土本、松橋(勇蔵)、森崎(東)いま原子力を語る(1986年9月23日 日本教育会館にて) 座談会 『原発なんかいらない芝居&映画祭,86トーク&トーク』より <1986年(昭61)>
 土本、松橋(勇蔵)、森崎(東)いま原子力を語る(1986年9月23日 日本教育会館にて) 座談会 「原発なんかいらない芝居&映画祭,86トーク&トーク」より 

 10月26日の反原子力の日に前後して、各地でさまざまな催しが行なわれた。原発とめよう!東京行動でも、新たな試みの1つとして、芝居と映画、座談会による催しを行なった。アニメーション映画『100ばんめのサル』、原発労働者が登場し、美浜が舞台とされた劇映画『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』、「人芝居『こころに海をもつ男』と盛りだくさんの内容になったが、会場の日本教育会館の大ホールは満ぱいで熱気があふれた。以下は、当日の最後に行なわれたトーク&トークのもようをまとめたものです。
(編集部)

 桐谷 68/71黒色テントの桐谷夏子といいます。私たちは1978年くらいからアジアの人たちとアジア民衆会議というのもやっていまして、民衆演劇ということを素材にしていろいろな共同作業をしています。1982年にマニラへ行き、PETAというフィリピンの劇団の人たちと一緒に原発の即興劇を作った経験があります。ちょうどそのとき、マニラから車で1時間くらい行ったバターン半島というところに、フィリピンで最初の原発を建設中でした。どうやったら電気になるのか、どこまで火力発電と同じプロセスでどこから違うのか、ダンスとか歌を交えながら日本人5名、フィリピン人9名で芝居を作りました。
 それでは、土本典昭さんどうぞ。

 土本 今日はひじょうに楽しみにして来たんです。私のよく行く九州のはずれの水俣というところでは、映画館が1年半前になくなりまして、あそこで仕事をしている限り映画が見れないという状況なものですから、森崎さんの映画を本当に見たかったんです。いつも森崎さんは毒々しいんですね。毒があって、バイタリティーがあって、僕たちをゆさぶるという方法をとっていて。僕はその手法が今までの日本映画の流れのなかからどういうふうに編みだされたのか大変興味がありまして、今日初対面なんですけれど、個人的にもお話を聞きたいと思っている次第です。
 私は原発に興味を持ち今までに2本ほど映画を作ってきました。1つが『原発切抜帖』という映画で、これは高木仁三郎さんや西尾漠さんに監修していただいた映画です。もう1本が松橋さんに膝づめ談判でせまられまして、「今私のふるさとの目の前につくられる状況を撮ってほしい」ということで、ほぼ1年近くかけて作った『海盗り』という映画です。

 放射線漏れをご飯つぶで防ぐ!

 私は原発より原爆の問題に関心を持っていたんですけれど、ちょうど74年9月の原子力船むつの事故で、はじめて「これは違う、原発っていうのは絶対にいけないんだな」っていうふうに思ったんです。それがひじょうに小さな記事なんですが。放射線漏れが起きたときに、困ってご飯つぶにホウ素を混ぜて、その漏れるところに貼った、いわゆる”ホウ素メシ作戦”記事を読みまして、こんな大事故にもかかわらず、こんな手当てしかできないのかとびっくりしたんです。また、古靴下に中性子遮へい剤か何かを詰めて放射線漏れを防いだとか、僕らがボートに乗っていて穴があいたときに指をつっ込んで栓をするような、そんなことしかできないのかという驚きがありまして、原発問題は根本的に調べてみなければいけないと思いました。それで自分の趣味が旅のひとり歩きなもんですから、まず日本じゅうの原発を全部この目で見てやろうということで歩き回るようになりました。北海道へも行きましたし、原発予定地もふくめてだいたい見終わったと思います。今日の映画に出た美浜も3回くらい見ました。しかしながら、記録映画に撮るというのはひじょうに難しいというふうに思いますし、これをどういうふうに撮るのかたえず考える意味で歩いておりました。

