「水俣病-その30年-」採録シナリオ ブックレット『水俣病-その30年-』 初版4月25日 シグロ 上映時間00:43:00 16ミリ カラー 発表1987-04-25 <1987年(昭62)>
「水俣病-その30年-」採録シナリオ ブックレット「水俣病-その30年-」初版4月25日 初版4月25日 シグロ 上映時間00:43:00 16ミリ カラー 発表1987-04-25

□字幕

 一九八七年 青林舎・シグロ共同作品

プロローグ

 (音楽ひらく)

□とろりとした海面、その奥に打瀬船。

 N「ここ不知火海は漁業ゆたかな内海である」

□硫黄状の廃液の流れる埋立地(八幡残渣プール)。その背景に操業中の白帆(打瀬船)。

 N「今ここは”ミナマタの海”として語られる」

□冬、とり入れまえの甘夏みかんが海の斜面にたわわである。その移動。

 N「沿岸は温州みかんの原産地。いまは甘夏で知られている」

□雪景色の中、ハゼの木に吊された干大根。

 N「水俣特産の寒づけ大根は、ここの四季の彩りから産まれたという」

・その大根のアップ。

□雪にけむるチッソ工場の遠景。

 N「だが、水俣といえば、チッソ会社とそれが惹き起した水俣病でその名を知られることになった」

 (音楽やむ)

1.水俣病発見三十年目のいま=人びとの声

□(空より)ヘドロ処理工事のただ中にあるチッソ工場百間排水口。

 N「いま埋立てられているこの水路からかつて有機水銀は流された。被害者は数万人に及ぶといわれる。-水俣病発見以来三十年、人びとの声を聞いてみよう」

□市民へのインタビュー。

■婦人・百間排水口現場で。(質問・土本)

 「自宅はいま家の建つでしょう。それそこですよ(と指す)」

 ーいまこの工事をごらんになっていてどんなお気持ですか。

 「ハイ、そうですねえ。今はもうよっぽど良かですけど、この川からですねえ(と工場からのドブ川を指し)もう赤や青(色)や……もう毒ばっか流しとったですよ。そうしてもう苦しくなってですね。いっぺん会社にも(抗議に)行ったことがありました。そしたらそんとき、石けんでも配ってですね。正門から帰しよったですが……」

■そのチッソ正門。

 守衛「そうですね。結局まあ、水俣病の関係でお互いにですね……。チッソの従業員も苦労していますんでね。これはもうお互いにほんとに困った問題だと思ってますよね」

■ある婦人店員・駅前の土産物屋

 「やっぱり(この街の人は)みんなお魚を喰べてるし。(体に手を当てながら)ある程度ですね、いろいろ不自由して……。一応、水俣病に申請していなくても、そういう体の弱っている人も居るんですよね。でも結婚の問題とかいろいろあるから水俣病の申請をしない人もいらっしゃるんですよね、いろいろと」

■主婦・工場に隣接する山の手の街。

 「(人から聞いた噂として)なんか”全然関係ないのに、水俣病に認定してもらいたい”ちゅうような……。ナンカ、本当に水俣病で苦しんでいる人が気の毒でですね、そういう人がいるということは。ナンカ、補償金欲しさにそういうことをやっている気がしますね」

□まあたらしいスーパー、病院ビルのめだつ市街地の上空より。

N「”自然も人も病んだ”という。チッソの従業員もこころ痛んでいる。一方市民のなかには ”本当ではない、いわばニセ患者”の存在をほのめかす人もいる。だが、市民のだれにも水俣病は影を落している」

□ふたたびインタビュー。

■帰省したOL・水俣駅構内で。

 「患者さんの(症状の)真似をされたりですね。やっぱり、うーん、それが一番厭ですね」

 ーいやでしょうね。

 「ハイ、やっぱり”水俣から釆てるから”という感じにとられるから。(唇をしめて)うーん」

■若い女性・スーパー寿屋入口にて。

 ー(そうした事は)何回かいわれたことがあるわけ?

 「あります、何回も」

 ーどういう機会に?

 「あの、東京とか横浜とかに出ているし。でやっぱり”水俣(生れ)”って言ったらやっぱり言われます。けども、それはやっぱり過去の事だし、そしてやっぱり(姿勢をのばして)恥かしいことじゃないと思う。(ーどうもありがとう)はい」

2.メインタイトル

□市街につらなる広大なチッソ工場上空へ。

 『水俣病-その30年-』(テーマ音楽)

●御詠歌の導入句が流れる。

 ー水俣病事件物故者にとなえたてまつる追弔御和賛

3.水俣病事件物故者慰霊祭(水俣市文化会館大ホール)

 ーひとのこの世は ながくしてー

 N「一九八六年五月一日・水俣病事件物故者慰霊祭」

□会場に空席がめだつ。壇上の患者団体・支接者団体の代表たちが肩を並べて吟唱する。

 N「これは患者と支援のグループでとり行われた。患者総数(申請者累計)四千人に及ぶ水俣市としては、参加者は少ない。分厚い被害者の層はここに登場しないでいる」

□この三十年、被害者としてチッソと闘った風雪を刻んだ代表者たち(御詠歌つづく)。

 N「十数年前、うらみ怨の黒旗をかかげ、この御詠歌がうたわれた。この患者みずからの運動によって、人びとは水俣病事件を知らされたのである」

4.闘いの足跡

□十数年前、水俣病裁判に立ち上った患者たち、熊本地方裁判所の門をくぐる。

 N「一九六九年、二十九世帯の患者がチッソを裁判所に訴えた。この裁判なしには水俣病の被害の実態は闇から闇に葬り去られたであろう」

□工場正門にむかい、巡礼姿で旅立ちの御詠歌を誦する一団。

 N「受難いらい十数年、患者はチッソに会うことが出来なかった」

□おなじく株主総会にむけての運動の一駒。大阪駅頭を埋めた支援者の群への患者代表のあいさつシーン。

 N「一九七〇年 大阪」

■御詠歌に重なって代表の声。

 「わたくしたちは水俣という貧しい部落の田舎っぺの者たちばかりでございます。初めて皆さま方の温い心にー腹の底から何かが湧いて、どうも貴方がたの一人の顔が千人ほどにもわたくしたちの目には見えてやまないのでございます。私たちは今、青鬼、赤鬼の居るところの土地に着きました」

