水俣30年の闘い……そしてこれから(講演録)  講演 『水俣はそんなに遠くない-甘夏・くらし・アジア-』 6月 「水俣病30年の集い」記録集の会 <1987年(昭62)>
 水俣30年の闘い……そしてこれから(講演録)  講演 「水俣はそんなに遠くない-甘夏・くらし・アジア-」 6月 「水俣病30年の集い」記録集の会

 今日の映画を2本ご覧になりまして『水俣病・その20年』と『水俣病・その30年』が、どうしてこんなに映画のスタイルも雰囲気も違うんだろうというふうにお感じになった方も多いと思います。実際に映画の作り方が大きく違っております。『水俣病・その20年』というのは、今から11年前に作りました。そのフイルムを持ちまして不知火海一帯の水俣病患者のいるような漁村を歩いたのが、ちょうど10年前、1977年でした。その当時の私の考えとしては、水俣病の症候を確実に知らせていけば、水俣病の認定申請をする人がもっと出てくる。水俣病の患者があちこちに出れば、困難があっても認定され、やはり救済につながるきっかけができるのではないか。水俣病の解決になんらかの形で弾みができるのではないかと思って作りました。
 しかし今度の映画はある覚悟を持ってつくったんですが、水俣病の患者さんの今直面している負け戦を記録するほかありませんでした。『20年』を作りましてから今回の『30年』までの10年間は、残念ながら確実に患者の運動は負けています。そして、彼ら=チッソ・県・国の意図は着実に進んでいるといえると思います。
 患者さんの活動は、かつてのようにチッソや国に対して直接に物を申す、つまり第三者を介してや、法廷での争いでなく、チッソに行って座り込むとか、あるいは、環境庁に押しかけて直接交渉するとか、環境庁の長官を水俣に呼んできて水俣病患者やその家族を見せるとか、こういうことで患者が迫っていくということが、その後の10年間ではできなくなりました。

 勝ち取った補償協定

 患者が勝ったと言える流れは、1969年に提訴された最初の水俣病の裁判でございました。その裁判は、勝ったということを100%信じられなかった水俣病の患者さんたち、それはもうすでに家族を亡くし、あるいは自分が病んでいる人たちいわゆる石牟礼さんが『苦海浄土』に書きました背景であるところの人たちが裁判をうちました。その時には、水俣病のあまりのひどさに我々は馳せ参じたし、学者や表現者も、写真家もお芝居をやる人もみんな馳せ参じて、あの実意を記録し表現いたしました。
 もとよりマスコミ-テレビも新聞も続々ととり上げました。そういうことを通して水俣の問題は全国的な問題となり、患者さんもその中で自分の事として一生懸命闘いました。そして判決の結果、チッソが明らかに断罪されましたが、判決の具体的な中身というのは、一時金の慰謝料だけでした。肝心な医療費の問題とか、生活の困窮に対する補償はどうするのかということなどはすべて白紙でした。そこで患者は、裁判の結果として得た一時金だけで一生の生活はどのようになるのだろうか、自分はあと何年生きられるだろうかという思いが駆けめぐったわけです。とくに焦点は胎児性の子ども、当時まだ20歳前後でしたから、一生生きていくにはどうしたらよいか、そうしたことから、裁判が終ったその翌日からチッソに対してものすごい激しい交渉をしつづけ、かって日本に登場しなかったようなチッソと患者との間の『補償協定書』を勝ちとりました。これは判決に先立つこと1年半に及ぶいわゆる新認定患者たちの「自主交渉」の闘いと結びつき、画面にも再々登場してきた川本輝夫さんなど戦闘的な患者さんを先頭に支援する人たちの大きな闘いによって獲得されたものです。
 その補償の体系というのは世界に類を見ないほどすばらしい内容をもっていたんです。それは、チッソも患者とともに水俣病の原因を明らかにし、潜在している患者を発掘すること。さらに、工場の中のあらゆる公害を引き起こすいろいろなことに対する不安を解消するため関係書類を提示することなどを前文にうたっています。なおかつ、重症で介助を要する人、動けない人、働けない人、とくに胎児性の子どもたち、そのような人に対しては、いわゆる生活年金といいますか、終身特別調製手当という名の年金の形で、月々の生活費を出す。いちばん軽いと思われる人に対しても月2万円の年金が補給されました。それに加えて医療費はすべてチッソが負担するということ、もう1つはチッソに3億円を積んでもらい、その利子、たぶん5%くらいだと思われますが、その利子によって特別に介助が必要な方々のいろんな手当や、あるいは通院費に当てるためのプール資金にすることが定められました。これは大変に画期的な内容といえまして、これ以降、水俣病だけでなくいろんな公害闘争の場で、根本的な一生の問題を補償していく上での考え方の最高の基準になったわけです。

 認定制度??