 すさまじい土地の選び方

 伊方を見てきましたけれども、最初1基あるいは将来2基しか作らないといって土地を買収します。けれども今は、3基4基を作っていく。私は原発プラントというのは大きいものだっていう先入感があったんですけれど、実際はひじょうに小さい敷地に4基ぐらいできてしまうんですね。まずプラント用地の入口近くに1基を建てる。裏があけてあってそこに2基目を作る。既成事実を作ってから世論を引き込んで、さらに3基4基というふうにたたみ込んでくるというのが、どこでも同じパターンだと思いました。伊方もまったくその通りで、町がすっかり変わるほどのケバケバしい原発の町に作り変えたうえで、3基4基を持ってくる。
 最近、窪川に行ってみたんですけれど、窪川の町役場から約1時間車に乗って行かなければ行けない岬で、その岬も近くの漁村までは車でどうにか行けるんですが、それから本当の原発予定地のある岬までの2~3キロを行くには軽自動車でなければ行けないっていうんですね。それほど細い道で危険であり、常夜灯もガードレールもない。ふだん陸路を使ってない陸の孤島のような場所なんですね。予定地の1番近くにある部落は3戸ぐらいで、その岬自身は40数の地権者がありますけれども、最も近くにある集落にはバイクとかそういうものでしか行けない。私もギリギリまで行ってみたんですけれど、やはりサニーではどうしても無理でした。そういったところにちゃんと着目して、他になんの利用価値もないと思われるところを確実に原発の開発側は見ている。よくこういうところを探したなっていう気がしましたね。あらゆる社会的な条件、地理的な条件を一切合切調べていくんだと思いますが、それにしてもすさまじい土地の選び方をしている。その土地の人、町や村当局としては原発であれ何かを作ってもらう最後のチャンスになりかねないと思い込むような「忘れられた土地」「忘れられた岬」を選んでいくということを、全国各地で見て思いました。東京で窪川の問題なんか聞きますと、さっと車で行ってテントや団結小屋でもできそうに思ってしまいますけれど、そこまでに高知から日中全部使ってやっとたどり着いて、しかもその地点へは車も行けない、という風土のリアリティーをつくづく感じたわけなんです。

 「切抜帖」を作らせた反核署名

 そういった原発への関心のなかで「原発切抜帖」というのを作りました。そのエピソードを1つ言いますと、ちょうど3年前、反核の動きがヨーロッパから起こって、いろんなジャンルの方が反核のアピールを出されたとき、日本でも映画人のなかにアピールの運動が起こりました。私はいかなる団体にも属しておりませんけれど、映画監督協会のほうから同意して署名してくれということが来ましたので、「ふくむ反原発」というただし書きを入れてほしいと付記しました。それは全体の署名者にとってそうでなければいけないというのではなくて、私の場合には「(ふくむ反原発)」というふうに入れてほしいって返事を出したんです。それで結局、相当な論議は呼んだらしいんですけれど、統一がとれないのか私の名前は削除されました。それでひじょうに面白いというか、ハハアというふうに思いました。そのことがバネになって、以後狂ったように新聞記事だけでも映画を作ってやろうと思って作ったのが「原発切抜帖」です。2万近い見出しをひろい、何千の記事を選び、そのなかの200数十枚の記事で作ったんですけれど。原発による死者はいないと推進側は言うけれど、1961年アメリカの原子炉で3名死んでいるんですね。しかもその死体搬出にあたって、救助隊はそれぞれ胸元にピーッと鳴るやつ(線量計)を付けていますから、なかに入って遺体を30秒こっちに引っぱってくるともう交代しなければならない。また次が入ってばっと30秒引っぼるということをして、3人のうち2人まで外へ出したそうですけれど、1人はどこかに飛ばされていて、それは銃撃して下に落としたというんです。しかも、その遺体との面会が放射能のために許されなかったという記事がちゃんと出ているんですね。そういうことが出ていながら、原発の問題について、「しかしなんといっても安全だ」「死者は出ていない」というようなことをケロッと言う。そういう記事をたどりなおしてみれば、25年前に厳然と新聞に載っていたんですね。

 水俣病と原発問題の共通点

 水俣病っていうのは傷害事件です。殺人事件ですけれども、その起因物質となった有機水銀っていうのは、天然にはない合成した物質なんですね。ですから人間の肉体にそなわったものでは防御できないんです。天然にあるもともとの無機水銀だったら、吐くとかのんだあと痛んですぐ処置をほどこすー例えば生卵をのませて水銀を吸収したうえで吐かせるとかいろいろしますけれど、有機水銀の場合、なんにも感知しないうちに体に入り、血液を通じて胎児を侵したり脳を侵す。それが新しく発明された人工的な化学毒の特性ーなのではないかと思うんです。放射能のプルトニウムも、いろいろ発見された物質のなかで最後に人工的に作った物質だって言われていますけれども、そういった物質を作ってしまった人間が、生理として全然防御できない。そして人間の知恵、医学では治らないっていう、そういう共通点を感じますので、私にとっては水俣も原発も同じようなテーマととらえています。

