ドキュメンタリーの現在 聞き手:蓮責重彦 インタビュー 季刊『リュミエール』 第7号 初版3月20日 筑摩書房 <1987年(昭62)>
 ドキュメンタリーの現在 聞き手:蓮責重彦 インタビュー 季刊「リュミエール」 第7号 初版3月20日 筑摩書房 

 『パルチザン前史』のはじまり

ー最初の作品『ある機関助士』を発表されて今年でちょうど二十五年たちます。その間七〇年以後は主に水俣の問題にかかわってこられ、こんど『水俣病-その30年』を完成された機会に、フィルモグラフィー展としてこれまでの全作品の回顧上映が行なわれています。その何本かを見直しての率直な印象は、あらゆる意味で映画が退潮期に向っていったとき、日本の記録映画だけはたえず高い水準を維持し続けたということです。土本さんと小川紳介さんの周辺に結集したドキュメンタリスト達の仕事ぶりは、世界でも最も高度なものだと思います。土本さんは、岩波映画から独立された方ですが、そもそも記録映画に向かわれたきっかけはどんなものだったのですか。

土本 ぼくは東宝撮影所の近くに育ち、また岩波映画の創始者である吉野馨治というキャメラマンの隣りに住んでいたんです。この人が、まだ子供のぼくなんかにまともに映画の話をしてくれる人でした。東宝でエノケンの映画を撮っていた方で、それでつまらなくなってドキュメンタリーをやり始め、北大の中谷宇吉郎教授の低温研究所というところで雪の結晶の記録映画を撮ったような人です。戦争中に『法隆寺』を撮ったかな。そういう話を空襲の時にー警戒警報の時なんか、男は夜通し出てなきゃいけませんからよく話してくれました。そういう時には、ふだん無口だといわれていた人が、一所懸命語るわけですね。だから、その人から聞いている世界が、なんか今までの劇映画と違う感じだというのがあったんです。それから戦後になると東宝争議で、ポンポン面白い映画が出てきました。そうすると、その人たちが-ぼくは青年共産同盟でしたけれどもーあれはおれが回したとか(笑)、いってるわけです。そういうのを見ていながら、劇映画の方に行くことについては興味がなかった。東宝教育文化部だったかな、むしろそこに入れてくれというんで願書を出したんです。そしたらぼくだけ落とすんですね、そこの党員が(笑)。ぼくは党員の活動家でしたから、街で会ってるぶんにはいいんだけれども(笑)、中に入ってこられたら困ると思ったらしいんです。なるほどな、おれも甘かったなと断念しました。
 そのあと、全学連で常任やったりしてたんですが、次に映画に入るきっかけというのは、たまたま、隣りの吉野さんが、-もうそのときは岩波映画に移っていましたが、おまえのまわりには、わりといい仲間がいそうだから、地味なしっかりしたのをつれてこいということで、ふたりほど推薦したんです。その中の一ひとりが入って羽仁進さんの助手についた。なぜぼく自身じゃないかと言いますと、その時、山村工作隊の裁判がありまして、その法廷に出なきゃいけない。すると、ロケなんかに行ったらだめだと思うし、そういう勤め方を許してくれるところは、民主団体しかありませんから、日中友好協会に勤めました。
 吉野さんにしてみれば、裁判で全部クリアーになった時にはなんとかしてやろう、ということだったんでしょうが、本当いえば、やっぱり労働運動みたいなことをやりたかったんですね。社会問題のジャーナリストになれたら一番いいというふうに思ってたんです。ちょうどそのとき、友達が羽仁さんの助監督をやっていたものですから、おまえ、アルバイトにこんか、というわけです。で、行ったんですよ。『絵を描く子どもたち』だったか。そうしたら、なんか民主的なんですね(笑)。助監督のぼくの友達が監督よりも仕事をバリバリやっている。子どもたちと話し合って、先生みたいにやっている。それを見て、ああ、こういうのが記録映画かと思った。ヨーイ、ハイでみんなびりびりした雰囲気でやっているんじゃない。しかも、できあがったのを見ると、こんどキャメラにびっくりした。それまでは、すばらしいフレームというような映画はいくらも見てましたけれども、もうまるっきり画面作りが違う。アレフレックスの一眼レフ系だと思うんですけれども、日本で劇映画より先に使ったんじゃないですかね。パンしてもフォーカスがあってくるとか、なんかすごいキャメラアイを感じました。で、このキャメラマンになりたいと思い、吉野さんに、ぜひキャメラマンにしてほしい、吉野さんのようなキャメラマンになりたいなんて、おべんちゃらを言いましたが、本心、キャメラでやったら、文章で書くのと同じぐらいに、あるいはそれ以上に面白いと思ったんです。そんなわけでキャメラと言ってお願いしたんですけれども、吉野さんはうんと言わない。キャメラマンというのは、おそくとも二十二ぐらいまでに入って、徒弟的な下積みをやって、若いうちにいろんな勘を身体でおぼえてやるもんで、おまえみたいに二十八のひねているやつは、使うわけにはいかん、と。事実、キャメラマンは、岩波はみんな若かったですから。バリバリ大作を撮っている人でも、二十六、七歳。そうすると、ぼくは年かさの助手になるわけで、やっぱり言われるとおりだ。それで岩波映画の製作部の製作進行というか、そんなポジションで入れてもらったわけです。

ー吉野馨治さん経由で岩波映画に入られたというのは、ある意味で記録映画の正統派に属しておられるわけですが、また、羽仁進をはじめ、黒木和雄、東陽一、小川紳介らの作家たち、それに田村正毅、鈴木達夫、大津幸四郎といった、その後、劇映画の方でも活躍する名キャメラマンもいて、きわめて刺激的な場だったと思います。そして六三年に『ある機関助士』で一本立ちになられてから、『ドキュメント路上』、『留学生チュア・スイ・リン』を撮られるわけですが、土本さんの作家生活の上からも、日本のドキュメンタリーの歴史の上からも真に重要だと思われるのは、大津幸四郎のキャメラとの協力が始まる『パルチザン前史』であるように思います。あれは、どのようなきっかけから始まった企画なのですか。