 今ふり返ってみると、ここにも大きな問題点がありました。それは、この当事者がチッソと患者という民事の契約なんです。国や県が直接にその協定を守らせるしくみにはなっておりません。そのとき立ちあったのは当時の環境庁長官の三木武夫さんと熊木県知事の沢田一精さんでしたが、「私人」の立場で立会人の印を押しただけです。ですから加害企業であるチッソが倒産しチッソの法人格がなくなってしまえば、契約もなくなってしまうわけです。環境庁や、熊本県など国や県がチッソの共同責任者として補償することになっていればチッソが払えないときは国・県が払うということになるのですが、そこは周到に逃げきりました。チッソに払う能力がなければ協定書の補償もなくなるという非常に不安定で、またチッソが一方的にこの事を脅しに使えるような、あるいは計略に使えるような中身を含んだ契約だったわけです。このことをテコにしてチッソは倒産を叫び、そして国・県は、チッソが倒産したら矛盾が自分にくるもんですからチッソを助けて、いろんな事をするわけです。
 例えばチッソは、さんざん倒産するという不安感を皆の頭にたたきこんだ上で企業としての救済をしてもらうようになり、現在、県債の発行は計400億円を越えています。最初裁判の時29世帯に対する一時金の総額が、確か9億円あまりだと思いますが、現在チッソが国から融資してもらった金額は、ヘドロ処理の費用を加えると600億円を越えています。新日窒・第一組合の委員長の言い方によれば、「チッソは水俣病があるからこそ生きていられる。普通の企業の採算を考えるならば、10数社に及ぶ子会社も作ったことだし、チッソKK本体は、もうとっくに倒産させてもよいのだ」と。企業の論理としては、倒産いたしました、もう水俣病事件に責任を負えませんとも言えるわけです。しかし現実にまだ水俣病事件は終っていないということは社会通念だし、そのような中ではチッソも容易に水俣を撤退するわけにはいかない-というところです。
 現在、認定患者は熊本県だけでも1800人になったわけですが、患者をどういう基準で認めるかということについては行政上の医療機関つまり認定審査委員会におあづけにしてチッソは知らん顔をしています。この認定制度は1959年当時にチッソの非常に強い要請によって作られ、今日に続いています。
 一方、国・県の姿勢というのは、環境庁の通達でも明らかなように、水俣病患者の認定の段階で、その関門を狭くしようとしています。水俣病をどんどん認めようとした一時期には認定した症度の人に対しても現在では何年も待たせた上で、審査会はその9割以上を棄却処分にする。「医学的に見てわからないから」という理由で保留にした時期もあったんですが、現在の審査会では保掛にすることすら「解決をひきのばすおそれあり」として棄却処分にしています。かつての審査で保留にされた者でいちばん長い人は10数年保留にされたままになっています。その間に死んでいった人は何百人にも及んでいます。
 審査会なるものは、表向き水俣病についていちばん経験の深い医学医事関係者たちで構成されていることになっているんですが、その医学者たちは逆に言うと、水俣病の社会的影響というものを医学の判断の中に加味して考えようとする、つまり行政的な圧力を充分に知りぬいてそれに迎合している医学者たちなんです。まったく学問的な意味から水俣病つまり水銀の影響を判断するのでなく、この程度なら黙っていてくれと暗に沈黙を強いるような医学者たちなのです。
 地元にはたくさんの開業医がいます。水俣だけで様々な病院は50いくつあり、この中には民主的な医療機関の団体が作った病院もあります。そういった所だけでなく、水俣病の経験を積んだ地元のとくに若手のお医者さんたちは、「この患者は水俣病と思われる」と診断書に書きますけれども、その診断書は、審査会ではいっさい参考にしてもらえません。それに、この映画でも出てきましたが、家族に水俣病の患者がいて、日常の食生活の中でまったく同じ物を食べたからといっても、環境庁で決めた一定の症状の組み合わせが無ければ水俣病でない、検診のデータによれば水俣病でないという形で切られている。その検診そのものが患者の訴えを聞かない信じないといったものです。