 我慢できないへき地イメージ

 桐谷 それでは松橋さんをご紹介させていただきます。

 松橋 僕が一人芝居を始めたのが79年です。僕は今日、森崎さんの映画のバーバラという踊り子を見ていて、なんともいえない気にさせられました。かつて私どもは「ほかい人群」という6人の仲間で『帰ってくることのない族』という芝居で全国を回ったことがありました。そして各地でいろんな人との出会いがあり、1981年1月に青森県のむつ市の関根浜というところで春まで過ごしました。そのときに原子力船むつの問題が起こりまして、新聞やテレビに報道され、それを見ると「へき地」「寒村」というイメージがどうしても進行してしまう。そこに人がいないような見られ方をしてしまうということが、どうしても我慢できなかった。というのは、関根浜が私の生まれ故郷であったのも大きな問題です。私は8人の兄弟がいますけれど、そこで男5人のうちの私以外が関根浜で漁師をしています。姉が大間というところの大間一といわれるマグロ釣りのところへ嫁に行きましたら、そこにATR(「新型転換炉」の建設)という問題が起きました。妹が両親の反対を押しきって惚れた男と一緒になって暮したのが易国間っていうところで、ATRの排水口がそこへいくという。それが1979年から80年にかけて訪れてきまして、役者の私にとっては、それが大きな転機でした。それから下北を語っていこうということで『人生一発勝負』『百年語り』と続けてきまして、今回の『こころに海をもつ男』という芝居をつくりました。

 祝島でのシュプレヒコール

 そういうなかで、僕の芝居を精神的な部分で支えてくれているのは、下北の漁民だけではありません。例えば『百年語り』っていう芝居を一番最近では芦浜に行ってやってきました。南東町っていうところの漁協でやりまして、見てびっくりしたんです。お客さん400人全部原発反対っていうTシャツを着ておりました。それから山口県の祝島でも『百年語り』をやりました。子供から年寄りまで400人いました。本来であれば終わって簡単なあいさつで催しが終わるのですが、祝島では全員が立ちあがってシュプレヒコールが始まりました。漁業権放棄に追い込まれた関根浜の歴史を語って、祝島で10数年原発を阻止してきている人たちが、シュプレヒコールで自分の意思一致をしていくという、これは僕には奇妙な体験でした。
 『こころに海をもつ男』っていうのは、僕のやり続けてきた一人芝居を、さらに海と人々のかかわりのなかで追求していきたいという思いのなかで作った芝居です。芝居のなかで「三沢新報の伊藤さん」っていうふうに言ってますけれど、あれは実名です。実際6月に起きた事件です。29日間拘留されて、2万9000円というガラス破損代をー本人はあくまで認めなかったわけですから、本人が払うと、認めたことになるっていうんでー第3者が払って処分保留っていうことで出てきました。その伊藤さんをはじめ、漁師のまわりで支援しようとする人たちが、わけもなく暴行を受けたりという前哨戦があって、泊では漁民が9人逮捕されるっていうことがありました。漁師にとって一番大きいのは、海がしけると漁に出られないように、警察に逮捕されると漁に行けないことです。給与所得者と違い、漁に行けないと現金収入がない。好不漁があるというなかで、下北の原発問題が浮いたり沈んだりしながら、かろうじていままだ原発が1基もたっていないという状況でです。そういうなかで闇雲に進行しようとしているのが、核燃料のサイクルセンターの問題です。その核燃料サイクルセンターの建設に問われていった村というのをテーマにして作りたいということで作ったのが『こころに海をもつ男』なわけです。

