日本アフガニスタン合作記録映画製作についての御協力のお願い 『映画新聞』 4月1日号 映画新聞 <1988年(昭63)>
 日本アフガニスタン合作記録映画製作についての御協力のお願い 「映画新聞」 4月1日号 映画新聞

 製作開始にあたって

 この度、かねてから希望しておりましたアフガニスタンとの合作記録映画について、改めて、かの地の「アフガニスタン日本友好協会」からの積極的賛同を得ました。
 三年前、「アフガニスタンを知る会」(現「日本アフガニスタン友好協会」の前身)の一員として訪問の折から、カメラとマイクで記録してまいりましたが、それは序走にすぎませんでした。
 同年再訪、長期ロケーションの撮影プランを提出し、基本的同意は寄せられたものの、激しい内戦の中では、シルクロードの跡を辿ることも、農村での腰を据えた取材や遊牧民の生活をフォローすることも困難に思われ、私たちの方で、その進行をためらってまいりました。
 今日も実状としては、その困難さに変わりはないでしょう。しかしアフガニスタンの状況は大きく変わりつつあり、アフガニスタンの真実を知らなければ…との思いは前とは比べられないほどになってまいりました。
 今、アフガニスタンからの声に響きがあります。何より強いのは、同胞あい喰む戦い、民族百五十万人に及ぶとも言われる死者たちへの償いとして、もはや残された唯一の道「民族の大和解」にアフガニスタンの未来のすべてを託すとともに、その現実と理念が、世界に理解され、支持されることを熱望している事実でしょう。一九八七年十二月諸民族の最高機関ローヤ・ジルガが「民主共和国」から、いわば、振り出しにもどったともいえる、共和制-「アフガニスタン共和国」に立ち帰る決断をしたことは注目を引きました。そして、これまで敵視してきた「反革命勢力」の表現を、今はともに話し合うべき「政治的反対派」…まさしく和解の相手かたとして呼びかけるとともに、中立・非同盟の国家をめざし、いわゆる「地域粉争国」の”くびき”から死にもの狂いで脱しようとしている現在のアフガニスタンは、私たちに今何をなすべきかを考えさせてやみません。
 もしそれに応える仕事があるとしたら、私たちにとっては記録映画を作り、アフガニスタンの人々の声を東に、西に、そして南北すべての世界に伝えることでしょう。それがこの合作記録映画の企画・製作の動機となりました。そして、すべてです。
 一九七九年末、ソ連軍の駐留以来、日本とアフガニスタンとの国交はほぼ断絶し、この国の人々の実状はさらに伝えられず、人間としての「素顔」の見えないアフガン国民、難民のニュースの背後で、アフガン人十人にひとり(総人口比九%)の命が失われたといわれます。映画はまずその事実からクランクインします。しかし、それをもって、「アフガン問題解説映画」を作るつもりはありません。そこでの人間に出合いたいものです。この映画の登場人物は多彩です。そして、下層から積み上げて描写します。
 その内戦のさ中にあって、その日々を、特有の生活様式、宗教、伝統文化に生きてきた農民、遊牧民から、貧困、文盲、病苦の根源である封建制度と闘っている新しいアフガンの青年婦人たちまで…そして国教・イスラム教の聖職者及び「民族和解」の重責を担う指導的な人々を描き、戦いの後に思いを描く「この世」を訊きたいと思います。パキスタンに拠点を置くいわゆる反政府七同盟のメンバーにも「大和解」以外の道が残されているかどうか…。さらにソ連兵士にも彼等の流した血によって体得したにちがいない、あるべき「アフガニスタンの未来像」を語ってほしいと思います。
 最後になりましたが、シルクロードの終着点の国・日本の私たちとして、変わることのないアフガニスタン五千年の歴史的遺産の輝きへの憧れは存分に満たしたく、戦火の中、その遺跡と文物の行方を尋ね、描くつもりです。

 アフガニスタンに「闇の後」の夜明けが描ければ、それは米・ソ首脳会談の求める平和への意思を支える、地底からの人間の真の意思を改めて思い知らせるものになることでしょう。
 このささやかな映画の仕事に大きな思いをこめたいと思います。どうぞ、皆様各位、できますかたちで御支援いただきますようスタッフ一同こころからお願い申し上げます。
(一九八八年二月二三日)

●日本アフガニスタン合作記録映画『遺産と和解』(仮題)

(副題)シルクロード・交差路 アフガニスタンは、いま

(長編16ミリ・カラー)

企画 日本アフガニスタン友好協会 アフガニスタン日本友好協会

製作 日本アフガニスタン合作記録映画を実現させる会

スタッフ
プロデューサー/庄幸司郎、山上徹二郎 原案/土本典昭、高岩仁、野口寿一 演出/土本典昭 撮影/高岩仁、一之瀬正史 アートディレクター…粟津潔 音楽/林光(交渉中)