アフガンの記録映画を撮ってきた土本監督と熊谷さんに聞く インタビュー 『朝日新聞』 1月14日付 朝日新聞社 <1989年(平1)>
アフガンの記録映画を撮ってきた土本監督と熊谷さんに聞く インタビュー 「朝日新聞」 1月14日付 朝日新聞社

ありのままの今迫った 延べ4カ月、ソ連軍撤退に遭遇

ー昨年五月の第一次取材時は、ソ連の撤退と重なりましたね。

土本 いい時期に撮ることができました。四年前に我々が動き始めたときは、「何てばかなことをやろうとしてるんだ」といわれましたが、そのあと、どんどん状況が我々を追いかけてきた。昨年の一年間はアフガンが最も激動した時期で、その意味ではタイミングがよかった。

ー第二次取材は九月から十二月。帰国しての感想を。

熊谷 もしかしたら大変なところに行っていたのかもしれないと……。向こうにいたときは、戦争が日常的でしたから慣れちゃってたんですけど。

ーやっぱり危険でしたか。

熊谷 すぐ近くにロケット弾が落ちたりしますから。

ー近く、というと。

熊谷 ほんの三メートルぐらいのところです。突然ドンという音がして、砂煙が上がって、周りにいた人が血だらけになる。ああ、当たったんだ、と。

ータマが近づいてくる時は、その前にキーンという音がするのでは。

熊谷 いきなりです。ドンという音がして、あっ、と思う。

ーちょっと想像できない光景ですね。

熊谷 要するに、日本の戦国時代のようなものです。NHKの大河ドラマが目の前で縁り広げられている。

土本 内戦というのは、同胞同士の戦いですから、ゲリラも自衛組織も同じスタイルをしている。見分けがつかない。ボディーチェックの連続でした。

熊谷 しかも双方がメチャメチャに疲れ果てている。だれに聞いても、もうやめたいというのにやめられない。米ソの大国がからんでいるから自力でやめられないんです。悲劇だなあ、と感じましたね。

ーそれを日本人が撮る意味は。

熊谷 日本人にしか撮れない、というべきでしょう。戦っている双方と直接の利害関係がないですから。

土本 日本がアジアの一員だという点に意味がある。アフガンの人たちが、すごい親近感を持って接してくれた。

熊谷 日本人としての風ぼうに助けられました。アフガンには数多くの人種が住んでいるのですが、私たちにそっくりの蒙古系の人も意外に多い。ヨソの国に来たという感じがしませんでした。

ー中立的とはいえ、今回はアフガン・フィルムとの合作。どうしてもソ連寄りの作品と見られてしまうのでは。

土本 そういう批判があることは知っているが、私は戦時中に「戦ふ兵隊」という反戦映画を撮った亀井文夫さんと同じだと思っている。亀井さんに学んだ方法で撮ったつもりです。

熊谷 アブガン・フィルムの人たちというのは、あの国の中では最も自由な人たちです。彼ら自身に、プロパガンダ映画をつくろうという気がない。ありのままのいまを撮ろう、ということです。ゲリラ側の取材もやれましたし。

ーお二人の役割分担は。

土本 私は「反ソ的言辞を吐く親ロシア人」。彼女はアメリカ通です。バランスがとれた絶妙のコンビでした。

熊谷 インタビューなどの突っ込みは主に私がやって、土本さんにはどっしり構えてもらいました。

ー完成はいつごろに。

土本 とにかく、ことばが大切ですから。事実関係で間違いのない字幕をつくりたい。一カ所ぐらいならゴメンナサイ、で済みますが、四、五カ所となると、映画の内容まで疑われる。海外にも出すつもりだから、それでは困る。専門家をまじえての翻訳作業にかなりかかるし、三十時間のフィルムを二時間ぐらいに編集し直さなきゃいけないので、五月ごろを目標にしています。