 今日はどうしても来たかった

 桐谷 最後に、さきほど行ないました映画『生きてるうちが花なのよ死んだらそれまでよ党宣言』の監督、森崎さんを紹介します。

 森崎 本日は私のつたない作品をたくさんで見ていただきまして、本当にありがとうございました。現在、じつは3時間ほど離れたところでスタッフがまだ仕事をやっております。スタッフに仕事をさせて、監督はこんなところに来ていいのかっていうことがありますけれど、今日だけはどうしてもスタッフを裏切って釆たかったわけです。僕にとって本日はひじょうに特別の日なんです。松橋さんにも土本監督にも初めてお目にかかるんですけれども、ぜひこの機会にお二人にお聞きしたいことがございまして。松橋さんにはぜひ、なぜ一人芝居なのかっていうことを聞きたい。前に砂田明さんの一人芝居を見て、ひじょうに感動しまして。自分でもおかしかったんですが、始まるなり涙にくれてただただ泣き通しで、目がタラコみたいになって出てきたんです。私も島原の生まれなもんですから、水俣の言葉がよくわかるっていうこともあったと思うんですけれど、砂田さんの演じる一人芝居っていうものの持っている独得の世界に、本当に脳髄までシビレたような感じを受けました。本日もまったく同じような感じを、私15分くらいしか拝見しませんでしたけれど、一目見れば分かると申しますか、この満場の受けぐあいだとか、それに対する松橋さんの演技の呼吸だとか、これはもうまったくセットのなかでやってる演技とは違うんだなということをひじょうに強く感じました。

 フイルムとテープは記録の道具

 土本監督ももう名前だけは耳ダコぐらい、目にもタコができるくらい(笑)拝見するんですが。土本さんと僕のあいだには、山田という映画評論家の共通の友人がおりまして、この人が憎いことに、外国ではフランソワ・トリュフォーと日本では土本典昭しかないというふうにどうも思っているらしくて。(笑)戦前戦後をふくめた日本映画のなかでのべストワンは、土本監督の『パルチザン前史』であると言うわけでして、ひじょうに憎いんですが。(笑)私自身なんて申しますか、フィルムで飯を食うといいますか、そういう職業をやっておりますと、フィルムとテープレコーダーっていうのは、へタな役者がいい気になって仕事しているのを写すためのものではなくて、そういうのはほとんどドブに捨てるようなもんであって、これは何かを記録するためにあるんだと。フィルムとテープレコーダーはまさに記録するためにある。もうその通りでして、私が言うことはない。ソニーもそう言っているわけでして。そういうことも、しみじみと撮ってて感じます。現在「赤ん坊戦争」というテレビドラマを撮っておりまして、今日もエキストラの赤ん坊が出たんですけれども、終わったら赤ん坊を抱いたお母さんがあとからずっとくっついてきまして、「監督さんすいませんが、泣いてるところじゃなくて笑ってるところを撮っていただけませんでしょうか」。(笑)言われて撮り直したんですがまた泣いたりして、ひじょうに疲れました。(笑)そういうお母さんや赤ん坊の一部始終を撮ってるほうがはるかに面白いし、意味があるというふうな気がして、じゃあなぜお前それで飯を食っているのかって聞かれますと、じつに辛いわけで、その辛さをかかえて毎日仕事をしているんですが、本日どうしても来たかったというのは、そういう自己疎外を起こしているこの58歳の男にとって、本日は特別の日になるはずだという予感がしたからです。何かをつかんで、はげまされるものをつかんで帰れるんじゃないかと。じつはあんまり寝ておりませんので半分現在も寝ているようなボーッとしている心境なんですけど。家にも帰っていないもんですから、衣裳部の女の子が、「300人以上の人たちの前に立つんだったら、これを着て行きなさい」って貸してくれたブラウスといいますか(笑)なにかよく見るとボタンが反対に付いてまして…。(爆笑)ひじょうに興奮しております。ぜひともお二人にその点をお聞きして帰りたいと願っております。よろしくお願いします。(拍手)

