然と違う。彼は「信ずる者は救われるべき」キリスト者ではない。「不幸な者ほど幸せをつかめる」といった暗示的教義にも組みしない。この人は、生きる過程すべてを闘うことでたどりつきたい情念の世界をかたってくれたのである。
 暗みと明りの分ちがたいところで、暗に焦点をむけるか、明にカメラをむけるか、いうまでもなく、かそけきものであれ明るみに賭けてこの映画をとりたいのである。その力量があるのか否かをいまは問うことなくその方向へ歩み出したいのである。
 その入口というか、この映画のキイワードは海である。「海は死なず」の海はひと、自然、人と人とのつながりのすべてをこめている。だが呪文やシンボルとして描くのではない。切にドキュメンタリーでとらえる海とその世界でなければならない。ときに科学映画のような、ときに地理学映画のような、ときに労働(漁撈)を分析するような映画になろう。
 現場でインタビューは多用する。だが最終的には、光景が前面に出るもの、ことばではなく人間のすがたがあざやかに結像していくものになるだろう。そのとき海とひとのよみがえりは幻影や幻想としてではなく、あくまでドキュメンタリーとして描かれるであろう。

 映画のなかみについて

 ここに映画に登場する主要な場面をいくつか挙げてみる。

 一、海の描き方

 水銀のたれ流された不知火海の現況を総体として見る。この海は行政区分として熊本県と鹿児島県に分たれるが、ひとつの海として見る。ここに日本一を冠する漁業がいくつもある。生きクルマエビ養殖(全国比四〇パーセント)ハマチ養殖(全国比二〇パーセント)マダイ養殖も首位である。それが水俣から十数キロから三十キロメートルの海域内にある。なぜそれが可能なのか、どんな漁民集団がそれをなしとげたのか。
 自然魚介類の繁殖、孵化、成育の海といわれるのは、なぜか。
 この海は海岸から深い海溝に至る階梯のうち川口、浜、磯、灘のすべての海底条件をもち、しかもこの内海は外洋よりも生きものへの保護性をもっている。イワシ、サバ、アジ等のいわゆる浅い海面すれすれの回遊魚、干潟、灘にすむ貝、エビ、カニ、タコ、イカなどの定住棲物、これら弱者たる生物を追うタイ、フグ、ハマチ、タチウオなどの外洋性魚族の回帰し産卵するところ、稚魚の育つ自然海岸、入江のゆたかさ、それらは混然と子宮の性状を見せている。
 くわえて干満差による汐の入れかえがある。さらにいえば、公害の原点の海であったがゆえに、一九六〇年代以後の列島改造、公害多発型企業の進出を見なかった。これが他の海ではどうであったろう。喜入、志布志(鹿児島)、上五島(長崎)などの石油基地の立地を見ればわかるように、不知火海ほどそれに適した内海はなかったにもかかわらず、この海は結果としてチッソ一社を礫にしたまま海を守ってきたーことになった。
 ここにはヒトの仮託すべき海の祖型がまだ残り、生き続けている。この生とよみがえりをベースに人もまたここに生き残った。
 この映画は空中・水中を含め、海を新たな視点でとらえなおしてみたい。過去十余の作品で、ひとことも「海は死んだ」と語ったことはない。むしろ奇異に映るほど海の蘇生力を感じ、それを風景と描写に注いできたつもりである。それらも再構成して、不知火海を描きたい。

 二、水俣病の描き方、その地点

 水俣はもとより水俣病の震源地である。だが、こんにち最も救われないのは、水俣以外の被害者である。
 なぜなら、自分たちの体の異変、異常に気づくのに十五年遅れたからである。すでに述べたようにいつに調査、検診の遅れによる。さらに天草郡全体、鹿児島県の離島部が水俣より指呼の間にかかわらずあきらかに打ち捨てられてきた。
 だから今回の映画はむしろ周辺から水俣病事件の首都水俣を見てみたい。水俣にはチッソがあるだけではない。ニッポンの縮図が透けて見えはしないだろうか。

 三、被害民をどう描くか

 前作までの十余の作品、とくに『医学としての水俣病・三部作』で描いた被害像よりすすんだ発見は医学上にはみあたらない(むしろ、あの当時の水俣病像論の方が、こんにち後退しているぷんだけ先駆性すらあったともいえる)。
 被害民の水俣病を抱いての悲しみは、まだ描き足りない。それを辺境、離島を舞台に撮ることになろう。
 今回、次のような人物像を描きたい