土本 黒木和雄が『キューバの恋人』という劇映画を作りましたね。それと併映する予定で、ぼくも向うに行き『チェ・ゲバラ』というのをつくろうと思ってたんです。ゲバラはぼくが行った年に亡くなって、「ボリビア日記」がもう邦訳されてましたから、彼の足跡を生々しく捉えるということが、キューバではできるだろうということと、キューバのICAICという組織が、自分たちの手持ちの中南米解放の歴史のニュースや、チェ・ゲバラの写真や、そういうのを使わせてあげますよということだったんです。ぼくもプロデューサーのはしくれだったんで、向うに行きまして、ICAICでニュースと記録映画を見たんです。全部で三十時間分ぐらいのフィルムでしたかね、それから彼の写真、それをリストアップして、許可願いを出しました。そのうちにキューバのICAICがこれはキューバでつくるべきだという思いが強くなった。ぼくの要望したものの十分の一ぐらいしか許されなかったんですよ。これでは写真を入れても映画にはならないというんで、写真はその時、中平卓馬という写真家がいまして、彼なんか、その写真で、じゃあ本をつくると。だけど、どっかで映画もつくりたいなというふうに思っていたところ、日本の学生運動の中で大衆武装の問題を真剣に考えているグループがあるということが、-当時『情況』という雑誌が出ていましたね、その編集者から聞いて、それで、ひとつの映画を撮ってみようかと思った。そうなると、もう『キューバの恋人』とは併映できません。それで京大助手で反大学運動のリーダーの滝田修という人物に会った。彼自身がグループ・キャップでもなんでもないし……京大では一番小さなセクトだったんですね。ちょっとマンガチックな、しかし人材的には多士済々で、その中心が高瀬泰司というんですが、京都に白樺というスナックがあって、その白樺というところを根城に人と接触をとって、実は隠然たる政治潮流をつくっている。
 ともかく全学連の時の学生運動とはまるっきり違った、もうツー・ステップかスリー・ステップ跳んだ考え方ですから、非常に興味をもちました。根本のところは非常に人間を大事にするというか、そういう感じ方だったものですから、それで撮ろうということになって、その時手を差しのべてくれたのは小川紳介で、彼の関西のメンバーにいっさい製作をやってもらって、それで結局五カ月ぐらいかけましてね。

ー『パルチザン前史』をやろうと思われたとき、それが実際にどんな映画になるかという予想はついていたのですか?

土本 時代がそうさせたんでしょうが、当時の大衆武装闘争なるものは必ず負けてメタメタになると思ったんです。そのメタメタになるにせよ、たぶんこの集団はあとに何か残していくだろうと。仲間喧嘩してセクトみたいに怨み節でやめるんじゃなくて、これは何かあるだろう。ちょうど、東大の最後の砦である安田講堂が落ちたあとでしょう。京大はある意味でそういった全共闘運動のトリを務めなきゃならんというような気持ちがあって、その人たち自身もどっかで、自分たちはトリだというふうに思ってましたね。その意味では”負けいくさを撮るからな”というのは抵抗なくて。だから、勝とうという、プラスに積み上がっていくようなパルスをほとんど撮らなくてよかったんです。むしろたゆたっているというか、躊躇しているというか、自分たちがうまくいかないとか、悔しがるとか、しかし、先にはどうしようということを考えていたとか、-当然誰が撮ってもそうなったと思うんですけれども-ぼくなりの狙い方はやっぱりあったというふうに思うんです。滝田があそこまで自分の胸襟を開くということは、シーン的にも予定しませんでしたけれども、やっぱりあれは、半ば共同生活をしたりいろいろしながら、最後に彼が、付き合いの深くなったところで、ぶっちゃけて何もかもしゃべる。闘争しているまっただ中では、そう身近になれないんですよ。ぼくも、他人ですからね。官憲のことがあるし。それから期待するように勇ましくは、なかなかできませんからね、映画みたいに。だから、そういう時は、彼を追わないで、闘いの状況だけ、それぞれにきちんと撮るというふうにしようということで……。
 たとえば戦闘場面ですと、ふつうは派手な戦闘ばっかり見ますよね。だけど、その戦況がどういうふうに市民に迷惑をかけたり、とまどわせたり、どのぐらいの肺活量で武器を用意しておくとかはなかなか撮らない。それをしっかり見ておこうということです。だから百万遍の市電交差点に持って行った火炎ビンの本数とか、隠してあったところが草むらで、まあ大学構内が解放区だという感じで、それが草一本にも出ているとか。それから、出ていかなくてもいいのに、見栄はって、すっと対時のところに出ていったりですね。そういった状況を語るものをなるべく撮ろうということでやりました。

ー『パルチザン前史』はもちろん政治的なある使命感ももって撮っておられると思うんですけれども、ごく普通の映画として面白いというというか、つまり、映画的に興奮させられてしまう。

土本 いや、ぼくも、あの対象を見てゲラゲラ笑うことが多かったですからね(笑)。というか、ぼくは良い悪いの判断があまりない人間なものだから、まして、ああいう問題における暴力やっている人に対して偏見がないものですから、また誰もが勝てると思ってない、しかしこれは深めなきゃという、火炎ビンなんかでも、かなり薬の調合なんかうまくなってから使われたわけですね。ああいうのは全くのめり込んでしまっては撮れないわけですね、ひっぱがさないと。そういうところでは面白いと思ったとおりに撮ってつなぎましたから、面白いと思ってもいいと思うんですけれどもね(笑)。

ードキュメンタリーの場合、しかし、そういった事態に対して人を、それと同質のものに向かわせるという力もあるわけですね。ところが見ちゃうと、それで安心しちゃうみたいなところがちょっとあるんですけれど……。

土本 そうですね。なんというか、中身はこれ、いったいどうするんだろうかということになりますよね。大学の中にいたからこそいろいろ試みられたけれども、街の中にこのまま放っぽり出されてはという。そういう心配に対して、滝田がどこまでも大衆に入ってやるんだといっても言葉だけですからね。だから、話としては思いが残る終わり方にしていると思うんだけれども、映画的な平仄としては、やっぱりある種のカタルシスになっていますね。それは、やっぱりぼくが、最後の負け転げてかろうじて踏みとどまっている姿がメッセージできればいいと思っていたんじゃないでしょうかね。それが、ピシッと、ある種の終わり方にできるかできないかというところだと思うんですね。

ー『パルチザン前史』で、記録すべき対象に関するかかわりあい方が全く変ったように思うんです。『ある機関助士』は完壁なコンテがあったそうですが、ここではそうした方法はもう不可能ですね。

土本 PR映画のときは前もって構成を出せといわれましたが、『パルチザン』から後は、ほとんど覚え書きみたいなものになります。キャメラマンがぼくの狙いを知りたいし、それを出す義務もありますが、シナリオにはならず、ノートみたいなものになる。
 この話をやってみようという決断はわりと早い方ですね。あわなければぼくじやない、これはぼくだな、というふうに思いますと、テーマとの相性というんですか、あるいは出てくる人とぼくとの感じが、これはこの人と転げ回れるぞなんていう確信がありますと(笑)、その時から、その人たちなりその対象なりとの関係が出てきますでしょう。それでますますやっていけるぞみたいな気持ちになることが多くて、それでノートを書く。多い場合には、四百字詰めで百枚ぐらい書きますかね。シナリオというんじゃなく、将来ナレーションに書くようなことまで含めて、言葉だとか事実関係とか、その間題の背景をなすいろんな人の集団の有り様とか、そういうのをみんなに分かってもらう意味で書くということは、わりと好きですね。

 『水俣-患者さんとその世界』へ

ー七一年に発表された『水俣-患者さんとその世界』はまさにそうした撮り方の最初の記念すべき成果だと思いますが、それ以前にテレビで『水俣の子は生きている』を撮られてから五年以上たっているわけで、はたしてこの題材で自分に映画が撮れるかという不安と、これはどうしても記録しなきゃいけないという気持ちとのバランスが崩れて、いけるぞというふうに傾くのは、どんなきっかけなんでしょうか。

