ミナマタ 法政平和大学第lV期(1986年) 講演 講義録 5 10月18日 法政平和大学 <1986年(昭61)>
 ミナマタ 法政平和大学第lV期(1986年) 講演 講義録 5 10月18日 法政平和大学 

 映画『医学としての水俣病』について
 
 只今、ご紹介に預かりました記録映画をやっております、土本典昭と申します。昭和三年生まれでございます。土本典昭というのは、昭和の御大典で親父が、昭和の”昭”と御大典の”典”をとったそうで、僕の世代には典昭とか昭典というのは非常に多いです。先程、お断わり致しました様に、現在十五本目の「海は死なず」という題名の映画を完成の上ごらんいただくつもりでしたが、一年撮りましても、未だ撮り終えることができず、恐らく完成はあと一年位延びるのではないかというふうに思います。
 このたびの映画にとりたいものは、水俣病についての変わり口といいますか、歴史的推移のひとコマを、どうしても撮っておかなければいけないというふうに思いまして、それについてのメドを待っている所なのですが、今、尾形先生が始めておられる水俣大学ー水俣環境創造大学という様なものは、明らかに水俣病の歴史の中からしか生まれてこない、大変壮大な実験でありますので、そういったものはやはりこの映画に入れたいというふうに思っております。
 今日やります映画「医学としての水俣病・第一部・資料・証言篇」は、私の水俣映画では第五作目にあたります。私が水俣に係りましたのは一番最初は昭和四十年でございますから、水俣病がこの世に存在を知られましてから十年後に、初めて水俣の映画第一作を撮ったことになります。それからなんだかんだで、二十年たってしまった訳ですけれども、水俣病事件の全貌が世の中に知られるようになったのは、つい最近の事でありましてですね、今日お持ちしました映画に出てくる昭和三十年代から四十年代半ばまではまったく資料が公開されておりませんでした。この中には、かつてお医者さんが水俣病を究明する為にはどうしても、全身の水俣病患者の特徴をつかまなくてはいけない、或は色々な実験過程をつぶさにフィルムに撮っておかなければいけないという、そういった思いがありまして、予算のない熊本大学にしては、そして又、映画という方法をあまり通常使わない先生方としてはですね、珍しくフィルムで記録したんです。
 それは水俣病自身の症状の特異性にもかかわりますけれども、いままでのいかなる病気とも見合っていない訳です。例えば、言葉の障害がある、目の障害がある、それから起居振舞に特異な障害がある、それから痙攣がある、それから色々な運動失調がある、というような事すべての特徴が、初期の急性激症患者にはきれいに揃って出た訳ですけれども、そのどれをあわせてみても、今まで学界で発表されている病気とはつながらなかった。その病気を推定していく経過の中で、その症状をフィルムでとらえて世界中に発表する、世界中の人の知恵を集める、という経過で撮られたフィルムでありますし、猫の実験にしても、或はすでに発生した猿にしても、比較の為に非常に執拗にフィルムを撮った。それから脳の状況にしても、解剖の脳の状況を立体的に提示しなければならなかった。
 と申しますのは、普通の障害と違いましてびっしり詰まっているはずの脳に腐ったといいますか、まるで枯れたクルミのような隙間ができて脱落していくと……。で脳というのは肝臓とか他の機能と違いまして、絶対に再生しないー一旦死んだ細胞、脱落した細胞は決して再生しないという凄まじい水銀による毒性を示しているものですから、脳細胞の顕微鏡写真も沢山撮られておりますし、全体の脳の切断面といったものも撮っております。
 そういった医学の発見過程と、患者さんの受難の過程を証言でまとめたもので、これは幸い、昭和四十八年に第一回目の水俣病の裁判が勝った、非常に運動の昂揚した時期に、そのフィルムがはじめて二ケ月、世の中に出たんです。その二ケ月は、私達の映画の為に研究書から持ち出された期間です。あとは一切公表されなくなりました。その意味できわめて資料性の高いフィルムだと思います。そして、水俣病がどういう発生機序をとって、どうなったかというのは、つぶさにフィルムを見て頂くとおわかりになると思います。