例1 緒方正人氏の場合

 一家全滅にひとしい多発家族の末子として生まれた。父の狂い死を六歳にして目撃、長じて症状に苦しみ、申請に踏み切ったが、保留のまま十年余なんの判断もなく据えおかれた。母も兄弟の多くも認定された三十二歳の体力をもって、漁業を続けている三子の父である。彼は申請協の会長として、その勇気と知力と迫力で会をひきいていたが、最近すべての団体から身をひいてひとりの漁師、ひとりの人間に立ち帰ることにした。見方によればよくある脱落者のケースとも見える。しかし彼は自分を水俣病患者と認める一方、申請を取り下げ、医療手帳を県当局につき返した。そしてチッソ工場にいき、二つの事実をみとめよ、みとめたらゆるすという『問いかけの書』を手交した。その返事を一生かけても待ちぬくという。「チッソは私と一家に対して加害者であることを自ら認めよ。国・県のチッソへの加担を告白せよ」というものである。「補償とは金か?患者になるには膝を屈することなのか?」と激しい。これは脱落とは異なる精神性を持っている。そのすべてを撮りたい。

例2 ある漁民闘争指導者の死

 一九五九年、七三年の、二度にわたり不知火海三〇漁協の闘争を束ねてきたリーダーのひとり、芦北漁協長竹崎正己氏(八五年十一月、没)の場合。彼は二度の逮捕、拘留、そして有罪となった。一度は五九年(昭和三十四年)の漁民闘争のあと、暴力罪の主犯として、一度は七三年(昭和四十八年)補償金の横領の罪の主犯としてー。暴力罪に起訴されたことは、のちに彼のリーダー性を確固たるものにし、以来、水俣病事件をかげからにらみつづけさせるものともなった。だが第二次漁民闘争後の横領罪は彼を県の漁業界から永久追放させるものとなった。この破廉恥罪の確定は不知火海の地域社会では決定的である。そして、彼をはじめ、あとリーダー五名の連座によって不知火海(熊本県側)の漁民指導者層は一気に解体された。そのわけを知りたい。そこに三十年史で見るとき権力の介入事件として、何を渡したのかがわかりそうな気がする。不知火海のよみがえりに占める人間関係の柱が倒されたことは確かである。

例3 今日の諸闘争とリーダー、川本輝夫氏の場合

 水俣病の第二のピークを含め、以後今日まで一貫して闘ってきた代表的運動指導者に川本氏がいる。不知火海の沿岸住民は、いまでも電話帳をめくって彼に訴え、申請の手続をたのんでくるという。「川本」は国、県と対極に立つ人の象徴であることに変りはない。
 漁民リーダーに対してつかった手は、この人の場合、権力側の完敗に終った。(いわゆる川本裁判)。だが謀圧裁判にみられるように、リーダーつぶしはつづいている。
 この数年、川本氏らはつねに勝訴を勝ちとってきた、判決には勇気づけられる。しかし現実には行政に裏切られつづけてきた。また既成左翼政党の攻撃にもさらされている。だが闘い続ける。次のピークへの予感があるとしたち、それは何か。耳をかたむけたい。

例4 天草上島森一族の場合

 不知火海の漁業の一体性を文字通り体の被害で描きだしている一族である。「天草にもともと患者の出るわけはない」という偏見がある。皮肉にもこの一族はその偏見づくりに加担さえしてきた。その一族の長である老人は地元漁協長として「わが組合からひとりの患者も出すな」と指示しつづけてきた。そして水俣の最汚染の直後に水俣沖に出漁していた。そしてその家長自身が最も重い水俣病症状を呈して死に、解剖の結果、水俣病に認定された。ついで老妻も水俣病とみとめられた。しかもあとつぎの当主と姉弟も歩行困難に陥った。さらに父、伯母、甥のすべてが熊大医学部の自主検診グループによって疑いがあるとされ、申請に踏み切った。だがあと全員は棄却と保留である。
 天草全島(除く御所浦町)で認定患者わずか四名、そのガードのかたさは天草を棄民の地として見る細川県政にひきつがれている。