 見苦しか水俣病ニセ患者発言

 さらに意識操作によるチェックがあります。前からありますように水俣・不知火海一帯被害者たちは、自分自身で水俣病の患者だということをなかなか言えないわけです。これにはその人たちのもつ水俣病像の先入観もあります。
 急性激症型が水俣病なのだと頭に焼き付いています。たしかに急性激症の患者たちは犬のように吠えまくり、身体を震わせ人が押えても暴れました。だれもが言葉を失い、視力を失って倒れていったー急性激症の時期には、みんながこの奇病に恐れ、おののいたわけです。そういうふうに自分がならなくてよかったと思ってきたのに、しだいに身体が言うことをきかなくなる、船に乗っても安定がとれないとか、遠くの山が見えないとか、人の言うのが聞き取れないとか、味がわからなくなるとか、細かい手の動きがかなわなくなるとかという形で慢性症状が出てきます。こういう症状が出た時にやはり、まず”見苦しい”と思ってしまうわけです。ですから、そうした、「見苦しい、恥ずかしい水俣病だけにはなりたくない」という気持が第一なのです。
 さらにもうひとつ、遺伝病だとする誤解が厳然として今もぬき難い。原爆被爆者の時もありましたように、”胎児性”という言葉の持つイメージが遺伝性と結び付きがちです。胎内被爆だったり胎内中毒であるのですが・・・。だから自分の息子に嫁をもらう時でも、娘を嫁にやる際にも、水俣病ということを隠しておきたい。患者自身が、自ら認定患者であることを隠していく。水俣病多発集落でも、本当は水俣病と自覚しながらあえて申請や検診に背をむけ、”水俣病ではない”と自分に言い聞かせて歯をくいしばってきた人たちがいます。
 しかし裁判の結果、補償金が出るようなシステムになると、今度は申請しなかった人たちが心やすからざる心境になり、隣の人つまり申請した隣人をいやしめる、落としめる、軽蔑するようになる。その根拠はただひとつ。「自分も体がおかしいけれども自分は言わなかった、申請してこなかった。それなのにあんたらは今になって申請の認定のという。見苦しか!」こうしたひとびとの気持につけこんで、水俣病を早く始末しようとする自民党すじの議員さんが、いろんな意識操作をする。
 その中の際たるものが「ニセ患者発言」です。熊本県議会の自民党県議のしくんだ「ニセ患者キャンペーン」に抗議した患者さんが暴力事犯として逮捕されて有罪となり、現在最高裁で争っています。この「ニセ患者発言」というのが水俣病多発地帝にコンプレックスとしてるいるいとあったために、このスキャンダラスなキャンペーンはまたたく間に市民の間に浸透してゆき、ニセ患者が存在するんだという認識が表流に浮び出て事実のようにかたまりだし、あとでいくら訂正してもそれが残るんです。スキャンダラスな形で残ってしまうのです。いわば慢性的症状とは慢性的なるがゆえにただちに絶命するわけではない。生きていかなければなりません。その被害者たちが生きている生活空間の中に、もっともねじくれた偏見や差別が30年たったいまの水俣の中につくり出され、”水俣病つぶし”に使われている状況なのです。
 この間、その暴力的な世論操作や、救済の手をうつべき行政の怠慢に抵抗し闘うには、法の手続きにより裁判所に訴えるしか方法がない、と思わされてきた10年なんです。