□チッソ株主総会での対決シーン。

■騒然たるなか、ハンドマイクで叫ぶ水俣病市民会議代表、日吉フミコ。

 「水俣病患者に発言させてほしい!」

■壇上、会社首脳は呆然と事態に向きあっている。

 N「チッソの株主総会で患者は初めて会社の首脳と対面した」

■怒号の渦のなか、患者代表、渡辺栄蔵さん毅然と凝視している。

 総会屋のダミ声「あなた方の言うことを聞いてあげる!機動隊が入ったら駄目、機動隊が入ったら駄目になる!」

■壇上にかけのぼった女性患者、チッソ社長・江頭豊に迫る。社長の顔に薄い笑み。

 浜元フミヨの声「嗤うな。おら、嗤うことには言うとらんぞ!」

 社長「いえ、嗤っとりませんよ」

 フミヨ 「嗤うた、いま嗤うた!」

■二つの位牌をかざして

 フミヨ「両親!親が欲しいこどもだけ。分かるかこれが。親が欲しい。こどもにまた親、その親、こども。年寄りも居ったよ年寄りも。自分が身だけじゃなかったぞ!よう分ったか。出月の浜元じゃ浜元。分るかおるが心、おるが心わかるか!」

5.チッソの足跡

 (音楽おこる)

□戦前のチッソ工場全景写真(日窒事業大観より)。

 N「明治以後、日本の化学工業の最先端を走りつづけたチッソーそれは水俣市民の誇りでもあった」

□当時の主力製品である肥料やベンベルグ絹糸・ヴィスコース糸のカタログ。

 N「化学肥料・化学繊維など」

□令嬢美人をあしらったポスター。硫安肥料や人工調味料から人造宝石、そしてダイナマイトなどのカタログ。

 N「身近かな製品、目新らしい品々。それと併行して日本の軍需産業をにない、朝鮮、中国にまで会社を拡げていった」

□当時流行の先端をいく電話器・扇風機・置時計から鉛筆けずりに至る商品群。

 N「戦前すでにチッソは、いわゆる文化生活の母でもあったのである」

□”原因物質”、器に注がれる水銀。

 N「そのなかで水銀も使われた。チッソの工員にとって見慣れた水銀が四百六十トン、形を変えて(有機水銀となって)海に流された」

 (音楽変調する)

6.人間、生きものの被害の記録

□三十年前、汚染ピーク時の水俣湾・百間港。

 N「水銀はこの排水口から拡がった」

□渚、歩行不能におちいった犬(以下、熊本大学医学部学用記録フィルムより)。

 N「犬も猫も、そして豚もにわとりもつぎつぎに狂い死んだ」

□拾われたカラス。飛ぶことも立つこともできない。

 N「カラスも運動神経が冒された」

□人間の場合。幼児の水俣病、四肢が硬直している。

 N「有機水銀中毒は子供と老人を直撃した」

□その特異な症状群。

■猛烈ないきおいで壁に激突する水俣病ネコ。

 N「このネコの眼は見えていない」

■急性激症患者(浜元惣八)の末期症状。平衡感覚などを失っている。

 N「汚染された魚を喰べ、その毒をとりこみ、脳を冒された」

■家族は最後まで体に手をそえて介護しつづける。

 N「このひとはまだ体力を残したまま、暴れ苦しみながら絶命した」

■一斉検診をまつ胎児性水俣病のこどもたち。

 N「この光景に人びとは遺伝の病気を思った。やがて、母親の喰べた毒がじかに胎内のこどもを冒した事実が分った(注:遺伝説は消えた)。いわゆる胎児性水俣病である」

■生活反応を示さないネコ。さし出されたマウスに関心を示さない。

 N「脳を冒され、ネコとしての本能を失っている」

■激症患者、この女性(坂本キヨ子)は四肢・全身が強直性の屈曲に襲われている。

 N「人間も、ヒトとしての機能を奪いつくされて死んでいった」
 (音楽終る)

