合作映画『眠れる泉<カレーズ>の復活』(仮題)撮影記 下 アフガニスタン人のしたたかな生活を映画に ノート 配信 8月27日脱稿 共同通信社 <1988年(昭63)>
 合作映画『眠れる泉<カレーズ>の復活』(仮題)撮影記 下 アフガニスタン人のしたたかな生活を映画に 配信 8月27日脱稿 共同通信社 

 共同製作の相手方であるアフガン・フィルムの監督フセイン氏は「カブールは五百万都市」と教えてくれた人だ。「それにしてもよくみんな稼いで食っている」と苦笑する。
 朝五時ごろからバザールの路上に近郊農家からろばで運ばれた野菜の卸市ができる。売り手の大人こどもが農民に小分けしてもらった瓜やさくらんぼう、えんどう、にら、玉葱などを単品で扱う。「人類みな商人」と言いたくなるほど人々は物売りに立ち働く。だがバザールでは婦人の仕事姿は見当たらない。イスラム教徒の習慣ははやはり根強い。かと思うと官庁やオフィスの終わり時刻に託児所から赤ん坊を引き取って帰る「新婦人」の群れにあう。学生やOLをはじめ若い女性にチャドル姿はほとんど見られなくなった。原色の鮮やかなスーツがカブール名物の土色の風塵にひときわ際立つ。禁欲的なイランの婦人の黒の装いと対照的だ。「四月革命(一九七八年)で何がいちばん変わったか」という質問に中年の婦人は言下に「チャドルを脱ぎ捨てることができたことです」と答えた。
 女性の花形職場は病院、女医や看護婦は「男性扱い」慣れしていて助かった。私は歯槽膿漏ではれあがった歯茎の処置をしてもらったが、一患者としてこの地で手術をうけるには正直いって怖かった。入れ歯の台になっている歯根の化膿だった。抜くという医師に極力逆らったが言葉が通じない。女性の助手が切開だけでなんとかなると主任の医師に渡り合ってくれた。ここでは男女同権であった。
 おかげではからずも医療制度を実地に知ることになった。まず治療費はただ、初診に保険証もいらない。名前と症状を申しでる。そこからてきぱきと診療がはじまる。さっきまでバザールにでもいたような老人がすーっときて治療台に座る。そして一礼してその足でまた街にかえっていくといった塩梅だ。東ドイツのシーメンス製の治療台、ソ連製の器具、薬品が揃っている。人々はこと医療についてはその恩恵すら意識しないほどなじんでいるようだ。軍事費が総予算の六十%を占めるなかでどこから財源を捻出しているのだろうか。
 その懸念は教育費についてもいえる。就学率をあげるために小学校低学年(五年生まで)の全児童に朝食費として毎日三十アフガニ分の給食または現金(ナン、玄麦製のパンなら五枚買える分)を支給するようになった。かってユネスコによって顕彰された識字運動にみられるように教育にはただならない熱意を示しているお国柄ではあるが。
 「教育へのソ連や社会主義国の兄弟のような援助」と関係者の返事が返ってくる。見たかぎりの大学から孤児院まで施設や器具備品にいたるまで、いわゆる「東側」のシステムや品物が目立った。軍事装備、武器は勿論だが、この国の近代化にはロシア革命直後からのソ連との交流があってのことだ。。イタリアに亡命中のザヒル・シャー元国王が「たとえ元首に復帰してもソ連との友好は保つ」と言及した言葉のうらには、もはや歴史に一部に組み込まれた、この国の対ソ関係のきずなの太さを無視できないからであろう。戦後復興にソ連の経済、文化の援助があたかも「賠賞金」であるかのように保証されている。
 非武装・中立を国是とした新憲法、共和制、イスラムの国教化と相次ぐ国民和解政策に、たとえ反対であろうと、いったん国民の手中にした生活と権利を守り続けるには、これららの援助なしにはできないことを誰しも知っている。アフガン人はリアリストである。
 パキスタンとの国境カイバル峠で取材したが、パキスタンからの生鮮食料品、衣料、機械部品の流れが、アフガンからは韓国製の電気冷蔵庫、ソ連の白黒テレビがらくだの背で十年一日のように巡っていた。戦火の中、シルク・ロードはやはり生きつづけていたのだ。