 残酷な傷害・殺人事件としての水俣病

 現在この映画を撮りましてから、すでに十年たっておりますが、今日は、現在水俣にあります水俣病の実情と事件の現状をお話ししてみたいというふうに思います。
 水俣病とひとくちにいいますが、これは全国数カ所で起きて不思議ではありませんでした。チッソと同じ水銀をあつかう工場が、全国で八カ所あったからです。話題にのぼったのは、徳山湾の水銀汚染による水俣病患者ようの発生、これが徳山水俣病というふうに呼ばれましたけれども、ついに水俣病というふうには確認されないで闇から闇に葬られました。
 同じ時期に、有明海の沿岸にも水俣病様の患者が発生しました。水俣の水俣病を第一、新潟水俣病は第二で、第三が有明水俣病というふうになって、徳山は第四といわれていますけれども、その第三と第四はついに「現時点においては、水俣病とは認められない」という、環境庁の諮問機関である健康調査分科会という、いわゆる水俣病の権威者といわれる学者たちによって否定されました。しかしながら、そこにやはりチッソと同じような製造工程を持つ工場群があり、同じようにたれ流していたという事は非常にハッキリしております。そしてこれを水俣病と認めた医学者は現存してます。いまは熊本大学医学部をやめられましたけれど、病理学的につきとめられた方々が現存しておられます。いずれは、それを水俣病というふうに発言される機会が必ずあると信じています。
 ですから水俣病の問題は、その地名を取って水俣というふうに申しますけれど、正確に申しますと有機水銀中毒症という形になります。それからこれによって起きた事件は障害殺人事件です。これが病気というふうにとらえられ、私達も水俣病と言いますけれども、これが刑事上の問題になった場合には、加害者・被害者の存する事件、つまりたれ流しによる業務上の未必の故意による殺人ないし傷害事件という事になります。ー実際にそういう罪名の下で、チッソのかつての、昭和三十四年当時の西田工場長、吉岡社長は現在、最高裁で審議されております。つまり水俣病は一生治らない特異な症状をもって現れる傷害であり、重篤な場合は、数十日、数カ月、数年にわたって苦しめられた上絶命するという殺人のメカニズムをもつ点で、水俣はきわめで残酷な傷害・殺人事件です。
 これが現在障害殺人という事の本質が非常に歪められまして、不知火海にひろがった公書による不健康、或は一種の神経症の多発といったあいまいな問題意識にすりかえられています。刑事上の加害責任、犯人としてのチッソがあり、そのなした行為によって傷つき殺された被害者という明白な構図が見失われているとろに現在の水俣病の状況があるのではないかと思っております。

 水俣病患者の急増

 私は水俣病に係りましてから、二十年、その間水俣病事件史をみてまいりましたが事実が明らかにされれば正義がさし通ると思われたのは、はじめの十年ほどの間だけでした。その十年間は真相が世の中に知られて行く、色々な表現者や、運動者が患者たちに係わって患者の言葉や歴史、その個人史を明らかにし、その受難の経過を記録し、そしてそれを裁判の場に提出して争った。いわゆる第一次水俣病裁判にしても、チッソが逆に患者の川本輝夫氏を暴行罪で訴えた裁判も勝訴しました。いわゆる川本裁判は最高裁までいった唯一の例で、多くの場合、チッソや行政は第一審判決に服し、控訴・上告はしないというケースで終わっていましたが、今日裁判の形は大きく変わりました。
 ちなみに申しますと、今も水俣病をめぐって、チッソ・国・県に対するいくつもの裁判がおこなわれていますが、一審判決においては、ひとつを除いてことごとく勝っております。水俣病患者が完全に勝っております。負けた裁判というのは、ニセ患者発言をした熊本県の県議に抗議行動をするなかで患者が怒って胸ぐらをとっつかまえて蹴飛ばしたという事件です。「水俣には詐って患者のマネをするニセ患者が多い」という言われ方をし、それに激昂した患者が面会を求め、それを阻止する者との間にあったいさかいからうまれた事件ですが、それが純粋に暴力事件だけをとり出し、事の本質である水俣病事件をどう見るか、ニセ患者がいるのか、いないのか何を根拠にして発言したのかが問われることもなく、患者が罰せられる判決が出され、一審、控訴審、そして今は最高裁に上告されています。
 それがひとつ負けたケースで、あとはことごとく勝っております。棄却処分の取消しを求めた裁判では患者さんさえ、「本当に俺達はどうしてとこんなに勝つんだろうか」とわが耳を疑うほど完璧といえる一審判決を獲得しながら、国、県の控訴によって解決は先おくりされるようになりました。恐らく最高裁まで行くことでしょう。このように法の裁きすら引きのばすことで水俣病をめぐる社会情勢の力学は、事実上患者に敗北感を与えています。
 この十年、行政は必死になって患者を押さえこんできています。それと言いますのは、この映画を作りました頃から以後、水俣病の患者が非常に急増しました。昭和三十四年の見舞金契約によって、医者が認めた患者は八十人に満たぬものでした。そして、死者には見舞金三十万円、生存者には年金として大人には十万円、子供には三万円という事で、以後、一切これによって新たな補償は行わないという、裁判の結果、非常に反社会的な契約だと言われて無効とされた、そういった条項を含んだ契約が取り行われました。
 患者が百名を超えたのはあらたに十六名の胎児性の水俣病の患者が認定されたからでした。それ以後ずっと患者の認定は押さえられてきました。そして私が本格的に映画を撮り出しました昭和四十五年当時には百二十一人でした。見舞金契約いらい十年余の間に、認定された被害者なんと四十数名という微々たるものでした。
 しかしながら、水俣病とはどういうものかという事が、ようやく裁判なんかで語られるようになり、それから石牟礼さんの小説で語られるようになり、テレビや映画で症状や経過があきらかにされるにつれ、自分の体の不健康と水俣病とを人々が結びつける事ができた。その結果、やはり自分は水俣病ではなかろうかという事で増えてまいりました。その数が非常に急激にふえた要因としては、水俣病の裁判闘争があります。告発の運動はたかまりを見せ、「公害元年」ともいうべきキャンペーンがおきました。とくに九州ではまるで何事が起きたかと思うほどのキャンペーンが続きました。地元の新聞例えば西日本新聞や熊本日日新聞などは新聞の力で患者を発掘するまでになりました。
 もうひとつ、テレビの津々浦々までの普及がありますこれによって字の読めない人、あまり新聞なんか読む習慣がない人が、一挙に水俣病というものに対して、理解を深めた。という事で、現在水俣病ではないかと訴え出ている人数は一万四千五百三十五人に達しています。これには郷里を出て関東、関西などで病む人も入っています。