土本 ちょうどそのことについての気持ちを文章に書いていたところで、ある程度自分であらってみているんですけれども、実は水俣ははじめは東陽一が撮るはずだったんですよ。ぼくは東陽一の助言者だった。もうぼく自分ではやらなくていいという意味で、体験談なんか話したりしてたんですけれども、東は、その時に、『やさしいにっぽん人』という劇映画にかなり心が傾いていまして、そうなると誰がやるのかというのが心配になってきました。いろんなものを読んだり、思い悩んだり、プロデューサーがあんまり楽天的だと、そんなふうにはいかないぜ、というのがあるものですから。ぼく自身も足が進まないわけです。しかし、これだけ考えあぐねているのは、今、日本の映画監督にいるか?
 水俣のことはやっぱり誰かがやらなきゃいけない、というふうに考えて、やっぱりぼくしかいないというふうに決断するまで、三カ月ぐらいかかりました。
 そうは思ったんですけれども、なかなか足が踏み出せない。そのうちに状況のほうが、-東京に患者さんが来るとか、もりあがってきまして、その時に、キャメラをまわすかまわさないかという分かれ道がありました。ぼくは、当面は撮らない。東京でいくら運動がダイナミックに盛り上っても、撮るなら水俣だというのがぼくの考え方でした。で、たんなる活動家の一人として東京での運動に参加する中で、向うの告発の人とか、石牟礼道子さんとか、そういう人といろんなことが話せまして、「ああ、こういう人に見守られて現地に行くならば、これはもうベストじゃないか」というふうに思ったわけです。

ーちょうどそのころ、同期のドキュメンタリーの方が、黒木さんや東さんが、フィクションのほうに行かれましたね。そういう動きはどんなふうに見ておられたんですか?

土本 黒木には、『とべない沈黙』や『キューバの恋人』がありますが、東という男ももともと文学青年で、撮った記録映画というのも、バックに絵解きをすれば文学で語れるようなものがあって、この人は劇に行くんだろうなと思ってました。
 ぼくにとっては、やっぱり万博です。ぼくの知っている先輩、同輩、あるいは後輩まで、万博の映像展示にかかわるわけですね。拘束が一年なんていうのは少ないほうで、何々館というのに頼まれてやる場合には、そのギャラがいいんですよ。で、本当に少数の人をのぞいて、万博に突っ込んだ。そういう動きに対しても、何になるかという感じがあって、劇映画に変わっていくことよりも、万博に対して態度をはっきりさせたかどうかというのが、ぼくには一番大きいことでした。共産党系の記録映画で有名な人も、アヴァンギャルド系で立派なことをやっていた人も、政治的に戦中責任を戦後責任と噛み合せて問うていた人も、みな掲げて突っ込んだ。トータルな状況の中では、全共闘運動が抑え込まれた直後の時代ですから、これはやっぱりきつかったですね。

ーそうした厳しい状況下に水俣に腰を据えての長期ロケに入られるわけですが、『水俣-患者さんとその世界』のすばらしさは、撮りながら、撮っている側も撮られている側もそれを事件としてくぐりぬけて変って行き、新たな自分を発見するというプロセスがそのままドキュメントとして記録されているという点にあると思います。そうした冒険がいい方向に進みそうだと直感されるまでにずいぶんの時間と試行錯誤があったと思いますが……。

土本 ぼくらの習慣では、ロケ先からラッシュを送りますと、送り返してくる。音はもちろん入ってませんけれど、それを見ながら、あっ、これはよくいっている、というのがわかります。それが続くと撮りたいと思うものが、自分でも撮れるような気になってくるわけです。その時点、裁判派では二十九人原告がおられたんですがその中から何人かを選んで撮ろうと思っているうちはだめだったんです。それで、もう全部撮ろう、フィルムかかっても、全部撮ろうと。そうなったら気が楽になりまして、残された奥さんとか、残された旦那さんとか、そういう人はわりと撮りいいですから、そういう人から始めていったわけです。やっぱり最後に残るのは、胎児性の子どもとか、重障とか、そういう人たちで、彼らを撮るには、ともかく全員撮ることしかなかった。
 ぼくはだいたいキャメラマンの顔で分かるんです。いけたようだという感じがあると、ラッシュを見なくていいんですよ。キャメラから目をはなした途端の顔で、だいたいもう分かりました。そういうことが、次第に濃密になってくるわけです。前はバラツキが多いですけれども、これはいける、というふうに、三分の二超えたぐらいから思いました。

ー土本さんはキャメラを覗かれることはあるんですか?

土本 覗くというより、持たせてもらうとうれしいほうですね(笑)。ぼくが持たせてもらう場合はフィルモなんです。フィルモというキャメラは、一番短焦点にしておきますと、日向だったら、だいたい一メートルから無限大までピントがあっちゃいますから、あとは、絞りはいくつだということを聞いておけばいい。だから、チッソの株主総会のシーンでも、患者の主要な部隊がいるところがメーンですから、キャメラマンは席を離れられない。そうすると、ぼくがフィルモと、助監督がテープレコーダーを持って、壇上を跳んで歩くわけです。だから、患者と社長と対時するところなんか、キャメラマンだったら絶対しないようなボケになっている、どうしても一メートルより先に行っちゃったんですね。ファインダーも見てないし。それは『パルチザン前史』でもがたがたした修羅場でやらせてもらいました。

ー『水俣-患者さんとその世界』は、もともと同時録音はなしということで出発されたわけですね。

土本 その当時、同時録音というのは、仲間の小川も持っていないし、テレビ局自身がドキュメンタリーを同時に撮るというのは、めったにないみたいな時で、機材的には可能性の中に入ってこなかったですね。そのころエクレールも持ってませんでしたから、フィルモ二台と、ボーリユーがあって、あとからおんぼろアレフレックスが届いても同時録音はできないし。だけど、どうしてもシンクロで撮りたいというのは、一シーンか二シーン、キャメラを都合して送ってもらって、すぐ送り返すというような形で撮ったと思います。

ーでも、『水俣-患者さんとその世界』は、口の動きとは全く無関係に声が流れても、それがいい画になっていたと思うんです。たとえば、タコ採りのおじいさんがしゃべるところがありますね。

土本 あの時、テープレコーダーをかついで海の中に入っていったんです、タコ採りじいさんの声をとりたくて。そうしたら足下とられて、ザバーンとテープレコーダーを海の中に入れちゃったんです(笑)。もう泣くに泣けなかったですよ。シンクロじゃないんですけれども、せっかく買ってもらった六ミリテープ。

ー土本さんは泳げないんですってね?

土本 泳げないです。泳げないし、人の釣っているのを見るのは見ますけれども、ぼく自身は釣りの趣味はまったくないです。

ーそうすると漁民という人たちは全く別人ということになるわけですか。

土本 そうですね。えらい人だなと思っている。よく雲が分かり、潮が分かり、魚が分かるなというようなことで。ぼくなんかさっぱり分からないですね。

ータコ採りじいさんが、なんか眉間のあたりを噛むと、それでタコが死ぬというような話をしてますね。あのおじいさんも、被写体としていいなんていうと申し訳ないけれども、すばらしいですね。

土本 みんな笑いますよ。タコがタコを採っているって(笑)。

ー土本さんは音楽はお好きなんですか?