7.ふたたび慰霊祭会場

□祭壇に花をささげる人々の先頭に患者とその家族たち。

 N「水俣病その三十年ー急性激症の時代のことは患者家族の記憶のなかにのみ刻まれている。その実態の全貌はこの人たちから聞き出すほかない」

□献花の壇上から少年少女の合唱曲が流れる。

 N「患者多発地帯にある中学校、その一年生の作詞による歌”もう二度とこんなことが起らぬように”」

 ーみつめあって 僕らは生きよう
 なにを追いかけながら僕らは走ろう
 もう、二度とこんなことが起らぬように
 もう、二度とこんな話を聞かされぬようにー

□献花する人びとの想い、その心にふるえながら鳴咽をおさえて歌う女子生徒たち。

 ー声をあわせながら 生きよう
 道をたしかめながら僕らは歩こう
 もう、二度と生きてることを忘れぬように
 もう、二度といまの話を忘れぬように

 N「この生徒たちも、三十年前のあの地獄は知らない」

■こみ上げて声をつまらせる生徒がいる。

8.生活のなかの水俣病

□患者の家の中、医師たちが患者の歩行に眼をこらしている。原田正純医師の指示で歩くが上体が揺らぎまっすぐに歩けない。

 N「急性激症だった患者・尾上光雄さん。いまもひとり歩きはできない」

□一本のペンライトをつかい、視野の狭窄を探る。

 原田「これ見えるね?(とまず瞳の正面に、そして次第に外側に動かす)見えるですね、これは」

 尾上「(二〇〜三〇度光が開くと首を横にふる)わからん」

□原田、かたわらの同僚に指で輪をつくり、視野のトンネル状の狭さ加減を告げる。

 N「水俣病に詳しい医学者・原田正純さんは、水俣病の特徴的な症状を取り出して説明している」

□よだれについてたずねる。即答できない夫に代って

 妻「夢中になってしゃべっとっと……」

 原田「……しゃべっとっと、ユダレ(涎)が出るね」

□指鼻試験。自分の鼻と、相手の指の間を指すテスト。患者の指はまっすぐに対象にむかってうごかない。

原田「(患者の腕時計を指して)外せる、これ。自分で外せますか?」

尾上「(ひどくもつれた声=構音障害)はは外すことは、はずす。はむることははめきらん」

□いったん外した腕時計のバンドの止め金がはめられない。照れ笑いしながら失敗をくり返す。

 N「じっと坐ったままの患者をみて、ひとめで水俣病と識別別できるだろうか」

□感覚障害の例。

■原田、患者の半袖シャツを指して

 原田「これね、ぬいでごらん、これ」

 尾上「(手を横にふり)脱ぎきらん。着っとは着っと」

 原田「あっそう。ちょっとやってみて」

■シャツの襟首をつかもうとくり返すが指先が麻痺してつかめない。

原田「掴めんですね、掴んだかどうかが分らんわけですね」

■いったんつかんだシャツもするりと指先からぬけて悪戦苦闘のていである。

 N「手の痺れ、振えひとつとって見ても、生活や仕事の能力が妨げられていることが分る。だがこんにち、水俣病であるかどうかの認定をくだす医学者たち(水俣病認定審査会の各専門医を指す)は、こうした暮しのなかの健康被害に決して立ち入ろうとはしていない」

9.水俣病の三十年間の患者数の増大と被害地域の拡がりと増え方を示す図形アニメーション

□不知火海の市町村別に人型の変化で示す。

 (注:ページ図) (音楽)

 N「水俣病はその名のとおり、水俣とその周辺の公害と思われていた。一九六八年(昭和四三年)厚生省の認めていた患者は百人あまりー。”水銀の流出は止まった、あとは後遺症しか問題ではない”とする風潮がつよかった」

 N「水俣病裁判によって、水俣病の情報が不知火海全域に伝わりはじめ、申請する患者がふえはじめた」

 N「裁判で負けたのち、チッソは全ての患者に一定の補償を約束した」

 N「しかし患者の数が増えるにつれて、チッソは倒産の危機を叫びだした」

□アニメーションに申請患者数と人型が示される。一九七〇年に百五十五人だったそれは、七三年、水俣病裁判の終った年に一挙に急増、天草をふくめ二千六百五十八人となる(認定患者六百三十一人)。

 N「認定患者が千五百人に達した七八年頃を境に、行政は水俣病に対する扱いを一変する。環境庁は認定の基準を厳しくする。医学者たちは水俣病の訴えをつぎつぎと棄却するー。地元の政治家は”水俣にはニセ患者が多い”と中傷した。ー患者に残された道は、いくつもの裁判を重ねるほかなかった」

■最後の図形ー申請患者は不知火海の離島、対岸天草にまで出現している。

 N「のべ一万五千人にのぼる申請者のうち、七分の一しか認定されていない」
 (音楽やむ)

10.忘れられた離島の人びと(御所浦町の場合)

□空より見る御所浦島。養殖イカダが盛大な漁業の活況を示している。瀬戸の遠景に九州本島がある。
 (音楽おこる)

 N「漁業の島、御所浦町。ここは対岸水俣の騒ぎと無縁の暮しがあった」

□その離島のなかの更に離れ部落にゆくカメラ(空より)同町の牧島・椛の木の集落。

 N「この島に世界で最高の毛髪水銀値(九二〇ppm)をもつ女性のいたことが分つたのは十五年前である(一九七一年に資料発見)。それは水俣の患者よりもはるかに高い値であった。このデータは長く隠されていた」

□その女性(於崎ナスさん)のみすぼらしい土葬の墓

 N「このひとは、何の手当もなく捨ておかれた」

□椛の木集落。カメラ、松崎家の戸口による。路地は子供の遊び場である。土本の声重なる。

 土本「ーちょっとお聞きしたいんですけど松崎さんにですね。九二〇ppmあったということがですね、連絡はあったんですか」(これと以下のシーンは一九七四年に撮影、映画『不知火海』に収録したもの)

□訪問者とこたつをかこんで答えるやもめぐらしの松崎重一さん。

松崎「いえ。そがん時分(昭和三十年代後半のこと)は水俣病という話もなかったんです。で家内が死んだ頃に訪ねらした衆は”あんたが家の奥さんのあがんとは、水銀も多いし、そがんこがんじゃったども、水俣病じゃなかったか?水俣病というあがんと(あのようなもの)は記憶になかったか?”と訊かすばってん、わしとして水俣病はどういうふうな……(首をふり)水俣病患者の人を見たことがなかでしょうが」

□ガランとしたひとりぐらしの室全景。

松崎「(話は末期に及ぶ)また起きっとも坐りもきらんで、(伏せた姿勢でひじをつき)ここがこうむしろについてですね、まあこのくらいが一番起きるとの最後じやったですもんね(すすり上げる)」
 (以上再録フィルム)

□新建立の松崎家の墓。この老人の名が金文字で彫られている。(松崎ナス 松崎重一)

 N「十数年前に、ありのままを語った老人も、死後解剖されて、はじめて水俣病と判明した」

11.離島のいま

□岩本真美さん(胎児性様水俣病申請者)が母の背におぶさって、波止場で日なたぼっこしている(御所浦町・横浦島)。

 土本「脚がこう曲ってのびないのかしらね?」などと母親に聞いている。

 N「同じ島の漁民の娘、岩本真美さん。生まれたときからのいわゆる胎児性水俣病の疑いで申請して十年近くになる」

□娘ざかりにさしかかった少女の笑顔がある。

 土本「(申請についての)まだ返事は?」

 母親(マリ子)「まだ、ない」

 土本「どっちとも(答申が)来ないですか、認定とも棄却とも?」

 母親「(あきらめ顔で)棄却とも何とも、まだ言ってこない」

 土本「もう大分ながいですね。九年に・・・」

 母親「……ぐらいになりますね」

 土本「足掛け九年!」

 母親「はいなります」

□娘の表情があかるい。白い膚、すべすべした手の甲、その指にマニキュアがぬられている。

 (音楽おこる)

土本「今、いくつかな(「十八です」)これ、お手手見せて?このマニキュア、貴女がしてやってんの?(指先に寄るカメラ)綺麗だね」

母親「ホホホ、”してくれ”といわす」

土本「これ、してもらいたいの?お母さんに頼むの?(母親笑い出す)なるほどねえ」

12.その島の患者集会(御所浦町・本郷)