 勝訴のゆくえ

 審査や認定の遅れを問う裁判、棄却されたことは納得がいかないという棄却取消を求める裁判、水俣病かどうか行政でなくあらためて裁判所で裁いてほしいという裁判、これは勝つという意味では全部患者側が勝っております。水俣病を主訴とする裁判は100%に近く勝訴です。
 ただ、負けた裁判は2つあります。1つは、あのヘドロ埋立の執行停止の仮処分を求めた裁判、これは完ぺきに負けました。ヘドロ埋立は法的に確定し、工事は完成に近付いています。もう1つは、先ほどの、「ニセ患者発言」に対して抗議した患者の闘い-緒方正人さん、坂太登さん、それに支援者の二人が暴力罪で起訴された裁判。これは下級審から患者・支援者側が有罪となり、現在最高裁で争われています。裁判に勝ったということになりますと、新聞を見てもニュースを聞いても我々をうれしくさせますし、みなさんも勝ったということで記憶にとどめられると思います。熊本では判決がありますと、前日から新聞やテレビではトップで記事を扱います。勝訴となれば、一件落着のように錯覚するほど派手に報じられます。ところが、国・県・チッソはきまって上告・控訴します。勝訴はつかの間のよろこびです。そして、この時のニュース量はまったく少ないものです。記者会見で発表された事実の報道だけで、控訴や上告の意図、それによって患者がどう苦しむであろうかということについてはあまり報道されないのです。
 「なぜ、控訴するのか」ここに患者の苦しみと、挫折と、あきらめの原因があるわけです。だから私は勝ったという記事の書きっ放しはある面では有害だと思います。ようやく待ちに待って迎えた判決も次の控訴、上告と場を移します。そこでは国・県・チッソの代理人である弁護士と、こちらの弁護士が闘い、それを裁判長が裁いているだけです。だから、傍聴に行ってもすこしも心が晴れません。
 患者は、加害者チッソの顔を一度も見ることもなく、法廷の場で弁護士と裁判長の顔を見てるだけで、そのやりとりで自分の健康や運命、被害、救済が論じられるのを傍聴するだけです。旧くからのムラのしきたりの中で、争いごとはサシで話しあうということで解決してきた水俣の漁民にとっては、裁判制度なるものの中での闘いは、拷問ですらあったと思います。

 みえない闘いの苦しさ

 さてこの10年ものあいだ、申請者のリーダーで、申請協議会の会長をしていた青年がおります。彼は「俺は、裁判で負けたけれども、裁判長が水俣病事件なるものをわかってくれれば、11年に渡る裁判に費やした・時間は無駄ではなかった」と、この映画の中でしゃべっています。
 その青年が一昨年の暮から狂いはじめました。東京の私のところに夜中に電話をかけてきて「俺は、いま身体に電波(テレパシー)がきている。オヤジが枕辺に立って『海を見よ魚が寄っておる。山を見よ鳥がきておる』そういうふうに告げている。それは本当なんだ。だから土本さんすぐ来い、自然のよみがえりが見えるから」というのです。
 責任あるリーダーで、仲間の世話に明け暮れた10年のすべてをこわすように、自分をめぐる対人関係を洗い出しはじめていました。そして何より「チッソが見えない闘い」に封じこまれたことを呪うのです。タテマエの運動論は壊れていきます。私は彼が必死で求めて狂っていくのはなぜなのかと思いました。精神のすりへり方はひどいものです。彼は周りの人の手で精神科に連れていかれました。いくたびもの”乱心”のピークをこえて彼は冷静にむかうとともに、自分にとっての”水俣病事件”とは何かをつきつめる中で、申請協の会長をやめると宣言し、自分の路線を変えていきました。彼は、父親が急性激症で狂い死しており甥や姪には-小崎達純君とか緒方ひとみさんとか胎児性の人たちを持っています。彼も結婚したんですが、長女がたぶん水銀の影響を受けているといったかんじの家庭なんです。その彼が、もう申請を取り下げると言い出したんです。申請者でなくなれば当然、申請協のメンバーでもなくなり、会長でもありえません。
 彼は言いました。「最近の患者は認定されるとつい、『ありがとう』と言ったりする。水俣病は不治の病だから、水俣病ではないと言われたほうが本当はうれしいはずなのに、水俣病であると言われて『ありがとう』と言うのはやはり補償金を意識しているからではないか。その金をありがたがるところだけを見て、チッソや県は”金がほしいニセ患者”と誹ぼうする。その発言に対して、自分もこれまで10年あまり裁判で闘ってきている。しかし依然としてチッソや県会議員たちは、金がほしいから徒党を組んで申請しているとしか見ようとしない。そんなふうに彼らに見られ、汚されるのは嫌だ。俺はそもそもチッソと喧嘩をするつもり、オヤジの仇をとろうと思って申請者になったんだ。息子として親のうらみをはらしたかった!それなのに、チッソでも環境庁でも、鉄柵でさえぎられて会えない。ただ1つ許された裁判は、代理者=弁護士の闘いで、自分は何もすることはできない。抗議にいってすこしぐらいは手を挙げたが自分の一家が殺されたことを思えば、がまんに我慢を重ねてきたのだ。
 ちょっとしたモミアイぐらいで暴行罪で訴えられる。チッソ・国・県の役人たちは、俺たちのことを金をとるための大いばりの”犠牲者・ふるまい”ぐらいに思っているに違いない。彼らは、俺たちの前では低姿勢で物を言ったりするが、内心は、人間と思っていない。もっとも軽蔑すべき漁民であり、金ほしさに色めきだっている怠け者であり、いいかげんな人間であると見ているはずだ。そう考えないとチッソ、県の態度のおかしさは解らない、だから、自分は全部捨てる。国に水俣病患者であると認めてもらえなくともいい、自分で自分が水俣病と”認定”すればいい」というのです。