土本 いや、それが非常にコンプレックスがあるんですけれども、親父にも趣味がなかったし、姉にも趣味がなかった。だいたい、九十九パーセントの家庭にラジオがそろってから買ったようなうちでしたから、レコードなんてないんですよ。楽器もないし。だから、学生のころ、クラシック喫茶に行って分かったような顔をして聴いているんだけれども、すぐ眠くなったりして(笑)。ただ、映画音楽の場合に、こういう曲だ、これだという仕分けは、必死になってやるわけですね。それと、音楽でのせちゃいかんということは……誰かに教わったのかな。人の映画を見ても、反面教師的にそう思ったのかもしれませんけれども、PR映画というのはすごいんです。たいしたことじゃないのに、終わりになると音楽が高まって、ヴォリュームはいっぱいにして、なんかジャーンで終わるみたいなやつでしょう。そうすると、なんだ、工場が完成したというだけなのに、なんでこんなに舞い上がるのかというのがにがにがしくて、逆にそういう音楽の使い方はしなくなったと思うんです。

ー胎児性の子どもたちが、眼のほうがだめなんで音のほうに魅きつけられていくというところを、すごく感動的に撮っておられたと思うんですけれども、ああいう演歌はお好きですか?

土本 そうですね。胎児性の子どもが一番反応するのは演歌なんですよ。だから、この演歌というのは、やっぱりばかにしちゃいけない、この人たちの初原の音楽的感性にちゃんとあっているんだなということがよく分かりました。

ーすごいステレオで聴くわけですね。おそらく耳だけじゃなくて身体で感じているんだと思いますね。

土本 ええ。あの小さい子はもう完全に聴こえないんです。水俣病と、両親がいとこ同士ですから、その隔世遺伝みたいなものと、ふたつダブッているんです。いろんなことが、水俣病と合併してしまうんですね。あの子は全然聴こえないから、兄さんのほうはヴォリュームを大きくして、精一杯聴こうとしますけれども、子どもはこれ(手を当てて)で、圧でね。これには感動しました。本当にあれはびっくりしたですね。
 キャメラマンが、ああいうシーンを見た場合どう撮るだろうというのは分かります。たぶん指先まで撮っているだろう、スピーカーの前にある布の波打つ様まで撮るだろうと。それから機械のノブが、どれがどういうふうになっているのか、ぼくなんか分からんわけですよ。ところが、あの子たちは、パパパーツとやってしまう。あれを撮ろうというと、ああ、アップだなというふうにだいたい感じてくれますからね。……はじめ隠してたんです、あのステレオ。こんなものまであるって世の中に分かったら、何が裁判闘争かっていうふうに思われるだろうと気にしますよね。ところがぼくたちが、あれで子どもたちが、ああいうふうに喜んでいるんだということを撮りたい。実は別の撮影をすませてそろそろ帰ろうかと支度してたんですけれども、音楽が高鳴ってきて……。やってるぞ、あれ撮ろうと言うと、親はもう分かるんですね。ステレオがダーンとあって、ぜいたくだというふうに撮るんじゃない。子どもたちが本当に好きだと思うから無理して置いてやったという、そこのところを撮るんだなというふうに思うものだから、もう止めない。だから、落ち着いて撮れるわけですよ。子どもたちは、もちろん当たり前な顔をしていますしね。そういう阿吽の了解なしだと、あれだけ落ち着いて撮れないですね。
 だからお気づきになったかどうか分かりませんけれども、頭のほうでオルガンを弾いているところは、当然、誰でも撮ると思うんですけれども、手が見たかったんです。家族の手を。じいさんからずっと子どもまで。手を撮る。すると、やっぱり俊敏な指をしているんですね、労働に対しても、何に対しても。そういうカットを撮っておくと、自然に盛り上がっていくようになるんです。あれがいきなりパッと出ても、やっぱりとまどうと思うんですけれどもね。

 ドキュメンタリーにおける編集

ー編集はご自分でなさるわけですか。

土本 もう人には絶対……。

ードキュメンタリーの中で、編集の位置というのは、どういうところにあるんでしょうか。ある意味ではちょっとやばい場所ですよね。つまりなんでもできるというような……。

土本 なんでもできるということを、岩波のPR映画時代に、逆に教わっちゃったわけです。伊勢長之助という、亀井さんたちのおられた東宝の記録映画部の習慣と蓄積を一身に吸収したようなベテランです。四十代半ばだったと思うんですけれども。ぼくは製作進行でその人につくわけですよ。いろいろ見るわけです。そうすると、映画はつながらなくても、オーヴァー・ラップにすればつながっちゃうとか (笑)。なるほどと思う場合もあるし、これはひどいやと思うこともあったり、いろいろしておぼえましたね。並行してテレビのシリーズをやりましたからね。入って二年目にテレビやれといわれた。やり手がないんです、岩波でも。電気紙芝居だっていうんで、みんなばかにして。ところがぼくは、人間を撮りたいと思ったから、人間が撮れればなんでもいいというふうに思ってましたから。このときのキャメラマンはぼくよりもはるかに経験の長い人がやります。ぼくなんか、そういう意味では、演出部としての訓練もないわけですから。みんなにおどかされる。おまえ、つなげるのかとか、おまえ、キャメラのパンはどういう時にやるのか知っているかとか(笑)。だから、ぼくはもうフレームのど真ん中に、一番大事なことがキチッと映ればいいんだろとかいってやったんです。その時たまたま九州にロケしていて、そのロケ宿で編集できたものですから、時間はたっぷりあるんで、何回でもラッシュを見ようと思ったんですよ。つないじゃあ映写し、つないじゃあ映写し、自分でこれだというところまでに、最低十回から二十回は見たんじゃないでしょうか。そうすると短いものは短いし、長いものは長いし、飽きちゃうものは飽きちゃうということが分かります。その時思ったのは、編集というのは、自分で幾通りもの目で、なんべんも見ることしかないと。先生はいないんだというふうに思ったんです。それで編集が好きになっちゃったんですね。こういうむだなことをやる時期が、今の若いドキュメンタリーの人にはない。だから、ぼくは、えらいありがたい時代だったと思うんですけれどもね。
 編集でいいますと、やっぱりぼくは、だいたいにおいては、撮った順ですね。知った順、見た順じゃなくて、撮った順につなぐんですよ。重要なものを一番最初に見ますよね。それが一番頭にあったほうが、全体がよく見えるのかもしれないけれども、ぼくの撮り方だと、撮った順というのを大事にするんです。今でも基本的に。知った順とか、見た順じゃなくて、結果としては、日々撮ったやつを日録風につないでいく。また子どもの話、子どもの話、子どもの話とあれば、どうやったらその三つが、時空を超えてつながるかと。それは結局、構成を考えることになると思うんですけれども、いわば撮影順序といいますか、撮影日記みたいなつなぎ方に、まず固執してみる。それからばらしていくんです。
 この道の大先輩である亀井文夫さんと最近いろいろ話し、座談会やったり、『戦ふ兵隊』や『上海』を、何回も見たり彼の書いたものを読ませてもらったんですけれども、亀井さんはカメラマンの撮ったカットはいわば部分品だと言うわけです。「ちゃんと順序立てて構成していけば、クシャクシャと泣いたカットもそれが笑っているカットに見える」と言われるわけですね。やはり、構成が映画をつくると。「構成が映画の美の流れ、映画的流れをつくる」と論文にも書かれているわけです。これはやっぱり構成主義だなと思いました。シンクロでもないし、ああいったやばい状況といいますかね、戦争の中で自分の目指す流れというのを逆に意識してやられたところがあると、そういうふうに思いますけれども、ぼくの方法ではないなと思うんですね。

ーそういう意味での構成主義じゃないんですが土本さんの映画に、よく風景のインサートが入りますね。それには、もちろん状況説明という意味もあるんだけれども、一方で、叙情的に、緊張していたのをちょっと解きほぐしてくれる。そうしたインサートは全部撮っておられる風景の中から選ばれるわけですか?