□町の中心、フェリー乗り場の前のま新らしい開発センター。たこつぼごしに人影がみえる。

 N「この島の申請者は千三百人、住民の五人にひとり」

□会場の中、水俣病患者連盟委員長が黒板に(認定制度)と書いている。

 N「患者さんのリーダー・川本輝夫さん」

 川本「(問題は)認定制度ということですたいな。一つの”関所”を通らんばチッソは認定めん仕組みになっとるわけですたいな。正直いって頭が痛いわけです。ところがこれがなかなか認定せんということですなー」

■島の申請者たち、くい入るように聞いている。病む身で足をはこんだ患者、代りに話を聞きにきた家族たちである。

 川本「ーこれはですな、自分がいま言うた如て、水俣病だち思うとってもチッソがまず認めねば何もならんわけたいな。ほいで(更に)国や県が認めんば何もならん。これをどうやって認めさするかちゅうのが大きな鍵たいね。まず残念ながらー」

■すがるように聞く患者のアップ。

 川本「ーあんたがもし(チッソに)行ってですたいな、チッソに『おるば水俣病ち認めろ!』と言うて。(チッソが)『ハイそうですか』ちいうて、チッソがですたいな……そのかわり『銭の一銭もいらんで』ち言えば認めるかも知れんばい」

 川本「ーいずれにしてもそういう病気の起り方、考え方は先ほどいいましたように水俣病は全身病と。水銀が入って肝臓が冒られ、腎臓がやられ、血管がやられたりすっとやっで。当然年くつてくれば出てくる病気でもあることはさっき言った通りです(とつづく)」

 N「この離島で水俣病の現状をつかむ機会は、こうした時しかない」

■黒板に、水俣…(病)と強めて書く川本さん。

 川本「水俣ビョウち言うもんじゃっでみんな恥かしかとですな、見苦しかち思うとですな。ところがですな、実をいうとこれは水俣ビョウというよりも……」と黒板に(傷害事件)と書きながら「ー水俣病は傷害事件なんです!これはわしがまた嘘を言うとじゃなかっばい!」

13.有毒ヘドロ

□水俣湾、クレーン船が土砂を水けむりをあげてほうり込んでいる。

 N「水銀ヘドロの水俣湾の今である」

□回顧フィルム(一九七四年当時)。

■汐の干き切ったヘドロ上で、船から調査している患者とスタッフ。

 N「このヘドロの厚みを計ろうとしたことがある」

■ふなべりから突きさした長い竹竿は数メートル入っても底にとどかない。ひきあげてみると、黒いタール状のヘドロがぴったりついている(「ワァ、くさい」 と患者の声)。

 N「この水銀ヘドロの埋立てに、市民は不安を隠せないでいる。引き汐で露出するこのヘドロの部分が埋立地に代るのだ」

14.いろいろな裁判闘争の今

(イ)「待たせ賃」裁判(認定答申のはなはだしい遅れを問う環境庁、熊本県当局を相手とする行政訴訟の控訴審)。その福岡高裁に集った原告患者たち。会場は昂まりを見せている。

 N「八五年秋(一一月二九日)患者を待たせつづける行政の怠慢を問う裁判の判決が出ようとしている」

 川本さんのアッピールの声「いよいよ待ちに待った今日の判決。必ずや私たちの期待と願いに添うような判決が出されるものと信じています。これを機に、水俣病の問題を水俣・芦北だけでなく、天草の方にも大きく拡げて、闘いの輪、連動の輪を拡げて行かなければならないと思います」

□水俣病患者の全国への流出図、日本地図で示される。

 (音楽おこる)

■第一図、九州地方圏から全国へ。

 N「ここで眼を熊本県から全国への水俣病事件の拡がりに移してみよう」

■七〇年、水俣病はまだ熊本、鹿児島両県にほぼ限定されている。

■いご年を追うごとに関東、関西、北九州への移動が県別に、その人数が濃度で示される。

 N「一九七〇年、大阪万国博に見られる高度成長の時代ー不知火海の漁民たちは仕事を求めて全国に移住、そこで次々に倒れていった」

■最終年度、八六年現在、裁判のおこなわれている地点が示される。

 N「不知火海沿岸からの移住者数万人といわれるなかで、申請した人八百人あまり。現在大阪、京都、東京で裁判がおこなわれている」
 (音楽おわる)

(ロ)チッソ水俣病関西訴訟・県外患者のけっ起まじまる。

■大阪、運河の町。ビル街中之島である。

 N「大阪、一九八二年一〇月」

■関西訴訟の初公判の朝、熊本はじめ各地の患者、支援者に囲まれて立つ原告たち。

 N「大阪に住む四十人の患者が裁判にたった。支援者たちがこれを支えた」

■激励のあいさつをする川本輝夫さん。 

 川本「きょうは第一回の口頭弁論ということで、大きく-訴状を出してから-踏み出す日を迎えたわけです」

■決意を訴え、ともども大阪地裁にむかう原告の顔々。不知火海の漁民の日やけした面影をとどめている。
 
 川本「わたくしども、国・県・チッソを相手に今日から残る力をふりしぼって、全国のわれわれ同様な患者さんとともに、あくまでも、死にもの狂いで徹底的に闘う覚悟でおりますので、どうか今後ともよろしくお願い申しあげます!」
 (音楽おこる)

■画面一転して、彼らの故郷の島のひとつ、鹿児島県の離島、獅子島の上空へ。

 N「この人たちがもし島に残っていたなら、申請・認定の機会はもっと早かったかも知れない。ふるさとのこの島の人びとに自主的な検診の手がさしのべられたのは、彼らが島を出たあとだった」

■原告の申請患者代表・西川末松さん。

 ー(土本)今日はっきりおっしゃいましたけど(保留のまま)十年ですか?