 P・P・Pの原則とは

 では、この数字ですむのでしょうか。不知火海の沿岸で魚を食べて生きている、不知火海の魚を蛋白源として生きている沿岸住民人口は四市二十町村、四十万人と言われています。その中で特に魚を食べたであろうと思われる沿岸地帯の総人口は十数万人、この住民の食性は魚を基調にしています。さらに、専業漁家は不知火海の四十一漁協に属する船舶四千百五十一隻、専業漁業者八千三百人からその家族数平均四・五名とみて、低くみても三万数千から四万人と思われる、この人たちは間違いなく魚が主食といった生活だったと思われます。
 ですから申請者総数一万四千名という数は、まだまだ本当の被害者の実態より少ない数字だというふうに思います。この中で、皆さんもご承知だと思いますけれども、認められた患者数は二千百一人に過ぎません。そして、水俣病じゃないと言われた人は六千人であります。そしてあと六千を越える人がいまだ処分されないでいる。つまり水俣病とも言わない、水俣病ではないとも言わない、検査しましょうという事でとどまっていたり、検査したけどわからないという形でとどまっている人が、六千八十八名これは八十六年八月末現在ですけれどもおります。
 加害者のチッソとして、本当は百人台で押さえつけておきたかった。せいぜい数百人どまりに押さえつけておきたかった被害者数が、彼らの予想を越えて、千人、二千人、とうとう申請者が一万四・五千人になってくるという、この急増に対して、自民党政府、並びに県、並びにチッソは大変な衝撃を当然受けたと思います。
 こういった公書企業の被害者に与えた損害に対する補償として、原則として、その企業のみがそれを負担するという、P・P・Pの原則というのかあります。それはもう世界の鉄則といわれていますけれども、恐らくその原則を決めた時もこれだけの人間が倒されるという事は予想しなかったに違いない。
 地域住民の総被害という事件への補償の方法をどうするかというのは、これは原発でもできてませんけれども、およそP・P・Pの原則の樹立当時には考える事ができなかった事態だと思います。その事態をどう解決するかは、実は広島の原爆、長崎の原爆、それからこれから出るだろう原発事故ですね、あらゆる事に一つの判例となるはずなんですね。これだけの大きい地域の被害というのは、しかしながら、この方法が絶対に今の自民党政府にはみつからない、いまだにチッソが払うべきだという原則をたてまえとしては守り抜いています。で、私が患者と会社との交渉の場面で撮影しながらチッソの本音をずっと耳を傾けておりますと、チッソの上限として千五百人の数までは読んでいたと思われます。その数字までならチッソの財力としてギリギリのなんとかなるかも知れない、つまりバックの主力銀行からの融資や或いは国からの資金を得てすれば千五百人までは何とかなるかも知れない。それを越えれば、もはやチッソの財力をこえ、国・県に頼らざるを得ないと決めていたと思います。

 申請者への村八分

 事実、申請患者が三千数百人から四千人をこえるに至った昭和四十九年から五十年にかけて、政府はハッキりとP・P・P原則の破綻を知ったと思います。この時から、水俣病というものを何とか押さえつけて出さないようにしようという策謀が始まりました。申請患者に対する攻撃です。権力は一部マスコミ(週刊文春や週刊新潮など)をつかって患者への批判をはじめました。認定審査会も硬化します。そして軒をならべた漁家集落でも申請者に対する村八分がおきました。要するに患者と名乗った人と患者と名乗らなかった人を含む人々との戦争になりました。
 これは大変にしんどい戦争です。国や県、チッソに対して反論・抗議する事ができますけれど、隣の人の仕打ちに対して問うことは本来できないことで、隣の人はどういう形で水俣病に対して敵対してくるかというと、これはもう石牟礼さんの文章にも随分書かれていますけれども、軒を並べて同じ物を食べていた漁家集落で、ある人が水俣病だと申請すると、魚で生計を立てる村の人々のすべてを敵に回すことになる。
 今までの歴史の中で、魚の売れなくなった時期が二回ありました。漁家集落での正業はもっぱら漁ですから、それによって市場に引き取らない、魚が売れない、という事になるとこれは大変な事です。だから長い間、いまだにそうですけれども、漁業の収入に頼る漁業地帯では、水俣病が出るという事は即ち、我々の魚の売れ具合に対して影響する事であり、我々の共同体を壊す事だというふうになるわけです。
 ですからたとえば、寝たきり患者に、このまま黙って死んでくれっていうふうになるんですね。わしらも本心ではこの人は水俣病だと思う、あそこの猫も狂った、この猫も狂った、我々の見る限り、水俣病だと思うけれども、黙って死んでくれと。で、黙って肉身を病名不詳のまま死なせた人が一杯いる訳です不知火海にはー。
 親が水俣病だと知りながら、黙って腐れはてて死んで行くのを看とった話はいくらも聞きます。中には検診グループによって行われた診察によって、たとえば熊大医学部の専門医によって「あなたはおかしい、今までよく黙っていたものだ、ぜひ申請しなさい、それ以外にあんたは救済されませんよ」と言われて申請に及んだ人ですら、申請手続きをとったと知れれば村八分です。
 裁判判決によって補償金が出ると分かってからは、「それまでして金が欲しいのか」という声になりました。不知火海の魚が市場で取引き停止にあったのは昭和三十年前半と昭和四十八年です。その昭和四十八年のは、先ほど申しましたように、第三有明水俣病、第四徳山水俣病が起きて、これによって全面的に水銀パニックが起きた年です。で、九州の魚、瀬戸内海のある地区の魚は、本当に売れなくなりました。長い所では半年、短い所でも二ケ月、売れなくなりました。その恨みがチッソにむかう一方、申請患者たちにもむけられたのです。このときの傷口はいまだに癒えておりません。そして患者の発掘は押さえ込まれました。