土本 白黒だと色が出ませんけれども、逆光が、いい陽がありそうだと思うと、車を止めておくわけです。あるいは雲から一条光がさすような海。それはどこというんじゃなくて、それ自身、ワンシーンとして撮っておくんです。それは単純に言って、やっぱり息苦しいシーンの次に、また息苦しいシーンをつないだら、短編ならいいですけれど、長編じゃあ持たない。長編では、やっぱり観る人自身が、自分でもうワンサイクル噛みしめて、自分の中に沈めていく。それが、あんまり刺激的なカットつなぎだと、おそらくそういった間にはならないだろう。間ということは、随時考えますね。

ーそれは『水俣』からですか?

土本 『パルチザン前史』のころからやっています。長編をやってからです。『路上』は、四十分ぐらいの短編ですから、これは一気に見ていただける。短編の呼吸と長編の呼吸が全然違うんです。だいたい編集台の中に、多くて二十分、短ければ十分ぐらいのロールに分けて編集していきます。その分ずつ編集機で見ますね。そうすると、長編なのに短編が四つあるというふうになっちゃうんですよ。三十分ずつの映画として見たら、ちゃんとそこにリズムがあるんだけれども、それぞれが均質で、いらいらしてくるというようなことになるんですね。目の前にあるロールを、本当に緊密に組むんです。ただ、それを長編としてつなげると、緊密さが相殺しあっちゃう。くたびれて追いついていかないんですね。

ー上映時間はどの段階で決められますか?

土本 いつもやる時には、一時間四十分と決めるんです。ゴダールでも、やっぱり一時間四十分と言っている。しかし、撮れたものの重量を知ってますから、これはそういうわけにはいかない。二時間ちょっと超えてもね、よかろうというぐらいでやるんですけれども、最後は、その写真にふさわしい体躯の長さしかないんじゃないかというふうに思うんですが、そこで甘えることはありますね。二時間なら二時間と決めたら、そこで七転八倒しても、二時間のモンタージュにするという制約があったほうが、いいと思います。強烈な内部批判者がいて、あるいは営業・配給的視点でもいいですけれども、そういう点で一定の制限をつけてもらって、こっちはぶうぶう言いながらでも、その制限の中で、じゃあ何ができるかというふうにしていったほうが、結果として新しい映画的な文体ができるということもあるみたいですね。

ーいつごろから、そういう状態になりました?

土本 『不知火海』をつくってからですね。自分で見ていて、ああ、観念的に無理して入れたのはだめだな、と思うんです。その時の気持ちとしては、これは入れなきゃいかんというふうに思っても、やっぱり観客と一緒に見ていきますからね。ぼくは自分の手で見せに行くということが多いんですよ。日本の監督で、ぼくぐらい見せに行った人間はいないんじゃないですか。日本語が全然分からない外国なんかに見せに行きますでしょう。そうすると、映像がきっちり組めている映画は、人はちゃんとついてくるんですね。日本人の飽きるところと、その人たちの飽きるところと同じなんです。だから、自分の思いこみを洗うということ。そのためにはひとりで編集しないんです。必ず若い人とやる、その若い人も、編集ははじめてだという人もいるんですが、編集なんか分からないだろうと思うと、フィルムをいじっていくうちに、実によく見てて、「長いか?」と言うと、「いや、長くありません」とかね、「短いか?」と言うと、どうだとか言うようになる。それを頼りに、ぼくのほうがこんどは暴論を吐いたりする(笑)。その意味では、映画というのは得な表現ですね。時間かけられるし、撮りあがったところから、ぼく自身も含めて、観客的発想になりますからね。とくにすぐれた録音の人は、全体像をちゃんと自分なりにもって、観客の立場で完成度に責任をもってくれますからね。

ーシンクロのよさといいますか、シンクロであるからこういう映画が生きるというのは、だいたいふたつあると思うんです。ひとつは、たとえば『水俣一揆-一生を問う人々』 の場合だったら、あの団交場面の臨場感はシンクロじゃなきゃだめだと思う。それからもうひとつは、これは『不知火海』の海辺で、原田医師と子どもたちがしゃべりあう素晴らしい場面。キャメラを遠くに引いておいて、じっくり彼らにしゃべってもらうという演出にもやはりシンクロが生きている。社会的な運動の高揚感というのが、ある時期からずっと引いていきますね。これは水俣だけではなくて。そうすると、そういった方向にシンクロが非常に有効だというのを、土本さんも発見されていくような感じがする。ところで、これだけ機械がそろってなんでもシンクロが当然だということになると安易さみたいなものが、どっかで出てくるんじゃないでしょうか。

土本 そこが一番、戒めているところですね。シンクロをはじめて使う時から、観念として、もうひとつのアンチ・シンクロ論が、ぼくの頭にあったんですよ。つまり、シンクロというのはものすごい強制力があるわけです。今ビデオ時代ですからそれほどの強制力とは意識しないかもしれませんけれども、昔は、シンクロといったら、もう凝然と見ちゃうんですね。しかし、その強制力は、しゃべっていることのすばらしい強制力じゃなくて、メソードとしての強制力になっちゃう。アップなんかになればなるほど。それは意味がないというふうに思ったんです。だからシンクロ・フエティシズムはやめようということは、ずっと課題にしていたんです。やっぱりシンクロという方法でスタッフ全員にものすごい緊張感が出るという利点はあるんです。キャメラマンが撮っている時に助監督が音のことで集中するとか、すごい緊張感があるから、それがお互いに伝播しあって、そこから集中力が生まれる。と同時にそれが撮れちゃうと、画の言語について考えていくということが、-キャメラマンが画で訴えるものを探していくということが、もうくたくたになっちゃっていて、どっかにすっとんじゃうということも起こる。それが心残りであるわけです。
 シンクロというのは怖いです。その人のもっている話を聞いてしまうと、いい話が聞けたら聞けただけ、模範答案みたいに、まるっきり批判しないで、手をつけちゃいけないものみたいになりがちなんですよ。事実、一所懸命しゃべってくれるんですから、なんでハサミ入れられようかということもある。しかし撮ったらもう切れないというふうに、延々と使うというようなことは、シンクロ・フェティシズムだと思う。つくるほうが、もうちょっと踏み込んで、その人の一番の輝きを見た上で、しかも、本当のところをピッといくというふうに、もういっぺんシンクロの魔力をはずしてみないとだめなんです。それに初期の作品のように画だけで、ノーナレーションで映画を撮ってやろうみたいなことを考えた『ある機関助士』とか『路上』のころに比べると、なんか下手になっていますね(笑)。