 西川「はい十年です。なあ、そんな風ですよ。片一方の先生(主治医のこと)は認定というか、その……水俣病といわれてな、そして『あんた、まだ(答申が)来んのか、まだ来んのか』と待っとる。こっちの方(認定審査会)は『保留、保留』で放ったらかしにしとる。そんなでしょう。どげんしたら良いですか。なあ、とにかくそれで話にならんのやから!それはそれでまとまった話になれば良かですたい。そんなあんた、勝手なことができますか。なっ。生きた人間じゃから!わたしもにっぽん人じゃから!」

■中之島、大阪地裁旧館のあたりの大俯瞰。

 (ハ)また別の(水俣病第二次訴訟裁判)の場合(いったん棄却された患者が裁判の結果一審・二審とも認定をかちとったもの)。

■新聞報道の記事(怨念晴れない「勝訴」)とある(判決・八五年八月一六日)。

 N「前後して、行政から『水俣病でない』とされたある患者グループ(水俣病被害者の会系)が、法廷の場でその水俣病を認められた」

■新聞写真、(勝訴)の垂れ幕をもち元気にそれを掲げる原告(岩崎岩雄さん)の顔。

■これに対するチッソ首脳たちはゆとりを見せつつ記者会見に足をはこぶ。

■新聞見出し『チッソ、上告断念』とある。

 N「だがこの”勝訴”の中身はうすかつた。チッソの首脳たちはこの判決を受け入れた。慰謝料は半分以下、その上年金や医療費さえもカットされていたからだ」

■記者会見におけるチッソ会社・久我正一副社長に記者その点をつっこむ「医療費と年金の方は?」

 久我「行政認定、行政認定に仮になったとしても、考え方は変りません(注:判決による”認定”が、正規の認定に追認されれば、いわゆる年金・医療費は支給されることになるが、それを前もって拒否した答え方である)」

 記者「支払う気はないと?」

 久我「(肯いて)、ええ、、ええ」

■消沈した原告、岩崎岩雄さん。… 

 ー(土本)これから病院なんかに行く場合の医療費とかそういうもの(支給)は、もうあの判決で打切りですか?

 岩崎「多分そうじゃないかと思っとるです」

 ーじゃその後は(病院に)行っていない?

 岩崎「もう行けんわけです(とうつむく)」

 ー体の状態では、今まで行けてたのが、いまは我慢しているということですか?

 岩崎「はい。そうです(暗然とうつむく)」

15.ふたたび待たせ賃裁判、判決の日の場面

■福岡高裁の玄関から(勝訴)の垂れ幕を手にとび出す支援者、一せいに「ばんざい」「やったぞ」の歓声と柏手。

 N「いわゆる待たせ賃裁判(控訴審)も勝った」

■東京・環境庁にこの判決を認めさせる行動が組まれた。その日の合同庁舎の雰囲気を追う車上移動のカメラ。

 N「判決文は環境庁と県当局の水俣病処理をはっきり過失と断定し、国家としての補償金の支払いを命じていた」

■環境庁正門の鉄柵は閉され、ガードマンに守られながら、職員が面会拒否を告げている。

 川本「なあ、計三回不作為の違法が確認されているんですよ、三回!」

■防護柵ごしに面会を求める原告たち。
 
 「時間を切って合いましょう」「こういうことは人道上まずいことじゃないのか」と事態を理解できない声がでる。

■申請患者代表の宮本巧さん。

 宮本「石本さんもー環境庁長官もね、人の子、人の親で、患者を看る看護婦さんもやった方じゃない? 分らんことはないはずだよ。どうしてこういう頑なな態度で私たちの交渉に合われんー」

川本「石本さんは、俺と同じ看護婦やで。この前も言ったろ(注:彼の前職業は病院看護夫だった)」

■押し問答ともみあいがおこる。雇われたガードマンがスクラムをくんで押しもどす、そのつっぱった足元、乱闘をみこして脱ぎ置かれた制帽。

■『患者を見殺しにするな』と大書された横断幕が辛うじて張られる。環境庁などの職員が玄関のガラスごしに事態のなりゆきに腕をこまねいている。カメラ移動で彼らの表情をとらえる。

■マイクでのアッピールー川本さんの声が官庁街にひびく。役人にも道行く人にも。

 川本「この現実を皆さんはどうお考えでしようか。不作為の違法下で九百五十人も殺されつづけている。(間)暴力ガードマンを頼んで。本末転倒とはこの事ではないでしょうか!」

■ガラス扉のかげの人びとにむけたカメラ。

 N「環境庁は発足当時、”開かれた役所”とみずから述べていた。この姿勢の変化は水俣病申請者の急増したこの十年ほど前からである」

■官庁街のこの一隅に機動隊が配置されている。その全景をとらえる車移動。

 川本「皆さん、あなた方の人間としての良心の一片にもう一度聞いてみて下さい。私が声を嗄らして言うよりも、皆さま方が人間として、父親として、夫として、労働者として何を為すべきか、ぜひ自分の良心に訴えて頂きたいと、私は心から訴える次第です」

■支援者が一斉に眼を注ぐなか、タンカで運ばれる宮本巧さん。二日目である。

 N「日を重ねた門前交渉に、代表の患者は倒れた。病人の運動には常にこの健康の危機がともなうのだ」

■救急車、サイレンを鳴らして去る。

 N「この二日後、環境庁と熊本県は最高裁に上告した」

■銀光りする環境庁の金属表札に残るサイレン。

 N「ー問題解決は更にさき送りされた」

16.また別の、棄却取消訴訟の場合(一九八六年三月二七日)

■熊本県庁玄関前の大きな立て看板『完全勝訴』『控訴取下げまで座り込み決行中』と大書されている。車椅子の原告患者・御手洗鯛右さんがいる。

 N「『自分を水俣病と認めよ』と訴えたもうひとつの裁判ー棄却取消裁判も勝訴した。判決の中身は行政をつよく批判し、反省をうながすもので、裁判の九年間はむくわれたかに思われた」

■県庁内、細川県知事に交渉する原告と発言の口火を切る川本輝夫・患者連盟委員長。
 
 川本「私たちに言わせると電光石火のごとく控訴という措置を取られ、たいへん残念に思っている次第です」

■知事、頬をこわばらせながら

 知事「まあ、たいへん残念な事ではございますが、やむを得ないと、こういう風に思っております」

■重苦しい雰囲気をくぐって宮本申請協会長。

 宮本「知事さんはそんな形で私たちを苦しめて殺そうと思われとっとですか?(うつむいて)残念でなりません」

■原告である御手洗さんはおだやかな眼つきで知事をみつめる。

 御手洗「あれほど控訴してくれるな、控訴しないように頼んだのに残念です。(深い溜息)もう撤回されることはないですか、意思はありませんか?」「いま申し上げた通りで」と知事、一同静止したよう。