例5 離島、御所浦の荒木俊二氏の場合

 この島は、かつて、樋島、獅子島、桂島とともに魚と芋で暮した水田ゼロにひとしい漁業の島である。水俣の眼前に浮びながら公害地区の指定から外されている。ここにも毛髪水銀分析データ上、世界最高の九二〇ppmの女性がいたことで知られている。全島が永く行政より切り捨てられていた地だ。ここの申請患者は一一三三名、町人口の五人に一人に達しているが、認定されたのはわずか四七名にすぎない。水俣病の申請患者がほぼ棄却される時代になって申請に踏み切ったためすべてが後手後手に廻ることになった典型例である。
 ここでは申請患者が大きく二派に分れている。荒木氏はその一派、申請協議会のこの島の代表者である。もう一派は既成左翼政党のつよい指導のもとにつくられた。そもそも、ともに二つのちがった自主検診グループによって検診を受け、そのまま、自動的にその系列の団体に入ったにすぎず、党派に分れるはずのなかった患者のグループである。荒木氏は「患者たちは二つでなくひとつになって闘わないかぎり、この島の患者に勝ち目はない」と説得に歩き出している。
 水俣病患者に区別はない。その派の区別はしいていえば水俣ー熊本、つまり日本の左翼運動、住民運動の流れの岐れにすぎない。とはいえ、島の人にとってははかり知れない統一途上の困難にぶつかることになろう。そのありのままを描きたい。そこで「もうひとつのにっぽん」に突き当るかもしれない。
 だがこの島に住みついた支援者がいる。養殖(マダイ日本一)で帰島した男たち若者たちがいる。海の活力が水俣と比べものにならないほどつよい島である。

例6 患者の身をかばいながらイワシ網漁をつづける女漁師のアニミズムともいえる楽天性を持つその考えかたと仕事のしかたー杉本栄子さんと夫雄氏の場合

 水俣病で狂死した父からイワシ網の網元をついだ栄子さん一家とその漁、その受難と病苦との日々については十六年前から二回にわたり映画におさめている。だが現役の漁師像・網元としての到達点としては描けていない。技術・漁法と、そのイワシの海との対話を通じてえた海との回路の発見は彼女にとっても近年のことである。生来のアミニズムともいえる感性、海のさかなと話ができる能力は、じつは、水俣病をかかえて仕事することによって研ぎすまされたものであった。
 船や漁撈のしかけに夫婦で知意をしぼり、最小の人手、最弱の体力、最小の労働で体にむちうって漁をつづけ、五人の男の子を育ててきた。水俣病であることをかくすことなく自ら生き、子供にも、かくすな、正面から当っていけと教えてきた。「ここは弱い漁師の生きられる海だ、どこのどんな病気もちの漁師でも、この不知火海でなら漁がかなう。皆ここに来てみるがいい」と言い切る。
 彼女たちが漁をしていることで、多発地帯茂道は水俣で一か所ともいえる漁村のたたずまいと共同性を色濃くのこしている。

 あと海と人とのつながりはいたるところで描くつもりである。つまり、海はひとのよみがえりの母胎であり、裏切ることを知らないたしかな生の場所でもある。水俣病事件をへた漁民にとって、海は死んだのか、生き、息づくものなのか、それをこの映画でみとどけることだ。
「水俣は死なず」
 水俣は現代をともにする人びとにとって、いかに文明が豊かになろうと、胸中に去来する「ある痛み」であることに変わりない。ミナマタ、MINAMATAはしずかに世界の痛みにつながった。それは精神のみが感じうる痛覚である。
 水俣病はまさに個々の肉体の痛みであり、患者みずから「かかってみんばわからん、他人に説明のでけんたぐいの痛み」という。その痛みを感じとることは想像力以外不可能である。
 水俣の市民もそうである。多食か普通かは別としてひとしく有機水銀を取り込んでいることに違いはない。その意味では同じ被害の民でありながら、チッソの労働者ゆえに、その城下町であるがゆえに、海と漁民、つまり水俣病事件とその当事者とのまじわりを断って生きてきた。そのつながりを断つことで、チッソの町で仕事を、商店を、市民としての生活をつなげてきたのである。この町で生きる「水俣術」ともいうべき市民性をチッソにうえつけられてきた。
 街の人にインタビューをランダムにやってみたい。それぞれに、他の地にいって「ミナマタ」とすなおに言いがたいものをのみ下しているに違いない。
 チッソ工場は人員べらしとハイテクノロジーで生きのびている。もはや主要産業とは言いがたい。出郷し、あるいは新規に就職で出ていく若者がいる。この人たちは問われてもすなおに「水俣生まれ」とは言えない体験をもっている。
 一方、水俣に流入した一群の支援の若者もいる。また私たちのように、表現者、記録者、研究者もいる。みな一様に「ミナマタに居る」「ミナマタに行った」とはばからず述べる。なんと水俣市民の「水俣」と対照的であろう。
 水俣病事件ゆえに陥没をふかめる水俣に、一カ所賑い、若者のめだつのは、水俣病多発地帯である。
 水俣病患者との共生をねがって創られた水俣病センター相思社はすでに十年を閲した。その間、患者の支援共生集団として機能してきた。それは水俣の市民にとって、痛みというより異物であり、ときに過激派の巣窟のようにいわれたりした。赤(アカ)という、よりリアリティーのあることばで、この篤志なボラソティア集団を評したのだ。
 この集団にも水俣に根づく生き方が探られた。甘夏ミカンの出荷、堆肥づくり、石けん販売。そして夏期の学校から、労働をむすびつけた生活学校ができて四年になる。支援者としての誇らかなミナマタと、地元のくぐもったミナマタとの間に、同じ水俣の地に一生生きることでつながる回路が芽生えはじめた。
 秋のある日の収穫祭、あるいは生活学校の一年のしめくくりに一挙に若者の集団がみられよう。ここではよそものの若者が過密に凄みついていて異様なまでだ。そして、患者とのつながりのほかに、地域の人びととのつながりをさまざまにつくっている。そしてこの支援者の第二世代が生まれ育っている。
 この消息は相思社や生活学校だけではない。茂道にすむ大沢忠夫、乙女塚の砂田明、津奈木町の谷洋一・伊東紀美代夫妻など、水俣の甘夏や特産品を通じて全国につながっている。
 「アジアと水俣をむすぶ会」の会長浜元二徳氏の場合は、再三再四にわたる世界の公害地、環境会議への行脚から、MINAMATAを世界にむすぷ運動をはじめた。五十に近い浜元夫妻は五月、水俣病公式確認三十年記念行事として「アジア民衆環境会議」のために英会話を学びはじめた。患者でしかできない仕事に余生のすべてを捧げようとしている。