 毛髪水銀168ppm

 割れるような頭痛や不意におそうけいれんなどの症状から、原田正純先生などは間違いなく水俣病だといわれる。なによりその一家ひっくるめてに水銀汚染があったのはたしかです。その彼がオヤジさんが死んで25~6年たった去年ふっと思い付いて県の公害課に電話するわけです。オヤジが死んだ6才の時にたしか家族全員の毛髪水銀を調べたはずだ、その分析結果のデータがあるなら知らせろと要求したんです。
 何回かの電話のあと、ようやく公害課から、採取した年月日(1959年)と、緒方一族の関係者の毛髪水銀の数値のコピーを送ってきました。それによると、彼の水銀値は168ppmでした。当時でも50ppm以上あったら明らかに水俣病の発症値といわれています。今では25ppmでも水俣病と認められた人が沢山いるわけですから、彼が6才で168ppmというのは異常です。しかも彼の従兄弟も210ppmでした。そこで彼は、一族の系図を書いて自分たちの家族がどれだけ水俣病にやられているかの一覧を作りました。すると、大変多い兄弟なんですが、その中で保留が2人、あとは全部認定され、その保留の1人が彼であったわけです。このデータを手に入れて確信を持って自分で自分を水俣病と認定するわけです。
 ここまで確かめた上で彼は、申請手帳をつき返しにいくんです。誰にもいわずにただ一人で県庁に行ったのです。むろん新聞記者にも予告しません。つきそいと証言者として私は撮影しました。その事は次の映画で出したいと思いますが・・・。彼は知事に会いたいと言うんですが、会えなくて、県の公害部長に会うんです。そして手帳を返して、「10年も保留にしているが、本当にこれからなおも調べないとわからないほど水俣病と無縁なのか、自分はこの一族の汚染図と25年前の毛髪水銀のデータがありながらなお汚染されたという事実のあるなしすら言えないのか?」と聞いていくわけです。
 が、つきつめていくと、公害部の担当官が、「それ(汚染の事実)は、あるはずです」とポロッと言っちゃうんです。それを聞いて、彼は眼をキラキラ光らせながら、ある哀れみをもって、おだやかな笑みすら浮べて言うのです。「やっと言ったのか」と。つまり(申請一認定一補償金)という流れを自分の手で断ち切ったら、つまり手帳を返したら、初めてそのひとことを言うわけです。この発言が公害部の公けのものであれば、すなわち認定と同じです。水俣病患者としての医療費と年金が手に入るはずです。その流れを全部捨てたあとで、その言葉を開くわけです。それで、自分はこれからは、自分流のやり方でチッソを問い詰めていく。チッソの犯した事件を問い詰めていくと、宣言するのです。