 『水俣一揆』の素晴らしい顔、言葉

ー普段は寡黙な人がある状況になると非常に餞舌になるということがありますね。『水俣一揆一一生を問う人々』など、それぞれの人がそれぞれの言葉でしゃべる。その言葉が顔と連動して、われわれはうたれるわけですね。撮っておられて、この人がこんなことを言うのかというふうに改めて驚かれたようなことがありますか。

土本 それはありますね。リーダーじゃない人ですね。女の人とか。要するにしゃべる経験のない人。ふだん無駄口はしゃべっていますけど、この人のこの時にふき出す言葉にはやっぱり驚きますね。こんな言葉がどうやって出てくるんだろう。

ーあれは何なんでしょうね。

土本 今言わないとだめだという。キャメラなんか全然意識していませんからね。社長と差しで会えるということが彼らにとってとても大事なんです。差しで会うというのは彼らの美学なんですね、人と人との。裁判をするのはいやだからチッソに座り込んだんだって言いますもんね。おれは膝と膝を付き合わせに来たんだ。だからそういう場に行きますと、水俣の患者は誰でも言いますね。ぼくがインタヴューしている時には絶対に出てこない言葉がとびだしてくる。

ー『水俣一揆-一生を問う人々』というのは素晴らしい言葉に満ちていますね。

土本 そうですね。誤解を恐れずにいえば、シドニー・ルメットの『十二人の怒れる男』というのがありますね、ぼくは非常に感心した映画なんです。ディスカッションだけでアメリカが全部見えちゃう。各人の家庭の中まで見えちゃうというか。『水俣一揆』を撮りながら、結果としてああなりやいいというのがありました。その人たちのしゃべりとか質感を通じて海が見えたり、また、それだけで会社が見えたり資本の息づかいが見えたり-。そこまでは撮るぞというふうに決めていました。あの座り込みは、撮影を始めたのが三月の下旬で、七月に調印したんですが、あれだけのピークは最初の半月しか続きませんよね、みんな遠いところから来ているから。あの行動というのは、実は実働四日か五日なんです。しかし、座り込みを全部撮っていたらフィルムが天文学的な数字になりますからね、キャメラを持っていったら、その日のことで映画が一本できるぐらいに撮ろうやということで……。ーなにより感動的なのは、患者さんたちにチッソの社長を人間として信じたいという気持ちがあり、それが画面に出ていることです。

土本 ええ。社長はおやじですよ。逆縁なんですね。立場は逆だけど、やっぱりこれはおとっつぁんだなと思いました。チッソもあの一番困難な時期に、あの人しかエースなかったでしょう。技術畑だし、総務畑のずるさを持ってないし。趣味が読書というような人だし。あの時に顎のしゃくれた水俣病担当重役なんかが社長だったりしたら、誰もあれだけ言う気にならないです。

ー映画にも主役と脇役があるように、ああいうところにもそうした顔があるんですね。島田社長は、資本=悪という図式を忘れさせるほどいい顔をしている。

土本 あの患者さんとのやりとりの周辺にはずっとチッソの一組(合化労連系)の労働者や活動家がいるんですが、彼らは患者さんよりももっと社長を憎んでいるね。概念としてチッソは嘘ばっかり言うぞとか、患者を騙そうとするぞとか、逃げようとするぞって言うわけです。それは当たってないことはないです。労使の団交の場では逃げてしまったり、卑怯未練にやっているのと違って、患者とのやりとりではその場に座っちゃったわけですからね。だからぼくには偉いという尊敬があるんです。この事態をともかく座り続けて引き受けようというのは、やっぱり人間一生にそうないことだと思う。ぼくは、ある意味でいうと、患者さんも偉いけど、あの島田社長も偉いんじゃないかと思うんです。その人に対するぼくの愛情があるんです。

ーそれがみごとに出ちゃいましたね、あの映画に。

土本 そういうのはありますね。キャメラマンにも、この人の誠実さ、黙っているときでも、誠実な顔は撮っておいてくれといっときました。シンクロだから、何を聞いてそういう誠実な顔になっているかというのが分かりますからね。だから、キャメラの一台は、しゃべっていてもいなくても、彼を狙うキャメラというのをひとつ設定して、もう一台は状況を撮る、というふうにしてやったんです。

ー日本のコミュニケーションの歴史の中でも、空前絶後じゃないかという気がします。つまり無言で自分を体現できるし、しかも相手の言葉は受け止めている。

土本 それが面白いんです。『水俣一揆』は言葉ばっかりの世界ですけど、インディアンのリザーブでやった時、あれには英訳がなかったんです。しかし社長との対決のシーンはあの作品にしかないものですから-。ところが観客はほとんど分かるんですね。声音というか、表情というか、日本でわくところとほぼ同じところでわきますし。女の人が「おかげで年はとりました。年はとってもわたしは処女でございます」と言うでしょう。そうすると、何を言っているか分からないけど、しゅんとしてして見たりね、あれは大変に面白い体験でした。
 しかし、水俣ではあの映画が一番公開しにくいんです。「わたしは処女でございます」と言った女性は、キャメラが回っているのを知っているんですよね。彼女にこういうエクスキューズがあったんです。自分は年をとっちゃった。だけど、まだ子持ちの、離縁された若いタカエちゃんとかしのぶちゃんとか清子ちゃんとかそういう子どもたちの一生をどうするんだ。その子らを嫁にもらいきるか。そういうふうに言っているうちに、自分のことになって、もう止まらなくなっちゃった。わたしにもお嫁にいく機会はあったのに、きょうだいに、お前がいないと両親を看護する者がいないと言われて、こうなってしまった。わたしはほんとに男も知らない。いい男と結婚したかった。それでバッと「処女でございます」というところに行っちゃうわけです。あの人には、水俣でぼくたちも宿の世話になり、めしを食わせてもらいながら撮ったもんだから、わたしだけは撮るなみたいな彼女の気持は忖度していました。しかし、素晴らしい一瞬と思うから、撮ったんですけれども。水俣に持っていっって公開したいと言った時に、彼女が頑強に反対するんです。自分のシーンを切ってくれ。その弟が、アジアと水俣を結ぶ会の運動をやっている浜元二徳さんなんですけど、そのふたりを前に、これを上映させてくれないか、実はこういうシーンもあるということを言いますでしょう。彼女は入っていると思っているわけです。あれはきっと切らないで使っていると思っている。見なくても、ちゃんと分かっているんです。それを切ってくれという。この村で、わたしがこの間しゃべったようなことを知れば、もう笑い者だ。自分はもっと若い子のために口火を切って言ったんだけど、そういうふうに人は受け取らん-。それはどんなことがあってもいやだと言うんです。弟の二徳さんは「よかがな」と言うわけです。見とらんけど、あったことだし、言ったことだし、よかがなって。それよりもあの映画を見せることのほうが大事じゃないかって言うわけです。その時に、ぼくとしては聞いていくわけですね。「東京でやる場合はどうか」「大阪はどうか」だんだん近づけていくんです。「熊本でどうか」と。すると水俣の映画を見にくる人は、やっぱり金払ってるんだから、水俣のことをよかれと思うだろう。そういう人ならいいと言うんです。「じゃ、水俣の町中でどうか」と言うと、迷うわけです。「水俣はやっぱり、どういうことがあるか分からんから困る」と言うんです。しょうがないからぼくは考えましてね、「水俣では切りましょう。その代わり全国では少しも切らないで上映する。それを約束するから上映させてほしい」そうしたら、彼女はすーっと憑きがとれたみたいに、「あんたらも、たいへんじゃなあ」みたいな話になって、「わしがここまで言うのは、どれだけいろんなことがあったか」と、またそれを映画に撮りたいぐらいに涙ぐんでしゃべるんです。あの映画ができてから十何年ですか。改めてあれを見せましたら、もう火がついちゃいましてね、思い出して。この闘いを忘れとる、と。多くの患者も、医者に認定してもらったらすぐ金が来ると思っているけど、その権利も、ここまでの闘いをやって、やっと獲得したんだ。この映画を見せようじゃないかという話が出ましてね。彼女も真っ白な白髪になって、上映しても、黙っていると思いますね。絶対に見にこないでしょうけど……。
 あのフィルムを切る時は、キャメラマンに切ってもらったんですけど、誰も文句を言わなかったですね。作品は切るべきでないなんてこと誰も言わなかったですね。
 ぼくはよく言うんですけど、映画はスタッフだ。プロセスとスタッフがしっかりしていれば、経験とかうまい下手というのは二の次だ。
 ぼくが一番怖いのは、ぼくの水俣での長さです。ぼく自身、水俣に馴れるなっていったってやっぱり馴れてしまう。向こうの人もぼくに馴れちゃった。水俣の映画を長年撮ってきたことにおける人間的な尊敬といっちゃおかしいですけど、そういうものを持っちゃうんです、新聞によく出るとかテレビに出るとか。あの人はおれの友達だけども、やっぱりちょっと偉いらしかということになるわけですね。映画のインタヴューになると、ふだんとは改まった口調になったりする。前は、どこの馬の骨か分からない人間として対応してくれていたんですけれども、一定のグレードが、この二十年の間にできてしまったということは、ぼくとしては不自由ですね。