 下北の風土と人情を下北弁で・・・

 松橋 僕は複雑な理由は一切なくて、単純に言葉の問題から始まりました。というのは、一人芝居をやる前に、『ひめくりめくる坂下の家』って6人も7人も出る芝居をやっていました。四国出身の人とか、東京出身の人が苦しそうに下北の言葉をしゃべるときに、やっぱりやっちゃいけないんだなと思いました。一生懸命しゃべればしゃべるほど、どうしても下北の雰囲気が壊れていくような気がしまして。とくに芝居は言葉が伝達する手段なものですから、下北弁っていう言葉に込められている下北の機微とか風土とか人情とか、それはやっぱり下北弁でと思いました。
 もう一方では、ただ下北を伝えたいっていうことが第1の理由でした。それともう1つあったのが、僕の母親が71で亡くなりました。8人の子どもをもうけて、一応網元の親方にまで父親がなって、はた目には財産も作って幸せだと思った。その母親が肺を患っていまして、癌だったんですけれど、死ぬ3日前に夢幻のように私に「私はここに嫁に来る女でなかった」という一言を言ったんです。で、3日後に死にまして、それからその母親を全部調べていきまして、作ったのが『人生一発勝負』っていう芝居です。青森県には恐山のいたこというのがありますから、伝統的な一人芝居の素質はあったんじゃないかって思っています。原発の関連でいえば、どうしても下北の人情風土も踏まえたものを伝えたいというのが、一人芝居にこだわっている大きな理由の何点かです。

 劇映画でしかできないことが・・・

 土本 原発の映画を撮るっていうのは、ひじょうに難しいって思うんですが、今日の映画は僕はいろいろな衝撃があったんです。原発を調べに民宿へ泊まりますね。民宿の朝メシはだいたい食堂に用意されていて、他の人と一緒です。そうすると同宿の人品卑しからざる人も来て食べる。下請けの労働者もいますが、常駐の単身赴任中の技術の部長クラスの人がいて定期修理の話などしています。そこに僕みたいなのがピュッとと入ると、もう向こうはピタッと話をしなくなるんですね。それで民宿のおかみさんに、なぜこんなうさん臭い人間を泊めたかという非難の目が向けられるんです。僕はああいうところへ行くとき、ほとんどしゃべらないで写真を撮るだけです。自分の目で光景を記憶しておくっていうことしかしないんですけれど。樋口健二さんの写真集がありますが、僕なんかびっくりするぐらいいろんな策を使ってなかを撮っておられる。私なんかはあらかじめ申し込んで見学に行くわけでないもんですから、原発のなかまで入ることはひじょうにまれです。2、3回入ってますから、だいたい想像するだけなんですけれど、原発ジプシーっていう問題は大変になぞが多くて、今日の映画にあったことは本当だと思うんです。みんな、ピーツと鳴れば出なきゃならないということを守っていたんでは仕事にならないってー1年受ける放射線の量の記録を総計して、それ以上は働いちゃいけないっていうんだそうですがー記録を自分でどんどん破りすてて、働く時間を水増しするようなことまでするという。そういった原子力にまつわる全人間的収奪、差別、それから管理といったすさまじいものが、この平和時に、こういうところに確実に存在し根をはっている。もうゾッとするほどです。今日の映画にあった警察の手による被爆者始末の話もまったくその通りありうることだと思うんです。あそこの警察なんか系統としては公安関係だと思う。すべての事柄が域外へ漏れてゆくのを監視する役目を持っていると思います。現場に一歩足を踏み込むとピリピリといろんな目を感じます。そういったなかで、記録映画でなくてフィクションの方法を選んであそこまで、あらゆる出来事とその可能性、考えられる問題を自由に埋め込み、作りあげられたことにまず本当に敬意を表したいと思います。私は劇映画の方法でしかできないことがやはりあるなって思ってまして。たまたま今は記録映画が性に合っているからやらしていただいてるんですけれども、場合によってはまた違う方法を通じて映画を作るっていうことも考えたいと思っているわけです。

 『水俣病』の製作ピンチ?

 1つだけ現在やっていることを申しますと、一時新聞で、『水俣病』ピンチ、製作中止か?なんて出たんですけれど、その通りで中止しています。今私がやっている水俣のテーマに関しては15本目で、そしてこの10年間くらい水俣事件史そのものは描いていません。その周辺の描写を続けてきました。そうしながら事件の行くえを見定めようとしていたというのが正しいんですが、あえて撮りませんでした。事件史として最初から水俣をたどって見ていますと、ワンサイクルどうしても見えてくるわけです。例えばそわときの子どもが30歳になっている。年輩だった人はどんどん死んでいて、もう映画のなかにしか肖像がないというような、簡単に言えばそういうサイクルですけれど。そのなかで自分の放り出してきた言葉、映像をもう1度点検しようということでやっているんです。題名は『海は死なず』。これは逆説的な意味で、海はどう蘇生しようとしているか、人は病みつつ生き残っている、特異な病み方に耐えつつどうやって生きるかっていうことを撮りたいと思うようになりました。例えばチッソはなくなったほうがいいのか、あそこにとどまって患者とのある種の関係性を切らないで存在し続けるべきなのか、あるいは「汚れた海」と言われても漁師でやってゆくことで、海のよみがえりを獲得できはしないか。そういうことを1つ1つ見てみたいと思っております。全体には、現時点では敗北の記録にならざるをえないと思うんですけれど、そう思うと気が楽で、そのなかにどんどん明るいものが見えてもくるという状態で、あと1年か2年かけて、死なざるところの水俣、よみがえるところの水俣を描いてみたいと思っております。ピンチはいつもありますが、必ず作りますので、そのときはどうか応援していただきたいと思います。