 人間としての問いかけ・・・

 その闘いをこれから緒方正人個人がどう取りくむのか、まだわかっていませんが、県公害部に十年のからみの最後の言葉を言ったのです。考えてみると、申請をとり下げたことで組織的には”ただの人”にこなります。これまで一緒にやってきた仲間からは残念がられ、ある人たちからは、「お前の意図にかかわらず、お前がやめたことでチッソ・国・県は、大喜びをしているはずだ。お前のやったことは”脱藩”で、いわば裏切りに等しいことだ」と問い詰められることにもなるわけです。しかし、今の彼にはそれに答えうるだけの展望はありません。ただ、いったん今までの流れを切って、今後の生き方をさがしている最中なのです。
 彼は確信を持って、水俣病の汚染が自分にあると自身を持った時から、残る余生をチッソとのかかわりの中に作っていこうと考えたと思うんです。しかしそれはチッソをたたきのめすということではないらしいんです。県の公害部に行ってからまもなく彼はチッソの正門に行って、「問いかけの書」というのを会社側に渡したんですが、その「問いかけの書」には、もう自分はお前達にあきあきした。ただ、単純に2つのことについて返事をしてほしい。1つは、「自分の工場から毒水を流し、魚に毒を入れ、我々の口に毒を入れた、その事実を認めるかどうか」。つまり、発病という言葉を使わず、毒を入れた責任を認めるのかどうかと言っていっているんです。
 水俣病認定すなわち補償金というくさりの論理をとっぱずして、毒物を私らに摂りこませたこと、その事実を認めるか否か-そんな平明なことを問うたのです。「チッソのバックに国・県がおり、チッソは国・県を利用し、国・県はチッソを助けて共犯関係であったことを白状してほしい」というものです。つまり「もう隠そうとあがくな」という気特が”白状”という言葉になっているのでしょう。「この2つのことを認め、公表できたら、自分はいっさいあなた方を責めない、あなた方を心から許すだろう。この問いかけの主旨を全工場の一人一人に知らせてほしい。チッソ社員としてではなく人間としてあなた方を見たい。自分もまた、申請者とか患者であるとかはやめた。緒方正人という一個の人間である・・・」ということを朗読するわけです。一ケ月ほどのち、チッソ社長から「問いかけの書」に返事が文書できました。その内容は「チッソはいろいろ迷惑をかけたが、今後は公害を出さないようにやっていくから、どうかかんべんしてほしい」というニュアンスのもので、2つの問いについての返事になっておりませんでした。こうした彼の行動は何であったかというと、それは不知火海の人々にかわって彼が、どこかで一切の権威なるものにタンカを切ってみたかったのではないかと思えるのです。
 同じ境遇の申請患者のひとりが「この10年間患者たちの気特は畏縮せざるを得なかった。もともとわが水俣病を認めてほしいというのが本心なのに金がほしさのニセと思われ、蔑まれ、”代理戦争”でしかない法廷でウロウロしてきた悔しさから思えば、正人よ、よく言った」と述べたことに通じると思います。
 1つの負け戦のドン底において、こういう事件が起き、こういう人が登場したということに、私はある種の”水俣の30年”を思います。今後の私の映がの次回作は、彼の登場によってどうなっていくのか。それは、もう一度この辺境に生きる人間の生命の問い直しということに焦点を向けることになる気がします。緒方正人の永久運動のような「問いかけ」はチッソを精神的・思想的には圧倒していくでしょうが、救済とか補償問題の解決には、即時的には役立たないと思います。しかし彼のことを理解していく人はこれからも増えるにちがいないと見ています。しかし一方で、廃疾の身を補償金による救済に託する人たちも厳然といるのです。
 