 自民党のニセ患者キャンペーン

 この機会をとらえて国、つまり自民党政府はある策、ある作戦をたて、県政をもうごかして、患者の押さえこみの心理戦を仕掛けました。自民党は長期政権を利して県会議員、市会議員、町村会議員にいたる派閥のタテ構造をもちそれをフルに利用して選挙地盤からの情報をあつめる能力をもっていますから、全然、思いつきや口から出まかせなことを言うのではなく、住民が持っている潜在している意識を巧みに利用して、ニセ患者キャンペーンを張りました。水俣にはニセ患者が多い、あの周辺ではあらゆる神経痛やあらゆるアル中が、みな水俣病だと言って金を貰っておると、今申請の出ている人間もあらかた年寄りではないか、年寄りなら誰しもみんなどこかに障害があると、それを水俣病とかたっているというものでした。そのニセ患者というのは、実は自民党が発明した言葉じゃないんです。地元が言った言葉なんです。地元が地元から患者を出さないために、あの人は水俣病と言っているけどそうは思えないというわけですね。それは水俣病自身がそういう病状を持っっている訳です。というのは水俣病は急性激症患者の出た時代は、誰の目にもわかる奇病でした。大変な痙攣や、よだれや、歩けなくなる、暴れる、そういった形でいわば恐怖のどん底に人を落し入れるような症状を顕示して、絶命していった訳なんですが、それが水俣病だと思われていたんです。
 しかしながらその後、水俣病の研究が進むにつれて、一見尋常な様子を見せているけれども、有機水銀中毒の諸症状をもっていることが分かりました。脳の中枢がやられ、全身の臓器がやられていて、感覚障害や運動障害をかかえているということが臨床的にも病理的にも解明されているにもかかわらず、他人の眼には判りがたい、それが今日の水俣病のあらわれ方なのです。ー額に水俣病って格印でも出て来ればいいですけど。
 そこで、その位のふらつきなら昔もあったとか、昔ここに流行った癩病やコレラからいえば、こんな病気はまだいいじゃないかとかです。事実そういう事が大正の始めまであった。天然痘や疫病伝説の残っているところです。不治の病人を無人島に流して、食事だけおいて死ぬのを待ったという話などです。ですから、その人が本当に働けない、苦しいというふうにいくら言っても、そんな事言ったってやる気になればとか、同じ物を食ってて俺はまだそういうふうになってないとか、そういう事でニセ患者という偏見が、その伝説と重なって人々の意識下に沈んでいた、それをスパッと手掴みで取り出してキャンペーンを張ったのか、参議院の議長であった仁丹の社長の森下です。彼が最初に言い出しました。その言葉に飛びついて、一部マスコミがスキャンダラスにそれをひろげたのです。
 熊本県の自民党県連、とりわけ県議会の自民党で公害に関する委員会をとりしきる杉村県会議員といったような人達が、水俣病問題の解決に当たって、ニセ患者の存在がある、政府は心して水俣にかかれと、水俣には、勤労意欲を失くして、ただただ患者となって救済されて、大金を貰おうと思っている奴はごまんといると、それは普通の神経症であり、普通の老人病なのだと、自身医師資格をもつ杉村が先頭を切って放言したのです。
 この言動が水俣にはね返ったとき、多くの市民のひそかな共感を得たようです。つまり、人が金を貰うのはおもしろくないわけです。そのひとつの象徴的な例を挙げれば、今日もロビーにあるチッソ労働者の自伝「おるが水俣」に記された個人年表の退職金をみて下さい。五十五歳で工員として定年をむかえた方です。十六歳から五十五歳まで四十年間働いて、その退職金が千百万円です。これが水俣病と認定されただけで、軽症千六百万円、重度で千八百万、それに症度に応じて、いわゆる年金がでる。この額は水俣市民にとっては同意しがたい額なんです。理屈を越えた嫌な事なんです。そういった事の為に、水俣では患者と患者でない者の戦争が増幅されました。
 そしてもう一つ、チッソは裁判によって、明らかに水俣病事件の加害者であることを、チッソ自身ハッキリ認めました。しかし被害者の確定、つまり補償金をもって償うべき患者のふるいわけ、露骨に言えば”軽症”患者の切り捨てをほしいままにした上で、もはや認定せざるを得ない患者だけに限るという策を、国・県との間でねり上げてきました。第三者として、国・県に補償対象の選別をあずけ、チッソは今や、更にその補償金を国費から支払う、いわゆる県債システムによる救済すら受けています。