17.ある申請患者の追いつめられ方

□御所浦・外平(水俣対岸)あくまで美しい海と船だまり。漁船が一艘近づく。

 N「この離れ島への水俣からの便りは日を追って暗くなるー」

□申請中の福浦利治さん 不自由な足をひきずって、連絡にきたこの島の患者リーダー・荒木俊二さんをむかえる。

 N「ー申請患者への治療費すら打切る方向に県は動きはじめた」(注‥棄却者を大量につくる現在の認定制度の改正を求めて、あえて検診を拒否していた申請者に対し、県当局はこらしめとして既得権である医療費への補助金をカットする方策を打ち出した)

□縁側で話すふたり、ともに口がもつれている。重度の構音障害だがお互いには通じる。
 荒木「去年の福岡(高裁)へ行ったときとすれば、-歩くとの…調子悪かなあ」

 福浦「そうたい。もう日に日に悪くなってきよるもん。困った病気の付いたもんたい」
■福浦さん思いつめた口調で

 福浦「おらぁもう認定なんて、そんなものは望んでおらんばってん、治療なとして呉れらすなら、これはもういっ時なと長生きできると思うばってん」

 荒木「長生きしたっちゃ仕事しきらんば食うとに困るだろうもん?」

 福浦「とこっでん食うとは。町(役場)からもそげん言わすとたいー『おら働き切らんとやがな(それなのに)税金ば取って呉れて困っとばい』ち自分が言えばな『町から出して貰う如て手続きばしろ』て言わっとたい。そげん言わったい!(ー何の手続き?荒木「手続きというのはアレ、結局扶助料やろ?」)はあ、扶助料みたいなやつを貰ってくれと言わす……(ー生活保護?)」

 荒木「生活保護たいな」

■福浦さん憤懣を殺しながら

 福浦「生活保護は何とかして、もう草の根かじってでも貰おうごとはなかった」

□嵐の中、ひときわ澄んだ風景の中の御所浦島。眼下の水俣湾ではヘドロの埋立区画が進行している。

 N「いま水俣病事件は”埋めたてされる時代”なのであろうか」

18.ミナマタ、世界へ

□写真構成。北欧ストックホルムでの小さな反公害の街頭デモ。外国の活動家と患者、浜元二徳、坂本しのぶ娘母が英字ゼッケンを胸に。

 N「水俣病三十年、この間MINAMATA(ミナマタ)の名はKOGAI(公害)ということばとともに世界に知られることになった」

□水俣の写真パネルの屋外展示。そして国際会議の報告者席に坐る坂本しのぶのアップ。
 N「一九七二年、ストックホルムの国連環境会議へ患者たちは民間代表として足をはこんだ」

19.線画。世界の水銀汚染の図

 (音楽)

□世界地図の上に、有機水銀の直接の摂取、被曝による中毒発生が時代を追って次々に点描される。

■はじめに黄色の点があらわれる。
 (図=薬品・農薬としての中毒例)

 N「そもそも有機水銀中毒は一九世紀半ばからヨーロッパ各国の農薬工場内に発生。ついで、第三世界へと拡がった。穀物の種子などに水銀が殺菌剤として使われていたのだ」
■緑色の個所が各地にあらわれる。

 (図=環境への水銀汚染の確認地域)

 N「環填まるごとの汚染は緑色の点のように各国に出現している」

■赤い点は各国の水俣病発生地点を示す。

 (図=水俣病の確認された地域)

 N「ーだが日本の水俣病の場合は、企業による環境汚染によって人体にまでのぼりつめた典型であった。その後、水俣病は各国に発生した」

 (音楽転調)

20.カナダ水俣病と水俣の患者たち

 (写真スライドと八ミリフィルム)

□北国の風景の中、工場から褐色の廃液が奔流をなしている。

 N「カナダ・オンタリオ州にあるパルプ工場」

□工場につらなる水系と湖、浮島のように存在する陸地と集落(空より)。

 N「ーここからの排水が湖に流れこみ、インディアン居留地をまるごと汚染した」

□(八ミリ)汚染した川魚(うぐいの一種)を見せる居留地の若者。

□日頃のように河のほとりで調理し、料理する彼。

 N「この一帯のインディアンの健康異常を水俣に知らせたのは、水俣を撮りつづけた写真家ユージン・スミスとアイリーン・スミスであった」

□居留地のネコ、まったく水俣のネコと区別できない運動失調を呈している。その歩き。
 N「現地の水俣病のネコ。これがカナダ・インディアンと水俣とを繋いだ」

□カナダ・インディアンの水俣訪問。

■アイリーン・スミスさんの案内と通訳で水俣病施設明水園を訪れる。シンバルをうって唱歌でむかえる胎児性水俣病児に息をのむインディアン。

 N「この人たちはインディアンゆえに差別され、健康の異常をアルコール中毒のせいだといわれてきた」
 
■在宅の女性患者・田中実子さんとその両親に聞きただすリーダー、トム・キージツタ、(アイリーン・スミスを介して)。

 アイリーン「(英語で)彼女は食物に手を出したり握ったり出来ないし、人の語りかけることも理解がむつかしい…」

■トム、性急に質問する。アイリーンが訳す。

アイリーン「魚だけを食べましたか?魚以外にほかのもの食べましたか?」

田中義光「(指折りかぞえて)貝とか、海草、それから貝の種類がいろいろあって、カキ、アサリ……」

■トムの眼は実子さんから離れない。

■百間排水口を見学する一行。

■アイリーンを介して水俣病事件をトムに話す川本さん。

川本「……十二名だけの坐り込みが、東京と水俣と二ヶ所に別れて、十二名の坐り込みが。結局それが小さい種火になって、最後はそれに賛同するいわゆる坐り込み自主交渉派患者のかたまり集まりとなったわけ」

■トム、相づちをうち兄貴のようにしたっているようだ。

21.患者、世界の被害地へゆく

□(写真構成)カナダの居留地での握手、インディアンと浜元二徳。

■日本の患者一行と現地の人びととの記念写真。

■インディアン老婆の手のしびれを診る川本さん。

■貧しい子だくさんの家族の家のただひとつのベッドに視線を落す浜元さん。

 N「患者は『私たちの経験をいち早く伝えてさえいれば、あなた方にこのような不幸を味わわせずに済んだのに…・』と頭を垂れた」

□外国人を前に、英語のゼッケンを胸に車椅子から訴える患者!その決意にみちた表情。
 N「その後、浜元二徳さんのように、公害を訴えるアジア・アフリカへの旅がはじまった」

□ハンドマイクを握る浜元さんの写真に質問。

 ー(土本)あなたを見ているとね、自分がやらなきやというところがあるでしょう?