 不知火海の人と共に

 ところで、今水俣では、大学を作る運動や村おこしの運動、不知火海をきれいにしようとする運動、あるいは、石鹸を作って不知火海の合成洗剤をなくしていこうとする運動など、いろんな運動や動きが出ていますが、これは緒方正人の問いかけにどこかで交わるものだろうと思います。しかしながら、「もうこれ以上金を払わなくなればいい。一人でも反抗者がいなくなれば、つまり患者が棄却によって黙り込む日がくれば水俣病事件は終る」と考えるチッソや国・県の対応があるかぎり、どこかで緒方正人の意向はカラ振りに終わってしまうかもしれない。しかし、それをカラ振りにさせないことが、水俣病の闘いにかかわった者の仕事だろうというふうに考えるべきかもしれません。
 昨年、水俣にアジアの公害発生地点の人が来た時、マレーシアの女性運動家は集った人々にこう尋ねました。「水俣病は30年たちました。今、水俣病被害者はこう訴えています・・・そして10年たち、水俣病40周年に、またあなたたちは同じ訴えをなさるのでしょうか」と。このような訴え方とは、たとえば「チッソ、国・県は我々を無視し、切り捨て策をつづけているので我々は闘っているが、現状は困難である。しかし水俣病は終わっていない。まだ闊いつづけます」といったような言葉を開くことになるのか、と問われた気がしました。「水俣病その40年たなっても50年になっても依然として被害論だけを訴えつづけるのでありましょうか」と。マレーシアの女性はそこまで結論的なことは言いませんでしたが、この問いかけはまさに私にはグサッときたわけです。
 彼らは、緒方正人の考えを聞きまして非常に興味をもちました。つまりそれは、アジアの人たちは、金で解決されるような問題とはもともと考えていない人、金で解決しようと言われても、そういう事を信じられない歴史をもっている人たちだと思うんです。彼らは緒方正人が、自分自身をどういうふうにこの世に生かしめるのか、つまり、俺はこの地で生き、他にはいきたくない、この地でこの身体で生きるにはどうしたらよいか、その答を求めるということに本質的に共感をもっているのです。それは中央や国家に向いた目、県当局に向いた目でもない。つまりそのまなざしは不知火海に生きる人々に向けられているわけです。つまり水俣・不知火海の人々と、どのように”共に生くべきか”なのです。誇り高い被害者としての生き方、被害者としての姿勢をもう一度たて直す以外、これからはまっとうに闘っていけないのではないかと問うているわけです。

 第二世代 歴史の中での闘い

 確かに30年は我々の眼前に輝きをもって現われ、そして消長を見せてきた。その30年に多くの素晴らしい人たちが死んでいった。その中で生き残った人たちがどのように生きるかと。それは見方を変えれば、この30年間、加害者として真逆の側からの事を考えてきたであろうチッソや国・県に水俣病事件をどう意味させ、どう責任をとらせるかの問題でもあります。体制や企業に属していて水俣病事件とかかわりつづけながら、ついにひと言の意見も自己批判も述べずに、ただ風化をまつ人がいます。緒方正人はそこを衝いています。彼だけでなくほとんどの水俣病患者は、いままでの闘いの歴史の中で充分にそのことを知っています。この人たちにも魂があったとしても、その人たちは絶対に言葉にできないで、自分たち被害者に対峙しつづけるだろうと悲しみをこめて予想しているのです。そのことが水俣病の悲劇性なのです。
 今希望を託せるとしたらいわゆる第二世代です。水俣の中で大人たちが本当に苦しんできた時に赤ん坊や少年だったりして、そこから大人の世界を見てきた人たちがこの30年、成人し、そして子どもを持ち、妻を持ち、水俣の地でこれからも水俣人として生きていこうとする時、たとえば水俣大学の事に心が燃えたり、水俣の将来、不知火海の復権など、あらゆることについて、何か考えようとしている。大学間題に川本輝夫の息子も、彼ら患者を差別しぬいた保守系市会議員の息子も手をつないで立ち働いています。
 私には水俣病事件がいまや30年のうねりで見られるようになりました。戦後さまざまな運動がありましたが、30年の物差しはありませんでした。運動の中ではある種の考え方が、絶対正しいと思ったところが、それがのちに間違いだと言われたり、狂っていると言われたり、真逆になったり、いろんな価値の評価軸の変遷がありました。しかし変えることが出来ないのが水俣病事件です。どこまでいってもこの事件の被害性と加害性をひっくり返すことは出来ません。
 最後に一つだけ付け加えさせて下さい。水俣病事件だけでなく、日本にはいろんな公害事件が戦前、戦後を通じ、あるいは明治時代にもありました。けれども水俣ほど万巻の書が残されたことはありません。写真、フイルムにしても本当にたくさんのものが作られました。それは水俣の受難の酷烈さが、やはり人々をしてそうさせたんだと思っています。これだけのものがありながら学びの場、知の広場が出来ないはずがない、そういった意味で水俣は事件が解決したらホッとして終わるのではなく、事件の歴史の中での立ち上り方、つながり方、人間の過ごし方など、これからいろいろな問題を考える上で、例えば反原発にせよ、あらゆる間題を考える上でやはり一番先駆的な物差しになっていくと思います。つまり水俣と切り合い、切り結び合ってこれからの私達の生き方を探していきたい。それが被害を受けた人の生きがいになりうるのかどうか、それは簡単には言えませんが、やはりそういったものとして、ひたむきに生きる対象として、水俣を考えつづけていきたいと思っております。