 悪夢のような集中検診

 水俣病事件で最も奇妙なことは、今日、水俣病が不知火海全体に水銀を流し、魚や貝や水産物の全てを汚染し、そしてそれを食べた人間がその毒によって傷害(殺人)されたという環境全体の被害の見方が捨て去られていることです。それは被害者の訴えから疫学的に水俣病をみる見方を捨てることになります。
 例えば自分のお婆さんが水俣病として認定されている、お父さんが認定されている、或は自分の姉が認定されていると、自分の甥っ子には胎児性の子供が出ていると、じゃあ別々の家に暮らしていたかというと、同じ所で同じ物を食べていたわけです。その人が訴える症状については当然、水俣病としてみるのが当然なのに、水俣では体の中の色々な検査の総合的なものによって、感覚麻痺等、運動失調が両方共出ていなければとか、或は視野狭窄がはっきりしなきゃとかいう事で、そういうのを仕分けして棄却していく方向をつよめています。
 認定審査会はもともと患者をすみやかに広く救済する制度(公害健康被害補償法)の一環としてあるはずのものが、棄却マシーンとして働いている。それは体制のしかける戦争の要となっているのです。
 患者はこれに対して、どういう戦争の仕方ができたかということです。患者としては当然ともかく診て貰わなきゃという事で審査会の決めた検診医に診て貴うんですけれども、その見方がこセ患者を見破らねばーといった精神構造で診ますから、お前の言う事は本当かというふうになるわけです。例えば、真っ直ぐにこの線の上を歩いてみろと言って、ちょっとふらつくと、お前本気でやれって言うんです、本気でできないからふらつくんですけども。それから、手やなんか痛覚があるかどうか調べようとしますね、そうすると、それは外からは分からない訳です。本人の答え方でしか分からない訳です。他覚的方法では神経のマヒはとらえがたいのです。
 水俣病のパターンとして、手足の末端の感覚や舌の味覚などがまず障害されます。それを調べるために、手足の皮膚を針様の道具でつついて調べるのです。
 その検診方法を、ニセ患者の発見という心理をベースにしてやったものですから、大変な無茶苦茶検診というのをやったんです。これは痛くないと言うと、痛くないはずないだろうと言って、血が出るまで刺すんです。それから視野狭窄といって、私達は大体横側あたりまで見えますけれど、患者は斜前方あたりしか見えません。それを見えないはずはないと決めてかかる。水俣病には企図振戦といって何かしようと努力すればするほど震えや痙攣が起こる。そこでまたたき様の顔面震えが出ると、眼のまわりに絆創膏をはって、眼をとじないように視野をさぐるといった、およそ医者とは考えられない検査方法をしたりしました。
 これは患者にとって、大変な屈辱であり、苦痛でした。もし、かりに医者が患者たちに対し、「私は仮病にだまされないぞ」という眼で威圧しつつ見るとしたら、どんなに病気の訴えが曲折することか。この検診によって患者は人格的に首の根をへしおられるのです。これが昭和四十九年夏の悪夢のような集中検診でした。皆泣きながら恨みながら帰って来る、その結果棄却される、はっきりしなかったという事で。その後の検診の底流の意識は変わっていません。
 これに対し申請患者側は認定制度自体が改善されない限り検診を受けないときめました。これは一見矛盾しています。検診しなかったら認められないんです。ところが検診を受けない、いつまで結論が出なくても待ちますと、つまりそういった検診医の態度、県当局の態度が変わらない限り、我々は検診を拒否するという形で抵抗しました。
 この抵抗が実は県としては考えもしなかった抵抗だったようです。というのは、「彼ら患者は認定されて補償金を貰いたいと思っている」検診を断わるというのは救済される機会を自ら遅らせる途を選ぶ、つまり補償金を得る機会を遅らせる戦術を敢えて選ぶ事ですから、そういったマイナスの戦術をとるとは夢にも考えなかった。ここの所で県は大きくつまずいた訳です。