 世界のミナマタと水俣のミナマター水俣に大学を

 水俣には水俣病事件の教訓の核心であるべき「水俣病を繰り返さないためにはどう考え、生き、闘ったらよいか」という近代文明の中で本来あるべき人間を希求する模索が続けられてきた。それは水俣病発生当時より始まったといってよい。水俣から何かを学ぼうとする外からの動きはつねにあった。国内からの各地公害被害者、市民・消費者運動家、そして研究者、医学者などだ。しかしこの人たちを受けいれるところは皆無だった。よそ者と患者そして一部支援の市民たちしかなく、地域社会全体としてほ固く閉ざされていた。
 八五年後半から「水俣に大学を」という動きが出てきた。人口三万六千人の町である一つの大学を産み出す行政の力も、地域の余力もない。その活力となるのは人のミナマタへの意志の束ねしかないことに気づく。
 悪夢のような事件、差別と偏見と分裂の体験でしかなかった水俣病事件のその三十年、いま水俣以外の地から水俣に大学をつくってほと提起されている。はたして水俣病事件に学問的価値があるのか、市民はただちにうごきえない。いまわしい水俣病、それゆえに出身地も大きい声で言いえなかった負の地域、「水俣」が、負のままこの大学で拡大再生産されはしないかーそうした市民の懸念がある。市民、事業者の若手の人たちの「ふるさと・水の会」は市民レベルの新しい愛市運動として、ともかくもその実現に志を同じくしようと動きはじめている。これもよみがえりにつながる動きとして映画におさめたい。

 おわりに

 『海は死なずー水俣病その三十年』とはいえ海は死相をのこしている。そしてこんにち、海のここそこにチッソにかわる海の汚染者が見える。
 海をこんにちけがしているのは私たちだという視点と海を甦るらせうるものもまた私たちだというものでありたい。まして、「汚染の海」「死の海」として疎外しつづけた他者の冷酷さは、いま周辺の市民、あるいは漁を捨てた沿岸住民にも浸透していないとはいえない。「一代限りの漁師」と居なおって、稚魚すらとりつくす「皆殺し漁業」すらこの海にあるのである。したがって、海と共生し、この地に生きつづけようとする人びとの思想のよみがえりなしには、この海を甦らせるものはないであろう。
 にもかかわらずというべきか、この不知火海は敵味方に分れた人びと、加害者と被害者と共に包んで、死なずに生き続けるであろう。その海をあらためて見る映画の眼は、おのずとよみがえりを希求する人びとの眼と重ならずにはいない。やはり終章は海の光景への凝視で終るものとなるだろう。