 『生きてる・・・』撮影に圧力は?

 桐谷 今のお話にありましたが、ロケハンや撮影のときにトラブルはなかったのか、あるいはそれをどう切り抜けたのか森崎さんにうかがいたいんですが。

 森崎 最初ロケハンに行ったときは、まだ制作するともなんとも決まっていない状態で、金を持ってない会社の作品になるだろうっていうことで、手弁当で美浜まで行ったんです。まず敦賀へ行きまして、排水口をのぞきましたら、魚が白い腹を出して沢山死んでいるもんだから「ああ死んでる、死んでる」。それでちょっと振り向いたら、向こうからこうやって(双眼鏡で)見ていましたね。こっちが見に行ったのに、向こうから先にジッと見られているという(笑)不思議な体験をしたんです。美浜っていうところは大変きれいなところでして、関西の海水浴のメッカといわれているんだそうです。行ってとりあえずタクシーに乗り、いろいろ見てまわったんですが、民宿だとかだいたいうさん臭さそうに見られました。とくに食堂では明らかに目線が僕を追い出してましたので、じっとなかをのぞいて、しばらくしてすごすごと退散しました。原発(の敷地)のなかに入らざるをえないもんですから、美浜原発っていうのは、200メートル近いすごい正門に橋がありまして、制止されずにそこを渡るということはほとんど不可能なんです。タクシーの運転手さんに言いましたら、この人がなんと、ひじょうに原発に反感を持っている人で、「しかしあなたも(お金を)いただいたんでしょ」って言ったら、「ええ、たんまりいただきました」なんて言ってましたが、元漁師の方でして、つまり漁ができないことが彼にとっては嫌だったんじゃないかと思うんですが。入口に「番兵」がいるんですが、その運転手さんが「観光、観光」って言うんですよ。観光に来たって言えばタクシーですから、すっと入れちゃうんですね。それでこっちには観光客めあての資料館がございまして、見れば見るほど頭の痛くなるようなものが置いてあるんですけれども、誰もそこは見ない。それで長居はできませんので、入ってずっと見て出てきました。ただその運転手さんにいろいろ聞いてましたら、「いやそのうち、水俣が出るよ」って言うんですよ。もう、土本さんの顔がハッと浮かびました。彼にとっては原発のたれ流しのことで起こる放射能障害っていうのは水俣だと、じつに僕はこれはすごい言いあてじゃないかっていう気もするんですけれどね。「水俣が出ますよ」って一言いいました。ほかにも彼に教わったりいろいろなことがありましたが、今でも覚えているのは、その人にタクシー代踏み倒しちゃって帰りの汽車賃を借りて帰ってきて(笑)ちゃんと返したかどうか定かではないという・・・。
 だいぶ離れたところに関西電力の職員寮というのがあるんですが、そこで無脳児が生まれたとか、職員がおかしくなって、そのお父さんが自殺したとかも 風評がひじょうにたくさんありました。それを美浜の人たちが言うのは、「なんで関電の職員さんたちは通勤に不便なあんな遠いところから来るのか」と。ずばりこれも何かを言いあてているような感じがしました。
 映画を作りに行ってトラブるとまずい、というのはお金を出している会社がすぐ手を引きますので士本作品みたいにちょっと1年伸ばしますみたいなことは絶対不可能ですので、3日も伸ばせば監督の首が飛ぶという状況ですから、絶対にこれはトラブっちゃいけないわけです。ですから台本の頭に、赤い字で題名よりも大きく「喜劇」と印刷しましてね。(笑)これは喜劇である。これは伴淳だかなんだかが出てきて、例のバカバカしいことをやるっていうスタイルで、いろいろ考えてやりましたけれども、要するに関西電力はトラブっちゃあ向こうが損なわけです。これはご存じの通りなんで、なんか出てきたらそれを写しますからこっちは。脚本は僕が書いてるんですから、どんどん変えますので。(笑)出てきてくれたらもっと良いものになったというぐらいで、ひたすら向こうはただ見てましたけれど、チョッカイはまったくありませんでしたね。