 裁判勝利のうらに

 一方で患者は、検診拒否の以前から問題とされた、処分の停滞を早めるよう「不作為の違法確認の訴訟」を裁判所に提起しました。(昭和四十九年十二月)
 申請検診してから五年、十年と裁判を「保留」しているのは法に照らしても怠慢であるという訴えです。不作為というのは為すべき事をせざる罪として、県当局を訴えました。これは完全に勝利しました。一審で勝ち、二審で勝ち、今最高裁に持ってかれてます。これがもし通れば、県は次に打つ手が大変に難しくなる、患者の勝ち目は、今の所大きく出てくるだろうと思われるんですが、大変に名判決であった控訴審の判決も、国や県はこれを不服として最高裁に持ち込みました。この判決があったのは去年の十一月の二十九日です。
 つづいて水俣病のいくつもの裁判の中でもとりわけ意味の大きい裁判の判決がありました。この三月二十七日に判決の下った棄却処分取消しを求める訴訟です。棄却者はすでに六千人に及んでいますが、それを不服とする四名の患者が県当局を訴えたものです。
 この裁判はどういう意味があったかというと水俣病の医学者で構成される審査会の下した棄却の答申、それに基づいて棄却処分した県当局の処分を法廷の場で、水俣病について深い経験をもつ医学者の証言をもとにして、つまり自立した医学者の力を借りて今までの国・県のおかかえの”水俣病の権威者”の棄却処分をくつがえすといった、画期的な裁判だった訳です。原告はたった四人ですけれども、そしてその裁判が十年も続いたもんですから、原告二人は裁判中に亡くなりましたけれども、この四人とも全員認定されました。その判決自体画期的で「審査会は疫学を重視すべきこと、水俣病はただ単に神経障害ととらえるべきではなく、全身性の疾患ととらえるべきこと、そして審査に当たっては全員一致制である必要はなく、つまりひとりでも反対すれば認定しないというような方法を改めるべきこと」等、原告患者側の主張をほぼ百%とり入れた点で完璧な論理構築がなされていました。
 余り見事に勝ったものですから、患者自身が、反って県や国がこれを不服として必ずや控訴するだろうと気をもむほどでした。というのは、それまでの裁判で打ち出された傾向として、県・国の立場や主張にいくばくかの目配りが働きはじめていたからです。第二次水俣病訴訟がそうでした。この一審の勝利も、数日の夢でした。患者の危惧通り、県当局は控訴に打って出ました。判決当日患者は十年にわたる裁判の中で、すでに四人のうち二人死んだんですから、もう控訴しないで一審に服するように知事に強く申し入れました。僕はその細川知事とやり合う所をじっと見てましたけれども、知事もやっぱり青ざめちゃうんですね、その判決があまりにも明解ですから。で、それから目の前に患者が車椅子で来て訴えるわけですから。しかもそれが何の激昂も見せず「あなた方はやはり負けましたね、そうだと思っていました、正しい事は通ると思ってやってきました。こうした判決の出た以上はもう苦しめないでこのまま判決を認め、控訴はしないといってほしい」と頬に笑みすら浮かべて言う訳です。
 細川知事はもう腹の中では控訴すると決めてますから、「お気持ちは十分に分かっています」というような事言うんですけれど、結局、数日おいて控訴した訳です。
 再び抗議にいきました。その席上、知事は貴方がたの痛みは分かるけれども、我々の国や県の努力が認められてないので、残念ながらもう一度争わざるを得ません、という言い方で、目の前では深々と頭を下げてみせますけれども、控訴審の何年かを覚悟せねばならなくなりました。
 私が先ほど、水俣病が裁判その他で、連戦連勝しているのに、実体としては負けていると、つまり勝機が掴めないでいるという理由はここにあります。行政には”時間”というものがほしいままにあります。しかし患者の生命にはその”時間”がないのです。「死んで解剖せんと認めんのか」と患者が叫ぶのはそこです。

 国・県の底意を見ぬく動きが

 今日も、毎月十名前後の申請者が休みなく続いています。いったいいつ水俣病に終わりが来るのでしょうか。
 国・県にとっても水俣病事件に終始符を打つことは重大な懸案です。そのために、奇手ともいうべき新たな方策を今年の三月に出して来ました。それは未処分者六千人をこの二・三年のうちに、何らかの形で全部処分することを前提に立てられたものです。認定も処分なら棄却も処分です。
 こうして、検診体制も月百五十人検診のペースを二百人に、審査会の処分も、月百五十件にペースアップする。それには検診拒否者を一掃しなければならないから、今、申請者に支給している医療費補助金、これは国民健保の自己負担分を補填するという優遇措置ですが、検診拒否する抵抗派患者にはこれを打切る。そうすることで、受診を半強制する。そして処分にもち込むというものです。
 今まで棄却処分に不服な場合、再度申請することが出来、患者は二回目・三回日でやっと認定されたケースもありました。これではいつまでも果てしないと県当局は考えたのでしょう。新たにボーダーライン層の患者と思われる者には、棄却後三年間、医療費を見る。但し、再申請した揚合はこれを見ないという見事なまでの封殺法を考え、実施してきました。これとて三年後は分かりません。つまり県当局は抜本的な改革、法理にもとずく判決の趣旨に一顧も与えず、水俣病申請者をゼロにする日を三年後を目標に達成しようと強権をもって実施しはじめたのです。
 しかし、ここで、国・県の思い通りにならない条件も生じています。
 かつてはチッソが主敵であり、その水俣病始末の手口を見ぬいてきたことが闘争を組み立ててきました。いま、チッソに代わり、国・県の水俣病始末の底意が、はっきりと見えてきました。絶対に自分たちが間違っているのではなく、国や県がトリックを仕掛けているということを見抜いた人がどんどんふえています。医療費の打ち切りという伝家の宝刀はかえす刀で国・県の非情さとその本質を暴くものでもありました。「金じゃなか、生命を返せ」という患者の声に連続するものとして、「最低医療費などくれ!」という声は不知火海沿岸の最大公約数ともいうべき声でした。これに油を注いだのです。つまり大変なことを学びはじめたといえます。