■答える浜元二徳さん。

 浜元「そうですね。ぼくはこんな身体になったから、なったからですね、宿命というべき身体でしょうね。だから回る、機会ある度に外国に行くという事ですねぇ。それからこういう身体だから行って訴えると。というのはー」

■画面、水俣を訪れたアジア各国の人々の挨拶する笑顔に、ことばつづく。

 浜元「ー健康な人が行って訴えてくれは良いんですけれども、なかなか健康な人が行ってもよく伝わらないと思うんですよ、自分で」

22.アジア民衆環境会議(一九八六年五月三日)

□水俣市公民館ホール。

 N「水俣病三十年の記念行事として、念願のアジア民衆環境会議がはじめて水俣で開かれた」

□車椅子をはなれ、人手に支えられて、一歩一歩壇上の報告者席ににじりよる浜元さん。着席して開口一番、英語でスピーチをする。

 浜元 「グッド モーニング ソウマッチ(いや間違えたと言いなおす)サンキューソウマッチ、フォカミング フロム ソウ ファアウェイ(おはようございます。遠路はるばるのお越しに感謝いたします)」

 ロアジア代表(インドネシア、フィリピン、カナダ、マレーシア、インド)はアイリーン・スミスらの同時通訳で、浜元さんの講演に耳をかたむけている。

 浜元「ー例えば店に買い物にいってもですね、直接お金を受けとらない。あるいはここに置いとってくれといわれる・・・」

 N「冒頭、浜元二徳さんは三十年に及ぶ個人史を語った」

□水俣病発生の頃の社会的差別のくだりを語る浜元さん。

 浜元「とにかくぼくたちがバスに乗るにしてもですね『あの人は伝染病だから』『あの人はそうでないから』とか」
 「まこて、そのときの通勤通学の乗客の満員の人から物珍しそうにですね、父をワァッと(とみまわしながら)こうやって見るわけなんです。その時の辛さ、というか残念さというか(絶句し、こみ上げるものに耐えている)全くもう、涙が出て……出んばかりのですね。もう泣けてなあという風な(面をあげて)情なくてですねえーというような感じでした」

□語をしめくくる彼。釘づけになって聞くアジアの人々。

 浜元「私たちは水俣病のような悲惨事をですね、再びアジアで発生させないためにですね、もう深く、この意見をですね、深く腹割った話をしてですね、この民衆の我々でですね、どれだけどこまで出来るか分らないけれども、これ以上の地球の破壊をやめ…止めんな!というような方向で進んでいって下さいませ」

23.胎動する「水俣に大学を」

□水俣百間排水口に立つ老紳士と記者。TVの取材をうけている。

 N「元環境庁長官・大石武一さんが水俣を訪ねた。かねてから水俣の若い人たちから希望の出ている大学を創ることについての意見を交換するためである。彼はこの運動の代表者をひき受けていた」

□旅館のロビー。浴衣がけの大石さんをかこむ水俣の若い人たち十数人が、この人の水俣大学への想いに耳を傾けている。

 大石「やはりね、なぜ環境関係の大学を水俣に創るかって言えば、やはり水俣というのは公害病の原点ですよ、これは間違いなく。こんなにね計り知れない莫大な犠牲を払って、そのまま何もそれがあとの人類の為に役立たれないでね、それが風化したんでは大変な無駄だと思う。この犠牲になった人のね、犠牲となった意味が無いと思うんですよ。ですからね、これだけの犠牲を払った以上はこれというものを土台として新しい公害のない立派な楽しい社会を作るようなことに、ここを基盤としなければならんと思う」

■話は更に進む。

 大石 「それからもうひとつは、これからますます日本が大部分(を占める)でしょうけど、いろんな国が東南アジアなりその他の地方に今度は開発を進めるようになりますよ。同時にそれは公害を惹き起すことになりますよ、必ずね。それを公害とさせないで、あるいは起るべき公害を出来るだけ最少限度に留めるようにさせなきやならん。これは大事なことですよ。日本と同じことをさせちゃ駄目ですよ。日本の経験を生かして、彼らに公害を出来るだけ起させないように、拡げさせないようにしてやることが大事だ。その二つの理由で私はここに大学を創ることに非常に…まあ努力しようと思っているわけなんよ」
□街頭にでて大学についてのアンケートをとる若い人たち。ここかしこで市民に訊いている。

 N「水俣病三十年は水俣病事件をめぐって市民の心にいくつものひび割れをつくつた。それをつなぐのはわれわれ第二世代なのだ、と若者たちは大石さんに答えた」

■主婦。

 「人口が増えてもらって……。大学も欲しいですね、遠いから。熊本とかなんかまで行かにゃ無いでしょ、こっちは」

■項目別質問を若い女性に聞いている。

 「市民も学べる(大学)ハイ、それから国際性豊かな大学」とキビキビ応答している。
24.苦い患者(胎児性・小児性患者)たち

□校舎風の建物の広場に人びとの渦。相撲をとる少年少女たち、行司役の大人は支援者である(水俣市郊外)。

 N「水俣の支援の運動も十数年をへた。このなかからうまれた生活学校の収穫祭」

□幾重もの人垣のなかに重症の身を車イスにはこんで鬼塚勇治さんがいる。かたわらに幼児や小学生がはしゃいでいる。

 (音楽)