 新しい声が見えてきたころに、また

ー『海盗り-下北半島・浜関根』で原子力船むつのほうに行かれるということがあったんですが、あれは……。

土本 あれは馬の骨です。馬の骨の扱いで撮らしてもらえたと思っています。小さいことを言えば、勝ちいくさを狙った記録活動は撮りやすいんですよ。警官と渡りあったとか、みんなでずっと準備して何かやり終えたとか。そこで映画もラストをつくって、上映運動を始めていきます。と始めたころには現実の運動はまた冷えていくわけです。人間的な高揚感を追っていこうというのは、『パルチザン前史』でも水俣でも共通しています。水俣では結果としてチッソに攻めのぼってというふうになったんですけど、ぼくは負けいくさを怖れずの気持ちでいつも撮っています。勝っていく方向に撮れる時代ではないと思っているし、勝ってもやっぱり波がありますし。だから、今度の『水俣病-その30年』は、明らかに負けいくさを撮ろうと言いました。『海盗り』の場合も下北半島の巨大開発の六ヶ所村での経験を持っているし、いろんなところの運動をこの目で見ていると、金をくれろという闘争で勝つ話がないんですよ。がさがさになるんです。金をもらわないという闘争ならいいですよ。金をもらわない代わりに、何もしてほしくない。そっちにウェートがかかった場合には描けるしいいんですけどね。条件が出てきて、条件のほうが強く働いて、金をたくさん寄越せというような形になって、そこで取引するようになったら負けるという、ぼくの歴史的直感みたいなものがあるもんだから、勝つ方向では撮ってないんです。負けるとしたら権力のどんなテクニックにやられがちだとか、どういうとこで負けていくか。それを咎めるんじゃなくて、きっちり見ていこうと。

ーしかし、勝ち負けを超越しちゃった人たちがいるわけでしょう。しのぶちゃんや清子ちゃんのような胎児性の患者さん、ああいう人たちに向ける視線というのはどうなりますか。

土本 それが弱いところで、もうぼくの年代ではだめですね。ぼくの娘とおない年なんです。彼らを知ったのが六つぐらいの時でしょう。だから、ぼくのことを牢固としておやじと思ってるんです。もっと若いスタッフだと、彼女たちから愛を打ち明けにきたり、男と女の応答もどっかにあるんです。だから愛情の形が違うんですね。おとっつぁんになっちゃってるんです。だから、あの世界はこれから若い人に全部お預けしないと、あるいはそういう人を前面のインタヴユアーにして、それをぼくが撮っていくというようにしないとだめだなと思っています。
 年配者に本当のことを聞く点では、年相応に、たいていのことじゃやめないよというような感じがあるから、そっちが撮れてくる部分だけ、ああいう若い層は撮りにくくなって。もっと小さい子ならまた違いますけど。

ー石川さゆりのコンサートを撮った『わが街・わが青春』。あれは結局そういう世代の映画ですね。

土本 ぼくは若い患者たちが石川さゆりショウをやるということは賛成でしたけど……、ちょっとナレーションにも残してありますが、ショウを世話したのは当時の環境庁長官だった石原慎太郎の免罪行為なんですよ。そっちのほうの手の内が見えるわけですね。子供たちの側の目で見ると、いいリハビリになるし、親に対して独立の契機になるかもしれないし、子どもたちがそれで育っていくかもしれないという、ふたつの役割があったんです。
 石川さゆりは水俣に来たとたんに、気が動転しちゃったんです。会場に着く前に、明水園という、彼女のコンサート会場にも連れてこられないぐらい重症の人たちのところで歌わせるという話だったんです。ところが、マネージャーが、彼女の精神的コンディションがくずれると思って、挨拶するならいいけど、歌はできないという。目的の半分は動けない子に歌を聴かせるというので、準備していた連中もそれで熱中していたわけです。ところが、大人の世界のシナリオとしては歌えない。そういった意味では、当日、当時刻に向けての、みんなのその日の盛り上がりを追って行ったものですから、明水園では歌えないと聞いて若い患者たちが茫然とするところも全部撮ってあったんです、そのラッシュを、石原慎太郎が見にきて怒っちゃった。あれはテレビだったんですが、歌わないということをぼくちゃんと記録したんです。それを知って愕然として立ちすくんでいる清子とか。プロデューサーが礼を尽くしてそれを石原慎太郎に見せたら、怒りましてね。その足で、怒鳴って帰っちゃった。これではギャラなしで石川さゆりを出してくれたホリプロに申し開きが立たないといって。申し開きが立たないったって、全体としては石川さゆりも一所懸命に最後まで熱唱してくれたしこれでいいじゃないか。子どものほうの記録として考えればこれでいいんだと頑張ったんだけど、放映じたいあやぶまれた。結局、えいっと思って、子どもに電話で連絡して、あのシーンは切ることにしました。
 子どもたちのあれにかけた思いというのを親が本気で受け取れば、もっと子どもは変わるはずですし、映画を見ればまた変わると思うんです。あのお祭りさわぎだけでは、この子どもがどうやってきたのかという感じが分からないわけです。だから、その後あの子たちにプリントを一本あげて、今、かれらが小学校や中学校を上映して歩いてるんです。それをあの子たちのいとこや何かが教室に行って見る。坂本しのぶさんとか開幕のまえに挨拶した滝下昌文くんとか、ともかく一所懸命しゃべって、自分たちは今こういうふうにしたいと思っているとか言うでしょう。それを映画で見た親たちが、あれっと思うんです。あのショウに来ているくせにそれだけではわからんのです。親が変わらないんですよ。感心はしているけど、変わらないんですね。親で一番いいケースは、子どもを闘争に連れていった親ですよ。それは全然違いますね。自由にさせていますし。しのぶさんは闘争に行っている。オルガンを弾いていた渡辺栄一少年も行っていますね。そういう子は、親が開放していますけど。そうでないのは、お前はもう病院に入っていろとか、見苦しいとか。中には、兄さんが結婚するんで、親族が事前に来訪しますね。その日に金やって、お前はきょう一日帰ってくるなとかね、夜帰ってきても、裏から入って寝てろとか。「きょう、ちょっと身体の具合の悪いのがひとりいて寝てますから」みたいなことで、そういうのを敏感に知っているから苦しむわけです。
 支援のグループも十年たって、それぞれに水俣で相手を見つけ、子どもをつくってというふうになっていますから、ああいった若いグループが……これから水俣大学なんかできると、はじめてそういうところを足がかりに支援のあり方を組み直していくでしょうね。