 ドーナツ地帯の叛乱

 これと軌をいつにして、この十年、不知火海総合学術調査団の活動が水俣で組み立てられ生活学校が生まれ、そして世界における水俣病研究のメッカになるであろう、水俣大学の構想が産まれてきている。この彪大な水俣病研究と事件史の記録は、住民や患者に持ち込まれるであろうし、こうした新たな人々によって、更にそのトリックが見破られ、指弾されていくだろうということです。
 国・県の思惑をこえるものに水俣以外の不知火海各地・各島々からの申請者の続出があります。
 水俣病は水俣が発生地の原点であることに変わりありませんが、それが今、不知火海の全体の被害だと自覚する人が出てきている。それまで、自分たちは天草だとか水俣から十数キロ離れた離島住まいだと自ら水俣病を水俣周辺の被害であると思い込もうとしてきた人も、もはや自分の体の異変を有機水銀中毒と結びつけて考えざるを得なくなってきた。一方、魚が売れないからと申請者の足をひっぱってきた隣の人々すら、それをあやしむようになってきた。そして今日、魚の値段は申請者の出現によっても、この十年、それによる変動や市境からの締め出しはないことを見てきたのです。
 ちなみに水俣の申請者数は市の全人口の十一・二%であるのに、むしろ、対岸の御所浦島では二十%、となりの津奈木町では三十七%の出現率です。
 水俣病は三十年目を迎えましたが、この水俣周辺の人にとつては事件はまだこの十年ほどの出来事です。十年やってきたらいいかげんいやになるんではないかと思うかも知れませんが、水俣・天草・不知火海の時間の尺度では十年は昨日なんです。昨日のような時間でしかないから、まだ頑張れる。「これからが本気でやらんばつまらん」という言い方をするのです。そういう時間の尺度ですから、県の考えている時間、あと三年間で終わらせるということは、誰しも本気にしないのです。私はこれをドーナッツ地帯の叛乱とよんでいます。

 ある苦い漁師の生き方をめぐって

 それで、一つだけ、あるエピソードをお伝えしたいのですか、先ほど申しましたように、水俣病患者の敵は、隣の人だ。水俣市民であり水俣を訴えていない人々だと、極論しましたけれど、おもな敵は、チッソであり、そのバックである県であり、国であるということは、本当は、自明のことであります。
 しかしながら、ここで、尾形先生とはちがう字なんですけれど、緒方という若い漁師がいます。その人のことを今度映画で、ある意味で主人公として、撮ってるんですが、その人は、非常に深い水俣病事件とのかかわり方をしてきました。お父さんは急性激症で死にお母さんも姉たちも、そして甥・姪の二人は胎児性水俣病という典型的な一家全滅型の家族の一員です。彼も足腰の痙攣発作に悩み申請しましたがこの十年間処分を保留されてきました。
 彼の個人史をさかのぼりますが、中学半ばで家出して熊本市に出ます。中学生が家出すれば、そういった、家出少年を扱ってくれる社会階層は、一つしかありません。そういう世界にたっぷりとりくまれて、二・三年おって、もう一篇郷里の芦北に帰って、水俣病ということを本当に考えはじめた青年です。その青年は、チッソに対し、親の敵ということから、根づよい戦闘力がありまして、とうとう水俣病申請患者協議会の会長になりました。その知略と肝っ玉の太さから、囲りからも、非常に尊敬されておりました。
 その人が去年の暮れから、大変狂いはじめました。その狂い方たるや、たとえば東京まで電話をよこしてですね、「オレ、今、海のよみがえりが、どうも見えるような気がする。確実に蘇っている。どうも、オヤジがオレに「本当の漁師になれ」って言っているんではないか。「おまえは、闘いの中に、漁師を忘れているんではないか。お前の育った海を、忘れているんではないか」とオヤジが言っているような気がする」そう言う幻覚と問答しなから、狂っていく訳ですね。
 彼は毛沢東を尊敬していたようですが、「毛沢東のあこがれた梁山泊は実はここにあったと思うよ、ここは東泊(東風の吹くところ)というか泊というのも東というのもつながっている、だからここは毛沢東の言った梁山泊だ」と言ってみたり、つまり、つじつまの合わない事を言うのです。
 とうとう囲りが心配して、精神医のアドバイスで病院に入院させました。ところが精神異常とは、違うんですね。あきらかに、何か必至になって、自分の患者としての、革命というか、変革をやっていたのです。彼自身、数百人の申請者のリーダーであり、またニセ患者発言を機に告訴された暴力事件犯の被告として八年間闘ったが、どこか志と違うことに悩みぬいたようです。
 彼はとうとう、こういうところにきました。つまり、チッソが海をよごし、人を殺しておいて、金で解決して、それで済むのか、チッソは、我々と一生付き合わなくてはならない。金をくれるとか、くれないとか、判決で勝って、補償金をとるとか、とらないとかではない。考え方によっては、補償金を出すことによってここに累々と居る被害者に、別れを告げようとしている。チッソは金を手切れ金と考えようとしている。自分にとっては、生きる前からあるチッソであるし、それによって、これだけ殺されてきた。これは、死ぬまで付き合ってもらわなくてはいけない。それは金をよこせとか、そういう次元のことではなくて、こういうことをした加害者として、ここで償いをするべく、ここにいさせなくてはならない。患者は、自分の被害を償えと言っているけど、本当に償えとは、根本的には、何かと考えてきた。金をくれたことが償いになるか。金をくれたことが、いいことなのかと、考えてきた。
 こういうことがあるんですね。金をもらって”堕落”を強いられなかった患者は、十人に一人しかいない。やっぱりほとんど、何らかの形で家庭争議がおき、まわりの白眼視やそねみ、ねたみで自己崩壊の淵に立たされた。これがまた水俣病の支援者にとっても困惑を覚えるものでした。
 かつて闘った患者の十人に一人は、その後も限りなく、すばらしい仕事をしていますけれど、過去の輝きを見てきた支援者は、何もしなくなった患者たちに、失望する者も生まれてきます。支援者自身その質を問われる問題でもありますが、実態です。
 チッソが主敵であるはずなのに、国・県のかげにかくれ、闘うにも相手は裁判所での会社側弁護士だったり、環境庁の役人だったりしてチッソとは出合えないし、切りむすぶこともない。緒方正人さんの違和感はこうした八年の闘いの体験から出てきたものでした。彼は「チッソは国・県のかげにかくれた。一方では、患者として認められた人が、その後チッソをどう見ているか。口では、チッソが憎いと言うけどチッソから金が出ている。チッソが倒れないことを一番望んでいるのは、患者かも知れない」と、言う訳です。

