異才面談「アフガン難民の中へ」〈インタビュー〉 インタビュー 「朝日新聞」 4月28日付 朝日新聞社
内戦から和解へと進みつつあるアフガニスタン。その姿をドキュメンタリー映画として記録するため、今月末、日本をたつ。
「タイミングとしては今が最高」と思っている。ジュネーブで和平協定が調印され、五月十五日からアフガン駐留のソ連軍の撤退が始まる。パキスタンなどに逃げ出した約五百万人の難民も、すこしずつ故郷に戻ってくる。
全世界から報道陣が押し掛けることだろう。ベトナムから米国が撤退するときのような取材合戦。その渦のなかに飛び込み、メガホンをもつ。「ニュース」としてアフガンを追い掛ける人々の群れからは少し距離を置き、アングルを変えながら。
「できれば農村に腰を落ち着け、そこにしばらく住み付きたい。そして、パキスタンなどから戻ってくる難民を、ムラの人たちがどううけとめるかを撮りたい。つまり、民衆レベルでの『和解』を撮りたいんです」
「水俣」を追い続ける硬派のドキュメンタリー映像作家として知られている。昭和三十九年の「水俣の子は生きている」以来、英語版もふくめて水俣関係の作品が十五本。四十六年の「水俣-患者さんとその世界」は第一回世界環境映画祭でグランプリを受賞した。
アフガンに関心を持ったのは実に十五年前、クーデターで王制が廃止され、共和国制になったときに逆上る。「水俣以外のこともやりたい、という思いもあって」。新聞記事のスクラップブックはすでに十冊。
「国民十人に一人が内戦で死んだ、といわれています。大変な数ですよ…」
「ソ連の側からアフガンを撮ったフィルムも、アメリカの側からゲリラを撮ったものも見ました。でも、どちらも本当の国民の姿を伝えきれていないんですね」
下調べを兼ねて三年前、すでに「アフガニスタンを知る会」の一員として現地に入っている。
そのときの教訓として、イスラム社会で女性を撮るのは男性に難しい、ということが分かったので、今回のスタッフ八人のなかには女性が二人入っている。
撮影は二期に分け、第一期が五月いっぱい、第二期が八月ごろから三カ月を予定している。完成は来春だが、すでにあちこちの国から「上映したい」との申し込みが来ている。
アフガンでは何人ものジャーナリストが命を落としている。反政府ゲリラはなお抗戦の構えを崩しておらず、撮影の安全は保障されていない。
「私も年末には六十歳になります。こんな危険を伴う仕事は、こんどが最後でしょうねえ」