ー小川紳介さんの場合はたとえば、農民を撮る場合は、そこに行って住み込んじゃう。そこで撮る前の精神的なウォーミング・アップとしてずっと付き合われるわけですけれども、土本さんは、やはり水俣に行かれるわけでしょう。水俣に帰られるという感じはありますか。

土本 帰るというよりはやっぱり行くというほうですね。小川さんの場合には、大地に根ざしてて、野菜と米ができるとか、共同生活をすれば大所帯の資金で食っていける……だからみんな最初は独身で。それが長い間に結婚して子どもが生まれてというふうになりますし、その過程で大変な苦労していると思うんです。ところがぼくはあれが怖いんです。ぼくはその人は知っているけど奥さんは知らない。子どもはどういうふうに育てられ、幸せになっているのかも知らない。そうすると、生活費がちゃんとないといけないと思うんです。ぼく自身も水俣の仕事だけでは干上がっちゃうから、自分で稼ぐ方法を見つけなきゃいけない。スタッフに仕事は斡旋するけれども、ぼく自身が何のギャランティもしてあげられない。仕事している時は、プロダクションで保障しますけど、仕事しなくなった時から、みんなそれぞれに自活せよですからね、ぼくも含めて。だから、撮影が終われば一応散会するわけです。岩波の友だちを通じて、仕事を斡旋したりしますが、これはという時にはもういっぺん結集してくれという形で。だから、住むわけにいかないんです。漁ができるかといったら漁なんかできないし。
 それと、水俣の現地で運動している人が一番偉いというふうに思っているところがあるんです。本当は小説書きたかった男や映画だって嫌いじゃない男たちがともかく運動に埋没している。運動の成果が上がったら何の記名性もないし、何の職業的な蓄積もない。その人たちの努力があったわけでしょう。だからそっちのほうでお手伝いできるならあれだけど、やっぱり何のかんので食うことは大変なんです。どっかできしむわけですね。ぼくは、映画を撮っているうえに、さらにそういうことでその人たちに負担をかけたりなんかするのはまっぴらだというところがあるから、撮り終わったらさっさと帰る。個人として行きたい時には自費で行く。自分で金になる仕事をして、金つくって行く。
 不知火海調査団というのがありまして、運転できる人が要るものだから、ぼくも運転手として立候補してそれで往復と宿代を出してもらって、その機会に人と接触とって間をつないでおくといったことはしてますけれども。基本的には自費参加という原則を守っていく。全集団、土本組かなんかで背負っているなんて空恐ろしくて、とてもじゃないけど、考えただけでだめです、ぼく。胃潰癌か何かになりますね。

ー最後に土本さんの中での二十五年の時間というのはどういう時間でしょう。

土本 水俣以外の映画もずいぶんやらしてもらっているなという感じのほうが多いですね。それと、十年前までは、この人たちが救済され、医療とか生活とかが保障されなかったら合わせる顔がないという感じがありました。ぼくらが映画で事実を暴露し、見せていき、世論に多少でも参考にしてもらえることがあればなと思うけれども、結局、この十年、救済は暗くなる一方でしょう。だから、「ぼく、付き合うからね」という感じしかなくて、困った時は話にのれるかのれないかは別として、みんなで相談するような話し相手にはなり続けるよということでいく。そんな中で、動きを見ていますと、水俣大学の話とかが出て、一サイクル変わったという感じがする。新しい水俣の声が見えてきたころに、またそういった輝きとして撮ろう。それが水俣にかかわって、-義務的にじゃなくて、やりたいことだというふうに思うんです。もう運動だから金をカンパしろというふうにはいかない。映画として面白くて採算がとれるというところでしか仕事はできない。そしてその条件は今ないんですよ。一時期、カンパでやろうかというようなことも製作サイドにはあったようですけど、それはやっぱりできないことです。ぼくらでちゃんと循環できるだけの経済性を持ってやらなきゃいけないというので、今度の『水俣病-その30年』というのは、いつまでも前作『水俣病-その20年』じゃなかろうというので、去年三十年になったものですから、少なくともデータを訂正したやつが欲しい。患者数が三倍にもなっているのにというようなことで。教育現場からのもとめはあるもんですから。これは安くできますしね。前の『水俣病ーその20年』という短編が、百二、三十本いってるもんですから、その半分いけば採算点にいきますから、そういうふうに目標を立てて、それで少し楽になったら、また撮りたいと思うんですけど。

ー『水俣病ーその3 0年』を見ると、今後この人たちを中心にもう一本長編が撮れそうだという気配がわれわれにも感じられますね。

土本 若い人の個人的なすごい動きを撮ってるんです。ですけど、その人のことを撮り始めたら四十分に収まらないし、その人も波があるわけですね。半年前にえらいジャンプした。つまり水俣病の申請をしながら、申請者として闘ってきたんですけれども、あんまり裁判だとか代理戦争ばっかりでチッソは裁判の陰にかくれているし、国や県がいろんな制度をつくっちゃったものですから、一家一族ほぼ全滅の水俣病被害者のひとり、本人も申請を八年間やってもうそろそろ順番になってくるはずなのに、申請をとり下げ、医療手帳も県当局に叩き返してきた人なんです。叩き返してから、諄々と、県の公害部長らにあなた方はなさけないという話をする。おれはあなた方に勝った、身体はぐさぐさだけど勝ってる、おれはこんなもの要らないから返すっていうシーンがあるんです。それを全部とってあるんです。申請をやめるというのは水俣では脱藩に思われますが、ぼくは権力の認定する水俣病患者のあり方をやめるということで、彼が自分に自分自身の水俣病を取り返したというふうに思うものだから、それにはもうちょっとちゃんと撮らないといけないと思って、ごっそりとってあるんです。いま、三十三ぐらいでしょう。親が死ぬのを六つの時に見て、だいたいその頃から水俣病にかかっています。あの人はすごい人になりますよ。楽しみにしているんです。
 (二月三日、新宿中村屋にて)