 水俣の新たな再生へ向けて

 市民や村にも潜むニセ患者視をおそれて申請者は公然と自分を申請者とはいわない。患者としての自分を認めるということは、チッソと闘うことという宣言であるはずなのに逆に言わない。近所には申請の事実をかくしていく。やっぱり従兄弟にも、親戚にもかくして申請するという現実がある。人に気付かれずひっそりと検診を受け、ひっそりと処分結果がくるのを待つ。そして、認定されたら認定されたでめだたぬように生活を建てなおし、そして黙りこくった生活にまたもどるー。彼は患者なるが故に厳しい。
 つまり、そういった本来はチッソに対して、自分に対する傷害、肉親に対する殺人を訴えて、開かれていかなければならないはずの人間が今のシステムによって、閉ざされていく。つまり、解放されなくなってくる。それならば、自分は違う方法をとる。裁判所や環境庁、県庁相手のうんざりするようなあしらいからこの身をはがしたい。オレは、自由に闘えるポジションをつくりたい。自由になるということは、何か。患者であることをやめることだとやめました。しかして自分は自分で水俣病患者であることを公然と認めて生きたいという。これは、どんなに恐いことかはわかりません。誰も、わかっていません。ある患者は、彼は逃亡したんだ。何のために、患者として闘うことをやめたんだという人もいます。チッソは安堵したかも知れません。一人、解決すべき人間が減ったんで、非常に、丁重な応対でした。
 彼はチッソに二つのことを申し入れました。ひとつは「父を殺し、母とわれら家族に毒水を食わせ殺そうとした事実を認めてほしい」。いまひとつは「国・県の共謀による犯罪であり、その三十年史にあった事実を白状してほしい」というものでした。これに対しチッソは社長名で返事をしてきましたが、この問いに答えはありません。この返事にこたえない限り、彼は自由な攻撃地点からチッソを問いつづけることができるのです。補償金も年金もいらないーこれはこわいことです。
 この決断はこれから人生を生きようとする彼の若さがさせたものでしょう。革命的なことかも知れません。彼も五十・六十歳になっていたとしたら、こういった形での決断は出てこなかったかも知れません。幸い彼は三十三歳です。病気をねじふせるだけの若さをもち、三人の子供を生んでいます。一番上の子供は、やはり少し病弱です。しかしながら、彼は病気を抱えつつ闘おうとしています。そうした水俣における新しい生き方のすごみが出てきている。そうした流れとあいまって大学の問題も出ているはずです。
 水俣では、今この大学が、きわめて、ラディカルで、きわめて、新左翼的な大学ではないかと気をもんでいますが、水俣病事件の意味をどう残すかという点で、闘っている患者たちは、大学構想に賛成しております。そして、そこに新しい支援の関係を作りたい。対立しあった水俣市民の間の新たな出会いを求める。
 それは、僕は、今、三十年たって、今日の水俣の新しい芽とは申せませんけれど、きわめて孤立しているから、新しい芽とはいいませんけれど、人の胸をうっている生き方であることは間違いない。そういう青年が、今後どういう生き方を選びとっていくかということが、映画で注意深く追いながら、水俣という悲劇のおきた地をどのように人類にとってプラスの地にしていくか、世界にとって、どういうふうに学びの場につくり変えていくか。それは、大学だけではなく、現在も浜本つぎのりという大変な重傷患者ですけど、この人は、世界中に求めるところがあれば、車椅子でどこへでもいく。その人が言い出すには、学者や、誰が行ってもできないことはある。オレの身体をみてもらうことが、一番よく伝わる。だから言葉がわからなくても、オレは出ていくということでやってきましたけれど、既にその浜本さん達の運動を本当の兄貴分の運動として、慕ってくるアジアの公害地点の被害者、ボランティア、研究者が民衆レベルで水俣に集うような時代になりました。
 今年の五月一日から三日、東アジアと水俣を結ぶ会のアジア民衆環境会議が水俣でありました。そういう意味で水俣は、果たして何でありたかという意味を一つの公審ではなくて、新しい生き方、全体のところまで問うていかざるを得ないと思っています。
 大学問題はこうした芽ばえをまとめ育てる水俣の再生の要であろうと思います。
 ありがとうございました。(拍手)