 なまの一個の人間として映画を

 桐谷 最後にお1人づつ、今後どういう作品を作りたいのか、それをどういう場でどういう人たちと一緒に作りあげ、上演していきたいのかということをうかがって終りにしたいと思います。

 土本 ”映画を見る”っていうことが、前のように機会を与えられればなんでもかんでも見ようっていう観客ではなくなっている。ひじように意識して選んで映画を見るっていうふうになっていると思います。一過性のニュースならテレビでも情報が得られる。速報性を持てない僕らがそれに括抗するだけの、作品としての緊張感を持っているかっていうのをいつも思います。また僕らフリーの映画人の立ち入りは、ますます難しくなっています。記者証やジャーナリズムの特権がありませんからー。例えば原発のことを考えても、森崎さんのやられた方法以外には、僕はなかなか撮れないだろうって思います。NHKなどが特集などでうらやましいほど原発周辺に入り込み、かなり思い切った方法をとっていますが、撮らせるほうも相手が天下の”国営放送”NHKだと思って撮らせているというところがあるのではないでしょうか。取材者もまた、本当になまの一個の人間と一個人として、現代のテ一マとどうぶつかってゆくかっていうふうに構えていないと思うんです。それを、こちらも構えるし、身構える向こう側と刃のきっさきを合せて切り結んでいきたい。そうすることが、やはりフリー映画人の仕事だっていうふうに思います。原発の映画を作るのは、将来の夢ですね。

 漁民の側に身を寄せた芝居を

 松橋 僕は今一番大きな問題が、僕のなかでは原子力の問題です。ですから、下北でいろんな大きな動きがあるかと思いますけれど、あくまでも漁民と原子力と出会うところというのが、僕のこれから続けてゆく芝居のテーマだと思っています。そして僕の生きているあいだにその路線変更があれば、僕もそのときまた考えることにして、そういう流れが変わるまでは、漁民の側に身を寄せた、原発との切り結ぶ点を、一人芝居、もしくはできれば大勢のものもやりたいという希望も持っているんです。そういうふうにして今後も続けていきたいと思っています。

 新しいつながりを作る人たちに

 森崎 松橋さんは一人芝居で、土本監督はフリーでなければできないというふうにおっしゃった。その通りだと思います。私もフリーですけれども。ここで急に、カミさんののろけをやるつもりはまったくなかったんですけれど、このあいだ『水俣の甘夏』っていう映画をカミさんたちが上映したんです。野菜の会っていうのをやっておりまして、やってる主婦たちは、ほとんどあんまり大したことはやってないっていうふうに考えてるらしいんですね。子どもに毒を食わしちゃまずいとか、それでいいんですけれども。僕が見ていますと、何かものすごいことをやってる気がするんですね。流通を別に作ろうとしているっていうことは、ものすごいことだっていう気がします。会社に勤めている人間には絶対無理だとは言いませんが、資本主義の管理機構に、つまり給料をもらうっていうことはそういうことですけれども、フリーで私が仕事をしていても、多分そういうことにかかわりがあると思うんですけれども、誤解を恐れず言うならば、男っていうのは絶対不自由なんですね、その点では。だから、カミさんたちに頑張ってもらいたいというか、あの人がたがやっぱり未来の新しい秩序を発見していく契機を作りだしてゆく人たちだろうという気がいたします。住民運動をいやがうえにもやらざるをえない人たち、1度やりだしたら自分の論理を確立していかんことには泣きのめを見るということが腹の底まで分かっている人たちで、まったく今までの世の中のしくみとは無縁の人間のつながりを新しく作っていく人たち、つまりは僕のカミさんたちなんですけども、あの人がたが見て、「悪くないよ」「ピンと来たよ」というようなものが作れればというふうに思っております。本日はどうもありがとうございました。(拍手)
(テープ起こしとまとめ 相馬正男)