 N「老人、病人の多い水俣のなかでここだけは子供と若者が目立つ」

□手漉きの和紙の出店(浮浪雲工房)を出す娘さんたち。売り子として坂本しのぶさんもいる。そのかたわら、金子雄二さん焼芋を手に、そこに居る。

 N「胎児性とよばれた患者も今は三十歳。水俣病の三十年を生きてきたのだ」

□支援者が鬼塚さんのダゴ汁をたべるのを助けている。汁の熱さにへきえきする彼、さまして口に運ぶ人。

 N「ーそして、彼らはここに和みはじめている」

25.暴力事件の被告として裁かれている人びと

ロ不知火海で太刀うり漁をする若い漁師。たぐる手もとに、太刀魚が銀色の身をねじらせている。

 N「緒方正人さん。彼は水俣病でほぼ一家全滅の網元の家のひとりである。今、刑事被告人として、水俣病事件の中に生きている」

□福岡高等裁判所、判決をうけるべく、会場にむかう被告たち(患者は彼のほか坂本登、支援者・中村雄幸、森山博の四名、一九八六年四月一八日)。

 N「十一年前、一部の県会議員が『今の水俣病患者にはニセ患者がいる』と発言したことに抗議し、もみあいとなって検挙され、起訴された」

□「暴力事犯」として告知板に。水俣病認定申請被告事件、被告人として彼の名が記入されている。

 N「この日、患者・支援者四名は再び有罪とされた」(注‥二審)

□退廷直後の緒方さんに記者の声「ニセ患者発言のことは全く触れていないでしょ?」

 緒方「(遠くをみつめながら)私が有罪とされたことが悲しいんじゃないんですよね。私が悲しいのは、やっぱり…依然として(裁判官との)人間としての距離が遠いという事を味あわされたということ……」

□緒方さんの話、場所をかえて続く(報告集会で他の被告とともに)。

 緒方「ー裁判所が、今日判決のなかで有罪だと言っても、私には自分のあの時の行動を反省しょうという気持は毛頭ありません、その必要はないと思っています」

■共感して聞く被告仲間たち。

 緒方「むしろ私たちが裁判のなかで言ってきた事は、やっぱり裁判所の裁判官にもこの水俣病事件を考えてほしいんだと。そのことが一番言いたくて、いろんな形で訴えをしてきました。それは証拠で出したり文書で出したり映画を見てもらったり本を見てもらったりで、水俣病を考えてほしいと。そのための裁判、そのための長い審理の時間だとすれば、あえて有罪と言われても構わないというふうに思っていました」

□同じ患者被告・坂本登さん。参加者に妻ハツエさんもいる。

 坂本「やっと足掛け十一年目に、忘れかかってきた水俣病の話があっちこっちで持ち上るんじゃないかと思います。持ち上るのはいいんですけど、その度、被告になった自分たちが悪者になり、チッソ、国・県、権力ーこれたちはのうのうとしている。市民の見方はほとんどの人が 『警察官は悪いことをしたから捕えるんだ、悪いことをしたから捕えられたんだ』と。そこで過激(派)とつながらせてしまう……。やはり、こうした集合の場で聞いて下さった皆さん方に、水俣病事件の一連として、周りの人に、実はこうだったということを広めてほしいと思います」

26.チッソの現在を見る(カタログから)

□チッソの製品でつくられたプラスチック、ビニールのけんらんたる商品のディスプレー。テレビ、自動車、情報機器にとりまかれて女性モデルをあしらったカタログ。N「チッソの最新の会社案内、どのページにも(水俣病)の文字はない」

□NASAからの地球写真をあしらった上に国連を冠した文字。

 N「結びのページに、チッソは新たな社のテーマとして、国連の人権宣言を掲げていた」

 (その文章とは)
 『人間環境を保護し、改善させることは、世界中の人々の福祉と経済発展に影響を及ぼす主要な課題である』

27.エピローグ・空から被害着とともに

□ヘリコプターで工場上空にいたる。旧アセトアルデヒド反応塔が記念碑のように一隅につっ立っている。

 N「工場は年一年、ハイテクにむかって変貌している。水銀を扱い水俣病の原因物質を作り出したアセトアルデヒドの塔は七基のうち、残骸を二基残すのみである」

□眼前にアセトアルデヒド反応塔。機上から見る緒方正人さん。

 緒方「空の上から、チッソの工場敷地をはじめて見たですよ」

□ヘリコプターで浄化装置といわれるプール(サーキュレーター)をさがす。(カメラマン「あっ、煙突の下にある!」)
 
 緒方「そう、ああ、あれがサーキユレーターです」

 N「チッソが水俣病対策として宣伝したサーキュレーター」

■その円型のプールは工場の高い塀のかげに秘密の装置のようにある

 ー(土本)「ああ、見えないわけだ」)

 緒方「外から見えないですね」

 N「この廃水浄化装置は有機水銀の除去とは結びついていなかった。水俣病事件三十年史の企業犯罪のシンボルは、今も動いている」

□海を埋め立てた広大な産業廃棄物の捨て場、八幡残渣プール上空にいたる。まっ黄色の流動物、黒く濁った廃液がたまっている。その一角にチッソの子会社、新日本化学が無人工場のようにある。その地表にむけて、

ー(土本)この辺は、あと何かに使えるイメージある?

 緒方「ないですね! もうむしろ私はこのままですね、人間たちみんなに見せつける為に残して置いた方がいいと思うんですよ。もうこれを隠さないで見せつけた方がよかですね。いかに自然を破壊してきたかということが、もうこれだけでも良く解るです!」

□海側から見る水俣、海岸を占める残渣プールのかなたに、水俣の街がある。

 (ラストの音楽)

 N「水俣ーここに起きた事件はいまもなお終ることができないでいる。過去の多くの人びとの経験がくり返してはならない共通の体験となる日まで、水俣は人びとにとって、そしてチッソにとっても、引き受けてゆかなければならない世界であることは、たしかであろう」

□ラスト スタッフ・タイトル

演出 土本典昭

演出助手 樋口司朗 藤本幸久

演出協力 浅田康爾

撮影 清水良雄

撮影助手 北條 豊

録音 岡本光司

録音助手 滝沢 修

解説 伊藤惣一

音楽 高橋鮎生

線画 渕脇国盛(青映社)

ネガ編集 加納宗子

機材協力 青木基子

-多数の水俣シリーズ・スタッフ

製作 高木隆太郎(青林舎)

山上徹二郎(シグロ)

録音所 青葉台スタジオ

現像所 ソニー・PCL

採録責任 藤本幸久 土本典昭